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奈良県立橿原考古学研究所編集発行逐次刊行物第 3 号 目 次
Archaeological Institute of Kashihara, Nara prefecture
あなたと遺跡の新しいつながり方をみつける情報紙
・奈良の世界遺産と考古学(3)
大峯奥駈道 弥
み せ ん山~太
た い こ古の辻~前
ぜ ん き鬼
・奈良考古情報 新発見 飛鳥時代の巨大古墳 ―小
こ や ま だ山田古墳―
・ 国際会議『シリア世界遺産の次世代への継承を目指して―
パルミラ 奈良からのメッセージ』のご案内
・橿考研の所員と一緒に遺跡をめぐり、考古学を楽しみませんか
・
ミステリー小説からみた考古学の世界(2)池澤夏樹著『キトラ・ボックス』を読む
絹畠 歩・持田 大輔
・考古学研究交流
「探訪 アジアの注目遺跡」
中国 周原遺跡
齊藤 希
ベトナム チャーキュウ遺跡
鈴木 朋美
・催し案内
表紙写真:世界遺産 大峯奥駈道 椽の鼻付近の断崖と北の八経ヶ岳2. 天然記念物 オオヤマレンゲ
八経ヶ岳 → 明星ヶ岳→ 五鈷嶺 → 仏生嶽 → 孔雀岳 → 山上ヶ岳 →1. 山上ヶ岳と八経ヶ岳以南の大峯奥駈道 :(南の釈迦ヶ岳より)
弥山以南の奥駈道
3. 五鈷嶺と仙宿跡 (南から)
弥 み せ ん 山 (1895m) 以南の奥駈道は、 近畿で最も高い山稜に沿って進みます (写真 1)。約 20分で至る 八 はっきょう 経 ヶ岳(仏 経 嶽・ 1 9 1 5m ) は、 近 畿 最 高 峰。 周囲は、天然記念物の 仏 ぶっきょうがだけ 経 嶽 原始林 ・ オオヤマレンゲ自生地です。オオヤマ レンゲは天女花ともいわれ、白い花が 7月上旬頃に開花します(写真 2)。 明 みょうじょう 星 ヶ 岳( 1 8 9 4 m ) ま で は、 緩やかな下りです。天川村川合への分 岐点である弥山辻を過ぎ、稜線の西に 撮影 森下惠介氏 楊子宿跡→シリーズ
奈良の世界遺産と考古学 第 3 回大峯奥駈道(3) 弥山 ~ 太古の辻 ~ 前鬼
4. 椽の鼻西斜面の岩頭とヤマツツジ
5. 両部分けと蔵王権現像
沿って 禅 ぜ ん じ 師 の森を南へ進むと、はるか下 まで崩落した斜面の頂部にでます。眼前 に 五 ご こ の み ね 鈷嶺 (写真 3)の岩頭をみつつ、崩 落部を上に迂回し、五鈷嶺の岩の間をぬ けて下ると、 仙 せんしゅく 宿 跡の平場です。再び稜 線の西に沿って南下し、舟の 多 た わ 和 を過ぎ てピークを東に巻き、稜線に戻ると 楊 よ う じ 子 宿跡です。南に避難小屋があります。 避難小屋から道は登りとなり、仏生 嶽(1805m)の稜線の西に取りつ きます。仏生の 横 よこがけ 駈 とよばれ、苔むし た岩溜りの上を飛び石のようにして通 り過ぎていきます。緩やかな尾根道に でて南に進むと、東わきに鳥の水とい う水場があります。 孔 くじゃくだけ 雀岳 (1779 m)の西を巻いて進み、孔雀の 覗 のぞき とい う絶壁の上をぬけます。 急斜面を登ると、釈迦ヶ岳(1800 m ) の 北 稜 で す( 写 真 6)。 垂 直 に 近 い鎖場を上がり、馬の背とよばれる岩 稜を横渡りすると、斜面に這うように 幹をのばす樹林へ入ります。道は急傾 斜 の 上 に 踏 圧 で 深 く え ぐ ら れ て お り、 ロープや木の根につかまりながら山頂 を目指します。 釈迦ヶ岳山頂には、 強 ごうりき 力 の岡田正行 が担ぎ上げたという 釈 し ゃ か に ょ ら い 迦如来 像が立っ て い ま す( 写 真 7)。 山 頂 に は か つ て 仏堂があり、部材の飾金具等が散布し ています。 西 尾 根 へ 下 り、 十 津 川 村 旭 の 林 道 へ の 分 岐 点 か ら 南 へ 笹 の 中 を 下 る と、釈迦ヶ岳から深仙宿
笹に被われた尾根道が終ると、 椽 えん の 鼻とよばれる痩せ尾根です(写真 4)。 岩頭を巻いて鎖場を下り、 釈 し ゃ か 迦 ヶ岳の 北稜裾に取りつく道です。最初に表れ るのが、 両 り ょ う ぶ わ 部分 けといわれる巨岩です (写真 5)。頂部に亀裂があり、この岩 より北が 金 こんごうかい 剛界 、南が 胎 たいぞうかい 蔵界 とされて います。 その外周を巡って鎖場を降り、 さらに 弥 み ろ く い わ 勒岩 の東裾まで下って東に迂 回します。そこから杖捨てとよばれる8. 深仙宿 灌頂堂
