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(1)

批評としての学習と教育実践の転換 : 学校教育シ ステム開発の活動理論的研究

その他のタイトル Critical Learning Transforming Pedagogic Practice : An Activity‑theoretical Study of School System Development

著者 山住 勝広

雑誌名 教育科学セミナリー

巻 36

ページ 3‑14

発行年 2005‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00019356

(2)

批評としての学習と教育実践の転換

一学校教育システム開発の活動理論的研究一

1  はじめに

過去 1 0 年間、学校改革は、「基礎に戻れ」

( B a c k  t o  b a s i c s ) とでもいうべき傾向が支配的 だった。それは、「教科に細分化されたカリ キュラム」 ( s u b j e c t ‑ b y ‑ s u b j e c tc u r r i c u l u m ) 、

「パッケージ化された知識や技能」、「細切れの 段階的・積み上げ的な授業モデル」 ( s t a g e ‑ b y ‑ s t a g e  t e a c h i n g  m o d e l ) 、 「 標 準 学 カ テ ス ト

( s t a n d a r d i z e d  t e s t ) による学習結果の測定」な ど、技術主義的なコントロールを特徴とする伝 統主義的なカリキュラムと教育方法を復活させ てきた。こうした「改革」は、学校現場の上が ら、「教育実践」 ( p e d a g o g i cp r a c t i c e ) を官僚 主義的、管理的に変化させようとするものであ る。そこでの教師の仕事は、伝統主義的な「学 校学習」 ( s c h o o ll e a r n i n g ) のモデルによって 特徴づけられ、その結果は「標準学カテスト」

によって検証される。学校における活動の目的 と動機は、技術主義的にコントロールされた伝 統主義的な授業と学習の方法に還元されている。

「学校を基盤としたカリキュラム開発」

( s c h o o l ‑ b a s e d  c u r r i c u l u m  d e v e l o p m e n t :  SBCD)  が提唱されて久しい。教師こそが学校改革の創 造的な担い手であることを承認するならば、教 師の自律性と専門職性の樹立こそ、学校改革の 最重要課題である。しかしながら、タイラー ( T y l e r ,   1 9 5 0 ) の古典的カリキュラム計画モデ ル(目標の記述から教材の選択、そして結果の 評価へ至る、一連の直線的・段階的な計画モデ ル)や、「どの教師にも有効であるような耐教

山 住 勝 広

師性の教材」 ( t e a c h e r ‑ p r o o fm a t e r i a l s ) といっ た、カリキュラムと授業と学習に対する単純な 技術主義的コントロールが、学校改革において 依然として支配的なのだ。タイラー流のカリ キュラム計画モデルでは、カリキュラム計画の

「過程の中に、カリキュラムに対する教師の個 人的知識や物語的理解が入りこむ余地はほとん どない」 ( C o n n e l l y &  C l a n d i n i n ,   1 9 8 8 ,  p .  1 7 9 ) 。 また、「耐教師性の教材」においては、「これら の開発者は特定の事柄を特定のやり方で教える ために十分に開発された教材を教師が応用した り変化させたりすることの余地をほとんど残そ うとしない」 ( p . 1 7 9 ) のである。

ハーグリーヴズ ( H a r g r e a v e s ,1 9 9 4 ,  p .  2 6 )   は、こうした「耐教師性」のカリキュラムや教 材パッケージ、その手引き書、標準テスト、上 から課されたスモールステップの段階的授業と いった技術主義的コントロールにもとづく学校 改革が、専門職としての教職を「単純作業の労 働過程」 ( d e s k i l l e dl a b o r  p r o c e s s ) に貶めるこ とを明確に警告している。彼が教職に不可欠の ものとするのは、技術主義的コントロールでは なく、直観であり、情動であり、モラルである。

意味ある問題を創造し、モチベーションやモラ ルをもつことが、教師の自律性と専門職性の核 となるものだ。それは、「教えることへの願望」

( d e s i r e  t o  t e a c h ) である。今日、学校改革の政 策は、こうした教師の「願望」を危機にさらし ているのである。

本論文は、 2 0 0 2 年度からの 3 年間、大阪府茨

木市立福井小学校と行った共同研究にもとづき、

(3)

公立小学校の教師と子どもたちが、自らの教育 実践を内側から転換していく可能性について考 察しようとするものである。学校現場とのこう

した共同研究(参照、山住, 2 0 0 4 a ,2 0 0 4 b ;   Yamazumi, Engestrom  &  D a n i e l s ,  i n  p r e s s ) は 、 学校カリキュラムの統合化(カリキュラム・イ ンテグレーション)を進め、子どもたちの新し い学びとしての「プロジェクト学習」 ( p r o j e c t ‑ b a s e d  l e a r n i n g ) を学校で開発することに取り 組んでいる。その主題は、グローバル化と知識 社会化によって特徴づけられる転換期の学校教 育にとって、来るべき新たなヴィジョンは何か、

という点にある。学校教育の新しいモデルは、

学校において子どもたちが物事を知る、という よりも、いかに知識を使うか、を焦点化する。

つまり、子どもたちが知識を組み立てることを 学び、それを現実の生活状況の中で応用する活 動、である。

そのさい、私は、教育実践の「制度的効果」

( i n s t i t u t i o n a l  e f f e c t ) に注目している。ここで 教育実践の「制度」というのは、或る人間行動 をほかならぬ「教育実践」と見なしうる社会 的・意味的秩序のことであるはこうした制度 への問いは、集合的な人間行動をその深層にお いてコントロールし、秩序化し、関係づけ、意 味あるものにしている「文脈」 ( c o n t e x t ) は何 か、ということに向けられている。そして、こ のことを中心的に媒介しているのが、「言説」

(デイスコース)である。

デイヴィスとハレ ( D a v i s &  H a r r e ,  1 9 9 0 ) は 、

「言説」を「言語やそれ同様の体系の制度化さ れた使用」 ( p . 4 5 ) であるとしている。この場 合、言説は、社会的・意味的秩序、すなわち制 度的なものとして見いだされている。それは明 確に意識されず、深層において無意識的に人間 行動をコントロールする。いったん構築された 制度的な言説は自動化され自明のものとなる。

