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なぜ若きハイデガーは『動物運動論』を「広範な基盤」として『魂について』と『ニコマコス倫理学』を解釈する計画を『ナトルプ報告』で立てたのか

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(1)

なぜ若きハイデガーは『動物運動論』を「広範な基盤」として

『魂について』と『ニコマコス倫理学』を解釈する計画を

『ナトルプ報告』で立てたのか

―〈引用研究〉と〈参照指示研究〉による ハイデガーの断片的テクストへのアプローチ―

坂下 浩司(南山大学)

はじめに ―アリストテレス論第2部構想をめぐって

1922 年秋に成立した『ナトルプ報告』のアリストテレス論構想を見ると、その第1部は

『ニコマコス倫理学』『形而上学』『自然学』、第2部は『形而上学』『動物運動論』『魂 について』そして再び『ニコマコス倫理学』を解釈することが計画されていたことが分か る。

〔T0

1

「本研究の第二部では、解釈の重点を『形而上学』第七巻、第八巻、第九巻に置く。

……〔中略〕……ついで、この存在論的な地平の中に『〔ニコマコス〕倫理学』を置くことによ って、同書が、人間存在、人間の生、生という動性をもった存在者の解明であることが明らかに される。それは、まず先に、生という存在分野が特定の動性であることを解明し(『動物運動論』

の解釈)、その広範な基盤の上に立って『魂について』をその存在論的=論理的な体制に向かっ て解釈するという手順でなされる」(GA62, 397. 『思想』版高田訳2、p.39)。

高田氏の邦訳も Van Buren の英訳

3

も、この箇所に注をつけていない。しかし、第2部のこ のリストは非常に興味深いと思われる。

まず、古代哲学史の知識がある人にとって興味深いはずである。『形而上学』、『ニコ マコス倫理学』、『魂について』は、アリストテレスの主著として知らぬ人のない大著で あるが、これらと比べると、『動物運動論』は、ボリュームの点だけみても片々たる小著 であり(ベッカー版アリストテレス全集で6頁しかない)、また知名度の点でもかなり見 劣りするように思えて、なぜこのような小篇が3つの主著と肩を並べるように言及されて おり、また、『ニコマコス倫理学』や『魂について』の解釈にとっての「広範な基盤」に

1 「T~」は、本論文におけるハイデガーの引用の整理番号。「T0」から「T37」まである。

2 高田珠樹訳、マルティン・ハイデッガー「アリストテレスの現象学的解釈─解釈学的状況の提 示―」、『思想』、813号、1992年3月、岩波書店、pp.4-42。

3 Van Buren, J. (ed. ), Martin Heidegger, Supplements: From the Earliest Essays to Being and Time and Beyond. SUNY, 2002. p.143.

(2)

なるのかと興味を持つであろう。

さらに、アリストテレスの専門家にとっても興味深いはずである。『ナトルプ報告』が 書かれたのは、 1922 年。しかし、アリストテレス研究者として著名なイェーガーが、長い 間偽作の疑いをもたれてきた『動物運動論』の真作性を論証したのが、その 9 年前の 1913 年のことなのである

4

。ハイデガー自身、 1926 年夏学期講義『古代哲学の根本諸概念』で、

「『動物運動論』、アリストテレスの真著。これはW・イェーガーが証明した」と述べた 記録が残っている

5

。当時の最新のアリストテレス研究の成果をきちんとフォローしている だけでも特筆すべきことであるが、『動物運動論』を、アリストテレスの主著の解釈にと っての「広範な基盤」にするほどに重視する点が驚くべきことなのである。というのは、

現代のアリストテレス研究者たちの間で、『動物運動論』が注目すべき著作であるという 認識が広まったのは、おそらく、 1978 年の Nussbaum の画期的な研究

6

以来のことだからで ある。たとえば、 Nussbaum の研究以前の訳である岩波版アリストテレス全集の島崎訳では、

『動物運動論』と『動物進行論』の解説が、合わせてたったの2頁しかない。いかに重視 されていなかったかが分かるであろう。それゆえ、 Nussbaum の研究以前にこれほど『動物 運動論』を重視できたのは驚くべきことなのである。いったい、ハイデガーは、『動物運 動論』のどこに注目して、それほどの重要性を認めるにいたったのだろうか?

そこで、次のように問うてみたい─『動物運動論』の何がそんなに若きハイデガーの 関心をひいたのだろうか? そして、なぜ『魂について』や『ニコマコス倫理学』よりも むしろ『動物運動論』が「広範な基盤」になると判断されたのだろうか?─これはおそ らく、ハイデガーの専門家によっては問われたことのない問いであろう。しかし、初期ハ イデガーのアリストテレス受容に関する新しい発見へといざなわれるような問いではない かと私は考えている。

なお、本論文では、〈引用研究〉と〈参照指示研究〉という手法を用いたい。これは、

たとえばギリシア語の単語や文章が羅列されているだけ、あるいは、ギリシア語の著作へ の参照箇所が列挙されているだけにしか見えないハイデガーの断片的なテクストの隠され た意図を読み解くために私が有効だと考えて仮に作ってみた手法である。〈引用研究〉と

〈参照指示研究〉は、ギリシア語のどの著作のどの箇所が何回引用ないし言及されている か調べることと、参照箇所が指示されているだけの場合は、その箇所へもどってギリシア 語テクストをハイデガーの指示通りに実際に読んでみることからなる。本論文では、この 手法を『ナトルプ報告』「付論」の一部にしか適用していないが、本論文を読まれた方が、

もしこの手法の有効性を感じられたなら、「付論」やその他の断片的テクストのさらなる 分析をおこなっていただきたいと思う。

4 Jaeger, W., Das Pneuma im Lykeion. Hermes, Bd.48, 1913. pp.29-74(特に「I. Die Schrift Peri zoon kineseos in ihren litterarischen Beziehung zu den Schriften des Aristoteles」(pp.31-42)); Jaeger, W., Aristotelis De Animalium motione et De Animalium Incessu. Ps-Aristotelis De Spiritu. Leipzig (Teubner), 1913によって。

5 GA22, 308(邦訳版全集、p.359)の「メルヘン筆記録」第83節。

6 Nussbaum, M. C., Aristotle’s De Motu Animalium. Princeton, 1978.

(3)

第1章 『ナトルプ報告』への「付論( Beilagen )」の分析の開始

─アリストテレスのどの著作のどの箇所へ何度言及しているのか

1989 年の『ディルタイ年報』第6号に『ナトルプ報告』が発表された際には、この問い を追求する手がかりがほとんどなかった。しかし、 2005 年の全集第 62 巻

7

によって、その 手かがりが与えられたと思われる。

まずは、『ナトルプ報告』の「付論」( GA62, 403-415 )において、アリストテレスのど のようなテクストが、何回くらい言及されているのか、また、『動物運動論』に言及され ている付論はどれか、などを調べてみることが、手がかりになるであろう。それを一覧表 にすると、次のようになる。

GA62

の「付論(

Beilagen

)」で言及されているアリストテレスのテクスト一覧

付論1

『ニコマコス倫理学』第6巻第13章 付論2

『魂について』第3巻第10章 付論3

『魂について』第1巻第4章

『ニコマコス倫理学』第6巻第2章(2回)

『ニコマコス倫理学』第6巻第6章

『ニコマコス倫理学』第6巻第8章

『ニコマコス倫理学』第6巻第9章

『ニコマコス倫理学』第6巻第12章

『政治学』第1巻第5章 付論4

『ニコマコス倫理学』第6巻第7章

『ニコマコス倫理学』第6巻第12章

『魂について』第3巻第3章

『魂について』第3巻第5章

『魂について』第3巻第10章 付論5

『魂について』全体

『魂について』第3巻第10章(2回)

『動物運動論』第6章

7 Band 62:Phänomenologische Interpretationen Ausgewählter Abhandlungen des Aristoteles zur Ontologie und Logik; Anhang:

Phänomenologische Interpretationen zu Aristoteles (Anzeige der Hermeneutischen Situation) Ausarbeitung für die Marburger und die Göttinger Philosophische Fakultät. Frankfurt am Main, 2005.

