智山学報第四十一輯
平 成四年三月
Kriyasamgrahapafijika
の
灌 頂 論
(
4
)
一第
四灌
頂
,和
訳
と註 解
一桜 井 宗 信
(日本学術振 興会特別 研究員) <論文要 旨>Kr
妙σ昭 那grα厩ρ槭 タ鳶σ(KS
)に よれ ば, 「第四灌頂」は 「智慧の浄化」 を目的とし,そ れ まで に説かれて き た儀 則に基づ い て 「言葉の み に よっ て」,「般若智灌 頂を実際に得て甚深広大な 理趣を 信解す る」弟子に対し て のみ与 えられる もの である。
KS
の 第四灌頂次第 (内容上6
節に分段出来る)の う ちの第2
節〜 第5
節で説かれ てい る事柄が, その 弟子に与え ら れ る 「言葉」に ほぼ沿っ てい る と考え られ る。 そ し てそ れ ら4 節の考察に よ り “ 先に行われた般若智灌頂で の性的瑜伽に よっ て汝は確i
か に倶生 歓喜 を体 験し た のだ”とい う承認の 「言葉」 が弟子に対 して与え られ た もの と 推 定される。 し か し こ こ での 「倶生歓喜」は灌頂とい う一儀 礼に於ける要素と して相対 化さ れてお り,そ れ を体験 した弟子は密 教 の法統を伝授さ れ た 「仏子 」, 「菩提に到る ま で有情 利 益を行」 うべ き存在と なっ たので あ る。
序
筆者
は今
まで にK
吻 45
岬g7
驫 砂 α祕
々‘ (以 下KS
)を 主 な資
料としなが ら, 無上瑜 伽 タ ン トラ階 梯の4
種 灌 頂 次第
の うち般若智灌
頂まで を論
じて きた。 本稿
で はその 最終 段 階である 「第
四灌
頂 」の 次第
に つ い て検討
する。紙 幅の
都
合でKS
及び比較 資 料と し ての2
文 献の校 訂テ クス トは別稿
に譲 り, 以下
で はそ れに基づ くKS
「第
四灌頂儀軌
」 の和 訳を提 示 し, 併せ て その 註解
を行い た い 。1
.Kriyasarpgrahapafijika
第
四
灌頂
儀
軌 和 訳
[1
コ 今 や智 慧を浄化
する ため に , 先に説か た儀
則に 基づ き, 般 若 智灌 頂を実 一33
一
Kriyasarpgrahapafijika
の灌 頂論(4
)(桜 井宗 信)際
に得た者に対しての み, 宝の如
き灌 頂であ り果である第
四灌 頂を説 示すべ し。 そ れ 以 外の 者に対
して は三昧 耶を毀
損 する恐 れがあるの で,〔
説示すぺ か ら〕
ず。ま た
〔
次の ように も〕
言わ れる :実
に, まだ灌頂
を授
か らない瑜
伽者
が瑜伽
者 たるこ とを望
むの は ,虚空
を握 り挙で 打っ た り幻の 水 を
飲
も う とする よ うな もの だ。 /1
/
従っ て先
に説参
れ た儀
則 通 りに灌
頂を授 けて か ら弟
子の 信解す
る とこ ろを 意に よっ て は っ きり
確
か め,広大
に し て甚深
なる理趣を信 解す る者に言葉
の み をもっ て宝の
如 き灌
頂を授 くべ し。 それ 以外の者に対 して〔
授
くべ か ら〕 ず
。 ノ2
/ と 〔説かれ る の である〕。「そ れで は一
体
どの ように して “ こ の 者は甚
深を信解
する者
であ
る” と知る の か」 と言 うな らば,答
え て曰 く煙に よ り火
〔
の 存 在〕
が知られ, また鶴に よ り水 〔の 存在〕が知 られ る ように,
賢
者達は菩 薩の種 姓を特 相か ら知る。 /3
/非 常に輝い た
顔
で歓喜
しつ つ喜
び で総 毛立た せ て い る弟
子を, 師は 明 らかに
見
抜い て摂 受 する。ノ
4
ノ
[2
](
i)
そ れ故に世 尊は 〔次の よ うに〕お っ しゃ っ た :この タ ン トラ で は 灌 頂は
3
種に区分 されてい る。〔
即ち〕 阿闍梨
・秘密
・1
般若智 〔
各灌 頂〕
であ り ,第
4
番
目 も そ れ と また同様
であ
る。 /5
// と。 微笑む こ と・ 見つ め合 うこ と・手を執 り合 うこと , 更にまた 男 女の 交 会に於い て, 歓 喜 ・ 最 勝
〔
歓喜
が生 じ〕
, そ してま た離 〔
歓喜〕
・倶
生〔
歓喜〕
も同
様
〔
に生 ずる〕
。ノ
6
/
多様
に於い て歓喜が, 異熟
に 於い て最勝 歓喜
が, 摩 滅に於い て離 歓 喜が ,そ し て
離
相に於い て倶 生歓 喜が〔
生ずる〕
。 ノ7
//多 様は抱 擁や接 吻な どの様々 〔な行為〕を 示 し , 異熟は そ れ と反 対に
智
を享 受す る こ とで あ り, 楽で ある。 /
8
/摩
滅は “ 我に よ り楽が享受
さ れ た” と省察
す る こ と と定義
さ れ,離相
は 一34
一智山学報第四十一輯
〔
以 上の〕
3
〔
種の 段 階〕
とは別の もの であ
り,貪
と離貪
とを離
れた状態
である。 /9
ノそれ 故に
〔
次の ように〕
言わ れ る :貪
も,離貪 も
, また〔
その〕
中間 も〔
倶 生 歓喜
と して は〕得
られ ない 。〔
これ ら
〕
3
つ を捨 離 し て い る か らこそ倶
生正覚
と言わ れ る。 //10
//圃 他な らぬ こ の 点の 意
味
す る所がG
π勿
邵 α 〃吻
漉 砌 ’rα でも〔
次の よ うに〕
説かれてい る :所 成 就 と
能
成就
との相応
が親 近
で ある と言わ れる。 金 剛杵
と蓮 華 との 相応が
近
成就
と言 わ れ る。 /11
/H
聯 字 とPhat
字 とを伴 っ た動かす こ とが成 就 と言わ れ,自
らの楽を本性 とし寂 静で あるもの が大 成
就
と言 わ れ るQ /12
/ 能 成 就 と所 成就
とが金 剛杵
の挿
入を行
うまでが歓喜
である。完
全に動かすこ と であ り苦提心〔
を 生ず
るに〕
到 る までが最 勝 歓喜
である。 消 え去
る こ と が離
〔
歓喜〕
で ある。〔
