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古 賀   毅

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Academic year: 2021

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1.問題意識

 アクティブ・ラーニング(以下 AL)という用語ないし概念が2010年代中盤以降の学校教育にお ける最重要ワードになりつつある。それは教師が知っていることを一方通行的に学生に伝達すると いう「講義型」への批判として、あるいはそれを相対化する試みとして、まずは大学の授業改善の 文脈で用いられた。それが、2017(平成29)年春に告示が予定されている次期学習指導要領を準備 する過程で初等・中等教育にも急速に広がった。下村博文文部科学大臣の中央教育審議会に対する 諮問の中では次のように表現されている。

ある事柄に関する知識の伝達だけに偏らず、学ぶことと社会とのつながりをより意識した教育 を行い、子供たちがそうした教育のプロセスを通じて、基礎的な知識・技能を習得するととも に、実社会や実生活の中でそれらを活用しながら、自ら課題を発見し、その解決に向けて主体 的・協働的に探究し、学びの成果等を表現し、更に実践に生かしていけるようにすることが重 要であるという視点です。/そのために必要な力を子供たちに育むためには、「何を教えるか」

という知識の質や量の改善はもちろんのこと、「どのように学ぶか」という、学びの質や深ま りを重視することが必要であり、課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

(いわ ゆる「アクティブ・ラーニング」)や、そのための指導の方法等を充実させていく必要があり ます。

(中央教育審議会に対する文部科学大臣の諮問「初等中等教育における教育課程の基準等の在 り方について」、2014年11月20日付 傍点引用者)

 ややわかりにくいのは、「課題の発見と解決に向け」た学習とそれ以外の境界がどこにあるのか、

「学びの質や深まりを重視する」ためというのがその目的なのか、そして主体的・協働的というの は実際的にどうすることなのかといった点が明確になっていないためであろう。論者の説くところ では、「小学校から大学までの全学校段階の教育を、「教えるから学ぶへ(from  teaching  to  learn- ing)」のパラダイム転換へと導く」のが AL であるという(溝上慎一監修「アクティブラーニング・

シリーズ」全7巻、東信堂、2016年の全巻に共通する溝上氏の序文)。

アクティブ・ラーニングの導入に向けた 高校・大学における試行的な取り組み

古 賀   毅

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 たしかに AL やそれに類する授業形式が拡大していけば、パラダイム転換と呼びうる大きな変革 の時となろう。より本質的な問題は、なぜそうした転換・変革が必要なのか、そしてその要請は教 育関係者に広く共有されているのかということであり、そこを見落としたまま AL の形式的な導入 を急げば、実践者が自らアクティブならぬパッシブ(受身)の態度であることを認めてしまうこと になる。先の文科相の答申は「ある事柄に関する知識の伝達だけに偏らず、学ぶことと社会とのつ ながりをより意識した教育」を打ち出している。この答申に対する中教審の、本稿執筆時点で最新 の考え方が以下のように示されている。

学力に関する調査においては、判断の根拠や理由を明確に示しながら自分の考えを述べたり、

実験結果を分析して解釈・考察し説明したりすることなどについて課題が指摘されている。ま た、学ぶことの楽しさや意義が実感できているかどうか、自分の判断や行動がよりよい社会づ くりにつながるという意識を持てているかどうかという点では、肯定的な回答が国際的に見て 相対的に低いことなども指摘されている。/こうした調査結果からは、学ぶことと自分の人生 や社会とのつながりを実感しながら、自らの能力を引き出し、学習したことを活用して、生活 や社会の中で出会う課題の解決に主体的に生かしていくという面から見た学力には、課題があ ることが分かる。

(中央教育審議会教育課程部会「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめについ て(報告)」、2016年8月26日、p.6)

 ここでは国際学力調査の結果にもとづく「学力」の回復とともに、子どもや若者が社会の役に立 ちたい、社会参画したいという願望を基本的に備えていること、学校生活を楽しいと感じる肯定的 態度がみられることを指摘した上で、上記のように「学ぶことの楽しさや意義」の喪失ないし獲得 の失敗、「学ぶことと自分の人生や社会とのつながり」への未到達という点が強調されている。こ の指摘のとおりだとすれば、学校での楽しさは友達関係や部活動などにとどまり、学校教育の本体 部分であるはずの学習、とりわけ教科学習には及んでいないということになる。またその主たる原 因は、教科学習が生活や社会と結びついたものだという本質を見失ってしまったことにあると理解 される。