しかし、そうした秩序は暗黙の了解事項にもと

づいて歴史的に構築されたもの(虚構)なので あって、必然や本質なのではない。制度的な言 説へのアプローチは、こうした暗黙の了解事項 を「歴史化」すること、すなわちそれを忘却せ ずふたたぴ交渉 ( r e ‑ n e g o t i a t e ) することを方 法にしていく。したがって、それは、固定化さ れた現在を実証的に分析する方法とは異質であ る 。

こうした姿勢は、サービン ( S a r b i n ,1 9 8 6 )   によって、「文脈主義」 ( c o n t e x t u a l i s m ) と呼 ばれている。「文脈主義」とは、対象や出来事 を「歴史的」プロセスとしてとらえようとする 試みである。ここでの「歴史」は、出来事を再 現し甦らせ、出来事に生気を吹きこむような方 法のことをいう。「文脈主義」は、秩序や予測 性、そして因果関係を強調する機械論的科学と

は違って、変化と新奇 ( n o v e l t y ) を発見しよ うと試みる。「出来事はたゆまず流動的であり、

各出来事の諸条件の統合こそが未来の出来事の 文脈を変えていくのである」 ( S a r b i n ,1 9 8 6 ,  p .  

7) 。こうした立場は、研究が未来へのプロ ジェクトにほかならず、歴史的プロセスをその 諸条件として分析し、変化と新奇の多様で流動 的な契機に交渉していこうとするものであるこ とを物語っている。

ダニエルズ ( D a n i e l s ,2 0 0 4 ) は、バーンステイ ンの「教育実践の言説」 ( p e d a g o g i cd i s c o u r s e )   の理論を用いて、学校教育の制度的な文脈をそ の「様相」 ( m o d a l i t y ) という点から考察して いる。そこでは、パワーとコントロールの関係 から、異なる「様相」として識別可能な学校教 育の文脈が見いだされている。それは、識別可 能な、異なる「教育実践の言説」および「教育 実践についての言説」、すなわち教育実践の言 語的・象徴的装置に媒介されている。

たとえば、授業の理論が、教育実践の強い分類

( s t r o n g  c l a s s i f i c a t i o n ) と 強 い 枠 づ け ( s t r o n g

(4)

f r a m i n g ) を生じさせるものである場合、(学校の 諸教科ごとの)言説の分離と、細分化された所 定の技能獲得に対する強調が現れるだ・ろう。そ こでは、教師は、意図的学習に関する決定権を もち、生徒は、教師の実践に制約されることに なる。…授業の理論が、実践の弱い分類 (weak c l a s s i f i c a t i o n ) と弱い枠づけ (weakf r a m i n g ) を 生じさせるものである場合、そのときには、子

どもたちは教室の中で能動的であること、探究 を引き受けること、そしておそらくは彼ら自身 のペースでグループ作業を行うことに対して励 まされることだろう。 ( p p . 1 2 8 ‑ 1 2 9 )

このように識別される教育実践の二つのモデ ル に つ い て 、 バ ー ン ス テ イ ン (B e r n s t e i n ,   1 9 9 6 ,  p p .  58‑59) は、前者を「パフォーマン ス・モデル」、後者を「コンピテンス・モデル」

と名づけている。

福井小学校における教育実践研究は、学校教 育のこうした制度的な文脈や言説への着目に よってとらえられる様相、すなわち特徴的属性 を新たに転換しようとするものである。それは、

「活動理論」 ( A c t i v i t yT h e o r y ) 八 と り わ け エ ン ゲ ス ト ロ ー ム ( 1 9 9 9 ) の「活動システム」

( a c t i v i t y  s y s t e m ) と「拡張的学習」 ( e x p a n s i v e l e a r n i n g ) の理論がもつポテンシャルを明らか

にしながら、学校における協働的な教育実践を 分析し、再考し、新たにデザインしていくもの である。これまで述べてきたように、そのポイ ントは、細かく線引きされ区画化された教科や 小さな段階に区切られた授業を通して所定の知 識や技能を子どもが獲得し、その成否が試験に よって検証されるような学習を転換すること、

これである。では、これは何に向けての転換な のか。それは、学校カリキュラムを横断結合さ せ複雑で現実的な生活状況の中で知識・技能を 組み立て応用するプロジェクト学習への転換で

ある。

しかし、このことは、学校現場においてきわ めて困難な作業である。なぜなら、それは、分

離と断絶によって特徴づけられる、学校の強く 枠づけられた活動構造を、どのようにしてより 統合的・包括的なものへ内側から転換すること ができるのか、という学校の創造性にかかって いるからだ。先に述べたように、そのためには、

固定化された現在の学校の仕事と組織に対し、

教師と子どもたちが反省的・批評的・展望的に ふたたび交渉していくようなコミュニケーショ

ンを何よりも必要とする。

今日の学校改革における最大の鍵は、こうし た越境しネットワークし協働する教師と子ども たちの学びあいとコミュニケーションの生成で ある(参照、山住, 2 0 0 4 b ) 。ひとり教育政策の 転換が学校改革をもたらすのではない。教育の 専門家としての教師が学校の協働的な仕事をい かに自律的に創造できるのか。学校の創造性

―この擁護こそが学校改革の真の課題である。

学校改革は、教師の自律性と専門職性の樹立を ともなうことなくもたらされることはない。ま た、教師の専門職性は、容易には体系化できな い、複雑で高度に実践的なものである。

以下で検討する「学校教育システム開発の活 動理論的研究」は、こうした学校の創造性に対 する擁護のために、「活動理論」にもとづく学 校現場への「介入」 ( i n t e r v e n t i o n ) を企て試み てきたものである。本論文では、そのような学 校現場との協働作業の中で、「介入」が果たす ことのできる役割は何なのかについて、具体的 なデータを引用しながら考察する。