(4)

『動物運動論』第7章

『ニコマコス倫理学』第6巻全体

『ニコマコス倫理学』第6巻第2章 付論6

『動物運動論』第7章

『動物運動論』第11章 付論7

『形而上学』第6巻第1章

『ニコマコス倫理学』第1巻第7章

『ニコマコス倫理学』第6巻第2章(2回)

『政治学』第5巻第10章 付論8

『魂について』第3巻第10章

『ニコマコス倫理学』第6巻第2章(2回)

付論9

『魂について』第3巻第9章

『ニコマコス倫理学』第6巻第2章(2回)

付論10

『魂について』第1巻全体 付論11

『ニコマコス倫理学』第6巻第4章 付論12

『ニコマコス倫理学』第6巻第2章(4回)

付論13

『ニコマコス倫理学』第3巻第4章

『ニコマコス倫理学』第6巻第10章 付論14

アリストテレスのテクストは特に挙げられていない

以上、結論を述べれば、『ニコマコス倫理学』第6巻第2章が最多で 13 回登場している

(次に多いのは『魂について』第3巻第 10 章で5回登場している)。では、まず、ハイデ ガーが『ニコマコス倫理学』第6巻第2章( EN.VI.2 )にこれほど多く言及していることの 意味を明らかにして、本論文の解釈の方向性を定めよう。

第2章 ハイデガーが「付論」において『ニコマコス倫理学』

第6巻第2章( EN.VI.2 )に何度も言及する意図は何か

─本論文の解釈の方向性

(5)

『ニコマコス倫理学』第6巻第2章が出てくる「付論」の部分の筆者による訳

8

とコメント

T1 :付論3「ヌースⅠ」

全集第62巻403頁の下から2行目から404頁の上から5行目まで

「人間の定義に注意を払え──プシューケー(魂)すなわちここではヌース...........

(知性..

)をもつ...

ゾ ーオン(動物)であるということに!/

そこ〔ヌース〕からエンテレケイア.......

(完全現実態.....

)を見ること。/

本来的に生を可能にすること、そして、生を導くもの─エン・テー・プシューケー・キュ ーリア(魂の内の支配するものども)[『ニコマコス倫理学』第6巻第2章1139a17sq.]─が、

導くもの(1143b〔35-36,キューリオーテラー(より支配的)、あるいは、アルケイ・カイ・エ ピタッテイ(支配し指令する)〕,[『ニコマコス倫理学』]第6巻第 12 章)として、おのれ を存在において開示する....

(offenbart)のだ。/

つまり、人間の現存在...

(Dasein)は、世界へ─存在へ用立てられていることにおいて根本的 に存立している(der Grundbestand an Gestelltsein zur Welt – zu Sein)。

始めに何もない....

のではなく、完全に見ること(volles Sehen)〔ヌース〕があるのだ」。

筆者のコメント1:ここで、 EN.VI.2 は、生を本来的に可能にし導くものがヌースである ことを示すために言及されている。

T2 :付論3「ヌースⅠ」

同404頁16-17、18-21行目

「その〔ヌースの〕二つの根本的な方向であるソピアー─プロネーシス」。

「ソピアー─プロネーシス:真実化の─固有化の諸遂行、諸時熟、諸動性...

。/

参照せよ、カト・ハース・ウーン・ヘクセイス[この複数形は二つ]マリスタ....

(それゆえそ れらによって最も..

〔真理に到達させるようにするところの魂の〕諸状態)(参照せよ、[『ニ コマコス倫理学』第6巻第2章]1139b12sq.)」。

筆者のコメント2:ここで、 EN.VI.2 は、ヌースの二つの根本的な方向がソピアーとプロ ネーシスであり、両方とも真理に到達させるものであることを示すものとして使われてい る。

T3 :付論5「ヌースⅢ」

同406頁17-19行目

「[『ニコマコス倫理学』第6巻第2章]1139a fin.〔「しかしながら、思考それ自体は何も動 かさない。動かすのは、何かを目的とした思考、すなわち行為に関わる思考である」〕を参照 せよ」。

8 原文のイタリックには傍点を付した。理解のため、「/」で、ハイデガーの原文にはない改行を 行った(見やすくするため、段落と段落の間を1行あけることもある)。「〔 〕」は、筆者によ る補い。箇所しか挙げられていないアリストテレスの著作は、対応する文を補った。

(6)

筆者のコメント3:ここで、 EN.VI.2 は、思考それ自体は動かさず、目的をもって実践す る思考が動かすということを示すものとして使われている。

T4 :付論7「ディアノイア・プラークティケーⅠ」

同407頁7-8行目

「ディアノイア......

・プラークティケー........

─テオーレーティケー.........

─ポイエーティケー........

([『ニコ マコス倫理学』第6巻第2章]1139a26sqq.〔「行為に関わるもの(プラークティケー)でもな く制作に関わるもの(ポイエーティケー)でもない『観想に関わる思考(テオーレーティケー・

ディアノイア)』の善し悪しとは、もっぱらその真偽にある」。「他方、行為に関わる思考的 なものの機能とは、正しい欲求(オレクシス)に一致している真理を捉えることである」〕)。

筆者のコメント4 :ここで、 EN.VI.2 は、「プラークティケー─テオーレーティケー

─ポイエーティケー」という三つの言葉の用例として引かれているだけなのだが、「行

. 為 .

に関わる思考は、正しい欲求 ..

に一致している真理 ..

を捉える」という言葉から分かるよう に、行為と真理をつなぐものは欲求であることを述べている箇所であることが重要であろ う。

T5 :付論7「ディアノイア・プラークティケーⅠ」

同408頁4-5行目

「キューリオン(支配するもの)・プラークセオース(I.)(行為を)・カイ(そして)・アレー テイアース(II.)(真理を)[参照せよ、『ニコマコス倫理学』第6巻第2章、1139a18]として のノエイン....

(思惟すること......

)」。

筆者のコメント5:ここで、 EN.VI.2 は、真理も行為も支配するものが、ヌースの活動で あるノエインであることを示すものとして引用されている。

T6 :付論8「ディアノイア・プラークティケーⅡ」

同409頁6行目

「ロゴス...

・ホ.

・ヘネカ...

・ティノス....

(特定のことのための道理...........