6. 釈迦ヶ岳北稜
9. 大日岳北のブロッケン現象
撮影 橋本裕行氏 深 じんせん 仙 宿 (約1500m) です (写真 8)。 灌 かんじょうどう 頂堂 がいまも残り、周囲にはいくつ もの建物跡の平場があります。平場の 東北端に 香 こうしょうすい 精水 があり、岩間から水が したたり落ちています。7. 釈迦ヶ岳の釈迦如来像
太古の辻から前鬼へ
深 仙 宿 の 南 の ピ ー ク に つ づ い て、 大 だいにち 日 岳(1568m)があります(写 真 10)。 岩 場 の 鎖 場 修 行 で 有 名 で し た が、 岩が緩み、近年は中止されている 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ようです。岩場を渡りながら下ってい く と、 太 た い こ 古 の 辻 で す( 写 真 11)。 こ れ より以南が南大峯奥駈道です。明治以 後に廃れてしまいましたが、玉岡憲明 氏らの新宮山彦グループの努力で、復 興しました。 前 ぜ ん き 鬼 に は、 太 古 の 辻 か ら か ら 東 へ、 深い谷を下ります。登山道として木階 段が整備されていましたが、紀伊半島 大水害で部分的に流出し、沢への出入 りは古来の姿に戻っています。下りの 途 中 の 両 り ょ う ど う じ 童 子 岩 で は、 「 8」 字 に 岩 を 巡る修行がおこなわれます(写真 12)。 さらに下って、 橡 とち の巨樹の中をぬけ、 白い岩の涸れ沢を過ぎると、前鬼の集 落 跡 に 入 り ま す( 写 真 13)。 奥 駈 道 は 石畳の道へと変わり、周囲には宿坊の 跡を示す石垣が多数残ります。かつて 前 鬼 に は、 五 ご き つ ぐ 鬼 継 ・ 五 ご き く ま 鬼 熊 ・ 五 ご き じ ょ う 鬼 上 ・ 五 ご き じ ょ 鬼助 ・ 五 ご き ど う 鬼童 の 5家がありましたが、12. 両童子岩
14. 前鬼 行者堂
*訂正とお詫び 第 1号 5頁上段写真 (誤)大峰山寺本堂→(正)金峯山寺本堂 第 2号 6頁上段 (誤)上北山村前鬼の小仲坊 →(正)下北山村前鬼の 小 お な か ぼ う 仲坊 第 2号 8頁写真 12 (誤)仏性ヶ岳→(正)仏生嶽 大 変 ご 迷 惑 を お か け し ま し た。 訂 正 し て お 詫 び 申し上げます(編集担当)11. 太古の辻
13. 前鬼の石畳と宿坊跡
現在は五鬼助家 61代当主の五鬼助義之氏 が守る 小 お な か ぼ う 仲坊 が残るのみです。 5月中旬 には、モミジの赤い若葉に映える 行 ぎょうじゃどう 者堂 をみることができます(写真 14)。 (次号は、太古の辻~ 玉 た ま き 置 神社) 撮影 橋本裕行氏10. 大日岳の行場
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小山田古墳
新発見
飛鳥時代の巨大古墳
―
小
こ や ま だ山田
古墳―
明日香村川原
1. 小山田古墳の現状
南西から2. 奈良のなかの小山田古墳
3. 小山田古墳と調査地点
古墳の推定範囲 地図 QR「小山田遺跡」の発見
平成 27年1月、明日香村川原におい て 新 た な 巨 大 古 墳 が 発 見 さ れ ま し た。 その後の継続調査で、内容が少しずつ 明らかとなってきましたので、これま での成果をご紹介します。 小山田古墳発見の契機は、昭和 47年 12月にさかのぼります。学校敷地の工 事で、掘りだされた土に木簡らしい木 片があるとの連絡が、学校から橿考研 にありました。所員が現地で確認した ところ、まさしく木簡でした。もとの 地形にあてはめてみると、木簡は南に のびる尾根の東側の谷底から出土した ものでした(第1次調査) 。 学校の方の機転で発見されたこの遺 跡は、 「小山田遺跡」 と命名されました。 木簡の内容から、藤原京の時代の役所 に関係する遺跡と考えられました。遺跡から小山田古墳へ
その後も、 学校内の施設工事に伴い、 いくどか発掘調査がおこなわれました が、顕著な遺構は検出されてはいませ奈良考古情報
ニュース
ホットで はっとする 発掘成果5. 小山田古墳の北裾の石積みと北側の掘り割りの石貼り
