イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 : その 制作期間と起源について
著者 越前 俊也
雑誌名 文化學年報
号 62
ページ 296‑319
発行年 2013‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027742
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 : その 制作期間と起源について
著者 越前,俊也
雑誌名 文化學年報
号 62
ページ 296‑319
発行年 2013‑03‑15
権利 同志社大学文化学会
URL http://doi.org/10.14988/00027742
イ サ ム ・ ノ グ チ の
︽ 広 島 死 歿 者 記 念 碑 ︾ 案
│
│ そ の制 作 期 間と 起 源 につ い て
││
越 前 俊 也
は じ め に 生前
﹁大 地の 彫刻 家﹂ との 異名 をも った イサ ム・ ノグ チ︵ 一九
〇四
│一 九八 八︶ は︑ 庭園 やラ ンド スケ ープ
・デ ザイ ン など
︑空 間そ のも のを 演出 する 作品 を世 界各 地で 造形 した アー ティ ス ト であ っ た!
︒ そ の彼 が
︑自 ら の代 表 作 と して 執 着し 続 け たに も 関 わら ず
︑計 画 の実 施 に こ ぎつ け る こと が で きな か っ た 作品 が あ る"
︒﹁ 広 島 原 爆慰 霊 碑 案﹂ と いう 呼 称が 一般 的か もし れな いが
︑彼 はそ れを
Hiroshima M emorial to the Dead
︵本 稿で は以 下︑
︽広 島死 歿者 記念 碑︾ もし く は︽ 記念 碑︾ とす る︶# と 名付 けて い た︒ つ まり 本 作 の原 題 に 彼は
﹁原 爆
︵
Atomic bomb
︶﹂ と い う文 字 も︑ 死 者 を戦 歿 者に 特定 す る 意味 合 い が濃 い
﹁
Cenotaph
︵慰 霊 碑︶
﹂ とい う こ とば も 使 っ てい な か った
︒計 画 の 依頼 主 は︑ 広 島 平和 記 念公 園の 設計 競技 を勝 ち抜 いた 丹下 健三 と当 時の 広島 市長
・浜 井信 三で ある
︒模 型完 成時 に作 家本 人が 撮影 した 写真 は
︑現 在ニ ュー ヨー クの イサ ム・ ノグ チ美 術館 に数 十枚 保管 され てい る が$
︑ そ の内 容 は︑ 一 九六 八 年 に出 版 さ れ た自 伝 に掲 載さ れた 写真
︵図 1︑ 図2
︶と 作家 自身 のこ とば によ り広 く知 られ ると ころ とな って いる
︒要 する に﹁ 埴輪 の屋 根 に由 来す る﹂ 形状 をも つ一 九五 二年 の作 とさ れて きた
%
︒し かし
︑ノ グ チ が﹁ 埴輪 の 屋 根﹂ とい う こ とば で 意 図 した
― 296 ―
﹁家 型 埴輪 の 屋 根﹂ の形 状 と︽ 記 念 碑︾ 模型 の そ れと の あ い だ に は 少な から ぬ隔 たり があ る︒ また
︑こ の時 期の 出来 事を 記し たノ グ チ の 記述 に は 混乱 が み ら れ︑
︽記 念 碑︾ 模 型の 制 作 年に つ い て も 検討 の余 地が ある
︒つ まり 作家 自身 のこ とば が︑ この 作品 理解 の
﹁躓 きの 石﹂ とな って いる ので はな いか とい う疑 問が
︑本 稿の 出 発点 とな って いる
︒こ の﹁ 躓き の石
﹂に より
︑こ の時 期の ノグ チ の 動 向や 作 品 制 作 の 順 序 に 関 す る 記 述 が 研 究 者 間 で 曖 昧 に な り
︑混 乱を 来し て い る!
︒ こう し た 状況 を 確 認し
︑そ れ を 糾 すこ と から 筆を 起こ して ゆく
︒ 第一 章で は︑ 公に され てい る﹁ 作家 のこ とば
﹂以 外の 資料 によ り
︑︽ 記 念 碑︾ 模型 の 制 作期 を 一 九 五一 年 春 から 同 年 一二 月 ま で と 推定 する
︒そ れに よっ て本 作の 制作 前後 に作 家が 他に どの よう な 作品 に関 わっ てい たか を明 確に する
︒第 二章 では
︑こ うし た作 品 と 本 作と の 造 形的
︑精 神 的 繋 がり を 鮮 明に す る こと を 試 み る︒ ノ グ チ の﹁ 広 島 の 死 歿 者﹂ に 対 す る
﹁記 念﹂ の 表 し 方 は︑ 当 初
︽鐘 楼︾ の かた ち を とっ て い た
︒し か し
︑慶 應 の
︽萬 來 舎
︾の 仕 事 を経 るこ とに よっ て︑ それ は︽ 記念 碑︾ 模型 に見 られ る地 上部 分
︵図 1︶ と︑ 地下 の慰 霊堂 部分 を合 成し た構 成写 真に よる 作品
︵図 2︶ へと 様 変 わ り す る
︒こ の
︽萬 來 舎
︾と
︽記 念 碑
︾に 共 通
図2 Memorial to the Dead, Hiro- shima, Isamu Noguchi, A Sculp- tor’s World, New York and Lon- don, 1968, no.212
図1 Memorial to the Dead, Hiroshima, Isamu Noguchi,A Sculptor’s World, New York and London, 1968, no.211
― 297 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
す る起 源を 探る こと によ って
︑後 者で ノグ チが 意図 した こと を解 き明 かす
︒そ れが 本稿 の目 指す とす ると ころ であ る︒ 第一 章 制作 時 期 につ い て 第
一節
イ サム
・ノ グチ 自身 によ る記 述の 問題 点︵ 誤記 と未 刊の こと ば︶ 先述 のイ サム
・ノ グチ の自 伝
﹃イ サ ム・ ノグ チ あ る 彫刻 家 の 世 界﹄ にお い て︑
︽ 広島 死 没 者記 念 碑︾ に は︑ 邦 訳で は
︽原 爆慰 霊碑 の試 案︑ 広島
︾︑ 英 文表 記と して は
Memorial to the D ead, Hiroshima
とい うタ イト ルが つけ られ てい る︒ そ して 本作 に関 わる 回想 とし て︑ 次の よう な記 載が なさ れて いる
︒ 私は
一九 五二 年の 早春
︑慶 応の 記念 彫刻 と広 島の 橋の 仕事 を続 ける ため に︑ 日本 へ帰 った
︒そ の結 果と して
︑私 は 広島 のた めに
︽原 爆慰 霊碑
︾の デザ イン を委 嘱さ れた
︒ち ょう ど同 じ頃 私は 結婚 した
︒そ れは 五月 だっ たが
︑美 し い日 本料 亭般 若苑 の庭 で盛 大な 披露 宴を 開い た︒! おそ
らく は︑ この 記述 が引 き金 とな り︑ ノグ チの
︽広 島死 歿者 記念 碑︾ 模型 の制 作年 は︑ 一九 五二 年と され るこ とが 慣 例と なっ てい る"
︒ しか しな がら
︑こ の記 述内 容に は複 数の 誤 り が ある
︒ま ず
︑ノ グ チが
﹁一 九 五 二年 の 早 春⁝
⁝日 本 へ帰 った
﹂と いう 事実 はな い︒ 当時 の文 献や 書簡 を詳 細に 分析 した ドゥ ス昌 代に よれ ば︑ ノグ チは 一九 五一 年一 一月 一 六日 から 一九 五三 年一 月一 八日 まで 日本 に滞 在し 続け た#
︒ノ グ チ が﹁ 早春
⁝⁝ 日 本へ 帰 っ た﹂ のは
︑一 九 五 一 年三 月 二八 日の こと であ り︑ 同年 八月 に竣 工す るこ とに なる
︽萬 來舎
︾の ため に︑ この 年の 早春 は﹁ 慶応 の記 念彫 刻﹂ の仕 事 は 継 続中 で あ った
︒$
﹁広 島 の 橋の 仕 事﹂ に して も
︑一 九 五〇 年 八 月 に依 頼 を 受け
︑一 年 後 の五 一 年 八 月に は
︑そ の
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 298 ―
デ ザイ ン画 を描 き終 えて いる
!
