梅蘭芳と日本統治下の台湾劇壇
―― 『台湾日日新報』の記事を中心に
李 思 漢
はじめに
日本統治期(一八九五―一九四五)において、上海や福州の劇団の台湾巡業を通して 伝来した京劇は、台湾人社会を中心に広く流行し、上流階級から庶民までその生活に深 く浸透し、大衆に人気の主要な娯楽ジャンルの一つとなっていた。当時、台湾人を主要 メンバーとした専業京劇団(本地京班)が少なくとも十二団存在し1、またアマチュアと して京劇の演唱法の稽古を行っていた団体(京調票房)とその参加人数も清国統治時代
(一六八三―一八九五)に伝わってきた南管、北管に匹敵するほど多かったのである。台 湾演劇史学者徐亜湘はこういう現象に対して、「この外来の演劇様式は、その時すでに深 く現地化かつ内面化されてローカル演劇になったと言えよう2」と日本統治下の台湾にお ける京劇を位置づけている。
その一方で、京劇が台湾で盛んになっていた二十世紀初頭は、京劇の本場である北京の 俳優たちが個人の演技の型や得意演目の確立を目指している時期でもあった。全般に芸術 水準が大きく向上した時期で、京劇の隆盛期を象徴する「流派芸術」も次第に確立してき た。ところが、この頃日本の植民地であった台湾に巡業に来た京劇は上海を拠点とした俳 優がほとんどであり、台湾の舞台に登場した京劇俳優は各流派の宗師に正式に弟子入りし た俳優があまりおらず、台湾では京劇の精華たる流派芸術を鑑賞することがあまりできな かった。それに加えて、当時はビン南語(一部は客家語)や日本語が主要言語であったた め、台湾人観客には言葉の理解の問題があり、さらに観劇の嗜好などの影響もあって、台 湾の観客は結局のところ、京劇の流派芸術の核心となる俳優の歌唱や台詞回しの芸より、
激しい立ち回りなどの視覚的な演技やストーリーの面白さのほうを追求するという傾向が みられた3。
台湾の観客と京劇の流派芸術との最初の出会いと言えるのは、おそらく日本統治期終結 後の一九四八年、梅蘭芳(一八九四―一九六一)の弟子で、また他の幾人かの名優にも教 わったことがある女優顧正秋(一九二九―二〇一六)による台北公演であろう4。顧正秋 の渡台により、これまで視覚中心の上海スタイル(海派)の演技しか見られなかった台湾 の観客が、京劇の最も肝要な「歌唱」の技術とその魅力を鑑賞することができるように なったことは意義深いことである5。
顧正秋も上海出身だったが、日本統治下の台湾で公演した他の上海の俳優らとは京劇の
学習歴が違った。彼女は、一九四四年に梅蘭芳に正式に弟子入りし、梅とその同人によっ て改良、または新たに創作された幾多の代表的演目、すなわち「梅派戯」を系統的に習得 した経歴のある「流派の正統伝承者」としての身分を持つ俳優である。顧正秋は一九四八 年に、自ら座長を務める「顧劇団」を率いて渡台し、台北にあった「永楽戯院」で五年 間連続の興行を行ったが、この記録は今日に至っても破られていない。顧は永楽戯院で、
『鳳還巣』、『生死恨』、『宇宙鋒』を始め、「梅派芸術」を代表する数多くの演目を上演し た6。
一方、台湾における梅派の芸の伝承の正式な始まりは、戦後台湾に移住した大陸の俳 優、例えば、上海出身で梅から直接指導を受けたことのある女優金素琴、秦慧芬、そして アマチュア(票友)、また「山東梅蘭芳」と称えられた王振祖(一九一三―一九八〇)と 彼の設立した「復興劇校(現国立台湾戯曲学院)」がそれぞれその一翼を担った。つまり 厳密に言うと、台湾においては、京劇の流派芸術に対する全面的な受容は日本統治期終了 以降である。
しかしながら、台湾では二〇一一年の「中華民国建国百年」という大きな節目に、京劇 界の特別興行として「遇見百年梅派(百年の梅派との出会い)」という企画が行われた。
ここでは台湾と「中華民国」との間の複雑な歴史認識はいったん置いておき、梅派の本格 的な台湾伝来が戦後になってからという事実を鑑みて、梅蘭芳とその梅派芸術の〈台湾〉
における発展の歴史が本当に百年経っていると言えるのか、という疑問を提起したい。
植民地時代の台湾においては、前述の通り流派芸術を鑑賞することは当然難しいこと だったが、中国の京劇団が頻繁に台湾に巡業に来た実態を鑑みれば、当時京劇俳優として 名高かった梅蘭芳とその芸術を紹介する情報が皆無だったとは考えがたい。他方、現在の 日本統治期の台湾における京劇の発展様相に関する先行研究においては、ことに俳優や
「流派」の観点から考察したものが乏しい。そこで、本稿は日本統治期において発行部数 が最多であった『台湾日日新報』に掲載されている記事を調査・整理し、戦前の台湾にお ける梅蘭芳に関する情報の受容状況の解明を試みる。まず、日本統治下の台湾の人びとは どのような方面から、またどんな事件を通して梅蘭芳とその芸術を知ったのかを初歩的に 把握し、次に、台湾人が梅蘭芳の情報を受けてどのような反応または行動を取ったのかを 追究し、最後に、いわゆる「梅派芸術」の台湾流入経路を考察し、日本統治期の台湾にお ける梅蘭芳受容の一側面を明らかにする。
一 『台湾日日新報』における梅蘭芳関連記事
『台湾日日新報』は明治三十一年(一八九八)に正式発行され7、和文を主要言語とし たが、漢文欄も併設されていた。明治三十八年(一九〇五)から明治四十四年(一九一一)
まで一時的に『漢文台湾日日新報』が独立して発行され、その後、再び和・漢文を同紙に 併載する形に戻り、この構成が昭和十二年(一九三七)の漢文使用の全面廃止まで続い た。
梅蘭芳の名前が『台湾日日新報』紙上に初登場したのは大正元年(一九一二)の漢文 欄だが8、彼について正式かつ詳細に紹介した記事は大正八年(一九一九)の日本公演 以降に現れたのである。本稿の調査結果では、大正元年(一九一二)から昭和十七年
(一九四二)まで、『台湾日日新報』に掲載された梅蘭芳関連記事は和文と漢文の記事を合 わせて七十余本ある(表1)。この約三十年間のうち、とりわけ梅蘭芳が訪日した大正八 年(一九一九)、大正十三年(一九二四)、昭和五年(一九三〇)の9報道の頻度が比較的 高いが、彼をめぐる話題はその他の年もほぼ毎年少しずつ掲載されている。
その記事内容については、基本的には訪日関連のニュース、芸術の紹介、ゴシップに類 する雑件の三つの分野に大別することができる。また、和文版と漢文欄を比較すると、取 材や編集が全く同じではないことが分かる。例えば、漢文欄の記事には、和文版の内容を 直接翻訳したものもあれば、同じ事件に対して和文と異なる観点に基づいた記事もあっ た。その他、和文版の記事が漢文欄で掲載されなかったり、要点だけが抜き書きされたり した場合もある。時には、漢文欄に先に掲載された記事が数日後に和文版に掲載される場 合もあった。内容の違いについては、和文版の記事はそのほとんどが訪日のニュースに集 中しているが、漢文欄には芸術の紹介と雑件の報道が多かった。
本節ではまず、『台湾日日新報』の記事を通して、日本統治期の台湾人が梅蘭芳からど のようなイメージを受けていたのかを分析する。
(一)訪日関連ニュース
梅蘭芳訪日のニュースをいち早く台湾島内で報道したのは漢文欄だが10、その詳しい説 明は和文版の記事に掲載されている。大正八年(一九一九)四月二十五日に梅が東京に到 着した翌日、『台湾日日新報』和文版は梅が下関停泊中にインタビューを受けた内容を掲 載している。この記事は梅を「支那第一名優」と称し、彼の容姿を「美少年」だと強調し ている。これは、台湾紙において初めての梅蘭芳の正式な紹介であるため、彼の来歴や外 見、今後の訪米予定、そしてプライベートな嗜好、例えば菊と朝顔が好きで自宅でハトを 飼っていることなど、芸術と関係のないことまで詳述されている11。この時の梅蘭芳は、