6. 小山田古墳の埋葬施設の痕跡
垂直写真 上が北7. 小山田古墳の埋葬施設の痕跡
南東から 羨道壁石の抜き取り穴 羨道壁石の抜き取り穴 羨道床下の排水溝 羨道壁石の抜き取り穴 羨道床下の排水溝 羨道壁石の抜き取り穴んでした(第2~4次調査) 。 転 機 は 平 成 26年 11月 に 訪 れ ま し た。 学校の校舎のひとつが、改築されるこ とになり、発掘調査が実施されました (第5・ 6次調査) 。 調査を開始してすぐに、人頭大の石 が並んで出土しはじめました。調査を 進めた結果、石積みを伴う大規模な掘 り割りでした。掘り割りは東西に直線 にのびており、 約 48m以上ありました。 掘り割りの北斜面には、飛鳥周辺にあ る 石 せきえいせんりょくがん 英閃緑岩 をならべ、掘り割り側に 平坦面を向けて貼っています。掘り割 りの底には、斜面と同じ石英閃緑岩を 敷 い て い ま す。 底 の 幅 は、 約 3.9m で、 南端の幅約 80㎝の範囲には、やや大き めの石を敷いています。 掘り割りの南側では、板石を階段状 に 積 ん で い ま し た。 板 石 の 基 底 に は、 吉野川流域の結晶片岩(緑泥片岩)を 用い、北面を揃えて2段に積んでいま す。その上には、宇陀市室生周辺でと れる室生安山岩を重ね、北面を約 10㎝ ずつ南へずらしながら階段状にしてい ます。 な手掛かりとなりました。遺跡は、南 へのびる尾根上に位置しており、掘り 割りは、尾根を切断してつくられてい ま し た。 ま た、 掘 り 割 り の 南 側 に は、 かつて四角い高まりがありました。出 土遺構と過去の地形から、掘り割りは 古墳の北辺を区画し、板石積みは古墳 の表面を化粧する石材と考えることが で き ま す。 飛 鳥 時 代 の 大 規 模 古 墳 が、 新たに発見された瞬間です。 平成 27年には、古墳の規模を明らか にする調査を、学校用地の西端でおこ ない、古墳をつくるにあたって、丘陵 地形を大規模造成した状況を確認しま し た( 第 7 次 調 査 )。 し か し、 依 然 と して様々な課題が残りました。古墳が つくられた時期は?古墳の規模は?本 当に古墳であると確定するための、決 定打が必要でした。 に、内法約 20㎝・深さ約 30㎝の南北方 向の石組暗渠を1基検出しました。遺 構の形状とこれまでに出土した遺構と の位置関係から、横穴式石室の羨道部 分で間違いありません。同時に、小山 田遺跡第 5次調査以降に出土した遺構 が、古墳のものであることが確定しま した。 なお、石材の抜き取り穴は、羨道の 東・西側壁の基底石が抜き取られたこ とを示しています。石室が既に破壊さ れていたことは残念であり、築造され た時期を明らかにすることは、今回も できませんでした。 南・東調査区全域において、墳丘盛 土を検出しました。このことは、今回 の調査区よりもさらに南に、板石積み による墳丘南辺が位置することを示し ます。また、墳丘盛土のなかから、軒 丸瓦の破片が1点出土しました。古墳 の築造時期を考える上で、大変重要な 資料です。 らに南へ位置することなどから、一辺 約 70mの方墳となる可能性が高まりま した。その規模は、同時期の古墳の規 模と比べても、最大級となります。 築造時期は、墳丘盛土のなかから出 土した軒丸瓦片の年代から、7世紀前 半以降であることがわかりました。ま た、掘り割りの大部分が、7世紀後半 には埋没していることから、飛鳥時代 のなかで、古墳の築造から埋没の過程 をたどれることもわかりました。 このように、これほどの巨大な古墳 の存在が、現在まで知られずにいたこ とになります。 小山田古墳については、 まだまだ課題が残されています。その 課題の1つ1つを明らかにすべく、今 後 も 継 続 し て 調 査 を お こ な う 予 定 で す。
ヒントは過去の地形
出土した遺構の性格は何かを考える 上で、学校建設以前の地形図が、大き古墳の埋葬葬施設を求めて
平成 28年は、先の疑問点を解明する べく、小規模ではありましたが、推定 される古墳の中心線上を発掘し、横穴 式 石 室 の 痕 跡 を つ い に 検 出 し ま し た (第8次調査) 。 南調査区において、 南北長 1.2m以上、 東西幅 1.4~ 1.5mを測る石材の抜き取り 穴 を 2 基、 抜 き 取 り 穴 の 間 の 西 寄 り古墳の規模と築造時期