 筆者はこれらの主張に大筋で賛成する。そのうえで教育学的な知見をもとに付言するならば、エ リート教育としての来歴をもつ中等・高等教育の構造的な問題が、現代日本の学歴メリトクラシー の状況と合流するとき、そうした形骸化や儀式化が進行してしまうといえるのではないか。すなわ ち、教養や学力、そしてそれを支える文化資本に恵まれた上層の子弟のみが入学していたかつての 高等教育と、そこへの進学を準備したかつての中等教育は、高度かつ専門的な知を分け与えること で十分に存立しえたのだが、その構造を残したまま普遍化した(階層や性別を問わず対象年齢のす べての人を受け入れるようになった)ため、学びの内容と目的、そして学習者の実態とのあいだの 乖離が強まってしまったのである。階層や性別により進学する機関が分岐していたかつての複線型

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学校制度は、たしかに民主的ではなく階層再生産という重大な欠陥をはらむ。ただ、その当時であ れば上構型中等教育機関(戦前期の日本でいえば実業学校、師範学校など)に進んで職業教育を受 けていた層も戦後はエリート的な「知の伝達」の教育に取り込まれた。そこに学歴メリトクラシー やそれに対する思い込み(「いい学校」に進めなければ大変だ、というネガティブな思考)が合流 することで、中等教育段階での学びの目的が「目の前の試験でよい成績をとること」「入学試験に 合格すること」といったことに集約され、「学ぶことの楽しさ」や「学ぶことと自分の人生や社会 とのつながり」が欠落する傾向を招いたといえる。

 ただし、そうした文脈を共有したとしても、中等・高等教育での学びを「人生や社会」と直結さ せる、換言すれば実学化することはきわめて危ういといわなければならない。初等教育段階の知と 異なり、中等・高等段階では知が概念や抽象というレベルで整理されるべきである。そうでなけれ ば、個別的な事象・事案に対していちいち個別の知識やスキルを探し出して対応する愚策を採るこ とになる。また、科学や技術の進歩速度をみるならば、「現時点で役に立つこと」が時を置かずに 不要の知に成り下がることはむしろ当然である。概念・抽象あるいは一般化というのは、あらゆる 事象・事案に対応するための重要な知的プロセスなのである。問題は、専門家(中等・高等教育の 教師)はそうした自身の知的プロセスをさほど意識しないまま獲得していて、エリート型といわれ る中等・高等教育での学びとむしろマッチする傾向を有していたことである。それはときに「自分 がしたようにすれば、同じように知を獲得できる」という単純化につながり、初歩からつまずいて いる、あるいはせっかくの意欲を打ち砕かれそうになっている生徒・学生を置き去りにすることに なりかねない。

 ほぼ全員が後期中等教育を受け、半数以上が高等教育に進む社会である。知識基盤社会であり、

高度に専門化された社会である。分母が大きくなったぶんだけ「いままでのやり方」に対応できる 生徒・学生の割合は小さくなっていると考えるべきであろう。その際に、すべての生徒・学生に対 してパラダイムシフトした新たな教育をほどこすべきか、新たに拡張した部分に対してなのかとい う対象の問題と、学習プロセス全体を変革すべきなのか、部分的改良なのかという問題が持ち上が るであろう。

 教育学の専門家であり(ただし専門は教育方法学、教育実践論ではなく教育思想史)、中等・高 等教育の授業担当者である筆者は、以上のような問題意識を負いつつ、AL の導入に向けた課題が 奈辺にあるのか、とりわけ新しい学習方法の投入4 4を待つ生徒・学生の側の意識やコンディションが どのようになっているのかを実感としてさぐろうと思い立ち、2016(平成28)年度に担当する科目 4クラスにおいて、非講義型ないし講義型の相対化を意識した授業を試行した。以下はその中間報 告である。学術論文でなく筆者の感触や感想をメインとする報告であるので、学術的な量的・質的 分析にははるか至らないものであるが、そのぶん速報や生の感覚に近いものであり、議論のきっか けなりうるものと考えた。

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2.実践の対象

 非講義型、ないし講義型の相対化を意識した実践の対象は以下の各科目である。

現代社会論Ⅰ 早稲田大学本庄高等学院 3年生選択科目 受講生徒41名 現代社会論Ⅱ 同 受講生徒43名

現代社会論 千葉工業大学 2年生対象の教養科目 受講学生53名(登録数)

教育原理 同 1年生対象の教職科目 受講学生69名(登録数)

 早稲田大学本庄高等学院(以下「学院」)では2006年度より現代社会論を担当し、基本的には講 義型の授業をおこなってきたが、予習的ワークシートや事後のレビューの共有などを組み合わせる ことで、伝達一辺倒にならないような配慮をしてきた。また2015年度は受講生徒数が10名と少な かったこともあり、「自分だけの現代社会辞典/事典をつくろう」と題して、項目や概念について の調査・討論を経て辞典ないし事典の記事に集約していくという AL 型を試みている。AL の本格 導入への議論が進む中であるので、2016年度もそうした取り組みを継続しようと考えた。本年度よ り2クラスの担当になったため、授業序盤は同一の方法で、中盤以降は方法をクラスによって違え て実践を継続した。

