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幡豆の海と人びと

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Academic year: 2021

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口絵 2 トンボロ干潟(撮影:石川)

口絵 4 沖島で発見された矢穴石。十文字に矢穴が入っている(撮影:伴野)

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口絵 6 幡豆の海に出現するプランクトンたち(撮影:松浦) (左上から時計まわりに:ウスカワミジンコ、アカルチア・ エリスレア、ヤコウチュウ、マントヤムシ) (撮影:早瀬、編集:社家間太郎氏) (a:クチキレガイ b:イトカケギリ属の一種 c:ヨコイトカケギリ  d:ミスジヨコイトカケギリ e:クチキレモドキ属の一種 f:カキ ウラクチキレモドキ g:スオウクチキレ h:ミサカエクチキレ i: クサズリクチキレ j:ヨコスジギリ k:スジイリクリムシクチキレ) 口絵 9 幡豆でみられる貝類 (撮影:早瀬) (左上から時計まわりに:オウギウロコガイ(前島)、飼育下で孵化 した前島周辺のモロハタマキビの幼生、沖島のトカラコギセル(採 取個体の飼育下産出稚貝が成貝になった。2015 年 10 月)、ウスコ 口絵 7 幡豆でみられる甲殻類(撮影:土井) (左から:イソカニダマシ、マメコブシガニ)

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口絵 10 生物多様性条約第 10 回締約国会議の関連イベント「地球の いのち・交流ステーション」(2010 年 10 月、愛知県、愛・地球博記念 公園)において、企画展示「幡豆のトンボロ干潟みゅーじあむ」を幡 豆町、東幡豆漁協、東海大学海洋学部が協力して実施した(撮影:松浦) 口絵 12 1:多項目水質計を用いた塩分、水温、溶存酸素の計測 2: ノルパックネットによるプランクトンの採集 3:船上での試料の回収 作業 4:網目が細かいネットで取れた試料(左のボトル。主に植物プ ランクトン)と網目が粗いネットで取れた試料(右。主に動物プラン クトン)(撮影:1・2 松浦、3・4 吉川) 口絵 13 小学生の親子を対象とした自然観察教室の一コマ。アサリを入 れた水槽(右)では植物プランクトンが食べられて海水が透明になって 1 2 4 3

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沖島 前島 トンボロ干潟 東幡豆港 東浜 中ノ浜 妙善寺 ナギソ岩 倉舞港 西尾市 0 鳥羽 西幡豆漁港 吉田港 梶島 寺部海岸 寺部海水浴場 松島 口絵 14 幡豆地区周辺の沿岸地図

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出版に寄せて

  

1

 石川金男 (東幡豆漁業協同組合・組合長) 漁業を生業としている私は、日頃から魚やアサリなどの水産資源と海・干潟の状況には常に気 を配り、 その重要性を意識しています。しかし、 その水産資源を支えている"環境"に興味を持っ たのは、つい最近のことです。その主なきっかけは、幡豆町と西尾市の合併の話が本格化したこ とでした。西尾市との合併で幡豆が埋もれてしまうのではないか?と危惧した私は、幡豆にあっ て西尾の市街地にないものは何か、幡豆の独特な魅力は何かを考えるようになりました。そこで 頭に浮かんだのが、子供のころから親しんだ、漁場として利用している、 "豊かな自然"でした。 東幡豆には干潮になると陸から島までつながるトンボロ干潟があり、そこには豊かな自然が残さ れ て い ま す。 「 そ う だ、 こ の 自 然 が 幡 豆 の 魅 力 に な る は ず だ 」 と 私 は 確 信 し ま し た。 た だ、 あ ま りに当たり前にある前浜の自然は、地元の人にはその重要性と価値が十分には理解されていない ようでした。 豊かな自然、トンボロ干潟を幡豆の魅力として売り出すためには、まずは、地元の人がその自

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出版に寄せて

  

