都市再生事業による外国人集住地区の変容 : ウィ ーン・ブルネン地区の事例
著者 山本,葉月, 加賀美,雅弘
雑誌名 学芸地理
号 65
ページ 11‑34
発行年 2010‑12‑24
その他の言語のタイ トル
Changes of Ethnic Residential Areas through Urban Renewal Projects : A Case of the Brunnen District in Viena
URL http://hdl.handle.net/2309/110324
* 八王子市立みなみ野中学校
都市再生事業による外国人集住地区の変容
-ウィーン・ブルネン地区の事例-
山本 葉月 *・加賀美 雅弘 **
Ⅰ はじめに
ヨーロッパの都市は,行政による再生事業が 積極的に行われてきた点に大きな特色がある.
特に東欧の改革以来,建築物や生活インフラな ど都市全体にわたる整備政策が目立つように なった.こうした傾向が現れてきた背景には,
ますます激化しつつある都市間での経済力や情 報発信量,つまり中心性をめぐる競争がある(山 本,2005).ヨーロッパでは EU による地域統合 のプロセスの中で,地域間の関係は強まる一方 であり,諸地域は政治・経済・社会の諸側面に おいて大きな変化を遂げつつある(小林・呉羽,
2007).そうしたなかで都市では,経済や社会 の活性化や再生への関心が高まり,さまざまな 政策による取り組みがなされている.
そもそもヨーロッパの都市の整備事業は,20 世紀前半から進められてきた.その政策主眼は,
もともとは景観の整備に置かれてきた.特に教 会や宮殿などが文化遺産として位置づけられ,
補修や復元を通して歴史的景観の保全が積極的 になされてきた(伊藤,2007).その結果,ヨー ロッパの都市に多くの歴史的建造物が残されて きた.
しかし,1990 年代以降,市街地の整備に向 けた事業として,特に居住空間である住宅地に
おける住民の生活状況に目が向けられるように なった.これは,ますます増加の一途をたどる 失業者や外国人の社会的統合,経済的活力の推 進などを目標としたものであり,彼らが居住す る地区の居住環境の改善が大きな課題として位 置づけられるようになった.
この種の事業内容として,よく引き合いに出 されるのが,ドイツで実施されている「社会的 都市プログラム(Soziale Stadt)1)」である.
このプログラムの目標は居住地としての都市の 整備であり,緑地やオープンスペースの不足,
環境汚染物質の排出,交通騒音といった問題を 抱える都市内部の地区の高失業率,貧困,住環 境の悪化,安全の崩壊,地域イメージの悪化と いった事態を改善するために補助金が投入され ている(山本,2007).
しかも,こうした地区には多くの場合,外国 人が集住する傾向があり,彼らの社会的地位の 問題とリンクしやすいことから,住宅の整備 とともに彼らの生活条件の改善・コミュニティ の創出などにも目を配った事業が進められてい る.
社会的都市プログラムはすでに一定の成果が 報告されており,都市再生事業のモデルとして 評価されている.しかし,老朽化した住宅と低 い社会的地位にある住民,というネガティヴな キーワード:都市構造,インナーシティ,エスニック景観,ウィーン
** 東京学芸大学地理学研究室
特徴を持つ地区の整備には,住民の意思や要望 への対応や,他の地区の住民とのかかわりなど 時間と資金を要する継続的な事業が不可欠であ り,このような地区における都市再生事業の展 開を明らかにすることは,今後のヨーロッパの 行方を考える上で重要な課題であり続けてい る.
こうしたヨーロッパの都市で実施されている 行政による都市再生事業については,日本国内 でも関心が高まっており,たとえば地理学にお いては,「市民社会のまちづくり―ドイツと日 本を比較して」と題するシンポジウムにおいて,
近年の都市の整備・まちづくりの担い手として 市民主導のソーシャル・ガバナンスをめぐる地 域的検討がなされている(川田ほか,2007)2). そこでも,都市における行政サイドの都市再生 事業とこれに対する市民の関係について,とり わけ社会的弱者になりがちな外国人が多く居住 する地区における,より詳細な分析の必要性が 指摘されている.
そこで外国人が比較的集住する地区における 行政による都市再生事業と,それに伴う地区の 変化についての実態把握を進めるために,本稿 では,オーストリアの首都ウィーンにおいて,
外国人が多く住む地区を対象とした事業の特徴 をまとめ,それによって景観や土地利用にいか なる変化が生じているのかを明らかにする.す でにウィーンにおける外国人集住地区について は,いくつもの言及がなされているが3),こ こでは事業にともなう変化による外国人集住地 区の今後のゆくえについても考察することとす る.
ウ ィ ー ン は 面 積 41,489ha, 人 口 1,698,957 人(2009 年 12 月)のヨーロッパ有数の大都市 であり,オーストリアの首都であるばかりでな く,交通の要衝であり経済の中心地でもある4).
Ⅱ ウィーンの都市の構造と変化
1.歴史的中心市街地
ウィーンの市街地は,中央ヨーロッパの都市 に共通してみられるように,その景観によって 都市の歴史的発展のプロセスをたどることが できる(ジョーダン=ビチコフ・ジョーダン,
2005).すなわち 19 世紀前半までの時期の建築 物が集中する最も古くからの歴史的市街地を中 心にして,その周囲に 19 世紀後半以降の産業 化の時代の建築物が並ぶ市街地,さらにその外 周部には第二次世界大戦後に造成されてきた住 宅やオフィス,商業施設などが立地している.
実際,現在のウィーンにはかなり明確な同心 円構造が確認できる.それは,この歴史的市街 地をとりまくようにして 19 世紀半ばまで堅牢 な二重の市壁が設けられていたこと,それがそ の後の市街地の拡大に伴い,環状道路に転換さ れたことによって,明確になっている.以下,
中心から外側に向かって変化する景観を概観し てみよう.