 千葉工業大学(以下「千葉工大」)は筆者の本務校である。千葉県習志野市に所在し、5学部17 学科を擁する、現存するものとしては国内最古の私立工業大学である。教養科目の現代社会論は 2013年度の着任時から担当しているが、今般(2016年度後期)初めてグループワークを中心とした 非講義型学習を試行した。この科目は1限の設定であるが、次の2限にも同一内容の別クラスがあ り、このような教育的試行がなければ2コマつづけて同じ授業を(受講学生だけが入れ替わった状 態で)おこなうことになる。そこで今般は、1限で非講義型、2限で従来どおりの講義型を試みて、

テーマは同一であるが学習プロセスを違えた場合にどのようになるかを確認しようと考えたのであ る。教育原理は、教員免許状(千葉工大では数学・理科・情報・工業・商業)取得のための必修科 目であり、教育の理念・思想・歴史などを主に扱う。これまで2年生前期に配当され、講義型で実 践してきたが、カリキュラム変更で1年生後期に移ったのを機に、グループワークの導入を試みた。

教職課程の履修者であるから知的水準や学習意欲は低くないものの、理系かつ学力中位層という学 生の属性・性質上、思想や歴史といった「いかにも文系」の内容を伝達されることへの抵抗感が強 く、実際に到達目標に達しないと思われる学生が増えてきたことが、試行の動機のひとつである。

また、教職科目の中では「教育とは何か」「教育をどう考えるか」といった思考法や「構え」の獲 得を重視し、知識やスキルばかりを優先しなくてよいという事情もあった。筆者自身が2年生、3 年生配当の別の教職科目を担当することもあり、1年生後期という入門の時期にはむしろ「構え」

を捉えさせたいと考えたのである。

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3.座席配置

 学院の現代社会論Ⅰおよび現代社会論Ⅱでは、学習の前提として、いわゆるコ字配置を実施した。

理想はなめらかな U 字型なのだが、受講生徒が予想を大きく上回る人数であったので、どうして も角ばってしまうことになる。この仕様は対話型と称される、生徒と教師のインタラクティブなや りとりに向くものとされる。加えてコ字ないし U 字は、生徒が互いの顔を見合って授業に参加で きる方法である。すべての座席が完全に黒板と平行に配置される通常の教室では、そこに何十人、

何百人がいようとも互いの顔は見られず、生徒個々と教師が向き合うかたちになる。U 字配置は他 の生徒が何を考え、学びつつあるのかという様子を、音声だけでなく顔の表情や身体全体から出る 雰囲気などによっても読み取り、互いに共有することで学習効果を上げられるとされる。ちなみに 受講生徒10名であった2015年度の現代社会論では、5名ずつが向き合う配置を採った。「板門店方 式」と妙な喩えを持ち出し、二者の対立を前提とした表現をすぐ反省したが、板門店を知らない生 徒が大多数であった。いわんとするところは「手を伸ばせば握手できる距離」ということである。

2016年度の両クラスはともに40名超であるので、コ字配置にすると教室(S205教室)いっぱいに 机が広がり、相互の距離はかなり遠くなる。死角も思いのほか多い。座席配置における死角の問題 は、生徒の心理ないし学習姿勢とも大いに関係する。前述のように「互いの顔を見合」えるように との配慮であるのに、見られたくない、死角に入りたいという生徒が少なからず出てくる。通常の 座席配置では自身が見られたくないという受講者は後列に座ることが多いが、これは教師の視線か ら外れたい、遠のきたいという欲求によるものであろう(周知のように、これは生徒・学生ならで はの判断の誤りであり、教師にとって最大の死角は教卓周辺であって最後列はむしろ視界が利きや すい)。コ字配置での死角選好は、教師はもちろんクラスメートの視線も避けようとするものであ ろうか。

現代社会論Ⅱでのコ字配置 人数が多いため3列になるところ、死角になるところができてしまう

 教師は立ち位置をしばしば変える。コ字に並んだ中央部が一応の原点である。対話型の授業を進

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める場合、必ずしも全方向の生徒と等距離を保つ必要はない。一辺側の生徒とのやりとりであって も、内容と音量が確保されれば、反対側(教師の背面)の生徒も関心を向けるであろう。ただ、対 話を1往復以上につづけられる生徒はほとんどおらず、生徒相互のやり取りに発展することもほと んどなかった。その場合、着火(議論の出発点を見出す)作業に時間を取られることになり、一辺 側の生徒にそれを集中させると反対側に背を向ける時間が長くなり、置き去りにしてしまうことに なった。