最勝 ・ 離〕 両 〔歓 喜〕の 間で楽を 本性とす る寂静な る もの が 生 じ た 時, 倶生歓 喜が 成就す るで あろ う, とい う意 味で ある。そ れだか らこ そ
〔
次の よ うに〕
言わ れる :そこ に は始め な く,
終
わ りもな く,〔
そ れ らの〕
中間 もな い。有
で も浬槃で もない 。 それこ そ
最勝
な る大楽で あり, 他で も自
で もない。/
13
/更
に〔
次の よ うに も〕
言われる :有
とは最 勝歓喜
で ある と言われ, また離貪
である か ら涅 槃である。 単 なる歓喜
が中
間で ありそ れ らを離 れた もの が倶
生〔
歓 喜〕
である。 ノ14
/また,
最
勝歓喜
が得
られ て多
異性を離 れた刹 那に , 教主 は おっ しゃ る で あろ う, “ 大 薩墟 よ大 楽を把 持 すべ し。 持 金 剛よ,
菩
提〔
を得る〕
に 到 る まで
有情
利益 を行え” と。 ノ15
ノ 云 々 と。(
v)
「で は一体何
故〔
灌
頂は〕
3
種に区分
され るの か 」 と言 えぽ, 答 えて 曰 く果と 因 とが 別 の もの では ない か ら,
先ず
3
種
で あると知 り, 〔果 た る 倶生歓 喜は〕 離
〔
歓喜〕
と〔
最
勝〕
歓 喜 との 間で明らか とな るの で4
種〔
と知 一35
一Kriy
五saTligrahapafijikti の 灌頂論(4)(桜井宗信)る
〕
。/
16
ノ
「で は何故 そ れ らの 間で 明らか に されるの か 」 と問 うな らば, く
持
金剛は, 最 勝〔
歓 喜〕
の 果て であ り, 離 〔歓 喜〕 との 間にある空に して 非空
な るもの であ る〉云 々 と説かれ て い るか らであ
る。 一 (1)(vi〕「
如何
に して “ 空に して非空
な るもの ” なのか 」 〔と問 うな らぽ, そ れに つ い て は〕
無 始無 終に し て寂 静で あり, 有 と非 有とを 自性と し, 不
壊
で ある最 高の存
在
であ
っ て,空
性と悲
心 との 不可分
であ
る もの が菩 提 心で ある と伝
え られて い る○
ノ 17 /
とい うの が宗義 であ る。圃 「そ れ は どの ような方 便に よっ て生 起せ しめ られ るの であろ うか 」
〔
と問う
な らぽ〕
, 〈曼
荼 羅輪
な どの方便
と,自加持次第
に よ っ て〉 と詳 細〔
に説かれ (2) て い る〕
。[
3
] そ し て これは我々 に よっ て は 明 らか に さ れ ない 。何故
か〔
とい えば〕
こ の
智
は 言説の表 現
域を越 えた対 象
であ
り自証
されるべ き もの で ある 。何
故 な らこれは一切智 智に等 しく加 持の対 象である か ら。
ノ
18
ノ
更に 〔次の ように も
〕
言 わ れ る :倶 生は
〔
これ〕
以外
に よっ て は表 現され ず, どこ に於い て も得
られ ない 。時
到っ て上師〔
に見 え〕
親 近 する こ とに よ り,福分
に基
づき自
ら知
るの であ
る。 ノ19
ノ大 福
分
を持
つ者達
へ の 上師 猊 下の 恩寵に よ り, 瑜伽
者に 言説の表現域
を越え た対象であ る智が生 ずる。 ノ
20
ノ
そ れ故に〔
次の ように〕 も言われる :楽
の 王者
に して唯
一者
であ り因に関
係せず
世々 に常に存在 する方, そ してまた話を され る時に 言葉を 欠い て お ら れ る よ う な 一 切 智 者 に 栄 え あ れ。 ノ
21
/そ れは他の タ ン トラ で も
〔
こ う〕
言わ れて い る : −36
一智山学報第四十一輯 そ れ は上
師
に よっ て説
かれず
, ま た そ れ は弟
子に よっ て知 られるこ と もな い 。〔
そん な〕
甘露
の 流れの 如 き倶 生は誰に対して, また どの よ うに 説 か れ ようカlio〃ク
22
ノ
覚知の 対 象で はない か ら言葉
を用
い た表現中
に は〔
現
わ れ〕
ず, 〔言 葉 よ り〕 遠 く離
れ てい るけれ ども, 事 柄を表 現する能 力を備えて い るの で 明 ら か に して くれ る上師は, 順に 彼 (=弟 子 )が悲心等の徳
を浄化
し た時
に,〔
そ れ ら〕
誠 信を有
する者達
の 心 に, 自ら直観
的心象
を刻み込む。 ノ23
ノ[
4
]「で は一体 菩 提心 を 円満 した
者
の 特 徴とは何か」 と問 うな ら ば, 次の よ うに言 わ れ る :諸 根は眠るが
如
くであ り, また意
は沈降
した如 くで ある。 真の 楽 と 一 体 となっ た
体
はあたか も行動 能 力を失っ たか に見
える。 /24
ノ根群
が沈 潜 し, 分 別は失われ, 有の 種 子 も 現上 し な い〔
状 態である〕
それは, 歓 喜の 光 輝 よ り成 り, 更に虚 空に等 しく, 鳴呼,
冷
涼 で 甘美
で あるQ
/ 25 ノ
諸
根が破
壊され 自 らの 本 性が滅 し た〔
状 態で ある〕 倶生 歓 喜の体を,友
よ,上師
猊
下に 明 らか に尋ぬべ し。 ノ26 ノ
そ れ故に こそ
〔
次の ように〕
言わ れ る :そ れ を生起 するや否や諸 対 象と同一 となっ て諸 根が
滅
する,更
にま た歓喜
せ る
勝者
の麗
しい体
で あり唯
一 の もの であ
るけ れども,諸賢者
の 胸に 秘蔵されて い る もの を 目覚めさせ る もの で もある
彼 〔
の菩
提心〕
に帰命
致 しま す。 /27
/ 従っ てこ こ 真の 楽に憩 う者は一切の 分 別を滅し た
覚
知を備
え, また行
うべ きこ とを成し
遂
げた知
者で もあ り, そ れ以外
の者
は家畜で ある。 ノ28
ノ何
卒 〔その ような家 畜 同然の者 達が〕 増
加せ ざらん こ とを。 [5
]そ れ故に
真
の 上師 方を お慶
こぽせ 申し上げ
