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1 2. 天然記念物オオヤマレンゲ八経ヶ岳 明星ヶ岳 五鈷嶺 仏生嶽 孔雀岳 山上ヶ岳 1. 山上ヶ岳と八経ヶ岳以南の大峯奥駈道 :( 南の釈迦ヶ岳より ) 弥山以南の奥駈道3. 五鈷嶺と仙宿跡 ( 南から ) 弥みせん山(1895m)以南の奥駈道は 近畿で最も高い山稜に沿って進みます(写真1 )

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奈良県立橿原考古学研究所編集発行逐次刊行物

第 3 号 目 次

Archaeological Institute of Kashihara, Nara prefecture

あなたと遺跡の新しいつながり方をみつける情報紙

・奈良の世界遺産と考古学(3)

 大峯奥駈道 弥

み せ ん

山~太

た い こ

古の辻~前

ぜ ん き

鬼       

・奈良考古情報 新発見 飛鳥時代の巨大古墳 ―小

こ や ま だ

山田古墳― 

・ 国際会議『シリア世界遺産の次世代への継承を目指して―

       パルミラ 奈良からのメッセージ』のご案内       

・橿考研の所員と一緒に遺跡をめぐり、考古学を楽しみませんか

ミステリー小説からみた考古学の世界(2)

 池澤夏樹著『キトラ・ボックス』を読む

      絹畠 歩・持田 大輔          

・考古学研究交流 

「探訪 アジアの注目遺跡」

  中国   周原遺跡 

      齊藤  希

  ベトナム チャーキュウ遺跡

       鈴木 朋美

・催し案内      

表紙写真:世界遺産 大峯奥駈道 椽の鼻付近の断崖と北の八経ヶ岳

(2)

2. 天然記念物 オオヤマレンゲ

八経ヶ岳   明星ヶ岳→ 五鈷嶺   仏生嶽   孔雀岳   山上ヶ岳  

1. 山上ヶ岳と八経ヶ岳以南の大峯奥駈道 :(南の釈迦ヶ岳より)

 

弥山以南の奥駈道

3. 五鈷嶺と仙宿跡 (南から)

  弥 み せ ん 山 (1895m) 以南の奥駈道は、 近畿で最も高い山稜に沿って進みます (写真 1)。約 20分で至る 八 はっきょう 経 ヶ岳(仏 経 嶽・ 1 9 1 5m ) は、 近 畿 最 高 峰。 周囲は、天然記念物の 仏 ぶっきょうがだけ 経 嶽 原始林 ・ オオヤマレンゲ自生地です。オオヤマ レンゲは天女花ともいわれ、白い花が 7月上旬頃に開花します(写真 2)。   明 みょうじょう 星 ヶ 岳( 1 8 9 4 m ) ま で は、 緩やかな下りです。天川村川合への分 岐点である弥山辻を過ぎ、稜線の西に 撮影 森下惠介氏   楊子宿跡→

シリーズ

奈良の世界遺産と考古学 第 3 回

大峯奥駈道(3) 弥山 ~ 太古の辻 ~ 前鬼

(3)

4. 椽の鼻西斜面の岩頭とヤマツツジ

5. 両部分けと蔵王権現像

沿って 禅 ぜ ん じ 師 の森を南へ進むと、はるか下 まで崩落した斜面の頂部にでます。眼前 に 五 ご こ の み ね 鈷嶺 (写真 3)の岩頭をみつつ、崩 落部を上に迂回し、五鈷嶺の岩の間をぬ けて下ると、 仙 せんしゅく 宿 跡の平場です。再び稜 線の西に沿って南下し、舟の 多 た わ 和 を過ぎ てピークを東に巻き、稜線に戻ると 楊 よ う じ 子 宿跡です。南に避難小屋があります。   避難小屋から道は登りとなり、仏生 嶽(1805m)の稜線の西に取りつ きます。仏生の 横 よこがけ 駈 とよばれ、苔むし た岩溜りの上を飛び石のようにして通 り過ぎていきます。緩やかな尾根道に でて南に進むと、東わきに鳥の水とい う水場があります。 孔 くじゃくだけ 雀岳 (1779 m)の西を巻いて進み、孔雀の 覗 のぞき とい う絶壁の上をぬけます。 急斜面を登ると、釈迦ヶ岳(1800 m ) の 北 稜 で す( 写 真 6)。 垂 直 に 近 い鎖場を上がり、馬の背とよばれる岩 稜を横渡りすると、斜面に這うように 幹をのばす樹林へ入ります。道は急傾 斜 の 上 に 踏 圧 で 深 く え ぐ ら れ て お り、 ロープや木の根につかまりながら山頂 を目指します。   釈迦ヶ岳山頂には、 強 ごうりき 力 の岡田正行 が担ぎ上げたという 釈 し ゃ か に ょ ら い 迦如来 像が立っ て い ま す( 写 真 7)。 山 頂 に は か つ て 仏堂があり、部材の飾金具等が散布し ています。   西 尾 根 へ 下 り、 十 津 川 村 旭 の 林 道 へ の 分 岐 点 か ら 南 へ 笹 の 中 を 下 る と、  