読者にとっては、京劇俳優というより、単なる有名人のような存在に過ぎなかったと言え よう。
『台湾日日新報』に掲載される日本内地のニュースは基本的には政治、経済、対外関係 がほとんどであり、梅蘭芳訪日記事の掲載は、島内在住の日本人もある程度彼に関心を寄 せていたことがうかがえる。和文記事報道の二日後、同紙の漢文欄にも同内容の漢文訳が 掲載された。ただし、和文と漢文の記事はタイトルが異なり、さらに漢文欄には、和文版 に明示されていない「大倉男力勧来朝(大倉男爵、〔梅蘭芳に〕来朝を強く勧める)」とい う記載があり、この訪日は大倉喜八郎(一八三七―一九二八)が深く関わっていたという 背景を特に付記している12。
和文版のほうが詳細に報道されているが、梅蘭芳の日本初公演は、台湾島内の日本人社 会においては大きな反響を呼ばなかったようである。逆に漢文欄では、その記事の掲載後
の同年五月から、梅蘭芳台湾公演の招請をめぐり、非常に活発な議論が起きていた。
大正十三年(一九二四)、梅蘭芳は再び日本に渡った。斉如山(一八七七―一九六二)
の回想録によれば、この訪日は大倉喜八郎の寿宴に出席することを主な目的としたとい う13。しかし、当時のスケジュールを検証してみると、大倉の寿宴で出演した「堂会戯」
は最初の四日間のみで、その後の十一日間は「帝国劇場」改築工事のこけら落とし公演、
続いて大阪と京都方面にも巡業に行ったのである。
梅蘭芳の二回目の日本公演をめぐる報道については、『台湾日日新報』の和文版と漢文 欄がそれぞれの角度から見解を示している。二度目の日本公演の決定後まもなく、漢文欄 は同年六月五日の夕刊に「大倉男が最近、米寿の祝宴を開くため、梅郎は遂に再度日本を 訪問することになった14」と発表し、渡日の目的、出演料、公演日程も明確に記載してい る。和文版の場合は、発表時間は漢文より三ヶ月ほど遅く、来日直前の九月末頃であっ た。また、梅の来日理由については、同記事のタイトル「梅蘭芳 動乱を避け 再び日本 へ」が示しているように、今回の訪日は中国国内で発生した戦乱を避けるためであるとい うことを大いに取り上げ、公演に関する記載は一切ない15。この時の「動乱」とは、同年 九月二十五日に起きた奉直戦争の第二次戦を指す。しかしながら、斉如山や梅の息子の梅 紹武(一九二八―二〇〇五)等の回想録では、誰もこの避難のことに言及していない。つ まり、和文版の記者が何らかの理由で意図的に六月の訪日発表を無視し、訪日の背景を ちょうど同時期に起きた戦争と故意に結びつけた可能性が高いと思われる。
十月二十三日、梅が東京に到着後、和文版はようやく前述の「戦乱疎開」の見解を修正 し、大倉との関連を明示しているが、同記事には依然として北京の戦争中の様子が取り上 げられている16。その一方で、漢文欄は最初から大倉喜八郎に注目し、梅の二度にわたる 訪日公演において大倉の果たした役割を特に強調しており、逆に戦争に関してはまったく 触れていない。これは梅蘭芳報道において『台湾日日新報』の和文版と漢文欄でその内容 が大きく相違する一つの代表的な例である。
二回目の訪日の動機の問題はともかくとして、和文版の報道は一回目の訪日のときより 記載が詳細になっている。梅蘭芳夫婦の写真の掲載のほか、毎日の行動や体調なども追跡 して報道されている。また、梅の知名度が高まり京劇の「男旦」として人気が高まるとと もに、プライベートの面でも、とりわけ男旦であるがゆえに起きるジェンダーに関するト ラブルをからかうような記事もだんだんと増えてきた。例えば、中国の高官たちは梅蘭芳 が日本人に取り込まれてしまわないように、十数名の秘書官を梅の訪日に同行させ、梅の 行動を監視しているという記事があり17、芸術評論の内容も「品優」(男旦の外見を評す ること)的視点がほとんどであった。一方、漢文欄は二回目の公演にはあまり関心を示さ ず、その記事の内容も和文の直訳がほとんどであった。また、和文版の揶揄は漢文欄には 見られなかった。
以上のように、梅蘭芳の訪日は、内地しか訪ねなかったにもかかわらず、『台湾日日新 報』の報道から、外地台湾における内地に劣らぬ旺盛な好奇心がうかがえよう。
(二)芸術の紹介
一回目の訪日公演の際、「京劇俳優」としての梅蘭芳は、漢文欄のほうがより大きく取 り扱っており、梅の代表演目『天女散花』と『黛玉葬花』のブロマイドも掲載している。
つまり、漢文欄の読者は梅の名前も容姿も同時に知ることができ、京劇俳優梅蘭芳の台湾 人社会での認知度向上には極めて効果的だったと考えられる。その後も梅の消息は不定期 に発信され続けているが、梅の芸術を集中的に紹介する文章は大正十三年(一九二四)に なってはじめて漢文欄に掲載された。ただし、その内容は『台湾日日新報』の記者自らが 取材し執筆したのではなく、北京紙掲載の文章をそのまま転載したものである18。
この文章では、梅蘭芳が、家族、経歴、海外公演の成果、本人の性格や交友関係など 様々な方面にわたり紹介されている。家族に関しては、代々京劇を演じる家柄であること やお家芸には深く触れていないが、祖父の梅巧玲(一八四二―一八八二)の生前の善行及 び彼が確立した梅家の家風にとりわけ着目している。梅巧玲が「義伶」と称えられたなど の内容の記事の転載は、おそらく伝統演劇の俳優が蔑視されていた当時の台湾で、梅蘭芳 の由緒正しい出自や一般の俳優とは異なる気品を認識してもらおうという意図があったの ではないかと思われる19。
また、京劇俳優としての功績に関しては、梅蘭芳の「古装新戯」の創作や「古舞」の 復元などが特筆され、「歌舞を合一し、復古の功を有し、皆梅派を重んずる」と述べてい る20。「梅派」という概念の登場ないし京劇の流派に関する情報の受信は、台湾ではこれ が初めてであろう。
和文版の報道は前述した通り、梅をたまたま日本に巡業に来た芸能人程度にしか取り 扱っておらず、その芸術面にはあまり注意を払っていない。昭和十五年(一九四〇)に 王昶雄(一九一六―二〇〇〇)の「団十郎と梅蘭芳」21、昭和十六年(一九四一)に安藤 徳器(一九〇二―一九五三)の「支那の名優と戦時演劇」22という文章が『台湾日日新報』
に掲載されているが、両文とも日本と中国の演劇史を概覧することを目的としているた め、梅蘭芳についても概略的な紹介にとどまっている。なお、両文が発表されたのはすで に戦時中であったため、伝統演劇を国家意識やイデオロギーの受け皿として扱っている嫌 いがあり、純粋な芸術評論とは言いがたい。総じていうと、日本統治期の台湾において は、日本語による梅蘭芳の芸術紹介は漢文により提供された情報よりもかなり少なかった のである。
二 梅蘭芳台湾公演への期待と招聘構想
日本統治時代の台湾において日本人と台湾人が梅蘭芳についてそれぞれ異なる関心の示 し方をしたのは前節の通りであるが、京劇が台湾で流行し、また新聞報道を通して様々な 梅蘭芳情報が入ってくるにつれて、台湾人社会においても「京劇の名優梅蘭芳」という印 象が次第に強まるようになった。そのため、台湾でも梅蘭芳本人の公演を見たいという要 望が高まり、梅蘭芳を台湾に招請しようとする構想が、この頃の梅蘭芳人気と共に現れた
