著者 倉持 俊一
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 36
ページ 97‑103
発行年 1984‑03‑24
URL http://hdl.handle.net/10114/10284
一開会まで
一九八三年一一月一七日(木)から一九日(士)までの一一一日間、レニングラードで、第六Ⅲ日ソ歴史学シンポジウムがⅢ催され、今回も組織委員会(委員長江口朴郎氏)の事務局長として、こ(1)れに参加した。前々回にひきつづき、機会を与贈えられて、このシンポジウムについて報告することになった。日ソ歴史学シンポジウムの成り立ち等については、註(1)の文にも書いたし、一九八一年一二月五日・六日の両日、法政大学で開催された第五何のシンポジウムについても、別の機会に書い(2)たので、ここではふれないことにする。第六回のシンポジウムの準備は、一九八二年の四月からはじまり、五月二日の委員会で、日本側として次の四テーマを提案することを決定した。川日本人はロシアをどう見ていたか、ロシア人は日本をどう見ていたか(一八仙紀から現在まで)。
第六回日ソ歴史学シンポジウムに参加して(倉持)
《学界動向》 第六回日ソ歴史学シンポジウムに参加して
②一八六○年代’八○年代における日砺両国の解放運動とその思想。側社会主義とナシⅣナリズム側一九仙紀後半における中東この四テーマが選ばれた理由については割愛するが、これを五月末にソ連側に申し入れたところ、ソ連側(国際歴史学会議ソ連国内委員会)から一○月二二日付で返事がきた。側については「重要かつ興味あるテーマだと思う」、③については「社会主義と氏族解放運動というテーマとして検討したらよいのでは」ということで、側と凶については言及がなく、「ソ連側としては『日本、厨シァおよび東欧における街本主義の発生l比較史的分析』というテーマを提案する」と連絡してきたのである。われわれは二月二五日に委員会を開き、テーマの選定は開催国が行なうという従来の慣行に従い、今回はソ連側の意向を騨敢して「一八世紀から現代までの日本人のロシア観、ロシア人の日本鶴」、「日本・ロシアおよび東欧における資本主義の発生」の二
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テーマで実施するよう再提案し、結局これに決まったのである。またソ連側(ソ連科学アカデミー)の招待五人という枠のなかで、報告者として第一テーマに外川継男(北海道大学)、中村喜和(一橋大学)、和田春樹(東京大学)、第二テーマに中村政則(一橋大学)、南塚信吾(千葉大学)の五氏を選んで交渉をはじめた。五氏は報告者となることを承諾され、五氏をふくめた一九八三年一一一月一○日の委員会と七月一日の委員会で、報告のタイトルは次のように決まった。外川継男「日本人のロシア槻l内村鑑三の場合」中村喜和「詩人石川啄木のロシア観」和田春樹「日本人のロシァーイ↑ジー圭敵、ともに苦しむもの」中村政則「開港と日本資本主義の形成」南塚信吾「一八四八年以前のハンガリーにおける産業資本主義発生の特質」「招待」といっても、ソ連側から提供されるのは八日間の滞在識だけで、最大の負担となるモスクワまでの往復の旅費は自己負担であり、委員会としては心苦しい依頼であったのだが、五氏ともに快諾され、最適の報告者がえられたのであった。そして報告者以外の参加(全費用自己負担)については、江口委員長が健康上の理由で不参加を表明され、他の何人かの方含も都合がわるく、藤原彰氏(一橋大学・代表団団長)と私だけが参加することになった。報告者は、英文で報告論文を八月末までに提出することになっ 法政史学第三十六号
