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薩摩藩英国留学生と長州ファイブの接点

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Academic year: 2021

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鹿児島国際大学ミュージアム調査研究報告162019. 3

BulletinoftheMuseumStudy, theinternationalUniversityofKagoshima,VoI、16March2019

論文

薩摩藩英国留学生と長州ファイブの接点

森 孝晴! )

1) 891‑0197鹿児島市坂之上8‑34‑l 鹿児島国際大学

薩摩藩英国留学生

かの苦労の渡航であったそれはまさに密航留学と呼ぶに ふさわしく井上馨と伊藤博文は言葉の言い間違いから4 か月間船員の仕事をさせられたのだロンドン大学の聴講 生となったあと.初代総理大臣となる伊藤博文と初代外務 大臣になる井上馨は1年で帰国し,造幣局長となる遠藤謹 助は1866年に, 「工学の父」と呼ばれるようになる山尾庸 三と「鉄道の父」と呼ばれるようになる井上勝は1868年 に帰国して.それぞれ新政府で大きな仕事を担った.

一方薩摩藩英国留学生のプログラムは,生麦事件から始 まると言ってもよいだろう. 1862年に生麦事件が起きて からの薩摩藩の留学生派遣に至る動きは速いものだった.

この事件の影響で翌1863年の8月に薩英戦争が起こり.

この戦いを通してイギリスの実力を知った薩摩藩は. 1864 年に五代才助の上申書を検討し、藩としては初の英学専攻 を含むエリート学校開成所洋学校を開設した.薩英戦争が 起こった1863年の5月にはすでに長州ファイブがイギリ スへ向け出港していたが,薩摩藩留学生派遣計画はそれを 追いかける形となった.

開成所洋学校には森有礼や長沢鼎が入学したが. この年 l.薩摩藩英国留学生と長州ファイブの概略

薩摩藩英国留学生と長州ファイブは, どちらも幕末の鎖 国中に他藩に先駆けて前後してイギリスに若者たちを留学 させた先見性のあるプログラムである.お互いに関わる部 分もあるし, また留学の目的やその形態はかなり違うもの がある.そのあたりに関わって, まず両者の派遣のプロセ スを時間的経過に沿って跡づけてみたい.

最初に,道迫真吾箸『長州ファイブ物語一工業化に挑ん だサムライたち−』を中心にして長州藩の動きを見ていき たい 1853年にペリーが来航して世の中が騒然とし時代 が維新へと動き出すなかで,長州藩は1863年5月に5名 の留学生をイギリスへ送った「送った」といっても長州 の場合.若者たちが藩の要職にある人物と相談し藩主に外 国行きを願い出るとともに.渡航費用の金策にとび回り,

そこに同行者が増えて5人になった. というような経緯が あった.渡航時の年齢は,井上馨29歳,遠藤謹助28歳.

山尾庸三27歳.伊藤博文23歳井上勝21歳と.全員が 20代であった

ロンドンへの旅も薩摩藩の場合とかなり違って. なかな

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森孝晴

すでに長州ファイブはロンドンにいたということである.

薩摩藩英国留学生たちは翌1866年にかけてロンドン大 学の聴講生として勉学に励んだが時は戊辰戦争前夜の時 期であり.薩摩からの仕送りが途絶えたこともあって学生 たちも三々五々帰国して行った.ただ.英学専攻生を中心 とする6人(森有礼.長沢鼎松村淳蔵,畠山義成,鮫島 尚信吉田清成)は1867年8月にさらにアメリカに渡った

しかし1873年までには長沢以外の5人は帰国してしまい.

長沢一人が残ることになった

長沢はその後も60年以上アメリに住み続け永住したが.

「カリフォルニアのブドウ王」と呼ばれるほどの著名なワ イン製造者として知られた.帰国した薩摩藩英国留学生一 行もそれぞれ明治新政府で活躍したが,主な人物を挙げる と,森は初代文部大臣となり.畠山はのちの東大の初代校 長となり.鮫島は初代駐仏公使となり.松村は海軍兵学校 長として「日本海軍生みの親」と呼ばれ五代友厚は大阪 商法会議所初代会頭となり.町田久成は東京国立博物館初 代館長として「博物館の父」と呼ばれ、村橋久成は北海道 開拓に尽くして「サッポロビール生みの親」と呼ばれるよ うになり.寺島宗則は「日本電信の父」と呼ばれようになっ

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2.薩摩藩英国留学生と長州ファイブの交流

「母国日本よりも一足早くロンドンで薩長同盟が結ばれ ていた」という言い方は必ずしも誇張ではない.

