認識・言語・社会 : Wallonにおける「社会」の意 義
その他のタイトル Cognition/Language/Society : The meaning of
"society? in Wallon's theory
著者 沢登 正枝
雑誌名 教育科学セミナリー
巻 2
ページ 36‑46
発行年 1973‑03‑15
URL http://hdl.handle.net/10112/00019586
認 識 ・ 言 語 ー ・ 社 会
‑Wallon
に お け る 「 社 会 」 の 意 義 ―澤 登 正 枝*
目 次
I. 問題の所在
]I. 認識の歴史的発展過程
‑Wallonと文化人類学一一 ][. 子どもの認識の発達過程
‑WallonとPiaget
― ―
IV. 思考と言語の関係
‑WallonとVigotsky
― ―
V. おわりに
I
問 題 の 所 在哲学史をひもとくとき,われわれはそれが唯 物論と観念論の闘争を軸として展開しているの を見るであろう。論争の焦点,あるいは「問題」
は各時代によって異なるが,この論争の軌跡を たどっていくと,逆に,各時代の唯物論がどこ にその弱点をもっていたかがわかる。寺沢恒信 氏1) によると,存在論—自然的存在や社会的
(歴史的)存在の領域一ーにおいて,唯物論的 見解の正しさが科学的に証明された今,観念論 に残された砦は「認識論」の領域のみである。
「認識論は,現在,唯物論者と観念論者との理 論的対決が, もっとも激しくおこなわれてい る,また,おこなわるべき,一つの『戦場」で ある。」 3)その証拠として,現在の最も新しい 衣裳をまとった観念論である論理実証主義やプ ラグマティズムがとくに「真理論」や「科学 論」に力を入れ,この分野で唯物論を論破した
• 関西大学文学部副手
と称している。真理論や科学論は認識論の領域 に含まれる。それは,真理とは何か?科学の本質 とは何か?科学は実践にとっていかなる意義を もつか?などという真理論・科学論の基本的諸 問題の解決は,認識の本質は何か?認識と実践 との相互散
l
係如何というような認識論の基本的 問題の解決に依存していると考えられるからで ある。事態がこのようであるとき,弁証法的唯物論 をその立場としてとるものがまず果たさなけれ ばならない仕事は,認識論の領域における唯物 論的見解の正しさを万人に納得されるようなか たちで一屈説得的に示すことであろう。この方 法として寺沢氏は次の三つの方法をあげておら れる。
(1) 弁証法的唯物論の立場での認識論の体系 を仕上げること
(2) 論理実証主義やプラグマティズムなどの 主張を批判し,これらの立場からの閻題 の解決が,けっして本当の解決でなく完 全に破綻したものであることを示すこと (3) この課題に歴史的に迫ること,つまり認
識論史を叙述すること
私は,以上の三つの方法のほかに更にもう一 つの途があるのではないかと考える。それは弁 証法的唯物論の立場から,人間の認識的側面に 迫まり,そこから「実証的」データーを得,この データーを粕み重ねることによって,認識の理
‑ 36‑
論を構築することである。これは,あるいは(1) の方法に含まれることになるかも知れない。し
...
かし,哲学者寺沢氏はおそらくこれを「哲学の 方法」でおこなわれるつもりであろう。心理学 の研究を志すものの1人として,私はこれを心 理学の方法でおこないたいと息うのである。心 理学は実証科学であり,実証科学における理論,
学説,体系の真偽は,常に.実験等によって得 られた実証的データーによって論証される。認 識論に関する論争が方法論上従来の哲学の領分 に留まる限り,相変らずの甲論乙駁の果てしな い泥沼論争がつづくであろう。もしも,認識論 の論証に心理学的方法(実証科学的方法)を持 ちこむことによって,認識論が哲学理論の範疇 を越えたとしても,何ら悲しむべきことではな い。思えば,哲学は諸科学をその傘下から次々 と独立させ続けてきた。そろそろ認識の理論が 新しい実証科学として独立することが科学史の 日程にのぼってもいい頃ではないか。そして,
その時には心理学とは「科学的認識論」のもう 一つの名前になっているのではないだろうか。
問題意識をより明確にし,問題を煮つめるた めにも過去の心理学が認識の問題にとり組んだ 軌跡を追求することが.まず.必要であろう。
この小論においては.