のである。
(一)梅蘭芳台湾招請における資金問題
大正八年(一九一九)、梅蘭芳の東京の帝国劇場公演が始まった数日後、『台湾日日新 報』漢文欄に、梅の『黛玉葬花』と『天女散花』のブロマイドが登載され、同時に「編輯 謄録」というコラムにブロマイド入手の経緯が書かれている。
石崖記す:東京在住の友人が梅蘭芳の写真を送ってくれたが、それは帝劇に出演のと きのもので、演目は天女散花や黛玉葬花などである。同僚にこれを見せると、多くの 人が、彼の容姿端麗でしなやかで美しい姿を現在の女性に求めてもなかなか得られな かろうと言った。彼を台湾に招聘しようと提案する人もいる23。
石崖は漢文欄の編集長を務めている林仏国(一八八五―一九六九)の号である。この二 枚の写真の掲載後、漢文欄には読者からの投書が次々と掲載されたが、その内容はすべ て、コラムにも記されている招聘計画に関するものである。それらの投書は、梅の芸術に 少し触れているものもあるが、より人々の関心を集めたのは梅の出演料の金額と協賛金の 募集方法であった。
もし台湾でも誰か先方に一週間の台湾公演を交渉できる者がいれば、台湾芸術界 の改良や産業の振興につながるだろう。機敏家にやってみないかと聞いてみよう。
一万五千円で交渉が成立すれば、決して損失には至らないだろう24。
我が台湾には芝居好きな人が常にいる。だから、株式を募集し、そして現在東京滞在 中の大和行主辜氏と良德行主呉氏に先方と交渉してもらい、台湾公演をやればよい。
きっと現在第一舞台で公演中の鴻福班より百倍素晴らしいだろう25。
このように、台湾演劇界に梅蘭芳が認識されると、いきなり彼の出演料の話が始まっ た。
なぜ台湾の世論はこれほど招聘費用に注目していたのか。梅蘭芳の一回目の訪日公演に かかった費用から見てみよう。
梅蘭芳の日本初公演の費用は非常に高額だったらしい。本人は「一回目の訪日の主な目 的は、決して経済的な観点から考えたのではなかった。これは単に私が中国古典芸術を宣 伝しようとする企画の第一弾だった26」と述べているが、梅紹武の著した梅蘭芳の伝記の 中では、特に民国初期の主要な演劇雑誌『春柳』の記事を引いて、「梅蘭芳は日本の招聘 に応じ、一ヶ月の公演で出演料は五万元であった。日本で破天荒な高額とされたのみなら ず、中国の伶界にもこの厚遇が伝わり、前例のないことだと言われた27」と、この時の出 演料の高さを説明している。このような高額な出演料により、公演時の観劇料金も通常期
より高くなった。同年五月、梅蘭芳出演時の帝国劇場の「筋書」の記載によると、この時 の観覧料は以下の通りであった。
特等 金 拾円 一等 金 七円 二等 金 五円 三等 金 二円 四等 金 一円28
観劇料が高価であったほか、梅蘭芳は、十二日間の公演しか行わず、さらに形式的には 歌舞伎演目の合間に登場したに過ぎなかったが、大勢の観客が劇場に押し寄せたらしい。
吉田登志子は「梅蘭芳の一九一九年、二四年来日公演報告」で「当時の本興行で特等四円 七十銭(同じ月の歌舞伎座特等四円八十銭)であったから、破格の高さであったといえる が、前売を開始してみると、かえってその高額が人気を呼んで、切符売場は大賑わいと なった29」と梅蘭芳の人気ぶりを述べている。
前節でも触れたが、梅の日本到着の二週間ほど前、『台湾日日新報』漢文欄ではすでに 彼の訪日公演の計画を公表しているが、日本の招請側がまだ資金面で悩まされており、公 演日程は未定であるという内容も記されている。さらに「決して興行収入だけで出演費用 をまかなうことはできない30」とも指摘している。梅の日本到着後、和文版の「梅蘭芳関 門着」という記事にも、今回の「俸給」は三万五千円、と、異なる金額が記載されてい る。
このように梅蘭芳の出演料が植民地台湾で話題になり、前節で示したように、梅蘭芳の 日本公演成功に欠かせない重要なキーパーソンであった大倉喜八郎の名前がしばしば漢文 欄の記事に取り上げられたのだが、これは帝国劇場の経営者であった大倉が、当時台湾に おいても興行事業を展開していたことと関わっている。明治四十二年(一九〇九)に、台 湾初の中国系伝統演劇の上演劇場である「淡水戯館」を建設・経営した中核会社が大倉喜 八郎の「大倉組」台北支店であった31。また、招請の資金問題を至急解決する必要がある ため、台湾にも大倉喜八郎のような政界にも経済界にも強い影響力を持つ人物が現れ、梅 蘭芳の訪台公演を実現させてほしいという期待も込められていたと考えられる。前に引用 した読者の投書の中で、「機敏家」や実業家の辜氏と呉氏が特記されているのも、このよ うな世論の期待を反映したものと言えよう。
ここで挙げられている実業家の辜氏は辜顕栄(一八六六―一九三七)のことである。辜 顕栄は大正五年(一九一六)に、日本人経営者から前述の「淡水戯館」を買収し、「台湾 新舞台」と名を改めて経営を続けた。「淡水戯館」の買収に関しては、台湾総督府による 始政二十周年の勧業共進会において、上海から「天仙班」という京劇団を招請し新たに発 足した「台湾新舞台」に出演させたという経緯があり、その出演費用のほとんどを辜顕栄 一人で負担している32。つまり、辜顕栄の経営者としての背景も財力も、大倉と相当類似
していたため、これが辜顕栄が大衆に期待される要因となったのであろう。
ブロマイドや読者投書の掲載、そして大倉喜八郎に言及したことは、おそらくすべて
『台湾日日新報』漢文欄編集陣による一種の世論操作であったのではないかと推測できる。
他方、台湾のメディアや演劇界が、辜顕栄を始めとする政界、経済界と強い関係を持つ実 業家に頼らなければならない理由は、植民地台湾における興行形態とも関係があった。
日本統治下の台湾では、中国などの海外から劇団を招聘する事業はそれほど簡単ではな かった。梅蘭芳訪日の大正八年(一九一九)までに、すでに多くの上海や福州の京劇団が 台湾へ巡演に来て爆発的な人気を集めたが、当時台湾に巡業に来る中国劇団は基本的に台 湾側から招請を受けなければならなかった。台湾人社会にはまだ専業の興行主が存在しな かったため、その招請手順として、まず台湾の紳士や商人が資金を募集し、先に臨時の
「茶園」や「公司」を設立する。それから、この「茶園」や「公司」の名義で中国側に声 をかけ劇団を招請する。資金には、出演料のほか、交通費、劇場使用料金、税金などさま ざまな費用が含まれていた。経済的な問題のほか、ビザや公演の認可など、煩雑な行政手 続きも解決しなければならなかった33。
京劇の本場はやはり北京なので、「京朝派」の俳優による京劇正統派の演技を鑑賞した いという要望は勿論台湾にもあったのだが、北京より距離が近い上海や福州の劇団のほう が招聘しやすく、費用も比較的安く済むというのも現実的なことであった。