︒す なわ ち﹃ ある 彫刻 家の 世界
﹄の ノグ チは
︑一 九 五 一年 に 起 きた こ と を翌 五 二 年 に起 き たと 記憶 違い をし てい る︒ 要す るに
﹁慶 応の 記念 彫刻
﹂と
﹁広 島の 橋の 仕事
﹂が 継続 中で
﹁日 本へ 帰っ た﹂ とい う事 実 に即 する
﹁一 九五 一年 の早 春﹂ に﹁
︽ 原爆 慰霊 碑︾ の デザ イ ン を委 嘱 さ れ た﹂ と受 け と めれ ば
︑次 節 で触 れ る よ うに
︽記 念碑
︾模 型制 作に 関す るそ の後 の辻 褄が 合っ てゆ く"
︒ 上 記の 記 事 の執 筆 時 が︑ 事の 起 こ り より 一 七 年ほ ど 経 過 して い る とは い え︑
︽ 記念 碑
︾の デ ザイ ン 委 嘱 や 結 婚 な ど︑ ノ グチ にと って 重大 な関 心事 であ るは ずの 事柄 に関 して
︑で はな ぜ︑ これ ほど まで に多 くの 記載
・記 憶違 いを して いる の か︒ その 淵源 とし て想 定で きる のが
︑ボ ーリ ンゲ ン財 団に ノグ チが 提出 し た 調査 旅 行 報告 書 で ある
︒#
ボ ー リ ン ゲン 財 団と は︑ 精神 分析 学者 のカ ール
・グ スタ フ・ ユン グの 著作 物を 英語 圏の 読者 に広 める ため
︑一 九四 三年 にポ ール
&メ ア リー
・コ ノバ ー・ メロ ンに よっ て設 立さ れた 財団 であ る
︒設 立 から 人 文 科学 と 社 会 科学 の 学 術援 助 を 行っ て い た が︑ ノ グチ は当 財団 に﹁ レジ ャー 研究
﹂の 助成 申請 を行 い︑ 一九 四九 年七 月か ら一 九五 一年 六月 まで は︑ その 第一 次旅 行の 調 査期 間に 相当 した
$
︒そ の報 告書 の︽ 記念 碑︾ に関 わる とこ ろで は︑ 次の よう に記 され てい る︒
﹁平 和公 園﹂ の委 嘱を 受け てい た丹 下健 三が
︑市 長と と もに 私 を 広島 に 招 待 して く れ た︒ 私が そ こ で何 を す べ きか 見 極め させ るた めで あっ た︒
︵ 中略
︶私 が到 着し た 朝︑ 丹下 健 三 は迎 え に き て私 に 広 島の 街 を 案内 し た︒ そ こ はま だ 廃墟 以外 は何 もな く︑ 片付 けら れた 道路 がそ のこ とを いっ そう 際立 たせ てい た︒ 廃墟 を放 置し たま ま実 行に 移さ れ た秩 序は
︑未 来を 待ち わび るカ タロ グの よう だっ た︒ ある 場所 では 墓が 地面 から めく り上 がっ てい た︒ 大理 石の 壁 には 犠牲 者の 影が 焼き 付い てい る︒ 爆心 地の ビル は骨 組み だけ とな って いた が︑ 多く の川 が流 れ︑ 橋が 架か る町 の 今な お中 心に ある
︒橋 のう ちの いく つか は通 行可 能と なっ てい た︒ 丹下 が手 がけ てい る平 和公 園に は二 本の 橋が 架 かっ てい たが
︑未 だ構 造体 のみ で︑ その 上に は何 もな く︑ 手摺 もつ けら れて いな かっ た︒ それ をつ くっ ては どう
― 299 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
か と提 案さ れた
︒ 冬が 迫っ てい た︒ 私は ハリ ウッ ドに いて
︑化 粧台 の上 で橋 の仕 事を した
︒︵ 中 略︶
︵引 用者 註
:
イー スト リヴ ァー 沿い のプ レイ グラ ウン ド計 画が ロバ ート・モ ーゼ スの 横槍 で中 止の 憂き 目に 遭う
︶ 非常 に不 吉な 始ま りを 見せ た一 九五 二年 は︑ 日本 にお ける 最も 忘れ がた い年 とな った
︒こ の年 の春
︑丹 下健 三に 広 島の 死者 のた めの 記念 碑︵
Memorial to the D ead of H iroshima
︶ をデ ザイ ンす るよ う頼 まれ た︒ 私は 彼の 研究 室で そ の模 型を つく った
︒そ の折 そこ で︑ 最終 的に は
︑わ れ われ 全 て が大 地 へ と 帰る た め の記 念 碑 とし て
︑す な わ ち︑ わ れ わ れの 祖 先 の家
︵ふ る さ と︶ と して
︑そ れ を 作る こ と を思 い 立 っ た︒ 埴輪 の 放 物線 状 の 形 に 基 礎 を お き な が ら
︑私 はそ れを われ われ にす べて を思 い起 こさ せる 爆発 のキ ノコ 雲に 漠然 と似 せる よう にも つく った
︒私 が広 島に 足 を運 んだ のは
︑そ のた めで ある
︒広 島滞 在中
︑私 は︵ 引用 者註
:
山 口︶ 淑子 と早 急に 結婚 式を 上げ るよ う連 絡さ れ た︒ 驚き はし たが
︑嘆 かわ しい こと では なか った
︒私 は祝 意を 受け るた め︑ そし て私 には まっ たく 似つ かわ しく な いイ ベン トの 準備 をす るた めに 東京 へ舞 い戻 った
︒! ここ
には
︑︽ 記 念碑
︾案 制作 に関 する 記憶 の誤 りが すで に 記さ れ て いる と 同 時 に貴 重 な 証言 も 記 され て い る︒ 誤 りの 第 一は
︑右 にも 述べ
︑次 節で も改 めて 触れ るが
︑︽ 記 念碑
︾の 制作 依頼 を一 九五 二年 の春 に受 けた とし てい る点 であ る︒ 第 二は
︑あ たか も最 初の 広島 訪問
︵一 九五 一年 六月 一一 日│ 一三 日︶ に際 して
︑橋 の欄 干デ ザイ ンの 制作 依頼 を受 けた か のよ うに 書い てい る点 であ る︒ 後述 する よう にこ れも 事実 には そぐ わな い︒ 第三 にし て重 要な のは
︑一 九五 一年 一一 月 にノ グチ は二 回目 の広 島訪 問を 果た して いる が︑ それ を混 同し てあ たか も一 つの 訪問 であ った かの よう に記 して いる 点 であ る︒ 二回 目の 訪問 に際 して は丹 下が 同道 して 朝︑ 広島 駅に 到着 した が︑ 第一 回目 の訪 問で は︑ 午後 四時 一三 分に 広 島駅 に到 着︒ 丹下 はそ れを 迎え に出 てい る"
︒ さら にこ の広 島訪 問の 記 述 の直 後 に﹁ 冬 が迫 っ て いた
﹂と い う 一 節が