(1) 次節で,思考心理学史を概観し.その対 象は最初は人間の「概念的思考」のレベ ルでの問題であったのが,ゲシュタルト 心理学の出現に及んで,思考の根を動物 界にまでひき下げたところから,認識を 系統発生的に追求しようとする動きが起 こり,人類の起源から認識の発展過程を 追跡しようとする試みがおこなわれるに いたった経過を見る。この節の中心は,
従来の文化人類学者の諸説に対する
Wa‑
Uon
の理論のユニークさの指摘である。(2) 第皿節においては.一方で認識の発生的 なアプローチの一つとして子どもの認識 過程が追求されるようになった経過をた どる。この領域におけるすぐれた業績は 自ら「発生的認識論」
C L ' e p i s t e m o l o g i e g e n e t i q u e )
を構築したP i a g e t
と,前 述のWallon
のものであろう。この二人の相対立する学説を紹介し,こ の学説の迩いのよってきたるところは,
この両者の言語と思考の「関係」の考え 方にあるとし,
(3) 第1V節で,言語と思考に関する学説を追 って
V i g o t s k y
に至り,彼および条件反 射学説とWallon
の対立点を明確にす る。(4) 最後に,
Wallon
の考え方の特質を整理 し,次の論文への問題提起をして終りた いと思う。I l
認 識 の 歴 史 的 発 展 過 程‑Wallon
と文化人類学_心理学において,認識の問題はまず「思考」
(概念的思考)の問題として取りあげられた。
イギリス連合学派は,
A r i s t o t e l e s
の思考法 則から導き出された思考活動の三要素たる,概 念,判断,推理等は過去の感性的経験を素材と して連合によって作られるとしたため,思考は「再生産的
( r e p r o d u c t i v e )
」なものとなった。これを受けついだのがドイツのヴュルップルグ 学派であるが,この派は別名「思考心理学派」4)
とも呼ばれる通り,思考の解明をもっぱらにし たといえようが,ここでも上記の思考の三要素 は疑われたことがなく,ただ心像等の感性的経 験を含まない思考が存在するという問題,すな
‑37‑
わち「無心像思考
( i m a g e l e s s t h o u g h t )
」が あつかわれたにすぎなかった。この派はK a r l B u h l e r
において,その理論的最高水準に達するが, これにつづく
S e l z
において,ついに,この派の理論的限界を越えることとなる。彼は
「予見的図式」の説によって初めて「生産的思 考
( P r o d u c t i v et h i n k i n g )
」の問題をとりあ げたが,これは後のゲシュタルト学派への橋渡 しとなり,生産的思考なる概念は, ゲシュタ ルト学派の思考に関する理論の中心的概念とな り,最初は動物の思考を追究する研究より導き 出された「洞察」や「場の中心転換」などの概 念が人間の思考の問題へも適用されるに至る。一方,
B e r g s o n
の工作人(ホモ・ファーベ ル)の「職人的知能」の概念にその渕源をもっ と考えられる「感覚運動的知能」または「実用 的知能」の概念が主としてフランスにおいて発 展せしめられた。5) これは「概念的思考」ある いはそれに関与する「論理的知能」のように具 体的事物に抽象的概念を適用するのではなく,外界の事象に動作や行動を知的に適用するとい うことによって特徴づけられており,高等動物 や幼児に認められ,また成人にも存在する。
以上の二つの契機によって認識を系統発生的 に追求しようとする試みが企てられるようにな った。思考の根が動物の世界にまで降ろされた ことは,当然,人類の誕生時から認識の発展過 程を歴史的に見ていこうとする努力をよびおこ す。
この課題は主として文化人類学の守備範囲に 属するものであったが,心理学者
Wallon
は, 文化人類学の既成の学説に反対して,独創的で ありかつ一層説得力のある仮説を展開した。6)Wallon
はB l o n e d l ,S .
ゃL e v y ‑ B r u h l ,L .
を批 判することからはじめ,彼らが,原始人の現実に対する実践的な働きかけこそ,後に科学・技 術を生んだものであり,原始人の生活を大きく 規制しているかに見える魔術や神話・儀式の体 系は次第に前者によって克服されてきた,とい うのに反対した。
Wallon
は,実践的行為がい くら適切であろうとも,それはその状況に適応 した, いわば「場面の知能」7)と等しい役割を 果たす行為であって,現実の状況に束縛され,直接的・経験的所与にしばられているのに対し,
神話と儀式こそが後の科学に発展したもので ある,なんとなれば「神話と儀式」および「科 学」は共に「原因の世界」を対象とする,つま り世界を動かす眼に見えない「原因の世界」を 探ろうとする努力であって,イデオロギーの用 具や技術の相違こそあれ,共に同じ役割を果 たすものであるとした。更に
Wallon
は,この 神話と儀式の系列の上に表象,シンボルが出現 し「推論的知能」8)が出現する過程を推論した。「儀式と神話は,事物の過程を説明し,それ を支配しようとする努力であるという性格と儀 式化された模倣または模擬の総体であるという 性格との二重性をもっている。つまり,儀式と 神話はそれ自体が表象と模倣との関係をあらわ しているのである。そして,儀式と神話は,存 在するものと,それを存在させているもの,す なわち,事物を変化させ支配するにはそこに働 きかけるべきものとを区別することによって思 考をなまの知覚から解放するのである。」8)
儀式において,事物はなまの事物そのものと してとらえられるのではなくその集団の必要に 応じて,その必要とする側面においてとらえら れる。これは一種の「社会的抽象物」であり,
これが社会的実在の記号となり,ここに表象が
. .
生じるが「この段階では,表象は事物の模写で はなくて,社会的な平面でその事物を再生産す
‑38‑
.