ウィーンは近世以降,神聖ローマ帝国皇帝の 居城をかかえ,キリスト教世界の中心という栄 光の歴史をもつ都市として発展してきた.しか し,17 世紀にオスマン帝国の侵略の危機にさ らされたため,グラシと呼ばれる斜堤で守られ た堅牢な市壁を構築し,さらにその2km ほど 外側にも市壁を設けることにより,ウィーンは まさに要塞化していった(山之内,1995). しかし,これらの市壁は産業化の進展ととも に無用の長物となってゆく.19 世紀後半には 撤去され,内側の市壁はリンク(Ring)環状地 区という新たな市街地に変わった.そこには環 状道路がめぐり,ウィーン市庁舎やウィーン歌 劇場などウィーンを代表する景観が生み出され た.また外側の市壁も同様に 19 世紀後半にギュ ルテル(Gürtel)環状道路として整備され,そ
の周辺が市街地化していった.こうして歴史的 市街地を中心にして,この2本の環状道路がめ ぐるウィーンの基本構造が形成された.
現在,歴史的市街地は,都市の中央に位置す るばかりでなく,都市機能の多くが集積してお り,まさにウィーンの中心地になっている.大 統領府をはじめ,国会議事堂や各省庁,ウィー ン市庁舎などの行政機関,歌劇場やウィーン大 学本館など学術・文芸施設,さらにはケルント ナー通り(Kärntner Straße)などの中心商店 街が立地しており,まさにウィーンの CBD とし て位置づけられる地区である.
しかも,ここは多くの歴史的建造物が並ぶ地 区でもある.なぜなら,この地区一帯がウィー ン市の景観保全地区に指定され,王宮やシュ テファン教会などハプスブルク帝国時代の著名 な建築物がランドマークとなっているほか,バ ロック様式の住宅や広場など歴史的景観が保存 されているからである.いずれもウィーンの歴 史や文化をよく示しており,ハプスブルク帝国 の繁栄の時代を物語る代表的な景観にもなって いるからである.
なお,歴史的中心市街地にウィーンの中心機 能が集中することは,ウィーンを訪れる多くの 観光客がこの地区をめざしていることからも明 らかである.ウィーンが国際的に著名な観光地 であり,世界各地から多くの観光客が訪れるこ とは周知のことだが,観光客がウィーンのきわ めて限られた地区のみで行動していることは意 外に指摘されていない.たとえば旅行ガイド ブックに紹介されているウィーンの観光スポッ トをみると,そのほとんどがこの歴史的中心市 街地に集中して立地している.また著名なホテ ルやレストラン , カフェなども同様の立地傾向 を示している.このことから,ウィーンを訪れ る観光客にとって,この歴史的中心市街地がま さにウィーンに対する人々のイメージや理解に
影響を及ぼす場所であり,観光客の期待に応え る,まさに観光空間になっていることがわかる
(山本,2008).
このようにウィーンの歴史的中心市街地は観 光空間としても特徴づけられ,政治・経済機能 とともに都市の中心的機能が集中する地区に なっている.
2.労働者住宅地区
ウィーンの歴史的中心市街地の外側には,19 世紀後半から 20 世紀前半にかけて市街地化し た地区が広がっている.かつて 19 世紀前半ま では農村的色彩が強かったこの地区は,19 世 紀後半の産業化の進展に伴う会社設立ブーム 期(Gründerzeit)の到来とともに急速に市街 地化した.都市内部に企業が立地し,織物生産 や食品加工などの工場が操業を開始するように なると,多くの労働者が周辺の農村はもちろ ん,当時の広大なハプスブルク帝国領内各地か らウィーンに押し寄せた.住宅需要は一気に高 まり,歴史的中心市街地の外側の農村地区には 直線道路の地割が施され,集合住宅が次々に建 設された.労働者の多くが低賃金労働に従事し ていたことから,住宅は安価で狭小なものとな り,上下水道や暖房などの設備が不十分な居住 環境に多くの住民が密集して住むような住宅 地が出現した5).建築物も装飾のない単調な ファサードを特徴とするなど,歴史的中心市 街地とはきわめて対照的な景観が形成された
(Lichtenberger, 2002).
労働者の流入には,当時ヨーロッパ各地で 整備が進められた鉄道網が深く関わっていた.
ウィーンには,西ヨーロッパ諸地域と結びつく 西駅(Westbahnhof)や東ヨーロッパ方面と連 絡する東駅(Ostbahnhof),地中海方面へ向か う南駅(Südbahnhof)などいくつもの頭端駅が 建設されたが,いずれもこの労働者住宅地区と
隣接して建設されている.鉄道によって多くの 労働者や工業原料がウィーンに到着し,ウィー ンで生産された工業製品がこれらの駅から各地 に搬出された.労働者住宅地区は,19 世紀後 半以降のウィーンの大きな変化の中で拡大し,
市内で無視できない一角へと発展した(Mayer, 1978).
とりわけギュルテル環状道路に沿った地区 は,多くの労働者が住み続ける地区となってき た(田口,2008).以下,ギュルテル環状道路 付近にひろがった典型的な労働者住宅地区オッ タクリンク(Ottakring)区について,当時の 様子をみてみよう.
19 世 紀 中 頃 ま で, 現 在 の オ ッ タ ク リ ン ク 区 は ブ ド ウ 栽 培 と ワ イ ン 生 産 で 知 ら れ る 土 地 で あ っ た. オ ッ タ ク リ ン ク 区 の ワ イ ン 酒 場(Heurige) に 多 く の 市 民 が 通 っ た こ と が 当時の出版物に記されている(Klusacek and Stimmer, 2005).しかし,1868 年にブドウネ アブラムシの大発生によりブドウ園経営者が農 地を手放すと,その安価な土地は住宅建設を狙 う投機家や資本家たちによって買い占められ,
できるだけ利益を上げるために,粗悪な労働者 向け住宅が密集して建てられた.