こうした介入研究のデータは、介入が、少な くとも三つの異なる領域に属する「教育実践の 言説」/「教育実践についての言説」を出会わ せるものであることを如実に提示する。それは、

〈教育政策の言説〉、〈学校現場の言説〉、そして

く教育研究の言説〉である。こうした異質な言

説は容易には調和しない。また、これらは、社

会的に異なる活動領域、すなわちく教育政策を

立案する教育行政職の活動〉、〈学校教育を実践

(5)

する現場教師の活動〉、そして〈大学において 教育実践を研究する研究者の活動〉に由来す が。つまり、言説はこうした〈社会的分業体 制〉を基盤にしている。

介入研究の場において出会い接触する諸言説 は、せめぎあいながら、衝突・抵抗・葛藤・格 闘をそこに生じさせる。しかし、そうした矛盾 状況こそが、参加者を、諸言説の相互批評と自 己吟味に向かわせるのである。このことは、教 育実践の言語的・象徴的装置を転換し、新たな 言説を生みだし、教育実践の活動システムを革 新していく、潜在的な可能性をもつだろう。

2  教育実践の活動構造そのものを内側 から転換する

( 1 )   教育実践の定義

「教育」 ( p e d a g o g y ) あるいは「教育実践」

( p e d a g o g i c  p r a c t i c e ) は、非常に多義的なニュ ア ン ス を も つ 用 語 で あ る 。 バ ー ン ス テ イ ン ( B e r n s t e i n ,   1 9 9 6 ) の社会学的な定義は、そう した解釈上の問題にひとつの有力な解決を与え ている。彼の定義は、「教育実践」が、教育過 程を基本的に動かしている、社会的・歴史的・

制度的な諸要因と緊密に結びついていることを 強調するものである。それはつぎのようなもの である。「私が用いる教育実践の概念は、それ を、文化の再生産と生産がそこで生じるような、

基本的な社会的文脈、と見なすものである」

( p . 1 7 ) 。

ここで注意しなければならないのは、こうし た「教育実践」が学校教育のみならずそれを超 える広い範囲で見いだされることである。実際、

バーンステインは、それが医師と患者の関係、

メンタルケアにおける分析医とクライアントの 関係、建築家と都市計画者の関係などを含むも のであることを例示している。これらは、いず れも、「文化の再生産と生産がそこで生じるよ

うな、基本的な社会的文脈」であり、特定の社 会的・歴史的・制度的な諸要因と緊密に結びつ いた実践である。

ダニエルズ(近刊)は、この定義を拡張して、

「教育実践」の概念上の中心をつぎのようにと らえている。「教育実践」とは、「諸個人の知 的・感情的・道徳的発達をかたちづくり、形成 する、社会的実践の諸形態」を指すものとして 解釈できる。それは、学習の結果のみならずア イデンテイティ形成に影響するものとして理解 される。

ここで私は、バーンステインとダニエルズに よる定義を引き継ぎ、「教育実践」という用語 をつぎのように定義して用いることにする。教 育実践とは、文化の継承と創造を通して諸個人 の学習と知的・感情的・逍徳的発達を形成する 社会的実践の形態である、と。そして、学校現 場との共同研究「学校教育システム開発の活動 理論的研究」の主題を、学校における教育実践 の活動構造そのものを内側から転換すること、

と 定 め る こ と に す る ( 参 照 、 山 住 , 2 0 0 4 a ; Y a m a z u m i ,  2 0 0 4 ;   Y a m a z u m i ,  E n g e s t r o m   & 

D a n i e l s ,  i n  p r e s s ) 。それは、学校における教師 と子ども自身による新しい学習活動システムの 共同デザイン ( c o ‑ d e s i g n i n g ) 、すなわち学校シ ステム開発 ( s c h o o ls y s t e m  d e v e l o p m e n t ) をめ

ざすものである。

( 2 )   学校教育の伝統的・標準的な活動構造 ダニエルズ(近刊)は、「カリキュラム」に 関するバーンステインの概念化をつぎのように 概括している。「カリキュラム」は、学校にお けるメッセージ・システムといえるものであり、

正統化された知識を指し示し、教科、分野、モ

ジュールや生徒によって獲得されるべき単元を

どう組織化するのかについて言明したものであ

る。「教育実践の言説」に関する前述の「パ

フォーマンス・モデル」(強い分類、強い枠づ

(6)

け)の場合は、「教科、スキル、手続きを細分 化し、その形態と機能に関して明確な目標を立 てていく」ようなカリキュラムがもたらされる ことになる。

こうした「パフォーマンス・モデル」の下で の学校カリキュラムは、教師と子どもたちが伝 統的・標準的な学校においてどのように知識や 経験にアクセスするのかに関して、絶対的・中 心的な特徴をもつものだといえよう。それは、

「細分化 ( s p e c i a l i z a t i o n ) 」 ( OECD/CERI,1 9 9 8 ,   p .   9 0 ) という特徴である。これは、伝統的・

標準的な学校の授業と学習、そして学校文化の 主要な特徴にほかならない。

伝統的な授業と学習は、エンゲストローム ( 1 9 9 9 ) がいうように、「バラバラで機械的に繰 り返される学習行為を、執拗なまでに存続させ てきたのであり、またこれからも存続させるこ とになりそうである」 ( p . 1 1 3 ) 。同時に、伝統 的学校における教師の仕事とその文化は、あら かじめ定められた内容の伝達に重きをおくよう な、固定的で頑強な諸要素を保持し続けている。