ていたが、九月一○日までに四論文が到着していた。ソ連側からも一○月三日までに、私の手もとに全報告論文八本が次々に到着していた。この日ソ両国の論文の仕上りの早さは、いままでにふられぬことであった。前回までは、きめられた期日に間にあわないどころか、いくつかの論文は、相手国に着いてから交換するということが多かったのである。ソ連側の報告者(・印は女性)と論文のタイトルは次のとおりである。ァ1・アー・トルストグーゾフ(東洋学研究所)「日本封建制の時代区分に関するソ連の研究」アー・ァ1.プレオブラジェーンスキイ(ソ連史研究所)「最初のロシア使節の糸た日本人」ア1.イェー・ジューコフ(東洋学研究所)「ソ連研究者の著作における第二次大戦期(一九三七’四五年)の日本史」イー・アー・ラトゥイシェフ(東洋学研究所日本部長)「ソ連研究者の著作における日本戦後史の争点」・イー・アー・ヤコパシヴィーリ(東洋学研究所)「ソ連史家の著作における日ソ関係史の諸問題」(以上第一テーごヴェー・ヤー・ラヴエルィチェフ(ソ連史研究所)「農奴解放後の専制と経済生活」・エヌ・エフ・レシチェンコ(東洋学研究所)「明治維新と日本における資本主義の発生に関するソ連の研究」 九八
ここで今回のテーマについて簡単にふれておきたい。まず「資本主義の発生」というテーマは、第五回のテーマ「ヨーロッ。〈の絶対主義」に関する、ソ連史学界の主流派的見解の立場から、「ヨーロッ。(の絶対主義」をひきつづいて更に論じていこうという姿勢のあらわれとも考えられた。即ち註(2)の拙稿でも指摘したように、前回のソ連側報告者の一人、アー・・ヘー・ノヴォセーリシェフは、その論文の末尾で「ロシアの絶対主義という複雑な問題は、以下の諸条件がととのったときに、はじめて解決されるであろう」として、四つの条件のなかの第一条件に「ロシアにおける資本主義的構成体の発生という問題が最終的に明確に解決されること」をあげているのである。つまり、各国の絶対主義を、近代世界「システム」との関係、世界史的関連において把握すべきであるというlソ連にもみられるl新しい傾向に対して、「古典的」な、|国内の地主とブルジョワジーの階級的「均衡」論から究明していこうとする立場
、、につながっているのが、今回の「資本主義の発生」というテーマではないかと考えられたのである。ところで、今回の二つのテーマのうち、ソ連が重視していたのは、第一テーマであったように思われる。当然のことながら、このシンポジウムでは、前回までも両国の関係を扱ったテーマが比 アー・ニス・チストズヴォ1ノブ(世界史研究所)「オランダにおける笹本主義発生の特質」
第六回Ⅱソ歴史学シンポジウムに参加して(倉持) ニテーマと報告について 較的多かった。第一回の三テーマを別にして、あとの四回は一一つのテーマで実施してきたので、いままでに取り上げたテーマは全部で二であるが、そのうち直接両国の関係を扱ったものだけでも三つある。第一回(一九七一一一年)の「ロシア十月革命と日本の社会運動」、第三回(一九七七年)の「極東シベリアにおける内戦と干渉戦(一九一八’二五年)」、第四回(一九七九年)の「世界史のなかの日露戦争」である。つまり今回のテーマは、日露戦争、ロシア革命、「シベリア出兵」という、二○肚紀の両国関係史のなかの一一一大事件が、両国民の相互認識にとって如何なる意味をもったかということにもなり、前回までの総括という側面があったといえよう。事実、「一八世紀から現代まで」ということであったにもかかわらず、一八世紀までさかのぼるものはプレオブラジェーンスキイ氏の報告だけで、三大事件、とくに日露戦争が両国の相互認識にとって、如何に大きな意味をもっていたかということが、各報告(とくに日本側の一一一報告)によって痛感させられたのである。第一テーマについて次に気がつくことは、ソ連側と日本側でこのテーマの理解の仕力が対照的だったことである。日本側の外川、中村両氏の論文はもちろん、和田氏の論文も、文字どおり日本人のロシア観、つまり個人もしくは複数の日本人がロシアについてどのようなイメージをもち、それがどう変ったかを取り上げていたのに対して、ソ連側の論文は、プレオブラジェーンスキイ氏を例外として、すべて、いわば研究史の紹介、分析である。たしかに、それはソ連の歴史家が日本をどう見てきたかということ