オッタクリンク区には住宅だけでなく,多 くの工場も立地した.たとえばタバコ工場は 1893 年から 1898 年にかけて建てられ,紙巻き タバコと葉巻が製造された.タバコ工場は,女 性 1,100 人を含む 1,300 人の労働者が働く大規 模なものであった.また 1837 年創業のビール 醸造所 Ottakringer Brauerei も広大な敷地に 大規模な工場を設け,多くの雇用機会を提供し た.
このほかオッタクリンク区には大小さまざま な企業や工場が立地したため,多くの労働者 がここに集住することになった.区の人口は 1890 年の 106,861 人から 1900 年には 148,752
人, さ ら に 1910 年 に は 179,045 人 へ と 急 増 し た(Klusacek and Stimmer, 2005). ま た 1900 年の統計によると,区内に暮らす就業者 は 75,787 人.そのうち 56,445 人が非自営業者 であり,52,063 人が労働者階級に属していた.
さらに労働者のうち 44,888 人が区内で工業に 従事していた(Klusacek and Stimmer, 2005). なお,オッタクリンク区をはじめ,これらの 労働者住宅地区は多くの公営住宅が立地する点 にも着目しておきたい(Gsteu et al., 1990)
6).1918 年のハプスブルク帝国崩壊後,ウィー ン市では社会民主党が与党となり,独自の住宅 政策がとられた.1923 年初頭,ウィーン市議 会は失業対策を念頭に置いた約1万戸の公営住 宅建設計画を決定し,同年末までに 15 棟 2,256 戸が完成した.さらに 1924 年から 1934 年まで に 6.3 万戸の公営住宅が建設され,そのうち1 棟あたりで 800 戸以上の住居を擁する巨大な集 合住宅は 26 棟あった.オッタクリンク区には 1,587 戸を擁する集合住宅が 1924 年に建設さ れた.
ウィーン市内における公営住宅の分布を示し たものが第1図である.濃い赤色で示されてい る部分が 1919 年から 1944 年の間に建てられた 公営住宅である.そのほとんどが 19 世紀後半 の労働者住宅地区であり,大規模な集合住宅は 多くが現在のギュルテル環状道路沿いに立地し ている.劣悪な住宅が多く立地した地区は,市 当局によって再生事業が行われ,公営住宅がま とまって建設された.こうした集合住宅内の住 居は居間と寝室,台所と小部屋からなり,広さ 38 ㎡が標準であり,従来あった労働者向け住 宅に比べてはるかにすぐれた住宅環境を備えて いた.
ウィーンは,第二次世界大戦後の東西冷戦体 制において西側世界の最東端に置かれたため,
経済活動は停滞気味となり,人口の停滞が続き,
都市整備の投資も遅れることになった.労働者 住宅地区も 19 世紀後半に建てられたアパート の多くが大きな改修を受けないまま,継続して 利用されることになった.ウィーンの市街地の 広い範囲を占める労働者住宅地区は古い設備を 保持したまま,その多くは時勢に合わない劣悪 な住宅環境として市内に残された.
3.労働者住宅地区の諸問題と外国人の集住 労働者住宅地区は,特に 1960 年代以降,多 くの外国人が居住する場所になっていった.と りわけギュルテル環状道路に沿った地区には,
安価な賃貸住宅が多く残されてきたことから,
トルコ人をはじめ,世界各地からの外国人が集 まるようになった(Fassmann,1996).外国人 のうち最も人口が多いトルコ人について 1991 年の居住分布を見ると,ギュルテル環状道路付 近に多く住む傾向が読み取れる(第2図).こ の通りに沿って彼らをはじめとする外国人が多 い地域が環状に分布している状況があり,まさ にエスニック環状地帯とも呼べる場所の存在が 示されている(加賀美,2007).
ギュルテル環状道路付近に安価な住宅が残さ れてきたのには理由があった.この道路沿いの 地域は,特に第二次世界大戦後,急激な交通量 の増加とそれに伴う騒音,大気汚染の問題に直 面していた.1968 年には,それまで国鉄の市 内線として利用されていた高架線を地下鉄6号 線として整備することが決定され,市民の利用 に供することとなった.
しかし,安価な賃貸住宅の立地と生活環境整 備の遅れは,この地区にネガティヴなイメー ジ を 定 着 さ せ て い っ た.1960 年 代 に は ギ ュ ルテル環状道路周辺の地区からの人口流出が 目立つようになり,1961 年から 1971 年の 10 年 間 で こ の 地 区 の 人 口 は 約 20 % も 減 少 し た
(Grabherr, 2008).さらに 1971 年に環状道路
が国道 B221 号線と接続されると,オーストリ ア国内で最も交通量の多い道路となり,騒音や 排気ガスといった問題も引き続き存在し,交通 問題は増加の一途をたどっていった.
その結果,1970 年代以降,ギュルテル環状 道路周辺では住居の家賃はさらに低下し,従来 居住していた人々が転出する一方で,安価な住 居を求めて低賃金の外国人が流入し始めた.従 来あったコミュニティは次第に規模を縮小し,
代わって外国人のコミュニティが形成されてき た.こうした居住者の変化に伴って,ギュルテ ル環状道路沿いの地区は,ウィーン市内でも特 異な地区となっていった7).
1980 年 代 に な る と, ギ ュ ル テ ル 環 状 道 路 に沿った地区が抱える諸問題の解決へ向けた 取 り 組 み が な さ れ 始 め る.1984 年 に は 国 籍 を超えた専門家からなる「ギュルテル委員会
(Gürtelkomission)」が組織され,環境の改良 や自転車利用者や歩行者,ならびに公共交通 への強い配慮が求められるようになった.1989 年には自転車用道路や緑地空間を確保すること によって,「ギュルテル」という場所のイメー ジの改善と,それに伴う投資の推進策が提案さ れた.