釈迦ヶ岳から深仙宿

  笹に被われた尾根道が終ると、 椽 えん の 鼻とよばれる痩せ尾根です(写真 4)。 岩頭を巻いて鎖場を下り、 釈 し ゃ か 迦 ヶ岳の 北稜裾に取りつく道です。最初に表れ るのが、 両 り ょ う ぶ わ 部分 けといわれる巨岩です (写真 5)。頂部に亀裂があり、この岩 より北が 金 こんごうかい 剛界 、南が 胎 たいぞうかい 蔵界 とされて います。 その外周を巡って鎖場を降り、 さらに 弥 み ろ く い わ 勒岩 の東裾まで下って東に迂 回します。そこから杖捨てとよばれる

(4)

8. 深仙宿 灌頂堂

6. 釈迦ヶ岳北稜

9. 大日岳北のブロッケン現象

撮影 橋本裕行氏 深 じんせん 仙 宿 (約1500m) です (写真 8)。 灌 かんじょうどう 頂堂 がいまも残り、周囲にはいくつ もの建物跡の平場があります。平場の 東北端に 香 こうしょうすい 精水 があり、岩間から水が したたり落ちています。

7. 釈迦ヶ岳の釈迦如来像

 

太古の辻から前鬼へ

  深 仙 宿 の 南 の ピ ー ク に つ づ い て、 大 だいにち 日 岳(1568m)があります(写 真 10)。 岩 場 の 鎖 場 修 行 で 有 名 で し た が、 岩が緩み、近年は中止されている 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ようです。岩場を渡りながら下ってい く と、 太 た い こ 古 の 辻 で す( 写 真 11)。 こ れ より以南が南大峯奥駈道です。明治以 後に廃れてしまいましたが、玉岡憲明 氏らの新宮山彦グループの努力で、復 興しました。   前 ぜ ん き 鬼 に は、 太 古 の 辻 か ら か ら 東 へ、 深い谷を下ります。登山道として木階 段が整備されていましたが、紀伊半島 大水害で部分的に流出し、沢への出入 りは古来の姿に戻っています。下りの 途 中 の 両 り ょ う ど う じ 童 子 岩 で は、 「 8」 字 に 岩 を 巡る修行がおこなわれます(写真 12)。   さらに下って、 橡 とち の巨樹の中をぬけ、 白い岩の涸れ沢を過ぎると、前鬼の集 落 跡 に 入 り ま す( 写 真 13)。 奥 駈 道 は 石畳の道へと変わり、周囲には宿坊の 跡を示す石垣が多数残ります。かつて 前 鬼 に は、 五 ご き つ ぐ 鬼 継 ・ 五 ご き く ま 鬼 熊 ・ 五 ご き じ ょ う 鬼 上 ・ 五 ご き じ ょ 鬼助 ・ 五 ご き ど う 鬼童 の 5家がありましたが、

(5)

12. 両童子岩

14. 前鬼 行者堂

*訂正とお詫び   第 1号 5頁上段写真    (誤)大峰山寺本堂→(正)金峯山寺本堂   第 2号 6頁上段    (誤)上北山村前鬼の小仲坊       →(正)下北山村前鬼の 小 お な か ぼ う 仲坊   第 2号 8頁写真 12    (誤)仏性ヶ岳→(正)仏生嶽   大 変 ご 迷 惑 を お か け し ま し た。 訂 正 し て お 詫 び 申し上げます(編集担当)

11. 太古の辻

13. 前鬼の石畳と宿坊跡

現在は五鬼助家 61代当主の五鬼助義之氏 が守る 小 お な か ぼ う 仲坊 が残るのみです。 5月中旬 には、モミジの赤い若葉に映える 行 ぎょうじゃどう 者堂 をみることができます(写真 14)。        (次号は、太古の辻~ 玉 た ま き 置 神社) 撮影 橋本裕行氏

10. 大日岳の行場

(6)

小山田古墳

  

新発見

飛鳥時代の巨大古墳

     

山田

古墳―

 

明日香村川原

1. 小山田古墳の現状 

南西から

2. 奈良のなかの小山田古墳

3. 小山田古墳と調査地点

古墳の推定範囲 地図 QR  

「小山田遺跡」の発見

  平成 27年1月、明日香村川原におい て 新 た な 巨 大 古 墳 が 発 見 さ れ ま し た。 その後の継続調査で、内容が少しずつ 明らかとなってきましたので、これま での成果をご紹介します。   小山田古墳発見の契機は、昭和 47年 12月にさかのぼります。学校敷地の工 事で、掘りだされた土に木簡らしい木 片があるとの連絡が、学校から橿考研 にありました。所員が現地で確認した ところ、まさしく木簡でした。もとの 地形にあてはめてみると、木簡は南に のびる尾根の東側の谷底から出土した ものでした(第1次調査) 。   学校の方の機転で発見されたこの遺 跡は、 「小山田遺跡」 と命名されました。 木簡の内容から、藤原京の時代の役所 に関係する遺跡と考えられました。  

遺跡から小山田古墳へ

  その後も、 学校内の施設工事に伴い、 いくどか発掘調査がおこなわれました が、顕著な遺構は検出されてはいませ

奈良考古情報

 

ニュース

ホットで はっとする 発掘成果

(7)
(8)

5. 小山田古墳の北裾の石積みと北側の掘り割りの石貼り

6. 小山田古墳の埋葬施設の痕跡 

垂直写真 上が北

7. 小山田古墳の埋葬施設の痕跡 

南東から 羨道壁石の抜き取り穴 羨道壁石の抜き取り穴 羨道床下の排水溝 羨道壁石の抜き取り穴 羨道床下の排水溝 羨道壁石の抜き取り穴

(9)