)[『ニコマコス倫理学』第6巻

第2章 1139a32sq.〔「ところで、行為のアルケー(始点)─すなわち、目的ではなく、動き

のアルケー─とは、プロアイレシス(選択)であり、プロアイレシスのアルケーは、オレク シス(欲求)と、ロゴス・ホ・ヘネカ・ティノス(特定のことのための道理)である」〕]」。

筆者のコメント6 :ハイデガーが直接に引用している言葉「ロゴス・ホ・ヘネカ・ティノ ス」だけからでは分かりにくいが、 EN.VI.2 は、プロアイレシスがオレクシスとロゴスか らなることを示すために言及されているとみてよいであろう。

T7 :付論8「ディアノイア・プラークティケーⅡ」

同409頁のハイデガー自身の注16

「[『ニコマコス倫理学』第6巻第2章]1139b4 sq.、オレクティコス・ヌース(欲求的な思考)

=オレクシス・ディアノエーティケー(思考的な欲求)=プロアイレシス─「そのようなア

(7)

ルケーが人間なのである」を参照のこと」。

筆者のコメント7:ここでも、テクスト6と同じく、 EN.VI.2 は、プロアイレシスがオレ クシスとロゴス(ここではヌース)からなることを示すために言及されているとみてよい であろう。

T8 :付論9「ディアノイア・プラークティケーⅢ」

同410頁2-5行目

「ディアノイア・アウテー(思考それ自体)[参照せよ、『ニコマコス倫理学』第6巻第2章、

1139a35sq.〔「思考それ自体は何も動かさない」〕]──ひたすらに認めて受け取ることそれ自

体(Durchvernehmen als solches)は、すなわち、純粋にただ見入りながら、アウテー、それ自身

としては、その事実的な交渉からは解放されており、〈何も動かさない〉、つまり、行為へ何 も導かないし、そこにそもそも気遣いの傾向(Sorgenstendenz)はない」。

筆者のコメント8:ここで、 EN.VI.2 は、思考それ自体は動かさないことを示すために言 及されている。

T9 :付論9「ディアノイア・プラークティケーⅢ」

同410頁下から3-1行目

「行為することの何であるか............

(Das Was des Handelns)─行為することにおいて配慮的に気遣わ れていること─は、何のためにかということそのものである!何のためにかということ─

行為すること自体、しかも、善きものとしての それ。 エソメノン(成ること、未来のこと)

─エンデコメノン(〔他の仕方でもあることが〕可能なこと)[参照せよ、『ニコマコス倫 理学』第6巻第2章、1139b8]」。

筆者のコメント9:ここで、 EN.VI.2 は、行為の本質としての目的である善と可能性の関 係を示すために言及されている。これは、行為の実践的三段論法による分析が、大前提に 善を、小前提に可能なものをもつことを暗示している。本論文にとって重要な意味を持つ テクストである。

T10/11 :付論12「ヌース・プラークティコス」

同412頁5-8行目

「参照せよ、[T10『ニコマコス倫理学』第6巻第2章]1139a18〔「行為と真理を支配する もの」〕、プラークシス(行為)─アレーテイア(真理)。/

いかにして両者〔行為と真理〕は決定的なものとして重なるのか、両者が関係しているのは 何か?/

プロアイレシス.......

(選択..

)である![T11〔『ニコマコス倫理学』第6巻第2章1139〕a23sqq.

〔「プロアイレシス(選択)は、ブーレウティケー(思案に基づく)オレクシス(欲求)であ る」〕]/

そして、これ〔プロアイレシス〕が、ここでは、人間の存在(das Sein des Menschen)を意味 するのだ。すなわち、欲しつつ....

認めて受け取ること(ausseiendes Vernehmen)──〈~を..

気遣う

(8)

こと(Sorgen um)〉」。

筆者のコメント10/11:ここで、 EN.VI.2 は、行為と真理の両方を司るものがプロア イレシスであることを示すために言及されている。

T12 :付論12「ヌース・プラークティコス」

同413頁1-2行目

「行為は交渉であり、したがって、何によってかということを、存在するものとして、真実化 において与えること.....

(das Womit als Seiendes in Verwahrung geben)なのである(参照せよ![『ニ コマコス倫理学』第6巻第2章]1139a17〔「行為と真理を支配するもの」〕)」。

筆者のコメント12:ここで、 EN.VI.2 は、行為と真理が関係していることを示すために 言及されている。

T13 :付論12「ヌース・プラークティコス」

同413頁11-16行目

「参照せよ![『ニコマコス倫理学』第6巻第2章]1139a33、アネウ・ヌー・カイ

..

・ディアノ

....

イアース....

(「知性や思考...

がなく〔性格としての状態もなければ、プロアイレシス(選択)はあ りえないのである〕」)。/

両者(ヌースとディアノイア)が挙げられている理由! ヌースは、同時に何の..

ためかとい うこと(Weswegen)を認めて受け取ること(Vernehmen)である! ディアノイアは、これの ためにということ(Deswegen)をひたすらに認めて受け取ること(Durchvernehmen)である」。

筆者のコメント13:ここで、 EN.VI.2 は、目的を介してヌースとディアノイアを連続的 なものとしてみることができることを示すために言及されている。しかし、プロアイレシ スの成立に思考的なものと行為的なもの両方が必要であることを示す箇所であることも重 要である。

以上で、 13 個のテクストの検討は終わった。

さて、『ニコマコス倫理学』第6巻第2章で言及されている箇所は、ベッカー版の順序 で並べ替えて一覧表にすれば、以下のようになる。

『ニコマコス倫理学』第6巻第2章で言及されている箇所の一覧表

T1 、 1139a17 sq.

「魂の内の支配するものども」

T12 、 1139a17

「行為と真理を支配するもの」

T5 、 1139a18

「行為と真理を支配するもの」

T10 、 1139a18

(9)

「行為と真理を支配するもの」

T11 、 1139a23sqq.

「プロアイレシス(選択)は、ブーレウティケー(思案に基づく)オレクシス(欲求)である」

T4 、 1139a26 sqq.

「行為に関わるもの(プラークティケー)でもなく制作に関わるもの(ポイエーティケー)でも ない『観想に関わる思考(テオーレーティケー・ディアノイア)』の善し悪しとは、もっぱらそ の真偽にある」

「他方、行為に関わる思考的なものの機能とは、正しい欲求(オレクシス)に一致している真理 を捉えることである」

T6 、 1139a32 sq.

「ところで、行為のアルケー(始点)─すなわち、目的ではなく、動きのアルケー─とは、

プロアイレシス(選択)であり、プロアイレシスのアルケーは、オレクシス(欲求)と 、ロゴス・

ホ・ヘネカ・ティノス(特定のことのための道理)である」

T13 、 1139a33

「知性や思考がなく、性格としての状態もなければ、プロアイレシス(選択)はありえないので ある」

T8 、 1139a35 sq.

「思考それ自体は何も動かさない」

T3 、 1139a fin.

「思考それ自体は何も動かさない。動かすのは、何かを目的とした思考、すなわち行為に関わる 思考である」

T7 、 1139b4 sq.

オレクティコス・ヌース(欲求的な思考)=オレクシス・ディアノエーティケー(思考的な欲求)

=プロアイレシス─「そのようなアルケーが人間なのである」

T9 、 1139b8

エソメノン(成ること、未来のこと)─エンデコメノン(〔他の仕方でもあることが〕可能な こと)

T2 、 1139b12 sq.