他方、台湾の物価が日本内地より安いことも、もう一つの障壁となった。梅蘭芳の東京 初公演の同年、「京都鴻福班」の台北「太平茶園」における公演の特等席料金は、昼の部 が八十銭、夜の部が一円二十銭であった34。また、大正十三年(一九二四)、梅蘭芳の二 回目の訪日公演の料金は、帝国劇場の観劇料金が「一等席十円、二等席三円、三等席一 円」になり、一等席以外の料金は一回目よりだいぶ下がったが、同年三月の「上海楽勝京 班」の台北「永楽座」での公演の観劇料と比べてみると、永楽座の特等席はわずか一円 五十銭である。同劇団は台北公演を終えた後、引き続き南部へ巡業したが、観劇料は南へ 行くほど安くなる傾向があった。台中の楽舞台では、特等席がまだ一円ほどの水準を維持 することができたが、台南の台南大舞台へ行くと、同レベルの座席は六十銭となった35。 日本統治時代の台湾人の、七人家族の一ヶ月の生活費用は二十円未満だという数字があ る36。つまり、劇場に足を運ぶことは一般人にとって相当贅沢な趣味であったため、梅蘭 芳の公演は、台湾の観劇料をもってすると、やはり赤字になる可能性が極めて高かったの である。
このように厳しい経済的環境下で梅蘭芳を招聘することは、大倉のような有力な人物が 前面に出ないことには、行政手続きや招聘費用が解決できず、さらに公演開始後の観客動 員数と興行収入の採算にも大きく影響する。そのため、『台湾日日新報』がこのように積 極的に発信したのだと考えられる。
そのほか、資金面だけでなく、植民地ならではの政治問題も不可避であった。大正八 年(一九一九)の梅蘭芳公演は反日を中心思想とした五四運動に巻き込まれていた37。こ の五四運動の影響を受けて、台湾人による民族主義運動が芽生え始めることを恐れたため
か、当時の『台湾日日新報』の紙面には偏向報道も見られ38、このように政治的に敏感な 人物の渡台は統治当局に警戒されることが予想された。こうしたことも政商の力に頼らざ るをえない理由の一つだったと考えられる。
(二)台湾博覧会
大正八年(一九一九)の梅蘭芳台湾公演計画は結局何も進展せずに終わってしまった。
そして昭和十年(一九三五年)に梅の公演計画が再び提起される。このときは厦門市長王 固磐が北京に入り、梅蘭芳に厦門公演を要請したというニュースが『台湾日日新報』に よって報道されたことを機に、梅蘭芳の台湾公演が改めて提案されたのである。今回の発 案者は主に厦門在住の台湾人であり、その背景には同年に台北で「始政四十周年台湾博覧 会」が開催されたことがある。
始政四十周年台湾博覧会の一つの会場として、台湾人社会の経済的中心だった「大稲 埕」という地域に、台湾ローカル文化を展示する「大稲埕分場」を開設し、そこに「南方 館」というパビリオンが設立された。もともと「大稲埕分場」の開設は総督府が台湾人の 要求に応じたもので、台湾人の政治的、経済的地位の向上と台湾人街の地域振興が主要目 的であったが、博覧会開始後は、総督府がそれを南洋の植民地成果の重要な宣伝会場とし ていた。「大稲埕」地域の台湾住民はイベント開催のため、「南方館大稲埕助成会」を組織 し、芸者、女給の舞踊、媽祖のお練り、京劇公演などを余興として提案した。梅蘭芳の台 湾公演はこの京劇公演の具体案として提起されたのである。
しかし、台湾博覧会での公演の実現は大正八年(一九一九)よりさらに難しかった。な ぜなら、大正時代の招聘失敗は資金不足が主な理由であったが、今回は政治的混乱に巻き 込まれたからである。梅蘭芳招聘の経緯とその真の目的は、以下の『台湾日日新報』の記 事に記載されている。
台湾博覧会大稲埕分館南方館の幹部、郭廷俊、陳天來、陳清波の諸氏及び全島民は、
梅蘭芳博士が厦門へ赴く機に台湾に渡り、台湾博覧会会期中に何か演目を披露しても らうことを熱望している。このことは前回報じた通りであるが、厦門市長王固磐氏の 側近の話によれば、梅博士は現在欧州各地を巡演しており、まもなく中国に帰るとい う。もし厦門訪問が決定したら、時期はちょうど台湾博覧会開催中であり、博覧会に 出演してもらうのが最も良い。蓋し芸術には国境なく、梅博士の台湾博覧会出演は、
日華親善に大きな影響を及ぼすだろう39。
この台湾博覧会開催の時点で、日本帝国はすでに「十五年戦争」に突入しており、博覧 会を通しての海外植民地の経営成果の宣伝や国力のアピールなどがより一層甚だしくなっ たと言われている40。そのため、こうした微妙なタイミングで、それぞれ侵略国と被侵略 国の立場にあった日本と中国の「親善」のため開催される京劇公演は、純粋な芸術面の交 流とだけ見るにはどうしても無理があろう。
「日支親善」というスローガンは大正八年(一九一九)の東京公演の劇場の外にも掲載 されたことがある。『東京日日新聞』の報道によると、「今度の支那劇には単に劇を見せる という以外、所謂日支親善の意味もあるので劇場の正面入口にも『日支親善』の四文字を 現し、場内の扉口には民国の五色旗と日章旗が交叉されてある」という41。当時の公演は 五四運動の真っ最中だったため、日本在住の中国人留学生が東京で集結して抗議デモを行 い、梅蘭芳側にも数通の脅迫状が届いたという。結局、公演を継続するため、この「日支 親善」の額の取り外しを余儀なくされたという42。
梅蘭芳が日本に来る以前は、日本国内においては彼本人と京劇に対する認知度はそれほ ど高くなかったが、梅は昭和十年(一九三五)までにすでに三回訪日しており、アメリ カやソ連やヨーロッパも訪問した。彼はもはや世界的スターであり、中国のシンボルと もなった43。昭和十年(一九三五)、大日本帝国による侵略戦争が続いている中で、植民 地開発の成果を宣伝する台湾博覧会において、異国情緒が漂う「南方館」という会場で、
「日支親善」のため京劇を上演するという計画は、どう考えても受け入れ難いものであっ たと言わざるをえない。当時の梅蘭芳は、すでに単なる京劇の名優ではなく、至るところ で政治利用が危ぶまれた中国のシンボルだったのであろう。
助成会はその後、何らかの理由で梅蘭芳の招聘を断念し、代わりに上海出身の俳優で関 羽役が得意な「小三麻子」一座を台湾に呼んだ。しかし、出演交渉はやはりあまり順調で はなかったらしい。それについて、『台湾日日新報』では「初めは日華問題のために様々 な流言が広がり、交渉は難航した44」と述べている。つまり、緊張状態に陥った日中関係 は台湾側の中国京劇団招請にも確実に影響を及ぼしたのである。
以上のように、日本統治下の台湾において、梅蘭芳を招請しようとする強い声が二回上 げられたが、植民地という特殊な状況のもと、さまざまな制限があり、梅と日本との関係 は終始政治問題も絡んでいたため、ついに台湾と梅はすれ違ってしまった。しかし、戦前 の台湾における梅蘭芳情報の受信は招請中止により途切れたわけではなく、その空白はラ ジオの放送、レコードの発行、そして上海の女優が演じる梅派戯によって埋められ、台湾 京劇の発展に直接影響を与えたのである。
三 日本統治期台湾における「梅派芸術」の流入経路
(一)レコード発売とラジオ放送
日本統治期において、梅蘭芳本人による台湾公演は実現しなかったが、十九世紀末期か ら二〇世紀初期にかけてのレコードの誕生やラジオの普及など飛躍的に発達した音声メ ディアを通して、梅蘭芳の歌声が台湾にも伝わってきた。
まず、レコードの発行については、徐亜湘が昭和十三年(一九三八)六月の「台湾コロ ムビア販賣株式會社」のレコードの総目録に基づき戦前台湾で発行された中国伝統演劇の レコードの一覧を整理しているが、それによると梅蘭芳のレコードは五枚あり、演目は
『四郎探母』(馬連良と共演)、『覇王別姫』、『太真外伝』、『丁山打雁』(即ち『汾河湾』)、
『楊貴妃』、『打魚(漁)殺家』(馬連良と共演)で45、すべて梅蘭芳の得意演目であった。