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 300 ―
あ るこ とも
︑六 月の 第一 回訪 問と 一一 月の 第二 回訪 問を
︑こ の時 点で 混同 して いた 証左 とな って いる
︒ 貴 重な 証 言 とし て は︑ ま ず︑ 地下 の 慰 霊 堂に 関 し て﹁ われ わ れ 全 てが 大 地 へと 帰 る ため の 記 念 碑 と し て
﹂あ る い は
﹁わ れわ れの 祖先 の家
︵ふ るさ と︶ とし て﹂ 丹下 研究 室で 模型 制 作中 に そ のア イ デ ィ アが 生 ま れた と 語 って い る 点 であ る
︒後 述す るよ うに
︑重 要な のは それ が慶 應の
︽萬 來舎
︾の 建設 時期 と重 なる 点で ある
︒そ して 何よ りも
︽記 念碑
︾模 型 の形 状を
﹁埴 輪の 放物 線状 の形 に基 礎を おき な が ら﹂ とし な が ら︑
﹁キ ノ コ 雲 に漠 然 と 似せ る
﹂こ と を想 定 し て いた 点 であ る︒ とり わけ 後者 の﹁ キノ コ雲 に⁝ 似せ る﹂ ため に︑ 広島 に足 を運 んだ
︑と いう 件は 看過 でき ない
︒本 作が 最終 的 に黒 い御 影石 でつ くら れる こと を想 定し た理 由の 一端 がこ こに 見出 され るか らで ある
︒ま たそ れは
︑こ の時 点で ノグ チ が︽ 記念 碑︾ に﹁ 負の イメ ージ
﹂も しく は﹁ 警告 的意 味 合 い﹂ を重 ね よ うと し て い たこ と も 示し て い るか ら で あ る︒ い ずれ にせ よ︑ この 時期
︑ノ グチ の時 間に 関す る記 述は
︑誤 りが 多く 頼り にな らな い︒ 客観 的な 資料 と照 らし 合わ せる こ とに よっ て︑ はじ めて 事実 関係 が明 らか にな って くる
︒ 第
二節
︽広 島死 歿者 記念 碑︾ 案制 作期 のノ グチ の動 向 一九 五〇 年五 月二 日の 来日 から 一九 五三 年一 月一 八日 の離 日ま での ノグ チの 動向 を中 心に
︑︽ 記 念碑
︾と の関 連か ら︑ そ の 間 の丹 下 の 動向
︑お よ び 行 政機 関 や 関係 団 体 の動 向 を 一 覧に し た のが
﹁︽ 広 島 死歿 者 記 念 碑
︾関 連 年 表
﹂で あ る︒ 主 体の 区別 を明 確に する ため
︑ノ グチ に関 して は◎ を︑ 丹下 に関 して は○ を︑ 行政 機関 や関 係団 体の 動向 につ いて は● を 文 頭 につ け た︒ 各 事項 の 典 拠 を右 端 の 欄に 略 号 で示 し
︑欄 外 の 一覧 に よ って 参 照 でき る よ う にし て あ る
︒こ れ に よ り
︑︽ 記 念碑
︾案 制作 期お よび その 前後 一年 ほど のあ いだ に︑ ノ グチ が 他 の作 品 と ど のよ う に 関与 し て いた か を 比 較対 照 でき るよ うに した
︒網 掛け して ある 日付 は︑ ノグ チが 在日 中で ある こと を示 す︒ 日付 の右 横に 記し た縦 の傍 線は
︑プ ロ ジェ クト ごと の制 作依 頼か ら竣 工も しく は不 採択 にい たる まで の︑ ノグ チの それ ぞれ の仕 事に 関与 した 期間 を示 す︒
― 301 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
《広島死歿者記念碑》関連年表
出典
ド下20 ド下23 丹下13
森40 丹下15 森40 新史73 森42
森42 新史74
吉田5 議事録 ド下46 新史76 由良26 議事録 議事録 ド下60
田井 377 丹下22 事項
◎イサム・ノグチ、日本に到着。
◎イサム・ノグチ、慶應義塾大学を訪問する。谷口吉郎、猪熊弦ー郎、菊地一雄、
西脇順三郎、守屋謙二らが迎える。谷口はノグチに「新萬來舎」構想を説明し協力 を依頼する。
◎有楽町毎日ホールで「芸術と集団社会」と題し「イサム野口氏講演会」(毎日新 聞社主催)開催。
◎○イサム・ノグチ、この頃新制作協会歓迎会で丹下健三と会う。
○「この広場に傾斜を持たせて、この部分に舞台のようなものを作ったらと言うこ とです。」
◎イサム・ノグチ、長谷川三郎と共に2週間にわたる京都、大阪、奈良、伊勢への 旅行に出発。
●日本美術家連盟がイサム・ノグチの提案する〈広島の鐘楼〉の制作援助を確約。
◎イサム・ノグチ、国立博物館で「モダンライフと室内の傾向」と題する講演を行 う。
◎イサム・ノグチ、東京大学丹下健三助教授の研究室で剣持勇と会う。
◎イサム・ノグチ、弟野口ミチオとともに瀬戸に滞在し、テラコッタ作品を制作。
◎イサム・ノグチ、テラコッタ制作終了。瀬戸をあとにする。
◎イサム・ノグチ、猪熊弦一郎夫妻と共に川崎市津田山の工芸指導所を訪問する。
○「平和会館の敷地のなかにしかも原案に合うような小さいものでいいから建てら れないだろうか」
◎イサム・ノグチ、田園調布の猪熊邸から工芸指導所に通い家具と彫刻のデザイン
・制作を行う。
●広島平和協会、平和祭中止を決定し、8月6日は「祈りの日」とし、8時15分は 全市黙祷を決定。
◎イサム・ノグチ、上記工芸指導所の作業終了。
◎イサム・ノグチ、日本橋三越(東京)において「イサム・ノグチ作品展」(毎日 新聞社主催、日本美術家連盟協賛)開幕。
◎上記「イサム・ノグチ作品展」において、黒板に「鐘が鳴る」の詩を書く公開制 作。
◎●イサム・ノグチ、平和記念公園に架かる二つの橋の欄干デザインを了承する。
◎上記「イサム・ノグチ作品展」閉幕。
◎イサム・ノグチ、羽田空港から離日。ニューヨークへ戻る。
●広島平和記念公園に架かる二つの橋着工。
●第2回広島平和記念都市建設専門委員会において「慰霊堂はアーチ横」という市
長発言。
◎イサム・ノグチ、ニューヨークの石垣綾子宅で山口淑子を紹介される。
●広島県議会、原爆ドームを文化財保護法にもとづく史跡にするよう要望決議。
◎イサム・ノグチ、谷口吉郎と設計した《萬來舎》の工事、ノグチ不在のまま着 工。
●第3回広島平和記念都市建設専門委員会において「慰霊堂はノグチ氏へ依頼」と
いう市長発言。
●第4回広島平和記念都市建設専門委員会において「慰霊堂は地下へ」という市長
発言。
◎イサム・ノグチから既にプロポーズされていた山口淑子、映画撮影のため日本へ 帰国。
◎イサム・ノグチ、リーダーズ・ダイジェスト東京支社ビル庭園プロジェクトのた め来日。