2

     千賀康弘 (東海大学海洋学部・海洋学部長) この本を出版するにあたり、長年、三河湾で行う環境や文化の調査・研究にご支援・ご協力を いただきました西尾市役所の皆様、東幡豆漁業協同組合の皆様はじめ、多くの幡豆町の皆様に感 謝いたします。 近年、学問のあらゆる分野で専門化・細分化が進み、高精度な科学が進展する一方で、自然現 象を複合的・総合的に学ぶ機会が少なくなってきました。海洋学においても、大型コンピュータ による高精度なシミュレーションやビッグデータの解析が急速に進展している反面、初等中等教 育課程の中で、未来を担う子供たちが「海」に親しみ、体験を通じて「海」について学ぶ機会は ほとんどありません。このような教育環境の中において、東海大学海洋学部は海を総合的に学ぶ 日本で唯一の学部として、水産系・理工学系六学科・専攻と、人文社会学系二学科から構成され た独特の教育・研究活動を展開しています。本調査研究では、総合学部の特性を活かして様々な 分野の専門家が集まってフィールド調査を行い、海と人との関わり方について様々な面から考え お いて話をするなど、子供たちに足元の自然の豊かさと貴重さに気付いてもらえるよう微力ながら 前島に渡る、という行事が行われています。私も、前島で三河湾の現状と幡豆の豊かな自然につ を提案しました。現在、二年生と五年生が年一回、干潟の観察をしながらトンボロ干潟を歩いて をさせていただいていたこともあり、小学校の子供たちに幡豆の自然の魅力を知ってもらう活動 然の価値を知らなければならないと考え、ちょうど東幡豆小学校のコミュニティー協議会の会員 手 伝 い を さ せ て も ら っ て い ま す。 子 供 た ち の 中 か ら、 一 人 で も 二 人 で も、 「 故 郷 に は こ ん な に 良いところがある」と胸を張って言える人がでてくるようになることで、時代を超えてこの自然 を継承してもらえるのではないかと期待しています。 このように幡豆の自然と未来に思いをはせている中で、名古屋で生物多様性条約締約国会議が 開かれる際のイベントを通じて東海大学海洋学部の方々と知り合うことができ、環境の調査研究 や そ の 重 要 性 の 理 解 に 向 け た 活 動 に も 幅 が 広 が り ま し た。 そ れ ま で 本 格 的 な 環 境 調 査 や 生 物 多 様性調査が行われてこなかったこの幡豆沿岸で学術調査を行ってもらい、貴重な生物の生息場と なっていることが分かってきました。また、その成果を地元に報告してもらい、地元での環境教 室にも参加してもらいました。今では、山・川・海の活動に連携して、矢作川流域を中心に他の 市町の子供たちにも干潟に来ていただいて、遊びながら自然の大切さを知ってもらえています。 今後も地道な活動ではありますが、このような環境活動を続け、この幡豆の海で自然の豊かさ と大切さを学んだ子供たちが、自慢できるような三河湾になるよう努力していきたいと思ってお ります。