て か ら, 良 き弟 子 達は 三身
中 一37
一KriyasarPgrahtipafijika
の灌頂論(4)(桜井宗信) に住
する大楽
の本質
を 自証
すべ し 。 匸6
]
以 上の通
り般若
であ
る良
き灌
頂 を得た行 うべ きことを成 し遂げ
た者
は,次
の よう
に言
うべ し。今
や我が出生は実 り多
きもの とな り, また我
が寿
生 も実
り多 き もの となれり。 今や仏の部 族に生まれ, こ の 時に 我は仏 子 と なれ り。
ノ 29 ノ
以上 が
第
四灌頂
の儀 軌で ある。ノ
ノ
H
.註 解
和 訳で 示 した よ うに, 筆 者の 理解に よれ ば 本 次第は 内容上 [
1
] 〜[6
]の6
節 (1) に分 け られる。 その構
成 及び記 載 内容
は先
の般若智灌頂
次第の場 合と同 じく,dGab
babi
rdo rje98
盈 妙 r盈 r’顕 (以下SP
)の第
四灌頂次第
と非常
に よ く(2) 一 致 ・ 対 応 し て い る 。
両 次
第
の骨格
と な っ て い る記 述は タ ン ト ラや論 書か ら引用された 偈頌であ り, そ れ らを対 照 してみ る とSP
:vv .7
−11
・35
に相 当する6
偈がKS
で は欠け て い る。 またその 他の部分
で もチ ベ ッ ト語
訳される段階
で の細
か い 相違
が僅
か に見 られる。 し か し後述
の よ うに, これ ら6
偈の有 無は両 次第
間に 本質
的な差異
を生み出す も
の で は ない。 この よ うな構
成を取
る文 献がA
厩 プッ盈 プ砂δ5α 一 〔4) muccaya (以下 λK
)な ど数本確認
され たの で, 本 灌 頂の 典型 的 な 構 成例の 一 つ と考えて よい であろ う。 (5)[
1
]は総
説であ り,第
四灌
頂が何であ
るか を, 他書
か らの引用偈
も交
えて簡
潔
に規定 し て い る。所説
を ま とめれ ぽ次
の ようになる : (1
)果であ り宝の 如 く尊い 。「
智
慧の浄化
」 を 目的とす る。(
3
)
先に説か れ た儀 則に基づ き, 言 葉の み に よっ て与え られる。(
4)般若智灌頂
を実
際に得
, 同時
に甚深広大
な 理趣
を信解
する弟
子 に の み 授け られる。 − 38 一智山学報第四十一輯
瓶 ・ 秘 密 ・ 般
若智
灌頂に身
・語
・ 心 の浄
化を対応さ せ る理解
は多
くの灌頂儀
軌
が説 くとこ ろである。 しか しの よ うに
第
四灌
頂を 「智慧
の浄化
」に当
て る仕
方は無 上 瑜 伽 父 ・ 母 両タ ン ト ラ に 基づ くと される何 れの儀 軌
中に も見
られず
, た だSekoddeSa
にの み確認され, 同タ ン ト ラを奉ず
るKalacakra
流儀
の影響
と も考 えられる。SP
の属
す 体系
に殆
ど を負
っ てい る本 次第
にあ っ て それに依 らない唯
一 の記述
であ
り,KS
第
四灌
頂 次第独 自
の特徴
と して注意
すべ き点で ある。を除 く
3
点は多 くの 儀 軌に 同様の規 定が 説かれ て お り, どれ も第四灌
頂 の 基本 的
な性格
と捉
え るこ とが出来
る。 こ れ らの意義
を考察す
る こ とが即ち本灌
頂
を明らか にす
るこ とに他
な ら ない の であ
る。特
に , そ れ が言葉
で伝
え られ る もの であ
るな らば,当然
その語
られる内容
が問われなけ れ ばな らない であ
ろ う。 しか し本
次第
の 中セこは 「その 説 示すべ き内容
は〜である」とい っ た形で それは 明示 されて い ない 。 従っ て他
の 方法に よ りそ れを推 定 しなければ な らない 。多
くの 灌頂儀
軌が こ の 「総説」に 相 当 する記 述 し か記さない た め, その 推定 が難しい 。 し か し本 次第の場 合は, [2
]以 下 の所 説を理解 する こ と で ,KS
・SP
系
の第
四灌 頂 次第
を最初に纏
め た 論 師(
以下 「KS
・5P
系 原著者
」 と呼 ぶ)
が意
図 して い た 〈弟
子に教誡
す べき
「言葉
」〉 の概略
を推察
出来
る と筆者
は考
えて い る。 そ こ で ひ と まず [
2
]
以下の検討
へ進
む こ とに したい 。[
2
]は先ず
「灌 頂は3
種である」 とい う規 定 を 基礎に置 きなが ら, そ れと4
種 灌 頂 体 系 と の 整 合を計る ((O
〜 (v )) 。 次にそ の 整 合化を利用 して, 灌頂 を 円 満 し た受 者の 到達
する境地 が倶
生 歓 喜に 他な らない 「空 悲不二 の菩
提心 」 で あ るこ とを 示 す ((Vi
))
。最後
に そ の菩
提心 の 生起
方 法を提示 す る (圃)。 (7) _(
i)
v・5
は何 らか の タ ン トラ か らの引
用の ように見受
け られる。AK
はHeva
一ガ
4皰 廓 擢 (以下HV
)所
説 とするが 同タ ソ ト ラ現行
テ ク ス トに は見
らず , む (8) し ろ 内容はGuhorasama
“7
’atantra (以下GS
)X
皿113
に 一致する。 こ こで 問題セこな る点
は第 四番 目 〔の 灌頂
〕
もまた, それと同様
である(
caturtharp tatpunas
tathE)
Kriyfisar
;igrahapafijikfi の湛頂論(4
)(桜井宗信) の 意味
する所で ある。筆者
は文脈
か ら判断
し て 「それ 」 が般若智灌頂
を指 して い る と解
釈する。 ま たそ う理 解 すれぽ, 本 灌頂が 「先に説かれた儀
則に基
づ」くも
の であ
る とす
る[1
]中の 規 定 と整 合する。従
っ て こ の偈
で は,第
四灌頂
と 般若智
灌 頂 とが 本質
的な差異 を持た ない ことが述べ られて い る こ とになる。は主に
