審判記録が語る﹁漢好裁判﹂
はじめに
睾
傑
一九四五年八月十六日︑南京国民政府中央政治委員会が臨時会議を招集し︑﹁国民政府解散宣言﹂を発表すると ソともに︑中央政治委員会を南京臨時政務委員会に︑軍事委員会を治安委員会にそれぞれ改組することを決定した︒
日本軍の占領地域に約五年間存続した﹁塊偏政権﹂の終焉である︒
注兆銘の死後︑南京政府の主席代理を務めてきた陳公博が︑翌十七日に重慶にいる蒋介石主席に打電し︑南京政
府解散の決定を伝える一方︑日中戦争が始まって以来︑国の統一と党の大同団結を願いつづけてきたが︑この宿願
が本日ようやく実現したことは︑まことに喜ばしい︑との趣旨の報告をおこなった︒同じ電文のなかで︑日本軍が
杭州︑上海︑南京︑徐州などに結集し︑中央政府による武装解除を待ち受けていること︑共産軍が日本軍の占領地
域への進出を図っていること︑南京政府下の軍隊が共産軍に走らないように︑中央政府からの委任が期待されるこ
早稲田人文自然科学研究 第53号 98(H.10).3 65
と︑予想外の紛糾を避けるために︑国軍による占領地の接収は段階を踏んでおこなうことが望ましいなどが述べら
ハ れている︒蒋介石国民政府の南京政権に対する処置が未だ不透明な状態のもと︑中央政府への服従を誓っている陳
公博等南京政権担当者の姿勢は︑彼らの隠せない不安を如実に映し出している︒
陳公博等南京政権の人々の不安が現実となったのは九月に入ってからである︒九月八日︑重慶政府の陸軍総司令
何応欽を乗せた飛行機が南京に降り立った︒翌九日から︑﹁聖日﹂と呼ばれた南京政府関係者の逮捕が始まった︒
注兆銘の妻であり︑中央監察委員兼広東代表の陳壁君︑注の娘婿何影青︑及び南京政府の外交部長楮民芸等注兆銘 ヨ の一族がいち早く逮捕されたことを皮切りに︑いわゆる﹁粛好﹂が大々的に展開された︒一九四七年までの二年間︑
漢好として起訴された人間は中国全土で三〇︑八二八人にのぼり︑うち六︑一五二人が無罪と認定されたが︑死刑 ハるワを含む刑罰を受けた人は一五︑三九一人に達した︒
ところで︑陳公博をはじめ︑数多くの南京政府の重要人物が死刑に処せ.られたなかで︑唯一周翌年が特令により
死刑から無期懲役に減刑された︒周知の通り︑周仏罰は南京政府の財政部長︑行政院副院長︑最高国防会議委員兼
秘書長︑中央儲備銀行総裁などを歴任し︑七言銘に次ぐ実権派であった︒彼に対する減刑の裏にはいったい何があ
ったのだろうか︒一般的には︑南京政府にいながら重慶政府と連絡のルートを保ち︑抗戦に協力したことや︑終戦
後︑上海地域の治安維持などに尽力したことなどが指摘されているが︑しかし︑これだけの﹁功績﹂がありながら︑
法廷においてはなぜ死刑が確定されたのか︑また︑国民政府がこの決定をあっけなくひつくり返したほんとうの理
由はなにか︑これらの疑問に対する解答は︑未だに得られていない︒
いままで︑いわゆる﹁漢妊裁判﹂を実証的に研究するのに︑充分な資料はなかったと言える︒数年前︑中国で裁
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判記録が公刊され︑従来新聞記事のみをたよりに検討されてきたこの裁判の実態が明らかにされつつある︒本稿は
まず裁判に提出されたさまざまな証拠書類などを分析することによって︑周仏海に対する減刑の経過を明らかにし︑
そしてこれを手掛かりに︑いわゆる﹁修好裁判﹂の意味を考えてみることにする︒
一、
d慶政府との関係
審判記録が語る「漢好裁判」
周黒海の裁判に提出されたもっとも重要な証拠書類に︑情報機関である国民政府軍事委員会調査統計局11軍陣局
ハら の証言がある︒証言は周仏海と軍統局との関係を赤裸々に綴っている︒
証言によると︑程克祥︑豊里は︑軍事局南京情報組長︑副組長在任中︑戴笠局長の命令で︑一九三九年秋から︑
表面上注兆銘が指導していた和平工作に参加したが︑実際には情報収集などのスパイ活動をおこなった︒周上海と
のつながりはこの時期に始まる︒軍統局への報告のなかで︑早雪祥と彰寿が次のように述べている︒
一九三九年九月頃︑我々は注一返をはじめとする和平派が日本と経済︑駐兵︑及び政権樹立について交渉し
ている情報を入手した︒談判の内容や日本と馬丁銘グループとの交渉の実態を把握するために︑南京情報組の
副組長彰盛木を周学海に紹介し︑周の秘書に就任させた︒盛木は台湾出身であり︑東亜同文書院の教授を務め
たこともあり︑日本語に精通したが︑国内の政治や社会状況には不案内であった︒このような盛冬を助けたの
は周絶海と親戚関係にある楊怪華であった︒そのため︑盛木は周仏聖の側近として活動するようになり︑日本
側と注兆単側のあらゆる会談の様子のみならず︑個人的な会合の内容なども︑彰黒木によって軍些些に報告さ
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れた︒
一九四〇年三月二十九日南京政府成立後︑楊三尉の働きかけで︑彰雌木を財政部参品目した︒このルートを
通じて︑南京情報組は︑南京政府の財政政策や占領地に於ける日本の金融︑経済政策に関する情報を数多く入
弄することに成功した︒また︑三九年十月︑揚子江上流地方における日本軍の軍事情報を入手するために︑楊
法華を通じて︑彰寿を南京政府中央党部の連絡主任の要職に付けた︒この立場を利用して︑彰寿は野江︑南昌︑
