<前回>オリエンテーション 1.近代の思想状況と自然神学 2.自然神学の新しい動向 2-1:自然神学とコミュニケーション合理性 (1)宗教と科学の関係論とキリスト教思想史 (2)宗教と科学の共通課題と自然神学 6/4 (3)自然神学とコミュニケーション合理性 6/11 2-2:クレイトンと脳神経科学 6/25 2-3:マクグラスと伝統特殊的合理性、意味論 7/2 3.形而上学批判と形而上学再構築 3-1:ハイデッガーと解釈学 7/9, 7/16 3-2:ホワイトヘッドとプロセス神学 7/23 Exkur:人文学の新しい可能性。科学技術の神学にむけて。 <前回>宗教と科学の関係論とキリスト教思想史・ティリッヒ 1.問題:キリスト教思想の問いとしての科学技術 → キリスト教思想における科学技術論(「宗教と科学」関係論に基づく科 学技術の神学)と、その基礎論として自然神学(伝統的自然神学の再考) 2.思想史的アプローチ:キリスト教思想史の近代以降の文脈 宗教と科学の対立論から両者の分離論を経て対話・再統合論へいたる展開 3.18 世紀以降の思想状況:啓蒙思想と、新しい思想動向に敏感な教養市民層の存在。 ・啓蒙思想=複合的な思想運動。 ・近代科学も含めた新思想に敏感な知的エリート層。 ・18 世紀以降に顕著な傾向として、生命現象が論争の中心的な争点を形成すること。 4.近代初頭、ケプラーからニュートンに時期に天文学や物理学 20 世紀の科学的な心理学の登場、心的現象を問題の争点へ、近年の脳神経科学 A.前期ティリッヒの科学論:分離論への移行 6.プロテスタント・キリスト教神学:第一世界大戦の前後 19 世紀的な神学からの訣別を宣言した弁証法神学の登場=現代神学の開始。 宗教と科学の関係論:19 世紀後半の宗教と科学の対立図式から次の段階へ。 7.前期ティリッヒにおける科学論 「文化の神学」(Kulturtheologie):科学論と宗教社会主義 宗教と文化の分裂状況(他律と自律の対立)・二重真理論の克服。 近代の自律的理性に合致した真理とキリスト教的伝統の信仰的真理を克服する 8.宗教哲学、宗教の精神史、宗教の規範的体系論。「認識そのものが、認識の体系を構 築するように要求」(Tillich, 1923, S.116)。 「諸学の体系は精神諸機能の体系の表現となり、また精神の構造は、諸学が諸対象を見出 し境界づける際の多様な方向性から認識可能になる。」(ibid., S.117) 9.認識行為の現象学的分析→諸学の体系: 10.神学の科学性: 2013 年度・特殊講義1 6/4/2013 キリス思想の新しい展開──自然・環境・経済・聖書(1)── S. Ashina
11.意味論:意味の形式、意味は意味連関である。 意味の内実。意味連関の意味。言語体系の全体は、言語共同体の基本的な実 在理解に依存し、歴史性を帯びている。 「形式-内実」(Form-Gehalt)という対概念にもとづく意味論。 13.意味論の射程→人間存在の包括的な理解。 ・意味の実存性:主観 ・意味の形式性:客観 ・意味の共同性:相互主観 限界:非ロゴス的な契機(欲望、身体)、意味への固執するという問題 B.後期ティリッヒの科学論、分離論から対話論へ 15.1950 年代の後期著作、『組織神学』全三巻(1951 ~ 63 年)における科学論 16.「相関の方法」(method of correlation)による神学体系の構築。 相関の方法は、人間の状況が内包する問いに対する答えとしてキリスト教的メッセー ジを解釈し相関させる。 前期の思索から一貫するキリスト教のメッセージの真理性あるいは有意味性を時代の 思想状況の中で提示するという弁証的意図。この相関をめぐる神学と哲学の関連性。 18.後期ティリッヒでは、哲学は相関の方法の文脈において、状況が内包する問いの定式 化という役割を担う。哲学に諸科学に対する、いわば特権的位置を与える。 19.相関の方法における哲学:問いの定式化のみならず、答えの定式化にも関わっている。 キリスト教のメッセージを状況の問いに対する答え「として」解釈する=哲学的解 釈学的作業。キリスト教思想の科学性がこの解釈学的構造において具体化される。 ↓ 宗教と科学の関係論の詳細は、哲学的要素の分析、特に哲学と神学との関係の分析を要 求することになる。宗教と科学の対立は、宗教と哲学の対立に収斂する。 20.