HV
を引
用 しな が ら, 般 若智灌
頂の性 的瑜 伽 よ っ て四歓 喜 ・ 四刹 那が現証
される こ と を述
べ る。 v .6
は “微笑
〜男
女交会
” に “歓喜
〜倶
生歓喜
” を こ の順
で対応
させ る とい うの で はな く, “ 微 笑〜 男女交
会 ” とい う 表現 で象徴
され る般若智灌頂
の 性 的 瑜伽に於い て 四歓 喜が体 験 された こ とを明示 し て い る もの と考
える。続
くvv .7
,8
,9
は順にHVHiiig
,7
,8
の 引 用で ある。7
で 四歓 喜に 対 応す る四刹 那の存 在を述べ , 続 く8
・9
で その 四刹 那の 内容
を定 義 し ,倶
生 歓喜
が生 ず る 「離 相」 が他の3
刹 那 とは別であ り 「貪 と離 貪と を離 れた状 態」 である こ とを 示 す。そ れ故に “倶 生が
貪
・離貪
・ そ れ らの 中間
の いず
れ で もな い ” と説
くHV
Iviii32
が v.10
と して引
用 され る。 こ の場 合言 う まで も な く 「貪
」は最勝
歓喜 (
paramananda
), 「離
貪
」は離歓 喜 (
viramananda)
, 「そ れ らの中
間」 は 歓 喜 (ananda
) を そ れ ぞ れ意 味し て い るの で あ り, 四歓喜
内に 於 ける倶 生歓喜
の 超越
性 が 明示 されて い る。 圃で はGS
に 於い て もこれ と全 く同様に 四歓 喜の 現 証が説かれて い る とい うこ とを論 ずる。引
用 されてい るの は 同タ ン ト ラX
田176
,177
で あ り, 所 謂 「四支
成就法
」を説く偈
であ
る。2
偈の後
に付された解 説に よ れば 「親 近」 と 「近 成就」 が歓喜
に, 「成就
」 が最 勝 歓 喜に 「大 成就」 が倶生 歓 喜に それ ぞれ 相 当 する。 対 応する支分を 四支 中に持
た ない離歓喜
は 「消
え去
る こ と(
cyuti車
)」 と さ れ る が , 般若
智 灌 頂の過
程に 照 らして 見る と “倶 生歓 喜
を もた らした菩 提心 が金 剛 摩尼よ り消 え 去る こ と” を指して い ると捉え られ る。ま た倶 生 歓 喜が成 就 する 「両 者の 間に
於
い て (anayor madhye )」とは文 脈 上 “最勝歓喜
と離歓喜
の間
” と解
釈されるの で , 四歓喜
現証
の 順 位は く歓喜
→ −40
一智山学報第四 十一輯
最勝歓喜
ゆ倶
生 歓 喜→ 離歓 喜〉 となる 。 こ の順序
に関
して は後述
する。全
体
を通
し て 「四支
成就 法 」に よっ て も四歓 喜が成就される との 趣 旨であ り, 遅y
に特 徴 的 な凶歓醤
の体系
を もっ てGS
の 観 法の 再解 釈 を計 っ た もの とい える。 「KS
・SP
系 原 著者
」が 元来
GS
体 系に属 す第
四灌
頂 次第
と し て本次第
を著
L
た 可能 性を 示唆
し て い るとも考え られる。(
iv
)ex
再びHV
か らの 引用で構成
され, vv .i3
,14
,15
は順にHV
H
v68
,Iviii
34
,H
iii22
。23
(ab)
である 。apabhrarpga で綴られた v・
13
に出て くる 「初め 」, 「終わ り」 な ど は字
義 通 りの事
柄で は な く, 四歓 喜の 支分 と解 釈されて い る。続
けて置
か れ た v.14
及 び諸註
釈書
も参
照し て それ らの対応関
係 をま とめれば 次の 通 り :(
1
)
歓喜
:「中 間」.最勝歓 喜
:「初
め」 , 「有
」,離歓喜
:「終
わ り」, 「浬
槃」 こ れ らの 何れ で も ない 倶 生 歓 喜は 「大 楽」 に他な らず
それは最
勝 歓喜
の後
で得
られるの である(
v。15
)。 こ こ で も 〈最勝歓喜
→ 倶生 歓 喜〉 の 順 序が 示 唆され てい る点に 注意
したい。 なお v.15cd
の持
つ意義
につ い て は後述す
る 。(
v}
で は先ず
, その 冒頭で提
示 される 「何 故3
種に区分
されるのか 」 とい う問
い の 「3
種」 が何を指し て い るの か を 明 らか に して お く必要
が ある。 これ ま で の議
論で 「3
種」 が登場 し た の は, v.5
の “灌頂
次第
は3
種
で ある” とい う箇所
のみであ
るか ら, こ こ でも灌頂
次第
の数
が主題に なっ てい る もの として考
察
を進
め る。上 記の 問い に紺す る
答
とし て 出されて い る のが出典不 明の v.16
で あるQ 同偈前半
の論旨
は, こ こ で灌
頂の区分
が問題
に さ れ てい る と仮
定 する限 り “ 「果」 である倶 生歓喜
が 厂因 」としての瓶
〜般若智灌頂
に よ っ て生 ずる とは言 っ ても,般若智灌頂
の瑜伽
に於い て獲得
される の であ
る か ら両考
の問
に差異
は ない ◎従
っ て 灑 頂 次第は これ らの3
種と して 先ず定
め られ る ” とい うこ とに なろ うo一 方同偈後 半は文 脈 上國歓 喜を取上 げてい る とし か
考
え られず “ 倶生 歓 喜は そ れ 以外
の3
種歓喜
とは異
な り, 最勝 歓喜
と〔
離〕
歓喜
の 間で得
られ る第4
番 冒の歓喜
で あるか ら,4
種
と定ま る ” との趣
旨であ
ろ う。 つ ま り第
四灌
頂は窺 一41
一KriyEsarpgrahapafijikEの灌 頂論 (4)(桜井 宗信) 〜般
若智灌頂
に対
して第
4
で は な く , 歓喜
〜離
歓喜
に対
して第 4
で あるとい う こ とになる。 し か し これは 「果
」を 「因
」に含
め た前 半の 論議
と明 らか に矛盾
し てい る。v.