武昌︑漢口車の軍事情報を獲得し︑さらにこれらの情報をもとに︑詳細な報告を作成して︑軍統局に報告した︒
四〇年八月から十月に行われた日華国交調整交渉には︑楊怪華の計らいで︑彰盛木も参加した︒交渉の進行状
況をはじめ︑南京政府が日本側と結んだ秘密条約や議定書等を細かく記録し︑軍営の南京情報組を通じて︑中
央に報告した︒
注兆銘を首班とする南京国民政府が成立したのは一九四〇年三月三十日であったが︑政府成立の前から︑周仏海
はあらゆるルートを通じて︑重慶政府との連絡を取ろうとした︒一月十七日︑周壁海は重慶側の代表段運凱と会談
し︑次のような主張を明らかにしている︒
政府を組織することは当然の成り行きであるが︑中国は統一しなければならず︑蒋先生の側が停戦し︑注先
生が和平交渉をすれば︑余が日本側に蒋下野の主張を取り消すよう要請することを請け負ってよい︒短期的に ハ は国府は南京に戻るが︑軍事委員会はやはり重慶にあるものとする︒
また︑燕京大学校長のスチュアートを通じて︑重慶側との連絡のルートを保とうとしたのもこの時期であった︒
この工作を記録した周仏海の日記を紹介しておこう︒
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審判記録が語る「漢妊裁判」
﹁影佐が来て︑スチュアートが王克敏に会った際︑重慶に行くことにしており︑王に注と蒋︑重慶と東京の間
の調停人になってほしいと述べたという︒多田はスチュアートの重慶行きに際し次の二点の伝達を託してはど
うかと提起した︒一︑蒋に誠意があるなら容共抗日政策を根本から変更し︑重慶政府内の共産分子を粛清し︑
注先生と合作するならば︑注先生も受け入れるかも知れない︒二︑蒋が時局の収拾について意見があるなら注
と直に話すのが一番で︑さもなくば王が間に入って伝達することでもよく︑重慶側が密使を派遣して交渉する
ことを望む︑というもので︑わが方が同意するか否かを問うた︒余は案の通りでよいと答えた︒さらに他の問 アリ 題について協議した︒ついで注先生に報告したところやはり同意した︒﹂
﹁晩︑スチュアートと会い︑彼が重慶に行って蒋先生に拝謁する際に︑中央政府が組織されるのは必至である
こと︑しかし東京︑重慶の間で和を講ずることの障害にはならないこと︑また日本が困窮しているからといっ
て敵を軽視しすぎないよう︑個人の怨念で大計を決定なされぬよう︑蒋先生に勧めてくれるよう頼み︑さらに おソ 余は和平のためになりさえすれば個人はすべて犠牲にすることを表明してほしい︑と伝えた︒﹂
このような周仏海の態度に同情した重慶政府の人々が︑周仏海の裁判に際し︑膨大な証拠資料を提出した︒国民
党海陸空軍総司令部顧問︑軍事委員会少将参議︑行政院参議等を歴任した杜月旦が周仏海の弁護士に書簡を送り︑
周仏海を弁護した︒証拠書類として提出された杜月笙の書簡は次のとおりである︒
民国二九年︵一九四〇︶︑錦︵杜月笙⁝⁝筆者︶は段宏網︵前監察院委員︶とともに香港に滞在した︒この
年の十月︑段夫人が亡くなり︑段氏は葬式のために上海に赴いた︒周仏海はこの機会に段氏を訪ね︑次のよう
なことを述べた︒
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﹁私は注精衛先生に誘われて︑海防へ赴いた︒その際︑注は私に次のように述べた︒﹃斎座︵蒋介石のこと
⁝⁝筆者︶は大局を決定し︑抗戦を主張しているのは︑勿論正しい道である︒しかし︑イギリス人の態度は曖
昧であり︑アメリカ人は厭戦者が多い︒長期にわたって抵抗を続ければ︑前途は予想しがたい︒再三思慮した﹂
結果︑海防へ赴くことを決め︑いざというときに備えて︑緩衝の余地を残すことにした︒抗戦が勝利に終われ
ば︑国家の幸いであるが︑万が一失敗しても︑新たな道を探るきっかけができることになる︒どうか私の力に
なってくれ﹄と︒私は注の話に心を打たれ︑海防にいながら︑時局を静観するつもりであったが︑曾仲鳴が暗
殺されたことで︑急遽注に同行して上海に来たものである︒
余は長年新座に従い︑その断固とした抗戦の主張には敬意を表するものである︒今︑重慶から離脱して上海
に滞在しており︑環境も大きく変化したが︑委座には訓示するところがあれば︑直筆の指示を送っていただき
たい︒小生は生命をかけても従う所存である︒香港へ帰ってから︑どうかこの旨を杜氏に伝え︑彼を通じて︑
委座に私の考えを知らせてほしい﹂と述べた︒
私は︑香港へ帰来した段氏から︑上段周仏事の話を聞いたが︑即座に中央に報告しても︑内容のない空論と
言われても仕方がないと判断したので︑再度段氏を上海に派遣し︑委座に伝える前に︑まずなによりも実際の
行動をみせるようにと周仏海に要請した︒
その後︑段鼻は再び上海を訪問したが︑第一回目の周回海との会談から既に二ヶ月が経ち︑注兆銘と日本側
との交渉も急速な展開をみせ︑周仏画に対する監視も一層厳しくなったので︑遂に結果をみることができなか
った︒
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審判記録が語る 「漢妊裁判」
昨年の秋︑私は戴笠将軍とともに東南方面へ赴き︑宴安で日本軍敗戦の情報を得た︒緊急の事態に対応する
ために︑戴将軍は中央の指示を仰ぎ︑周仏海を上海地区の治安維持の責任者に推し︑功をたてるチャンスを与
えた︒周仏海はこの任務を果たし︑その功績も認められる︒弦に証言する︒
杜月笙 む 民国三五年十月六日