ソピアー─プロネーシス。それらによって最も〔真理に到達させるようにするところの魂の〕

諸状態。

以上をまとめれば、特定の箇所では、 1139a17-18 が、最多で 4 回(T1: 1139a17 sq. 、T

12 : 1139a17 、T5 : 1139a18 、T10: 1139a18 )言及されており、ハイデガーが『ニコ

マコス倫理学』第6巻第2章を読む際の根本的な観点を示していると思われる。それは、

「行為と真理を支配するもの」である。ハイデガーは、『ニコマコス倫理学』第6巻第2

章で、行為に関わるものと思考に関わるものを統一する根本的なものは何かということを

探求するというテーマを見ていると解することができよう(また、ソピアーとプロネーシ

スの関係というテーマとも関係するかと思われる。T2 を参照)。

(10)

そして統一するものは、プロアイレシスであるとされ、プロアイレシスは、ロゴス(あ るいはヌース、ブーレウシス(思案))とオレクシスからなるとされる(T11、4、 6 、 13 、7)。

以上から、プロネーシスにおける思考に関わる要素と行為に関わる要素そしてそれらの 関係を明らかにすること、いいかえると、プロネーシスにおけるロゴス(あるいはブーレ ウシス(思案))という構造とその中でのオレクシスの位置づけを明らかにすることが、

ハイデガーの課題ではないかと推測される。しかも、「思考それ自体は動かさない」に2 回も言及している(T8 、3)ところから、力点は、動かすものであるところの、オレク シス、あるいは、その対象としてのオレクトン/目的の強調にあるのではないかと思われ る(このような見通しからすると、T9 が重要になってくる。T9のコメントを、注 18 がついた文「しかるに、作り出すことに関わる諸前提は云々」とともに見よ)。

第3章 「付論5」および「6」の分析 ─「根本現象」としての

「プロアイレシス(選択)」と実践的三段論法について

さて、『ニコマコス倫理学』第6巻第2章、『魂について』第3巻第 10 章、そして『動 物運動論』が登場するのは、「付論5」である。これに、『動物運動論』が登場するもう 一つの付論である「6」を加えて、この2つの付論、「5」と「6」を、以下の考察の中 心に置きたい。

『ナトルプ報告』「付論5」および「6」(

GA62, 406-7

)の筆者による訳とコメント

付論5「ヌース III 」

〔T14〕

『[ニコマコス]倫理学(Eth.[Nic.])』第6巻や『魂について』において、ヌース

(知性)、ディアノイア(思考)、オレクシス(欲求)などが見られている様々な観点に注意 を払え。

筆者のコメント14 :以下、本論文において、「欲求」そして「欲望」という、よく似た 言葉が出てくるが、「欲求」は「オレクシス」の訳で、「欲望」は「エピテューミアー」

の訳であり、オレクシスの方が上位概念であって、「欲求」と「欲望」を混同してはなら ない。エピテューミアーは、オレクシスの一種であり、不合理な欲求である。

〔T15〕

根本現象としてのプロアイレシス(選択)を参照すること。/

筆者のコメント15 :アリストテレスは、「選択(プロアイレシス)とは、わたしたちに

可能なものごとへの、思案した上での欲求(ブーレウティケー・オレクシス)であろう。

(11)

なぜなら、わたしたちは、思案した上で『判定/決断/決意(クリーネイン)』をしたと きに、思案にもとづいて欲求することになるからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻

第3章 1113a10-12 )と言う。つまり、プロアイレシスは、後で触れる「付論1」で注目さ

れている「ヌース・プラークティコス(行為に関わるヌース)」が行う「思案」すなわち 推論(実践的推論ないし実践的三段論法)の結論としての決断という面をもつ。それゆえ、

プロアイレシスと共に実践的三段論法に注目せねばならないのである(このようにしなけ ればならない根拠は以下でも述べる)。

〔T16〕

ヌースの根源的性格は、プラークティコスな.........

(行為に関わる......

)ものであることだ。

「ヌースとは、何かを目的としてそのために推論するもの......

(ロギゾメノス......

)、すなわちプラー クティコスなものである」([『魂について』第3巻第10章]433a14)。

筆者のコメント16 :「何かを目的としてそのために推論する ....

(ロギゾメノス ......

)」という ギリシア語テクストが引用され注目されていることによって、『ナトルプ報告』のアリス トテレス論第2部構想の解釈において、合目的的推論、すなわち、実践的推論ないし実践 的三段論法を取りあげることが正当化されるだろう。

〔T17〕

「なぜなら、オレクシスが対象とするもの、それは...

、プラークティコス........

・ヌース...

の.

アルケー(出発点)であるが、〔このヌースが実践的推論によって到達する〕エスカトン(最 終項)〔が、今度は、プラークシス(行為)の出発点となるからである〕」([同、a15以下])

─〔ここでの最終項とは〕それ..

〔実践的推論を行うヌース...........

〕の.

最終のもののことである。/

〔T18〕

〔すなわち、〕「認めて受け取り且つ存在を保管・真実化すること9(Vernehmen und Seinsverwahren)」、それは、或るもののために........

、つまり...

、何かのためということへ方向付けら................

れていることにおいて..........

、─この〔何かのためという〕態度とそのように〔何かのために〕行 為することを共に遂行するものとしての根本現象....

〔プロアイレシス.......

〕を終結させること.......

〔実践..

的推論の結論を出し決断すること...............

〕なのだ...

筆者のコメント18 :「根本現象」とその「終結」について述べるこの箇所も、プロアイ レシスと実践的推論に注目することを正当化するだろう。

〔T19〕

「求め(Aussein auf)」の対象10は〈目的..

(weswegen)〉という対象性格をもつ。/

〔T20〕

オレクシスのこの「求める行き先......

(worauf)」(オレクトン.....

(欲求されうるもの)

のこと)は、実践的なヌースにとっては、「出発点...

(von wo aus)」〔アルケー〕である。/

〔T21〕

だから、それ〔実践的なヌース〕は、これ〔行き先でもある出発点〕をもってい

9「Vernehmen und Seinsverwahren」全体が、おそらく、根源的にプラークティコスだとされているヌ ースの動詞形ノエインの意訳であろうと思われる。

10「Der Gegenstand des Ausseins auf」は、おそらく、前の段落のギリシア語テクストの「 フー・ヘー・

オレクシス(オレクシスが対象とするもの)」の意訳であろう。

(12)

るのでなければならない─それは、この..

〔行き先でもある〕アルケーを認めて受け取り保持 するところのものなのである。/

〔T22〕

[『ニコマコス倫理学』第6巻第2章]1139a末尾〔「しかしながら、ディアノイ アそれ自体は何も動かさない。動かすのは、何かを目的としたディアノイア、すなわちプラー クティケー・ディアノイアである」〕を参照すること。/

〔T23〕

他の仕方でもあれでもこれでもありうるもののアルケー、すなわち、プラークタ.....

(行為に関わるものども..........

)のアルケー.....

!「[これがオレクトンである...........

のだが、]それ(オレク トン)を通じてディアノイアは動かすのである」〔(『魂について』第3巻第10章433a18-1911)〕。

筆者のコメント23 :「動かすこと」への着目は『動物運動論』への着目を生み出すであ ろう。しかも、「オレクトン」、すなわち、オレクシスの対象を通じてであると言われて いるので、本論文第4章で論じるオレクシスの重要性も示唆されている。

〔T24〕

出発点...

