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「日本人のような自然な日本語」という虚像について金 龍男

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Academic year: 2021

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1.突然の手紙

今年の春先,よく知らない人から突然メールが届いた。去年,同僚の先生数名と共同執 筆で本1)を出版したことがあるが,メールの送り主曰く「それを自分のクラスの学生た ちに読ませた。学生たちがキム先生宛てに手紙を書いているのでどうぞ読んでください」

という内容だった。添付された手紙は,現在タイのある私立大学で主専攻として日本語を 学んでいる大学生18名からだという。

メールの送り主は自分を大学院の後輩だと紹介したが,最初,私はどうしても思い出せ なかった。さらに,私にはこれといったタイ国関係者との交流もなかったため,「この人 は誰?」「タイの学生たちが私に手紙を書いた?どういうこと?」と,ずいぶん戸惑って しまった。何もかもが謎で不思議な気分だったが,学生たちがキム先生宛てに書いたとい うので,取りあえず彼らからの手紙に目を通し始めた。そして,手紙を読み進めると,今 度はなんと徐々に胸がムカムカしてくるのである。軽く目まいも起きそうになって,みぞ おち辺りもぐっと痛くなってきたので,途中,手紙を読むのを止めて一度,深呼吸しなけ ればならなかった。

手紙では,顔も知らないタイの大学生たちが必死になって私にいろいろと質問を投げか けていた。一面識もない私にいきなり「キムさんに聞きたい。教えてください!」と切々 と訴えていたが,私に答えられるものは一つもなかった。そして,そのようなことよりも まず,「こんなことを聞くために,はるばる日本の私にまで手紙を出したのか」と思い,

気持ちがますます複雑になるばかりだった。もし手紙を書いた人が今,隣にいるなら「あ エッセイ

「日本人のような自然な日本語」という虚像について

金 龍男

要旨

日本語学習者の中には自身の学習到達目標を「日本人のような自然な日本語」の駆使と 設定し,その達成を目指し,学習に邁進する人が少なくない。特に日常生活上の主言語が 日本語でない地域で第二言語として日本語を学ぶ学習者に,このような目標設定が顕著で はないかと思われる。先日タイから送られた現地大学生の手紙の多くも「日本人のように 話したい」という熱望と共に,そのための学習法を問いかけるものだった。学習者が目指 す「日本人のような日本語」とは,「学習によって最高に到達できる頂点」を表す象徴的 な目標のようである。ところが日本語の習得に全力を尽したとしても,決して日本語が「日 本人のような」ものになることはない。虚像に過ぎない「日本人のような日本語」を指向 する学習態度から,コミュニケーションのための「もう一つの言語的手段」の習得を目指 す学習へと学習者の認識転換を導くことも教師の使命の一つと言えるのではないか。

キーワード: 海外での日本語学習,日本人のような日本語,自然な日本語,学習到達 目標,認識転換

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なたは何も悪くない。今のままで十分よ!」と励ましてあげたかった。

さらに,私の複雑な気持ちにはもう一つ理由があった。それは,彼らが私に投げかけて いる様々なことばが,私には何一つ目新しくないということだった。確か,十数年ほど前 に日本語の学習者だった私自身も,今の彼らと同じことを悩みとして抱えていた。タイの 大学生の声は,過去,日本語を勉強しながらヤキモキしていた頃の私自身の姿とちっとも 変わらなかったのである。彼らが今の私に投げかけた質問への答えを,昔は,私も必死に なって探し求めたことがある。だからこそ,手紙を書いた彼らの気持ちが身にしみるほど よくわかっていた。手紙を読み進めるうち,徐々に目まいがしたり気分が悪くなったりし たのは,恐らくこのためだと思う。

私が学生だった時代からすでに十数年もの年月が経っている。それなのに今の学生たち もなお当時の私と同じ悩みを抱えていた。とすると,日本語教育のある側面は私が学生 だったあの頃から今に至るまで「何も変わってない」という意味になるのか?