この書簡から︑命をかけて蒋介石の命令に従うという周江海の﹁忠誠﹂が読みとれる︒このような心仏海の重慶
政府への思いは︑機会あるごとに表明されてきた︒
重慶政府のために情報活動を行っている陳肖賜の来訪を受けた日︑周仏画は日記に次のように書き留めた︒
﹁旧友の仲なので︵陳肖賜は︶大胆にもやって来た︒そこで当方は一切を犠牲にしてでも︑全面和平を求め
ていること︑また欧州に於ける戦争の拡大は日本にとっていっそう有利になるので︑わが国はいま和平をする
のが宜しいことを告げ︑このことを転化︑立夫に伝達し︑蒋先生に進言してくれるよう要請し︑和平に有益な リリ ことなら︑蒋先生の命に従うことを伝えた︒肖賜は大いに喜び︑努力することを約束した︒﹂
また︑蒋介石個人に対する前仏海の﹁畏敬﹂も証拠資料としてしばしば法廷に提出された︒
程克祥が軍統局に提出した報告によると︑﹁南京政府に参加してから︑周仏土は第三戦区長官ならびに中央頂部
と密かに連絡をとりはじめた︒周の心は︑明らかに中央︵重慶政府︶に傾いていた︒これは彼の内外での談話のな
かで︑最高領袖︵蒋介石︶に言及したときの丁寧な言葉遣いや︑尊敬する態度からも伺い知ることができる︒また︑
日本側との交渉に際し︑いつも日本人と激しく争い︑中国の国益を主張した︒これは日本人と妥協する態度をとり
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続けた注兆銘とは良い対照となった︒そのため︑日本人と注兆銘の両方から周仏海に対する不満の声が聞かれた﹂
という︒ ところが︑すでに重慶政府を離脱し︑蒋介石と違う路線を歩き始めた周仏海は︑注兆銘と生死をともにする覚悟
も︑どこかでもっていたように思われる︒特に注説銘政権の関係者の前ではこうした姿勢を鮮明にしなければなら
なかったのである︒一九四〇年九月中旬︑重慶側から︑注兆銘を排除するための準備を開始するように要請された
周仏海の反応は︑強烈なものであった︒彼はその一部始終を詳細に日記に記した︒すなわち︑
﹁仲雲が来る︒今回余が上海に来るのに︑仲雲に同行してもらい︑密かに陳果夫の弟肖賜と会って︑これま
での重慶側への和平勧告状況を訪ねてもらう︒肖賜がいうには︑万夫︑立夫からいずれも電報が来ており︑そ
れによると蒋は依然抗戦を堅持しており︑当面和平を論ずるのは時機尚早であるという︒また蒋は絶対に注と
は合作しないので︑余にいずれ注を排除する準備を密かにしておくよう望んでいるとも言う︒余は︑次のこと
を肖賜に伝えるよう仲雲に依頼する︒すなわち︑注先生とは生死を共にし︑銀難を共にする間であり︑政治的
にも︑道徳的にも︑また個人の道義上からも余は絶対に注先生に背くことは出来ない︒今は余が重慶を離れる
前の情勢とは異なっている︒蒋は未だ余を国士として扱ってくれたことなく︑しかも和戦の政策で余と意見が
一致しなかったので︑苦痛を忍んで重慶を離れたのである︒今︑注先生と余は主張も同じであり︑しかも国士
として対応してくれているのに︑どうして余が離れることができようか︒全面和平は余の主張であり︑余本人 ハレ は決して注に背くことはできない︑と︒仲雲ももっともと言った︒﹂
周仏海は︑重慶政府の方針について︑﹁おそらく重慶は余をその内線として利用し︑余によってほとんど成り立
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っている国民政府を妨害もしくは破壊し︑あるいは余を利用して余と銀難を共にしてきた注先生に反対しようとす
るのであろ樋﹂と分析した︒そして︑﹁これでは中日の和平も注・蒋合作も決して実現しなかろう﹂と判断した周 ね 仏海は︑﹁今回のことで︑余の蒋に対する良心上の責任も尽きたものと言えよう﹂と︑いままでの対蒋介石認識の
変更を余儀なくされたのである︒
すなわち︑この時期︑周仏海がめざしたのは﹁蒋注合作﹂ではなかったかと推察できよう︒
二︑﹁自首﹂後の周仏海
審判記録が語る「漢好裁判」
軍統局が提出した資料では︑周想出が重慶政府に﹁自首﹂した経過について次のように述べられている︒
=九四二年︑我々︵程克祥等﹀は重慶に対し︑工作に関する報告を行うことになった︒その際前仏海から次
のような依頼があった︒周の﹁自首﹂を認めるように︑戴笠局長を通じて蒋介石主席に懇請するようにと︒ま
た︑抗戦に有利な工作であれば︑全力を尽くして頑張る所存であることも述べていた︒我々が重慶到着後︑周
環海の以上の意思を戴先生と毛︵人鳳︶先生に伝えると同時に︑具体的な計画案を作成し︑蒋主席の裁可を
得煙・﹂
一九四二年秋以降︑周群青と程袖型等との接触が頻繁に行われたことは︑周遠海日記の記述からも確認できる︒
例えば︑一九四二年十月十八日の条に︑﹁午後︑程克祥を接見し︑彼を今月中に重慶に行かせ︑全面和平にいささ
かでも貢献することを望む︒重慶との直接交信をするつもりなので︑その交渉をさせるのである﹂という文章があ
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り︑また︑翌四三年五月三日の条に︑﹁程克祥が重慶から来て︑蒋先生及び戴笠との面会経過を報告するが︑中日
間の問題はもはや中日両国では解決できないことであることを密かに思う︒余はかつて中日問題の解決は世界問題
の解決がなされた後︑と言ったことがあるが︑程の報告を聞いてますます余の発言の正しさを確信した﹂という内