しかし,その後も交通量はさらに増加し続 け,1996 年には1日の交通量が 8.5 万台に達 した.また,ギュルテル環状道路沿いの地区の 社会的な孤立はさらに強まっていた.すなわ ち,収入を多く得る人々は転出してゆき,地区 には社会的な弱者が取り残される状況がより深 化したのである.同時にトルコや旧ユーゴスラ ヴィア諸国からの移民や外国人がさらに流入し た.住民の転居が相次いだことによって,この 地区では店舗の入れ替わりも相次ぎ,空いた店 舗には外国人による商業施設が立地した.また,
ことで歓楽街としての性質も併せ持つようにな り,1990 年代はじめにはこの一帯は「どん底
(Tiefpunkt)」と称されるほどの状況になって いった(Grabherr, 2008).
こうした状況を受け,ウィーン市はギュルテ ル地区を社会的にも経済的にも衰退の傾向をた どる地区と認め,具体的な解決策を模索するよ うになった.冷戦構造の崩壊,オーストリアの EU 加盟といった動きの中で,ウィーン市内に おける問題地区の存在が改めて確認され,打開 策が講じられることになった.
Ⅲ 外国人集住地区の再生事業
1.西ギュルテル地区の再生プログラム 外国人集住地区であるギュルテル環状道路沿 いでは,交通量の増大に伴う騒音や大気汚染,
悪化した環境を嫌う住民の流出,安価な住宅を 求める低賃金労働者や外国人移民の居住の増加 などさまざまな問題が顕在化していた.1990 年代半ば以降,こうした問題の改善を目標とし た政策がウィーン市によって打ち出されること になった(Paal, 2003)(第1表).
その第一歩となるプログラムが,EU の支援 を 受 け て 1995 年 に 開 始 さ れ た URBAN WIEN- Gürtel plus である.これは 1994 年から 1999
年まで EU の URBAN Community Initiative,い わゆる URBAN I プログラムの枠内で行われた.
URBAN I の目的は,危機的状況にある都市や地 区の経済・社会的復活あるいは大都市内にお いて問題を抱える地区の改善にあり,EU15 ヵ 国の 118 の都市が対象となった.そのなかで ウィーンは人口が最も多く,また失業率が最も 低い都市であった8).
URBAN WIEN-Gürtel plus の プ ロ グ ラ ム は 1995 年 の 12 月 に EU に 認 可 さ れ, 総 額 約 2000 万 ECU( 当 時 の 共 通 通 貨 )9)の 補 助 金 が交付された.掲げられたテーマは,①「新 たな社会的・文化的広報活動(Neue Soziale und Kulturelle Öffentlichkeitsarbeit:
NESKÖFF)」,②「資格の付与・組織化・投資に よ る 建 築 物 の 改 修 と 仕 事 の 創 出(Sanierung und Arbeitschaffen durch Qualifizieren, Organisieren und Investieren: SAQUORI)」,
③「 プ ロ ジ ェ ク ト 管 理 へ の 技 術 的 補 助
(Projektmanagement Technischer Hilfe:
PROTECH)」, ④「 西 ギ ュ ル テ ル 地 区 に お け る 都 市 機 能 面 で の 干 渉(Urbane Intervention Gürtel West:URBION)」であった.
まず①の NESKÖFF によって文化・社会施設が
プログラム名 開始年 主体 目的
URBAN WIEN-
Gürtel plus 1995 EU,ウィーン市 実現可能な施策によるギュルテル環状道
路沿いの地区のイメージ改善
Gürtel Transform 2000 ウィーン市 ギュルテル環状道路沿いの地区を対象と
する私的投資の引き出し
Zielgebiet Gürtel 2001 ウィーン市 ギュルテル環状道路沿いの地区独自の発
展と競争力の強化 50 Orte Programm 2001 ウィーン市,
オッタクリンク区など
公共空間の整備によるギュルテル環状道 路沿いの地区への独自性の付与 第1表 ギュルテル環状道路沿いの地区を対象としたプログラム
(開始年:1995 ~ 2001 年)
(ウィーン市資料より筆者作成)
建てられた.これはこの地区に暮らす外国人 などのマイノリティ集団の自立の可能性を高 めることにつながった(Grabherr, 2008).② の SAQUORI においては,長期失業者や女性,外 国人のための雇用創出政策がなされたほか,新 たな企業の誘致による地域経済の活発化を促し た.③の PROTECH では,外部の専門家による観 察や助言に基づくプログラム内容の充実がはか られた.
し か し, 最 も 重 視 さ れ た 事 業 は, ④ の URBION であった.これは特に問題が多いとさ れ る 西 ギ ュ ル テ ル 地 区(Westgürtel)10)を 対象とし,若者の地区として発展させるため の事業であった.その具体的成果として知ら れるのが,地下鉄6号線の高架下を利用した 地域の活性化をめざす「ギュルテルボーゲン
(Gürtelbogen)」である.レンガで組まれたアー チ状の高架下は,以前は倉庫として利用された り,空いたままにされたりしていたが,ここに 電気や水道などの設備を整え,ガラス張りの外 観を備えるなどの改修により,かつての薄暗い イメージが一新され,「開けた,新しい」場所 としての西ギュルテル地区がアピールされるこ とになった(写真1).改修後はファストフー ド店や若者を対象としたバーなどが立地し,若 者を呼び込んで西ギュルテル地区を活性化させ る起爆剤としての役割を果たしている.
ま た, 同 じ く 地 下 鉄 6 号 線 の Burggasse- Stadthalle 駅では,地下鉄駅と4本の市電の 停留所を覆う巨大な屋根を設置し,人々の集ま る場所としての整備が行われた(写真2). こ の URBAN WIEN-Gürtel plus に 続 い て,
2000 年 に は URBION を 補 足 す る プ ロ グ ラ ム Gürtel Transform が開始された.このプログ ラムは,私企業による国境を越えた投資を引 き起こし,西ギュルテル地区を国際的な経済 地区に発展させることを目的としたものであ
り,ギュルテルボーゲンへの店舗の立地を促 す一方で,「西ギュルテル地区開発オフィス
(Entwicklungsbüro Westgürtel)」 を 設 置 し,
この地区での再生事業の基盤づくりを進めた
(Grabherr, 2008).