ここで、エンゲストロームの「活動システ ム」のモデル(参照、エンゲストローム,

1 9 9 9 ; 山住, 2 0 0 4 a ) を使って、伝統的・標準的 学校教育における教師と生徒の活動をモデル化

してみよう。

図 l 、 2 に示したように、伝統的・標準的学 校教育でとくに注目されるべき構造的特徴は、

活動システムを媒介する「道具」 ( i n s t r u m e n t 、 活動の手だてや手段)と「対象」 ( o b j e c t 、活 動の目的や動機)の関係である。教師と生徒の 双方が「細かく線引きされた教科のカリキュラ ム(パッケージとガイドライン)、小さな段階 に区切られた授業、標準学カテスト」などを主 たる活動の道具にするのが、伝統的・標準的学 校教育なのである。

教師の「対象」と生徒の「対象」は異なって いる。教師にとって活動の主たる対象となるの

I n s t r u m e n t s   細かく線引きされた教科のカリキュラム

(パッケージとガイドライン)

小さな段階に区切られた授業

標準学カテスト

O b j e c t   生徒(所定の知識・技能の獲得)

‑ ^ ヽ S e a s e ,

MeaninL

ー→ Outcome 

/叉 習へのテストによる成否の検証

・‑

R u l e s   Community  D i v i s i o n  o f  l a b o r  

図 1 :伝統的・標準的学校教育における教師の活動

I n s t

uments 細かく線引きされた教科のカリキュラム

(パッケージとガイドライン)

小さな段階に区切られた授業

椙準学カテスト

O b j e c t  

日課=バラバラの学習行為の執拗な繰り返しと 反抗や逸脱行為

Outcome 

活動

成功のための道具

/  \ 

9  9 

R u l e s   Community  D i v i s i o n  o f  l a b o r  

図 2 :伝統的・標準的学校教育における生徒の活動

は、生徒に所定の知識・技能を獲得させること である。他方、生徒にとっては学校が彼女や彼 にあてがう「日課」 ( d a i l ya s s i g n m e n t ) である。

これは、「バラバラの学習行為の執拗な繰り返 し」によって特徴づけられる。このことをエン ゲストローム ( 1 9 9 9 ) はつぎのように巧みに表 現している。「学校教育の内的矛盾は、…この 活動の使用価値の側面に向かう『逸脱した』生 徒の行為をたえず生産しつづける。学校の歴史 は、そのシステムを打ち負かし、抗議し、破壊 する巧妙な手段を発見する歴史でもあった。し かし、たとえこうした行為が古来からあったと しても、それらが新しいタイプの活動ー一すな わち私たちが言うところの学習活動—へと拡 張することはなかった」 ( p . 1 1 2 ) 。

教師による授業の「結果」 ( o u t c o m e ) は 、 テストによって検証される。また、生徒による

「日課」の「結果」は、成績や進級・進学とし

(7)

て 、 エ ン ゲ ス ト ロ ー ム の い う 「 成 功 の た め の 道 具 」 、 す な わ ち 「 労 働 市 場 に お け る 生 徒 の 将 来 の価値を決定する『成功のしるし』」 ( p p .1 1 0 ‑ 、 1 1 1 ) となりうるものである。

( 3 )   拡 張 的 学 習 ヘ

先 に 図 1 、 2 で 示 し た よ う な 伝 統 的 ・ 標 準 的 学 校 教 育 に お い て は 、 教 師 と 生 徒 の 活 動 は そ れ ぞれに分離し隔絶しているといわざるをえない。

つ ま り 、 活 動 の 対 象 は 共 有 さ れ て い な い 。 学 校 教 育 の 真 の 目 的 が 文 化 の 継 承 と 創 造 に あ り 、 協 働 の 学 び あ い を 生 成 す る こ と に あ る な ら ば 、 教 師 と 生 徒 の 活 動 を 結 び つ な ぐ よ う な 、 共 有 さ れ た対象の構築が不可欠である。それは、教師と 生 徒 の あ い だ 、 す な わ ち 異 質 な 二 つ の 活 動 シ ス テ ム の あ い だ の 接 触 で あ り 対 話 で あ り 越 境 で あ る だ ろ う 。 そ こ で 立 ち 現 れ て く る の は 、 学 校 教 育 の 新 し い タ イ プ の 活 動 、 す な わ ち 「 学 習 活 動 」 で あ る 。 逆 に い え ば 、 教 師 と 生 徒 自 身 に よ る 「 学 習 活 動 」 の 共 同 デ ザ イ ン と 実 践 を コ ア に

した、新しい学校の生成である。

エ ン ゲ ス ト ロ ー ム は 、 彼 が 学 校 に お け る 新 し い タ イ プ の 活 動 と 呼 ぶ 「 学 習 活 動 」 を 、 「 拡 張 的学習」 ( e x p a n s i v el e a r n i n g ) の モ デ ル か ら 解 明 し て い る ( 参 照 、 エ ン ゲ ス ト ロ ー ム , 1 9 9 9 ; 山住, 2 0 0 4 a ) 。それは、 1 9 8 0 年 代 後 半 以 後 、 エ

ン ゲ ス ト ロ ー ム に よ っ て 展 開 さ れ て き た 、 革 新 的・創造的・協働的な人間学習のモデルである。

「 拡 張 的 学 習 」 は 、 確 定 的 な 文 化 の 再 生 産 に 偏 重 し た 学 校 学 習 の 構 造 を 転 換 し 、 現 実 の 生 活 世 界 に お け る 問 題 発 見 、 探 究 ・ 調 査 、 知 識 ・ 技 能 の 構 造 的 理 解 と 実 践 的 応 用 、 そ し て 新 し い 文 化 の 創 造 を 学 び の 対 象 と し て い く 学 習 活 動 で あ る 。 ま た 、 つ ぎ の よ う に い う こ と も で き る 。

「拡張的学習」は、科学・芸術の成果を知的・

感情的・実践的ツール(道具)として応用し、

そ れ を 現 実 の 生 活 世 界 や 社 会 的 活 動 の 創 造 へ ネットワークさせていくような学習活動である、

と 。

エ ン ゲ ス ト ロ ー ム ( E n g e s t r t i m ,1 9 9 6 ) は 、

「拡張的学習」のモデルの中心に、「学習者の集 団 」 と 「 発 展 的 な 学 び の ネ ッ ト ワ ー ク 」 の コ ン セプトをおき、つぎのように述べている。