容の記述が残されている︒さらに︑四三年五月頃︑馬克祥は重慶から上海に戻った際︑軍統局の命を受けて通信機︑
通信士及び暗号コードを持って帰って来て︑通信基地を設置し︑重慶と直接通信できるよう雪仏海に要求していた
ハハソのも事実である︒
さて︑このような周仏誕の重慶政府との協力関係を証明することは︑前述軍書局が提出した資料の主な内容であ
る︒資料は次のようにつづく︒
﹁その後︑われわれは︑周仏海と連絡をとり︑以下のような工作を展開した︒
第一は︑﹁巨妊﹂を制裁すること︒南京政府の特工総部の責任者李士群は﹁清郷委員会﹂秘書長を兼任し︑
愛国者や重慶側の秘密工作者を暗殺することを最大の任務としていた︒また物資を独占し︑市民の財産をほし
いままに強奪した︒彼はわれわれの抗戦勢力にとって︑実に最大の敵であった︒しかも︑その部下は占領地の
いたるところに勢力を張りめぐらし︑日本側と協力した︒このような状況に鑑み︑四三年四月︑われわれは周
仏海と協議し︑李士群を排除することに決定した︒
周里芋も普段から李士群の行動に反感を持ち︑この行動計画の責任を引き受けた︒数ヶ月間の計画を経て︑
この年の九月九日に︑宴会の機会を利用して︑警士群を毒殺した︒李の死後︑電工総部も求心力を失い︑いわ
ゆる﹁清郷工作﹂も頓挫した︒勇士群を抹消したことは︑南京政府に打撃を与えただけでなく︑日本軍にとつ
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審判記録が語る「漢好裁判」
ても重字であった︒というのは︑書士群は杭州にも無線を設置し︑重慶側の軍事情報を偵察して︑日本軍に提
供していたからである︒
第二は情報を提供することである︒面影海は南京政府と日本側の情報を収集し︑本情報組を経由して︑中央
に報告した︒これらの情報は︑非常に価値のあるものであったことは言うまでもない︒
第三は軍事面での協力である︒南京政府の軍事は︑注兆銘と陳公博に握られていた︒われわれは謀反をおこ
させるためにも︑反撃を行うためにも︑各地における軍の配置状況や︑将校たちの思想状況を把握しなければ
ならなかった︒
四三年冬︑南京情報組の彰寿副区長が重慶へ赴き︑中央との間に︑周裏海を背反工作の中枢に据え︑周鏑を
参謀として派遣し︑周仏海との連絡役をつとめさせることに合意した︒訪仏海も重慶政府の意思に従って︑周
鍋を南京政府軍事委員会の科長に抜擢した︒その後︑南京政府軍に対する工作を展開し︑われわれの反撃に有
利な配置を行った︒例えば︑孫良誠の部隊を北東から蘇北に︑曲面文の部隊を魯南から鮮埠へ配置し直したの
は︑敵軍の京湛線を利用した運送を遮断し︑南京奪回の準備を整うためである︒また︑盲評を第十二軍の軍長
に起用し︑⁝⁝湛乙線沿線に配して︑上海︑杭州奪回の準備を行った︒⁝⁝これら一連の工作は重慶国民政府
軍の反撃に備えた行動であり︑既に四五年度夏までに一応の完成をみた︒
以上の一連の成果は︑軍統局南京区の関係者が努力した結果とは言え︑大局に立って指揮にあたり︑将校た
ちの意志をまとめ︑思想の転換を実現させ︑さらに日本側に察覚されないように各種工作を行った立仏海のカ バレソは︑決して軽く評価できない︒﹂
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ところで︑終戦直後の周馬韓の行動に対する軍統局の評価はさらに高い︒この点に関し︑軍統局が提出した資料 76の大要は次のとおりである︒
﹁日本降伏のニュースを聞いて︑占領地の人民は戦勝気分に酔いしれたが︑治安・軍事状況は一時大混乱に陥
つた︒この局面に対応するために︑中央の指示を仰いで︑周悪業に南京政府軍の指揮権を与え︑中国東南地方
の治安維持に当たらせた︒重慶政府軍事委員会の命令で︑周仏事は上海行動総隊の司令官に就任した︵その後︑
﹁総指揮﹂と改称︶︒
八月中旬から十一月上旬まで︑周仏海は総指揮に在任したが︑その間︑私︵程克祥︶は秘書長汀軍法処長︑
三寿は宣伝処長︑楊慢華は総理処長にそれぞれ就任し︑周仏海に協力した︒その間の最大の成績は以下の通り
である︒
第一は南京︑上海︑杭州︑寧波一帯の治安を維持したこと︒︵中略︶
第二は金融を安定させ︑物価の安定をはかったこと︒日本降伏のニュースが流れると︑上海市場では︑南京
政府の銀行が発行した﹁抽櫛﹂への信頼が失墜し︑︑金融恐慌が発生した︒物価は一日中に数倍もはね上がり︑
治安にも多大の悪影響を与えた︒
ところが︑﹁行動総指揮部﹂が成立すると︑周職歴が日本国と交渉した結果︑日本軍が軍票を回収し︑中央
儲備銀行券がこれに代わって広く流通するようになった︒一方︑中延券の発行総額及び金の準備高を公表した︒
また︑専門家を派遣して︑市場や各業界への指導を行ったため︑物価は急速に安定に向かい︑日本降伏前の三 分の二の水準に至ったのである︒﹂
このように︑軍王地を中心とした重慶政府関係者が︑二仏海を弁護する資料を大量に提出したことは︑
密接な関係を有した周仏海が蒋介石とも特別の関係にあったからに他ならない︒ OO団と
三︑死刑から無期懲役へ
審判記録が語る「漢好裁判」
そもそも︑蒋介石には︑周仏海を死刑に処する意思はなかったと思われる︒
一九四五年九月︑周碧海を上海から重慶に送り込んだ戴笠は周黒海に次のような主旨のことを述べた︒﹁私はい