タイからの突然の手紙は,私自身の過去を振り返らせ,同時に日本語教師となった今の 自分を改めて見つめ直すきっかけを与えていた。本エッセイではタイの大学生からの手紙 の一部を紹介すると共に,過去,学習者だった私自身の経験を振り返ることで,日本語教 育の「何も変わってない」側面について考察しようと思う。

2.ことの発端

タイから私にわざわざメールと手紙を送ってくれた人は,何年か前に一瞬ではあるが顔 合わせをしていたことが,後になってようやくわかった(以下,Zさんと表記)。私と共 同執筆をした他の先生のクラスに当時TAとして入っていた人で,クラス終了時の集合写 真にみんなと一緒に写っていた。写真撮影時に軽く初対面の挨拶を交わしたのみで,Zさ んとはそれっきりだったため,メールを受け取った当初,誰だかさっぱりわからなかった のである。その後,Zさんは大学院を無事修了し,今のタイの大学に復職していたという。

そして,先学期は3年生対象の「リーディング3」というクラスを担当し,私と仲間たち が出版した例の共同執筆の本の一部を授業中の読み物の一つとして扱ったとのことだった。

学生たちが読んだのは,私が本の前書きとして書いた「学習者として教師として―日本 語学習のライフストーリーから」2)という文章の中の「実感のないことば」3)という小見 出しがついた項だった。私は,韓国国内で日本語を学んでいた頃は非常に優秀な学生だっ たが,その後,日本に渡り,毎日の生活の中で実際に日本語を用いるようになったら,ど ことなく自分の話す日本語を不自然に思い,いろいろ悩んだことがある。しかし,当時は 何をどう改善すれば良いのかも分からず,日本語でのコミュニケーションからは「自分の ことばで話す」といった実感がなかなか得られなかったため,大変苦悩していた。「実感 のないことば」は,次のようにその経験談を綴った部分だった。

ところが,いざ日本で暮らし始めてみると,最初から何ともいえない違和感を覚えました。

日本で実際に耳にする日本語は,教科書の世界での日本語とはずいぶん違っていたのです。(中 略)なぜか私には,人と自分がつながっているといった実感がありませんでした。(中略)人

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と話すとき,自分の口から確かなことばが流れているのに,私自身はそこにいない感じがしま した。(中略)自分が教科書から習った日本語しか使えず,覚えたことばを機械的に使い分け ているだけだと思いました。

当時の私は,「自然な日本語」という,日本語母語話者が話すモデルがあると思い込んでい ました。

「実感のないことば」より

Zさんがなぜクラスでの読み物としてこの部分を取り上げたのかは,特に説明を聞かな くても何となくわかる。日本語がほとんど使われていない地域では,毎日のように日本語 を覚えたとしても,普段の生活では実際にそれを使う機会がなかなかない。そのため,授 業は今後いつになるか分からない使用場面に備えての「練習」やどれくらい習得したかの

「確認」がメインになることが多い。きっとZさんは,将来,どこかで日本語を使うこと になるかもしれない学生たちのためにと,わざわざこの部分を教材として選んだのだろ う。タイの学生たちは,過去の私と同じく今現在タイで教科書だけを頼りに日本語を学ん でいるため,今後の日本語使用場面によっては,私が過去に経験した困難と似たような問 題に直面することもあるだろう。Zさんは,その彼らが私の書いた「実感のないことば」

を読むことで,各自,問題を解決していくための糸口を自分なりに見つけてほしいと思っ たのではないかと推測した。

さらに,Zさんはクラスで「実感のないことば」を読んだ後,学生たちが筆者の私宛て に直接感想文を手紙の形で書いて送る活動をも取り入れていた。私の文章の中には「(こ とばによって)自分と人がつながる感覚」4)という表現がある。Zさん自身にとっても「実 践の中で考えているキーワードの一つ」と述べていたが,学生たちにもこれについて考え るきっかけを作ってあげたいと思ったようだった。しかし,実際の展開はこのようなZ さんの意図とはほど遠く,学生による私への質問攻め一色となっていた。まるで最初から 質問がしたいからわざわざ手紙を書いたかのような勢いで,本来ならクラスの先生に相談 すべき,日本語を勉強する上での困難や疑問点,悩みなどを一斉に私に投げかけていたの である。学生たちは「どうすればいいのか,教えてください」と私に助けを求めていた。

3.学生の声

学生たちが私宛てに書いた手紙の中から一部を抜粋し,紹介したい5)。学生たちの手紙 を通読すると,次の3点が共通して見られる。まずは,①学習方法に関する質問。文法・

漢字・単語の学習など,自分が苦手と思う部分を取り上げながら具体的にどう勉強したら いいのか,ハウツーを聞くものが多かった。他には,ぼんやり「日本語が上手になりたい」