第8次調査によって、古墳の規模と 築造時期を考えるための多くの手掛か りを得ることができました。 古墳の規模については、横穴式石室 の位置が判明したこと、墳丘南辺がさ アクセス ○近鉄吉野線 岡寺駅より東へ徒歩 25分 ○奈良交通 明日香周遊バス・赤かめ 橿原神宮前駅東口より 「野口」下車徒歩1分 ※見学上のご注意 小 山 田 古 墳 は、 学 校 敷 地・ 民 有 地 に あ る た め、 通 常 は 立 ち 入 り が 制 限 さ れ て い ま す。 古 墳 の 南 裾 を 走 る 県 道 1 5 5 号 多 武 峯 久 米 線 の 歩 道 上 か ら 全 体 像 を 観 察 で きますので、そちらからご覧ください。
橿考研の所員と一緒に遺跡をめぐり、考古学を楽しみませんか
遺跡・史跡の 楽しみ方国際会議『シリア世界遺産の次世代への継承を目指して
―
パルミラ
奈良からのメッセージ』のご案内
シリアでは、2011年からの内戦によ り、世界遺産パルミラをはじめとする多く の文化遺産が破壊や盗難の被害にあいまし た。シリアはいま、文化遺産を保存・修復 し、将来に継承するための国際協力を必要 としています。 今年、橿考研は国連開発計画の委託を受 けて、シリアの文化財関係者の人材育成事 業を実施します。そのキックオフ・イベン ト と し て、 国 際 会 議『 シ リ ア 世 界 遺 産 の 次 世 代 へ の 継 承 を 目 指 し て ― パ ル ミ ラ 奈良からのメッセージ』を以下のとおり開 催 し ま す 。皆 様 の ご 参 加 を お 待 ち し て い ま す 。 【主催】 シルクロードが結ぶ友情 プロジェクト実行委員会 奈良県立橿原考古学研究所 【後援】 国連開発計画 ・ 外務省 ・ 文化庁(申請中) 【日程】 平成 29年 7月 11日(火)〜 13日(木) 【会場】 奈良春日野 国際フォーラム甍 能楽ホール 【参加方法】 7月 11日のみ、往復はがき、または インターネットによる申し込みが必 要(定員300名・ 申込者多数の場 合は抽選) 。 ※ 往信裏面:氏名、住所、電話番号 返信表面:住所、氏名(宛名) ※ 宛先 〒634―0065 奈良県橿原市畝傍町1番地 橿考研 シリア国際会議係 ※ 6月 23日(金)必着 ※ インターネット申し込み情報 橿考研ホームページ ( http:// www .kashikoken.jp/ ) に詳細掲載 。 ▼ 12日(水) 9時 30分~ 17時 ◇専門家パネル 『パルミラ遺跡の現在から将来へ』 ◇発表者 ワリード・アスアド(フランス/パル ミ ラ 古 物 博 物 館 )、 オ マ ル・ ア ス ア ド (フランス/パルミラ古物博物館) 、ミ ハウ・ガウリコウスキ(ポーランド/ ワルシャワ大学) 、アンドレアス ・ シュ ミット=コリネ(ドイツ/ウィーン大 学) 、西藤清秀(橿考研) 他 ▼ 13日(木) 10時~ 17時 10分 ◇シンポジウム 『シリア文化遺産の次世代への継承』 コーディネーター : 常木晃 (筑波大学) 、 サミュエル ・ リズク(UNDPシリア) ◇発表者 マアムーン・アブドゥルカリーム(シ リ ア / 古 物 博 物 館 総 局 )、 ア フ マ ド・ ディーブ(シリア/古物博物館総局) 、 松 原 康 介( 筑 波 大 学 )、 黒 木 英 充( 東 京 外 国 語 大 学 )、 マ フ ム ー ド・ ハ ム ー ド(シリア/ダマスカス市古物博物館 局 )、 松 本 太( 外 務 省 駐 シ リ ア 臨 時 代 理大使) 他 ※国際情勢の変化等により、出席者が 変更になる可能性があります 。 ※各日、同時通訳あり。 11日~ 13日の 期間、能楽ホール前ロビーにて関連 団体による写真、物品の展示等あり 。 写真:シリア パルミラ古物博物館提供 パルミラ東南墓地 H 号墓 盗難にあった石棺彫像彫像プログラム
▼ 11日(火) 14時~ 17時 ◇オープン シンポジウム 『シリア文化遺産の保護と日本の役割』 ※開会挨拶 奈良県知事 荒井正吾 ※記念鼎談 マアムーン・アブドゥルカリーム(シ リ ア 古 物 博 物 館 総 局 総 裁 )、 青 柳 正 規 ( 東 京 大 学 名 誉 教 授・ 前 文 化 庁 長 官 )、 ヤマザキマリ(マンガ家) 司会 黒木英充 (東京外国語大学教授)ご紹介