薩摩も長州も擬夷の志の強い土地柄であったというこ とがお互い競い合うことにもつながり,八月十八日の政変 (1863年)や禁門の変(1864年)を通して恨みを持ちいが み合う仲になっていたその後坂本龍馬などの努力で急転 して1866年に薩長同盟が結ばれ倒幕へと突き進むことに なるのだが.長州ファイブが出発した年には八月十八日の 政変が起こったのであり.禁門の変が起こった年の翌年に 薩摩藩英国留学生は出発したのである.両藩の留学生たち はこのような情報は知っていたはずなので,お互いが相手 になにがしかのわだかまりを持っていた可能性は十分あっ ただろう.

しかし両藩の留学生は驚くほど交流したのである.その 理由については後にするとして, まずどんな交流があった かを犬塚孝明箸『密航留学生たちの明治維新井上馨と幕 末藩士』や門田明著『若き薩摩の群像サッマ・スチュー デントの生涯』を中心にして見てみようすでに触れたが,

薩摩藩英国留学生がロンドンに着いたとき (1865年6月)

LONDON MAULL&C・

長州ファイブ(萩博物館蔵)

には禁門の変が起きていて. 出兵した長州兵が薩摩に敗れ ている.薩長同盟に至っては1866年のことであり,両藩 はまだ雪解けを迎えてはいなかった

翌1865年2月薩摩藩では開成所洋学校から主に選抜 した15人の学生と4人の使節にイギリス留学の命が下る 彼らの年齢は,長州ファイブとは対照的にバラエティーに 富んでおり. 10代が4人,30代が2人.あとの13人が20代.

最年少はなんと13才だった.薩摩藩は違う世代,特に10 代の目で世界を見ることや郷中教青のように年長の者が下 の者を指導をすることに重点を置いていたことがわかる なお,彼らは出発に際してそれぞれ「変名」という別名を 藩主からもらった. ちなみに長州ファイブは本名で通して いる4月にはいちき串木野市羽島より彼らは密出航し 6月にはロンドンに達する.藩が一人一人に今の価値で 千万円以上のお金をかけるという本格的で賛沢な留学で あったここで覚えておかなければならないのが, この時

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薩摩藩英国留学生と長州ファイブの接点

1865年に長州藩がイギリスに送った第二次留学生3人の うちの一人山崎小三郎が1866年3月に亡くなった時には,

山崎の葬儀にウィリアムソン教授と2名の長州ファイブ 学生のほかに10人の薩摩藩英国留学生が参列した(犬塚 2007: 124,原口2018:24).

に長州ファイブはロンドンにいて勉学を続けていた.薩摩 留学生の世話係であったグラバー商会のライル・ホームが 路上でたまたま長州ファイブの3人(遠藤,山尾井上勝)

に出会ったのだが,ホームも驚いたかもしれない.長州藩 留学生の3人は直後のこの年の7月に薩摩留学生のフラッ トを訪ねた.前述したように両者にはなにがしかのわだか まりや警戒感があったと思われるが, なんと5時間も話し 込み,親しくなったという.その後山尾と薩摩留学生たち は特に頻繁に付き合うようになり,彼は薩摩留学生たちを いろいろなところへ案内した.それはロンドン塔であった り,造船所であったり,ベッドフォードの鉄工所や農業用 機械のある場所であったりした. このブリタニア鉄工所で 薩摩留学生たちが機械やその操作に素早い理解を示したと いうエピソードは有名である.