.
るための行動にほかならないとともに,集団全
体が儀式化された情動を表現するための言語で ある。この段階の意識の形態にあっては,行動 と他者にたいする呼びかけの言語とシンボルと しての言語とがまだまじりあっている」。そし て儀式から技術への移行がおこなわれたとき,
はじめて,このまじりあった状態からシンボル としての言語が独立し,表象が行動から独立し,
推論的(反省的)知能が確立する。この移行過 程はそれぞれ,からみあいながら発展する。技 術の最初の形態である儀式と科学の最初の形態 である神話とは,一方ではそれぞれ技術や科学 と対立しながら,歴史と社会の複雑な弁証法的 発展過程を通じて,技術や科学へと発展する。
技術的活動が現実の事物そのものを考慮しなけ ればならなくなったとき,儀式と神話における 神秘的表象が止揚され,シンボルが発展し,表 象が事物の反映となり,表象の面で働く知能,
すなわち推論的知能が確立する。表象とシンボ ルは歴史的発展過程を通じてのみ成立し発展す るものである。子どもは自己の所属する一定の 発展段階にある社会からシンボルをうけとり,
それを用いることを強いられ,自己の意識を形 成していく。
このように
Wallon
は,人類史的な規模での 認識の形成過程を歴史的に追求して,表象の成 立,したがって,言語と意識および思考の発生 と生成の過程は社会生活を基盤としてなされる ものであること,言語と思考はその本質におい て,まさに社会的なものであることを論証した。この大胆な仮説は,われわれが「思考と言語」
の問題を考えていくとき,はかりしれないほど の有益な示唆を与えてくれるであろう。思弁的 方法に多く頼らざるをえなかったことは対象の 性格上やむをえぬことである。
しかしながら発生的見地からのアプローチを 適用する対象にもう一つのものがある。それは 子どもである。この対象に対する個体発生的見 地からの追求においてこそ,前の場合のように 主として思弁的方法によらずとも実証的データ ーがえられること,発達の過程を直接観察でき ることなど,発生的)J法の方法論的特質を最大 限有効に活用できるのである。
皿
子 ど も の 認 識 の 発 達 過 程‑Wallon
とP i a g e t ― ―
子どもにおける認識の発生と生成の過程を発 生的方法によって追求した業績の中で最高のも のはやはり
Wallon
とP i a g e t
のものであろう。(ソビエトの研究者たちも,常に「発達」の視 点から研究をおこなっているといわれるが,こ れについては次節で触れる)。しかしながら,こ の両者の認識の理論には「決定的」な対立点が 存在する。それは,お互いの認識の理論の構成 にとって中心的位置を占める「実際的知能」と
「概念的知能」との関係が,この両者において 全く異なるからである。10)
P i a g e t
によると, 言語や記号が関与しない 知的な働きである「感覚運動的知能」と,言語 と表象の面で働く「概念的知能」との関係は次 のようになる。まず,後者の位置は子どもの外 界への適応の運動から直接導き出された前者の 直線的延長上に措定される。前者から後者への 移行は, 「速度の増加」 「意識化」 「距離の拡 大」11)という三条件が充たされたときにおこな われ,概念的知能は自らを完成するためには,感覚運動的知能が行動の面で経過しなければな らなかった過程を,表象の面ではじめからもう 一度繰りかえさなければならない。
他方,
Wallon
にとっては,「場面の知能」と‑39‑
「推論的知能」の関係は,後者の発生基盤をす っかり前者に還元できるというような性質の連 続関係にあるのではない。
Wallon
の場面の知 能は,文字通り場面(状況)に結びついた知能 であり,利用される状況や,つくりだされる結 果のなかで,完全に費い果たされてしまう。つ まり,この知能を現実の場面に結びつけている 体系は事物そのものであり,それ自身の結果が でることによってその体系は消えて無くなって しまうのである。これらの直接にはっきりした 結果こそが,この知能の唯一の「意味」なので ある。この知能は決して認識にまで到達するこ とはありえないのである。これに対して推論的 知能は,個人が現実を表象することを可能にす る知能であって,その欠くべからざる基盤とし て言語をもっている。この知能は表象とシンボ ルのうえで表象の手段によってはたらき,行為 をその構成要素において見きわめ,結果を一定 の対象の標式的性質において見きわめるのであ る。この知能が言葉にもとづいているというこ とは,その不可欠の母胎として「社会」がある ということであり,長い人類史の発展を考えた とき,この知能はきわめて遠い昔の文明以来,表象やシンボルという素材が仕上げられたのち に出現したものである。だからこれは実際的知 能(場面の知能)の結果からでてきたものではな い。これら二つの知能は根本的に異なるそれぞ れの根源と条件をもち,人間の対象的活動とい う側面では統一されながら,正反対の方向をも ち,対立しあい,拮抗しあっているのである。
このように,
Wallon
とP i a g e t
の認識理論 の中核をなすこの二つの知能の発生と発達に関 する見方が全く異なることが,これらの知能を 軸として構築される両者の認識理論が全く異な る理由であるが,これは,両者の言語に対する考え方のちがいからくる。この二人の二つの知 能観の差異となった鍵は「言語」であった。
P i a g e t
は子どもが概念的知能のレベルに達 してからの第1段階として措定した「象徴的か つ前概念的思考」の段階にある子どもの思考は その当時の子どもの言語レベルによって大きく 規制されるとはいいながら,感覚運動的知能から概念的知能への移行に際して,言語に何ら本 質的役割を果たさせていないのである。 (前掲 の「移行の三条件」等)