ま︑蒋介石の命令を受けて︑周仏海に対する保護責任を負っている︒そのため︑周仏海の生命と財産を断固として ド 守る所存であり︑将来必ず行動でこのことを証明したい︒﹂
また︑翌一九四六年六月十五日︑周仏誕の妻・楊淑恵が鄭介民︵戴笠の死後︑軍統局を掌握︑のち国防暗号密局
長︶に会い︑亀戸海の処置問題について︑﹁主骨︵蒋介石︶に報告した︒まだ許可を得ていないが︑恐らく大丈夫 だろう﹂との情報を得た︒また︑鄭から周紅海は裁判所に送り込まれることもないだろうとの確答を得た︒
このことについて︑蒋介石侍従室第一処主任の銭大々も同様のことを述べている︒銭によると︑蒋介石の命令書 れ をこの目でみたという︒
一方︑周仏海の子息︑幼海は周が重慶に呼ばれた理由としてつぎのように観察している︒
﹁先ず考えられるのは︑周は戴笠のために尽力したことは広く知られた事実であったから︑周を逮捕したら︑
戴笠にとって将来人材を起用するのに不利であるという判断があったに違いない︒また︑周仏海が関わってい
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た注政権の軍隊の数は少なくなかった︒特に税警団などは周の直轄下にあった︒注政権の軍隊︑特に熊剣東一 派の動揺を防ぐために︑丹毒は蒋介石の名を借りて︑周温海を重慶に呼び寄せた︒﹂
終戦後︑上海︑南京地域に対する接収がほぼ終わったこの時点では︑周仏海の処置をめぐって︑蒋介石の意志が
如何なるものだったかは︑はっきりしないが︑重慶白公館での生活は︑軟禁状態だったとは言え︑実に優雅なもの
であった︒そこで半年以上父と起居を共にした幼海は次のように回想する︒
﹁臼公館内部での生活は自由であり︑互いに訪問しあうことも出来たし︑歌︑トランプ︑読書︑新聞を読むな
ども許可されていた︒検閲さえ受ければ︑家族との文通も許された︒外出だけは禁止されていた︒食生活は︑
毎食料理八品︑プラススープという豪勢さ︒母は湖南料理も作ってくれた︒春節︵旧正月︶を祝うために二回 ハお も宴会が開催された︒﹂
ただし︑﹁当初重慶入りの目的だった蒋介石会見の話はいつの間にか消えてしまった﹂という文章をみると︑周
仏海の重慶行は軍統局のリーダーである戴笠の謀略だったことも容易に推察できよう︒
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さて︑周仏身裁判の初公判は︑一九四六年十月二十一日午前十時から首都高等法院第一法廷で開かれた︒法廷に
おける周仏身の必死な自己弁護や大量の証言にもかかわらず一九四六年十一月七日の判決公判で︑周は死刑の判決
を言い渡された︒
裁判官が断固として︑周仏海の死刑を変更しなかった理由について︑遠海は次のような回想談を述べている︒
﹁周案を担当する首都裁判所の金事鼎と島蔭組はいずれも重慶から来た著名な裁判官であった︒彼らは周を死
審判記録が語る「漢好裁判」
刑に処すべきだと公言していた︒﹃周は大きな資産家であることは世間に知られているため︑世間ではわれわ
れ裁判官が彼から賄賂を受けているとの噂が流れている︒彼を死刑にしなければ︑世間に対する説明がつかな
い︒しかも︑周豊海は大変な能弁家であるため︑周を死刑に処することは︑唯一彼の理屈を倒す方法である﹄ というのが陳縄組らの弁であった︒﹂
さらに︑陳縄組と面会した幼海は︑つぎのような面会記録を残している︒
﹁ある日︑陳縄組のサイン入りの首都高等裁判所発行の呼出書が私のもとに届いた︒突然のことで喫驚した
私は新聞記者の友人を同行させ︑裁判所の門をくぐった︒私は応接間に案内され︑暫くしてかち陳縄組が現れ︑
意外なことにお茶まで出してくれた︒次は我々のやりとりであった︒
陳︑﹃君はお父さんが死刑に処せられないため︑お母さんと一緒に国民党の要員の家を訪問したりして︑盛
んに走り回っているそうだが︑本当か﹄
私︑﹃軍統に身柄が拘束された頃︑父の問題の解決に支障を来さないために︑父の古い友人に会わないよう
に命ぜられたが︑今は状況が変わってきた︒周学海はすでに裁判所に移送され︑私ももはや過去の約束に制約
される必要がない﹄
陳︑﹃周仏海が死刑を免れられると思う根拠は何か﹄
私︑﹃周仏海が漢妊になった事実は認める︒しかし︑後期になって︑周は抗戦に有益な仕事をしたのも否定
できない︒功罪のあり方を配慮せず︑一概に切捨て御免のようなやり方は司法の精神からかけ離れたものであ
り︑また︑人を使い捨ての道具みたいに扱うのは政治道徳にも反するであろう﹄
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陳︑﹃お母さんは我々の仕事について不満を言っているそうだが⁝﹄
私︑﹃母は人を特定して言っているのではなく︑一般論として︑人の頭を犠牲にするまで名誉を追求する入
はあまりにも司法道徳に欠けていると言っただけで︑陳検察官は考え過ぎないように﹄
陳︑﹃いずれにしても︑お母さんにあまり喋らないように伝えてほしい︒でなければ︑お父さんの問題の解
決に不利になるかも知れない﹄
私︑﹃母のおしゃべりについてはいつも注意しているが︑陳検察官のご親切に感謝する﹄ おね 以上のような対話を終えて私は検察院を後にした︒﹂
ところで︑十一月七日の死刑判決に不服を表明した周仏海事は︑楊淑恵の名義で長文の﹁復刊理由状﹂を作成し︑ ハあソ最高法院に上訴した︒十二月十四日のことであった︒