…拡張的学習は、伝統的な学校教科書、発見の 文脈、実践的応用のあいだの関係づけを含め、

学習対象を拡張することによって、カプセル化 した学校学習の打破を提案する。したがって、

そこでは学校学習の活動そのものの転換が内部 から行われていくのだ。この転換は特別なカリ キュラム内容を通してなされる。それは長期に わたる分散した過程であって、上から指図され た一回限りの転換ではない。

このシナリオは現実生活の中でどれほど見こみ があるものなのか? ひとついえることは、この アプローチは、ダヴィドフのアプローチや正統 的周辺参加がそれだけで行われるよりもおそら く現実的である。拡張的学習のアプローチは、

学校教育に参画し影響を被っている教師や親や 生徒などのあいだで現実に存在している葛藤や 不満を活かすものである。それは現在の実践を 具体的に転換することへ彼らをいざなっていく。

いいかえれば、このアプローチは上からの善意 の改革にもとづかない。それは、現在の矛盾と の直面にもとづき、彼ら自身による共同の分析 から力を引きだすのである。

. . .  

拡張的学習のアプローチは、学習の対象を徐々 に広げていくことによって、学校学習のカプセ ル化を打ち破ろうとするものである。学習の拡 張された対象は、特別なカリキュラム内容を精 密に吟味していく批評の文脈、発見の文脈、応 用の文脈から成る。このような拡張的移行それ 自体、下からの自己組織化を通した学びの過程 である。この自己組織化は、学校の制度的境界 を超えた学びのネットワークを創造することの 中に自ら現れてくるものである。学校はこうし て集団的な道具 ( c o l l e c t i v ei n s t r u m e n t ) へと、

転回するのだ。 ( p p . 1 6 8 ‑ 1 6 9 、傍点部は原文では

イタリック)

(8)

教師、親、子ども、そして学校教育に参画す る人びとのあいだで生まれる「拡張的学習」は、

学校をいわば「集団的な道具」として、「学習 活動の構造そのものの拡張」を新たに創造して いく。「カプセル化」した伝統的学校学習は新 たな「学習活動」の創造へと転換される。エン ゲストロームがいうように、「拡張的学習」の 学校は、人びとの活動にとって「集団的道具」

となりうるのだ。これは、私たちの社会と生活 の新たなあり方をめざす、集団的な変革のエー ジェント(担い手)として学校を見いだしてい くような、学校に対するまった<斬新なとらえ 方である。

このように「拡張的学習」が「教育実践の活 動構造そのものを内側から転換していく学び」

であるとするならば、それは「批評としての学 習 」 ( c r i t i c a ll e a r n i n g ) にほかならない。つま

り、「拡張的学習」は、伝統的・標準的学校学 習に教師と子ども自身による「批評の文脈」

( c o n t e x t  o f  c r i t i c i s m ) をもちこむものなのだ。

柄谷 ( 2 0 0 4 a ) がいうように、批評すなわち批 判とは「相手を非難することではなく、吟味で あり、むしろ自己吟味である」 ( p . 3 ) 。

学校現場の実践者たち、すなわち教師と子ど もたちにとって、「学校学習の活動」は日常的 に生きられた世界である。それは無意識の関係 構造といえるものである。人間活動の基底には、

その活動領域の中の人間行動を根源的に強いる ような関係構造が横たわっている。バーンステ インが「教育実践」を「文化の再生産と生産が そこで生じるような、基本的な社会的文脈」と 定義するとき、彼は教えることと学ぶことの基 底に横たわっている関係構造を「教育実践」と

して明るみにだそうとしているのだ。

したがって、学校における教師と子どもたち の「批評的学習」(=拡張的学習)は、「学校学 習の活動」に対する「非難」では決してありえ ない。むしろ、それは自らが日常的に生きて働

く現実の生活世界や活動の諸条件(繰り返せば、

それはふだん意識されない)を「自己吟味」す ることなのだ。それゆえ、ここでの'「批評とし ての学習」は、「教育実践の活動構造そのもの を内側から転換していく学ぴ」といえるのであ る 。

3  福井小学校における介入研究 ープロジェクト学習の構想へ

3 年間にわたる福井小学校との共同研究は、

その主題を、「学校カリキュラムの統合化(カ リキュラム・インテグレーション)を通したプ ロジェクト学習のデザイン」とするものだった。

つまり、それは、教科カリキュラムの分離・区 画化を横断結合させ、プロジェクト型のコラボ レーション学習を生みだそうとするものである。

これは同時に、学校における教育実践の転換を めざすものでもある。

本共同研究は、「活動理論」にもとづく社会 実践への「介入研究」を方法論にしている。そ れは、「発達的ワークリサーチ ( d e v e l o p m e n t a l work r e s e a r c h ) 」(参照、 E n g e s t r o m ,1 9 9 3 ; 山 住 , 2 0 0 4 a ) と呼ばれるものであり、国際共同 研究を進めているフィンランド・ヘルシンキ大 学活動理論•発達的ワークリサーチセンターに おいてエンゲストロームを中心に開発されてき た方法論である。

福井小学校では、定期的な校内研修会におけ る授業検討を通し、学校における現在の仕事や 組織、カリキュラムや授業を分析し反省し批評 し議論する教師たち自身の集団的な取り組みが 進められてきた。そのさい、研究者による介入 は、そうした教師たちの「拡張的学習」を支援 し、促進するものとしてなされてきたのである。

カリキュラム・インテグレーションであれ、

プロジェクト学習であれ、それらは複雑で流動

的で葛藤に満ちた教育実践の新たなコンセプト

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福井小学校における発達的ワークリサーチ ー 2 0 0 4 年度夏期校内研修会

で あ る 。 学 校 現 場 に お け る 発 達 的 ワ ー ク リ サ ー チ は 、 そ う し た 新 し い コ ン セ プ ト を 実 践 者 た ち が自ら学びあい、モデル化し、実践上で試みる、