んでした(第2~4次調査) 。   転 機 は 平 成 26年 11月 に 訪 れ ま し た。 学校の校舎のひとつが、改築されるこ とになり、発掘調査が実施されました (第5・ 6次調査) 。   調査を開始してすぐに、人頭大の石 が並んで出土しはじめました。調査を 進めた結果、石積みを伴う大規模な掘 り割りでした。掘り割りは東西に直線 にのびており、 約 48m以上ありました。 掘り割りの北斜面には、飛鳥周辺にあ る 石 せきえいせんりょくがん 英閃緑岩 をならべ、掘り割り側に 平坦面を向けて貼っています。掘り割 りの底には、斜面と同じ石英閃緑岩を 敷 い て い ま す。 底 の 幅 は、 約 3.9 で、 南端の幅約 80㎝の範囲には、やや大き めの石を敷いています。   掘り割りの南側では、板石を階段状 に 積 ん で い ま し た。 板 石 の 基 底 に は、 吉野川流域の結晶片岩(緑泥片岩)を 用い、北面を揃えて2段に積んでいま す。その上には、宇陀市室生周辺でと れる室生安山岩を重ね、北面を約 10㎝ ずつ南へずらしながら階段状にしてい ます。 な手掛かりとなりました。遺跡は、南 へのびる尾根上に位置しており、掘り 割りは、尾根を切断してつくられてい ま し た。 ま た、 掘 り 割 り の 南 側 に は、 かつて四角い高まりがありました。出 土遺構と過去の地形から、掘り割りは 古墳の北辺を区画し、板石積みは古墳 の表面を化粧する石材と考えることが で き ま す。 飛 鳥 時 代 の 大 規 模 古 墳 が、 新たに発見された瞬間です。   平成 27年には、古墳の規模を明らか にする調査を、学校用地の西端でおこ ない、古墳をつくるにあたって、丘陵 地形を大規模造成した状況を確認しま し た( 第 7 次 調 査 )。 し か し、 依 然 と して様々な課題が残りました。古墳が つくられた時期は?古墳の規模は?本 当に古墳であると確定するための、決 定打が必要でした。 に、内法約 20㎝・深さ約 30㎝の南北方 向の石組暗渠を1基検出しました。遺 構の形状とこれまでに出土した遺構と の位置関係から、横穴式石室の羨道部 分で間違いありません。同時に、小山 田遺跡第 5次調査以降に出土した遺構 が、古墳のものであることが確定しま した。   なお、石材の抜き取り穴は、羨道の 東・西側壁の基底石が抜き取られたこ とを示しています。石室が既に破壊さ れていたことは残念であり、築造され た時期を明らかにすることは、今回も できませんでした。   南・東調査区全域において、墳丘盛 土を検出しました。このことは、今回 の調査区よりもさらに南に、板石積み による墳丘南辺が位置することを示し ます。また、墳丘盛土のなかから、軒 丸瓦の破片が1点出土しました。古墳 の築造時期を考える上で、大変重要な 資料です。 らに南へ位置することなどから、一辺 約 70mの方墳となる可能性が高まりま した。その規模は、同時期の古墳の規 模と比べても、最大級となります。   築造時期は、墳丘盛土のなかから出 土した軒丸瓦片の年代から、7世紀前 半以降であることがわかりました。ま た、掘り割りの大部分が、7世紀後半 には埋没していることから、飛鳥時代 のなかで、古墳の築造から埋没の過程 をたどれることもわかりました。   このように、これほどの巨大な古墳 の存在が、現在まで知られずにいたこ とになります。 小山田古墳については、 まだまだ課題が残されています。その 課題の1つ1つを明らかにすべく、今 後 も 継 続 し て 調 査 を お こ な う 予 定 で す。  

ヒントは過去の地形

  出土した遺構の性格は何かを考える 上で、学校建設以前の地形図が、大き

 

古墳の埋葬葬施設を求めて

  平成 28年は、先の疑問点を解明する べく、小規模ではありましたが、推定 される古墳の中心線上を発掘し、横穴 式 石 室 の 痕 跡 を つ い に 検 出 し ま し た (第8次調査) 。   南調査区において、 南北長 1.2m以上、 東西幅 1.4~ 1.5mを測る石材の抜き取り 穴 を 2 基、 抜 き 取 り 穴 の 間 の 西 寄 り

 

古墳の規模と築造時期

  第8次調査によって、古墳の規模と 築造時期を考えるための多くの手掛か りを得ることができました。   古墳の規模については、横穴式石室 の位置が判明したこと、墳丘南辺がさ アクセス ○近鉄吉野線   岡寺駅より東へ徒歩 25分 ○奈良交通    明日香周遊バス・赤かめ         橿原神宮前駅東口より         「野口」下車徒歩1分 ※見学上のご注意   小 山 田 古 墳 は、 学 校 敷 地・ 民 有 地 に あ る た め、 通 常 は 立 ち 入 り が 制 限 さ れ て い ま す。 古 墳 の 南 裾 を 走 る 県 道 1 5 5 号 多 武 峯 久 米 線 の 歩 道 上 か ら 全 体 像 を 観 察 で きますので、そちらからご覧ください。