文化遺産の 保護
橿考研の所員と一緒に遺跡をめぐり、考古学を楽しみませんか
ご紹介
遺跡・史跡の 楽しみ方◇橿考研には友の会「友史会」があります。
◇「友史会」は、研究所・友の会活動をとおして考古学に基づいて歴史を
学ぶことを目的とする、会費制会員による会員のための組織です。
◇会員になるために特別な資格は必要ありません。
◇会員になると、所員案内の遺跡めぐりや講演会、会報の送付、附属博物
館入館等の特典がたくさん!会員、随時募集中です。
創立
62年の友の会
昭和 30年から友史会は活動してきま した。大和歴史館の友の会として発足 し、歴史館が考古博物館と改名し、そ し て 橿 考 研 附 属 博 物 館 に な っ た 翌 年、 橿考研友史会となりました。橿考研と ともに活動をおこない、一昨年 60周年 を む か え ま し た。 現 在、 会 員 は 北 海 道 か ら 鹿 児 島 ま で 広 が り、 そ の 数 約 1400名。会員が集中する東京・名 古屋には支部をおいています。楽しい友史会の例会
友史会活動で最も楽しいのは、年に 7回開催される遺跡めぐりの会 (例会) です。奈良を中心とする近畿地方の遺 跡から、折々の考古学ニュースや研究 の進展を踏まえたコースを設定し、橿 考研の所員が解説員となって一日をか けてめぐります。 62年の会の歴史の中 では、同じ遺跡を再訪することがあり ますが、 考古学研究の進展をふまえて、 解説は常に最新のものです。 ※ 平成 28年度の例会実績 4月 銅鐸出土地を巡るⅤ 6月 三島古墳群を歩く 写真:友史会例会風景(橿考研所員による遺跡説明) 7月 泉州の古墳を巡る 9月 新庄・當麻の古墳を歩く 11月 横大路をあるく 12月 建国の聖地・橿原を歩く 2月 巨勢・葛城の境を歩く 例会以外に、希望者による国内遺跡 の旅も実施しています。平成 28年度は 『北信濃の遺跡を巡る』でした。
友史会の運営
友史会は、会員が会長をはじめとす る委員となって運営しています。橿考 研 は 所 長 以 下 が 顧 問 を 務 め る こ と で、 会員の皆様の考古学等のニーズにお応 えする体制をとっています。 皆様も友史会員になって、橿考研と 一緒に考古学を学び、 楽しみませんか。
入会のご案内
※詳細は、 友史会ホームページ ( http:// www .kashikoken-yushikai.org ) 参照のこと ※ 年会費 (4月から翌年3月の 1年) 一般4千円 学生2千円 10月以降入会の場合、一般2千円 ※ 振込み先 郵便振替口座 00940―8 ― 76410 奈良県立橿原考古学研究所 友史会池澤夏樹著『キトラ・ボックス』を読む
◇新たな考古学ミステリー
平成 29年 3月、考古学ミステリー界 に 新 た な 1冊 の 本 が 刊 行 さ れ ま し た。 池 澤 夏 樹 著『 キ ト ラ・ ボ ッ ク ス 』 ( K A D O K A W A ) で す。 池 澤 夏 樹 さ ん は、 第 98回芥川賞受賞作の『スティル ・ ライフ』など数々の著作があり、本作 は 平 成 26年 2月 刊 行 の『 ア ト ミ ッ ク・ ボックス』の姉妹編に当たります。 あらすじは、国立民族学博物館研究 員 の 可 カ ト ゥ ン 敦 が、 奈 良 県 天 て ん か わ 川 村、 愛 媛 県三枚の鏡がキトラ古墳と現代をつなぐ
大 おおやまづみ 山祇 神社、そして中国新疆ウイグル 自 治 区 に あ る 3枚 の 禽 きんじゅうぶどうきょう 獣 葡 萄 鏡 を め ぐって、大きな思惑に巻き込まれなが ら、前作『アトミック・ボックス』の 登場人物たちの力を借り、最終的にキ トラ古墳の被葬者を明らかにするとい うものです。冒険小説と古代史ミステ リーの要素がミックスされた内容であ り、物語の展開が非常にスピーディー で、楽しめるものになっていますす。◇物語中の橿考研