と言いながら,何をどう勉強すればそれができるのかと私に方法を聞くものもいた。

②学習者としての現在の自分の心境を「怖い」「恥ずかしい」と言う人たちがいた。さ らに,日本語が伸び悩んでいるのは,自分が至らないから,つまり勉強不足,努力不足,

あるいはより効果的な学習法を未だ獲得していない自分に問題があるからだと自己批判す る人が多かった。

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③日本語学習における最終ゴールについてだが,日本語学習の最終到達地点を,漠然と

「日本人のような日本語を話す」「自然な日本語を話す」レベルと想定していた。「日本人 のような日本語」の習得という目標は,恐らく私に手紙を書いたほぼ全員の希望なのでは ないかと思う。

手紙は計18名からだったが,そのうち特に13名の学生の手紙に上述の3点が混在して 見られた。その他は,読み物への単純な感想文,あるいは自分の大学生活についての感想 を述べた割と軽い内容のものだった。以下は,13名中,後に連絡が取れ,自身の手紙の 引用を許可した11名の内容である。また,唯一1名の学生が以下の学生たちとは全く観 点の異なる手紙を書いているので,それについても後に触れていこうと思う。

Aさん:日本人の話を聞き取れるけど,答え返し方はどう話すか分かりません。ちょっと大変 です。なぜなら,クラスの日本語と生活の日本語は違いますと思います。そして,私の日本で 留学の生活はかんぺきにくらしますか,今良く考えています。金さんはどう思いますか。アド バイスしてもらいたいです。お願いします。

Bさん:日本人と日本語を話せません。私はこわくて,はずかしいです。だから,私はいろい ろな問題がありました。キムさんは日本語が上手になるために,どんな日本語の勉強方ですか。

私はキムさんの勉強方を使います。私は上手になりたいために,日本語の文法を練習するがん ばります。それから,キムさんは私の手紙を読んたら,答えてください。お願いします。

Cさん:文法を勉強ばかりすることはとてもつまらないと思っています。文法を勉強ばかりし たら,日本語があまり上手に話せませんから。(中略)今,私は,文法を使うことについて問 題がありますがあまり心配しない。でも,日本語を話すことはとても心配しています。どうやっ て,しますか?

私は日本語がりゅうちょうに話せたいです。(中略)これから,私は日本人のように日本語を し自然に話せるためにもっと日本語を話して復習しよう。タイごの話すモデルと日本語の話す モデルはちがいますから。タイごの話すモデルで日本語を話したら,相手はたぶん意味がぜん ぜん分からないつもりです。(中略)金さんの日本語の勉強はどうやって日本語がりゅうちょ うに話せますか?(中略)キムさん,時間があったら,私の手紙を答えてください。

Dさん:申し訳ありませんが,キムヨンナムさんにちょっとお願いしたいことがあるんです。

(中略)金さんは日本語が上手ですね。どのくらい勉強したんですか。(中略)どうして,あな たは,教科書の中の文法を使用する方法に詳しいを覚えますか。わたしは日本語が上手になり たいので,日本語をどうやって勉強したらいいですか。(中略)金さんの日本語の勉強と自分 の日本語の勉強比べます。金さんと私は教科書からに本語を勉強方がおなじです。どうしてわ たしは金さんほどに本語が上手ではありません。(中略)将来,私は日本人と活発な話すがで きて,自然に日本語を話したいです。それで,日本ごが上手になりたいから,教科書から勉強 しだけでなく,日常生活の中で日本語をよく話しと思っています。

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Eさん:日本人と話す時,あまりわかりません。なぜなら,日本人は早い話して,ある言葉を わからないからです。だから,もっと日本語をわかりたいです。そして,日本人と同じに日本 語を話したいです。自然な日本語を話したいと自分の日本語母語話者のようなものです。

Fさん:そして,私の問題は文法と新しい言葉を覚えません。それでは,キムさんはどうやっ て文法とことばを覚えられますか。そして,私はもっと日本語を勉強して,日本語が上手にな りたいと思います。(中略)日本語が上手になったら,日本人とはなせたいとおもいます。

Gさん:私の問題はまだペラペラには日本語を話せません。なぜなら,私のせいかつには日本 語をつかいません。将来,仕事で日本語を使わないと思います。金さんどうやって日本語が上 手になれますか?