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橿考研の所員と一緒に遺跡をめぐり、考古学を楽しみませんか

遺跡・史跡 楽しみ方

国際会議『シリア世界遺産の次世代への継承を目指して

  ―

       

パルミラ

 

奈良からのメッセージ』のご案内

  シリアでは、2011年からの内戦によ り、世界遺産パルミラをはじめとする多く の文化遺産が破壊や盗難の被害にあいまし た。シリアはいま、文化遺産を保存・修復 し、将来に継承するための国際協力を必要 としています。   今年、橿考研は国連開発計画の委託を受 けて、シリアの文化財関係者の人材育成事 業を実施します。そのキックオフ・イベン て、 議『   ―     奈良からのメッセージ』を以下のとおり開 。皆 【主催】   シルクロードが結ぶ友情 プロジェクト実行委員会 奈良県立橿原考古学研究所 【後援】   国連開発計画 外務省 文化庁(申請中) 【日程】   平成 29年 7月 11日(火)〜 13日(木) 【会場】   奈良春日野   国際フォーラム甍   能楽ホール 【参加方法】   7月 11日のみ、往復はがき、または   インターネットによる申し込みが必   要(定員300名・ 申込者多数の場   合は抽選) 。       ※ 往信裏面:氏名、住所、電話番号    返信表面:住所、氏名(宛名)   ※ 宛先   〒634―0065     奈良県橿原市畝傍町1番地      橿考研   シリア国際会議係   ※ 6月 23日(金)必着   ※ インターネット申し込み情報      橿考研ホームページ ( http://       www .kashikoken.jp/ ) に詳細掲載 。   ▼ 12日(水) 9時 30分~ 17時   ◇専門家パネル   『パルミラ遺跡の現在から将来へ』   ◇発表者 ワリード・アスアド(フランス/パル ミ ラ 古 物 博 物 館 )、 オ マ ル・ ア ス ア ド (フランス/パルミラ古物博物館) 、ミ ハウ・ガウリコウスキ(ポーランド/ ワルシャワ大学) 、アンドレアス ・ シュ ミット=コリネ(ドイツ/ウィーン大 学) 、西藤清秀(橿考研)   他   ▼ 13日(木) 10時~ 17時 10分   ◇シンポジウム   『シリア文化遺産の次世代への継承』 コーディネーター : 常木晃 (筑波大学) 、 サミュエル ・ リズク(UNDPシリア)   ◇発表者 マアムーン・アブドゥルカリーム(シ リ ア / 古 物 博 物 館 総 局 )、 ア フ マ ド・ ディーブ(シリア/古物博物館総局) 、 松 原 康 介( 筑 波 大 学 )、 黒 木 英 充( 東 京 外 国 語 大 学 )、 マ フ ム ー ド・ ハ ム ー ド(シリア/ダマスカス市古物博物館 局 )、 松 本 太( 外 務 省 駐 シ リ ア 臨 時 代 理大使)   他   ※国際情勢の変化等により、出席者が      変更になる可能性があります 。   ※各日、同時通訳あり。 11日~ 13日の    期間、能楽ホール前ロビーにて関連    団体による写真、物品の展示等あり 。 写真:シリア パルミラ古物博物館提供 パルミラ東南墓地 H 号墓 盗難にあった石棺彫像彫像

 

プログラム

  ▼ 11日(火) 14時~ 17時   ◇オープン シンポジウム 『シリア文化遺産の保護と日本の役割』 ※開会挨拶   奈良県知事   荒井正吾 ※記念鼎談 マアムーン・アブドゥルカリーム(シ リ ア 古 物 博 物 館 総 局 総 裁 )、 青 柳 正 規 ( 東 京 大 学 名 誉 教 授・ 前 文 化 庁 長 官 )、 ヤマザキマリ(マンガ家) 司会   黒木英充 (東京外国語大学教授)

ご紹介

文化遺産 保護

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橿考研の所員と一緒に遺跡をめぐり、考古学を楽しみませんか

ご紹介

遺跡・史跡 楽しみ方

◇橿考研には友の会「友史会」があります。

◇「友史会」は、研究所・友の会活動をとおして考古学に基づいて歴史を

 学ぶことを目的とする、会費制会員による会員のための組織です。

◇会員になるために特別な資格は必要ありません。

◇会員になると、所員案内の遺跡めぐりや講演会、会報の送付、附属博物

館入館等の特典がたくさん!会員、随時募集中です。

 

創立

62年の友の会

  昭和 30年から友史会は活動してきま した。大和歴史館の友の会として発足 し、歴史館が考古博物館と改名し、そ し て 橿 考 研 附 属 博 物 館 に な っ た 翌 年、 橿考研友史会となりました。橿考研と ともに活動をおこない、一昨年 60周年 を む か え ま し た。 現 在、 会 員 は 北 海 道 か ら 鹿 児 島 ま で 広 が り、 そ の 数 約 1400名。会員が集中する東京・名 古屋には支部をおいています。  

楽しい友史会の例会

 