◎イサム・ノグチ、リーダーズ・ダイジェスト東京支社ビル庭園竣工。
○「慰霊堂その他について、野口イサム氏のこと……5月中旬に野口さんと(広島 へ)同道したい。」
◎上記RD東京支社ビル庭園竣工オープニング式典でノグチは勅使河原蒼風と会 う。
◎イサム・ノグチ、広島訪問途上長良川の鵜飼見学のため立ち寄った岐阜の提灯工 場で《あかり》の着想を得る。
R記 橋 萬 日
2 6
9 16 27 1 19 20 24 11 16 28 1 1 2 16 18 21 21 30 5 2 9 16 29 15 20 21 7 28 25 1 18
? 月
5 5
5 5 5 6 6 6 6 7 7 7 8 8 8 8 8 8 8 8 9 11 11 11 11 1 1 2 3 3 4 5 5 6 年 1950
1951
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 302 ―
船戸 125 丹下23 丹下23 リチラ ック2 吉田5
由良29 吉田5 ド下72 ド下 130 ド下72 ド下74
ド下86 新史84 ド下80 吉田9 吉田9 ド下 118 新史87 新史88 新史92
*本年表は、柳井康弘編「萬來舎/イサム・ノグチ関連年表」(『慶應義塾大学アート・センター/ブックレット13 記憶としての建築空間』慶応義塾大学アート・センター、2005年、164−180頁)をもとに作成した。出典が空 欄のものは、同年表の記述による。
**出典に記した略号は、以下のとおりである。[出典に出る順に記した。なお略号の後の数字は特記したもの以外は 頁数を示す]
ド下:ドゥス昌代『イサム・ノグチ 宿命の越境者:下巻』講談社文庫、2003年
丹下:丹下書簡(数字は通し番号、その文面は、越前俊也「丹下健三「広島計画」と原爆ドーム−−旧産業奨励館が
「焼け野原」から平和の象徴」に至った経緯について」『文化学年報』第61輯、2012年に再録)
森:森仁史「工芸財団フィルム・アーカイブにおけるイサム・ノグチ−−工芸始動所とノグチの創作活動」『記憶とし ての建築空間』慶応義塾大学アート・センター、2005年
新史:『広島新史』広島市、1986年
吉田:吉田三郎「廣島の平和大橋と慰霊碑の設計不採用問題について」『建築と社会』第33巻、日本建築協会、1952 年
議事録;広島平和記念都市建設専門委員会議事録(広島市公文書館蔵)
由良:由良滋「慶應義塾との絆−新「萬來舎」建設から解体へ」『記憶としての建築空間』慶応義塾大学アート・セン ター、2005年
田井:田井洋子、佐々木邦博『イサム・ノグチの萬來舎庭園とリーダーズ・ダイジェスト東京支社庭園について」『ラ ンドスケープ研究』日本造園学会、2006年
船戸:船戸洪「ムッシュウ・ノグチ」『芸術新潮』、新潮社、1951年10月号
リチラック:ボニー・リチラック「ボーリンゲンの旅:レジャーの環境」「イサム・ノグチ、ランドスケープへの旅」
展パンフレット、2004年
◎○イサム・ノグチ、丹下健三、浜井信三に招かれ広島平和記念公園予定地視察。
◎イサム・ノグチ、広島のABCC(原子爆弾傷害調査委員会研究所)でGLANT TAILORと会談。
○「慰霊碑、野口氏9月に再帰京后、仕上げにかかる予定。」
○丹下健三、第8回CIAM出席のため離日。
◎イサム・ノグチ、ボーリンゲン財団一次調査期間終了。
◎イサム・ノグチ離日しロサンゼルスへ向かう。
◎「8月30日付貴翰有難く拝受致しました、私が御送り申しました橋欄の意匠が お気に召した由」
イサム・ノグチより濱井広島市長宛9月18日付書簡。
◎イサム・ノグチ、谷口吉郎とともに手がけた慶應義塾大学第二研究室(新萬來 舎)竣工。
◎●イサム・ノグチ、広島の二つの橋竣工。
◎イサム・ノグチ、山口淑子との婚約発表をニューヨークのホテルで行う。
◎イサム・ノグチ、ニューヨークの《リヴァー・ブラザーズ・ビル庭園》設計依頼 引き受ける。
◎イサム・ノグチ、淑子とともにパリのブランクーシのアトリエを訪問。
◎同月上旬、イサム・ノグチは《ガンディー墓所公園》計画案を見せるためネルー 首相訪問。
◎イサム・ノグチ来日。
◎イサム・ノグチ、山口淑子、広井力らとともに鎌倉市大船字山崎の北大路魯山人 邸を訪ねる。
◎○イサム・ノグチ、丹下健三とともに平和記念公園一帯を視察。
◎イサム・ノグチ、山口淑子の結婚披露宴が般若苑で催される。
◎イサム・ノグチ、《記念碑》設計図を広島市に送付
●広島平和記念都市建設専門委員会(回数、開催日不明)記念碑ノグチ案を不採 択。
◎イサム・ノグチ、浜井広島市長から「不採用」の通知を受けとる。
●原爆慰霊碑建設原案発表される。
◎イサム・ノグ、広島市を訪れ不採択問題を市長に抗議。
●○広島平和都市記念碑除幕
◎神奈川県立近代美術館(鎌倉)において「イサム・ノグチ展」開幕。
◎高島屋(東京、大阪)においてイサム・ノグチの〈あかり〉が展示販売される。
◎神奈川県立近代美術館(鎌倉)「イサム・ノグチ展」閉幕。
◎イサム・ノグチがインテリア・デザインを担当した中央公論社画廊がオープン。
◎イサム・ノグチ離日。
11 13 29 30 30 5 30
31 20 16
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8 9 10 10 10 11 11 11 11 12 1
? 3 3 4 8 9 10 10 11 1 1952
1953
― 303 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
一番 左に おい た﹁ 萬﹂ の項 目で は︑ 慶応 義塾 大学 の︽ 萬來 舎︾ に関 する 経過 を示 して いる
︒制 作依 頼日
︵一 九五
〇年 五 月 六 日︶ に始 ま り︑ 模 型完 成
︵
=
三越 個 展 開 催日 の 同 年八 月 一 八 日︶ を経 て︑工 事 着 工
︵一 九 五 一 年 一 月 一 五 日︶
︑ 同 竣工
︵同 年八 月三 一日
︶ま で︑ これ につ いて は明 確な 記録 が残 って いる
︒ 左か ら二 番目 の﹁ 橋﹂ の欄 は広 島の 平和 記念 公園 に架 かる 二つ の橋 の欄 干デ ザイ ンに 関わ る項 目で ある
︒ノ グチ の回 想 はそ れが 彼の 広島 訪問 の折
︑初 めて 要請 され たよ うな 書き 方を して いる が︑ 地元 紙の 中国 新聞 社の 記録 は︑ 一九 五〇 年 八月 二一 日既 にノ グチ が了 承し てい たと 伝え てい る!