これらの演目とその歌い手を「中国京劇老唱片」というウェブサイトに掲載されている梅 のレコードの総目録と照らし合わせてみると、その音源は一九三一年に中国の「百代」よ り発行されたレコードによるものである可能性が高い46。
日本統治期の台湾におけるレコードの発行は、伝統演劇が一つの大きなジャンルとなっ ていた。京劇、北管、南管、歌仔戯、採茶戯、また台湾人芸者(芸妲)による「芸妲戯」
のレコードが大量に発売された。台湾においても名声の高かった梅蘭芳のレコードは、上 記以外にさらに一定の数があった可能性がある。台湾において梅のレコードがどれほど流 通していたのかについては今後の課題としたいのだが、一方で、台湾の植民地時代におけ る音楽の発展を研究している劉麟玉が「レコードを聞くためには高価な蓄音機を所有し なければならず、レコード鑑賞は台湾人の一般庶民にとって容易に享受できる娯楽では な47」いと指摘しているように、おそらく一部の富裕層の間に限り流通していたのであろ う。
レコードのほか、とりわけ昭和三年(一九二八)十一月に開局した「台北放送局48」も
「梅派芸術」の台湾伝播に貢献したようである。
台北放送局の成立初期、番組はすべて日本語による放送で、ラジオ本体も高額だったた め、当時の放送の聴取者は内地人即ち日本人が圧倒的に多かった49。その文芸番組につい ては、内地人向けの邦楽や義太夫節などの日本伝統芸能、また新劇の朗読劇の放送などが あったが、昭和七年(一九三二)以降は、総督府の「国語」政策と「台湾色」の増強を折 衷するという台湾放送協会の方針のもと、本島人向けの「台湾音楽」、例えば地元のアマ チュア団体(子弟団)による北管、南管の演奏などの放送が増えた50。
放送局の成立当初は日本人の聴取者が多数を占めたにもかかわらず、初期の番組表に既 に京劇の放送記録が見られる。例えば、馬連良(一九〇〇―一九六六)、程硯秋(一九〇四―
一九五八)など中国の名俳優の歌唱も台北放送局の放送を通し台湾で聞くことが可能で あった51。前述のように京劇は当時すでに主な大衆娯楽の一つになっていたため、台湾人 子弟団の「京調(=京劇の音楽と歌唱)」演奏も取り上げられたのである。
梅蘭芳を取り上げた番組の宣伝広告や、それを明記した番組表は現時点でまだ見つかっ ていないが、昭和十二年(一九三七)七月十七日の『台湾日日新報』に掲載されている
「蘅秋」という人物による一首の漢詩から、台北放送局が梅の歌唱を放送した可能性のあ ることがうかがえる。
「戯贈渭雄君放送京調」
一曲青衣按二黄、嬌声遥送電波将、夜深散入家々去、錯認梅郎是女郎52。
(訳)青衣が二黄を一曲歌い、その美しい歌声は電波に乗り、遥か遠く夜更けの人家 に流れてゆき、(その歌声を聞いた人びとは)梅蘭芳を女性だと勘違いしてしまう。
作者の蘅秋は戦前早稲田大学にも留学していた「呉蘅秋」のことで、渭雄は「陳渭雄」
であり、二人とも台湾中部に位置している「彰化」を拠点とした漢詩社「應社」の主力メ ンバーであった。京劇は日本統治下の台湾人社会を中心に終始流行し、また戦後陳渭雄が 京劇の歌唱を披露した記録も存在している53。この漢詩に記された梅蘭芳の歌唱のラジオ 放送の記録は間違いないと考えられ、台湾のラジオからも梅蘭芳の歌が流れていたという 事実を裏付ける極めて重要な傍証だと言えよう。
(二)上海の京劇団が演じる「梅派戯」
梅蘭芳は、日本公演の前に何度か上海公演を行っており、上海において梅蘭芳ブームを 巻き起こした。梅蘭芳は北京とは相当異なる上海の審美意識から新たな刺激を受け、一時 期的にストーリーの近代性や舞台面の視覚的要素を強化した「時装新戯」や「古装新戯」
の制作に没頭した54。特に「古装新戯」のほうは、ビジュアル重視の上海の観客に好まれ、
上海の京劇団もそれを速やかに吸収し、台湾公演の出し物にした。
1.梅蘭芳の「古装新戯」の上演とその宣伝
大正八年(一九一九)、梅蘭芳訪日の数カ月後、「京滬名伶」によって組織され、八月か ら台湾で巡業していた「上海天勝京班」がいち早く梅蘭芳の「古装新戯」の代表作である
『黛玉葬花』の公演予定を発表した。管見のかぎり、この九月の「嘉義座」での『黛玉葬 花』の公演は55、台湾における「梅派戯」の最初の上演記録である。
このときの公演に関して、『台湾日日新報』は、上海公演時の観客の熱狂ぶりのほか、
梅の日本公演の状況も紹介している。
本年の春頃、梅蘭芳が東京で上演した。名公巨卿や各界の人びとは、その優雅な台 本、美しい歌詞のため、皆鑑賞したくてたまらなかったのである。したがって、この 演目は十日間連続で上演され、客席はいつもいっぱいだった。数日前にチケットを購 入しないと当日の入場は無理だ。この度、本劇団がこの演目を上演することになった ので、南方在住の各界の人びとは先を争って見に行くことだろう56。
『台湾日日新報』の報道は事実とは若干違う。梅蘭芳の東京公演はもともと『天女散花』、
『貴妃酔酒』など十一演目を用意したが、日本では毎日上演演目を変える習慣がないため、
結局上演されたのは五演目しかなかった。そのうち、大倉喜八郎の気に入った『天女散 花』が五日間連続で上演され57、『黛玉葬花』の上演は二日間だけであった。
この紹介文から、「上海天勝京班」が梅蘭芳の東京公演の演目を意識して出し物を組み、
『黛玉葬花』を上演したことが分かるが、その後、『黛玉葬花』はこの「上海天勝京班」の 台湾巡業の一つの看板演目になったようである。同年の十二月、大正九年(一九二〇)、
大正十一年(一九二二)と、台湾巡業に来るたび、ほぼ必ず『黛玉葬花』を上演した。他 方、上海の京劇団が『黛玉葬花』を偏愛した理由に関連して、『申報』では、「梅蘭芳が民
国五年に上海に来た際、集客のため、新作の古装劇『黛玉葬花』を披露した。上演するた びに、必ず大入り満員。その評価は『嫦娥奔月』よりさらに高い58」と報道している。こ の記事から、梅蘭芳上海公演時の同劇の人気の高さがうかがえる。この人気にあやかっ て、台湾巡業の上海劇団が迅速に同劇を取り入れ、海外で披露して興行の成功を期したこ ともよく見て取れる。
『黛玉葬花』のほか、『天女散花』も「古装新戯」の演目の一つである。『天女散花』は 梅蘭芳の「舞踊劇」の最高峰と評価され、日本でのデビュー作でもある。また前述の通 り、大倉喜八郎が極めてこの演目を好み、帝国劇場では五日間連続で上演させたという。
この演目のストーリーは仏教の『維摩経』に取材しており、日本人には共感しやすい内 容だったためか、大正十三年(一九二四)に、中村歌門(一八八九―一九四一)によって 歌舞伎に移植され、浅草の吾妻座で日本語で上演されたことがある59。このように日本で 好評だった演目は台湾島内でも上演されたが、出演者は勿論依然として上海の女優であっ た。
台湾初演の際、『台湾日日新報』の紹介文では、「昨年、梅蘭芳が東京で上演し、相当な 好評を博した。今回は金美紅が演じる予定である。会社は費用を惜しまず、セット及び照 明装置も新たに加え、特製の衣装も準備する60」として、再び東京での公演の盛況を宣伝 文句にしているほか、出演する俳優よりも、舞台装置や衣装の方を観客に強くアピールし ようとする意図もうかがえる。