さらに 2001 年には, Zielgebiet Gürtel と 50 Orte Programm の2つのプログラムが開始 された.まず Zielgebiet Gürtel は,これまで に行われたプログラムを調整し,当該地区の競 争力の強化と発展を促すことを目標としたもの であった.具体的には,①よりよい住環境の創 出,騒音の減少,空気汚染の改善によるギュル テル地区のイメージの改善,②緑地と自由空間 の創出,③(企業等の)立地可能性の引き上げ と活用,④住民グループの統合などであった.
このプログラムの最大の特徴は,住民参加を通 じて地域の活性化をめざしたことである.私企 業や地域住民との連携を重視している点は,先 のプログラム Gürtel Transform と共通する特 徴であった.
一方,50 Orte Programm は,公共空間を整 備することに目標を置くプログラムであった.
ウィーンでは,1974 年に中心商店街が立地す るケルントナー通り(Kärntner Straße)が市 内最初の歩行者専用地域に指定されて以来,公 共空間という概念が強く意識されるようになっ た.以来,2001 年までにウィーン市内では 370 の公共空間に関するプロジェクトが実施され た.総面積約 310 万㎡に 4,550 本の植樹がなさ れ,10.5 万㎡の緑地が新規に造成され,歩行 者専用地域として 42 万㎡が追加された.
なお,このプログラムは市内各地で実施され ており,市街地の再生が期待されている.
2.都市再生事業によるブルネン地区の変化 1)再生プログラム
西ギュルテル地区では,さらにさまざまな再
生プログラムが実施されている.ここでは,オッ タクリンク区内,ギュルテル環状道路の西に隣 接するブルネン地区(Brunnenviertel)11)で の事業をみてみよう(第3図).
ブ ル ネ ン 地 区 で は,2001 年 の 12 月 か ら 2003 年 の 12 月 の 2 年 間 に わ た っ て「 ブ ル ネ ン 地 区 向 上 プ ロ グ ラ ム(Aufwertung des Brunnenviertels)」 が 実 施 さ れ た. 事 業 は,
地 区 全 域 を 対 象 と し た も の と ブ ル ネ ン 市 場
(Brunnenmarkt)を対象としたものからなり,
居住環境や生活条件の改善が目標とされた.建 築物の改修や自由空間の創出と,生活の質の改 善などの施策がなされた.とりわけブルネン市 場については,ブルネン小路(Brunnengasse)
にある中央ヨーロッパ最大規模とされる路上市 場を維持し,特に文化や芸術といった観点を取 り入れて,市場をブルネン地区の経済基盤とし て成長させていくことが目標とされた.
この事業には,オッタクリンク区とウィーン 市,さらに地域住民の有志「ブルネン地区ネッ トワーク(Netzwerk Brunnenviertel)」が関与 した.区はもちろん,市においてもいくつもの 専門担当部局が事業に関与した.たとえば都市 発展・交通については,都市の形成や建設,と りわけ公共空間の形成について権限をもった部 局と,ウィーン中央部・西部の市区計画案や土 地利用について扱い,特に市民参加の実施に対 する施策を担当する部局,居住・住宅・都市更 新に関しては住宅の改修と更新を専門とする部 局が担当した.さらに消費者および就業者の保 護を扱うグループには,市場管理を行い市場 用地の全体的な管理を担当する部局が対応した
(Maczek-Mateovics, 2004).
一方,住民へのプログラムに関する情報提供 は,「ブルネン地区ネットワーク」を通じて行 われた.また,ブルネン地区は市内でも外国人 割合が著しく高く,対象地区の居住もしくは就
労する外国人の団体も「ブルネン地区向上プロ グラム」に参加している.
2)ブルネン市場の整備
この事業の重心は外国人の居住空間や就労空 間に置かれ,とりわけブルネン市場の整備が事 業の目玉になった.ウィーンには伝統的に多く の市場が立ち,経済発展の原動力になってきた ほか,市民コミュニティの基盤を形成する場所 としての機能も果たしてきた(Wolf,2006).そ れゆえに,ブルネン市場の整備がこの再生事業 で重要視された.
この市場には,ブルネン小路の両側の建築物 の1階部分を利用した常設の店舗とともに,路 上に多くの屋台が並んでおり,多くの外国人が 店舗を営業している.以下,市場の特徴につい て,土地利用形態からみてみよう.
まず常設の店舗の土地利用については,すで に 2002 年時点での建築物の1階部分の状況が 区当局によって調査されている(第4図).こ れによると,ここには場外馬券売場やゲームカ フェなどが立地し,特定の年齢や性別,所得層 の訪問客が集まる傾向があった.その一方で,
より幅広い客層を引き寄せる可能性を持つ店舗 として,オーストリア料理の軽食店やトルコ料 理などのレストランがいくつか立地している.
このほか,日用品や食品を扱う店舗の多くは安 価な商品を販売しており,これがブルネン市場 の魅力となっていた.
再生事業の実施によって土地利用には変化 が生じた.2009 年 10 月の現地調査により確 認 さ れ た 土 地 利 用 が 第 5 図 で あ る.2002 年 と比較すると,青色で示されるレストランや カフェがやや集積して立地する傾向がみられ る.とりわけノイレルヒェンフェルダー通り
(Neulerchenfelder Straße)とグルントシュタ イン小路(Grundsteingasse)の間に5つのレ ストランとカフェが集まり,多くの人でにぎ
わっている.またいずれも建築物は古いものの 店舗自体は新しいものが目立つ.ただし,1階 部分のみ改修を行っているため,手を入れてい ない2階以上と壁面の状況が著しく異なってい る(写真3).