︒ つま り︑ 橋 の 欄干 の 仕 事は
︑ノ グ チ が三 越 で︽ 萬 來 舎︾ を世 に 問う た直 後に 次の 課題 とし て彼 に投 げか けら れて いて
︑両 者は 時間 的に 連結 して いた ので ある
︒実 際の デザ イン 画へ の 取り 組み は︑ 一九 五一 年七 月五 日の 離日 後ま で持 ち越 され たが
︑遅 くと も同 年八 月三
〇日 の数 日前 まで には 完成
︒そ の 後も 急ピ ッチ で作 業は 進み
︑同 年九 月二
〇日 には 竣工 にこ ぎつ けた
"
︒ 三番 目の 欄﹁ R﹂ は︑
︽ リー ダー ズ・ ダイ ジェ スト 東 京支 社 庭 園︾ の仕 事 を 示 すも の で ある
︒同 ビ ル の設 計 を 請 け負 っ てい たア ント ニン
・レ ーモ ンド から 依頼 され
︑一 九五 一年 三月 二八 日の 来日 から 精力 的に 取り 組み
︑ほ ぼ四 週間 で仕 上 げた 作品 であ る︒ ノグ チに とっ てこ の仕 事は
︑﹁ 日 本の 普通 の植 木屋 から いろ いろ と学
︵び
︶︑
⁝⁝ 石を 配置 する 基本 原 理 を 身に つ け た﹂# 貴 重な 体 験 で あっ た よ うだ が
︑同 作 には
﹁記 念
﹂的 意 味 合い が 認 めら れ な いた め
︑本 稿 で はこ れ に 深入 りし ない
︒ 四番 目に して 右端 の欄 が問 題の
︽記 念碑
︾に 関す るも の で ある
︒始 ま り を一 九 五
〇 年五 月 一 六日 頃 と して い る の は︑ 同 月二 七日 の丹 下書 簡第 一三 信に おい て︑ 慰霊 碑付 近の 造作 につ いて 丹下 がノ グチ から 具体 的な アド バイ スを 受け
︑そ れ を自 らの プラ ンに 反映 させ よう とし た意 思が 読み 取 れ るか ら で ある
︒$
た だ
︑こ の 時点 で
︽記 念 碑︾ と は︽ 鐘楼
︾の か たち を取 るこ とが 目指 され てい た︒ 第三 回︑ 第四 回の 広 島 平和 記 念 都市 建 設 専 門委 員 会︵ 各 一九 五 一 年一 月 二
〇 日︑ 同 年二 月二 一日
︶を 経て
︑︽ 記 念碑
︾は 遺骨 のな い墓 の形 式を と るこ と と 死歿 者 の 名 簿を 納 め る慰 霊 堂 を地 下 に 設 ける
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 304 ―
こ とが 決定 され てゆ く︒ ノグ チの 耳に 直接 それ が伝 えら れた のは 一九 五一 年四 月以 前で あっ たこ とは
︑五 月一 日付 け丹 下 書簡 第二 二信 に﹁ 慰霊 堂そ の他 につ いて
︑野 口イ サム 氏の こと
⁝⁝ 五月 中旬 に野 口さ んと
︵広 島へ
︶同 道し たい
﹂と あ るこ とか ら読 み取 れる
︒広 島訪 問を 取材 した 船戸 もそ の記 事で 明ら かに して いる よう に︑ 同年 六月 の時 点で ノグ チが 慰 霊碑 をつ くる こと は公 然の 事実 とさ れて いた
"
︒こ こで
︑同 年六 月二 九 日 付け 丹 下 書簡 第 二 三信 に あ る﹁ 慰 霊碑
︑野 口 氏九 月に 再帰 京后
︑仕! 上! げ! に! か! か! る! 予定
︵傍 点 引 用者
︶﹂ と い う文 面 か ら は︑ 広島 か ら 東京 に 戻 った ノ グ チ は︑ 離日 の 七月 五日 まで に︽ 記念 碑︾ の仕 事を かな り進 め た と判 断 で きる
︒つ ま り︑
︽ 記 念碑
︾に 関 し てノ グ チ が仕 事 に 入 った の は︑ 従来
︑彼 が公 にし たこ とば に従 い︑
﹁ 橋の 欄 干の 仕 事 の後
﹂と 見 な さ れて い る よう だ が︑ 実 際に は そ れ 以前
︑す な わち
︽萬 來舎
︾の 建築 現場 にい たあ いだ に構 想ば かり でな く模 型制 作を も進 めて いた 可能 性が 高い
︒ま た︑ この 年の 日 本不 在中 に︑ パリ に師 コン スタ ンテ ィン
・ブ ラン ク│ シを 訪ね たこ と︵ 一〇 月二 一日
︶も 注目 に値 する
︒ 慰霊 堂を 含め
︽記 念碑
︾案 の完 成を 一九 五一 年一 二月 一五 日と した 理由 は︑ 丹下 の作 業は
﹁結 婚式 のほ とん ど前 日ま で つづ いた
﹂# とい う証 言 を 根 拠と す る︒ 慰 霊碑 の 不 採 択問 題 を まと め た 吉田 三 郎 が 一九 五 二 年六 月 に 発行 さ れ た 雑誌 記 事に
﹁野 口 氏 こ の一 月 に 設計 図 を 市に 送 ら れ﹂$ と 書 いて い る こと も
︑丹 下 の 証言 を 裏 付け る も のと な っ て いる
︒ノ グ チが 早く から
︽広 島死 歿者 記念 碑︾ の制 作年 を一 九五 二年 とし て出 版物 を出 して いた 理由 に︑ ある いは この 設計 図送 付 の時 期を 勘案 して いた かも しれ ない
︒し かし なが ら︑ その 実質 的な 完成 は一 二月 一五 日の 前日 であ り︑ その 後︑ ノグ チ が北 鎌倉 に居 を移 し新 婚生 活に 入っ たこ とを 鑑み ても
︑結 婚披 露宴 後に 同作 に大 きな 手が 加え られ た可 能性 はき わめ て 低い
︒ 以上 のよ うに 整理 した 時系 列を 念頭 にお いた 上で
︑次 章で は︽ 広島 死歿 者記 念碑
︾案 と相 前後 して 制作 され た関 連の 深 い作 品を 取り あげ
︑比 較検 討し
︑結 果本 作の 性格 を明 らか にし てゆ く︒
― 305 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
第二 章 隣接 作 品 から 明 ら かに な る こと 第
一節
二 つの 鐘楼 限ら れた 制作 期間 と場 所そ して 資材 のな か準 備が すす めら れた 三越 の個 展の ため にノ グチ は彫 刻一 四点
︑壺 五点
︑焼 き 物壁 掛け 二点
︑家 具五 点︑ さら には
︽萬 來舎
︾モ デル と広 島の た め の︽ 鐘楼
︾モ デ ル を制 作 し た$
︒ 追い 込 み の 作業 場 とな った 工芸 指導 所で 撮影 され た写 真は
︑二 つ目 の︽ 鐘楼
︾モ デル が搬 入前 日の 八月 一六 日に 仕上 げら れた こと を伝 え てい る%
︒ 展覧 会パ ンフ レッ トに はこ の広 島の ため の作 品 は
︑﹁ 平 和記 念 塔
!
鐘 楼"
モデ ル
﹂と 記 され て い る︒
﹁ 平和 記 念塔
﹂と は︑
﹁ 広島 市平 和記 念公 園及 び記 念館 競技 設計
﹂の 募集 要項 で使 われ てい た用 語で
︑そ こに は﹁ 平和 記念 館﹂ の 定義 と し て﹁ 平 和の 祈 り を告 げ る 鐘を 釣 し た 平和 塔 等 を有 す る 建造 物
﹂&
と唱 わ れ てい る
︒す な わち
︑こ の 要 件 を満 た すこ とを 想定 した 作品 であ る︒ その 背景 には
︑﹁ 平 和記 念 塔﹂ の建 設 が 平和 記 念 館 建築 の 条 件に 挙 げ られ て い た にも か かわ らず
︑そ れに 満足 のゆ くプ ラン を提 示せ ぬま まコ ンペ を勝 ちと って しま った 丹下 から の要 請が あっ た可 能性 が考 え られ る'
︒ とい うの も︑ 前節 でも 触れ たよ うに 丹下 はノ グチ に面 識を 得る とす ぐ に 平和 記 念 公園 に 関 する 相 談 を 持ち か け︑ 具 体 的 な ア ド バ イ ス ま で 受 け て い た(
か ら で あ る︒ これ に応 えて
︑ノ グチ は三 越展 に二 つの 鐘楼 モデ ルを 出品 した ので あろ う︒ 第 一 の も の は 後 に
︽広 島 の 鐘 楼
︵
Bell Tower for Hiro-
shima
︶︾ と 名付 けら れ︑ 先述 の﹃ ある 彫刻 家の 世 界﹄ に掲 載︵ 図3
︶さ れ た)
︒ 想 定 さ れ た 二 一・ 四
#
と い う 高 さ図3 Bell Tower for Hi- roshima, 1950, A Sculp- tor’s World, New York and London, 1968, no.201
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 306 ―
は
︑丹 下の 陳列 館の 倍に 満た ない 数字 に相 当す る!