  友史会活動で最も楽しいのは、年に 7回開催される遺跡めぐりの会 (例会) です。奈良を中心とする近畿地方の遺 跡から、折々の考古学ニュースや研究 の進展を踏まえたコースを設定し、橿 考研の所員が解説員となって一日をか けてめぐります。 62年の会の歴史の中 では、同じ遺跡を再訪することがあり ますが、 考古学研究の進展をふまえて、 解説は常に最新のものです。   ※ 平成 28年度の例会実績    4月   銅鐸出土地を巡るⅤ    6月   三島古墳群を歩く 写真:友史会例会風景(橿考研所員による遺跡説明)    7月   泉州の古墳を巡る    9月   新庄・當麻の古墳を歩く    11月   横大路をあるく    12月   建国の聖地・橿原を歩く    2月   巨勢・葛城の境を歩く   例会以外に、希望者による国内遺跡 の旅も実施しています。平成 28年度は 『北信濃の遺跡を巡る』でした。  

 

友史会の運営

 

  友史会は、会員が会長をはじめとす る委員となって運営しています。橿考 研 は 所 長 以 下 が 顧 問 を 務 め る こ と で、 会員の皆様の考古学等のニーズにお応 えする体制をとっています。   皆様も友史会員になって、橿考研と 一緒に考古学を学び、 楽しみませんか。  

入会のご案内

※詳細は、 友史会ホームページ ( http://    www .kashikoken-yushikai.org )    参照のこと ※ 年会費 (4月から翌年3月の 1年)      一般4千円   学生2千円      10月以降入会の場合、一般2千円 ※ 振込み先   郵便振替口座      00940―8 ― 76410     奈良県立橿原考古学研究所   友史会

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池澤夏樹著『キトラ・ボックス』を読む

 

◇新たな考古学ミステリー

  平成 29年 3月、考古学ミステリー界 に 新 た な 1冊 の 本 が 刊 行 さ れ ま し た。 池 澤 夏 樹 著『 キ ト ラ・ ボ ッ ク ス 』 ( K A D O K A W A ) で す。 池 澤 夏 樹 さ ん は、 第 98回芥川賞受賞作の『スティル ・ ライフ』など数々の著作があり、本作 は 平 成 26年 2月 刊 行 の『 ア ト ミ ッ ク・ ボックス』の姉妹編に当たります。   あらすじは、国立民族学博物館研究 員 の 可 カ ト ゥ ン 敦 が、 奈 良 県 天 て ん か わ 川 村、 愛 媛 県

三枚の鏡がキトラ古墳と現代をつなぐ

大 おおやまづみ 山祇 神社、そして中国新疆ウイグル 自 治 区 に あ る 3枚 の 禽 きんじゅうぶどうきょう 獣 葡 萄 鏡 を め ぐって、大きな思惑に巻き込まれなが ら、前作『アトミック・ボックス』の 登場人物たちの力を借り、最終的にキ トラ古墳の被葬者を明らかにするとい うものです。冒険小説と古代史ミステ リーの要素がミックスされた内容であ り、物語の展開が非常にスピーディー で、楽しめるものになっていますす。

 

◇物語中の橿考研

  本作には、橿考研がかかわっていま す。冒頭、可敦が讃岐大学准教授の藤 波三次郎に誘われ、日月神社所蔵の禽 獣葡萄鏡の調査のため、橿考研へ赴き ます。畝傍御陵前駅の前で藤波と待ち 合わせ、 5分ほどで橿考研へ到着しま す。そして研究所の「 2階の小さな部 屋」へ案内され、資料の見学をおこな います。   実際の橿考研が資料見学用に使用し て い る 部 屋 は、 2 階 に は あ り ま せ ん。 2階は、多くの研究員の研究スペース があり、私の席も配置されている場所 です。物語が現実であれば、資料見学 へ来た 2人と私は、出会っていたのか もしれません。   物語の後半にも、橿考研が登場しま す。内容に大きく関わる部分ですので 詳 し く は 言 え ま せ ん が、 そ こ に は 研 究 員 が 2人 登 場 し ま す ( も ち ろ ん 架 空 の 人 物 で す が ) 。 橿 考 研 研 究 員 は、 講 演 会 な ど で 広 く 活 動 し て い ま す の で、 知 っ て い る 名 前 や 顔 を 思 い 浮 か べ て、 比較していだだければ、楽しめるポイ ントになると思います。

 

物 語 の 途 中、 可 敦 は 岡 山 に あ る 鍛 か じ や さ こ 冶屋逧 遺跡の発掘調査現場にかくま わ れ ま す。 こ の 遺 跡 は、 美 作 市 中 尾・ 上 か み や 相 に位置する遺跡です。本作の連載 当時に岡山県教育委員会が調査してお り、 報 告 書 も 刊 行 さ れ て い ま す ( 岡 山 県 教 育 委 員 会 2 0 1 6   『 岡 山 県 埋 蔵 文 化 財 発 掘 調 査 報 告 』 2 4 2 ) 。 私 は 美作出身で、鍛冶屋逧 B1号墳でも出土 し て い る 陶 棺 を 研 究 し て い ま す の で、 より物語が身近に感じられました。

 