(von wo aus)を、そしてもちろん真正にそれを「熟慮して....

(überlegend)」! こ の〈出発点〉は、「目標

..

(Ziel)」〔行き先〕という性格の内にあるのだ。

筆者のコメント24 :この「 überlegen 」は、「ロギゼスタイ(推論を行う、勘案する)」

や、それと同義の「ブーレウエスタイ(思案する、あれこれを考え合わせる)」の訳語で はないかと思われる。したがって、この「 überlegen 」という言葉も、アリストテレス論第 2部の解釈において実践的推論を取りあげることを正当化するだろう。

〔T25〕

〔それに対して〕理論的なヌースは、〔実践的な〕テロスという性格の内にない

―〔あるいはむしろ〕端的な!〔理論それ自体が目的であるような〕テロスの内に......

!ある12─ ところのもろもろのアルケーを探し求めて保つ.................

のだが、このことに対応して、それ〔理論的な ヌース〕の「認取(Vernehmen)」も別種のもの.....

なのである。対象の受け取り.......

─価値を受け.....

取る者...

。一般的に認取する─視を保ち視を..

与えることにおいて。アルケー─そこから....

(von

wo aus)そのつど存在するものを認取する....

。存在を保管(真実化)し自分のものにすることを一 般に可能にする。

〔T26〕「

『動物運動論』〔第6章〕700b23以下〔「したがって、欲求されうるもの(オ レクトン)であり且つ思考されうるもの(ディアノエートン)が、第一次的に動かすものだ。

しかるに、思考されうるもののすべてがそうなのではなく(理論的なものはそうではなく)、

プラークタ〔行為に関わるものども、すなわち目的と手段〕のうちの、目的であるものがそう なのである」〕の鋭い分析を参照すること」。

筆者のコメント26 :「鋭い分析」という言葉から、『動物運動論』への評価の高さがう

11 GA62の編者は、この箇所表記を補ってくれていない。不親切である。

12 ここにハイデガー自身が次のようなギリシア語テクストを挙げた注記がある。「『その目的は理 論的なものである』([『動物運動論』第7章]701a10)を参照すること!」。

(13)

かがえるであろう。

付論6「ヌース IV 」

〔T27〕

「なぜなら、思惟と表象は、ちょうど先に述べられたように、諸々の受動的状態

〔身体の状態変化〕を『作り出すものども(ポイエーティカ)』をもたらすから。つまり、受 動的状態を作り出すものどもの形相をもたらすから」([『動物運動論』第 11 章]703b18 以 下)。

筆者のコメント27 :「身体の状態を作り出す」というのも「動かす」ことの一種である から、この引用も、ハイデガーが「動かす」ことに注目していることの証拠である。

〔T28〕 「

ポイエーティコンとは?...........

(プロタセイス・ポイエーティカイを参照すること[『動 物運動論』第7章701a23以下〔「『作り出すことに関わる諸前提(プロタセイス・ポイエーテ ィカイ)』は、二つの種類のものを通じて、すなわち、善いものを通じて、また、可能なもの を通じて生じるのである」〕を参照すること])」。

筆者のコメント28 :これは『動物運動論』において実践的三段論法の性格付けがなされ ている重要な箇所であり、ハイデガーがこの箇所を参照させていることも、アリストテレ ス論第2部の解釈において実践的推論を取りあげることを正当化するだろう。(注 18 も見 よ。)

さて、以上から、ハイデガー自身が明示的に「根本現象( Grundphänomen )」と呼んで いる「プロアイレシス(選択)」、および、(表面的には分かりづらいが)実践的推論な いし実践的三段論法が論述の中心になっていることが判明するであろう。

また、ハイデガーは『動物運動論』のどこに注目しているのかという問いに対しては、

第6章、第7章、第 11 章が挙げられていることから、『動物運動論』の後半に注目してい ることが分かる。

ところで、『動物運動論』全体は、自然学と神学を橋渡しする『自然学』第8巻を受け て、天の運動と動物の運動を比較対照しながら、それらを動かすものが、それらの支えに なりながら外部に存在する必要性を説く第1章から第5章までの前半 ..

と、『ニコマコス倫 理学』や『魂について』との関連で、動物において魂が体をいかにして動かすかを、欲求 と思惟のはたらきに着目しながら実践的三段論法の形式で分析し、動物は「外部に存在す る欲求対象に動かされつつ、欲求しながら自ら動く」という仕方で論じる第6章から第 11 章までの後半 ..

に大きく分かれている。

したがって、 『動物運動論』の後半に着目するが前半には言及しないということからは、

さしあたって自然学や神学ではなく倫理学(あるいはむしろ行為論)や魂論との結びつき

を求めていることが分かるのであり、『動物運動論』の後半と同時に『ニコマコス倫理学』

(14)

や『魂について』に多く言及していることは当然であったのだ。

なお、全集第 18 巻『アリストテレス哲学の根本諸概念』に、ハイデガーが『ニコマコ ス倫理学』第6巻第2章のプロアイレシス論を重視している箇所があるので、証拠として 引用しておきたい。

〔T29〕

「《プロアイレシス、つまり、決意していること(Entschlossensein)は、語らぬよ うな生き物には存在しない》。〔これは『ニコマコス倫理学』第3巻第4章(邦訳では第2章)

1111b12-13をドイツ語に訳したものである〕/

すなわち、プロアイレシスには、語ること(Sprechen)、つまり、思案すること(Überlegen)

が属する。/

思案を経た決意(ein durch die Überlegung hindurchgegangener Entschluß)だけが、本来的な決意 である。/

決意とは、〔『ニコマコス倫理学』〕第6巻第2章〔1139b5〕においては、オレクシス・デ ィアノエーティケー(思考的欲求)、すなわち、《考察しつつ求めること(betrachtendes Aussein)》、

考察し抜くことを通じて、つまり、思案することを通じて規定されているところの求めること である」(GA18, 145)。

また、全集第 19 巻『プラトンの「ソピステス」』序論部にも、ハイデガーがプロアイレ シスと実践的三段論法を結びつけている箇所があるので、これも証拠として引用しておき たい。

〔T30〕

「エピステーメー(知識)という意味での論証も、配視的に語るという意味でロ ギゼスタイ(勘案すること)も、シュッロギスモス(三段論法)の構造をもつということが銘 記されねばならない。/

ブーレウエスタイ(思案すること)は、構造的に、三段論法において定立される。/

プロネーシスは、プロアイレシスにおいて起こる。それは以下のようなものである。/

第一前提(大前提)─それのために、つまり、或る善のために、─それが何であれ―、

これ..

が為されねばならない。/

第二前提(小前提)─しかるに行為の環境や状況はこれこれである。

結論─したがって、私はこれこれを為さねばならない」(GA19, 159)。

さて、プロアイレシス(およびその構造としての実践的三段論法)は、実際、『ニコマ コス倫理学』第6巻第2章、『魂について』第3巻第 9 章〜第 11 章、そして『動物運動論』

の後半、という、3つのテクストの中心テーマであると言える。そこで、「プロアイレシ ス」が登場する「付論」を翻訳し注解することが重要になる。それは、「付論 1 」、「 5 」、

「 8 」、「 12 」、「 14 」である。

(15)

第4章 「プロアイレシス」が登場する「付論」の分析

─「オレクシス(欲求)」の重要性

「プロアイレシス」が登場する「付論」の筆者による訳とコメント

付論1「ヌース」

〔T31〕

「ヌース...