Hさん:でも,時々,私は生活について日本語を話すのが難しいと思います。だから,私は日 本人と話す時,すぐに答え返しできません。私の日本語の発音は時々,正しくないです。わた しはろく年ぐらい日本語を勉強するたびに,あまり上手じゃありません。大変です。(中略)今 日,私は金さんにききたいです。日本語が上手になると日本人のような日本語を話し方はどう したらいいですか。

Iさん:まだ上手になりません。とくに,漢字の書き方はとても難しいです。私はあまりおぼ えられません。もっと上手になりたいのでかんたんなおぼえりかたを紹介してください。

Jさん:僕はアニメを見るたびに,アニメの中の言葉をしりたいですよ。『日本人みたいな話』

を話したくなりましたので。私は日本語上手になりたいんです。(中略)キムさんは日本語が 上手なのに,なぜこんなんを感じるんですか?こりつかんでも生活できるなら大丈夫です。(中 略)キムさんどうやって勉強します?どうやって日本語が上手になって本当にしりたいですよ。

Kさん:日本語の発音と書き方はかわいいと思いましたから,にほんごが大好きです。でも,

勉強をした時ははすがしいと思いました。でも私は一生懸命しています。今,私はあまり日本 語を話すができません。日本語を上手に話したいです。日本語が上手になる話し方はどうした らいいですか。(中略)それにしても,にほんごをいつもつかいませんから,あまり話しません。

手紙を書いた人は全員タイ語を母語とする学習者であるが,以前,韓国で日本語を勉強 した私自身も当時,この種の問題に悩まされていた。そして,このような困難や悩みを抱 え込む人は,特定地域や一部の学習者に限られず,より広範囲の地域の日本語学習者に共 通して普遍的に見られるものと思われる。

4.矛盾が生まれる学習の目標

タイの学生からすると私は「学習によって日本語をマスターした者」なので,どうやっ

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て勉強したのか,その方法が最も知りたいようだった。文法を,漢字を,単語を,そして 発音などを,具体的に「どう勉強したらいいのか」と,ほとんどの学生が学習法の正解を 私に聞いていた。しかし,文法が全部分かれば,または漢字や発音などの問題さえ解決で きれば,その日から早速,日本語が上手になるというわけでもないだろう。さらに,Aさ ん・Hさんなどが言う「答えの返し方」に至っては勉強しようもないのではないか。前章 で述べた「実感のないことば」で,私はこれに関する私自身の経験談を綴ったが,学生た ちはそれでもなお私から「○○の勉強法」が聞きたいようだった。また,わずか13人の,

全員タイ語を母語とする者同士であっても,学習をする上で特に困難を覚える箇所がそれ ぞれまちまちである点も目を引くところだった。

ところが,全員に共通するところもある。それは,どうにか今の自分の困難を克服し,

「日本語が上手になりたい」と思っていることである。そして,「上手になる」の意味とし て「日本人のように話す」「自然な日本語を話す」ことを例にしてあげていた。

このようなタイの大学生らの手紙からは,①「今:日本語の学習を頑張る=方法を探す」

→②「将来:日本語が上手になる=日本人のように話す」といった今と将来の相関関係を 考えることができる。つまり,①自身の苦手な部分を補える,より効果的で確実な学習法 を見つけ,日本語の学習に専念する。今それを続けることで,結果的に将来は日本語が上 手になれる。②将来に「日本語が上手になる」ということの究極の意味は,「日本人のよ うに自然に話すこと」,という関係図が学習者の脳裏に刻み込まれているようである。

そして,現にタイの学生たちは,①の中をくるくる旋回しながら,なかなか②のステー ジには上がれない原因を「文法と言葉が覚えられない」「私の日本語の発音は正しくない」

「私はこわい,はずかしい」…などと分析し,何もかも問題は自分にあると自分自身を責 めていた。

ところで,本当に問題は学生の努力不足にあるのだろうか。もう少し辛抱を続け,いま 伸び悩んでいる学習箇所さえクリアできれば,次は本当に日本人のようにペラペラと話せ るようになるのだろうか。私は,そもそもここに「問題」というものが存在するのかにつ いて,まず疑問を持ちたいと思っている。

人はなぜ第二,第三の言語の習得を目指すのだろうか。母語以外に新しい言語を身につ け,自由に駆使できるようになることには,どんな意味があるのだろうか。日本語の学習 者から日本語の先生へと変貌して以来,私はいつもこう自分に問い続けている。もちろん,