16
はその 内容か ら本来灌
頂の 区分
で は な く歓 喜の 区分を述べ た もの と推 定され “灌
頂 次第
は3
種
である” とい う規 定を こ の 偈か ら導
き 出 そ うとするこ と自体に 無理 がある。 し か し論
理的
な 不備
を犯
し て ま で,般
若智
灌 頂に於
い て 倶 生 歓喜
が得 られ 灌 頂 が完結
する こ とを示そ うとする仕方に 充分 注意したい 。(v〕は続い て , 倶生
歓喜
が最
勝歓喜
と 〔離
〕 歓 喜 との 間で現 証されるとい う上記
v・16
後半
の所説
を証 明す
るた め に ,HVHv70
後
半に対 応 する 一文 (下線
部(
1
)
)を教証
として挙
げる。言 うまで も な く同文 中では 「空に して 非空な る もの」 が倶生 歓
喜
を意味
し て い る か ら,諸
歓喜
は く最勝歓喜
→倶
生歓喜
→ 離 歓喜〉 の順で体 験 される こ とに な る。 一 方先に見た岡での 議 論に よ り〈歓 喜→ 最 勝歓喜
→ 倶生 歓喜〉 の順 位 も確定
してい る。 従 っ て 本次 第に於 ける四歓喜
の現証
順は 〈歓喜
→最
勝歓喜
→倶
生 歓喜
→離
歓喜
〉 となる 。既に指 摘されてい る通 り,
HV
は四歓喜
の 順番
を次
の2
通
りの 在 り方で記 し てい る :(
1)歓喜
・最勝歓喜
・ 離 歓 喜 ・ 倶生歓喜
.(
2
)歓喜
・最勝歓喜
・倶
生歓喜
・ 離 歓喜
.本次第
でも
その根
拠 とな る双方
か ら偈 を引
用 し てい るの で,今見
てい る よう
に体験時
の順 位 とし て(2
)が示 される一方で, vv ・6
,7
で は(1
)
の順で紹 介 され て い る。 し か しこ の2
偈は本 次第
に限っ て言 えぽ, あ くまで四 歓喜
の 各 支 分を紹
介 する た め に 引用さ れた の で あっ て , 四歓喜
現証
の 仕 方に2
種がある こ とを述aq
べ てい るの で は ない 。 単に各 歓喜
を述
べ る際
に は,の方が,
倶
生歓
喜がそ れ 以外
の3 種
とは全 く異なる究 極 的な境
地である こ とを際立 た せ る と判 断された の で あろ う。では,
倶
生歓喜
が 「空
に して非
空 なる もの 」で ある とする(v)
の後
半を承 け て ,更
にそれ が 〈空悲
不 二の菩提
心 〉 であ
る との 「宗義
」 を 明 らかに す る。 同 一42
一智 山学報第四十一輯
菩 提
心の定義
を示 す v・17
がGSX
皿38
の引用
であ
る ことは改
め て指 摘す る必要も ない で あろ う。圃で はそ の
菩
提心 を生起
す る ための 方 法を明 らか にする。教証
と して引
用さ れ る下線
部(
2)
はHVIiv29
の前半
であ
る が, 「曼荼
羅 輪等の 方 便 と自加持
次第
」を生 起 ・ 究竟
の2
次第
と把るに せ よ ,曼
荼 羅造 壇を含 む灌
頂 次第
全体
と 解 釈 するに せ よ, 般若智
灌頂まで に行われた観
法を それに対応
させ るこ とが可能
で ある。 菩 提心を先 ず 自らの中
に 生み出す 手 段と して 密 教 的観 法が 必要と さ れる点, しか し 一方
それ が 「生起
」の た め であ
っ て 「円満」 の ため で はない点 に それ ぞれ注意
したい。[
3
]で は 「生起 」された 「菩提
心」一倶
生〔
歓喜〕
の 円満に導 く要件
を,教
証
となすべ き6
偈
を挙
るこ とで 明 らか にする。先
ず第
一 に, 倶 生歓喜
は 「我々 に よっ て は明 らか に されない 」 の であ り, 上 師 の 助け を俟っ て初め て得
られ る (vv .19
・20
) 。一
方
そ れ は ま た 「言 説の表 現 域を越えた」 「加 持の対象
」 (v.18
)で も ある か ら, 「上師に よっ て も説か れ ない」 (v・22
)。 即ち上師が弟子に対して行 う教
誠
は, こ の場合
言葉
に よ る解 説で はな く, 心か ら心へ直截
に伝
え られる性格
の もの で あ る。 「話を される時に言 葉を欠い て お られ る」 (v.21
)上師が弟 子の「心に 自ら
直観
的心象を 刻み込 む (hTdi
padarP
svayamadadhati
)」(
v.23
) とい う
表 現
か ら もその点が窺
わ れ る。し か し最 終 的な局面に 於い て は, 倶生 〔歓 喜〕は弟 子 自らに よっ て 「自
証
さ れ るべ き もの」 (v ・18
)なの で あ り, 上師に 「親
近」 し て各々 の 「福分
に基づ き自
ら知る」 (v.19
) もの である。 即ち倶
生 〔歓喜
〕
は 「上師
猊下
の恩寵
」が 生み 出す
の で な く, それ を 言わ ぱ縁
と し て 厂瑜 伽者
に」 「生 ずる」 の で あ る (v.20
)
。ここ に記された事 柄を般若
智
灌頂の 儀 礼 中に対 応させ て解
釈す れぽ, 上師の1
’,W
,寵」は性 的瑜 伽の 方 法 と そ れ が もた らす境
地の指 南 , 及び観法
上の助法
と し て理解
出来 よ う。 ま た その 結果 最 終 的に倶
生〔
歓喜〕
を 「自証
」 した弟子が, −43
一KriyfisarPgrahapartjik
吾の灌 頂論(4
)(桜井宗信) v.18
HV
I
viii51
(但し第3P5da
が異な る ) v.19