ブルネン市場では圧倒的にエスニック・ビジ ネスが多い12).食料品店をはじめ,衣類・日 用品・レース類を販売する店舗が開設されてお り,さまざまな言語景観が展開されている.ヒ ジャーブを巻いた女性の姿を描いた絵を掲げ,
トルコ語による表記がみられる衣料品店や,ア ラビア語の表記がなされた食料品店(写真4)
のほか,衣類等を販売する店舗の看板には,ド イツ語,セルビア語,トルコ語の3言語による 表記がなされている(写真5).このほか航空 券の手配や,インターネット,国際電話のよう なサービスを安価で提供する店舗が6店舗あ る.いずれも 2002 年にはなかった店舗であり,
しかも外国人による外国人向けの商店が多く なったことがわかる.
次に,ブルネン市場に並ぶ屋台についてみて みよう.屋台はもともとかなり自由に開設され,
場所や広さの規定もなく,夜間の治安対策も不 徹底な状態であった.そこでこのプログラムで はまず,屋台の組織的な管理体制が確立された.
具体的には,市場に立つ屋台の申請・登録制度 や屋台の形態に対する規制が設けられた.
屋台の設置・管理に関連して重視されたのが,
公共空間としてのブルネン市場の道路整備で あった.このプログラムでは,ブルネン市場を,
人々が集まりコミュニケーションをかわす公共 空間として発展させることも目標とされた.こ のことによって地区は大幅に整備される必要が あると判断された.
そこで,まず市場周辺の交通環境の整備が進 められた.ブルネン小路は,屋台の経営者が営 業の準備をする平日と土曜日の午前6時から午
前9時半と,店じまいをする平日の午後6時半 から午後8時,および土曜日の午後4時半から 午後5時半までを除き,歩行者専用道路とされ た.こうした計画は,ウィーン市内の他の市場 はもちろん,ヨーロッパの多くの都市において すでに実現されており,十分な経済的,社会的 効果を生み出していることから,ブルネン市場 が活気ある市場として発展していくためにも 不可欠な条件とみなされた(Stadtentwicklung Wien, 2004).また,周辺の道路も車両の一方 通行規制や時速 30km 制限,自転車専用道路の 設置などの施策がなされた.
交通に関する整備に次いで,ブルネン市場の 管理や運営体制の整備が行われた.屋台経営者 との話し合いを経て,それまで明確な取り決め のなかった屋台の配置について,ブルネン小路 沿いの建築物から一定の距離をとり,小路の両 側に配置することが決定された.議論では道路 の中央部に配置する案も有力であったが,買い 物客の流れを分割せず,ブルネン小路を線状の 公共空間として発展させるために両側に設置す る案が採られた.屋台を設置する際に保つ中央 の通路の幅や屋台から建築物の距離などは,場 所によってブルネン小路の幅員が異なるため に,その道路幅に対応するよう細かく決められ た.これには,詳細な取り決めにより市場が統 制のとれた場所であることを買い物客に印象づ ける狙いもあったという13).
こうした道路の整備についての協議ののち,
屋台経営者からの要望として出された屋台経営 のためのインフラストラクチャーの整備が議論 され,電気と水道を各屋台に供給することが決 められた.いずれも高さ1m ほどのポールの中 に収められ,閉店後は店主以外が利用できない ようになっている.
また,屋台の運営も管理されることとなった.
ブルネン市場に置かれるすべての屋台に番号が
つけられ,つねに番号と店名を表示しておくこ とが義務づけられた.屋台の木の壁に印刷して あるものや,鉄の板に印刷してあるもの,ある いは木や紙に手書きのものまでさまざまな表示 がなされている.さらに屋台の形状についても 提示され,閉店時の状態や商品の展示方法など,
用途に応じて選ぶように取り決められた.この ような取り決めもまた屋台の設営位置に関する 取り決めと同様に,ブルネン市場の統制をめざ してつくられたものである.
実 際 の 屋 台 の 営 業 状 況 に つ い て み て み よ う. 屋 台 が 置 か れ て い る の は パ イ ア 小 路
(Payergasse)からタリア通り(Thaliastraße)
までの約 560m の区間である.2009 年 10 月に 現地調査を行った際には,その区間にはほぼ隙 間なく屋台が並べられていた.屋台で扱われて いる品物を示したものが第6図である14). 調査では 86 の屋台が確認された.そのうち,
調査を行った1週間に一度も営業がなされな かったものは4店であった.業種については,
最も多いのが靴類を含む衣類を取り扱う屋台 22 店,次いで青果物 16 店,雑貨 13 店,生鮮 食品と食料品 12 店,軽食7店がみられた.た だし,業種の分布をみると,市場の北半部であ る フ リ ー ド マ ン 小 路(Friedmanngasse) 以 北 では,生鮮食品を除く乾燥果物や菓子類など の食料品を扱う屋台が全体の 12 店のうち7店 が立地するなど,いくらか偏りがある.これ とは対照的にノイレルヒェンフェルダー通り
(Neulerchenfelder Straße)以南では,業種は 比較的まんべんなく配置されている.
市場を魅力ある空間として整備するための事 業も行われている.ブルネン小路を歩行者専用 道路にして公共空間化し,人々が集まる場所と して市場を発展させるための事業が展開されて いる.たとえばブルネン小路とグルントシュタ イン小路との交差点付近の路上には誰もが使
える水道とベンチが設置され,屋台経営者の手 洗い場や,買い物客や散歩中の人の休憩場と なっている(写真6).ちなみに,この場所は 1786 年に市場や小路の名称の由来となった噴 水(Brunnen)があった場所から 100m ほどしか 離れていない.この水道を設置することによっ て,ブルネン市場やブルネン地区の地域アイデ ンティティや地名度を高めることが期待されて いる.
そもそもブルネン市場の知名度が低いこと は,早くから問題視されており,表示板の設置 や公共交通機関の駅名の変更などの対応策が検 討されてきた.現在,その成果の一部は,ブル ネン市場の南端,タリア通りに面したところに 掲げられた「ウィーンの市場(Wiener Markt)」 にあらわれている(写真7).この旗は,ウィー ン市が市内の市場を観光資源として紹介するも ので,多くの観光客の訪問が期待されている.