 現代社会論Ⅰでは中盤以降、グループワークをしばしばおこなっている。初めに意見を聴取して 同一見解の者どうしを組ませる方式と、ランダムに組ませたグループを指定して課題を与える方式 とを試行した。前者はグループにより人数の大小があり、後者はほぼ均等であるが、机を移動させ て「班」をつくるという小学校的4 4 4 4な作業において、話し合いに向くセッティングのできない、ある いはあえてそうしないグループがしばしば現れるのが興味深かった。ところによっては陣形が縦長 になり、隣のグループと重なって、まともに議論できるはずがない状態になっていた。おとなしめ の生徒や斜に構えるタイプの生徒がそうするのかもしれないが、誰かが「聞こえる範囲に集まろう よ」と呼びかけてイニシアティヴを発揮するケースは少なかった。学院の3年選択科目は、受講生 徒が互いに(よく)知らない可能性が高くなるので、相互の信頼関係をなかなか築きにくいのかも しれない。しかし、高校・大学への AL 導入を本格化するのであれば、本来は信頼関係の醸成を内 包した「学級づくり」と不可分であるグループワークを、そうした前提抜きに実践しなければなら ないケースが増えてくる。小・中学校での成功例や、目的や動機がまったく異なる企業研修等での 事例をそのまま紹介することの危険はかなりあるのではないだろうか。

現代社会論(千葉工大)での GW 固定座席のため話し合いには不向きか

 千葉工大の現代社会論の教室は、定員120名の中型教室で、全体に緩い傾斜がついている。まさ に講義型の授業のために造られた教室である(千葉工大ではこの教室のある建物を、実験室や研究 室などの棟に対して「講義4 4棟」と呼ぶ)。机・椅子は固定式である。ここでグループワークをおこ なう際には、学生どうしがかなり接近して着席し、しかも前列の学生は身体を無理に反転させて議

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論しなければならない。初め7、8名のグループも試してみたが、距離が開きすぎるので、のちに 5、6名に縮小した。ここでも陣形をあえて密集させない学生がかなりあった。120名収容の教室 に50名以下の受講生であるので、講義型の授業で間隔を置かずに「隣」に座るのは、元からの友人 同士にほぼかぎられる。しかしグループワークをおこなうのであれば間を詰めなければならないは ずである。学院の場合と同様に、あえて離れたところに身を置く学生が見られた。身体を反転させ る(顔を突き合わせる)ことを避けようとする学生もかなりあった。「聞こえる範囲に集まろうよ」

という呼びかけはここでも見られず、教師が「間を詰めて議論にちゃんと参加しようよ」と促して も、それに応えようとしない学生すらあった。このクラスは、工学部機械サイエンス学科、工学部 電気電子情報工学科、社会システム科学部経営情報科学科の3学科に受講資格がある。ただ前二者 は1学年の学生数が300名を超える巨大学科であり(2016年度新入学生から学科再編がありこうし た巨大学科はなくなった)、互いに知らない学生である可能性はきわめて高い。ましてさまざまな 活動が学科本位でおこなわれる工業大学では、学科を越えた交流というのはほとんどないため、毎 度「はじめまして」の挨拶ではじまらざるをえないのである。アイスブレークを試みたこともある が、今後その技法の研究を深めてより効果的な「着火」をめざそうと考えている。

教育原理(千葉工大)での GW 学生有志が各グループの着席位置を提案してくれている

 教育原理の教室は傾斜のない縦長の講義室である。長机であるが椅子は一人ひとりにあり、とも に移動が可能である。ガイダンス回につづく2回目の授業でさっそくグループワークをおこない、

授業開始前に黒板に指示を掲示してグループごとの着席を求めると、誰かが黒板に「A グループ はここ、B グループは…」というように図示して移動を促していた。教師が促す前にこの作業がお こなわれたため、以後の授業でも毎回スムーズにグループ分けがなされることになった。ケースに より特定の生徒・学生に「仕込み」をして、「先生が来る前にこんなふうに分かれようよ」と立ち 回らせることは決して不適切ではないと思われるが、より順当なのは、筆者の実践のように特定の 教師だけがそれをするのではなくより多くの授業でグループワークなどが日常的におこなわれるこ とを通して、「そういうものだ」というように生徒・学生に理解させてしまうことであろう。教職

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課程の学生はそのあたりの意欲・意識が高く、今般はスムーズに導入できたように思う。ただ、せっ かく可動式の机・椅子であるにもかかわらず、全員が前向きに座った状態で議論するばかりなのは 意外だった。前方に立つ教師に背を向けてはならないという暗黙の了解(というか、刷り込まれた 感覚)があるのだろうか。

4.授業での様子

 学院の現代社会論Ⅰ・Ⅱでは1学期のあいだ進行係を決めて、発言や質問を促す役目を負わせた。

進行係は基本的に当日その場で募ったが、5、6回程度で実質的に志願者がいなくなった。きちん とした AL のグループワークには進行係のほかに盛り上げ係やモチベーション・アップ担当を配置 して、それらの中には当人のみが知るかたちで事前に指名するものもある。筆者は生徒のリアルな 様子を観察したかったのでここではそうした複数の役目を置かず、進行のみを任せようとした。た だ、学びの内容を把握しているのは教師(筆者)の側であり進行係がそのほとんどを共有していな いため、次にどう進めるかという思考になりえなかった。これは大いに反省すべき点である。意欲 的な生徒を学期の初めに募って学習のプランそのものを共作し共有するようなことも他日試みてみ たい(作品づくりやアイデアの創出、クロス・カリキュラムによる新たな視野の開拓といった学習 には向くであろう)。なお筆者の強調点として、順に指名する行為は禁欲するようにとしていた。