H
γIviii
36 v.20
不 明 v.21
V
ンα為励 舷 臧 勉 9α’伽 孟’ワ α ∫嫋 毎 (VT
)v.1
v.22
Sa
τahapadiya −doha
II
v.9
v.23
5ψ46蔽 ‘鍾 ん両「π σ々「α ηzα (SK
) v.11
(Sa
聰ha
著) 本第
四灌 頂 次第
の匸
1
]
に 於い て言われる 「般若智灌頂
を実際
に得
た 」者に相 当 するで あろ う。次に [
3
]に 引用 された6
偈に 関して 簡単に 触れて お きたい 。 便宜 上 これ らの 出 典を表に ま とめ れば上掲の 通 りで ある。v.
18
の 第3pada
が 「加持
の対 象 (adh域
hanapadam
)」と あ るの に 対し,典
拠 と推 定 され るHV
の 方は 「加 持の 次 第(
adihi $‡hAnakramah
)」 である。 しか し こ の複合語
は 「一切智
者に等
しい もの 」 と同格
のbahuvrihi
compaund と解
釈 出来
るの で , 両語を同義 と見做
せ る。v.
20
の 出典は 今の ところ 不 明である。 内容 的に は vv .18
,19
を合揉
し た,形
とな っ て お り, 何れかの タ ン ト ラ よ りの 引用 と推測 され る。v .
21
はVTv
.1
に一致
し, 一 切 智者た る上 師へ の 帰 敬 偈で ある。本次第
に は これを含
め てVT
よ り2
偈 が引
用さ れて い る。 同書
の作
者はチ ベ ッ トの 所伝
で は “Tsi
to” 或い は ‘‘Tsi
ti
” と され るが, 既に紹 介がある通 り5
励 鰄 一5itasamgraha
(以 下SS
)
はSaraha
作
と伝 えて お り, また 内容
の面で も彼
の手
に な るDoha
文献
と強
い親近性
が認
あ られて い る。 vv ・22
,23
に も見
られ る よ うに 本次第では,Saraha
の 所 説が教 証 とし て重 要 視さ れて い る。VT
へ の依拠
もその流
れの 中で 行わ れ た と考え られ る。Kuladatta
は続 く vv .22
,23
を 「他
の タ ソ ト ラ」の所
説と紹 介 し て い る が, 上記の 通 りSaraha
の 著作
が典 拠で あ り, 現にSP
及びAK
は 「Saraha
曰く
」 と して引用
する。v.
22
はP
.C
.Bagchi
の紹介
に 係る “2
種Doha
断篇
” の 短い方
の v ・9
一44
一智 山学報第四十一輯 に一致し, 原文は apabhralp6a で
綴
られて い る。 続 く v.23
と共に倶
生をめ く ・ る 問答を構成し て い る。v.
23
の 典 拠で ある3K
はサ ン ス ク リッ ト原本未
発 見で, チベ ッ ト語 訳にの み完本
が見在す
る。16偈
よ りな る小著
で ,菩提
心 と上師
とが備
える徳
を讃
え そ れ らへ の 帰 命を表明する こ とを 主た る内 容とする。 ∬ が 「Saraha
曰 く」 とし て引用す
る偈
の中
に も,本書
を出典
とす
る もの が3
偈含
まれてい る。これ ま で に
見
て来
た次第
で 「菩提
心 を円満
し た者
」即ち倶
生〔
歓喜〕
を現証
し た 弟子 はどの よ うな特徴を持っ て い るの で あろ うか。 [4
]で は こ の 点に関 し5
偈を引 用 し て述ぺ る。彼
は 「真の 楽 (satsukha ) と一体
となっ た」 こ とに よ り, 諸感根
の働
きが滅
し 「意
は沈降
し た如
く」 「分
別は失われ」 「行
動能
力を失っ た か に見
え る」, つ ま り一種の 忘 我 ・恍惚
の 状 態に 入 っ て い る の で あ り, そ れ が 「倶 生 歓喜の 体 くsahajanandatanu )」 である 。そ れ故に, 一
見
すれば 失神
してい る よ うに見え る その者
も究極
の境
地に達 し た 「行
うべ きこ とを成
し遂げ
た知老
」(
v.28
)
であ
り, そ れ を もた らす菩
提心 は 帰 依すべ き対 象なの である (v ・27
)。 感 根の 働 きの 停止に触れ る偶ぼか りを集め てそ の 点を殊 更 強調し てい るの は, こ れで は失神状
態 と変
わ らない ではないか との疑
問が弟 子に生 じない よ う, そ の 正 統 性を根拠 付 け ようとし た か らで あろ うと筆
者は解
釈 する。こ こ で引用された各 偈の出
典
は次の 通 りで ある : v.24
不 明 v.25
yTv
.8
v.26
1
)oゐ譟 054v ,29
(Saraha
作) v.27
5Kv
.2
v,28
不 明 v.24
は 現在出典不 明である が,Munidatta
は 「吉祥
なる上師
の第
四の教誠
一45
一
KriyfisarTigrahapafijika
の灌頂論(4
)(桜 井宗信) を得
て繰 り返し修 習
す るこ とに よ り双 入 の 本質
を現証
した 」者
の有
り様
を 示す
教 証 と して, 本 偈をC
αrッδg
痂 々05 ∫観 (C
γ)に 「Agama
に〔
曰 く〕
」 と し て引用
してい る。 v..28
も出 典不 明で あるが,SS
に引用されてい る。 その 記載 状 況 よ りV7
▼ の 一部
とも見做
し得
るが, 同 書現 行テ クス ト中に は含ま れて い ない 。v .