︒ 三本 の細 い円 柱を 地面 に 三 角形 状 に 据え
︑互 い を とこ ろ ど こ ろ横 木 で繋 ぎと めた 簡素 な造 りで ある
︒シ ュル レア リス ムの 系統 を引 くバ イオ モリ フィ ック で人 魂の よう な塊 や人 骨の よう な もの を横 木か ら七 個吊 るす が︑ 鐘に 相当 する もの は見 当た らな い︒ 骨や バイ オモ ルフ ィッ クな 形態 を吊 るす 塔状 の作 品 とし ては
︑︽ 英 雄の モニ ュメ ント
︾︵ 一九 四 三︶ や︑ わ が子 を 食 らう ギ リ シ ア神 話 の 神を 題 材 にし た
︽ク ロ ノ ス︾
︵一 九 四七
︶と い っ た先 行 作 例 があ る"
︒そ れ は︑
︽死
︵リ ン チ され た 人︶
︾︵ 一 九 三 四︶# に ま で遡 る こ とが で き る︑ 悲 劇の 犠 牲者 を追 悼す る際 に︑ ノグ チが 共通 して 用い てき た造 形で あっ た︒ つま り第 一の
︽広 島の 鐘楼
︾は
︑ノ グチ がこ れま で にも 行っ てき た犠 牲者 を抽 象化 して 宙に 吊る す造 形の 変奏 とし て作 品化 が行 われ てい る︒ 第 二の も の は︑ 制作 当 時︽ 平 和塔
︾と 呼 ば れ た$
︽ 広島 の 鐘 楼︾
︵図 4︶ で ある
︒第 一 の も のよ り 手 の 込 ん だ つ く り に なっ てい て︑ 円柱 は七 本に 増え
︑横 木は 斜め に渡 され てい る︒ 地上 付近 には 火の 見櫓 のそ れの よう に︑ 実際 に供 する こ とが でき そう な梯 子も 取り 付け られ てい る%
︒ しか し︑ 何と いっ ても 第一 の も のと の 最 大の 差 は︑ 吊 るさ れ た オ ブジ ェ が︑ 伝統 的な 日本 の鐘 のか たち をし てい る点 であ る︒ 下か ら順 に古 墳時 代 の 兜 とも 受 け とれ る 鐘&
が ふ た つ︑ 次 に銅 鐸︑ その 上に は︑ 炎の よう な突 起物 をつ け︑ 炎上 して いる よ うな 梵 鐘 が吊 る さ れて い る
︒最 後 の一 番 高 い位 置 に は︑ 太陽 もし くは 原子 力を 戯画 化し たよ うな 炎の 突起 物を もつ 球体 がぶ ら下 がる
︒つ まり 下か ら古 い順 に日 本の 鐘が 吊る され てい て︑ 一番 新し いタ イプ の鐘 が上 の球 体が 発す る火 で業 火に 包ま れて いる かの よう であ る︒ 極め つけ は︑ 展覧 会会 期中 の最 初の 休館 日︵ 八月 二一 日︶ を利 用し て︑ この 第二 の鐘 楼の 背景 にあ った 黒い 壁に
︑燃 える 梵鐘 の絵 とそ
図4 Bell Tower for Hiroshima, 1950, Anna Maria Torres, Isamu Noguchi : Space Design,New York, 2000, p.247.
― 307 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
れを 枠と して 父・ 野口 米次 郎辞 世の 詩﹁ 鐘が 鳴る
﹂を 公開 の場 で揮 毫 し て 見せ た こ と︵ 図5
︶で あ る!
︒ そこ に は︑ 第 一 の鐘 楼の 系譜
︑す なわ ち悲 劇の 犠牲 者を 追悼 する 姿勢 とは 異な る造 形言 語が 働い てい る︒ 第一 の鐘 楼は
︑生 者が 死者 を悼 む契 機と して の記 念碑 であ った のに 対し
︑第 二の 鐘楼 は︑ 死者 から 生者 への 呼び かけ によ って 警告 が発 せら れる 記念 碑へ と移 行し てい るの であ る︒ その こと は︑ 第二 の鐘 楼の 背後 にノ グチ が書 いた 米 次郎 最 期 の詩 句
︵﹁ か ねが な る こ れを 即 ち 警 鐘と 言 う の で す こ れが な る と皆 ね ま す さあ み ん な 眠 り ま し ょ う﹂
︶が 雄弁 に物 語っ てい る"
︒ 第
二節
︽萬 來舎
︾│
│︽ 広島 死歿 者記 念碑
︾│
│︽ トゥ ルグ
・ジ ュ公 のア ンサ ンブ ル︾ 一九 五〇 年五 月六 日︑ 父・ 野口 米次 郎が 長年 教鞭 をと った 慶応 義塾 大学 で︑ その 教え 子で あっ た西 脇順 三郎
︑守 屋謙 二 らに 迎え られ た折 りに
︑当 時︑ 慶應 の校 舎立 て替 えの 一連 の設 計に 携わ って いた 谷口 吉郎 の提 案で
︑ノ グチ は︽ 萬來 舎
︾の 仕事 に共 同で 取り 組む こと にな った
#
︒谷 口に よる と﹁ 二人 の仕 事 は 分離 し た もの で は なく
︑互 い に 協 力し
⁝⁝ 熟 議し 合っ た﹂$ 一 方で
︑﹁ 勇氏 がそ の︿ 庭園
﹀と
︿ク ラブ 室 の 内部
﹀を 設 計 し︑ 私が そ の︿ 建 築﹀ を設 計 し た﹂ も ので あ った
︒ 後に
︽ノ グチ
・ル ーム
︾︵ 図 6︶ と呼 ばれ るこ と にな る
︿ク ラ ブ室 の 内 部﹀ の 設計 は
︑パ イ 状の 暖 炉 を中 心 に 据 える こ とを 起点 とし て構 想さ れた と考 えら れる
︒そ れは この 部屋 が﹁ 英雄 を讃 える よう な風 の記 念的 建造 物で もな く︑ 一個
図5 展覧会場におけるイサム・ノグチの揮 毫 1950年8月21日[工芸財団:2546]
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 308 ―
人の 追 憶 に中 心 を 置い た も の︵ で もな く
︶︑ す べて の 人 々の 為 に つ くら れ た︿ 萬來 舎
﹀と 名 づ け ら れ る も の﹂! で あ っ た か ら で あ る
︒円 卓 と し ても 使 え る暖 炉 を 真ん 中 に 置 くこ と で︑
﹁ すべ て の 人々
﹂が 公 平 に 車座 にな って 座れ る﹁ 萬來
﹂が 演出 され るこ とに なる
︒そ うし た意 味で 本作 は追 悼や 警告 の意 味合 いが ある 二つ の︽ 広島 の鐘 楼︾ とは 性格 を異 にす るも ので あっ た︒ ノグ チが 恐ら く次 ぎに 考え たこ とは
︑構 造体 とし ては 不必 要な
︵図 6で 左に 見え る︶ 円柱 を建 て︑ それ を煙 突に した 点で あろ う︒ 結果
︑円 卓暖 炉が
︑門 のよ うに 見え る二 本の 太い 柱に よっ て縁 取り され
︑中 心へ の求 心力 が高 めら れた
︒
︿庭 園﹀ に おい て ノ グチ が 執 着 した の は︑ 彫 刻︽ 無︾ の設 置 位 置 で あ った
︒そ れは 東 京 湾を 望 む 丘の 上 か ら の眺 望 を まる く 縁 取る と と も に︑
﹁ 沈 ん で 行 く 太 陽 が︑ 私 の 彫 刻︽ 無︾ を シ ル エ ッ ト に し て 浮 き 出 さ せ︑ 天 上か ら の 光で 点 火 して そ れ を 石 灯 籠 の よ う に し ま す﹂"
と ノ グ チ が い った よう に︑ 沈む 夕陽 を捉 える 場所 に正 確に 位置 しな けれ ばな らな かっ た
︒し かも それ は暖 炉を 挟む 二本 の円 柱の 軸線 上に も位 置し なけ れば なら ず︑ 逆に いえ ば︑ 煙突 とし て用 いら れる 円柱 は
︑彫 刻︽ 無︾ から 始ま る西 への 軸線 上に 位置 する ため に︑ 建物 の構 造体 とし ての 軸線 から は︑ わず か南 へ外 れな けれ ば なら なか った
︵図 7︶
︒ 図7 にあ るよ うに
︑中 心と なる もの
︵
:
暖炉︶の 西に 舟型 をし たも の︵
:
テ ーブ ル︶ を配 し︑ 西陽 を見 送る とい う位 置 関係 は︑ 広島 の︽ 記念 碑︾
︵
:
中 心と なる もの︶と 元々 は︽ 死ぬ
︾と 命名 され てい た平 和西 大橋
︵
:
舟型 をし たも の︶図6 《ノグチ・ルーム》1951年
― 309 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
の 位置 関係
︵図 8︶ に先 行す るも ので ある
︒し かし 前章 で見 たよ う に︽ 萬來 舎︾ の模 型完 成と 広島 の橋 の欄 干デ ザイ ン依 頼ま でに は 三日 の差 しか なく
︑両 者は 同じ 発想 のも とで 生ま れた 双児 の兄 弟 のよ うな プロ ジェ クト であ った と捉 える こと がで きる
︒︿ 庭 園﹀ の 西側 に配 され た彫 刻︽ 学生
︾が 戦歿 学生 を想 定し た追 悼記 念碑 で ある のに 対し
︑東 側に 置か れた
︽若 い人
︾が
︽ク ーロ ス︾ の系 統 にあ る生 命 謳 歌 の造 形!