学級・ホームルーム活動が形式化すると、議長は「並び順に(あるいは番号順に)意見をいってく ださい」という挙に出ることがある。そのようにして出された意見はまさしく形式的なものになり がちで、しかも「いいっぱなし」になるため、議事・議論としては失格である。筆者はまた、流れ や「空気」を読まず、思いついた順に発言してよい、混乱した場合には進行係が整理すればよいと 指示していた。この点については、学校教育をテーマとした現代社会論Ⅰと欧州情勢を扱った現代 社会論Ⅱのクラスで反応が割れた。前者では、着火すると賛意や反論を含めてそれなりに意見交換 がみられた。対して後者では、知識がなかったり見通しが立たなかったりする点についての質問す らほとんど出されず、ラリーは成立しなかった。そのため進行係のセリフは「他にありませんか」

にほぼ固定されてしまった。2学期に進行係を廃止したのは、比較的意欲があって名乗り出た生徒 にしてからが「他にありませんか」ばかりを繰り返し、それ以上の工夫の余地がない様子であった ためである。現在の中学校・高等学校での教育内容(教科や特別活動)や、少子化や IT 化を背景 とした彼らのコミュニケーション状況を念頭に置いて、導入的な、あるいはダミー的なテーマで「議 事・議論」そのものを1、2回やってみることが必要になってくるだろう。

 現代社会論Ⅰでは、中盤以降グループワークに切り替えた。初めは、従前どおりコ字配置で授業 をはじめてワークシートに記入させ、その回答が同じ生徒同士を組ませている。たとえば「学校教 育において最も重視されるべきものは」「その理由」と問うて、哲学・思想、古典文学、近代文学、

音楽、美術、モダンアート、演劇、サブカルチュアなどを選択肢として並べた。このときは、グルー プで話し合ってその選択肢が最重要であることを説得的に説明せよとしている。別の回では「なぜ 歴史を学ぶのか」と問うて、「現在の社会を知る」「国民として共有すべき」「過去から教訓を得る」

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「入試に出る」という選択肢を立て同様の方法で議論させている。サブカルチュアや「入試に出る」

といった本音ベースのものを入れておくほうが、グループ相互の意見交換が活発になるとみたので そのようにした。これは学院で長く指導している筆者の経験にもとづいた判断でありおおむね適切 だったと思われる。というのは、他方に「真っ当な」ことをきちんと整理し主張する生徒がいるこ とがわかっていたためである。学校やクラスによってはマジョリティが「安易」な答えを選択して、

しかもさほど深みのない主観や好みによる判断であるため、話がつづかず、また本来の目的(正解 を1つ選ぶのではなくそのプロセスを通してテーマ自体に接近する)から遠ざかってしまうことが ある。

 同クラスで最も好反応、好評だったのは、2学期の終盤に実施した完全沈黙型のワークである。

「望ましい大学・大学生の像」というテーマで A4判の上半分に各自の見解を記述する。ただし匿 名である。下半分には3つのマスを切ってあり、シートをランダムに交換して3人に匿名でコメン トしてもらった。2コマつづきの授業の1コマ目は、近年における大学・大学生像の変化や多様化 といったテーマで講義し、その内容や論点を確認して、2コマ目にワーク記入と交換をおこなって いる。テーマに当事者性が強くあり、時期(時機)的なこともあって、ずっと無言ではあったが鉛 筆が止まる様子はなかった。どのシートのどのマスもびっしりと文字で埋め尽くされた。これは、

別の回で「総合的な学習の時間の学びを考えよ」というパーソナルワークを課したとき、コミュニ ケーションは不得意でも文字化のポテンシャルは高いという傾向をあらためて確認したため、それ に複数の他者を関与させて間接的なコミュニケーションとしたものである。3人のコメントのつい たシートは次回の授業で返却し、全員分を匿名のままスキャンして Course  N@vi 上で共有してい る。一人の生徒が「こういうのこそ PC のチャットなどでやればよい」という意見を出した。非常 に適切な指摘である。中学校の道徳の授業などではそうした方法がきわめて有効であるし、教科学 習にももう少し取り入れてよいと思われる。もっとも、「いま教室にいる誰か」のナマの言葉であ るという実感を得させるために直筆のシートも悪くない。また、4月以来コミュニケーションを重 ねてそれなりの信頼関係や全体のムードが醸成されていた段階だからこそできる作業であり、開講