26
は所 謂 『サ ラ バ の ドーハ ー コ シ ャ 』中の 偈であ り , v .27
共々CV
に 一部
が引
用 されてい る。[
5
]
は[
3
]
と[
4
.]
の ま とめ で あ り, 仏の 本 性である大 楽, 即ち倶
生歓喜
の本
質
が, 上師の 助 力を得た上で 自証 されるべ き もの で あるこ と を簡潔
に述
べ て い る。本 次第を
締
め括るの が [6
]で あ る。 「般 若である良 き灌 頂を得 (pra
樋 satse −kab
)」た弟 子は最 後に ,1
偈 一v .29
:SamPueodbhavatantra
I
i
51c
・d
,52a
・b
に対応
する一を唱え る こ とで ,灌
頂が成 満 し自身
が 「仏
子」 と なっ た と 宣してその僥
倖を 自 ら祝す。 これ を もっ て全次第
が終
了 と な る。 な お弟
子 が成
仏で はな く “ 「仏
子」 とな っ た ” と され る点
が持
つ 意 味に 関し て は後
で触 れる。以 上 で
各項
を一一ma
り検討 し終 えた。 以下これ を踏まえな が ら, 本 次第
に於い て授 ける 〈言葉
に よ る灌 頂〉 が ど うい う内容
であ
り, また どの よ うな意味
を持
つ もの な か を考えてみ たい 。前
稿
で 指摘
し た よ うに , 弟 子は般 若智灌
頂次第
に 於い て 「般若
母」 との 性的
瑜 伽を通 じて倶
生 歓喜
を現証
すべ きで ある と されて い た。 従っ て, 実 際にそれ を果
た し た弟
子に対し て, こ こ で更に新
しい 次第
を, そ れ も 〈言葉
に よ る 説 示 〉 の み を もっ て設定 する とすれ ぽそ の 目的 とし て は 次の2
点の 何 れかが 当て嵌
ま るで あろ う :(
1
)
般 若智灌
頂で得
られ た倶
生歓喜
を否定
及至は相 対化 し て, 新 た な 究 極的 要
素
を持
ち込 むこ と。 − 46 一智山学報第四 十一輯
その
倶
生歓喜
の 意義
を弟
子に対
して改
め て教
示 し, “汝
は確かに そ れ を得
た の だ” と承認す
る こ と。津
田真一博
士 に よれ ばHV
・S
ひ の第
四 灌頂に於
ける 〈言葉
に よ る説示 〉の 目的は(
1)
に 属す と解釈 され る。 その 〈言葉〉は 「真
理の命
題」 であ り, 般 若智
灌 頂の 性 的瑜 伽で得 られた 「仮の , 世 俗 的な無上 正等
覚」 とは異な る 「真
の , 勝 義の 無上 正 等 覚」へ 弟 子 を方
向づ けるもの で あ る。 「方
向づけ られた弟
子 」 はその 「真理 の命題
」 を 「自
ら,行
を以っ て実証
せ ねばな ら」ず
, サ ン ヴァ ラ系 密
教に 於い て行
わ れ た 巡礼がそ の行
の 具体
例で ある とい う。第
四灌頂
が本来(
1
)
を基本的性格
と して構想
さ れ たこ と は間違
い のない ところBD
であろ う。 津田博士 がGS
やM4
ッ4∫α脚 α 厂 α如 艀 rα に基づ い て跡 付 け られた よ うに , 初 期の無上瑜 伽タ ン ト ラは性 的瑜 伽 自体に よ っ て各々 の 目指す 究 極の境
地を獲得
しよう と計っ たの で あ り, そ こに 〈言葉
〉で の 「真
理 の命
題」 の 説 示 を更に付 加 するこ とは全 く不必 要な こ とである。 そ の点で(
1)
の 性 格を持つ 第 四灌頂
がそ れ らタ ン ト ラの信奉者
に由来す
るもの とは考
え られず, そ れ ら よ り も後
で成 立 し た タ ン トラ の 中で構 想され た可 能 性が強い 。その 一方で これ とは異な っ た
解
釈を取る論師
もい た。 幾 本かの 文 献を手掛か りに して, どの よ うな解釈
があ
っ た かを纏
める と大 略次
の よ うに な る : <A
>第四灌頂の設定 自体 を否定する. <B
>第四灌頂の設定は認め る. 〈B
−1
>内容を 〈言葉に よ る説示 〉 とは異な っ た もの に変更する. 〈B
−2
>内容を 〈言葉に よる説示 〉 と す る. 〈B
−2
−1
>般若智灌頂で倶 生歓喜を得たこ とを証する 〈言葉〉 を授 ける. 〈B
−2
−2
>一種の 「真理 の命題」 を授げ る. 〈B
−2
−2
−1
>機根の劣っ た受者に の み授 ける. 〈B
−2
−2−2>総て の受者に授ける. 〈C
>般 若智灌頂の中に第四灌頂を組み込む. これはあ くまで諸 文 献 中に 見 られる第 四灌 頂 解 釈 を筆 者な りに整理 し た結 果 であ
っ て ,総
て の 仕方
が一様ac
同程度
の支持
を得
て流布
してい た と結論付
ける つ もりは全 くない 。 しか し少
なく
とも,HV
等
が示す第
四灌
頂解
釈に対
して 一47
一KriyasarPgrahapafijik
蚕 の灌 頂論(4
)(桜井 宗信)多
くの異
論が唱え られて い た こ とは窺
がい取
れ る。筆者
は,当該
のKS
・SP
系第
四灌頂次第
が 上記 (
1
)
を 目的
とは せず
, こ の 〈B
−2
−1
> (上記2
点 中の(
2
)の 立場 )に属し て い る と判断 する。 以下 その 根拠を 述べ て み よ う 。先 ず 第一に, 上述の よ うに v.