P i a g e t
による子どもの言語獲得過程を見る ならば子どもが感覚連動的知能の時代の最終段 階(第6段階)に到達したとき,知覚活動に特 有のシェマの調節作用の延長の結果,内面的模 倣である精神的心像つまり表象があらわれる。これは延滞模倣やシンボル的アソビが出現する ことによって確認される。象徴そのものは,自 分自身の活動からはなれた表象をもつときにの みはじまる。表象が形成されるようになって,
はじめてシンボル機能が形成される。このシン ボル機能が存在するということが,言語の組織 的習得の前提である。シンボル機能の特性は
「能記」の媒介によって,現実を表象
( r e p r e ‑ s e n t a t i o n
ー再現ー)することである。 シンボ ルにおいては記号づけるものとしての「能記」と記号づけられるものである「所記」との関係 が類似しており,個人だけで完成されうるもの であり,いわば個人的能記体系であるのに対し て,記号(=言葉)においては能記と所記の関 係はコンベンショナル(約定的)なものであ り,したがって慣習にもとづくものである。っ まり,それがつくられるには社会生活が必要と なる。したがって言語を「集団的能記体系」と 呼ぶことができる。このような集団的能記体系
(言語)は,シンボル機能(あるものを別のも
‑ 40‑
のによって表象する機能)の完成をまって習得 されるのである。
このように,
P i a g e t
においては, 純粋に運 動機能から導き出されたシンボル機能の完成の 上に言語は習得されるのであるから, シンボル 機能の形成は言語とは(従って社会とも)全く 関係のない場所でおこなわれ. したがって,先 にも述べたように,感覚運動的知能から概念的 知能への移行に言語は何ら本質的役割を果たし ていないということの一層の証左となる。「•…・・ビアジエは,言語の思考に対する大き
. . . . . .
い貢献力は認めながらも, その学問体系では,
. . . . . . . . .
言語を副次的な位置におき, その役割をあえて 捨象しているともうかがえるのである。 これ は,生物学的観点から出発したかれの剥心が,
知的操作そのものの体制化過程にあったことか らすれば当然であり,また思考構造の成長のス
.. ケルトンをみごとに描きだしたビアジエの成功
. . . . . . . . . . . . . . . .
の秘訣も,かれが複雑な言語とのかかわりあい
. . . . . . . .
をあえて捨象して理論を構成した点にあるとも いえるのである」 (傍点は引用者)とは,岡本 夏木氏のことば12)であるが,思考にとっての 言語を一ーそれも,表象や記号を操作する概念
. . .
的思考の段階においてすらも一一あえて捨象し ても, ひたすらに理論的整合性を追求すること の当否をここで議論するのは差し控えるとして も, このことばは
P i a g e t
の言語観, ひいては 思考に対する考え方を,最も 象徴的 に表わ したことばである。そして,一見, みごとにと とのったP i a g e t
の認識理論の体系の根本的欠 陥もここに存在する。Wallon
においては,子どもは誕生後自然環 境に直接依存するのではなく, 周囲の人びと(社会的環境)に依存するのである。彼ば情動 を表現することによってのみ,自分の自然的要
求を充たすことができる。つまり子どもはまず 周囲の人びととの緊密な交わりからはじめるの である。そして子どもは, この情動によって人 びとと出合うことによって自分自身と出合う,
つまり意識の源泉ば情動における社会性にある のである。
そして,
P i a g e t
が,子どもはまず物理的環 境に立ちむかうといったのとは逆に,彼が物理 的世界へむかうのは, 自分の巡動から生ずる感 覚を発見し, それを再生産するようになって,情 動 的 段 階 を 脱 し て か ら で あ る 。 そして,
Wallon
が「投影的段階」と呼ぶ段階に至り,他人に対する感覚・姿剪的融即と姿勢・動作的 仕上げが交替に生ずるようになり,行為の動機 と行為そのものが比較され,行為と手本が区別 され,純粋の活動面と表象面とが対立し,本来 の意味での模倣が成立する。
このようにして,子どもは実在的なものとシ ンボルとを区別し, そのシンボルのなかに実在 的なものの等価物が見いだされるようになった とき, すなわち模倣から表象が成立したとき に,動物と根本的に区別される人間的意識を作 り出す。そして, シンボル(言語を含む)は,
子どもの生存する社会に充満しているものであ り,子どもは一定の発展段階にある文明をもっ た社会からシンボルを受けとり, それを用いる ことを強いられ, そういうことを通じて,表象 を対象とする能力を育成され, 意識生活に入 る。表象は言語のシンボル機能を利用するだけ でなく, それ自身一定の水準の言語でもあり,
シンボル機能なのである。こうして意識の中に 入りこんだシンボル(言語)は社会に源をもつ ゆえに,個人の意識に集団的伝統の枠組と構造 とを与えるのである。
P i a g e t
のこの点での言語に対する軽視と.‑ 41 ‑
シンボルの使用や思考の表現のような能力(概 念的知能)を運動機能というまった<個人的な 要因に還元したことと,言語使用の能力が迎動 的機能から直接的・無媒介的に諒き出せるとす ることは,すべて個人を限界とし,個人のなか に意識の非個性的な発視を見ていること,更
. .