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今回のシンポジウムで、印象にのこったことは、まず第一に、ソ連側がシンポジウムの組織、運営について、非常に熱心であったことである。まず指摘できるのは、今川の会議に、東洋学研究所を中心にして、世界史研究所・ソ述史研究所・極東研究所など多くの研究機関からの参加者があり、モスクワ・レニングラードの研究者が集まったことである。当然のことと考えられるかもしれないが、ソ連の学界事情からすると、これはなかなか難しいことである。たとえば前々回(一九七九年)には、シンポジウムの終った翌日われわれ代表団が訪れた極東研究所でも、数日後に訪れたソ連史研究所レニングラード支部でも、シンポジウムの開催を知らず、そのような会議があって日本から研究者が来ているのなら是非出席したかった、という趣胃の発言が聞かれたのである。今回はモス にもなるわけで、その意味でソ連人の日本観といえるかもしれないが、日本側の理解とは著しく異なったものであった。この違いは、研究打ち合せ会の席上で、中村喜和氏も指摘されたように、国際会議といった公的な場における日ソ両国の歴史家の姿勢の違いを反映しているといえるであろう。つまり日本の歴史家は、たとえ国際会議であっても、あくまでも個人として自分の研究成果を発表しようとするだけであるのに対して、ソ連の歴史家は、ソ連の歴史学界を代表して発表し、学界に対して責任をおうという意識が強いのではないかということである。 法政史学節三十六号 三会議の運営 クワから多数の参加者があり、極東研究所のデー・ヴェー・ペトロフなど、会議で主導的な発言を行なっていた。また会議の進行そのものにも、今までにない工夫がふられた。即ち一一一日間(三日間の会期というのも、従来はほとんど一一日であったので、そのことn体熱意のあらわれといえるのだが)の会の一日Ⅲの午前と一一一日Ⅱの午後を全体会とするほかは、二つのテーマごとの分科会にわけるという方法である。このシンポジウムで分科会制がとられたのは今川が初めてであり、出席者の多いソ連側はともかく、七人しかいない日本側には具合がわるいようにも思われたが、双方あわせて二一一本という報告数を考えれば、この方法がよかったといえよう。一三の報告が行なわれる日時、川番は、モスクワ到着時にわたされたプログラムに明記されていた。しかし会繊がはじまって、全体会で中村政則、ラティシェフ両氏の報告が終ったとき、、ヘトロフ氏が議事進行について発言を求め、原案を修正して分科会をやめ、すべての報告を全体会で行なうようにと提案した(原案は実質的に東洋学研究所の意向によるものと考えられる)。これをめぐって意見の交換があり、結川、分科会は二日目だけで、一日目と三日月はすべて全体会とすることになり、一日目の午後は、すでになされた二報告をめぐる討論にあてられることとなった。さらに三日月の全体会で、どの報告を行なうかについて検討し、比較的広い問題を取り上げているヤコペシヴィーリ・和田両氏の報告が選ばれたのである。二日目の分科会では、私は第一テーマの会の議長をつとめた 一○○
(午前の糸、午後は外川氏)。出席者は、ソ連側が報告者をふくめて十数人、通訳二人、日本側は報告者の外川、中村喜和両氏のほか藤原氏と私であった。小ぢんまりとした雰囲気で、かなり細かい議論が可能であった。報告は外川、ジューコフ(以上午前)、トルストグーゾフ、中村喜和、プレオブラジェーンスキイ(以上午後)の各氏の順で行なわれ、それぞれの報告に続いて討論がなされた。日本側の二人とプレオブラジェーンスキイ氏の報告は、内村鑑三、而川啄木、アダムⅡラックスマンに関する詳細な報告で、報告の内容を深める活発な質疑応答があったが、特に意見が対立することはなかったように思う。ジューコフ氏の報告については、藤原、ラトゥィシェフ両氏が、報告の一部について批判的意見をのべ、とくに日ソ中立条約については日ソ双方で研究を深める必要があることが確認された。