5
が第 四灌 頂と般若智
灌 頂との 本 質 的 同等 性 を規定
してい る と解釈出来
る点
が挙げ
られる。次に,
般若智灌頂
の性的瑜伽
に於
い て倶
生 歓喜
が得
られ る こ と を匚2 ]
〜[
5
]
が 明 らか に し て い る点で ある。 先に述べ た よ うにそれ ら4
節 中の 記述
が, “師
の もとでその教 誡を授
か りなが ら実修
を行い最終的
に倶
生 歓喜
を得
て知者
とな っ た ” とい う弟 子が経て来た経 過の 回顧と見 做せ , 倶生 歓 喜 を 新たな段 階で あ る第
四灌頂
と対
応させ て はい ない か らであ
る。[
4
]
の 註 解で も触 れた よ うに , こ こで言 わ れ る倶 生歓 喜を得
た弟子は失神
状態
と同等に見 られか ね ない 。 しか しそ うで はな く聖典
の規 定に則 り, か つ 師の教
誡も得
て定
め られた通 りの仕 方で 得た境
地で あっ て真
の倶
生 歓喜
に 他な らな い の だ と論 証 し て お く必要がある。匚
2
コ
〜[
5
コ
が ま さにその よ うな性格
の箇
所 である。 従っ て第
四灌
頂と し て説 示される 〈言葉
〉 も, 記 述の 体 裁か ら言っ て[
2
]
〜 [5
]が そ の ま まの形で語 られ る 可能性は 少ない に せ よ , 当然これに沿
っ た もの と推
定され る。 これ ら4
節が, その 内容か ら言えば灌
頂次第
とは別 個の解説
で あるの に , その ような扱 わ れ 方で は な く次第
の 一部
とされて い るの は, こ の 理 由か らであ
る。第三に, 説示 される 内容一 〈言葉〉が 「先に 説かれ た
儀
則に 基づ く」 もの と 規 定 され て い る点が ある。 これ が本 次第
の 冒頭に記されて い る か ら 「先
に説
か れた儀 則」 は当
然そ れ 以前
の般若智灌
頂まで の 「儀 則」を意 味 し てい る。従
っ て 〈言 葉〉は儀
礼内容
を踏
ま え た もの で あり,HVHxii4
に代 表され るよ う な儀 礼 とは無 関係の 抽 象 的な 「真理の 命 題」 で は あ り得
ない 。 これは上記の 第 一 の理 由とも符 合 する。最後
に ,説
示の対 象
を 「甚深広大
の 理趣を信解す
る」弟
子に限っ て い る点 を挙 げ
た い。 即ち,若
し弟
子に差 別 を設 けて “ 性 的瑜 伽 を相 対化
する 〈言葉
〉” −48
一智山学報第四十一輯 を授 けた な らば,
性
的瑜伽
を越 えた所に本 当の真
理が在
る と知
る弟
子と, その 瑜 伽の境
地が究極的
な もの である と受 け取っ た ま まの 状態
に置 き去
りに されて しま う弟
子 とが 出現 する こ とに な ろう。 し か しこれ は総て の弟
子に 「真
理 の 命 題」 を授
けようとするHV
な どの意
図 と明 らか に 相反 する結 果とな る か ら, 本 次第
がそれ らの タ ン トラと同意
図で作
られた とし た な らば こ の よ うな規
定は 設 けなか っ た筈である。以上に よ り本
第
四灌 頂 次第
に 於 い て 師が弟 子に 授 け る 〈言葉〉が, [2
コ 〜[
5
]の 内容
を踏
まえた もの で “般
若智灌
頂の性 的瑜 伽で倶 生 歓喜
を汝は得
た” とい う印可に当
た る もの と推 定される。そ れ では倶 生歓 喜を体 験 し た 弟 子は仏とな っ た と
解
釈さ れて い たの であろ う か 。rKS
・SP
系
原 著者」 が 「真理の 命 題」の 説示を 採 用 しなか っ たの もそ の た めで あろ うか 。筆
老はその よ うに は考
え ない 。 [6
]にある通 り彼は 「仏子 」 とな っ たの で あ り, 仏となっ た とは されて い ない か らである。倶
生歓喜
の現証
が灌頂次第
とい う儀礼
の枠 内
で は最終
目的であ
る とい う意味
で , そ れ を果た した弟子 は確か に 「行 うべ きこ とを成 し遂 げた者」 で ある。 し か し彼
はその の ち密
教法統
の伝持者
とし て更
に研鑽
を積み, 布 教や 新た な弟子 の 育成とい っ た 「有情
利 益」を行
い 続 ける こ とが要請
される の である。 v.15cd
は ,HV
に 於け る原意
が どうで あれ, こ の意味
で引用されて い る もの と筆者
は解
釈 する。 本 次 第が最 初に著された 時, 灌 頂 次 第は既に 弟 子 を密 教々義へ 参入 させ る た めの 独 立 した儀
礼と して確
立 してお り, こ の儀礼
の 成満
が成仏
と同値
であ
るわ けで はない こ とが暗黙裡
に 了解
されて い た の であろ う。 悟 りの境
地であ
り究極
的 状 態の筈だ っ た倶生 歓 喜 も, その儀 礼 中で体 験 すべ き 一要
素に 相対 化さ れて い た と考 え られる。最後
に本次第
をめ ぐる密教
(流伝
)卑
上 の 問題に 触 れて お きたい 。 既に繰
り返
し述
ぺ てい る ように,KS
第
四灌 頂 次第
はSP
の それ と大変
よく
一致
して い 一49
一