現代社会論Ⅰでの GW グループ内での議論が盛り上がると全体討議でも活発に発言するように

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直後におこなえば内容の薄い文字のやり取りに終わる可能性が高いと思われる。

 現代社会論Ⅱはクラス全体と対話する授業を続行した。ただ、教師に向かって質問する生徒がい つまでもほとんどなかったため、6月ころから授業レジュメとともに質問カードを始業前に配付し て回収し読み上げる方式を採った。文字で書かせると深みや幅のあることを指摘する生徒はやはり 多かった。ただ、「これはいい質問ですね、どういうことなのか自分で説明してくれるかな」と当 人を指名して促しても、一言で終わらせたり、硬直したりうつむいたりしてほとんど発言しないと いう様子が見られた。

 千葉工大の現代社会論は同一グループで2〜3回の授業に取り組ませてみた。メンバーに慣れて くることで変化があるのかどうかを確認するためである。進行係や盛り上げ係の指名はおこなわ ず、教師が机間巡視しながら介入して議論を促した。グループワークを通して全員が各自の役割を 経験していくという目的も考えられるものの、教養科目の主旨に照らして、当該テーマへの関心を 深めることを優先したのである。観察していると、どのような組み合わせになっても座を仕切って いるのは限られた学生であり、ほぼ発言ゼロで顔すら向けないメンバーも固定されていた。知識獲 得を目的としていないため、他者の見解を聞いて「なるほど」となる場面は思いのほか多かったよ うで、授業8回目あたりではまとめの記述内容がかなり深いものとなり、講義型の別クラスと比べ て格段によくなった。

 教育原理は、「教育とは何か」というかなり本質的で根源的なテーマを扱うので、自身の学校体 験を語り合うようなものであれば議論が盛り上がるが、思想に触れるようなものだとやはり停滞し た。科目の性質上、思想的な内容を含むテキストを読ませなければならないので、A4判で1〜2 枚ほどのテキスト(ルソー、デューイ、小原國芳など)を与えてかなり具体的な目標に誘導してい る。あるときには、「45分後に再集合。それまで教室を離れて読んでも、クラスメートと話し合い ながら答えをさぐっても OK です」と、完全フリーに近い形態を試みている。筆者自身も20分ほど 退出してみたのだが、誰ひとりとして教室を出ることもなく、クラスメートと議論することもない まま、じっと紙面を見つめていた。もっとも、テキスト講読という作業は文系の高学力層でもいま や苦手とするところなので、逸脱や睡眠がほとんどなかっただけでもよいのかもしれない。この作 業のあと、筆者が机間に入ってワイヤレスマイクで学生に発問し、その答えを拾って全体に投げか けるというかたちで授業を進めた。当然のことに想定外の反応や展開があるので、教師としては楽 ではないが、自身が取り組んだ内容に直結するものだけに教室全体の学びの雰囲気はよかった。何 よりも、この作業あたりから終業時のレビューシートに内省的なコメントが散見されるようにな り、また記述分量がかなり増えたことが印象的である。ただし、知識獲得を目的とする授業には適 しない方法であろう。

 学院および千葉工大の4クラスに共通してみられたことであるが、最初に「お題」の軽いワーク を与えてからグループワークに入らせようとすると、いつまでも下を向いて無言のまま時を過ごす ことになる。誰が、いつ「さあやろう」と呼びかけるのか注目するのだが、教室全体を沈黙が包む 時間が長くなるほどに最初の声を出せないといった様子であった。観察からわかったことは、こう

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した場での発言に不慣れであり、沈黙を破る度胸が足りないということのほかに、ワークの内容に 自信をもてないため他者に伝えることを恐れているということである。非講義型授業では「知らな い、足りない」ことは責められるどころかむしろ重要な出発点として共有されるべきものなのだが、

生徒・学生の中に、学習とは知識の量的蓄積であると考え、そのレベルが低いことを恥じる傾向が あるのは興味深い。

5.受講者へのアンケートから

 学院の現代社会論Ⅰ・Ⅱ、千葉工大の現代社会論では受講者の反応をみるためにアンケートを実 施した。学院については Course N@vi のアンケート機能を、千葉工大については本学の授業支援 システムに内装されたアンケート機能を用いて、匿名で意見を募っている。それぞれ選択肢も立て ているのだが、もとより統計処理に耐えられるものではなく、自由記述を引き出すための仕掛けで ある。

 以下は学院の現代社会論Ⅰの、AL を想定した授業形態についての自由記述である。選択肢の回 答についての理由として訊ねているので、「…だから」といった語尾になっている箇所は適宜改め ている。

喋れてよかった。

眠くならない。

自分の考えをまとめ、他の人にその意見を伝えるという活動によって講義式より知識の習得が しやすかった。

答えを押し付けられず、自分たちでものごとを考えていくのが楽しかった。

普通の講義形式だと答えが一つだと思い込んでしまうが、自分の意見を述べたり人の意見を聞 いたりすることによって様々な見方があると言うことを実感できる。明確な答を明言しないの は少し不安になるところもあるが、結果として自分で考えて自分なりの答を出す努力に繋がる と思う。