ここでまず注目すべきことは、前に引用した二つの紹介文で、上海の京劇団が「梅蘭芳 がかつて東京で公演した名作」という宣伝文句を掲げて広告を打っていることである。上 海の京劇女優は、台湾で梅蘭芳の「古装新戯」を上演する際に、つねにこのような文言を 掲げ、「梅蘭芳」と「東京」を組み合わせて宣伝文句とした。台湾の観衆に注目されんが ため、明らかに「東京で大人気の梅蘭芳」というイメージを創り上げているのだが、これ は当時、台湾人には、帝都東京は各領域にわたって先端をゆく文明的な都市であるという 意識があり、上海の京劇団は台湾人のこうした帝都東京への憧憬を利用したことが看取で きる。
さらに、当時の台湾における観客の言語理解の問題にも注意しておく必要がある。日本 統治下の台湾においては、「国語」はもちろん日本語であったが、「本島人」即ち台湾人社 会での公用語はビン南語や客家語である。京劇で使われる中国北方の言葉は当時の台湾人 にとってはあたかも外国語のようであった。京劇の歌やセリフによる演技を鑑賞するには 大きな言葉の壁が存在するため、渡台した上海の京劇団は視覚的な面白さをさらに強調 し、もともと海派京劇の特長であった斬新できらびやかな大道具や仕掛けを台湾公演にも 導入し、また立ち回り中心の「武戯」やストーリー性が強い「連台本戯」を主な呼び物と した61。
戦後、顧正秋は初めて台湾の舞台に立つにあたり、台湾人の言語理解の問題に頭を悩ま せたことがある62。しかし、当時の観客構成は、既に京劇に相当馴染んでいた本省(台湾)
人と、大陸から移住してきた外省人がそれぞれ半数程度を占めていたため、実際には言葉
の問題は全く顧の公演の妨げにならなかったそうである63。ところが、戦前の台湾では中 国出身者はごく僅かであり、京劇の劇場の観客は本島人と内地人(日本人)がほとんどで あった64。言葉が通じない土地に巡業に来た上海の劇団は、おそらく日本の、東京以外の 地方都市へ来たような感覚であっただろう。これは「東京」の舞台に登場した梅蘭芳を宣 伝などで強調したもう一つの理由だと考えられる。
2.上海の女優と「梅派芸術」
『黛玉葬花』や『天女散花』のほか、古装新戯シリーズの第一作である『嫦娥奔月』、ま た梅派戯の名作『貴妃酔酒』も台湾で上演されたことがあるが65、それ以外の梅派戯の上 演記録は、管見の限り存在していない。古装新戯の特質について、平林宣和は、高雅清浄 な味わい、歌舞の要素、古装のデザイン、さらに舞台照明などの現代技術の活用が極めて 重要な構成要素であると指摘している66。台湾人の観劇嗜好は本稿冒頭で言及したように、
舞台に「視覚的な演技やストーリーの面白さ」を求めることにあった。そのため、古装新 戯のように華やかな衣裳、歌舞、舞台装置など目新しい要素が揃っている演目を台湾で上 演することは、興行の観点から見れば、従来の上海スタイルの京劇の特長をより一層発揮 し、相当な集客力を持ちえたと考えられる。言い換えると、日本統治下の台湾における古 装新戯の上演は、「梅派芸術」の伝播を意識して選んだものではなく、むしろ台湾人観客 の好みに迎合するというまったくの興行的策略であったのではないだろうか。
日本統治期に訪台した上海の女優に「崔金花」という人物がいた。彼女はもともと上海
「醒鐘安京班」の看板女優として上海の京劇界で活躍しており、『貴妃酔酒』や『麻姑献 寿』など梅蘭芳が改良した演目が得意だったという67。彼女は台湾においても『天女散花』
を何度か上演し、自身の代表作としていた。台湾を去る際に、自分の『黛玉葬花』と『天 女散花』のブロマイドを記念品として台湾の観客に配ったという記事が『台湾日日新報』
に掲載されている68。台湾においては、崔金花は梅蘭芳の分身的存在のように見えたのだ が、一方、当時の『台南新報』に掲載されている彼女の出演舞台の広告では、以下のよう に紹介されている。
彼女が演じる演目は梅伶の真似をしたものが多い。その所作は梅ほど美しくはないも のの、またよく似ているところもある69。
前に言及した台湾で初めて梅蘭芳の『黛玉葬花』を上演した「上海天勝京班」の女優
「金美紅」も、同じような「真似」や「所作は梅ほど美しくはない」といった批評を受け た70。金美紅や崔金花は、梅蘭芳に入門し「梅派戯」を系統的に学んだ記録が見つからな いため、おそらく梅の人気に乗じて彼の演目をこっそり独学した大勢の女優の一人に過ぎ なかったようである。台湾の観客は金美紅や崔金花の公演を通して、梅の古装新戯を観賞 することができ、観客にも広く受け入れられたようだが、新聞記事の内容から見ると、植 民地台湾の観衆に認識されたいわゆる梅蘭芳の芸術は、本物の芸術的水準と比べるとやは
り一定の隔たりが存在したと言っても過言ではないであろう。
「梅派」の確立を象徴する代表作『西施』、『生死恨』、『宇宙鋒』、『鳳還巣』など、全般 的に形式は簡素ながら重厚な雰囲気が漂う舞台、また梅蘭芳自身のこだわった淑やかで奥 ゆかしい女性像は、梅の正真正銘の弟子顧正秋が台湾に来てはじめて台湾の劇場で披露さ れる機会を得たのである。またこれは当然、前述のように、戦後の外省人の台湾移住によ り本場の京劇芸術に対して高い鑑賞能力を持つ観客が大幅に増えたことも決して無視でき ない要因である。
むすびに
上海の女優が、北京の名優が東京で上演した演目を台湾で演じるという妙な組み合わせ は、植民地台湾ならではの現象だったと言えよう。当時台湾は中国と日本の二つの強力な
文化(Powerful culture)のはざまにあり、その文化形成の複雑性や重層性も、本稿で検討
した梅蘭芳の事例により改めてうかがえる。
日本統治下の台湾における梅蘭芳受容の過程には、つねに上海と東京が介在していた。
この時期の台湾における京劇の発展が演技、演目、演出などの点から見て、北京より上海 からの影響が強かったことは間違いない。しかし、その京劇の名優個人に関する情報の発 信地としては、意外にも日本が部分的に大きな役割を担っていたのである。それは当時の 台湾社会が頻繁に日本内地と交流し、各方面で日本の強い影響を受けていたからである。
日本統治期には、台湾の観客は京劇の流派芸術には比較的無関心であり、台湾における 梅派の伝承は、国民党政府が一九四九年に台湾へ移転してから本格的に始動したのも事 実である。しかし、戦後、台湾人によって組織された「宜人京班」の主演女優李純蓮が 過去の自分の『天女散花』のブロマイドを公開したことを機に71、梅派の台湾流入のルー トについて新たに再考を促されることとなった。この「宜人京班」の源流は、大正五年
(一九一六)に結成され戦前台湾において最も代表的な本地京班であった「廣東宜人園」
にさかのぼることができる。日本統治期において梅蘭芳とその梅派の弟子の台湾進出はつ いに叶わなかったが、台湾人女優が出演した梅派戯の記録の発見により、植民地時代にお ける梅派芸術の伝播についてはおそらくまだ解明されていない水脈が存在していると考え られる。そしてその空白の歴史は今後、上海女優ではなく、台湾人自身によって埋められ る可能性があるであろう。
【表1】『台湾日日新報』における梅蘭芳関連記事一覧
タイトル 掲載日 版次 言語
1 賈郎曲(漢詩) 1912-11-04 3 漢文 2 梅郎東行之確定 1919-04-13 6 漢文 3 梅郎東行之確定(續) 1919-04-14 4 漢文 4 梅蘭芳關門著(廿五日門司發) 1919-04-26 2 和文
タイトル 掲載日 版次 言語 5 梅蘭芳入京(廿六日東京發) 1919-04-27 7 和文 6 名優梅蘭芳來朝 1919-04-28 4 漢文
7 編輯謄錄 1919-05-04 6 漢文