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はじめに

――出版の経緯と意図 初夏の夕刻、幡豆の砂浜には子供たちが波と戯れる姿を目にすることができる。かつてはどこ にでも見られた人と自然のふれあう姿である。しかし、近年の都市化によって、干潟や砂浜が埋 め立てられた地域では、たとえ海の近くであっても砂浜で夕涼みというわけにはいかない。まし てやウォーターフロントとして高層マンションが建ち、見ず知らずの人が行きかう水辺では、子 供たちだけで遊ぶことさえ許されないだろう。幡豆の海では、砂浜で遊ぶ子供たちの声は、波の 音に乗せられて耳に届く。その音色は何とも心地よく、豊かさを感じさせてくれる。このように 感じるのは、やはり子供のころに、夕方まで海や川、山や林で遊んでいた経験を持つためであろ うか。 子供の頃に自然と、海と、触れ合って育った人と、都市域でビルに囲まれて育った人では、自 然の見え方も感じ方も、そしてその価値の認識も大きく異なるものか、それとも、自然の情景や ささやきは、だれにとっても心地よいものになるのだろうか。今後、都市人口が全体の六〇パー セントにもなろうかといわれている。ほとんどの人が都市生まれ都市育ちとなった時代であって てきました。 幡豆町を調査フィールドとして研究・教育を展開できましたことは、私たちにとってとても幸 運でした。幡豆海岸は豊かな沿岸生態系と水産資源をたたえ、幡豆町は海と共に発展してきた長 い 歴 史 を 有 し て い ま す。 本 書 に ま と め ま し た 三 河 湾 周 辺 に あ る 遺 跡 群 や 矢 穴 石( 幡 豆 石 )、 昔 話 と伝統文化、打瀬船と漁業の変遷、沿岸開発と観光開発、希少生物と沿岸生態系保全、環境教育 と 地 域 開 発 な ど の 話 題 は、 幡 豆 を 舞 台 に 繰 り 広 げ ら れ て き た 人 と 自 然 の 悠 久 の 歴 史 の 一 部 で す。 幡 豆 町 で の 研 究 成 果 は、 自 然 を 利 用 し な が ら 保 全 す る こ と の 重 要 性 と 可 能 性 を 明 示 し て い ま す。 地球規模での環境変化が問題視されている今こそ、このような豊かな自然の保全と共生とのバラ ンスを考え、新たな社会のあり方を発信することが重要です。幡豆での成果は、その良い実例を 提供してくれています。研究課題はまだたくさん残されています。今後も西尾市の皆様、幡豆町 の皆様のご支援とご理解を賜りますよう、よろしくお願いいたします。

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はじめに こと、自然の利用方法を学ぶことが大切となる。 東海大学海洋学部及び総合地球環境学研究所エリアケイパビリティープロジェクトでは、西尾 市や東幡豆漁業協同組合と共同で、幡豆の沿岸海域の自然と社会の変遷と現状、自然と人々の暮 らしの関係性について、考古学や社会学、生物学や生態学など多面的な調査研究活動を展開して きている。二〇〇九年に始まったこの合同調査も、六年がたち、様々な資料や情報が集まってき た。これまでに調べてきた内容を整理し、この豊かな海にはどのような環境があり、どのような 生物が暮らし、人々はどのように思い、どのように利用しているのか、これらの情報をとりまと め、西尾市や東幡豆漁協が行っている環境体験学習や環境教育の充実に役立てられないか、それ がこの本をとりまとめた大きな動機である。 この本の執筆にあたっては、東海大学海洋学部の教員だけでなく、幡豆の海を愛し、独自に調 査研究を行っている方々にもお声掛けをさせていただいた。各章は、それぞれの分野を専門とす る研究者が執筆を担当しているため、中には、語句の統一がなされていない点もあるかもしれな い。また、学術的正確さを求めたために、表現が難しいこともあるかもしれないが、その点はご 了承いただきたい。これから改訂を重ねていく中で誰にでもわかる幡豆の自然と暮らしの紹介本 にしていく予定である。 都市育ちの人と自然と触れ合う機会の多い人とでは、自然の感じ方が異なるかどうかは、今日 はわからない。ただし、今、私たちの目の前にある自然に触れることで、その豊かさと大切さと 美しさは、だれでも感じることができるだろう。その思いを繋いでゆくことが、私たちに必要な らずに人々の中にあってほしいと願う。 も、今、そこにある美しい自然とそこで育まれた文化そして人と自然の関わりの重要性は、変わ 日本は、一九六〇年代から七〇年代の高度経済成長期に、沿岸部の効率的利用のために港湾を 整備し、防災のために防潮堤や護岸工事を行った。これらの公共事業は沿岸部の経済活動を活発 化させ、地域発展をもたらした。しかし、その後の生物資源の減少とそれに伴う地域産業の衰退 は、これらの事業が必ずしも持続的な開発には直結しないことを明示することとなった。砂浜や 干潟の生態系が沿岸全体の生態系にとって重要であるという認識は、一九六〇年代まで世界でも 深くは認識されておらず、経済合理性と効率性を重視した都市化やインフラ整備は、世界各地で 進められた。ましてや戦後復興で懸命に働いていた当時の日本人が、目の前にある発展と都市化 を目指したことをだれが非難できるだろうか。ただし、 現代に暮らす私たちは、 過去の歴史から、 すでに多くを学び、また、沿岸生態系についても多くの知識を得てきた。今大切なことは、これ からどうするかということである。 先にも述べたように、今後都市人口はますます増加する。すでに都市化した地域を元の自然に 戻すことは極めて困難である。したがって私たちがなすべきことは、今ある自然をできるだけ残 すということになる。しかし、残すために保全するだけ、利用を制限するだけでは、そこの地域 社会は成立できない。また、人が住まなくなってしまえば、そこで育まれた文化や人と自然の関 わりも途切れてしまう。私たちが行うべきは、自然の豊かさと大切さを認識しながら、その自然 を利用し、自然と人の健全な関係性を発展させることである。そのためには、まずは自然を知る