「対立は戦いが行われる共通基盤(common basis)を前提にする。しかし、神学と哲学 の間には共通基盤は存在しない。……哲学的レベルでの対立は、二つの哲学者の間の対立 であり、その内一人がたまたま神学者であっただけであり、それは神学と哲学の間の対立 ではない。」(ibid., 26) 21.共通基盤が存在しない→神学と哲学との間に対立はない→神学と諸科学の間にも対立 は起こりえない。 cf. 前期の科学論における神律的学と自律的学との根本的区別。 対立は逸脱に基づく。擬似的対立 22.対立だけでなく対話も成立しない。→分離論 23.共通基盤と区別される共通根拠(common ground)。 「問いの答えるためには、その人は問いを発する人間となにか共通なものを持っているの でなければならない。漠然とした言い方になるかもしれないが、弁証神学者は共通根拠を 前提しているのである。」(ibid., 6) 25.晩年期のティリッヒにおける宗教と科学の関係論の新しい展開。 26.科学自体の宗教的次元=共通根拠。→意味論(意味の形而上学)の再考 神学と哲学との、あるいは神学と諸科学との対話で問われるのは、「宇宙における人間
2013 年度・特殊講義1 6/4/2013 キリス思想の新しい展開──自然・環境・経済・聖書(1)── S. Ashina → 神学と諸科学の共通課題が共通根拠を具体化する。環境あるいは平和・・・ 27.宗教と科学の関係論をめぐる晩年のティリッヒの展望(再統合あるいは協力の希望)。 2.自然神学の新しい動向 2-1:自然神学とコミュニケーション合理性 (2)宗教と科学の共通課題と自然神学 A.モルトマン神学の展開と科学論 1.モルトマン:バルトやティリッヒらの次の世代を代表する神学者の一人。 「第三の新しい動向を代表するのは、J・モルトマンであり、彼を一躍注目させるに至っ たのは、『希望の神学』(一九六四年)であったことは、あまりにも有名である。モルト マン神学はやがて「革新の神学(革命の神学)」の展開をうながし、その後のWCCの神 学的基本線を提供する」(森田、1987、41)、「モルトマンの最初の三部作『希望の神学』、 『十字架につけられた神』(一九七二年)、『霊の力における教会』(一九七五年)を読む とき、われわれはブロッホのみならず(たとい多くの言及がなされずとも)アドルノ、ハ バーマスといったフランクフルト学派のいわゆる「批判的理論」の社会哲学の主張がいた るところで考慮されていることに気づくことであろう。」(同書、41) 2.『わが足を広きところに──モルトマン自伝』(新教出版社、2012 年)として邦訳さ れた自伝(Weiter Raum. Eine Lebensgeshcichte, Gütersloher Verlagshaus, 2006.)から。 モルトマンの思想の発展史: 初期(『希望の神学』以前。一九六四年まで) 前期(一九六四年~一九八〇年) 後期(一九八〇年~現在) 3.『希望の神学』(1964 年)とほぼ同時期 ・『神学の展望──現代社会におけるキリスト教の課題』(1968)と題された論文集の第 12 論文「近代科学の世界における神学」(1966)。 現代の状況においては、神学と自然科学は、「互いに関連なく並行して、もはや何も言 うべきことがない発言の葛藤喪失状態の中」にあって、「互いに意味なく並行している状 態」(335)、にある、つまり、「精神神学と自然科学との間の溝」(337)が存在する。 19 世紀から進展しモルトマンの前世代の神学者たちが共有していた分離論がもたら した事態→精神的営みは「様々な真理の領域」に別れ、「近代精神におけるこのような 複線化」(338)。 cf. 二重真理 4.「現代の科学は、現代の技術の可能性と解きがたくしっかりと結びついている。それ はさらに社会全体の巨大科学と国家的計画によってなされるべき投資にかかっている。こ のような投資は、かかる企画によって人間を尊重する生の未来がもとめられるかぎりにお いてのみ、意味深いものとなる。ここに政治と社会全体と人が考慮すべき未来のヴィジョ ンとが、相互依存の関係にあることが分かる。」(356) ↓ 「純粋な客観性を越えて新しい倫理を求める責任」(356)と科学と希望の未来の目標と