と繋 が る のは
︑元 々
︽生 き る︾ と 題さ れ て い た 平 和 大 橋 が︑ 平 和 記 念 公 園 の 東 に 位 置 す る の と 照 合 す る
︒す な わ ち︑
︽萬 來 舎︾ に おけ る
︑地 勢 上 の 作 品 配 置 は
︑平 和 記 念公 園の ノグ チ作 品の 配置 へと その まま 引き 継が れて いる ので あ る︒ な らば
︽ノ グ チ・ ル ーム
︾の 門 の よう な 二 本 の 柱 は
︑︽ 広 島 死 歿 者記 念碑
︾地 下の 慰霊 堂の 巨大 な柱 へと 引き 継が れた とい う見 通 しが たつ
︒前 章二 節で 見た よう に︑ ノグ チの
︽記 念碑
︾構 想な ら び に 模型 制 作 時期 は
︑︽ 萬 來 舎︾ の建 設 時 期と 完 全 に重 な っ て い た︒
︽ 萬來 舎︾ 建設 の現 場を 預か った 由良 の回 想に よれ ば︑
︽ノ グ チ・ ルー ム︾ は当 時ま だ一 般的 では なか った コン クリ ート 打ち 放 し木 肌仕 上げ にす るた め︑ その 質感 を繊 細に 仕上 げる のに 苦労 し たと ある が"
︑ そ の こと と ノ グチ が
︽記 念 碑︾ 慰霊 堂 の 太 い柱
図7 《ノグチ・ルーム平面図》(本図で は右上を北にした)
図8 平和記念公園平面図(『建築と社会』
1952年6月号、6頁掲載、吉田三郎による 図の一部)
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 310 ―
を コン クリ ート で仕 上げ よう とし たこ とは 無関 係で はな い
︒︽ ノ グチ
・ル ーム
︾に おけ る柱 の仕 上が りの 自信 が︑ 慰 霊堂 の柱 をコ ンク リー トで つく ると いう 決断 へと 導い た と考 えら れる
︒ では
︑そ もそ もパ イ状 の円 卓暖 炉と 門の よう な二 本の 柱 の 発 想は
︑ど こ か ら来 た の で あろ う か
︒﹁ 英 雄 を 讃 え る
⁝⁝ でも なく
︑一 個人 を追 想す る⁝
⁝で もな く︑ すべ て の人 々の 為に
﹂と いう
︽萬 來舎
︾に 関し てノ グチ が自 ら に 課 し た テ ー マ を︑ 先 行 し て 実 現 し て い た 作 品 が あ る
︒そ れこ そが
︑彼 の師 ブラ ンク ーシ が一 九三 八年 に故 国 ルー マニ アに 完成 させ てい た︽ トゥ ルグ
・ジ ュの アン サ ン ブ ル︾
︵図 9︑ 10︶ で あ る︒ 第 一 次 大 戦 で ド イ ツ と の 戦い で戦 死し たル ーマ ニア の兵 士や トゥ ルグ
・ジ ュ市 民 の追 悼す るた め︑ ブラ ンク ーシ が教 え子 から 依頼 され た 作品 であ る︒ ブラ ンク ーシ はこ れに 応え て︑ 一九 二〇 年 代 か ら す で に 試 作 を 重 ね て 来 た︽ 無 限 柱
︾と
︽接 吻
︾︑ さ ら には
︑彼 が 日 頃ア ト リ エ の展 示 台 と し て 使 用 し て い た石 の 丸 い 平 台 を︽ 沈 黙 の 円 卓︾
︵ 11図
︶と し て 軸 線 上 に並 べ る こと に よ り アン サ ン ブル の 作 品と し た︒
図10 トゥルグ=ジュのアン サンブル配置図[Radou Varia, Brancusi, Rizzoli international, 1986, p.258]
図9 トゥルグ=ジュのアンサンブルの概念的合成写真
[Radou Varia, Brancusi, Rizzoli international, 1986, p.254]
― 311 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
円卓 を囲 み︑ 門に 作り 替え られ た︽ 接吻
︾を 潜り
︑無 限の 塔を 仰ぐ
︑そ の過 程を 歩 く﹁ すべ て の 人々
﹂に 開 か れた 作 品 で ある
︒︽ ノ グ チ・ ルー ム
︾の 中 心に 置 か れた 円卓 暖炉 が︑ この
︽沈 黙の 円卓
︾の 流れ を汲 むこ とは 明ら かで ある
︒完 成写 真と して 撮影 さ れ た暖 炉 の 周り に 置 か れた 丸 い 縄座 布 団 が︑
︽沈 黙 の 円 卓︾ の周 囲 に置 か れ た丸 い 椅 子を 連 想 さ せ る こ と は も ち ろ ん の こ と
︑由 良 が 伝 え る
﹁昨 晩︑ 夢を 見ま した
︒暖 炉の 周囲 に溝 を掘 った ら良 いと
︒人 が腰 掛け られ ると 思い ます
﹂と 突然 ノグ チが 完成 間際 に語 っ た エ ピソ ー ド!