このほか,タリア通りの東端,レルヒェンフェ ルダー・ギュルテル環状道路(Lerchenfelder Gürtel)との交差点付近には市場の案内板も置 かれており,知名度の上昇が期待されている.
ブルネン市場と交差する市電の停留所名を市場 名にする活動も行われている15).
3)ブルネン地区の建築物の整備
この再生プログラムでは,建築物の整備も積 極的に行われ,景観には大きな変化が生じた.
事業開始前の 2002 年に実施されたブルネン 地区全体の建築物の状態に対する調査による と,事業を実施する前には新築の建築物はきわ めて少なく,事業が必要と判断されたものが多 かったことが明らかになっている(第7図). その後,事業の実施により,老朽化した建 築物の建て替えや改修の事業が推進されてき た.とりわけ改修を要する建築物が「重要な地 所(Schlüsselliegenschaft)」 と し て 指 定 さ れ,プログラムの重要課題として位置づけられ
た.この指定を受けた建築物に,ブルネン小 路の OSEI と KARDLEC という名称の建築物があ る.いずれも外観はもちろん,その構造の老朽 化が激しく,間取りなどが旧態のものであるこ とから,全面的に建て替えがなされた(写真8)
16).その結果,快適な居住環境を備えた新し い住宅が生み出された.また1階部分にはスー パーマーケットが立地し,先述した水道を伴う 小さなベンチなどの設置もあって,この2つの 建築物付近は,きわめて往来の多い場所に生ま れ変わっている.このような建築物が出現する ことにより,近隣への投資の可能性が高まるこ とも,事業が目標とするところである(写真9)
17).
しかし,こうした新しい建築物はまだ一部 にすぎない.2002 年には事業実施の必要性が 指摘されたものの,2009 年時点で着手されて いない建築物が依然として残されている(第 8図).ブルネン地区の 257 の建築物のうち,
改修等が必要と判断されるものが 52 件ある.
2002 年にはその数が 57 件であったから,わず かではあるが減少していることになる.
改修の形態として目立つのは,建築物の表面 を塗り直すことによる外観の改修である.写真 10 では,手前の2つの建築物は改修等が必要 であると分類され,奥の2つの建築物は改修が 終わっている.また,奥の建築物の塗りなおし 部分がブルネン小路に面したファサード面のみ であり,経費が抑えられていることがわかる.
このように建築物の壁を塗り直す方法で改修さ れた建築物の数は,新しく建てられたものより も圧倒的に多くなっている(写真 11). このように建築物の取り壊しをせずに部分的 な改修が行われているのは,居住者の経済状況 に配慮したからであり,立替による住居の賃貸 料の上昇に対応できない住民が少なくないこ と を 斟 酌 し た 結 果 で あ る(Stadtentwicklung
Wien,2004).
また,ブルネン地区の多くの建築物が第二次 世界大戦後に建てられたものである点にも注意 したい.ブルネン地区は 1944 年9月以降7回 の空襲18)に見舞われ,多くの建築物が破壊さ れた(第9図).合計 110 ヶ所への爆弾の投下 により,地区内には戦前の姿をとどめている建 築物がきわめて少ない.このことは,全体の6 割以上が 1919 年以前の建築物であるギュルテ ル環状道路沿いの地区においては例外的ともい える.つまりブルネン地区の建築物はこの一帯 では比較的新しく,ゆえに形状の変化を伴う改 修をせずに利用することが可能となっている.
こうした事情も,居住者の経済力に配慮した施 策が進められてきた一因になっている.
Ⅳ 外国人集住地区の整備とその将来
1.整備された空間の利用
ブルネン地区では,再生事業によって景観や 土地利用に限らず,人々の動きにも大きな変化 がもたらされた.
ブルネン地区の活性化にとって重要とされ ているブルネン市場は,徐々に多くの人を集 めつつある.とりわけ近隣のイェッペン広場
(Yppenplatz)で市場が開かれる土曜日には,
多くの買い物客がブルネン市場も訪れている.
2009 年 10 月 24 日(土)の調査によれば,客 は午前9時頃から増え始め,多くの屋台が閉ま り始める午後5時前後になるまでその人数が減 ることはなかった.買い物客にはヒジャーブを 巻いた女性など外国人と思われる人々の姿が目 立ち,また子ども連れなど多くの人がブルネン 市場に買い物へ訪れていた.カートを持った買 い物客が,多くの食料品や日用品を買っていく 姿も多く見られた(写真 12).
しかし,こうしたにぎわいも場所によってい くらか異なっていた.買い物客の多さや活気に は,ブルネン小路の南北で差がみられる.ガ ウラヒァー小路(Gaullachergasse)とノイレ ル ヒ ェ ン フ ェ ル ダ ー 通 り(Neulerchenfelder Straße)との間あたりを境にして,その南半部 と北半部で買い物客の状況には大きな違いがあ る.写真 13 は土曜日の午前9時半頃の南半部 の様子である.比較的早い時間ではあるものの,
買い物客でにぎわいつつあった.これに対して 写真 14 は同じ時刻の市場の北半部の様子であ り,その雰囲気は大きく異なっている.
このような違いを生み出している要因はいく つか考えられる.まずブルネン地区を横切る2 本の市電の路線があげられる(第 10 図).いず れの路線もリンク環状道路からオッタクリンク 区に延びる路線で,ウィーンの歴史的中心地区 と約 10 分で結ばれている.中心市街地から乗 り換えなしで到着できる点で,市場の南半部は 利便性が高くなっている
一方,ブルネン地区の北端を横切るオッタク リンガー通りにも市電が走り,中心市街地から ブルネン小路近くまで 10 分足らずで接続して いる.しかし,その停留所はブルネン小路から やや離れている上に,ブルネン小路の北端は歩 行者専用道路となっておらず,屋台も立地して いない.そのため市場への交通手段として十分 に機能しているとは言い難い状況にある.