個人的な興味・関心や仕事・就職のためなど,一人ひとりの理由は様々であろう。しかし,

より大きな意味として「人間が新しい言語を学ぶ」こととは,自分の持つコミュニケーショ ンのツールの多様化を試みることであり,それにより,異なる文化や習慣を背景に持つ 様々な他者とつながる機会を自らが積極的に作り出すことになるのではないか。母語以外 の言語を話せる能力を身につけることで,自分が慣れ親しんだ文化や習慣,地域特有の考 え方を超越して,目新しい他者の文化や習慣,ものの考え方に能動的に接することができ る。人間の多様性に触れることができる。そして,その経験の反芻が,第二言語を習得し た者を文化的により豊かな人間へと成長させていくのであろう。

タイの学生ももちろん,みんなそれぞれ自分なりの理由や目的があって日本語を学んで いると思う。しかし,上述の「人間が母語のほかにさらに新しい言語を学ぶ」ことの意義

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を考える場合,彼らも全員,母語のタイ語以外に日本語というもう一つの言語を身につけ ることで,言語を媒介に交流できる他者の範囲を自らの意志で広げようと試みている過程 にあると言える。このように考えると,彼らが口々に言う「文法が覚えられない」「漢字 が難しい」は,新しい言語の習得過程中の困難とは言え,決して「問題」にはならないの ではないか。ましてや学生が「自分が悪い」「自分が至らない」と自らを非難することは もってのほかである。

日本語学習者は,日本人のようになるために日本語を学ぶのではないだろう。しかし,

学生たちは知らず知らずのうちに「日本人のような言い方」や「答えの返し方」,「自然な 日本語の話し方」を探し求めていた。過去の私の場合,全く問題のないはずの自分の日本 語がどうしても不自然に思われ,日本人の身振り手振り,相づちの打ち方にまで注目し,

どうすれば完璧に真似できるのかを真剣に考えたりしたこともある。

恐らくタイの学生たちの今の漢字や発音などに関するそれぞれの悩みが,たとえ努力の すえ解決できたとしても,決して「将来:日本語が上手になる=日本人のように話す」の 段階に進むことはないだろう。それは,「今:日本語の学習を頑張る=方法を探す」と「将 来:日本語が上手になる=日本人のように話す」の間には,実は相関関係というものがな いからである。しかし,今も多くの学習者が「日本語が上手になりたい=日本人のように 話したい」一心で日本語を覚え続け,練習を繰り返している。そして,何年も勉強を続け ているのに未だ日本語が上手になってないのは自分に問題があるからだ,自分の方法が間 違っているからだと,非難の矛先を自分自身に向けるのである。

5.間違っても通じる日本語

少し話が変わるが,10年ほど前の私自身の経験をここで振り返りたい。来日して1年 ほど経った頃,当時私は自分の日本語が不自然でたまらなかった。日本人のように日本語 が話したかったが,方法が分からず,毎日その工夫に明け暮れする日々だった。

ところがある日,私はサンドイッチ店で働くあるマレーシア人女性を見て衝撃を受け た。お客さんと話す彼女の日本語は,文法もめちゃくちゃで,発音もおかしく,何一つ接 客用の敬語の形になっていなかった。ところが,やり取りがすべてぶつ切りの日本語だっ たにも関わらず,彼女は注文の受付から世間話までをお客さんとわいわいと交わしていた。

私が混乱したのは,彼女がとても下手な日本語を話していたにも関わらず,その日本語 でのコミュニケーションに何の支障も感じてないように見えたからであった。反面,日本 語の言語的知識に関してなら誰にも負けないと自負していた私は,「これでいいのか」「私 の日本語は変じゃないのか」を一々気にし,日本語でのやり取りを負担に思う時が多かった。

私は彼女に声をかけずにはいられず,後日またお店を訪れ,彼女の日本滞在歴や日本語 学習歴などを聞いてしまった。彼女は,同じくマレーシア人のご主人と一緒に日本に移り 住むことになり,すでに当時9年目を迎えていたと私に話した。日本語の学習経験は来日 3年目の時,日本語学校に1年間通ったことが全てだとのことだった。

この日の出来事は,日本語学習におけるそれまでの私の考え方や姿勢,最終的な学習の 到達目標までのすべてを覆す大きなターニングポイントになっている。彼女に出会う日ま

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で,私は7年という年月を日本語の習得に注いでいたが,たった一度も自分の話す日本語 の「誤用チェック」を怠ったことがなかった。間違った日本語,日本人に添削してもらっ てない不確実な日本語は決して口にせず,「文法的に完成した絶対間違いのない日本語」