またトルストグーゾフの報告については、藤原氏と私が発言したが、ソ連側の出席者をふくめて日本中世史の専川家が不在で、綿密な報告をした同氏には気の毒であった。第二テーマの分科会では、南塚(午前)、中村政則(午後)向氏を議長として(日本側からは、ほかに和田氏が出席)、ラヴェルィチヱズレシチェンコ(以上午前)、南塚、チストズヴォーノフ(以上午後)の各氏の順で報告がなされたが、南塚、チストズヴォーノフ両氏の報告は、トルストグーゾフ氏の場合と同様、他に専門家がいなかったため、討論はもっぱら、中村、レシチェンコ、ラヴエルィチェフ三氏の報告をめぐって行なわれたとのことであった。
第六回Ⅱソ雁史学シンポジウムに参加して(倉持) 以上、シンポジウムの報告、討論の内容について述べぬうちに、いえられた紙幅がつきてしまったが、一三の論文について一つ一つ紹介するのは、私の能力からいって困難でもあるし、長くなりすぎると思われるので、ここでは全体的な印象を記すだけでお許し願いたい。しかしそれについても註(3)の和田氏の文章に、かなり詳しく書かれているので、それと雨複しないように私見を述べてゑたい。まず註(1)の拙文で指摘した「ソヴェト愛国主義」的な傾向が、依然としてソ池の歴史家の主張のなかに強くあらわれていて、反発を感じたことである。ラトゥイシェフ、ヤコパシヴィリ、ジューコフなどの報告には、扱っている内容からいっても、とくにそのことを強く意識させられた。私も懇親会の席などで、くりかえし「ソ連の歴史家が、一九一七年の革命後のソ連政府の外交政雛を弁識し、その正当性を主張することについては、賛成はできないにしても理解はできる。しかし革命前のロシア帝国の外交政籏までをも、つねに平和的、友好的であったと主張するの 三日目は、ラトゥイシェフ、藤原の両氏と私が議長となり、和田、ヤコ.ヘシヴィーリ両氏の報告に続いて活発な討論が行なわれた。とくにヤュハシヴィーリ氏に対する藤原、外川両氏の反論は(3)具体的で厳しかった。さらに二日目の二つの分科会の報告と討論について、それぞれ。ヘトロフ氏と私が報告し、最後に両国を代表して藤原氏とラティシェフ氏の閉会の辞があって散会した。
四二、三の感想
一
○
 ̄
は、理解をこえたことである」といった趣旨を述べたが、納得のいく返事はえられなかった。あるとき、酒の勢いで「ソ連は、いまやアメリカと肩をならべる超大国なのだから、遠い過去の外交上の誤りなど、率直に認めたらよいのに。もっと自信をもちなさいよ」と言ったとき、相手は直接これに答えず、こう言った。「日本だって、いまや一流の経済超大国なのだから、もっと自信をもちなさいよ。なぜ、まるで弱小国のように無抵抗にレーガンの言うなりになっているんですか。」つまり、われわれと個人的に話しているときには、彼らもやはり外交上の誤りを、それとして認識していることを隠そうとはしていないという心証をもったのである。そして「愛国主義」は、もちろんソ連だけに衆られるものではない。われわれをふくめて、すべての「西側」の国家の問題でもある。今回のシンポジウムでも、前回同様、マイナス要因としてのナショナリズムということを痛感させられたのであった。つぎに、やはり是非述べておかななければならないことは、日
、、、本の歴史家がロシアⅡソ連史を研究しているほどには、ソ連の歴
、、史家は日本史を研究していないのではないかということである。たしかに外国人が日本語を習得することは大変困難なことであろうが、日本語文献の消化という点で、ソ連の日本史研究者は、日本人のロシア史研究者のロシア語文献の消化にくらべて、かなり劣っているといえるのではないだろうか。信じ難いことであったが、彼らの間では、日本で最大の発行部数をもつ『歴史学研究』(青木書店)さえ、あまり読まれていないのであった。 法政史学第三十六号
アメリカの日本研究などにくらべて、かなり水準が低いといえるように思われる。しかし歴史以外の分野、たとえば文学の研究では、『平家物語』とか石川啄木の研究で高い水準を示していることを考えると、一概にきめつけるのも誤りであるのかもしれない。