実は長州留学生3人は学費に困っていた.薩摩留学生 がやはりそうなっていくように,彼らも藩からの仕送りが 滞っていたのだ.特に山尾はユニバーシテイーカレッジを 退学してスコットランドのグラスゴーに行って造船技術を 学びたいと思ったが,資金がなかった.そこで山尾は薩摩 留学生たちに旅費のためにお金の工面を依頼した.薩摩留 学生たちは何とかしてあげたいと思ったが藩のお金を使う わけにもいかず,結局町田久成の提案でそこにいた学生が 一人1ポンドずつ出して支援金とすることになり, 16zif ンドを山尾に貸し与えたのである. なぜ16ポンドだった かと言えば.そこ(学生たちのフラット)に15人の薩摩 学生がおり, さらに居合わせた松木(寺島)が1ポンド出 したようである.今のお金で約480万円(原口2018:24) ということだが,感動的な話である. ちなみに林望は, ロ ンドンに到着した数日後に薩摩藩学生たちがホテルを出て それぞれフラットに分宿することになったときに,松木 (寺島)は,新納,五代,堀の3人がホテルに残る中で学 生たちの後見役としてあえてフラットに移ったと記してい る(林2007:327−328).犬塚も松村の日記を引いて町 田も松木もこの宿舎に移ってきたことを示しているし(犬 塚1974:60), 門田明もフラツトヘの引っ越しの後は上記 の3人だけがホテルに戻っていったと指摘している(門田 1991 : 105).

無事グラスゴーに行けた山尾は造船技術を学んだが,犬 塚孝明によれば,彼はグラスゴー滞在中にアバデイーン にいた長沢についてグラバーの実家に直接問い合わせて,

ロンドンにいた薩摩藩英国留学生たちに長沢は元気で頑 張っていると伝えてきたそうだ(犬塚2001 : 121). また,

3.高見弥一をめぐる薩長の奇縁

実は留学生に関わる両藩の奇縁は, まだどちらの留学生 も旅立っていない1862年に生まれていたのだ.それは薩 摩藩英国留学生の一人高見弥一をめぐる奇縁だった.

門田明の「若き薩摩の群像サツマ・スチューデントの 生涯」を中心に見ていくことにする.高見弥一はもともと 土佐藩士であった.薩摩に行く前は大石団蔵という名で,

土佐勤王党の志士の一人で坂本龍馬とも面識があった可能 性もある.高見は,勤王党の指導者であった武市瑞山(半 平太)の指示で,佐幕派で薩長同盟に反対する参政の吉田 東洋を暗殺した.

この暗殺グループには高見のほか2人(那須,安岡)が いたが, 3人はまず土佐を脱出して長州に逃れ長州藩にか くまわれた.高見が薩摩藩の留学生に選ばれるとは誰も知 らない時期であるが, このことは,後に薩摩と長州の留学 生がお互いに助け合うことになることを考えると,偶然と はいえ面白いことだ.

次に高見は長州藩の久坂玄瑞のはからいで京都の薩摩藩 邸にかくまわれる. この時の長州藩と薩摩藩の連携は,両 藩の間にすでにある種の協力体制ができていたことを暗示 する動きである. このあと,他の2人の刺客はその後天詠 組の乱で戦死するが, これに加わらなかった高見は薩摩藩 邸で丁重に扱われ,京都の薩摩藩の公武合体派と親しく なった.そして寺田屋事件の後島津久光に受け入れられ,

長州ファイブが出発し薩英戦争が勃発した1863年に,親 しくなった薩摩藩の奈良原繁とともに薩摩に下った.

高見は強い尊王撰夷論者だった.それが留学生に選ばれ た理由でもあったともいわれるが,薩摩に来る中で微妙に 変化していったかもしれない.それはともかく,高見は薩 摩藩に出仕することになり, また開成所生にもなった.彼 は成績が良かったようでその学才を認められて,かつ撰夷 論を修正する期待もかけられて一五代が選んだという話も あるが一最初に留学生に選ばれたと言われる.

高見は1966年の秋に帰国した. 1868年には大阪の税関 勤務を命ぜられたが, 1872年には鹿児島県庁の辞令で鹿 児島の算術教員となった. 1885年には鹿児島県立中学校

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森孝晴

造士館の算術教員の記録があり,その後高見は,妻とした 薩摩の女性とともに鹿児島を離れることなく過ごし,薩摩 藩士として没した.彼は,鹿児島大学農学部の初代校長な ど多くの優秀な教え子を育てたが,生涯薄給に甘んじたよ うで, 出世も望まなかった.