の使用を常に心がけていた。サンドイッチ店の彼女のような,形が崩れた未完の日本語表 現でもとりあえず使うという発想自体が私にはなかった。誤用を含んだ日本語を話してし まうと,相手に私の言わんとすることが正確に伝わらないし,すると私のせいでコミュニ ケーションが成り立たなくなってしまうと思っていた。そのため,文法的に問題のある日 本語をうっかり口にすまいと常に細心の注意を払い,いつも発言の直前まで自分の日本語 の自己モニターを繰り返していた。そして,その頑張りも足りないと思い,なるべく「日 本人が話す自然な日本語」表現を使おうと,もがいていたのである。

私と彼女との決定的な違いは,二人の日本語の習得環境の違いにある。私はそれまで「生 活する上では日本語が不要な地域」で長年日本語を学習してきていたが,彼女は「日常生 活の主言語が日本語の地域」で生計を立てながら日本語を習得していた。その結果,私は 何の問題のない日本語を話していながらも,常に自身が駆使する日本語を不安に思い,他 方で彼女は,たとえ不完全で誤用の多い日本語であっても,自身の日本語でのコミュニ ケーションに納得していたのである。彼女は,日本語の使い方が完璧でなくても,自分の 言いたいことを相手に伝えられることを,生活の中で身をもって経験し,よくわかってい た。そのため,「日本人のように話さなくては」とは思っていなかったのである。

私も今は「日本人のような日本語」はもう夢見ていない。そのようなことは意味がない と,ようやく気づいたからである。私にとって日本語は第二言語なので,母語話者の日本 人と同じくらいの言語能力を持つことはまず不可能と思うようになった。だから,無理し て日本人の言い方を真似しなくていいのだと,いつの間にか自分にそう言い聞かせるよう になっていた。私のように意識的に言語を習得した者は,自分が学習して身につけた言語 でいかに相手とやり取りするかをよく工夫し,自分なりに表現すればいいのである。

6.知識習得中心の日本語の学習環境と現実の言語環境の乖離

私自身が韓国で日本語を学んでいた頃を振り返ってみると,学習の中心には常に教科 書,文法書,辞書の3点があった。学生の私は,毎日のように日本語を覚え,繰り返し言 い方を練習していればよく,先生は随所でテストを実施し,私の日本語の伸びを評価して いた。文法でも,漢字でも,言い方でも,間違ったとチェックされた部分は二度とミスを すまいと,より一層使い方に気をつけた。うまく使いこなせない表現などは幾度となく練 習を繰り返して確実に自分のものにしようと努力していた。だからかも知れないが,当時 の私には,日本語はできる限りの暗記と練習の反復によって身につけるものという認識し かなかったと思う。私の学習の最終到達目標もまた「日本人のように話す」ことであった が,そのために今,日本語を覚えて,練習を繰り返すことを当然なこととして捉えていた。

日本語も自身の母語同様,「人とコミュニケーションするための言語手段の一つ」という 事実を当時の私が意識することはなかった。

ところで,このような学習の最中に誰かに「日本人はそう言わない」または「その言い

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方は日本語として自然じゃない」などと言われたりすると,自分がそれまで蓄積した知識 全般を一気に疑い,今の自分の学習法に不安感を抱いてしまう。日本人が話す日本語こそ 真の日本語であり,それが学習者の私が目指すべき最終到達目標だなどと思い始めると,

その後の日本語学習は方向性を失い,混沌と混乱の状態となる。それは,「日本人が実際 に話す日本語」と「教科書が指南する日本語」は必ずしも同じではないからである。

例えば,「すごい」と「おいしい」の二つの形容詞を並べる場合は,文法的には「すご くおいしい」が正しい。しかし,普段の生活で「すごいおいしい」や「すごいうれしい」

など,形を変えずそのまま辞書形の形容詞をつなげてしまう言い方を耳にすることは決し て珍しくない。ところが,日本語のテストで,もしこのように答案を作成したら,即,間 違った日本語とチェックされ,減点されてしまう。