「キリスト教的希望は、未来を宿命的にタブー視してはならない。それはまた、神信仰の 助けをかりて未来を放棄することができるなどと考えてはならない。しかしまた、人間が 展望することのできなくなった世界の中で、『頭を上にもたげて』意義深い目標を認識し、 それに向かって人間的・物質的諸力を投資する勇気を見つけるために努力すべきである。」 (333) 6.神の事柄である約束と希望は、人間の主体的行為と未来に向けた計画性を廃棄するも のではなく、むしろ両者は結びつけられるべきなのである。 賀川豊彦。「もしも私たちが神に帰依し、手足を動かすことを拒み、それでいて神は私 たちを助けてくださるだろうと信じているとすれば、それは迷信以外の何ものでもない。 結局のところ、信仰とは神による可能性を信じることである。この可能性を信じることそ れ自体が人間の活動を要求する」(賀川豊彦『友愛の政治経済学』日本生活協同組合連合 会、二〇〇九年、四五頁)、「私たちが私たち自身をとおして神に働いてもらうようにす るのでなければ、神ご自身もその可能性を実現することはできない。」(同書、四六)。
Toyohiko KAGAWA, Brotherhood Economics, Harper & Brothers, 1936. 7.「純粋な客観性を越えて新しい倫理を求める責任」が、 『十字架につけられた神』(1972)と同時期の論文。『科学と知恵──自然科学と神学の 対話』(2002)第 9 論文「人間的倫理と生化学的進歩の道徳性(エトス)」(1971) 「ウイルスおよびバクテリア性感染症の克服」「無菌世界というヴィジョン」、「向精神 薬の発達」「痛みなき世界」、「臓器移植技術」「交換可能な身体」、「新しい優生学」とい った生命倫理をめぐる諸問題に言及しつつ、「このような人間の関心・希望・ヴィション に基づいて、生化学の進歩そのものが、人類の偉大な倫理的企画となります」(187)と主 張。 8.「人間性の倫理が必要であり、苦痛の医学的緩和や病気の追放だけでけでなく、人間 的な受け入れや、苦痛・病気・死を意識的に自分のものとなること、これらにも目をとめ なければなりません。からだの秩序が人間的人格の秩序と統合されねばならないように、 生医学の進歩もまた、人間性の秩序の中に統合されねばならないのです。」(205) 9.モルトマンの生命倫理に関する議論は、人間学的な連関を重視する点で、L.ジープ 他『ドイツ応用倫理学の現在』(ナカニシヤ出版、二〇〇二年)において紹介されたドイ ツ的伝統でも言うべき文脈に属している B.後期モルトマンと自然神学 10.『創造における神』(1985):現代の環境危機との関連でキリスト教的創造を再考する 試み。 ・創造論:「無からの創造」→「神の自己限定(縮退)」・Zimzum 強き神 弱き神:神の自己限定・自己否定が創造力となる。 支配者としての人間・自我 他者への向けた存在者、共生する自己 カバラ、ルーリア→神の自己限定のキリスト教思想の系譜:
2013 年度・特殊講義1 6/4/2013 キリス思想の新しい展開──自然・環境・経済・聖書(1)── S. Ashina クザーヌス、ハーマン、エーティンガー、シェリング・・・ シモーヌ・ヴェイユ 「神ご自身の「外の」世界を創造するために、無限なる神は前もって有限性に対して、ご 自身の中の場所を明け渡したに相違ない。」(136) 『三位一体と神の国』「神の自己限定」(183-189) 西方神学→東方神学→ユダヤ教 ・エコ・フェミニスト神学: 『創造における神』の「付論 世界についての象徴」 偉大なる母なる世界/母なる大地/・・・ /メシア論的観点からする象徴の比較 「新しい平等な共同体形式は、生態論的世界像と結びついている。そして、この共同体形 式の中で、父権的支配は解体され、同志的共同態(Genossenschaftliche Gemeinwesen)が建 設される。機械論的世界観の中央集権化は、相互関係の網の目の中で、一致に席を譲る。 ・・・古い母性中心的な世界象徴は、再び将来性のあるものとなるだろう。」(461) cf. リューサー
・Steven Bouma-Prediger, The Greening of Theology. The Ecological Models of Rosemary Radford Ruether, Jesepf Sittler, and Jürgen Moltmann, Scholars Press, 1995.