そのように無欲であった理由としては養子の身分だとい うことや暗殺者としての陰が付きまとったことを挙げるこ とができる. しかし,筆者には,薩摩がとても気に入った のではないかとも思われる.高見はl896年に加治屋町で 波乱の人生を閉じている. 53歳であった.

考えてみると,土佐藩出身の高見弥一が長州藩に助けら れ, さらに薩摩藩に救われてイギリスに留学しロンドンで 長州藩の留学生と交流するという展開は,誠に奇想天外で ある. ロンドンで長州ファイブと出会った高見は何を考え たであろうか.

18歳の時に長州藩と薩摩藩の両方に助けられて生き抜き ロンドンまでやって来た高見弥一は,そうした両藩の関係 の象徴だったとも言えるかもしれない.

ではなぜ彼らは親しく交流したのだろう.それは第一に 日本人としての,あるいは日本人侍同士の同胞意識だろう.

筆者にも留学経験があるが,異国の地で同じ日本人や留学 している研究者などに出くわすと何とも知れない嬉しさが あるものだ. また, 当時は, 日本国民という以上にそれぞ れが藩命を受けて極めて重い使命と責任を背負っていると いう意識も,共通するものとして学生たちの胸に流れたで あろう.第二には,苦労して勉学をしている学生同士であ るという共感もあっただろう.現代の留学とは全く違い,

失敗すれば切腹ものという強いプレッシャーを共有してい る者同士,共に頑張ろうという気持ちになるのは極めて自 然なことであったろう.

こうした同胞意識や共感を共有するという当時の日本人 には持てないまれな経験があったからこそ,両藩間の恨み をも乗り越えて,留学生同士の自然発生的なきずなが生ま れ,お互い助け合うということさえ可能になったと思われ

る.

4.薩摩藩英国留学生と長州ファイブの接点から見えるも

これまで見てきたように,両藩の留学生たちは,苦労の 末に留学を果たし,帰国後(あるいはアメリカにおいて)

大活躍したのである. ただ,その性格,留学の目的はかな り対照的だった.長州ファイブは,「生きた器械」「人の器械」

となって帰ってくることが目的であった.つまり技術主体 の留学計画であったということで,一方薩摩藩英国留学生 は軍事・政治・社会・文化が主体の留学計画であり,造船 など技術の習得も含まれてはいたが, イギリスを中心とす る外国の地理や社会情勢を知るための実地検分調査と使節 による商取引が中心だったと言える.

したがって,両留学生とも,特に長州ファイブは,政治 的に無色であったようである. どちらも藩命に沿って勉学 することが使命と心得命を懸けて学んでいたからである.

そのことが薩長同盟より少し早く両者を結びつける原因と なったと思われる.

ロンドンにおいて両藩の留学生たちは交流を続け,一種 の日本人サロンのようなものを作っていたのではないか,

とさえ思われる.お互いが連絡のつく状況になっていたこ とから考えてもたやすくそう推測されよう.すでに述べた が,母国で正式に薩長同盟が成立するのは1866年の1月 のことであって,留学生たちが親しくなったのはそれより 半年ほど早い.彼らが同盟の正式な成立を予想していたと は考えにくいので,むしろそれまでのわだかまりを越えて 交流したと考える方が事実に近いだろう. もしかすると,

参考文献

林望(2007). 『薩摩スチユーデント,西へ」東京:光文社 原口泉(2018). 「西郷どんとその時代薩長同盟への絆」

朝日新聞西部版(9月22日付第2鹿児島面)北九州:

朝日新聞社.

犬塚孝明(1974). 「薩摩藩英国留学生」東京:中公新書.

犬塚孝明(2001). 「密航留学生たちの明治維新井上馨と 幕末藩士」東京:日本放送出版協会.

犬塚孝明(2007). 「貧困に死す−山崎小三郎一」 「世界を 見た幕末維新の英雄たち成臨丸から岩倉使節団まで』

別冊歴史読本東京:新人物往来社

門田明(1991) . 「若き薩摩の群像」鹿児島:春苑堂かご しま文庫1.

門田明, テリー・ジヨーンズ(1983) . 「カリフォルニア の士魂一薩摩留学生・長沢鼎小伝」東京:本邦書籍.

道迫真吾(2010). 『長州ファイブ物語一工業化に挑んだサ ムライたち一」萩:一般社団法人萩ものがたり.

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参照

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