前述したが,文法を完全に理解するために時間を費やしたり単語と漢字を死ぬほど覚え たりしても,自分が思い描く「日本人のように日本語が使える将来」は決して訪れない。

「日本語を覚える今」と「日本人のように日本語を話す将来」とは,決して結びついてい ない。日本語の上達を目指す者に必要な努力は,もっぱら他者と日本語でのやり取りを繰 り返し,その中で「伝える・伝わる」という実感を蓄積することであろう。そして,この ようなコミュニケーション経験を幾度となく積み重ねるうちに,自然と日本語を自分の持 つ「もう一つのコミュニケーションのための言語的手段」として認識するようになるので はないか。学習者が,自分は日本語で十分やり取りができると自信が持てるようになれれ ば,日本人のような日本語など,気にしなくなるのであろう。

ところが,海外における日本語学習の場合,実は日本語によるやり取りの実践そのもの が容易でない環境が多い。私が通った韓国の大学では,当時,日本人教師が一人いて,そ の先生とやり取りをする時だけが練習でなく「本当に」日本語を使う唯一のチャンスに なっていたほどである。

7.日本語教師にできること

では,このような環境で,日本語の教師には何ができるのだろうか。日本語を使うチャ ンスがたくさん与えられるよう,何らかの特別な環境を醸成することにはきっと限界があ るはずだ。また,学習者の生活の言語を日本語に切り替えることも物理的に不可能な話で ある。

しかし,授業時間に日本語を学習しながら,学習者を取り巻く現状や彼らが無意識に抱 く目標と現実との乖離を説明し,言語環境上の制限の中で学習者にできることを一緒に考 え,日本語を身につける上で何が最も大事なのかを絶えず伝えることはできるのではない かと思う。クラスでみんなが勉強している教科書はさまざまな日本語表現の一例に過ぎな いということ,文法やことばの正しい形や使い方を理解することはもちろん重要だが,世 の中で実際に使われているすべての日本語が必ずしも完全な形式を成しているわけではな いということ,そして「日本人のように話せるようになる」という目標は虚像に過ぎない ということ,などを教師が意識的に学習者に伝え,共通意識を一緒に作っていくのはどう だろうか。

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今回,私が受け取ったタイの大学生からの手紙の中には,唯一一人が私の文章を批判し,

反論を述べていた。それまでの学生の手紙の内容に胸苦しささえ感じていた私は,この一 通の手紙でやっとほっとすることができ,救われた気分になった。多くの学生が私に「教 えてください!」と助けを求める中,この人だけは「それでもコミュニケーションはでき るはず」と以下のように堂々と自分の意見を述べていた。

Lさん:私は金さんのストーリーを読みました。そのストーリーはすこしおかしいとおもいま す。たぶん,金さんとわたしはせんせん違いますから,私は金さんにあまり分かりません。(中 略)金さんは日本語の文法や発音がよくできます。しかし,まだ満足しませんね。でも,私は 反対です。今私の日本語がにがってのに満足します。文法を関係ないし,発音がよくないし,

時々は言葉が分かりません。ところかコミュニケーションすることはできます。金さんの問題 は,私がありません。

「文法は関係ない。発音がよくなく,時々言葉が分からない。ところが,コミュニケー ションすることはできる」。サンドイッチ店のあのマレーシア人店員もきっとこのように 考えていたに違いない。また,もし学習者だった頃の私がこのような考え方を持つことが できたら,あの時,日本人のように話せるようになろうと必死になることもなかったので はないかと思う。上記のLさんのような言語学習観,第二言語でのコミュニケーション に臨む姿勢を,日本語を学ぶ人みんなが持つことはできないだろうか。何より学習者の意 識転換が求められるが,何もせずにいては恐らく何も変わらないのであろう。日本語教師 にはすでに様々な役割や責任が課せられているとは思うが,学習者が知らず知らずのうち に抱いてしまう「日本人のような自然な日本語」という虚像を打ち破るとともに,それぞ れが第二言語として日本語を習得することの意義を再構築し,学習到達目標を再設定して いけるように手助けすることも,日本語教師にできる大事な仕事の一つなのかも知れない。

1)細川英雄・武一美編著(2012)『初級からはじまる「活動型クラス」―ことばの学 びは学習者がつくる『みんなの日本語』を使った教科書・活動型クラスを例に』ス リーエーネットワーク

2)同上書,ⅲ―ⅷ 3)同上書,ⅳ―ⅴ 4)同上書,ⅶ

5)本稿の執筆にあたり,Zさんには事前に本稿の企画及び掲載する雑誌名を伝え,了 解を得ている。また,本稿で手紙の一部を紹介した学生には,Zさんが直接連絡を 取り,一人ひとりに許諾をもらっている。

(きむ よんなむ,早稲田大学日本語教育研究センター)

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