と い っ た 「 拡 張 的 学 習 」 の サ イ ク ル を 生 み だ そ うとするものなのである。

こ こ で 、 教 育 実 践 の 転 換 を め ざ す 、 そ う し た 教 師 た ち の 「 拡 張 的 学 習 」 へ の 介 入 の 役 割 と は 何 か を 考 察 す る た め に 、 校 内 研 修 会 の ひ と つ の 場面を取り上げてみよう。以下、引用するのは、

2 0 0 4 年 8月2 6 日 に 行 わ れ た 夏 期 校 内 研 修 会 で の デ イ ス カ ッ シ ョ ン の 一 部 で あ る 。 そ こ で は 学 年 ごと 1 学 期 の 生 活 科 ( 低 学 年 ) と 総 合 学 習 (3

‑6 年 ) の 実 践 が 報 告 さ れ た が 、 以 下 の 引 用 は 4 年 生 の 総 合 学 習 に 関 す る デ イ ス カ ッ シ ョ ン の ー場面である。

4 年 生 で は 、 地 域 の お 年 寄 り や 障 害 者 の 社 会 福 祉 に つ い て 調 査 ・ 探 究 し 、 ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 を 体 験 し て い く よ う な 単 元 が 開 発 ・ 実 践 さ れ て いた。それは、校区の交通安全、点字プロック、

歩 道 橋 な ど の 調 査 、 ハ ン デ ィ キ ャ ッ プ 体 験 、 そ し て そ れ ら に も と づ き 校 区 の 道 路 地 図 を 作 成 し 危 険 な 箇 所 や 改 善 す べ き と こ ろ を 明 ら か に す る 作業を進めるものだった。つぎの引用は、 4 年 の 担 任 教 師 が 自 身 で こ の 実 践 を ふ り か え り 評 価 し た 後 、 全 体 で 行 わ れ た デ ィ ス カ ッ シ ョ ン の 一 部 で あ る 。 な お 、 こ の 引 用 の 中 で 「 研 究 者 」 と あ る の は 筆 者 で あ り 、 「 K 先 生 」 と あ る の は 4

年の担任教師である。

研究者:…このカリキュラム、校内研でのやり 取りがあって、 K先生の方で、挑戦的に、チャレ ンジングに取り組まれた単元になってて、流れ 面白くていいと思うんですよ。これ今後どう もっていくのかっていうことで提案なんですけ ど、これ道路地図作成ってつぎにいきると思う んですよ。先生がつぎにどういうことを考えて おられるかわからないですが、ぜひ大々的にこ の線で押していくっていうのを考えてほしいと 思うのは、子どもたちが都市計画をやるってい うことですね。ポランティア隊っていうのとは はずれてしまいますが、世界にはいろいろなプ ロジェクトがあって、若者と一緒に都市計画を しようっていうプロジェクトはね、いろいろな 問題があって、それが都市計画の中でどのよう に解決していくかっていうことなんですけど、

それを若者と一緒にやろうというプロジェクト ともいえるんだと思うんです。この場合、若者 というか、子どもたちですが、都市計画という のは、ユニバーサル・デザインと呼ばれる都市 計画ですね。さまざまなハンディをもった人た ちとか、ニーズをもった人たちにやさしい、イ ンクルーシヴな、インクルーシヴというのは、

インクルージョン教育とかありますが、包括的 な、いろんな違いを包みこむような、そういう やさしさをもった都市計画という方に、ユニ バーサル・デザインということで進んでいけば、

子どもたちが気づいていることっていうのを具 体的なその提案としてどういうふうにまとめあ げることができるのか、そこに、これもいろん な難題をふっかけてるみたいですけど、都市計 画の専門家をどっかから呼んできて、都市計画 の専門家を交えて、これ役所も関係するわけで すけど、本格的にまちづくりのプランをだして みてはいかがですか? ( 笑 )

担任: 2 学期にやろうと思っていることと全然 違うので、またつぎ 4年もったときに。(笑)

どなたか 4 年生でやってみてください。(笑)

すみません。それも楽しいなって思いました。

もっと早くに聞いていたら。

研究者:いまから軌道修正、無理ですか。

担任:それは無理ですね。

研究者:でもね、この線までもってきていて、

いまの時点でいうなっていうのはわかりますけ

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ど、もしね、これで終わってしまったら、あま りつながりがつぎにないようなものに、 2学期、

福井ボランティア隊ででてくるという感は否め ないんですけど。

担任:それはそうですね。でもあかんな。(笑)

校長:いま山住先生がいわれたのは、 K 先生がま とめたっていうのがいかされる部分としてね、

地域に、福祉検討会っていうのが地域でもって いるんですよ。第 1 回目がこの前だったんです けど、あと何回かあって、福井の福祉について、

よりよくしていくために、子どもたちがこんな こと考えましたよっていうことを、この会に もって提案というか、あの資料として提出す るっていうことはできると思う。

研究者:校長先生の尽力でね、その会に出席を して、子どもたちがひとつ発表をして、提案を して、その大人の集まりの会で受け止めてもら えるっていうことができたら。

校長:どこまでいけるかってわからないけど、

どんな会なのか、私もちょっと、教頭先生が出 席してくれてはるので。その会がどの程度のも のかわからないけど、そのことが、調べたこと がどういうふうにつながっていくか、いかされ ていくかわからないけど、そういうのもいまあ るので。

研究者:絶好の場所だと思うんですけどね。そ こで総合学習の成果っていうのが、自分たちの 生活の場にいかされるっていう、そういう体験 を。それはにせものでは迫力がなくて、大人の 検討会にでて、子どもたちが発表するでしょ。

で、大人がいいこと調べてるなってフィード バックくれたら、子どもの自信にもなるし。自 分たちのやっていることって、学校の中で済む 話、学校の中でできたとか、できなかったとい う話じゃなくて、実際に社会に役立つ、という ことになるんだ、と。すみません、理想論ばか りいって。(笑) そういう部分って大事じゃな いですか。