本作には、橿考研がかかわっていま す。冒頭、可敦が讃岐大学准教授の藤 波三次郎に誘われ、日月神社所蔵の禽 獣葡萄鏡の調査のため、橿考研へ赴き ます。畝傍御陵前駅の前で藤波と待ち 合わせ、 5分ほどで橿考研へ到着しま す。そして研究所の「 2階の小さな部 屋」へ案内され、資料の見学をおこな います。 実際の橿考研が資料見学用に使用し て い る 部 屋 は、 2 階 に は あ り ま せ ん。 2階は、多くの研究員の研究スペース があり、私の席も配置されている場所 です。物語が現実であれば、資料見学 へ来た 2人と私は、出会っていたのか もしれません。 物語の後半にも、橿考研が登場しま す。内容に大きく関わる部分ですので 詳 し く は 言 え ま せ ん が、 そ こ に は 研 究 員 が 2人 登 場 し ま す ( も ち ろ ん 架 空 の 人 物 で す が ) 。 橿 考 研 研 究 員 は、 講 演 会 な ど で 広 く 活 動 し て い ま す の で、 知 っ て い る 名 前 や 顔 を 思 い 浮 か べ て、 比較していだだければ、楽しめるポイ ントになると思います。物 語 の 途 中、 可 敦 は 岡 山 に あ る 鍛 か じ や さ こ 冶屋逧 遺跡の発掘調査現場にかくま わ れ ま す。 こ の 遺 跡 は、 美 作 市 中 尾・ 上 か み や 相 に位置する遺跡です。本作の連載 当時に岡山県教育委員会が調査してお り、 報 告 書 も 刊 行 さ れ て い ま す ( 岡 山 県 教 育 委 員 会 2 0 1 6 『 岡 山 県 埋 蔵 文 化 財 発 掘 調 査 報 告 』 2 4 2 ) 。 私 は 美作出身で、鍛冶屋逧 B1号墳でも出土 し て い る 陶 棺 を 研 究 し て い ま す の で、 より物語が身近に感じられました。
◇キトラ古墳の被葬者像
キトラ古墳の被葬者には、 高 た け ち 市 皇子 や 刑 おさかべ 部 皇子のような皇族、 阿 あ べ の み う し 倍御主人 のような有力豪族など、多くの見解が あ り、 一 致 を み て い ま せ ん。 本 作 で は、最終的にとある人物が禽獣葡萄鏡 と銅剣を手掛かりに被葬者として挙げ られます。読者ごとに、賛否両論が予 想されます。考古学の視点からは、何 を明らかにすればキトラ古墳の被葬者 がわかるのか、本作を読むことで考え るきっかけになるのではと思います。 4月 29日 に は、 国 立 民 族 学 博 物 館 ( 大 阪 府 吹 田 市 ) で、 池 澤 夏 樹 さ ん と、 国立民族学博物館吉本忍名誉教授、そ して橿考研の菅谷文則所長による刊行 記 念 ト ー ク イ ベ ン ト( 「 小 説 家 の 見 た 「キトラ古墳」と「国立民族学博物館」 ―小説『キトラ・ボックス』をめぐっ て 」) が 開 催 さ れ ま し た。 参 加 者 か ら の質問コーナーもあり、会場内は熱気 に包まれていました。 (絹畠) 上:近鉄橿原線 畝傍御陵前駅西口 橿考研まで徒歩5分の最寄り駅です。 下:愛媛県大三島大山祇神社(2017/04/02 撮影) この記事のために撮影してきました。 池澤夏樹著『キトラ・ボックス』 (株式会社 KADOKAWA より刊行)特 集
「考古学」の 楽しみ方◇
禽
きんじゅうぶどうきょう獣
葡
萄
鏡
本作のキーアイテムとして登場する 大山祇神社、トルファンの古墳、そし て天川村日月神社(実在しません)に 伝えられた同型(同じ鋳型なので、専 門 的 に は 同 笵 ) の「 禽 獣 葡 萄 鏡 」。 お 読 み に な っ た 方 は( ま だ と い う 方 も ) どのような鏡を思い浮かべたでしょう か?以下、蛇足とは思いつつも「禽獣 葡萄鏡」について、すこし詳しくみて いきたいと思います。◇虚実のさかい
大山祇神社には、斉明天皇が奉納し たと伝わる「禽獣葡萄鏡」が実在しま す。一方で、天川村とトルファンの鏡 はフィクションです。 しかし、トルファンは前述したよう に唐の直轄支配地となったので、その 時期の墳墓から出土しても不思議では ありません。例えば、タクラマカン砂 漠南縁の新疆ウイグル自治区ホータン ( 可 敦 の 出 身 地 で す ) の ニ ヤ 遺 跡 か ら は、 漢 代 の 中 国 鏡 が 出 土 し て い ま す。 海獣葡萄鏡も、遠く中央アジア地域で も出土しており、シルクロード交易に より、多くの文物が広範囲に移動して いました。また、天川村の鏡は、作中 で某古墳出土とされていますが、高松 塚古墳出土鏡の存在を考えれば、これ も「ありえそう」です。 このように、本作中には「ありえそ う」なフィクションが巧みに織り込ま れており、リアリティを醸し出してい ます。どこまでが事実で、どこからが フィクションか、 それを探求するのも、 考古学ミステリーの楽しみ方のひとつ かもしれません。◇鏡の故郷と時代背景