◇キトラ古墳の被葬者像

  キトラ古墳の被葬者には、 高 た け ち 市 皇子 や 刑 おさかべ 部 皇子のような皇族、 阿 あ べ の み う し 倍御主人 のような有力豪族など、多くの見解が あ り、 一 致 を み て い ま せ ん。 本 作 で は、最終的にとある人物が禽獣葡萄鏡 と銅剣を手掛かりに被葬者として挙げ られます。読者ごとに、賛否両論が予 想されます。考古学の視点からは、何 を明らかにすればキトラ古墳の被葬者 がわかるのか、本作を読むことで考え るきっかけになるのではと思います。   4月 29日 に は、 国 立 民 族 学 博 物 館 ( 大 阪 府 吹 田 市 ) で、 池 澤 夏 樹 さ ん と、 国立民族学博物館吉本忍名誉教授、そ して橿考研の菅谷文則所長による刊行 記 念 ト ー ク イ ベ ン ト( 「 小 説 家 の 見 た 「キトラ古墳」と「国立民族学博物館」 ―小説『キトラ・ボックス』をめぐっ て 」) が 開 催 さ れ ま し た。 参 加 者 か ら の質問コーナーもあり、会場内は熱気 に包まれていました。 (絹畠) 上:近鉄橿原線 畝傍御陵前駅西口    橿考研まで徒歩5分の最寄り駅です。 下:愛媛県大三島大山祇神社(2017/04/02 撮影)    この記事のために撮影してきました。 池澤夏樹著『キトラ・ボックス』 (株式会社 KADOKAWA より刊行)

特 集

「考古学」 楽しみ方

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きんじゅうぶどうきょう

  本作のキーアイテムとして登場する 大山祇神社、トルファンの古墳、そし て天川村日月神社(実在しません)に 伝えられた同型(同じ鋳型なので、専 門 的 に は 同 笵 ) の「 禽 獣 葡 萄 鏡 」。 お 読 み に な っ た 方 は( ま だ と い う 方 も ) どのような鏡を思い浮かべたでしょう か?以下、蛇足とは思いつつも「禽獣 葡萄鏡」について、すこし詳しくみて いきたいと思います。

 

◇虚実のさかい

  大山祇神社には、斉明天皇が奉納し たと伝わる「禽獣葡萄鏡」が実在しま す。一方で、天川村とトルファンの鏡 はフィクションです。   しかし、トルファンは前述したよう に唐の直轄支配地となったので、その 時期の墳墓から出土しても不思議では ありません。例えば、タクラマカン砂 漠南縁の新疆ウイグル自治区ホータン ( 可 敦 の 出 身 地 で す ) の ニ ヤ 遺 跡 か ら は、 漢 代 の 中 国 鏡 が 出 土 し て い ま す。 海獣葡萄鏡も、遠く中央アジア地域で も出土しており、シルクロード交易に より、多くの文物が広範囲に移動して いました。また、天川村の鏡は、作中 で某古墳出土とされていますが、高松 塚古墳出土鏡の存在を考えれば、これ も「ありえそう」です。   このように、本作中には「ありえそ う」なフィクションが巧みに織り込ま れており、リアリティを醸し出してい ます。どこまでが事実で、どこからが フィクションか、 それを探求するのも、 考古学ミステリーの楽しみ方のひとつ かもしれません。

 

◇鏡の故郷と時代背景

  「 禽 獣 葡 萄 鏡 」 で す が、 日 本 で は む しろ「 海 かいじゅう 獣 葡萄鏡」の名で知られてい ま す。 ま た、 中 国 で は「 瑞 ずいじゅう 獣 葡 萄 鏡 」 とも呼ばれており、 鏡 きょうはい 背 (鏡面の裏側) に、 獅 し し 子 ・ 天 て ん ま 馬 や 鳳 ほうおう 凰 など禽獣や、 チョ ウチョやトンボ、そして絡み合った葡 萄房と 蔓 つる 、 唐 からくさ 草 など動植物の文様を配 した大変優美な造形の鏡です。   葡萄文の鏡は、中国の唐で七世紀の 半 ば 過 ぎ か ら 流 行 し ま す。 こ の 時 期 は、 中 国 史 上 随 一 の 善 政 と し て 著 名 な「 貞 じょうがん 観 の 治 ち 」 で 知 ら れ る 太 た い そ う 宗 が 崩 御 し、 後 に 武 ぶ し ゅ う 周 を た て る 則 そ く て ん ぶ こ う 天 武 后 が 権 力 を 握 り 始 め た 頃 に あ た り ま す。 太 宗 の 晩 年 に あ た る 6 4 0 年、 唐 は ト ル フ ァ ン に 栄 え て い た 麹 き く し 氏 高 こうしょうこく 昌 国 を 攻 め 滅 ぼ し、 安 あ ん せ い 西 都 と ご ふ 護 府 を 設 置 し て 西 域 経 営 の 拠 点 と し ま し た。 ト ル フ ァ ン の 名 産 品 と し て 古 く か ら 葡 萄 が 有 名 で す が、 鏡 に 葡 萄 文 が 採 用 さ れ た の は こ の よ う な 状 況 も 影 響 し た の か も し れ ま せ ん。 当 時 と し て は 異 国 情 緒 あ ふ れ る 最 新 デ ザ イ ン で、 唐 代 を 通して愛好された鏡です。

 