・プラークティコス........

は、「実践理性....

(praktische Vernunft)」とは全く別の 何かである─しかも後者が前者から導き出されたのだ。

それ(ヌース・プラークティコス)は、「環境世界の中で配慮的に気遣いながら用務を果 た す と い う こ と の た め に 且 つそ の こ と の 内 で13認 め て 受け 取 り つ つ 持 つ こ と14(Vernehmend haben für und in umweltlichem besorgenden Erledigen)」なのである。

プロアイレシス.......

を参照のこと。たとえば....

、『[ニコマコス]倫[理学]』第6巻第13章(E[th.Nic.]

Z 13)の諸難問...

を参照のこと」。

筆者のコメント31 :ここでは、アリストテレスにおけるヌース・プラークティコスが、

ステレオタイプな「実践理性」ではないこと、そして、「実践理性」はヌース・プラーク ティコスから派生したものであることが、プロアイレシスを参照すれば分かるとしている のであるから、プロアイレシスの根本性が、本付論の冒頭から提示されていることになる。

また、ヌース、プラークシス、プロアイレシスの三者の関係が、この付論全体のテーマで あることが暗示されている。また、『ニコマコス倫理学』第6巻第 13 章の諸難問とは、「人 は生まれつき徳を備えているのか」、「すべての徳は知なのか」、「各種の徳は個々別々 にそなわるのか」などを指すと思われる。これらの難問を解いた後に、アリストテレスは、

「プロアイレシスは、プロネーシスがなくても、徳がなくても、正しいプロアイレシスで はないであろうことは……〔中略〕……明らかである」( 1145a2-5 )としている。少し強 い言い方をすれば、プロネーシスは、たしかに重要ではあるが、プロアイレシスの構成要 素であるとも言える。

(付論5は、すでに前章で検討済みである。)

付論8「ディアノイア・プラークティケー II 」

〔T32〕

〔ハイデガー自身による注(n.16)の中に以下のような記述がある〕

13 ここまでが「プラークティコス」の意訳であろう。

14 ここまでが「ヌース」の意訳であろう。以下、「認めて受け取る」は単に「認取」と訳すことも ある。「持つ」は、以下、「保管する(verwahren)」「保持する(behalten)」「保つ(halten)」

とも言い換えられている。

(16)

「[『ニコマコス倫理学』第6巻第2章]1139b4以下の、オレクティコス・ヌース(欲求的 な思考)=オレクシス・ディアノエーティケー(思考的な欲求)=プロアイレシス──「その ようなアルケーが人間なのである」を参照のこと」。

筆者のコメント32:プロアイレシスにおいてオレクシスとディアノイアが分かちがたく 結びついていること、そして、そのような複合的なアルケーとしてのプロアイレシスこそ が倫理学の対象としての人間の本質であるとアリストテレスは考えているということが、

『ニコマコス倫理学』からは読みとれると、ハイデガーは考えたのであろう。すなわち、

プロアイレシスの根本性が、『ニコマコス倫理学』からは読みとれるとハイデガーは考え たのであろう。それに対して、『動物運動論』からは、プロアイレシスよりも一層根本的 なものとしてオレクシスが読みとれるとハイデガーは考えたのではないか、と私は主張し たい。これについては後述するが、「付論8」からも、プロアイレシスの根底にオレクシ スがあるとハイデガーが押さえていることが読みとれる(「付論5」でも、オレクシスに 注目されていたのであった)。

付論 12 「ヌース・プラークティコス」

〔T33〕

「参照せよ、[『ニコマコス倫理学』第6巻第2章]1139a18〔「行為と真理を支 配するもの」〕、プラークシス(行為)─アレーテイア(真理)。いかにして両者は決定的 なものとして重なるのか、両者が関係しているのは何か? プロアイレシス.......

(選択..

)である!

[a23sqq.〔「プロアイレシス(選択)はブーレウティケー(思案に基づく)オレクシス(欲求)

である」〕]そして、これ(プロアイレシス)が、ここでは、「人間の存在(das Sein des Menschen)」

を意味するのだ。すなわち、「欲しつつ....

認めて受け取ること(ausseiendes Vernehmen)」─〈~. を.

気遣うこと(Sorgen um)〉」。(これはT10/11と同じである)

筆者のコメント33 :「付論8」への「筆者のコメント32」を裏付けるように、ここで はっきり、「プロアイレシスが人間の存在を意味する」と言われている。すなわち、プロ アイレシスの根本性が、『ニコマコス倫理学』からは読みとれるとハイデガーは考えたの であろう。

それに対して、『動物運動論』からは、プロアイレシスよりも一層根本的なものとして オレクシスが読みとれるとハイデガーは考えたのではないかと私は主張したいのである。

アイデアだけを大ざっぱに言えば、こういうことになる。

プロアイレシスは、人間に固有なものである。人間に固有なものを、人間としての人間 の学、つまり行為する人間の学である倫理学が明らかにする。ここでは、『ニコマコス倫 理学』がそれである。

しかし、アリストテレスによれば、人間に固有なものよりも、動物と共通するものの方

が、人間にとっていっそう自然本性的なのである。たとえば、次のように言われている。

(17)

「また、夫と妻の間の愛も、自然的なものとして存在していると考えられる。なぜなら、そも そも家が国家よりも先なるもの、より必要なものであるかぎり、そして子どもを生むことが動 物にいっそう共通な行為であるかぎり、人間というのは、自然本性的には、国家をつくるより も、男女二人の関係をつくる傾向があるからである」(『ニコマコス倫理学』第8巻第 12 章 1162a16-19。朴訳。ただし、「友愛」を「愛」とした)。

しかるに、オレクシスは人間が動物と共通してもつものである。人間に固有なものでは なく動物と共通してもつものを考察する本来の場所は、生物学であろう。ここでは『動物 運動論』がそれである

15

さて、オレクシスが動物とも共通するものであるならば、オレクシスの方がいっそう自 然本性に、つまり、ハイデガーの言う「人間の存在」に近いことになるのではないか

16

付論 14 「存在の確保(真実化)とアルケーの先取。

ヌース(テクネーを参照のこと)」

〔T34〕

「……〔始めの部分略〕……プロネーシスは、本来的にテロス...

へ向けた存在の確....

保.

(真実化...

)である。根本経験....

ではないとしても。しかし、両者〔配慮的気遣い(Besorgen)

の行き先と出発点〕を切り離さないこと、すなわち、根本経験は、その..