「 禽 獣 葡 萄 鏡 」 で す が、 日 本 で は む しろ「 海 かいじゅう 獣 葡萄鏡」の名で知られてい ま す。 ま た、 中 国 で は「 瑞 ずいじゅう 獣 葡 萄 鏡 」 とも呼ばれており、 鏡 きょうはい 背 (鏡面の裏側) に、 獅 し し 子 ・ 天 て ん ま 馬 や 鳳 ほうおう 凰 など禽獣や、 チョ ウチョやトンボ、そして絡み合った葡 萄房と 蔓 つる 、 唐 からくさ 草 など動植物の文様を配 した大変優美な造形の鏡です。 葡萄文の鏡は、中国の唐で七世紀の 半 ば 過 ぎ か ら 流 行 し ま す。 こ の 時 期 は、 中 国 史 上 随 一 の 善 政 と し て 著 名 な「 貞 じょうがん 観 の 治 ち 」 で 知 ら れ る 太 た い そ う 宗 が 崩 御 し、 後 に 武 ぶ し ゅ う 周 を た て る 則 そ く て ん ぶ こ う 天 武 后 が 権 力 を 握 り 始 め た 頃 に あ た り ま す。 太 宗 の 晩 年 に あ た る 6 4 0 年、 唐 は ト ル フ ァ ン に 栄 え て い た 麹 き く し 氏 高 こうしょうこく 昌 国 を 攻 め 滅 ぼ し、 安 あ ん せ い 西 都 と ご ふ 護 府 を 設 置 し て 西 域 経 営 の 拠 点 と し ま し た。 ト ル フ ァ ン の 名 産 品 と し て 古 く か ら 葡 萄 が 有 名 で す が、 鏡 に 葡 萄 文 が 採 用 さ れ た の は こ の よ う な 状 況 も 影 響 し た の か も し れ ま せ ん。 当 時 と し て は 異 国 情 緒 あ ふ れ る 最 新 デ ザ イ ン で、 唐 代 を 通して愛好された鏡です。◇海を渡った鏡
海獣葡萄鏡は、考古・歴史ファンに とっては、三角縁神獣鏡とならんで知 られている鏡です。壁画で有名な明日 香 村 高 松 塚 古 墳 で も 出 土 し て い ま す。 その他、法隆寺五重塔心礎出土のもの などがあり、奈良時代の遺跡を中心に 出土します。また、正倉院宝物と千葉 県 香 取 神 宮 の 神 宝 に も 含 ま れ て お り、 この2面は同型鏡とされています。遣 唐使などがもち帰った優品がある一方 で、鋳型の一部が明日香村飛鳥池遺跡 から出土していることから、国内でも 複製品が製作され、貴族達の手元で愛 でられたようです。 執筆者紹介 絹畠 歩 調査課 / 主任技師 ○古墳時代を専門と する。陶棺好き。 持田 大輔 企画課 / 主任研究員 ○東アジアの金属器 研究。隋唐鏡好き。 左:海獣葡萄鏡(橿考研附属博物館寄託品) 下:トルファンの葡萄棚通り(筆者撮影) ミステリー小説からみた 考古学の世界(2)「禽獣葡萄鏡」を肴に小説を愉しむ
◇禽獣葡萄鏡を鑑賞する
大山祇神社鏡は神社の宝物館に、高 松塚古墳出土鏡は、奈良文化財研究所 飛鳥資料館に展示されています。 また、 橿考研附属博物館には、高松塚と同型 の鏡が展示されているので、是非ご覧 ください。本物に触れ、具体像を知る こ と で、 『 キ ト ラ・ ボ ッ ク ス 』 を よ り 味 わ い 深 く 読 め る こ と 請 け 合 い で す。 (持田)流
交
究
研
学
古
考
︱
訪
探
跡
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周原遺跡
陝西省宝鶏市流
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調査課 / 技師中
関
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安 西 の 東 ら か 市 鶏 宝 る あ の 跡 遺 原 周 、 は 帯 一 た め 含 を 市 関 中 れ ば 呼 と 原 平 、 降 以 周 は 中 関 。 す ま 秦 ・ 漢 ・ 隋 ・ 唐中 国
あたらしい研究と遺 跡
出会いをもとめて ★チャーキュウ遺跡
クアンナム省ズイスエン県
◇遠くて近いベトナム