講義式の授業よりも主体的に参加することができる。

プリントの読むだけじゃ理解できなかったこと、知り得なかったことがある。話が広がって行 くのが楽しい。

自分の考えを言葉にして相手に伝える必要があるので、普段よりも物事に対して深く考えるこ とができた。

まず、自分自身が発言の場をもらえたこと、そして意見のやり取りを通じて「議論する」とい うことがどういうことなのかを肌で感じることができた。

自分だけでなく他の人の意見を聞いて新たな発見ができる。

「わからない所を聞きあう」という形だったので、質問→回答→質問→回答という流れに始終

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してしまった。テーマをひとつ決めて自由に話し合う形式の方が議論が活発化すると思いまし た。講義型のほうが、得られる知識が多かったように思います。グループワークだと班のメン バーに左右されやすい。

テストで点数を取るための授業にならない。打算的な姿勢で授業を受けることがない。この授 業の良かったところは、テストで評価するのではなく、レポートによる評価である点。テスト だとテストに出るところだけ、という姿勢の人間が出て、積極的にアクティブラーニングの授 業に参加する人が減る。レポートテーマが、授業とそこで交わされた討論を包括的に考えない と書けない視点のものであることが良かった。ただ、授業の中に答えを探せばすぐに答えられ るものでないところがいい。沢山考えるのは大変だけれどその中で、自分が今まで気づいてい なかった自分の考えが明らかになった。深く考えるいい時間になった。

自分に知識がないため話し合いに参加できない

先生と生徒、生徒と生徒の顔がお互い見える状況は、討論したり意見を聞いたりする際にとて も良いと思いました。また、少人数のグループワークは発言しやすく、より自分の考えを深め たり新しい意見を取り入れることもできると思いました。しかし、大人数の場では発言しにく いと思ったりもしました。

楽しいときもあったが講義を前提にしたディスカッションの方がよかった

一人一人が先生に指名されて意見を述べるより、言いたい時に言える雰囲気のほうが全員に とって嬉しい。しかし、授業を重ねるにつれて発言する人の固定化が進んだ感じがするので、

そのあたりが難しい点かなと思う。

このような授業形態であると、どうしても全員が同じテーマについてそれぞれ考えて参加しな くては授業自体が成り立たなくなってしまうし、半強制的に参加させないと思考できない生徒 も多くいると感じられる。

とても良い授業だったが、自分があまりアクティブになれなかったのが反省。

発言者がいつも同じ人でみんなが参加してる感があまりない。

先生が話している時間と生徒が話している時間とが半々くらいだったのがよかったです。私自 身もそうでしたが、あまり発表しなかったので、意見を言っている人に偏りはあったとは思い ます。しかし、グループワークの少人数になると、比較的発表して、意見を言っている人が多 かったように思うので、たくさんの考えに触れたり、新しい見方ができたり、共感できたりと できたのがよかったです。

中々他の授業ではやらない。

やったことがなかったので新鮮だった。

自分の意見を発表する機会を得るだけでなく、他人の意見を聞くことができ、それぞれの意見 の相違点について話し合う事が出来た。

今までの授業形態では意見が言いにくかった。最後の方にグループに分けてやった授業はより 意見を言うことができた。

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将来的には必要になってくるかもしれないけど、従来の講義式の方が先生の話だけをじっくり 聞くことができていい。

 実は当然のことだが、すべて非講義型にするのではなく単元計画の中に講義型と非講義型を適切 に組み込むことが肝要であることをあらためて確認できる。評価について言及するものがあるが、

本来 AL を指向するのであればルーブリックを用いた形成的評価を全面的に導入するべきところで あり、かつ折々の評価を受講者と共有することも必要になってくるだろう。

 千葉工大の現代社会論についてはこのような回答が寄せられている。

一方的に先生の話を聞くよりも、他人の意見を聞くことができるから。その上で、先生の話を 聞くことで自分の成長につながると思ったから。

グループワークすることによって他の人の意見や自分とは違う角度の捉え方を知ることがで き、より授業のテーマの考え方が広がり深いものになっていると感じた。

他の人の考えを聞きやすい。

色んな人と交流できて楽しい!