その後︑一九四七年一月四日頃︑﹁蒋介石は既に周の特赦を許可し︑文官処を経由して︑目下司法院で法律上の ハれ 手続きを開始している︒二週間後に結果に関する発表があるだろう﹂との情報もあったが︑結局は単なる噂に過ぎ
なかった︒この時期の心情について︑周忌海は日記につぎのように書いている︒
﹁第一︑主座は余のことを大事にしょうとする気持ちがあるかも知れぬが︑昨日の午前までははっきりした意
志表示はない︒
第二︑淑恵は余の救出をめぐって︑仁座に進言するように友人に依頼しているにもかかわらず︑昨日の午前
までは進言者は一人も現れていない︒
第三︑本案は政治的な特赦ではなく︑司法の手段で解決された場合︑主座の配慮で︑たとえ死が免かれても︑
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審判記録が語る「漢妊裁判」
無期懲役は避けられるものではなく︑いつ自由の身になれるか︑誠に予知できぬ︒
第四︑敵の陣営に身を置きながら︑危険を冒して抗戦に有益な工作をした気持ちと事実は︑完全に言い伝え ハ り ることができず︑﹃漢好﹄の汚名は未だに洗い落とすことができない︒﹂
さて︑周上海及びその家族のかすかな望みが打ち砕かれたのは︑旧暦の大晦日︑一月二十一日のことであった︒
この日︑最高法院は周仏海の上訴を却下し︑死刑が確定されたのである︒
ところが︑三月二十六日︑国民政府が異例な命令を発表し︑死刑を宣告された周四海は一転無期懲役になったの
である︒この政府令には重要な内容が含まれているので︑左に掲げておこう︒
﹁下血海は懲治漢好条例第二条第一款の罪によって死刑︑終身公権剥奪の刑に処せられた︒しかし該犯人は
敵冠降伏前︑南京︑上海︑杭州地区の地方治安を維持した功績によって特赦を請求してきた︒該犯人は民国三
十年以後しばしば自首を申し入れてきたが︑公式に許されるに至らなかった︒ところが︑三十四年六月十九日
更に軍事委員会調査統計局を通して自首を申し入れ︑実際の行動をもって︑罪を償うと保証した︒これを受け
て同局より犯人に︑もし盟軍が江蘇︑漸江沿岸に上陸する際これに呼応し︑更に敵塁投降前後南京︑上海︑杭
州一帯の秩序を確実に維持し︑人民を塗炭の苦から救うことが出来れば︑功をたてることによって︑罪を償う
機会を与え︑その結果を期待したい︑と通知した︒これらのことにより該犯人は死から免れさせるべきである
とて︑司法院より該犯人は敵冠投降前後︑確かに京泡杭一帯の秩序を維持し人民に塗炭の苦を受けしめず︑社
会の安全に寄与するところ少なからぬことに鑑み︑原判決より死一等減じて無期懲役とするよう調査確認を行
ってきた︒よってここに約黒潮六十八条に基づき犯人周仏海は︑原判決死刑を減じて無期懲役とする︒ここに
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ハお 令す︒﹂
一般的には︑この政府令が出されたのは︑陳立夫と陳重夫の次の蒋介石宛の書簡の役割が大きいとされている︒
すなわち︑
﹁周仏海の件は最高裁の再審を経て︑死刑が確定され︑現在司法行政部の最終確認を待つだけとなった︒とこ
ろが︑終戦一年前からの周仏聖の行動は第二戦鼓の予定計画に沿ったもので︑例えば羅君強を上海市︵秘書︶
長に︑丁三聖を漸江省政府主席に任命し︑南京︑上海︑杭州地域に軍隊の配置を綿密に行ったことによって︑
終戦後江蘇︑早寒両省を共産党に占領されみという事態の発生を未然に防いだ︒些かながらその功績は否定で ソ きない︒蒋先生から直接司法行政部長にお会い戴き︑死刑執行の猶予ないし減刑が実現できれば幸いである︒﹂
ところが︑前述蒋介石の名で出された政府令を検討してみると︑なにか重要な内容が秘められているような感想
をもたざるを得ない︒﹁民国三十年以後しばしば自首を申し入れてきた﹂云々は︑一九四一年頃から重慶政府内に
は︑南京政府との連絡ルートがあったことを認めたようなもので︑徹底抗戦を標榜してきた蒋介石にとって︑あま
り多く語りたくない暗部かも知れない︒そこで︑政府令はこの件に言及した部分をほどほどにして︑話題を一気に
転じたのであろう︒すなわち︑減刑の理由として︑政府令が強調したのは︑日本降伏前後の周仏海の中央政府への
協力であった︒周仏海を介した︑南京政府と重慶政府との間の往来については︑徹底抗戦の象徴的な存在としての
蒋介石にしてみれば︑あまり言及されたくなかったのである︒
しかし︑懸仏海が重慶政府と連絡をとり続けたことは︑もはや裁判を通じて明らかにされた現在︑政府令のなか
ではこの事実をまったく触れないわけにもいかなかった︒政府令のような作文ができたのは︑こうした背景が考え
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審判記録が語る「漢妊裁判」
られるのではないだろうか︒
次に紹介する出来事も︑以上のような推論を証明している︒すなわち︑周仏器の子息幼海は︑周が極刑から無期
懲役をかちとったのは︑隠家が蒋介石直筆の書簡を保管していたからであると︑主張しているのである︒幼海は次
のように回想する︒
﹁一九四七年旧暦新年を前にして︑私は上訴書を司法行政部に送り︑これで家族が平穏な正月を迎えることが
出来るだろうと期待した︒ところが︑思いもよらない事態が起こったのである︒大晦日の午後︑監獄からの通
知が届き︑上訴が却下され︑死刑が確定したという︒当時の国民党の法律によれば︑上訴が却下されて二十四