◇海を渡った鏡

  海獣葡萄鏡は、考古・歴史ファンに とっては、三角縁神獣鏡とならんで知 られている鏡です。壁画で有名な明日 香 村 高 松 塚 古 墳 で も 出 土 し て い ま す。 その他、法隆寺五重塔心礎出土のもの などがあり、奈良時代の遺跡を中心に 出土します。また、正倉院宝物と千葉 県 香 取 神 宮 の 神 宝 に も 含 ま れ て お り、 この2面は同型鏡とされています。遣 唐使などがもち帰った優品がある一方 で、鋳型の一部が明日香村飛鳥池遺跡 から出土していることから、国内でも 複製品が製作され、貴族達の手元で愛 でられたようです。 執筆者紹介 絹畠 歩 調査課 / 主任技師 ○古墳時代を専門と する。陶棺好き。 持田 大輔 企画課 / 主任研究員 ○東アジアの金属器 研究。隋唐鏡好き。 左:海獣葡萄鏡(橿考研附属博物館寄託品) 下:トルファンの葡萄棚通り(筆者撮影) ミステリー小説からみた 考古学の世界(2)

「禽獣葡萄鏡」を肴に小説を愉しむ

 

◇禽獣葡萄鏡を鑑賞する

  大山祇神社鏡は神社の宝物館に、高 松塚古墳出土鏡は、奈良文化財研究所 飛鳥資料館に展示されています。 また、 橿考研附属博物館には、高松塚と同型 の鏡が展示されているので、是非ご覧 ください。本物に触れ、具体像を知る こ と で、 『 キ ト ラ・ ボ ッ ク ス 』 を よ り 味 わ い 深 く 読 め る こ と 請 け 合 い で す。 (持田)

(14)

周原遺跡  

陝西省宝鶏市

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齊藤 希 

調査課 / 技師

  安 西 の 東 ら か 市 鶏 宝 る あ の 跡 遺 原 周 、 は 帯 一 た め 含 を 市 関 中 れ ば 呼 と 原 平 、 降 以 周 は 中 関 。 す ま 秦 ・ 漢 ・ 隋 ・ 唐

中 国

あたらしい研究と

遺 跡

 出会いをもとめて

(15)

チャーキュウ遺跡

 

クアンナム省ズイスエン県

 

◇遠くて近いベトナム

  東南アジアの南シナ海に面したベト ナム社会主義共和国。近年、日本との 経済交流が盛んになりましたが、その 歴 史 文 化 に 関 し て は、 残 念 な が ら ま だ よ く 知 ら れ て は い ま せ ん。 そ こ で、 フォーとアオザイだけではない、ベト ナムの奥深い歴史文化の一端を、注目 遺跡を介してご紹介しましょう。 インドに起源をもつ土器も出土します が、 印 いんもんとう 紋陶 や人面がデザインされた瓦 に加え、レンガと粘土を使った壁の構 造などに、中国やその支配下にあった ベ ト ナ ム 北 部 と の 繋 が り を 示 す も の が 目 立 ち ま す。 チ ャ ン パ 王 国 は ヒ ン ドゥー教国家と思われていますが、当 初は中国の影響が色濃かったのです。

 

◇チャンパ王国

  南北に細長いベトナムは、山海の産 物が豊富なことから、多くの人々を惹 き、北からは中国文化が、南からはイ ンド文化が波及しました。

 

中 国 の 記 録 に 邪 馬 台 国 が 登 場 す る 頃、中国支配下の 日 にちなん 南 郡(ベトナム中 部)では豪族が独立し、 林 りんゆう 邑 (チャン パ王国)を建国しました。チャンパ王 国は、はじめ中国と交流が盛んでした が、次第にヒンドゥーの影響下に入り ました。国内では王朝が交代しながら も、 対 外 的 に は 北 の 大 越 や 西 の ア ン コール王朝等と争い、 15世紀までベト ナム中部一帯を支配しました。   チャンパ王国の文化は日本にも伝え られました。奈良時代には、林邑出身 の僧 仏 ぶってつ 哲 が、東大寺大仏の 開 かいげんほうよう 眼法要 で 林 りんゆうがく 邑楽 を奉納しています。

 

◇古代から中世までの旅路

  ベトナム中部の玄関、ダナン国際空 港 か ら チ ャ ー キ ュ ウ 教 会 ま で、 車 で 1 時 間。 礼 拝 堂 を 目 指 し 丘 を 登 る と チャーキュウ遺跡の城壁と聖山マハー パルヴァタを一望できます。教会から 西 へ 車 で 1 分 の 所 に あ る ズ イ ス エ ン 県 サ ー フ ィ ン・ チ ャ ン パ 博 物 館 で は、 チャーキュウ遺跡の出土品に出会えま す。さらに博物館から 30分でミーソン 聖域に到着。   遺跡を見学後は来た道を戻り、ホイ アン市へ。中世の港町の雰囲気が残る 旧市街は、夜の風景が美しいことで知 られています。きっとゆったりとした 時間をお過ごしいただけるでしょう。   ベ ト ナ ム の 古 代 か ら 中 世 へ の 旅 を、 ぜひご体験ください。 チャーキュウ遺跡から 聖山マハーパルヴァタを望む ミーソン聖域の一部 ○ 愛知県出身。 ○ 早稲田大学文学研究科博士課程 満期退学。 ○ 研究資料収集のため、ハノイ国 家大学に 2013 ~ 2015 年の 2 年 間留学。 ○ 研究テーマは、ベトナムの甕棺 墓の起源から終焉について。 プロフィール

す ず き

木 朋

と も み

調査課 / 技師

 