8 蟬鳴蛙鼓 1919-05-06 6 漢文
9 天女散花 梅蘭芳(ブロマイドのみ) 1919-05-07 6 漢文
10 蟬鳴蛙鼓 1919-05-07 7 漢文
11 黛玉葬花 梅蘭芳姜妙香(ブロマイドのみ) 1919-05-09 5 漢文 12 母國觀光蒙瀛社諸友餞別賦此竝希郢正(漢詩) 1919-05-14 6 漢文 13 母國觀光蒙桃社諸吟友盛餞賦此竝希郢正(漢詩) 1919-05-14 6 漢文 14 梅郎曲(漢詩) 1919-05-15 5 漢文 15 天女散花曲為梅郎作(漢詩) 1919-05-21 6 漢文 16 支那劇(漢詩) 1919-05-22 7 漢文 17 梅蘭芳之消息 1920-04-09 6 漢文 18 名優梅蘭芳與銅像 與一部人之計畫 北京華婦之歡迎 1920-07-21 6 漢文 19 梅蘭芳助賑一言 1921-01-21 6 漢文 20 日支親善の要訣(下) 1921-01-25 3 和文 21 梅蘭芳の人氣大總統以上 1922-10-30 2 和文 22 梅郞大見歡迎 1922-10-31 5 漢文
23 梅蘭芳 1924-01-11 6 漢文
24 支那劇から 刺戟きろゝ臺灣の劇壇 上海に萌した劇の
新要求 本島にも見ろ梅蘭芳の流 芽ふく本島 1924-03-24 5 和文 25 梅蘭芳又將渡日 1924-06-05 夕4 漢文 26 梅蘭芳 動亂を避け 再び日本へ 1924-09-28 夕2 和文 27 梅蘭芳已至 1924-10-13 4 漢文 28 座員三十五名を伴ひ 梅蘭芳氏來る 大倉男米壽の祝
に出演する為 1924-10-13 5 和文 29 中華第一の美男 梅蘭芳氏夫妻來阪(写真付) 1924-10-19 夕2 和文 30 名優梅蘭芳に對する 支那大官連の杞憂 日本人に愛を
移さぬ樣 目附役を隨行させて居る 1924-10-27 夕2 和文 31 寫真通信 照葉と梅蘭芳(写真付) 1924-11-15 5 和文 32 梅蘭芳 疲勞で病氣 歸國期遲る 1924-11-16 夕2 和文 33 梅蘭芳以病遲歸 1924-11-16 夕4 漢文 34 梅蘭芳 廿二日神戶發 1924-11-22 夕2 和文 35 梅蘭芳出發 1924-11-24 3 和文 36 新劇之梅蘭芳 1925-04-05 4 漢文 37 趣語/炒梅蘭芳一大碗 1925-08-24 4 漢文 38 支那劇から唆らるゝ支那趣味 1926-01-27 夕3 和文 39 梅蘭芳妻妾爭風 1926-04-22 夕4 漢文 40 守田勘彌が梅蘭芳と北京で共演 1926-07-31 3 和文 41 梅蘭芳創製氷衣 1926-09-18 4 漢文
タイトル 掲載日 版次 言語 42 美國唯一之中華戱園 極意表揚中華文化藝術 竝託人函
索梅蘭芳影片 1926-10-14 夕4 漢文
43 梅蘭芳陪宴 1926-12-28 夕4 漢文 44 梅蘭芳專集 1927-01-11 夕4 漢文 45 奧國跳舞家 從梅蘭芳學技 1927-01-23 4 漢文 46 名優梅蘭芳 佛國を經て 米國へ 1927-05-19 夕2 和文 47 名優梅蘭芳 在北京被綁未遂(上) 反銃斃座客張漢擧 1927-09-26 夕4 漢文 48 名優梅蘭芳 在北京被綁未遂(中) 張汪被拉去情狀 1927-09-27 夕4 漢文 49 名優梅蘭芳 在北京被綁未遂(下) 殺人匪亦被擊斃 1927-09-28 夕4 漢文 50 梅蘭芳被綁續聞 梅李爭冬未肯降 京中盛道犯人為情而
死 1927-10-08 夕4 漢文
51 梅蘭芳自述案情(上) 云與李某不相習 1927-10-11 4 漢文 52 梅蘭芳自述案情(下) 云與李某不相習 1927-10-12 4 漢文 53 無腔笛 蔣中正於百忙中 1928-05-14 夕4 漢文
54 梅蘭芳廣東へ 1928-11-21 7 和文
55 梅蘭芳一行百餘名於廣東海珠戲院扮演 1928-11-21 4 漢文 56 梅蘭芳渡美 一日出演料 契約一萬元 1929-09-25 4 漢文 57 梅蘭芳 米國に旅興行 1929-12-27 夕2 和文 58 梅蘭芳の歡迎會(写真付) 1930-01-28 夕2 和文 59 梅蘭芳の介添で 美しい集ひ 1930-07-16 夕2 和文 60 梅蘭芳の歡迎茶話會(写真付) 1930-07-20 夕2 和文 61 現代支那の三花形 同船でロシアへ 1935-03-02 夕2 和文 62 錦上花を添ゆべく 南方館の新趣向 1935-04-19 7 和文 63 梅蘭芳を臺灣へ 廈門の邦人間に話起る 1935-05-24 7 和文 64 廈門市長王固磐氏 要請梅蘭芳往廈開演 邦僑望乘機到
臺博公演 1935-05-24 夕4 漢文 65 劇界泰斗梅蘭芳博士 若得於臺灣博出演 於日華親善影
響實大 1935-05-31 夕4 漢文
66 梅蘭芳の厦門行き 決まれば臺博の頃 臺灣からの招聘
熱望に 王厦門市長好意を示す(写真付) 1935-06-06 夕2 和文 67 今秋臺灣博 迎北港媽 奉祀於龍山寺 1935-06-23 12 漢文 68 支那芝居読本広告(寫真は梅蘭芳の「打漁殺家」) 1936-04-21 7 和文 69 中華劇界四大名旦/一、梅蘭芳 1937-03-02 8 漢文 70 戲贈渭雄君放送京調(漢詩) 1937-07-17 夕4 漢文 71 女形藝術禮讃 歌舞伎と支那劇の研究(五) 1940-02-17 夕4 和文 72 團十郎と梅蘭芳 歌舞伎と支那劇の研究(十五) 1940-03-01 夕4 和文 73 支那の名優と 戰時演劇(一)/梅蘭芳(写真付) 1941-10-23 夕4 和文 74 中國の名優梅蘭芳 飜然和平陣營へ 廣東にて山口特派
員發 1942-08-01 夕2 和文
註
1 徐亜湘『日治時期台湾戯曲史論』(南天書局、2006)、155−164頁。
2 原文は「此一外來的劇種可以説在當時已經深刻地在地化、内化而成為本土劇種了。」
同上書、66頁。
3 徐亜湘『日治時期中国戯班在台湾』(南天書局、2000)、192頁。
4 王安祈『台湾京劇五十年(上冊)』(国立伝統芸術中心、2002)、35頁。
5 同上書、34頁。
6 同上。なお「顧劇団」の「永楽戯院」における上演演目については、同書に収録され ている一覧表(212−257頁)を参照されたい。
7 『台湾日日新報』は明治二十九年(1896)創刊の『台湾新報』と『台湾日報』二紙を 併合したものである。
8 「賈郎曲」『台湾日日新報』大正元年(1912)十一月四日、第3版。
9 梅蘭芳の訪日回数は実は四回あり、一九一九年、一九二四年、そして戦後の一九五六 年は公演のため、一九三〇年は訪米時に日本へ立ち寄った。
10 「梅郎東行之確定」『台湾日日新報』大正八年(1919)四月十三日、第6版。
11 「梅蘭芳関門着」『台湾日日新報』大正八年(1919)四月廿六日、第2版。
12 「名優梅蘭芳来朝」『台湾日日新報』大正八年(1919)四月廿八日、第4版。
13 斉如山は回想録で、「後來大倉喜八郎生日,又去演過一次,但是那完全是演慶壽的堂 會,與第一次之性質,完全不同。蘭芳自己也以為到日本去過兩次,多數也如此説法,但 論其精神價値,則差多了,所以第二次,我沒肯同去。(その後、大倉喜八郎の誕生日の ため、再び公演に行ったが、今度は目的が誕生日祝いの「堂会」に過ぎないため、一回 目の公演とは全く性質が違ったのだ。蘭芳自身も日本には二回行ったと考え、多くの人 もそう思いこんでいるのだが、この二回目の精神や価値を言えば、まるで違うので、二 回目の公演は私は同行しなかったのだ。)」と二回目の動機を述べている。斉如山『斉如 山回憶録』、『斉如山全集』(聯経出版、1979)、第十冊、頁6138。