は
︑両 者 の 強い 結 び つ きを 示 唆 す る も の で あ る︒ 柱 は 二 本 併 置 さ れ る こ と に よ っ て︽ 接 吻 の 門︾ と な り︑
︽ 無︾ はそ の 円環 を 上 に向 け て 開 いて お く こと で
︑終 わ りな き
︽無 限 柱︾ と 精神 的に つな がる 要素 をも つ︒ さら にい えば
︑前 田富 士男 が推 察し たよ うに
︑ノ グチ が︽ 萬來 舎︾ の庭 に彫 刻︽ 無︾ を置 いた とき
︑そ こに パリ のエ ドワ ード
・ス タイ ケ ン 邸 の 庭 に あ っ た
︽無 限 柱︾ を 重 ね て 合 わ せ て い た こ と も 充 分 に 考 え ら れ る"
︒ ボー リン ゲン 財団 調査 旅行 の 最 初の 訪 問 地に パ リ を選 び
︑ま ず︑ こ の 作品 を仕 上げ たブ ラン クー シに 話を 聞く こ と から 旅 を 始め た ノ グチ に と っ て#
︑ 最後 の訪 問国 で制 作機 会を 得た
︽萬 來舎
︾は
︑師 の祖 国へ 贈っ た記 念碑 への 返礼 であ り
︑そ の意 志を 継承 した 作品 だっ たと いえ るの では ない だろ うか
︒ そう であ るな らば
︑︽ 萬 來舎
︾に 踵を 接す る広 島の プ ロジ ェ ク トに も
︑意 志 の 継承 を 見 るこ と は 可能 で あ ろ う︒ まず 実 現の 機会 に恵 まれ た橋 の欄 干に 関し ては
︑先 に述 べた とお り︽ ノグ チ・ ルー ム︾ の舟 型テ ーブ ルと 繋が る︒ また
︽広 島 死歿 者記 念碑
︾案 の慰 霊堂 では
︑﹁ 門
﹂と して の造 形が 強調 され てい る︒
︽記 念碑
︾の 地上 部分 は︑ 先に 見た よう に当
図11 コンスタンティン・ブランクーシ《沈黙の円卓》1938年 イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 312 ―
初
︑﹁ 埴 輪 の屋 根
﹂や
﹁キ ノ コ雲
﹂と し て 表 そ う と し て い た か も し れな い
︒し か しな が ら 最 終的 に は︑
﹁ エネ ル ギ ー の 一 種 の 集 中 点 と し て﹂! 表 わ す と 語 っ て い る
︒そ の た め︑ 基 壇 に は同 心円 状に 湾曲 した 格子 を引 き︑ 登り 口を 四面 に設 けて い る
︵図 12︶︒
エ ネ ル ギー の 集 中を 示 す こ う し た 造 作 が
︽記 念 碑︾ を﹁ すべ ての 人々
﹂が 集ま る︽ 沈黙 の円 卓︾ に近 づけ て い る
︒追 悼 の 対 象 を﹁ 戦 没 者﹂ に 限 ら な い﹁ 死 歿 者
︵
the
Dead
︶﹂ と した の は︑ こ の ため で あ ろう
︒わ け て も
︑地 上 部 分 の模 型で はつ くら れる こと がな かっ たパ イ状 の円 卓が
︑地 下 慰霊 堂と の構 成写 真︵ 図2
︶で
︑に わか にア ーチ の下 に登 場 する のを 見る とき
︑そ の思 いを 強く する
︒な らば 広島 の︽ 記念 碑︾ に︽ 無限 柱︾ は存 在し ない ので あろ うか
︒ノ グチ は この 作 品 につ い て 最後 に
﹁破 滅 の円 屋 根 と 平和 の 門⁝
⁝こ こ に は表 現 さ れて い な い もの は 一 つも な か っ た﹂"
と 語っ て いる
︒そ れは
﹁破 滅の 円屋 根﹂ すな わち
﹁原 爆ド ーム
﹂を 自ら の作 品に 含め て考 えて いた こと を意 味し てい る︒ 第二 の
︽広 島の 鐘楼
︾で 試み られ た警 告記 念碑 は︑
︽ 広島 死歿 者記 念碑
︾に おい ては
︑﹁ 原爆 ドー ム﹂ がそ の役 割を 引き 継い で いる ので ある
︒自 らの 作品 に﹁ 原爆
﹂の 文字 を入 れな かっ た理 由は ここ にあ る︒
︽ 沈黙 の円 卓︾
︽接 吻の 門︾
︽ 無限 柱︾ で 構成 され た︽ トゥ ルグ
・ジ ュ の アン サ ン ブル
︾が
︑こ こ 広 島 では
︽記 念 碑︾
︽ 慰霊 堂
︾そ し て﹁ 原爆 ド ー ム﹂ と 姿を 変 えて 変奏 され てい るの であ る︒
図12 イサム・ノグチ《広島死歿者記 念碑模型写真》1951年,Courtesy : The Noguchi Museum
― 313 ― イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案
お わ り に イサ
ム・ ノグ チの
︽広 島死 歿者 記念 碑︾ は︑ 実現 され なか った こと
︑そ して その 理由 が︑ 作者 がア メリ カ人 であ った こ とに 起因 した とし て︑ 悲劇 の作 品と して 語ら れて きた
︒加 えて
︑右 に見 てき たよ うに
︑こ の作 品に 関す る作 者自 身の こ とば が﹁ 躓き の石
﹂と なっ て︑ 正確 な制 作時 期を もっ て語 られ る機 会に 恵ま れて こな かっ た︒ これ もま た悲 劇と いっ て よ い かも し れ ない
︒正 し く は︑ こ の作 品 は︑ 作 者が 語 っ てき た 年 よ りも
︑お よ そ 一 年 前 に 手 が け ら れ
︑作 者 が
︽鐘 楼
︾に 関わ って いた 構想 期間 も含 めれ ば︑ 制作 開始 時期 をさ らに 一年 遡ら せる こと も可 能で ある
︒正 しく 制作 時期 を把 握 する こと で︑ 本作 と︽ 萬來 舎︾ の関 係が 密接 であ るこ とが 明ら かに なっ た︒ そし てこ の両 者の 起源 とし て︑ ブラ ンク ー シの
︽ト ゥル グ
=
ジ ュの アン サン ブル︾を 想定 す るこ と に より
︑ノ グ チ が﹁ 原 爆ド ー ム﹂ に 託し た 思 いを 推 し は かる こ とが でき るの では ある
︒
! 註
AnnaMariaTorres,IsamuNoguchi:SpaceDesign,NewYorkTheMonacelliPress,2000.
に は 七 五 の プ ロ ジ ェ ク ト が 掲 載 さ れ て い る
︒
"
ド ー レ
・ ア シ ュ ト ン
︵ 笹 谷 純 雄 訳
︶﹃ 評 伝 イ サ ム
・ ノ グ チ
﹄ 白 水 社
︑ 一 九 九 七 年
︑ 一 六 一 頁
︒﹁ 亡 く な る ま で の 十 年 間
︑ ノ グ チ は た ぶ ん 合 衆 国 で こ の 重 要 な プ ロ ジ ェ ク ト を 実 現 さ せ る 手 立 て を な お も 見 つ け よ う と し て い た
︒ し か し な が ら
︑ 悲 し い こ と に 彼 は 徹 頭 徹 尾 邪 魔 さ れ た
︒こ の プ ロ ジ ェ ク ト は 彼 が 亡 く な る ま で
︑彼 の 重 大 な 関 心 事 の ひ と つ で あ っ た
﹂︒DoreAshton,Noguchi
EastandWest,AlfredA.KNOPF,NewYork,1992,p130.
# 本 作 の 英 文 タ イ ト ル は 他 にMemorialtotheDead,Hiroshima
お よ びMemorialtotheDeadofHiroshima
の 二 例 が 作 者 自 身 に よ っ て 使 用 さ れ て い る
︒ そ の ニ ュ ア ン ス は 前 者 が
﹁ 広 島 に お け る 死 者 の 記 念 碑
﹂ で あ る の に 対 し
︑ 後 者 は
﹁ 広 島 の 死 者 へ の 記 念 碑
﹂
イサム・ノグチの《広島死歿者記念碑》案 ― 314 ―