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活動であると思う。この本が、幡豆の人々にとって身近な自然を再発見することに少しでも役に 立つこと、また、幡豆を知らない人と幡豆の自然と人とを繋ぐ機会を提供してくれることを切に 願う。そして、幡豆に集う人が、自然について、環境について、将来について、語らう機会を持 てるようになるように願い、私たちも関わり続けたい。  石川智士  吉川   尚

幡豆について

さて、本編の前に、この本で触れる"幡豆"について説明しておきたい。三河湾の湾奥中央部 に 位 置 す る 愛 知 県 西 尾 市 に は、 " 東 幡 豆 " や" 西 幡 豆 " な ど の 字 名 が 残 っ て い る。 こ の" 幡 豆 " という字名は、 昔この地に幡豆町という町があった名残である。 幡豆町は、 明治初期には西幡豆村、 鳥羽村、 寺部村、 東幡豆村の四つの村であったが、 明治二二(一八八九)年に西幡豆村、 鳥羽村、 寺部村が合併して幡豆村となり、明治三九(一九〇六)年には、幡豆村と東幡豆村が合併して一 つの幡豆村となった。その後、 幡豆村は町制を施行し "幡豆町" となったが、 平成二三 (二〇一一) 年に西尾市へと編入された。 本 書 に お け る" 幡 豆 "( も し く は 幡 豆 地 区 ) は、 西 尾 市 に 編 入 さ れ る 前 に 旧 幡 豆 町 で あ っ た 地 域を意味する (図 1) 幡豆には、遺跡や伝統的行事が多く、古くから人々が海や山の自然と調和した暮らしを送って おり、今なお、三ヶ根山やトンボロ干潟など、豊富な自然が残る土地である。その一方で、南は 三河湾に面し、北は三ヶ根山等のやや険しい山地が迫り、農業に使える土地は限られる。そのこ

(13)

幡豆について 源として名を馳せた 「うさぎ島」 と 「猿が島」 である (口絵 14)。現在、 前島はトンボロ干潟によっ て干潮時に陸続きとなり、春から夏にかけては潮干狩りで賑わう。トンボロ干潟から少し東に行 くと、中ノ浜海岸があり、陸側の浜ノ山グラウンドは少年野球の練習場となっている。逆に、ト ンボロ干潟から西には東幡豆港があり、 石材を運び出す埠頭がある。 さらに西に進むと、 寺部海岸、 西幡豆漁港、鳥羽海岸と続く。寺部海岸にはきれいな砂浜の寺部海水浴場があり、また、鳥羽海 岸にも干潟があり、潮干狩り場となっている。このように、幡豆の海岸線は、干潟、砂浜、岩礁 帯、転石帯、船の出入りのために少し深くなった港等が複雑に入り組んで構成されている。 幡豆が面する三河湾全体は、海運が盛んであり多くの海岸は埋め立てや護岸工事がなされてい る。このため、水の浄化能力が低下したために富栄養化や貧酸素水塊の発生などが問題になって いる。そのような中で、幡豆の海岸線には自然海岸が多く残されていることは、奇跡に近い。た だし、この奇跡は単に偶然によるものではなく、この地で暮らす人々の大いなる選択と努力によ る。 本書の第 1部では、そのような幡豆の人と海の関わりの歴史と営みを紹介し、第 2部では、幡 豆 の 自 然 と そ こ で 暮 ら す 生 き 物 た ち を 紹 介 す る。 そ し て 第 3部 で は、 幡 豆 の 知 恵 を 取 り ま と め、 社会に広く伝えたいと考えている。 最後に、この本が、幡豆の皆様や幡豆を知らない人にとっても、足元の自然の大切さや豊かさ を認識し、 また、 再発見することにつながることと、 少しでもこれまでお世話になった幡豆の方々 のご厚意に報いることになることを願っている。 伊勢湾 津市 岡崎市 豊橋市 ↑名古屋市 知多半島 渥美半島 知多湾 三河湾 渥美湾 豊川 矢作古川 西尾市 矢作川 三河湾 前島 沖島 佐久島 三ヶ根山 (幡豆石の産地) 矢作古川 西尾市 西浦半島 幡豆地区 トンボロ干潟 とも理由となってか、 古くから海業(漁業、 海運等)が盛んであり、機船が普及する前 の打瀬船は愛知船とも呼ばれ、この地域に は多くの舟屋があったとされている。 海岸には、今は無人島となっている前島 と沖島があり、これらの島はかつて観光資 図 1 幡豆地区とその周辺