時間以後︑いつでも銃殺刑の執行が出来る︒恐怖のどん底に落ちたような思いで母は陳方︵蒋介石侍従順に勤
些した蒋の側近︶を訪ねた︒陳方はすでに上訴が却下されたことを知っていた︒母は﹃仏器のことはとうとう
今日のような結果になった︒万が一のことがあった場合に︑私にも対策がある﹄と切り出した︒﹃それはどう
いうことか﹄という陳方の質問に対し母は︑﹃先生は知らないかも知れないが︑一九四三年頃︑蒋先生から周
仏海宛に次のような手紙があった︒君に転向の意のあることを聞き︑実に嬉しく思う︒しばらく敵の陣営内に
残り︑功をたてて罪の埋め合わせをすれば︑君の将来の政治生命は私が絶対に保証するから︑安心してほしい︑
という︒文章の最後に署名の代わりに﹃知名不具﹄とあるが︑蒋先生の筆跡だと周仏様がすぐ分かった︒手紙
は現在︑香港にある銀行の金庫に保存してあ6が︑周仏聖を本当に銃殺する気があれば︑この手紙の公開を覚
悟した上でやってほしい︒真相が世に知られたら︑政治家の道徳と信用が問われることになるので︑この点に
関しては先生の熟慮を期待したい﹄と言明した︒母の性格をよく知っていた陳方から見れば︑母は目的のため
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にどんな手段も辞さないので︑この場合は正面対決を避けた方が上策であろう︒そこで彼は︑﹃蒋先生は早く
から︑雪仏海処刑のことは先生の認可が必要だと言っておられた︒裁判所が周仏海の処刑を行う前に必ず公文
書を持ってくるはずである︒その場合は私がこれを抑えておけば︑万事うまくいく︒明朝私は蒋先生のところ
へ新年の挨拶に出かけるが︑その際︑蒋先生に伝えておくから︑野仏海が殺されないことを私は自分の命を賭
けて保証する︒だから︑今日のところは安心してお正月を迎えなさい﹄と答えた︒陳方の話で母の不安がいさ ハむ さか和らげられ︑陳に感謝の言葉を述べてその日は帰って行った︒﹂
以上のように︑幼海が暴露した蒋介石の直筆の書簡は事実であれば︑政府令にある︑周濫訴の自首が﹁公式に許
されるに至らなかった﹂云々は︑嘘の内容となり︑これは蒋介石のもっとも知られたくない一面でもあったのであ
る︒
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四︑謬斌の死刑執行について
ところで︑周仏海と対照的に︑同じ七七裁判の対象となった謬斌は︑いわゆる﹁霧隠﹂ではなかったにもかかわ
らず︑一番先に裁判にかけられ︑充分な審理も行われないまま︑はやばやと処刑されたのである︒
謬斌は国民党中央執行委員︑黄哺軍官学校教官︑江蘇省民政官庁長などを歴任した人物である︒日中戦争開始後
の一九三八年一月︑日本軍占領下の北平で新民会を組織し︑副会長兼中央指導部長に就任した︒石原莞爾と親交を
結び︑﹁東亜連盟﹂運動を推進した︒南京政府成立後︑膠斌はまず立法院副院長になり︑つづいて考試院副院長に
も就任している︒南京政府に身を置きながら︑重慶政府の欝欝局と連絡を取り始めたのは一九四三年八月であった︒
四五年三月︑纒斌は重慶国民政府の命令を受けて日本を訪問し︑全面和平について当時の小磯内閣と交渉を行っ
た︒南京政府の駐日大使至論の話によると︑芝葺は﹁某氏の親書をかかえて︑全面和平について七ヶ条の条件を日
お 本側に提示した﹂という︒坐上の話を公開した金雄白は︑﹁某氏﹂の名を明らかにしていないが︑これは蒋介石で
あることは︑容易に推測できよう︒
日本敗戦の色が濃くなった四五年三月に︑敢えて全面和平を試みた蒋介石の本音はどこにあるのだろうか︒次の
ような推論はまったく根拠のないものではない︒すなわち︑
﹁蒋介石の胸中は1
一つは辛亥革命の時以来頭山翁が率いる玄洋社には恩義がある︒今回は翁の腹心南部と︑新聞人緒方が石原
審判記録が語る「漢妊裁判」
と組んで︑宮様も動き出した︒玄洋社︑東亜聯盟の民間志士と皇室は信用できる︒
今一つは︑一年以上も前のテヘラン会談である︒カイロに引続く会談に米国は中国を敢えて除いた︒またひ
そかなモスクワ外相会談もある︒いつれも中国を殊さらに拒んだ︒狡猜なソ連を対日戦に引き込むため︑中国
の領土︑権益をソ連に売渡す約束をしたらしいとの情報がある︒正に危機迫るだ︒ソ連と組んだ共産軍に中国
奪われてはならない一
日本の敗戦即中国の内戦である︒現状の米軍の攻勢力から見て勝負は案外早いかも知れない︒厳正にやらせ む よう︒これが蒋介石の肚であったろう︒﹂
ところが︑周仏海の記録によると︑事情はかなり違ってくる︒すなわち︑
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﹁実は謬の日本行きは私も知っていた︒彼の訪日の目的は︑日本軍の中国からの撤兵を促すことであった︒
また︑南京政府を解消し︑顔恵慶をはじめとする在野勢力によって過渡的な地方政府を組織することについて︑
協議するためであった︒この工作には私もかかわったことがある︒いわば︑日本に対する︼大謀略であり︑い
わゆる中央の対日講和ではない︒しかし︑東京で纒斌がどのような説明の仕方をしたかなど︑その詳細は知ら
ない︒ただし︑膠は見せびらかす癖があり︑中央代表の肩書きを称したことで︑自ら災いを招いたかも知れ
な呼﹂
ただし︑纒斌と重慶側との連絡の内容を周智海が全部把握していたとは限らず︑押型が単独のルートで蒋介石の
命令を受けていた証言も多い︒