に,子どもはまずもっぱら自然と関係し,後に
. . . . . . . . . . . . . . .
なってやっと社会生活を発見する(子どもの自 己中心性)ということばに要約される彼の根本 的主張—-
P i a g e t
の 「 思 想 的 立 場 」 _ に 婦 着する。Wallon
にいわしめるとこれは, 「ま さに要因の順序がさかさまである。」というこ とになる。G o l d m a n ,L .
は歴史の研究におけ る唯物弁証法的分析とP i a g e t
の心理学とが一 致すると説き,彼はいわば無祝されているマル クス主義者だと評価したが13) 彼の方法論およ びその思想的立場は,およそ弁証法的でもなけ ればマルクス主義とは何の捌係もない。P i a g e t
とWallon
の対決は,思考の基盤をど こに求めるのか,個人的な運動機能の中にか,或いは言語およびそれを生み出した社会の中に かというところでおこなわれた。このことは一 方では両者の思考に対する言語の役割に関する 見解の差異として現象する。
次に,この「言語と思考」の関係を他の研究 者たちはどのように考えているのであろうか,
なかんづ<,
Wallon
と同じ思想的立場ー一弁 証法的唯物論一~をとっていると考えられるソ ビエトの研究者たちに閲してはどうかという問 題を追求する。I V
思 考 と 言 語 の 関 係‑Wallon
とV i g o t s k y ― ―
心理学者としてはじめてこの問題を自己の研 究テーマの中心に据え,この問題の組織的解明
にとり組んだ人は,
V i g o t s k y ,
L.S .
であった。彼によると従来思考と言語の関係について,さ まざまの学説が提唱されてきたが,それらは大 別すると次の二つの正反対の立場に分かれると いう。14)
一つは,思考と言語を完全に同一の過程とす る立場で,古代からはじまり,その極端な考え 方は,思考は「言語マイナス音」だという行動 主義の理論に代表されるのであるが,この立場 からは,思想と言葉が一致するのであるから,
それらのあいだにはどのような関係も生じえな い。物の物そのものに対する関係が考えられな い如く,問題は解決されるどころか回避されて しまう。
第二の立場は,思考と言語の独立性に関する 観念を発展させている学説であって,この考え 方は「言語とは思考の衣裳である」といった言 語学者
J o h n s o n , S .
ゃ,思想を言葉をふくめた あらゆる感情的なものから解放し,思想と言葉 とのあいだの関連を純粋に外的な関連として見 ようとするヴュルッブルグ学派に代表される。この立場は,思考と言語の関係を考えるうえで は,先の立場よりもましではあるが,これらの 研究者たちは,言語とは無関係な思考そのもの の純粋な本性15), および思考とは無関係な言 語そのものを研究し,これらのあいだの関連に ついては,二つの異なる過程のあいだの純粋に 外的な機械的関述としてとらえている。この立 場の人たちは,ともかくも思考と言語とのあい だの関係を提起しうるという長所をもつが,反 面その弱点は,問題のたて方そのものがはじめ から間違っており,問題の正しい解決の可能性 をいっさい失っているところにある。思考と言 語という統一的全体を二つの要索に分解したた め,彼らの採用する方法は,思想と言葉のあい
‑42‑
だの内面的関係の研究を不可能にしたのであっ た。
V i g o t s k y
は,思考と言語の「内面的関辿」を明らかにするため次のような仮説をたてた。
すなわち,思考と言語は系統発生的にも個体発 生的にも全く異った渕源をもち,全く異った経 過をたどって発達する。これは,思考における
「前言語的段階」であり,言語における「前知 能的段階」である。人間においては,この二つ の路線がある時点で交差し,それ以後,思考は 言語的となり,言語は知能的となるのである。
ただし,この両者は完全に重なり合うのではな く,一部分重なりあう二つの円の重複した部分 が言語的思考であり,非言語的思考,あるいは 非思考的言語の領域はそれぞれ残る。
では,交差して以来の思考と言語, すなわ ち,言語的思考のレベルにおける思考と言語の 関係はどのようになっているのであろうか,
V i g o t s k y
のいう思考と言語の内的関辿という のはどういうことなのであろうか。彼にとって,言語の内的側面というのはその
「意味」のことであり,思考と言語の内的関連 というのは,この意味のなかにおいて,思考と 言語がその結び目をつくっているということで る。言語的思考の最少の単位はその意味であ って,まず言葉は「ある一つの個々の対象にで はなく,対象の全グループ,あるいは対象の全 クラスに関係する」が,これは既に「一般化」
のことであり,ゆえに言葉の意味は,まず,も のごとの一般化にある。しかし一般化というの は「きわめて言語的な思考活動であり,直接的 な感覚や知覚に現実が反映されるのとは全くち がったしかたで現実を反映する」。また,一方 思考は「現実を直接的感覚とは質的に異なった しかたで意識に反映する」。これは,まさに現
実の一般的反映である。それゆえに,言葉の意 味,すなわち言葉の一般化は,本来の意味にお ける思考活動そのものにほかならない。