担任:あのね、つぎ、やろうと思います。(笑)

研究者:これもったいないですよ。ここで終 わったら。あと一歩押せばそこまでいけると思 うんです。

担任:でもね。

い う ま で も な く 、 こ う し た デ イ ス カ ッ シ ョ ン は 、 参 加 者 間 の 信 頼 関 係 の 下 、 リ ラ ッ ク ス し た 雰囲気で自分自身の実践を批評的にふりかえる、

と い う こ と が な け れ ば で き な い も の で あ る 。 私 は 、 3 年 間 の 共 同 研 究 が 、 こ う し た 相 互 の 信 頼 と コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 関 係 を 育 ん で き た と 信 じている。しかし、介入者としての私の提案、

す な わ ち 子 ど も た ち の ま ち づ く り 計 画 プ ロ ジ ェ クトという提案は、残念ながら、 4 年 の 担 任 教 師 に 受 け 入 れ ら れ な か っ た 。 つ ま り 、 こ の プ ロ ジ ェ ク ト 学 習 が 2 学 期 の 総 合 学 習 の 単 元 に 新 た に取り入れられることはなかった。

担任教師は、「またつぎ 4 年もったときに」、

「すみません。それも楽しいなって思いました。

もっと早くに聞いていたら」、「それはそうです ね。でもあかんな」、「あのね、つぎ、やろうと 思 い ま す 」 と い う よ う に 、 躊 躇 の 立 場 を 繰 り 返 し表明している。なぜ、研究者からの介入は、

子 ど も た ち の プ ロ ジ ェ ク ト に 対 す る 教 師 の 見 方 や と ら え 方 の 枠 組 み を 転 換 す る も の と な ら な かったのか? な ぜ こ の 介 入 は 、 教 師 を 、 新 し い プ ロ ジ ェ ク ト の デ ザ イ ン ヘ 惹 き つ け る こ と が できなかったのか?

こ の 問 い を め ぐ り 、 第 一 に 重 要 な こ と は 、 介 入が実践者の「抵抗」 ( r e s i s t a n c e ) に遭遇する こ と の む し ろ 積 極 的 な 意 味 で あ る ( 参 照 、 E n g e s t r i : i m ,   2 0 0 4 ,   September ) 。 こ れ は 、 介 入 がそもそも成立する基本的条件に関わっている。

エ ン ゲ ス ト ロ ー ム ( E n g e s t r i : i m ,2 0 0 0 ) が鋭く 指 摘 し て い る よ う に 、 介 入 研 究 の 経 験 が 教 え て . . .  

い る の は 、 外 か ら も ち こ ま れ た り 、 上 か ら 実 施 さ れ た り す る 変 化 ・ 革 新 は 機 能 し な い 、 と い う こ と で あ る 。 そ れ ゆ え 、 介 入 研 究 者 が 何 よ り も 注 意 を 払 う べ き は 、 介 入 に 対 す る 実 践 者 自 身 の

「 抵 抗 」 な の で あ る 。 つ ま り 、 そ れ は 、 実 践 者

自 身 が 自 ら の 仕 事 の 中 に 戸 惑 い を 見 て い る こ と

に ほ か な ら な い か ら だ 。 い い か え れ ば 、 そ う し

た 「 抵 抗 」 こ そ 、 「 外 か ら 」 や 「 上 か ら 」 で は

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なく「内側から」、実践者の自発性や主体性を 立ち上げる場になるのである。これは、介入研 究者が提起する実践の新しいコンセプトに対す る実践者の逆説的な関与である、といえよう。

「抵抗」は、実践者自身の意志と主体性が生き て働く場をシンプルに指し示しているのだ。

もちろん、これは実践者のジレンマをも指し 示している。この研修会終了後、校長は私に、

教師たちが総合学習の新しい単元構成に大きな 関心を寄せているが、他方で個々の教科学習や 子どもの生活指導にあまりにも多忙であり、

ルーチンワークを捨て新しい実践に向かうこと が難しい、と語った。学校現場での介入研究は、

こうしたジレンマを抱える日々の意思決定に関 わっていくことにほかならない。エンゲスト ローム ( 1 9 9 9 ) のつぎの言葉は、介入研究の本 質を見事にいいあてている。

社会的現実に固定した直線的な継起をむりやり 当てはめるのは断じて避けなければならない。

しかし、ヴィゴッキーのアイデイアを支持する アングロサクソンの研究者のあいだではとりわ け、歴史をも排除してしまうのが一般のようで ある。そのため、文化や社会的グループや実践 の領域による認知の差異が、そうした差異を導 いた歴史的発達をきちんと分析することなく、

共通に説明されてしまう。その背後の相対主義 的な考えによれば、誰の認知が「より良い」と か「より進歩している」といった価値判断をす べきではない。あらゆる思考と実践は等しく価 値があるというわけだ。このリベラルな態度は 学問的言説にとって居心地がよいかもしれない。

しかし、あらゆる社会的実践の領域において、

まさにそうした価値判断や意思決定を毎日しな ければならないという現実を無視している。人 びとは、どこに行きたいのか、どの道に「向か う」のか、決めなければならない。もし行動科 学と社会科学がそうした問題を避けようとする ならば、実践者たちがこうした必須の意思決定 をするために有用な、そして理論的にも大いに 意欲的な知的ツールをつくりだすことはできな いだろう。 ( p . 1 0 )

上述の問いに関し第二に重要なことは、こう した「歴史性」に関連している。つまり、先の ジレンマにあるように、教師たちはその仕事に おいて、学校における教育実践の深い部分に横 たわる、構造的・制度的な枠組みに強く制約さ れている。それは、分離と断絶によって特徴づ けられる、学校の強く枠づけられた活動構造で ある。介入研究者はこれを認識しなければなら ない。実践者たちが協働して挑戦する批評的学 習(拡張的学習)は、こうした無意識の原動力、