明るみをもっている。

根本経験は、常に、事実的に「プロアイレシス的(proairetisch)」な状況の中に、その状況か ら出発して、且つ、その状況のために、あるのだ。……〔以下略〕……」

筆者のコメント34:ハイデガーのアリストテレス解釈で注目されることが多いプロネー シスが「根本経験ではない」とされていることが注目される。配慮的気遣いを始めから終 わりまで一貫させることが「根本経験」と言われている。そして、この根本経験を支える のが、プロアイレシスという根本現象なのであろう。

それでは、アリストテレスの3つのテクスト(『ニコマコス倫理学』第6巻第2章、『魂 について』第3巻第 9 章〜第 11 章、そして『動物運動論』の後半)は、選択ないし実践的 三段論法についてどのように説明しているのだろうか(なお、実践的三段論法の性格付け は、『ニコマコス倫理学』第7巻でも行われているので、これも検討する)。それを次の 章でみてみよう。

15 では、『魂について』はどうなのかという疑問が当然生じるであろう。『魂について』は、人間 の魂だけではなく動物一般の魂を扱うことを課題としているからである。しかし、第3巻第11章 に限定して言えば、『ニコマコス倫理学』と親和的であろう。

16 動物と人間の関係については、注21も見よ。なお、プロアイレシスが「人間の存在」でなくなる というわけではない。もっと一般的に言えば、人間の考察にとって倫理学的考察が無用になるわけ ではない。

(18)

第5章 『ニコマコス倫理学』、『魂について』、『動物運動論』における

「実践的三段論法」論の特徴

─そのことが若きハイデガーにとってもった意義について

『ニコマコス倫理学』第7巻や『魂について』第3巻は、実践的三段論法の大前提を「普 遍」であるとしている。

『ニコマコス倫理学』第7巻第3章

「われわれは、次のようにして魂の自然本性に即しても原因を見定めることができるかもしれ ない。すなわち、ある思いなしは 普遍 を対象とし、他の思いなしは 個別的 なものにかかわるが、

個別的なものについては、すでに知覚が支配している。そしてこれら両方の種類の思いなしか ら単一の思いなしが形成されるとき、ある場合には、魂は結論された事柄を肯定するのが必然 であるが、作ること、行うことにかかわる思いなしにおいては、魂は結論に基づいてただちに 行為するのが必然である。たとえば、もし甘いものはすべて味わうべきであり、いまこのもの が、すなわち個別的なものの一つであるこのものが甘いとすれば、その場合、行為する能力を もっており、かつ行為が妨げられることのないような人は、同時にまたこの特定の甘いものに 関して行為することも必然なのである。そこで、われわれに味わうことを妨げる 普遍的 な思い なしが内在しており、他方、『すべての甘いものは快い』、しかるに『これは甘い』、という 別の思いなし(こちらの思いなしが、現実に活動するのだが)も内在しており、また、甘いも のへの欲望もたまたま内在しているとすれば、その場合、一方の思いなしは、われわれにこの 甘いものを味わうことを避けるように告げるが、欲望の方はわれわれを当の行為へと衝き動か すのである。なぜなら、身体の各部分を動かしうるのは欲望だからである」(1147a24-35)。

『魂について』においてアクラシアーが論じられている証拠となるテクスト。

『魂について』第3巻第9章

「思惟[知性]が何かを避けたり追い求めたりすることを命じたり、思考がそうするように語っ たりするときでさえも、ひとが動かされるというわけではなく、かえって、たとえば抑制のない 人(アクラテース)のように、欲望に従って行為するのである。……〔中略〕……けれどもまた、

欲求もそのような動の決定的な要因というわけではない。その証拠に、抑制のある人(エンクラ テース)たちは、欲求しながらも、つまり欲望を抱きながらも、その欲求の対象となる事柄をお こなうのではなく、むしろ思惟[知性]に従うのである」(433a1-9)。

『ニコマコス倫理学』と同じく、『魂について』においても「大前提は普遍に小前提は 個別にかかわる」とされていることが読みとれるテクスト。

『魂について』第3巻第 11 章

「判断であれ言表であれ、そのあるものは 普遍 にかかわるが、また別のものは 個別的 なものにか

(19)

かわる。……〔中略〕……直接に動かすのは、この後者の〔 個別的 なものにかかわる〕思いなし であり、前者の 普遍 にかかわる思いなしではない」(434a16-19)。

それに対して、『動物運動論』は、実践的三段論法の大前提を、欲求の対象である「善 きもの」としている( 701a23-25 )。これが重要である。

『動物運動論』第7章

「思惟しても、行為する時と行為しない時があるのは、また、動く時と動かない時があるのは、

どのようにしてなのだろうか。そのことは、まさに動かされえないものどもについて思考し推 論する人たちに似た仕方で起こるようである。しかし、その場合、目的は理論的なこと17─二 つの前提を思惟する時、結論を思惟し結合するから─であるが、ここでは、二つの前提から 行為として結論が生じる。たとえば、「すべての人は歩かねばならない、しかるに自分は人で ある」と思惟する時は、ただちに歩く。また、「何人も今は歩いてはならない、しかるに自分 は人である」と思惟する時は、ただちに立ち止まる。そして、何ものも妨害あるいは強制しな いならば、それらをどちらでも行うのである。……〔中略〕……しかるに、作り出すことに関 わる諸前提は、二つの種類のものを通じて、すなわち、善いもの を通じて、また、可能なもの を通じて生じるのである18」(701a7-25)(坂下訳)。

3つの著作の三段論法に関わる箇所を比べると、「大前提が善、小前提が可能」という 論点が『動物運動論』で最も明瞭である(他の2つの著作にそれが全然ないというのでは ない

19

)。このことが理由の一つとなって『動物運動論』が「広範な基盤」とされた、と

17 ハイデガーが「付論5」の注で引用した箇所。

18 ハイデガーが「付論6」の本文で参照を指示している箇所であり重視すべきである。

19 『魂について』第3巻第10章から、実は『魂について』からも、欲求の根本性が読みとれる(表 象の重要性も読みとれて興味深い)、そしてハイデガーが引用してもいるテクスト。「しかしとも かく、少なくとも、欲求にせよあるいは思惟[知性]にせよ、これら二つが動きを生み出すという ことまでは明らかである─もしひとが表象のはたらきを一種の思惟活動として考えるという条 件のもとでは。というのは、多くの場合、人々は知識に背いて表象のはたらきにつきしたがうので あり、また人間以外の動物においては、思惟活動も推論も存在しないが、表象のはたらきは存在す るからである。したがって、思惟[知性]と欲求というこれら両方のものが、場所的な運動を引き 起こすことのできるものである。〔以下がハイデガーの引用している箇所〕ただし、この思惟[知 性]とは、何かを目的としてそのために推論するもの、すなわち『行為にかかわる思惟[知性]』

であり、『観想にかかわる思惟[知性]』とは目的の点で異なっている。そして、欲求も、すべて 何かを目的とする。なぜなら、欲求が対象とするものは『行為にかかわる思惟』の始原[出発点]

であるが、この思惟が到達する最終項が行為の始原[出発点]となるからである。したがって、こ の二つ、つまり、欲求と、行為にかかわる思考とが、動かすものであるというのは、もっともな理 由があるように思われる。なぜなら、欲求されるものが動かすのであり、そして思考が動かすのは、