最後に、今回のテーマとも関係することなので、シンポジウムをはなれて、現在のソ連市民の日本観、日本人のソ連観といったことについてふれておきたい。ソ連嫌いが圧倒的に多い日本人にとっては意外なことであろうが、一般のソ連市民は親日的で、日本人に対して非常に友好的である。その第一の理由は、資本主義国にあっては、「政府」と「人》民」は別であるlむしろ敵対関係にあるIという彼らの国家(4)観にあるといしえよう。シンポジウムに集った研究者はもちろん、会議後に旅行したキーエフ、オデッサ、ヤルタなど、どこへ行っても市民は好意的であった。彼らが日本について思いうかべる一一一戸蟻は「高度の工業技術」、「ゆたかな国」、「美しい国士」、そして「ヒロシごであった。
、、、ま陰えに、日本の歴史家がロシアⅡソ連史を……と書いたが、|
、、、、、、、、、、、般の市民が現在の相手国をということになれば、結論は逆になるだろう。私は昨年「日本人は、政治・軍事面以外のソ連を余りに(5)屯知らなすぎる」ことを指摘し、近年とくに高まったソ連に対す.る嫌悪感が、必ずしもすべて正確な知識や妥当な判断にもとづくものでなく、ムード的なものであること、そして平均的日本人の外国認識の砿要な源泉と考えられる高校の世界史の教科書の記述
○
、、が、西ヨーロッ・〈中心主義に傾いており、いかにソ連にとって歪(Au)められた土)のであるかということについて書いた。我田引水になるが、私の考えは、外川氏が今回のシンポジウムでのべた次の点と重なりあうように思われる。外川氏の主張は次のようなことであった。日本人のロシアⅡソ連観は、ロシアⅡソ連と敵対関係にあり、日露両国の接近を胡またい第三国のロシアⅡソ連観によって、つねに強い影響をうけてきた(一八世紀から一九世紀半ばまでのオランダ、一九世紀半ばから二○世紀初頭のイギリス、第二次世界大戦末期以後のアメリカ)。内村鑑三のロシア観Jも、はじめ、彼の読破したイギリス人の書いた書物の影響をうけており、のちに彼Jもそのことを自覚するようになる。即ち、日露戦争後、内村は自分のロシア認識が誤っていたこと知り、その原因が「露国年来の敵」であるイギリスの「偏見曲想を接取した」ことにあると考え、直接ロシアを知らねばならぬと主張するに至ったというのである。この外川氏の指摘は、日本人のソ連観という今日的な問題について、きわめて示唆にとむJものというべきであろう。
註(1)一九七九年の第四回日ソ歴史学シンポジウムについて、『法政史学』第三二号(一九八○年四月)に、拙稿「ソ「連史学界における日露戦争---第四回日ソ歴史学シンポジウムに出席して--1」が掲載されている。(2)ヨョーロッ・〈の絶対主義』特集にあたって」、『史潮』新一三号(一九八一一一年一○月、弘文堂)。なお第五回のシンポジウムについては、高田和夫「第五回日ソ歴史学シ
第六回日ソ歴史学シンポジウムに参加して(倉持) 付記近く、中村政則氏と分担執筆で、このシンポジウムの報告と討齊論の要旨を、『歴史学研究』に掲載することになった。また報告の全文と討論の要旨は、彩流社から単行本として刊行される予定である。なお、シンポジウム参加のために、旅費の一部を支給してくれた法政大学に感謝する。 ソポジウムに参加して」、『歴史学研究』第五○四号二九八二年五月号)を参照されたい。(3)和田春樹「日本人のロシア観、ロシア人の日本観」、『朝日新聞(夕刊)』一九八一一一年一二月一四日を参照されたい。(4)この問題については、宇多文雄「ソ連人の日本イメージはなぜ悪くないか」、『中央公論』一九八三年四月号が示唆的である。(5)「ソ連社会をどう見るか」、『歴史地理教育』第三五五号(一九八三年八月号)(6)「口本人のロシア・ソ連認識I世界史教科書のなかの鰍シァ革命l」・倉持編『等身大のソ連』(一九八三年、有斐閣選書)
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