活動の対象や動機、そして実践の活動構造その ものに対する問い直しと自己吟味であり、それ らに対してふたたび交渉することであるからだ。

こうした批評的学習は、学校教育という仕事の 対象(活動の目的や動機)を定義し直し、強く 枠づけられた活動構造をより統合的・包括的な

ものへ転換していくものとなる。

「転換は…長期にわたる分散した過程であっ て、上から指図された一回限りの転換ではな い 」 ( E n g e s t r o r n ,1 9 9 6 ,  p .  1 6 8 ) 。拡張的学習は、

活動の新たなモデルを具体化し実現していく、

長期にわたる漸進的なサイクルを辿っていく。

それを支援・促進しようとする介入研究は、実 践と実践者を観察・分析の対象としてのみ見る、

ということでは決してない。介入研究にとって 実践者とは「他者」である。つまり、実践にお ける実践者自身が知的・感情的・道徳的な判断 の自発的・主体的な担い手である。

教育実践の介入研究にとっての倫理とは、教 師と子どもたちを「他者」、すなわち自由で対 等な担い手として擁護することにほかならない。

介入研究が協働をめざすものであるならば、そ

れは自由で対等な担い手のあいだの関係によっ

て可能となる。先に示したデイスカッションの

ー場面は、ヴィゴツキー ( B b i r o T C K H H , 1 9 3 5 ,  p .  

4 2 ) のいう発達の「つぽみ」と見られるもので

あって、その場において完結したものと見られ

るべきではないのである。

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【付記】

本論文は、 2 0 0 4 年度科学研究費補助金基盤研 究( C ) 「プロジェクト・アプローチによる総合的 学習とカリキュラムの総合化に関する開発研 究 」 ( 研 究 代 表 者 : 山 住 勝 広 、 課 題 番 号 : 1 5 5 3 0 6 0 6 ) の研究成果の一部である。支援に 厚く感謝したい。

この 3 年間、共同研究を持続的に発展させる ことのできた大阪府茨木市立福井小学校に深く 感謝するものである。

1  美術は、それを美術と見なすこと、すなわ ち、それについての言説なしにはありえな いことを、柄谷 ( 2 0 0 4b) は、デュシャン の例からつぎのように述べている。「デュ シャンは美術展に便器を提示した。それは、

この物を、日常においてもっている関心を 括弧に入れて見よということである。その 場合、『これは美術展におかれた作品だ』

というシグナルが、そうした括弧入れをう ながすのである。そのようにして見られた 物は、すでに物ではなく、芸術作品の形式 の素材である。デュシャンは芸術を芸術た らしめているのが、『これは芸術だ』とい うシグナルにしかないことを示したが、そ れは私の考えでは『括弧に入れよ』という シグナルなのである。デュシャンは、美術 館や展覧会にあるだけが芸術ではなく、あ らゆるものが芸術でありうることを示した。

しかし、それが可能なのは、美術館や展覧 会が『芸術』を保証するものだという通念 があるかぎりにおいてである」 ( p p . 1 5 7 ‑ 1 5 8 ) 。

2  「活動理論」については、 C o l e ( l 9 9 6 ) 、ダ ニ エ ル ズ ( 近 刊 ) 、 エ ン ゲ ス ト ロ ー ム ( 1 9 9 9 ) 、エンゲストローム・山住(近刊)、

山住 ( 1 9 9 8 ,2 0 0 4 a ) 、 Y a m a z u m i ,E 隅 e s t r o m

&  D a n i e l s  ( i n  p r e s s ) を参照されたい。

3  山住 ( 1 9 9 8 , 第 6 章,第 8 章)は、思考の 異 種 性 ( h e t e r o g e n e i t y ) の 背 後 に 異 な る

「活動領域」が存在していることを論じて いる。

引用・参考文献

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L o n d o n :  R o u t l e d g e .  

E 暉 e s t r o m ,Y .   ( 2 0 0 0 ) .  From i n d i v i d u a l  a c t i o n  t o  

c o l l e c t i v e  a c t i v i t y  and b a c k :  D e v e l o p m e n t a l  

work  r e s e a r c h   as  an  i n t e r v e n t i o n i s t  

m e t h o d o l o g y .  I n  P .  L u f f ,  J .   H i n d m a r s h ,  &  C .  

(13)

H e a t h   ( E d s . ) ,   W o r k p l a c e   s t u d i e s .   C a m b r i d g e :  C a m b r i d g e  U n i v e r s i t y  P r e s s .   E n g e s t r o m ,   Y .   ( 2 0 0 4 ,   S e p t e m b e r ) .   Toward a 

m e t h o d o l o g y  ‑ o f   f o r m a t i v e   e x p e r i m e n t s :   Change  l a b o r a t o r y   a s   a c o n t e x t   f o r   e x p a n s i v e   l e a r n i n g .   I n v i t e d   k e y n o t e   a d d r e s s  a t   t h e   6 8 t h  Annual M e e t i n g  o f   Japanese  P s y c h o l o g i c a l   A s s o c i a t i o n ,  

K a n s a i  U n i v e r s i t y ,  J a p a n .  

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Y a m a z u m i ,   K . ,   E n g e s t r o m ,   Y . ,   & D a n i e l s ,   H .  

( E d s . )  ( i n  p r e s s ) .  New  l e a r n 匹 c h a l l e n g e s .

S u i t a ,  O s a k a :  K a n s a i  U n i v e r s i t y  P r e s s .  

参照

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 さらに、保護者自身の属性だけではなく、そ

ばならないことがある。それは、彼の著述の仕

 そして、始業式当日から、校内では毎日何か しらの突発的事案が発生していた。 4

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としながらも、それまでのロヴァースセラピー

「中等教育に当然必要とされる事項を維持し

P ( 4 2 8 ) :さっき

子供を、まさしく同一年齢である他の子供と いっしょに、一日中 1 つの部屋のなかに閉じ込 めておくというのは、きわめて不自然なことで