◇王国の都

  チ ャ ン パ 王 国 の 初 期 の 都 城 は、 チャーキュウ遺跡だと考えられていま す。遺跡は東西約1500m、南北約 550mの長方形の城壁で囲まれてい ます。北壁の中央辺りに、ブゥチャウ という小高い丘があり、現在は教会と なっています。丘の上に建つ礼拝堂へ と通じる階段を上りきると、遺跡の全 体を見渡すことができます。東と南に は 草 木 の 茂 る 城 壁 が 田 園 の 中 を 走 り、 南西にはチャンパ王国の聖山、マハー パルヴァタを望みます。   遺 跡 で は ク ン デ ィ( 水 差 し ) な ど、

 

◇王国の聖地

  チ ャ ー キ ュ ウ 遺 跡 か ら 南 西 に 14㎞、 木々に隠された山中にミーソン聖域は あります。緻密な文様で飾られ、苔む したレンガ 祠 し ど う 堂 が立ち並ぶ姿は、聖域 にふさわしい雰囲気です。王国は遷都 を繰り返しましたが、ミーソン聖域は 紀元後4世紀から900年ほど、変わ らずに聖域であったと考えられます。 残念ながら、戦火で遺跡の一部が破壊 されましたが、現在は遺跡の崩壊を防 ぐ た め の 国 際 協 力 に よ る 修 復 が 行 わ れ、美しい姿が保たれています。

ベトナム

(16)

飛鳥川 曽我川 葛城川 飛鳥川 寺川 特別史跡 藤原宮跡 至 京都 特別史跡 本薬師寺跡 ◁ ◁ 橿原考古学研究所        橿原考古学研究所     附属博物館 橿原神宮 橿原公苑 野球場 陸上競技場 体育館 畝傍御陵前駅 東口 西口 近鉄 橿原線 近鉄 南大阪線 大和八木駅 大和高田バイパス 京奈和道 ▲畝傍山 ▲耳成山 JR 万葉まほろば線 畝傍駅 中和幹線 深田池 近鉄 大阪線 至 南阪和道 至 桜井 至 大阪 神武天皇陵 東口   橿原神宮前駅中央口 西口 四条 東 ▷ ◁ 西 橿原考古学研究所・附属博物館 最寄駅  近鉄畝傍御陵前駅 南西 徒歩 5分  近鉄橿原神宮前駅 北  徒歩 15 分 室生 QR Ar ch ae ol ogica l Instit ute of Kashihara , N ara pr efe ctu re

催 し 案 内

博物館 QR 研究所 QR 『橿考研通信』  Vol.3 平成 29 年 6 月 9 日 編集・発行:奈良県立橿原考古学研究所       奈良県橿原市畝傍町一番地       http://www.kashikoken.jp ◇期間   平成 29年 10月 7日(土)~   11月 26日(日) ◇内容   三角縁神獣鏡 33面の出土をはじめとする天理市黒塚古墳      の調査成果は、古墳研究に様々な問題を提起しました。      発掘調査から 20年となる本年、進展した研究成果に基づ      き、その全貌を紹介します。ご期待ください。 ◇目的   隊員になって、橿考研の発掘に参加し、考古学を体験し      てみませんか。条件は 18歳以上(高校生等の昼間就学が      優先される方は不可)で、屋外作業が可能な健康な方 ◇募集   15名(多数の場合は抽選)      詳細は橿考研ホームページ http://www .kashikoken.jp/ で      申し込み方法   往復はがき   氏名・連絡先・年齢記載              申し込み期限   平成 29年 6月 23日(金)消印有効      申し込み先    奈良県橿原市畝傍1番地           橿原考古学研究所「市民発掘隊」係宛 ◇養成講座 (全日程履修必須)        期間   平成 29年7月 24日(月)~   28日(金)

平成

30年、橿考研は創立

80周年を迎えます

●橿考研創立 80周年プレイベント   附属博物館秋季特別展

 

   

黒塚古墳のすべて

●橿考研

「市民発掘隊」第2次隊員募集

◇協力   奈良県内市町村教育委員会・奈良文化財研究所・東大寺 ◇期間   平成 29年 7月 15日(土)~   9月 3日(日) ◇内容   三宅町瓢箪山古墳の埴輪等、奈良県内の平成 28年度の発      掘成果が、一堂に結集。      4回開催の土曜講座では、主要な発掘を担当者が解説し      ます。乞うご期待。 ◇ 詳 細   橿 考 博 ホ ー ム ペ ー ジ   http://www .kashikoken.jp/museum/ をご覧ください。 ●橿考研   附属博物館     ―2016年度   発掘調査速報展―  

「大和を掘る

35

◇期日   平成 29年 7月 8日(土) 13時   ~   15時 30分 ◇場所   橿考研   室生埋蔵文化財整理収蔵センター   講座室 ◇交通   近鉄大阪線   室生口大野駅   南東徒歩 15分(駐車場有) ◇講師   高橋   京子氏 ( 大阪大学総合学術博物館   准教授 )       演題「地域文化力と薬草栽培の叡智:        森野旧薬園から発信する生薬国産化」      福田さよ子氏(橿考研   共同研究員)       演題「古墳時代の木器生産と宇陀市谷遺跡」 ●室生埋蔵文化財整理収蔵センター   宇陀文化財講座第7回     

「宇陀の考古と寺社・仏教彫刻(1)

参照

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