欲求されるものが思考の始原[出発点]であるということに基づく。そして、表象のはたらきも、

それが動かすときには、欲求を伴わずに動かすことはない。

したがって、動かすものは、或る一つのもの、すなわち、欲求する能力である。なぜなら、もし 二つのもの、すなわち思惟[知性]と欲求が動かすというのならば、その動かすということは、両 者に共通の何らかの形相に基づくものであっただろう。しかし実際には、思惟[知性]は欲求を抜 きにして動かすことはないことは明らかである。というのも、願望(ブーレーシス)[理性的な欲 求]は欲求(オレクシス)であり、推論に基づいて人が動かされるとすれば 、また願望に基づいて も動かされているからである。これに対して、欲求の方は推論に反しても、ひとを動かす。なぜな

(20)

いう仮説を立てることができるであろう。

また、『動物運動論』の場合、大前提が善という欲求対象であることから、欲求の根源 性が示唆されるだろう。そのことが読みとれる『動物運動論』のテクストは、次の通りで ある。

『動物運動論』第7章から

「(1a)『私は飲まねばならない』と〔欲求の一種である〕欲望が言う。

(2a)『これが飲み物だ』と知覚または表象あるいは知性が述べる。

(3)ただちに彼は飲むのである。

それでそのような仕方で動物は運動あるいは行為し始めるのであり、

(1b)運動の究極の原因が欲求である一方、

(2b)欲求が生じるのは、知覚を通じて、あるいは、表象や思惟を通じてである」(701a32-36)

(坂下訳)。

(1 a )(1 b )から、実践的三段論法の大前提の表現主体は、欲望であることが─欲望 は欲求の一種であった( 700b22 )から、一般化すれば、欲求であることが─分かる。ま た、(2 a )(2 b )から、実践的三段論法の小前提の表現主体は、知覚、表象または思考 であることが─ 700b19-20 によって一般化すれば、知性であることが─分かるであろう。

さて、「オレクシス(欲求)」は、細川先生の指摘されるとおり、「気遣い( Sorge )」

という概念に対応するギリシア語だと考えられる

20

。以上から、『ナトルプ報告』第2部 構想の「特定の動性」とは、欲求すなわち気遣いが根本となる動性であり、 「気遣い( Sorge )」

が現存在にとって根本的である─現存在の存在である─という考えは、少なくとも一 つの源泉として、アリストテレスにおいて「気遣い」に相当するとハイデガーが考えてい たと思われる「オレクシス(欲求)」の対象を実践的三段論法の大前提に明確にすえる『動 物運動論』から生じてきたのかもしれない

21

(本論文の〈仮説1〉)。

ら、欲望(エピテューミアー)は欲求の一種だからである」(433a9-26)。

20 細川亮一『ハイデガー哲学の射程』、創文社、2000年、pp.90-91。Krell, D.F., Daimon Life: Heidegger and Life-Philosophy. Indiana University Press, 1992でも、「orexis being Aristotle’s word for connotation and one of Heidegger’s words for care, Sorge (SZ,171)」(p.9)と言われている。SZ,171(GA2, 227)では、アリス トテレスの『形而上学』冒頭の有名な言葉「パンテス・アントローポイ・トゥー・エイデナイ・オ レゴンタイ・ピュセイ」(980a21)が「Im Sein des Menschen liegt wesenhaft die Sorge des Sehens」と 訳されており、「オレゴンタイ(欲求する)」が「Sorge」と対応させられている(このことは細 川、p.221,n.7でも指摘されている)。なお私は「オレクシス」がいつも「Sorge」と訳されるのだと 主張しているわけではない。実際、本論文で引用したT19(および注10)とT29では、「オ レクシス」は「Aussein」と訳されている。しかしKrellの言うとおり「オレクシス」は「Sorge」を 表す言葉のうちの一つなのである。

21 しかし、オレクシスは人間とその他の動物に共通であるのに対して、Sorgeは人間に固有だと考 えると、この〈仮説1〉は問題的に見えるかもしれない。この疑問に対しては、〈仮説1〉は、ハ イデガーにおける人間と動物の関係という非常に大きな問題に関わっているとだけ述べておきた い。前述のKrellの本Daimon Lifeは、この問題に取り組んでいるので、いずれ検討したい。日本語 訳がある本では、ジョルジョ・アガンベン著/岡田温司・多賀健太郎訳『開かれ:人間と動物』(平

(21)

さらに、『ナトルプ報告』の、『動物運動論』に触れた後のパラグラフで、ハイデガー は、範疇の起源を、ロゴスそのものや事物にもとめるのではなく、「用務を果たす上で配 慮される関わり合いの対象

22

」に求めており、『カッセル講演』に資料として付された書 簡の言い方だと、「ギリシアの存在論と論理学とを解体する

23

」ことを目指している。『魂 について』よりも『動物運動論』を「広範な基盤」とみるということは、普遍の起源を、

善いものへの欲求に、個別の起源を、欲求実現の可能性に、それぞれ求めることになる

24

。 したがって、『動物運動論』は、〈存在論と論理学の解体〉という『ナトルプ報告』の最 終的な大きな目的を実現するために必要不可欠な視点を提供したのではないだろうか(本 論文の〈仮説2〉 )。

付録 生と世界を関係付けるものとして若きハイデガーが 生物の「進行方向」に着目していることについて

──世界への生物の依存と世界の生物による再構成、『動物進行論』の意義

最後に、 1926 年夏学期の講義『古代哲学の根本諸概念』で『魂について』論の著作リス

ト( GA22, 183 )に『動物運動論』だけではなく『動物進行論』が加わっており、また、『存

在と時間』刊行後の 1929 年の演習題目も、「上級:生の本質について、アリストテレスの

『魂について』『動物運動論』『動物進行論』を特に考慮して」となっている

25

ことの意 味─『魂について』の後は『自然学小論集(

Parva Naturalia

)』に収録されている『感覚

論(

De Sensu

)』と『記憶論(

De Memoria

)』を取り扱うのが伝統的なやり方であるのにハ

イデガーはその伝統に逆らっているようである─を、ほとんど知られていない『動物進 行論』の生物的世界論を紹介しながら考察してみたい。ポイントは、ハイデガーが生と世 界を密接に関係させるとき、ある時から、生が「方向」を持つことと世界を持つことに着 目していることにも目を向けていくべきではないか、「方向」に着目することと『動物進 行論』に着目することは連動している可能性が高いのではないか、ということである。

凡社、2004年)における、『形而上学の根本諸概念』講義でのハイデガーの動物論の検討が興味 深い(もちろんデリダの『精神について』におけるハイデガーの動物論の批判も検討されるべきで あろう)。

22 高田訳40頁、GA62,398。

23 後藤嘉也訳『ハイデッガー カッセル講演』、平凡社ライブラリー、2006年、p.185。

24 欲求が普遍の起源であるとは、いかなることか。「普遍(カトルー)」とは「全体..

(ホロン)に 関わる(カタ)もの」であるので、《行為の全体..

を始めから最後まで支配するものが善いものへの 欲求であり、論理学的な普遍(類や種として全体

..

に関わるもの)はここから派生してきた》と、「論 理学の解体」を目指す若きハイデガーはしたかったのかもしれない。

25 Kisiel,T., The Genesis of Heidegger’s Being and Time. University of California Press, 1993. pp.467, 475. た だし、

Bremmers編の最新の著作目録にこの演習は正式にはエントリーしておらず単に脚注で言及される

にとどまっている。Bremmers, C. (ed.), Schriftenverzeichnis (1909-2004). Heidegger-Jahrbuch 1, 2004. p.486, n.62を見よ。

参照

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