この言語の内的側面からみた思考との関係に 加えて,彼は角度をかえて,言語の相的側面に おける言語と思考の関係を追求している。これ が,彼の有名な「外言ー自己中心的言語ー内 言」の定式化であって,言語本来の機能(これ は系統発生的にも,個体発生的にも,発生的に先 行するという意味も含まれている)であるコミ
ュニケーションの機能をもっぱら担当する外言 が,自己中心的言語を経て内言に転化するとい うことである。外言の機能はもっぱら社会的適 応のためのものであり,内言の機能は個人的適 応のためのものである。自己中心的言語は,相 的には外言であるが,その機能においては内言 である。すなわち,内在化しない前の内言であ
ると考えられる。 「内言は,大部分,純粋な意 味による思考であり……われわれの研究してい る言語的思考のより公式的な変わらぬ両極—
コトバと思想—とのあいだをちらつく,動的 な変わりやすい流動的モーメントである。」
しかし,内言はすっかりそのまま思考なので はない。思考は内言よりもさらに内的な局面を もつ。思想の流れは,言語表現の同時的な展開 を伴っていない。思考においては,その内容が 一挙に現前し,言語においては継時的に展開す るというちがいがあり,その移行を支えるのが
「意味」であるとし,彼は相的側面からも意味 にアプローチしている。意味は彼の言語理論の かなめになっている。
彼の体系は,われわれが言語と思考の関係を 考えていこうとするとき,いくつかの有益な示 唆を与えてはくれるが,彼の仮説は必ずしも充 分な実証的データーによって裏付けられたわけ
‑43‑
ではない。自己中心的言語の機能に関してはい くらかの実験データーはあるが,その他の問題 に関しては,たとえば内言の分析に関しては,
「アンナ・カレーニナ」におけるキティとレー ヴィンの会話を引用する16)などしている。
彼自身,思考と言語の関係に関する彼の研究 法として「『意味論的分析の方法』,「言語の意味 的側面の分析の方法』以外ではありえない」17)
と述べているだけで,この方法に基いた具体的 研究あるいは実証的データーを残していない。
これは, 彼のことばをそのままくりかえすと
「すでに問題のたてかたそのものが間違ってい た」のであって,思考と言語の関係をこのよう に静的に横断面でとらえようとしたからであ る。思考と言語の関係の研究は,既に見てきた ように
Wallon
やP i a g e t
のやり方,すなわち「発生的」方法によらない限り,きわめて不毛 な結果しかもたらさない。彼のこの側面に関す る問題は彼の後継者たちによってさらに発展さ せられたようには思われない。
しかしながら,このことは彼に対する批判の 主たるものではない。彼の理論の根本的誤謬18)
は,彼自身, 以前,
P i a g e t
の「子どもの自己 中心性( e g o ‑ c e n t r i s m )
」の概念を批判して,正しくも, 「子どもの思考の発達過程の真の運 動は,個人的なものから社会化されたものへで なく, 社会的なものから個人的なものへと進 む」 19) といったにもかかわらず,言語と思考 を分離するという立場をとったため,言語と思 考の発生と形成における唯一の固有な社会的性 格を見ることができず,言語的思考を「実際的 知能」に還元してしまったということである。
これは,彼と
P i a g e t
とのお互いの思想的立場(少くとも
V i g o t s k y
は,マルクス主義者の筈 であった)の違いにかかわらず,同一の自然主義的適応説へ堕するという誤りであった。
このことは当然の帰結として,彼の後継者た ちに
P a v l o v
の条件反射理論に対する過大評価 を許るすこととなる。今日のマルクス主義の認識論は,条件反射理 論を基礎にして認識を捉えようとする傾向にあ る。条件反射理論が,意識と思考の生理学的基 礎を科学的に追求し,心理過程を唯物論的にあ きらかにするうえで大きな意義をもつているこ とは明白である。しかし意識と思考は,また今 まで見てきたように,単なる生理学的基盤に解 消出来ない側面をもっていることも事実であ る。条件反射理論は,自然的・生理学的な個体 にかかわるものであるが,人間の意識はそれと は水準の異なる現実性をもつ。このような条件 反射理論にのみもとづいて,思考や認識をとら えようとすれば,意識・思考・認識は生物学的 個体における生理的・心理的過程に還元されて しまい,社会的過程としてはとらえられず,社 会性という本質においてはとらえられない。20)
Wallon
はP a v l o v
やその弟子たちの実験を 分析し,条件反射と知的行為との間の類似と関 係は,大脳皮質の共通性と働きの類似性による ものであって,反射のメカニズムに帰せられな いことを明らかにした。そして「条件反射とい う手段で最初の精神的結合を説明することは,機械論的傾向である。」と指摘した。21)
また,言語に関する基礎理論として,条件反 射理論は「第II信号系」の理論をもっている。
これによって思考における言語の意義を示して いる点では,意識の基盤である社会性を射程に 入れていることにはなるのだが,この第II信号 系の理論を,まさに言語の本性を解明したもの であるとし,言語を信号という刺激と反応のレ ベルのカテゴリーにおいてとらえているのは誤