また,これと連動するように市場の南半部で は屋台の業種が比較的多様に配置されている.
安価な青果物や食料品などを一帯で求めること ができることから,市電を利用する買い物客で 市場の南半部がにぎわうことになる.
では,ブルネン市場の北半部はどのような 人々によって利用されているのだろうか.買い 物客が出る土曜日の午後,市場の北半部ではヒ ジャーブを巻いた女性が多くみられる.すなわ
ち市場の北半部では,南半部に比べてトルコや 西南アジア,北アフリカ出身の外国人がより多 くみられる.
ま た, 建 築 物 の 状 態 や 雰 囲 気 も 関 係 し て い る よ う で あ る. 先 に 示 し た 第 9 図 に よ れ ば,改修等が必要とされている建築物 52 棟の うち,半数以上の 34 棟がガウラヒァー小路
(Gaullachergasse)よりも北に位置している.
一方,新築の建築物は7棟にすぎず,全体の半 数以下となっている.さらに,この通りの北側 の地区はブルネン地区でも外国人居住率が高 く,整備を待つ住宅に多くの外国人が居住する という実態がある.
ブルネン地区では,問題地区からの脱却をめ ざして市場の管理体制の整備や建築物の改修な どが行われてきたが,多くの所得水準が低いこ とから,彼らを救済することも大きな課題に なっている.それは,この再生プログラムにお いて居住者の経済力に配慮した建築物の改修が 行われていること,外国人が経営する店舗が集 中するブルネン市場の整備に力が入れられてい ることからも明らかである.
ブルネン市場には,トルコや西南アジア,北 アフリカ出身の外国人が店舗を経営し,そうし た地域からの輸入品を販売しており,エスニッ クな雰囲気がある.この点では,ウィーンきっ ての著名なエスニック市場であるナッシュマル クト(Naschmarkt)と似ている.ナッシュマル クトは連日多くの観光客を呼び込み,英語や日 本語も飛び交い,各店舗も国際観光客を意識し た品揃えをしている.特に蚤の市が開かれる土 曜日には自由に動けないほどの混雑ぶりであ る.
これに対してブルネン市場で主に使われてい るのはドイツ語のほか,トルコ語やアラビア語 である.量り売りの単位はウィーンでよく使わ れる「dag(=dekagramm, 10g)」であるし,同
じ商品でもナッシュマルクトに比べて価格はか なり低くなっている19).
では,ブルネン市場をはじめとするブルネン 地区はどのような発展をめざしているのであろ うか.その答えを出す手がかりとして,ここで は文化イベントをみてみよう.
オッタクリンク区では 1998 年以来,SOHO IN OTTAKRING という地域の芸術家たちによるイ ベントが毎年開催されているが,2009 年には ブルネン小路の一角がこのイベントに利用さ れた.また,2007 年にはブルネン地区の北部 に位置するイェッペン広場(Yppenplatz)に ブ ル ネ ン・ パ サ ー ジ ュ(Brunnenpassage) と 呼ばれる施設が設けられた.この施設はロー マ・カトリック教会の救援組織である Caritas Wien20)が 運 営 し,「 出 会 い と 統 合 の 場(Ort der Begegnung und Integration)」のスローガ ンのもとで,多様な文化や社会との出会い,オー ストリア国民と外国人,イスラム教徒とキリス ト教徒との出会いの場となるべく,イベントが 催されている.
具体的には,ダンスや合唱を行うイベントや 映画の上映などがおこなわれている21).それ らのイベントの実施はホームページなど積極的 な広報もなされ,会場でもいくつもの言語によ る案内がなされている(写真 15).ガラス張り の会場は通行人の目にも留まりやすく,イベン トへの参加を通じて参加者相互の出会いや交流 の機会を提供し,コミュニケーションを高める ための掲示板も用意されている.「編み物を習 いたい」というトルコ語のメッセージや,「家 政婦募集」といったドイツ語のメッセージなど が掲示され,それらは常にブルネン小路から確 認できるようになっている(写真 16). このようにブルネン地区では,市場やブルネ ン・パサージュなどを通じて居住者とウィーン 市民との交流を深めることによって地域のイ
メージの改善や発展を推進する動きを活発にし ている.ブルネン地区の再生事業は,居住者の 入れ替えを想定しておらず,むしろ外国人が多 いという居住者の特性を生かした整備をめざし たものといえよう.
2.共存の場としての可能性
ブルネン地区で実施されている再生事業は,
外国人集住地区という特性を生かす方向で進め られてきた.SOHO IN OTTAKRING をはじめとす るイベントもそうした狙いをサポートするもの であり,ブルネン地区は現在,多文化的な場所 としてプラスの評価が現れつつある.
このようなイメージの転換には,建築物の改 修や市場の組織的な管理といったハード面での 整備が前提であることは言うまでない.
しかし,ブルネン地区では,建築物の抜本的 な改修や建て替えを抑えた居住環境の整備が進 められ,住宅の賃貸料も従来と大きく変わらず に維持された.その結果,外国人の居住は継続 し,彼らの間でのコミュニティも安定しつつあ る.さらに,安価な住居は新たなチャンスを求 める若者にとって魅力的なものとして受け止め られており22),外国人だけでなくウィーン市 民にとっても関心の向く地区になりつつある.
この点からみれば,ブルネン地区における再生 事業は一定の成果を得ているといえよう.
ウィーンに限らずヨーロッパの都市では近 年,外国人集住地区が注目を集めている.それ は,歴史的中心市街地に近接した立地の魅力,
劇場や工場などの歴史的建造物の存在,そして 新たな開発の可能性にある.多くの都市におい て外国人居住地区が行政による整備の対象地域 になっているのは,そこにある高い発展の潜在 力に目が向けられているからであろう.
都市の再生事業には建築物の建て替えを主体 とする面的な事業と,既存住宅を生かした改修