東南アジアの南シナ海に面したベト ナム社会主義共和国。近年、日本との 経済交流が盛んになりましたが、その 歴 史 文 化 に 関 し て は、 残 念 な が ら ま だ よ く 知 ら れ て は い ま せ ん。 そ こ で、 フォーとアオザイだけではない、ベト ナムの奥深い歴史文化の一端を、注目 遺跡を介してご紹介しましょう。 インドに起源をもつ土器も出土します が、 印 いんもんとう 紋陶 や人面がデザインされた瓦 に加え、レンガと粘土を使った壁の構 造などに、中国やその支配下にあった ベ ト ナ ム 北 部 と の 繋 が り を 示 す も の が 目 立 ち ま す。 チ ャ ン パ 王 国 は ヒ ン ドゥー教国家と思われていますが、当 初は中国の影響が色濃かったのです。◇チャンパ王国
南北に細長いベトナムは、山海の産 物が豊富なことから、多くの人々を惹 き、北からは中国文化が、南からはイ ンド文化が波及しました。中 国 の 記 録 に 邪 馬 台 国 が 登 場 す る 頃、中国支配下の 日 にちなん 南 郡(ベトナム中 部)では豪族が独立し、 林 りんゆう 邑 (チャン パ王国)を建国しました。チャンパ王 国は、はじめ中国と交流が盛んでした が、次第にヒンドゥーの影響下に入り ました。国内では王朝が交代しながら も、 対 外 的 に は 北 の 大 越 や 西 の ア ン コール王朝等と争い、 15世紀までベト ナム中部一帯を支配しました。 チャンパ王国の文化は日本にも伝え られました。奈良時代には、林邑出身 の僧 仏 ぶってつ 哲 が、東大寺大仏の 開 かいげんほうよう 眼法要 で 林 りんゆうがく 邑楽 を奉納しています。
◇古代から中世までの旅路
ベトナム中部の玄関、ダナン国際空 港 か ら チ ャ ー キ ュ ウ 教 会 ま で、 車 で 1 時 間。 礼 拝 堂 を 目 指 し 丘 を 登 る と チャーキュウ遺跡の城壁と聖山マハー パルヴァタを一望できます。教会から 西 へ 車 で 1 分 の 所 に あ る ズ イ ス エ ン 県 サ ー フ ィ ン・ チ ャ ン パ 博 物 館 で は、 チャーキュウ遺跡の出土品に出会えま す。さらに博物館から 30分でミーソン 聖域に到着。 遺跡を見学後は来た道を戻り、ホイ アン市へ。中世の港町の雰囲気が残る 旧市街は、夜の風景が美しいことで知 られています。きっとゆったりとした 時間をお過ごしいただけるでしょう。 ベ ト ナ ム の 古 代 か ら 中 世 へ の 旅 を、 ぜひご体験ください。 チャーキュウ遺跡から 聖山マハーパルヴァタを望む ミーソン聖域の一部 ○ 愛知県出身。 ○ 早稲田大学文学研究科博士課程 満期退学。 ○ 研究資料収集のため、ハノイ国 家大学に 2013 ~ 2015 年の 2 年 間留学。 ○ 研究テーマは、ベトナムの甕棺 墓の起源から終焉について。 プロフィール鈴
す ず き木 朋
と も み美
調査課 / 技師◇王国の都
チ ャ ン パ 王 国 の 初 期 の 都 城 は、 チャーキュウ遺跡だと考えられていま す。遺跡は東西約1500m、南北約 550mの長方形の城壁で囲まれてい ます。北壁の中央辺りに、ブゥチャウ という小高い丘があり、現在は教会と なっています。丘の上に建つ礼拝堂へ と通じる階段を上りきると、遺跡の全 体を見渡すことができます。東と南に は 草 木 の 茂 る 城 壁 が 田 園 の 中 を 走 り、 南西にはチャンパ王国の聖山、マハー パルヴァタを望みます。 遺 跡 で は ク ン デ ィ( 水 差 し ) な ど、◇王国の聖地
チ ャ ー キ ュ ウ 遺 跡 か ら 南 西 に 14㎞、 木々に隠された山中にミーソン聖域は あります。緻密な文様で飾られ、苔む したレンガ 祠 し ど う 堂 が立ち並ぶ姿は、聖域 にふさわしい雰囲気です。王国は遷都 を繰り返しましたが、ミーソン聖域は 紀元後4世紀から900年ほど、変わ らずに聖域であったと考えられます。 残念ながら、戦火で遺跡の一部が破壊 されましたが、現在は遺跡の崩壊を防 ぐ た め の 国 際 協 力 に よ る 修 復 が 行 わ れ、美しい姿が保たれています。ベトナム
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