14 原文は「為大倉男最近,將開米壽祝,梅郎遂決定再向日本一遊。」「梅蘭芳又將渡日」
『台湾日日新報』大正十三年(1924)六月五日、夕刊第4版。
15 「梅蘭芳 動亂を避け 再び日本へ」『台湾日日新報』大正十三年(1924)九月廿八 日、夕刊第2版。
16 「座員三十五名を伴ひ 梅蘭芳氏來る 大倉男米壽の祝に出演する為」『台湾日日新 報』大正十三年(1924)十月十三日、第5版。
17 「名優梅蘭芳に對する 支那大官連の杞憂」『台湾日日新報』大正十三年(1924)十月 廿七日、夕刊第2版。
18 同文は梅蘭芳後援団体の主要メンバーの李釈戡(一八九四―一九六一)が執筆したも ので、のちに複数の新聞や書物に転載されているため、『台湾日日新報』が具体的にど の著作から転載したのかは検証が難しい。なお、「梅派」という概念に言及したのはこ の文章が最初だという。呉開英『梅蘭芳芸事新考』(中国戯劇出版社、2012)、10−11頁。
19 日本統治期下の台湾でも中国の風習が残り、昔から人びとの出身・職業・身分などに より、それぞれを「上九流」と「下九流」の社会階層に区分する旧慣があった。大正期 において、台南地方法院検察局で通訳を務めていた片岡巌(生没年不詳)は自力で当時 の台湾の風習や文化を入念に調査し、その調査成果に基づき『台湾風俗誌』を書いた。
同書では「上九流」「下九流」といった社会的なランク付けにも注意を払い、詳細に説 明している。その内容によると、当時役者は「下九流」に入っているばかりか、その順 位が娼妓の次であるという。さらに台湾人が役者を「搬戯的(芝居をやっているやつ)」
と呼び侮蔑の対象であったことも記されている。片岡巌『台湾風俗誌』(台湾日日新報 社、1921)、183頁。
20 原文は「歌舞合一。有復古之功。群以梅派尊之」、「梅蘭芳」『台湾日日新報』大正 十三年(1924)一月十一日、第6版。
21 「団十郎と梅蘭芳」『台湾日日新報』、昭和十五年(1940)三月一日、夕刊第4版。
22 「支那の名優と戰時演劇(一)」『台湾日日新報』昭和十六年(1941)十月廿三日、夕 刊第4版。
23 原文は「石崖按,寓京友人所寄梅蘭芳數片。蓋描其出演帝劇。如天女散花。黛玉葬花 者。同人閲之。多謂其形神體態之曼妙輕盈。求之當代女界。良不易得。因有提議聘之來 臺者。」「編輯謄錄」『台湾日日新報』大正八年(1919)五月四日、第6版。
24 原文は「若臺灣有人。向他交涉來臺開演一禮拜。則臺灣藝術界當因而改良。市面當因 而殷賑。問機敏家何不起而提唱。若萬五千圓交涉得來。決不至於損失也。」「蟬琴蛙鼓」
『台湾日日新報』大正八年(1919)五月六日、第6版。
25 原文は「而咱臺灣素有好戯癖者。何不募集股株。托目下滯京中大和行主辜某。及良
德行主呉某。向他交涉。到臺開演。勝現在第一舞臺開演之鴻福班百倍也。」「蟬琴蛙鼓」
『台湾日日新報』大正八年(1919)五月七日、第7版。
26 原文は「第一次訪日的目的,主要並不是從經濟觀點著眼的。這僅僅是我企圖傳播中國 古典藝術的第一炮。」梅蘭芳『東遊記』、梅紹武ほか編『梅蘭芳全集』(河北教育出版社、
2000)、第四冊、29頁。
27 原文は「梅蘭芳就日本之聘,言明一個月。出五萬元之包銀,在日本以為破天荒之高 價,而中國伶界得知此之重聘,亦未之前聞。」梅紹武『我的父親梅蘭芳』(中華書局、
2006)、69頁。
28 早稲田大学演劇博物館蔵「大正八年五月帝国劇場筋書」(08295-30-1919-05-01)
29 吉田登志子「梅蘭芳の一九一九年、二四年来日公演報告」、『日本演劇学会紀要』(第 24号、1986年1月)、76頁。
30 原文は「決不能僅恃賣座之收入。以為支付。」「梅郎東行之確定」『台湾日日新報』大 正八年(1919)四月十三日、第6版。
31 「淡水戯館」の建設経緯についは徐亜湘『日治時期台湾戯曲史論』(注1に掲出)、
90−92頁が詳しい。
32 同上書、93頁。
33 徐亜湘『日治時期中国戯班在台湾』(注3に掲出)、112−119頁を参照されたい。
34 邱坤良『舊劇與新劇 日治時期臺灣戲劇之研究(一八九五〜一九四五)』(自立晩報 社、1992)、83頁。
35 徐亜湘『日治時期台湾戯曲史論』(注1に掲出)、128頁。
36 陳柔縉「王永慶早年的兩百円有多大?」『聯合報』2008年10月26日、A4版。
37 袁英明『東瀛品梅―民国時期梅蘭芳訪日公演叙論』(北京大学出版社、2013)、37−41 頁、304−305頁を参照されたい。
38 五四運動が日本統治下の台湾に直接影響を与えたか否かについては、歴史認識により 意見が分かれているが、台湾人による民族主義運動の開始とされる「台湾文化協会」の 成立やその機関紙『台湾民報』の発行は、五四運動の流れを汲んでいるという見方もあ る。陳芳明『台湾新文学史(上)』(聯経出版、2011)、50−51、60頁を参照されたい。
また『台湾日日新報』の偏向報道については、簡明海『五四意識在台湾』(国立政治大 学歴史研究所博士論文、2008)、35頁を参照されたい。
39 原文は「臺灣博覽會大稻埕分館南方館幹部郭廷俊。陳天來。陳清波諸氏。キ全島民。
熱望梅蘭芳博士。到廈門時。乘機渡臺。於臺灣博覽會會期中。出演一節。已如前報。茲 據廈門市長王固磐氏近邊之人談云。梅博士。現尚在歐洲各地巡迴。擬於最近歸華。倘來 廈決定。時期恰値在臺灣博覽會開會中。若得往博覽會最佳。蓋藝術無國境。梅博士若到 臺灣博覽會出演。於日華國交之親善影響至大也。」「劇界泰斗梅蘭芳博士 若得於臺灣博 出演 於日華親善影響實大」『台湾日日新報』昭和十年(1935)五月卅一日、夕刊第4 版。
40 程佳恵『1935年台湾博覧会之研究』(国立中央大學歴史研究所碩士論文、2001)、75 頁。
41 『東京日日新聞』大正八年(1919)五月三日、第8版。
42 「梅蘭芳に脅迫状が舞込む 日本人のために舞台に立つとは何事ぞやと凄文句 日支 親善の額を撤して開演を続ける」『東京朝日新聞』大正八年(1919)五月八日、第5版。
43 斉如山『梅蘭芳遊美記』(商務印書館、1933)、4頁。
44 原文は「初因日華問題,種種流言,難於交涉。」「稻江南方館聘京班 決定小三麻子一 座」『台湾日日新報』昭和十年(1935)九月九日、第8版。
45 「日治時期台湾発行之中国戯曲音楽唱片目録」、徐亜湘『日治時期中国戯班在台湾』
(注3に掲出)に収録、257−258頁。
46 「中国京劇老唱片」(https://oldrecords.xikao.com/person.php?name=%E6%A2%85%E5%85
%B0%E8%8A%B3、最終閲覧日2020年12月15日)
47 劉麟玉「日本コロムビアの歴史と共に歩んだ植民地台湾のレコード産業」、『民博通 信』(140期、2013年3月)、22頁。
48 日本統治時代の台湾においては、ラジオ放送局は台北放送局(1928)のほか、台南放 送局(1932)、台中放送局(1935)、嘉義放送局(1942)、花蓮港放送局(1944)、計五局 があった。(( )内は開局年)