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りである。言語は個人の純粋な経験に依拠して 単に対象の存在を主観に報告するような信号で はないのであって,その基盤に社会をもつ公的 なシンボルなのである。生理学としての第II信 号系の理論がシンボルをも信号のレベルでとら えることは非難すべきことではないが,第II信 号系の理論によってただちに言語や思考を説明 しようとすることは,シンボルや記号の独自性 を無視して.それらを生理的信号のレベルに引
き下げることになる。
本来,条件反射理論は,狭い生理学的基盤の 中で.生理学的事実を基礎にして出発した生理 学の理論であったものが,認識や言語の基礎理 論にまで拡張されるようになった。これは過去 の多くの秀れた「理論」の陥った通弊であって 一視知覚から出発したゲシュクルト理論やヒ ステリーの治療から出発した
Freud
の理論な どのように一ーそれが基礎づけられたわずか な「事実」を越えて適用されることからおこる悲劇 である。
先に思想的立場のちがう
P i a g e t
とV i g o t s k y
が共に同じような生物主義的誤りをおかしたことを指摘したが, これは,
V i g o t s k y
が条件反射理論にもとづくところの「人間を自然的•生 理学的個体として捉えて,その個体が状況に反 応する能力の延長上に意識や思考が成立すると みなす構想」 22) に依拠したことからくる当然 の帰結であった。
V おわリに
人類という種に特徴的な思考,すなわち人 間的思考を支えているのは推論的知能である が,
Wallon
は,この言語にもとづく知能が,P i a g e t
が考えたように実際的知能から直接導 き出されるものではなくて,その不可欠の基盤として「社会」をもつことを明らかにした。
Wallon
は,この知能を支える表象やシンボ ル(言語は純化されたシンボル)23)の成立過程 に系統発生と個体発生の両側面から迫まり,表 象やシンボルは,系統発生的にも個体発生的に も,社会生活を通じて,ただ社会生活によって のみ形成されうることを論証した。Wallon
自身の言葉を借りれば「人間を現在のような社会的動物にしたのと おなじ原因が,表象形成能力を人間にあたえた のだ」2ヽ)
また
「人間を社会から切り離すことは,人間の脳 を剥ぎとることである。」 25)
このことは, 「マルクス主義者」
Wallon
と しては当然の主張である。マルクス主義に基礎をおくと称する認識論が 現在のような水準で低迷しているときに,この 小論の最初で述べた論理実証主義やプラグマ ティズムからの批判に答えることは困難である といわねばならない。 このような状態の中で
Wallon
の諸業績は抜群のものであると思われ るが,彼の理論は非常に難解であり,26)日本に おける紹介も十分とは思われないので,当面の 計画として私はまずこれを理解し,ついで彼の 理論に基く仮説を立てて実証的研究をおこなっ ていきたいと思っている。さしあたりこの次の 仕事は,この小論でついに触れることのできな かったV i g o t s k y
の後継者たち(ソビエトにお ける現役の研究者たち)の理論と,Wallon
の 理論(とくにその「社会」の概念)をつきあわ せて,第W節でとりあっかったレベルよりは蓬 かにすすんでいるであろう現在の言語の第II信 号系の理論がシンボルの問題をどのように位置 づけているかを追求したいと思っている。一 妬 一
<註>
1)寺 沢 恒 信 認 識 論 史 青 木 お 店 1956 2)こ こ で 「 認 識 論 」 と い う 語 の 概 念 規 定 を し な く て
は な ら な い が , 私 は こ れ を 岩 波 小 辞 典 「 哲 学 」 に し た が っ て 「 認 識 の 源 泉 , 構 造 , 発 展 を 究 明 す る 哲 学 理 論 」 と い う こ と に し て お く 。
3)寺 沢 氏 , 上 掲 害 p.14参 照
4) Piaget, J. La Psychologie de l'InteJJigence. Paris, 1952波 多 野 完 治 ・ 滝 沢 武 久 訳 知 能 の 心 理 学 み す ず 害 房 1960の p.50参 照
5) Viaud, G. L'Intelligence. (Collection QUE SAIS‑JE? N°210)村 上 仁 訳 知 能 白 水 社 1951 p.23 24参 照
6) Wallon, H. De L'acte
a
La Pensee Paris 1942 滝 沢 武 久 訳 認 識 過 程 の 心 理 学 大 月 書 店 1962 第I部 第3章 神 話 と 理 性 参 照 .7)先 に 出 て き た 実 用 的 知 能 と 同 じ 概 念 で あ る 。 8)概 念 的 知 能 , 論 理 的 知 能 , 反 省 的 知 能 あ る い は 論
弁 的 (discursive)知能とよばれるもののこと。