さて︑マッカーサー司令部に提出された﹁木戸日記﹂には︑謬斌の和平工作についての記述があったため︑東京 ハあソ裁判の証人として膠斌を喚問することが検討されたという︒というのは︑カイロ会議の決定に従えば︑如何なる国
も対日単独講和をしてはならないということが決められた︒蒋介石政府は対外的にはこの謬斌工作を堅く否定し︑ り対内的には謬斌の早期処刑を断行したのは︑こういう背景があったのである︒
このように︑四六年四月二日に逮捕された膠斌は︑早くも五月二十一日に銃声に倒れたのである︒もちろん︑蒋
介石が対日講和の計画を持っていたか否かは︑問われることもなかった︒
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終わりに
審判記録が語る「漢好裁判」
敵国日本の協力者の粛清を目的とした漢妊裁判が多様な側面を持っていたことは︑以上述べたことで︑一応明ら
かになった︒
抗戦1一正義という価値判断は︑被侵略国にとって︑当然の定理であったといえよう︒しかし︑その結果︑多くの
事実が裁判とともに埋没されてしまったこともまた︑事実である︒ある中国の学者はこの裁判の﹁殺人袖口﹂の性
へを格を鋭く指摘している︒
︸方︑周仏海も日記に﹁後方の人々は︑南京政府中︑中央に忠誠を尽くし︑功績を建てた人を抹殺するだけでな
く︑中央自ら派遣した秘密工作員も蔑視の対象とした︒あたかも勝利後︑奥地から現れた者だけが抗戦英雄のよ
︵38>うだ﹂と記している︒
周二野の減刑も︑繧斌の﹁早期処刑﹂も︑終戦直後のこうした雰囲気のもとに起こった現象として捉えることが
できよう︒
︵1︶ 察徳金.李慧賢﹃注精衛偽国民政府記事﹄︵中国社会科学出版社︑一九八二年︶二八一頁︒
︵2︶ ﹁陳公博報告偽組織解散兇暴予糞壷番号免典型匪堅固一農大局初定見分別改編復員呈蒋主席之巧電﹂︵中国国民党中央委員会党
史委員会﹃中華民国重要史料初編−対日抗戦時期﹄第六編︑﹃侃偶組織﹄︵四︶一五五一−一五五二頁︒以下︑﹁侃傷組織﹄と
略す︶︒
︵3︶ 察徳金﹃歴史的怪胎−注精衛国民政府﹄︵広西師範大学出版社︑一九九三年︶二九九頁︒
︵4︶ 南京﹃中央日報﹄︑一九四八年一月六日付︒
︵5︶ ﹁軍統局為周湖海案致首都高等法院函﹂京偵護字四四五一号︑一九四六年十月十一日目南京市電豊漁編﹃審訊注偽三好筆録﹄
上巻︑江蘇古籍出版社︑一九九二年︑一四五−一四八頁︒以下︑﹃筆録﹄と略称する︒︶
︵6︶ 察徳金編︑村田忠禧.劉 傑点訳﹃二仏海日記﹄︵みすず童下名︑一九九二年︶一九四〇年一月一七日置条︒
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ハ ハ 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8 7
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隻覆肇留撰團禺委駅鶉鶉鶉留駅鶉奪鶉鶉禺禺
前掲︑﹃周仏海日記﹄一九四〇年四月二十日の条︒ 前掲︑﹃筆録﹄一六八⊥六九頁︒ 同前︑一九四〇年二月二四日の条︒ 同前︑一九四〇年二月一二日の条︒﹁程克祥等関予周仏星占発生関係及工作経過皇軍統三廻﹂
公安部梢案館編
同前︑
同前︒
周幼海量︑二二毛編︑劉 雪盲﹁わが父周仏海−注兆銘政権秘話﹂︵﹃中央公論﹄一九九〇年七月号︶二九三頁︒
同前︒
周之友﹁周仏海浮沈録﹂︵干文編﹃大漢好伝奇﹄︑団結出版社︑一九九四年︶九一頁︒
前掲︑﹁わが父周仏海一注兆銘政権秘話﹂二九五−二九六頁︒
長文の﹁理由状﹂は︑﹁甲︑事実誤認に関する部分︑乙︑自首に関する部分︑丙︑抗戦協力に関する部分︑丁︑人民に有利な
行動に関する部分︑戊︑日本降伏後︑東南方面の治安を維持し︑金融安定の維持などに関する部分︒己︑初判の裁量の不当に関
する部分︑等から構成されている︵前掲﹃筆録﹄二五丁二六七頁︶︒
︵27︶ 前掲︑﹃周仏海獄中日記﹄一九四七年一月四日の条︒ 一九四六年九月︵前掲﹃筆録﹄二四三頁︒︶﹃周仏海日記﹄一九四〇年九月十五日の条︒一九四〇年十月十二日の条︒一九四〇年十二月八日の条︒﹃筆録﹄二四三頁︒﹃周仏海日記﹄ 一九四三年五月九日の条︒﹁縮充祥等関関周仏海等発生関係及工作経過致二百局呈﹂一九四六年九月︵前掲﹃筆録﹄二四二−二四四頁︒V二四五−二四六頁︒ ﹃周仏心獄中日記﹄︵中国文史出版社︑一九九一年︶一九四七年一月二十日の条︒
一九四七年一月十六日の条︒
88
ハ
38 37 36 35
) ) ) )
34 33 32 31 30 29 28
) ) ) ) ) ) )
同前︑ 一九四七年︼月二十九日の条︒
前掲︑﹁わが父周仏海一注兆銘政権秘話﹂三〇〇頁︒
同前︑二九九−三〇〇頁︒
同前︑二九九頁︒
金雄白﹃注政権実録﹄下集︵香港春秋雑誌社︑一九六一年︶一五一頁︒
横山鎮三﹃﹁纒斌工作﹂ナラズ﹄︵展転社︑︸九九二年︶一〇一頁︒
前掲︑﹃周仏海獄中日記﹄一九四七年一月七日の条︒
前掲︑﹃﹁謬斌工作﹂ナラズ﹄一四七頁︒
前掲︑﹃注政権実録﹄一五二−一五三頁︒
張雲﹁注偽政権的覆滅与漢好的審判﹂︵﹃注精衛漢好政権的興亡﹄復旦大学出版社︑一九八七年︶四七三頁︒
前掲︑﹃周仏海獄中日記﹄一九四七年一月四日の条︒
審判記録が語る「漢好裁判」
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