話し合う事で自分の考えの良くないところを見つける事が出来る。

色々な人の意見を参考にできるしまたそれによって新しい考え方を確立できる。

教養科目なので自分で考えることができるのでいいと思った。

講義形式と比較して、より積極的に授業に参加できているように感じている。

大学でグループワーク方式の授業があまり多くなく新鮮な感じで授業を飽きることなく受ける ことができる。

他の学科の生徒とグループワークを通して交流することができ、お互いの意見を交換すること ができるのでとてもよいと思う。

今後社会に出た時に必要となるコミュニケイション能力が少しでも向上する可能性があるため 良いと思う。

多数の人とコミュニケーションをとり多くの考え方を知れるのはいいが席の場所など大体の場 所を示していただけると集まりやすい。

話に参加しない人がいて話し合いが進まない。

全然参加していない人がいる。

話し合う内容が簡単というわけではないので、自分の意見を持ちづらく参加できないときがあ る。

人と話すのが苦手。

知らない人と話すのがあまり得意でない。

参加する人としない人の意欲の差があると思う。

人見知りなので初対面の人と話すのが苦手。

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コミュ障なのであんまり嬉しくない。アイディアの発表なども友達と話し合う方がいいたいこ とも言えるしいいと思う。

眠くなる。とくにスクリーンを使ったとき。

多数の人とコミュニケーションをとり多くの考え方を知れるのはいいが席の場所など大体の場 所を示していただけると集まりやすい。

評価の基準がわからない。

 賛否や傾向については教室にいて体感しているのとさほど違っていなかった。他者と(とくによ く知らない相手と)コミュニケーションすることが苦手な学生が一定の割合でいることはよくわ かっており、また当然だと考えている。「コミュニケーション能力」を高めるべきだという考えに は賛同するが、その方向が一様である必要はない。学級づくりでもそうだが、「全員で同じ方向を 向いて」というのは人間の本質についての無理解によるもので、少数の生徒・学生にマジョリティ の空気や作法を暴力的に強要することになりかねないので注意が必要であろう。もっとも、「人見 知り」「コミュ障」などと自称する生徒・学生が目立ってきたことには留意したい。そうした人に も適切な学びの機会、回路を提供すべきことは当然だからである。

 最後に、対話式の授業やグループワークで発言を躊躇し、参加できない理由・原因について当人 の声を聞いてみよう。40人超のクラス全体での対話型授業とグループワーク、パーソナルワークを 試行した学院の現代社会論Ⅰでは、「班別行動の時は、少ないメンバーでよりベターな意見を出さ なければいけないという責任感もあったので、意見を述べたり議論を進行することに積極的になれ たと思う。しかし、普段の U 字型講義では班別行動より格段に多い人数なので、自分が思ってい ることを誰かが発言してくれると考えていたし、実際その場合も多かったので、人任せになってし まった」というのが代表的な声である。「消極的」「萎縮」といった表現もみられた。「自分が発言 する機会が既に許されていて、かつ自分が主体的に授業に参加しようと考えたため。機会があって も生徒が主体的でなければ、授業に参加する生徒は一定のメンバーに限られてしまう。そのため、

適宣、アイスブレークも必要な場合がある」というのは冷静な自己分析と建設的な提案であろう。

コ字配置での対話式を最後まで通した現代社会論Ⅱでは、「決まった人が質問をしていた。もっと みんなが発言できると良いと思ったが、控えめな人には難しいから質問シートで授業をするのはよ かった」「発言しにくいのでできません。空気、雰囲気堅苦しいから」といった声が大勢である。

興味深かったのは、「知識がないため話し合いに参加できなかった」「自分がある程度知識がある内 容には質問できたが、知識がない内容には質問ができなかった」という声である。知識がないから 学んでいるのであり、前述のように知識の不足自体が貴重な出発点になるのだが、まずはそうした 授業観・学習観の共有を図る工夫をしなければならないということであろう。また、「いつも発言 する生徒が決まっていて、入って行きづらい」「発言者がいつも同じ」というのは、ファシリテー ターとしての教師の役割において何らかの調整を図るべきものであろう。そう思うのなら自分が 入っていけばよいではないかというのは、生徒・学生の心理状態を考えるとかなり無理な注文であ

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る。いったん「レギュラーメンバー」ができてしまうとそれがおのずと役割分担となっていき、固 定化する。「レギュラー」の側にも、「意見があるならいえばいいじゃないか」とシンプルに考えて 静かなマジョリティへの配慮を欠く傾向がある。自身の気恥ずかしい経験ではあるが筆者もそのよ うな高校生であったらしく、30年を経て同窓会で再会したクラスメートなどから「高校生のときは 古賀君とこうしてお話しできるなんて思っていなかった」などといわれる。そうした壁をなくすと いうよりは、生徒集団というのはそのような傾向を多少なりともはらむのが普通であると捉えて、

彼らの活動をより立体的かつ有意義なものにする方途を見出すべきではないだろうか。

 今般の実践はいわば試行の試行というべきもので、生徒・学生の傾向を実感として得ることを目 的とした。次年度は AL の作法・方略に沿った実践に取り組む予定である。なお本来であれば目的 に対する達成度、生徒・学生の到達度などの評価に言及すべきところではあるが、その分析にいた らなかったことを率直に認めた上で他日を期すことにしたい。

参照

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