実 用 的 知 能 の 対 立 概 念 。 言 語 に 関 係 し , 表 象 と 象 徴の面ではたらく知能。
9)以 下 の 説 明 に つ い て は , 非 常 に 難 解 で 複 雑 な WaJJonの 理 論 を ま と め る に 関 し て , 次 の 二 論 文 を参考にした。これらは, Wallonの 理 論 を 考 え ていく上でのすぐれた手引である。
(1) 竹 内 良 知 マ ス ・ コ ミ ュ = ケ ー シ ョ ン 時 代 の 認 識 論 に か ん す る 覚 芯 ( マ ル ク ス 主 義 の 哲 学 と 人 間 , 盛 田 書 店 1969)
(2) 平林康之 認識の理論と言語一―ーマルクス主 義の見地による一ーー(岩波講座 哲 学 第11巻 言 語 岩 波 書 店 1968)
10)以 下 の 論 述 に つ い て は , 筆 者 の 論 文 , 子 ど も の 思 考 の 発 生 と 発 達 に お け る 言 語 の 役 割 一Vigotsky, Piaget, wallonを中心として一ー(関西大学文学 論 集 第18巻 第4号 1969年3月 ) を 参 照 さ れ たい。
11) 4)のp.230参 照
12)岡 本 夏 木 言語機能の成立過程, (児童心理学講 座 第3巻 言 語 機 能 の 発 達 金 子 書 房 1969) のp.27参 照
13)滝 沢 武 久 現代の発達観—ピアジエとワロンの 発達心理学を中心として一—- (思想 1969年 第
8号) および,
波 多 野 完 治 編 ヒ゜アジエの発達心理学 国 土 社
1965 の序論,ヒ°アジエ心理学の根本概念 参 照 14) 8blrOTCKHH, JI. C. l13opaHHble TTCHXOHO‑
rH'lecKHe 11ccJie,lloBaH皿 1956. 柴 田 義 松 訳 思 考 と 言 語 上 ・ 下 明 治 図 書 1963
15)も ち ろ ん , わ れ わ れ の 立 場 か ら は , こ の よ う な 考 え方はできない。
16) 14)の 下 巻 p. 205参 照 17) 14)の 上 巻 p. 23 18) 9)のp.231 註(1) 参照。
19)また, Luria,A. R. The role flf speech in the regulation of normal and abnormal behaviour 1961の 中 の 論 文 The role of speech in the formation of mental processesの中に, Vig‑ otskyの 根 本 的 な 考 え 方 と し て 「all the most inportant mental activities result from the child's social development, in the course of which there arise new fanctional systems whose sources are to be sought not in the depths of the mind but in the forms of the child's relationships with the adult world.」
というのがある。
20) 9)の(1), (2)お よ び , 竹 内 良 知 マ ル ク ス 主 義 哲 学 に お け る 実 践 の 概 念 と 人 間 の 問 題 ( マ ル ク ス 主 義 の 哲 学 と 人 問 , 盛 田 害 店 1969)
21) 6)のp.57p. 68お よ び9)の(2)参 照 22) 9)の(2)p.223
23) 6)の p.215 24) 6)の p.217
25) Wallon, H. Les origines du caractere chez lenfant. 1932久 保 田 正 人 訳 児 童 に お け る 性 格 の 起 源 明 治 図 書 1965
26)フ ラ ン ス に 於 て も , そ の よ う な 定 評 が あ る 。 (竹 内 良 知 子 ど も に お け る 概 念 の 成 立 と 発 達 , ソ ビ エ ト 教 育 科 学 9号 1963年6月)
付 記
昨 年 は , わ が 大 学 も 紛 争 の 禍 中 に あ り , そ の 中 で , 学 生 諸 君 は 私 た ち に 私 た ち の 学 問 に か か わ る 「 か か わ
り 方 」 を た ず ね た 。 そ れ に 答 え な け れ ば な ら な い 義 務 と , 実 験 等 に と り か か る 前 に , 私 自 身 の 問 題 意 識 を 整 理 し て お く 必 要 が あ っ た の で , 私 は こ の よ う な 文 章 を 書 い た 。 だ か ら , こ の 論 文 全 体 が 一 つ の 序 文 の よ う な も の で あ っ て , 私 に と っ て の 問 題 の 所 在 を 示 し た も の
である, と考えていただければ幸いである。
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