・E・モルトマン=ヴェンデル/J・モルトマン『女の語る神・男の語る神』 新教出版社、1994年。 11.環境世界・生態系を神の被造物として認識する根拠としての自然神学。 「自然が神認識のためにどんな貢献をするか」ということではなく、「神概念が自然認 識のために」、従って環境論を展開するために、「どんな貢献をするのか」(90)。 ↓ 自然神学と啓示神学を二つの分離可能な神学的営みとする従来の標準的理解を修正する 試み。 12.自然神学はストア哲学に由来。「自然」とは、経験を通して知ることができる自然で はなく「事物の本質」であること、またこの意味での自然がキリスト教思想においては有 限で依存的で偶然な被造物という現実とされたこと。 ・伝統的な創造と聖書に由来する二重の神認識という枠組みにおける自然神学、つまり、 「自然という書物」からの神認識(良心の内なる証しによる神の先天的認識と、自然認識 から得られた神認識)という議論。 ・この意味で自然神学は楽園における神認識の残余、痕跡、想起という仕方で救済論的に 分類され、また啓示神学に対しては、その準備、確認、目標、代用、競争、敵といった仕 方で論じられてきた。 ・真の神の啓示についての問いへ導く教育的機能、人間を信仰の理解(信仰の知解)へと 至らせる解釈学的機能、そして終末の栄光における神認識の先取りとしての終末論的機能 という三つの機能を果たす。 13.「「自然神学」と「啓示神学」の区別は誤解を与える。神はひとりの方でいますのだ から、二つの相違した神学があるのではなく、ただ一つの神学がある。しかし、この一つ
・自然神学:原初の創造(自然の国)という条件下での神学 ・啓示神学:この自然とともに罪と堕落を含む歴史(恩恵の国)という条件下あるいはこ の歴史を導く神の恩恵という条件下での神学。十字架の神学、メシア的神学、旅人の神学。 ・栄光の神学:終末の栄光の条件(栄光の国)下での神学。 これらの諸神学において、「そのつど後に続く神学の形態が先立つ神学の形態を摂取し ていること」(99)。 ↓ 自然神学はキリスト教神学自体の基礎構造をなしている。 「啓示神学は歴史という条件下での自然神学」(99) cf. トランスのバルト解釈。 トーマス・F・トランス『科学としての神学の基礎、教文館、1990 年。 14.「あとがき」 1)現代思想のコンテクストから。本書は相対性理論以降の自然科学の展開をどのように 解釈し評価するのか、という視点から読むことができるであろう。トランス自身はこの自 然科学の展開を、ニュートン力学に典型的な二元論の克服過程として解釈しており、そこ にバルト神学との平行関係を見ている。つまり、本書は現代科学の展開の宗教的意味、科 学と神学との関係性などの問題を考える際に、少なからぬ示唆を与えてくれる。トランス が二元論を克服し、神学との対話の可能性を開くものとして指摘しているのは、アインシ ュタインの特殊および一般相対性理論と現代の宇宙論における成果(膨張宇宙理論)、素 粒子論における場の概念の明確化、プリゴジーヌによる散逸理論と非平衡系の理論(シス テムの階層性と自発的秩序の生成)である。もちろん、これらの現代科学の成果の宗教的 意義をトランスのように積極的に考えることができるかは、評価がわかれるであろう。し かし、膨張宇宙の現実の有り方と人間のような精神的存在者の発生との相関性(いわゆる 人間原理)を、少なからぬ科学者が真剣に考えていることは事実であり、実証主義的ある いは決定論的な科学観が支配的であった時代にくらべて、現代においては神学と自然科学 との生産的対話の可能性がより広く開けてきていると評価できるであろう。例えば、現代 の指導的な素粒子物理学者のひとりであり、後に英国国教会の聖職者に転進した、J・ポ ーキングホーンの『世界・科学・信仰』(みすず書房)は、本書のトランスに近い見解を示 している。この点に関しては、さらに、P・C・W・デイヴィスの『宇宙はなぜあるのか ─新しい物理学と神─』、『ブラックホールと宇宙の崩壊』、あるいは柳瀬睦男氏の『現代 物理学と新しい世界像』(いずれも、岩波書店)などを参照いただけるならば、さらに有益 であろう。 2)現代神学、とくに教義学と聖書神学の視点から。この視点から本書を見るとき、特に 第四、六章における、バルト以降における自然神学の試み、神学の階層的構造とその三一 論的基礎付けは注目に値するであろう。これは現代神学の問題としては、バルト的立場か らのブルトマン的聖書解釈学の批判と考えることもできるが、より細かく見てゆくとさま ざまな興味深い問題提起となっていることが分かる。例えば、神学の科学性(学問性)ある
2013 年度・特殊講義1 6/4/2013 キリス思想の新しい展開──自然・環境・経済・聖書(1)── S. Ashina いは客観性をどのように考えることができるかという問題である。これは、有名なバルト ─ハルナック論争と結びつく問題であり、また最近のパンネンベルクなどにおける科学論 との関連で考えることも面白いであろう。トランス自身は明らかにバルトの立場に従って、 神学の学問性、客観性を論じているわけであるが(彼の『バルト初期神学の展開』を参照)、 神学が神学以外の学問分野と対話し、それらに開かれているべきであると考えるかぎり、 神学はいかなる意味で学であるのか、という問題は緊急の課題と言わねばならない。もし、 神学と神学以外の学問分野との間の共有されうる合理性、共通言語が見いだされないとす るならば、神学は現代人によって了解不可能なものになってしまうであろう。トランスは、 神学と神学以外の学問分野との共通の合理的構造の存在を確信しているわけであるが、そ の場合の彼の着眼点は「自然」あるいは「創造」である。その点で自然神学の問題に本格 的に取り組もうとする、トランスの提案は慎重に考えられねばならない。今世紀のプロテ スタント神学においては、「歴史」が重要な神学的テーマとされるのに対して、「自然」 の問題は十分な取り組みがなされてこなかったように思われる。もちろん、「自然」をい かなる仕方で神学のテーマとして論じうるのか、来るべき「自然神学」とはどのようなも のなのか、などについては、まだまだ考察すべき事柄が多くあると思われる。しかし、ト ランスの言うように、神学が現代の自然科学と有意義な対話をおこない、現代においてそ の創造の祭司としての役目を果たすべきであるとするならば、「自然」を特に創造の問題 との連関で論じ、何らかの仕方で「自然神学」を展開することが必要であることは明らか である。これは、現代の生命倫理の問題をキリスト教神学の立場から論じる場合にも、不 可欠の神学的基礎となるであろう。更に興味深いのは、トランスが、自然神学の可能性を、 一般には自然神学に対して否定的と思われている、バルト神学の立揚から基礎づけようと していることである。これは、バルト神学の解釈、特にバルト─ブルンナー論争の評価と いう点でも一考に値すると思われる。もちろんトランスのバルト解釈の是非については、 バルト研究者の批判的研究を待たねばならないが、いずれにせよ、「自然」の神学的理解、 自然神学の可能性の問題がキリスト教神学の根本的問題である,ことは否定できないであ ろう。 15.『神学的思考の諸経験』(1999)で、自然神学が「宗教と科学」関係論において果たす べき役割は、明確な表現を得る。 第一章「神学とは何か」(神学体系の序論的考察)を締めくくる最後の第6節。 「キリスト教神学の前提としての自然神学」「キリスト教神学の目標としての自然神 学」「キリスト教神学自体が真の自然神学である」「キリスト教神学の課題としての 自然神学」の4つの部分。 16.現代のキリスト教思想の課題を:「「被造物の神学」は、現代の新しい生態学的危機 と挑戦に立ち向かわなければならない」(115-116)。 この課題を遂行するために、「自然科学と科学技術との共同作業のために、私たちは、 「自然神学」の理解の枠組みを必要としている」(116)。自然神学は神学と科学、宗教と 科学との共同作業(おそらくは対話に基づく)の基盤を提供する役割を果たすという主張。 ↓ コミュニケーション合理性: モルトマンの「共同作業の基盤」
「様々な宗教共同体が、宗教多元的社会と地球的規模に広げられた世界において、共に生 きていくに応じて、これらの宗教共同体は、そうでなければ表現できない、それらのもろ もろの差異を表現できる、共通の場所を見出すであろう。」(117)
「宗教性は世俗性と同様に、共通のいのちに奉仕しなければならない。」(118) <引用文献>
Moltmann(1968):Perspektiven der Theologie. Gesammelte Aufsätze, Chr.Kaiser. (1980):Trinität und Reich Gottes. Zur Gotteslehre, Chr. Kaiser.
(1985):Gott in der Schöpfung. Ökologische Schöpfungslehre, Chr. Kaiser.
(1999):Erfahrungen theologischen Denkens. Wege und Formen christlicher Theologie, Chr.Kaiser.