(14)

目   次 出版に寄せて 1   東幡豆漁業協働組合・組合長 出版に寄せて 2   東海大学海洋学部・学部長 はじめに  ――出版の経緯と意図 幡豆について

1部

 

海と人の関わり

1

 

幡豆石と社会

… ……… 3 1幡豆の海にねむる矢穴石と文化遺産    3 2矢穴石からみる江戸時代における築城の歴史    9 3幡豆における海の文化遺産とその魅力    20 4東幡豆港と幡豆石    23

2

 

港と沿岸環境

… ……… 30 1東幡豆港の変遷    30 2幡豆のトンボロ干潟    34

3

 

漁業と水産資源

… ……… 38 1幡豆の漁業今昔    38 2三河で漁獲される魚たち    49

4

 

社会と文化

……… 62 1食に見る海と人のつながり    62  2建物に刻まれた幡豆の歴史    73 3幡豆の民話と暮らし    77 コラム   民宿でつながる地域社会    86

2部

 

幡豆の海と生き物

1

 

幡豆の沿岸環境

… ……… 93 1三河湾の海洋環境    93 2生物の分類と多様性    102

(15)

2

 

プランクトン

… ……… 108 1プランクトンと海洋生態系    108 2幡豆に生息するメソ動物プランクトン    112 3夏期の優占プランクトン    119 4冬期の優占プランクトン    128 5小さな通年優占種    137

3

 

 場

… ……… 145 1海藻・海草とは    145 2幡豆沿岸における藻場の分布状況    147 3海藻類の構成種    150 4藻場の葉上巻貝類    154

4

 

 類

… ……… 164 1三河湾沿岸域の魚類    164 2幡豆のアマモ場でみられた魚類    177

5

 

 類

… ……… 194 1岩礁帯の貝類    195 目 次 2転石帯の貝類    197 3共生・寄生生活をする貝類    220 4陸産貝類    224

6

 

干潟をめぐる生態系

… ……… 232 1干潟の貝類    232 2干潟域の多毛類    237 3干潟域の十脚甲殻類    253 4干潟域の食物網    260 5干潟二枚貝類の遺伝的多様性    276 6三河湾における貝類相の変遷    287 7沿岸産貝類の保全のあり方    291 コラム   干潟に現れる謎のくぼみ    298 コラム   三河湾のスナメリ    300

(16)

3部

 

これからの海、これからの幡豆

1

 

漁業と環境教育

… ……… 307 1幡豆の今    307 2環境教育への展望    309

2

 

東幡豆漁協による環境教育の取り組みとその可能性

… ……… 313 1   東幡豆漁協による環境教育の取り組み    313 2   東幡豆漁協がつなぐ多様なアクター    321 3   東幡豆漁協による環境教育の可能性    324

3

 

東海大学と幡豆

… ……… 329 1   東海大学の幡豆における活動    329       2   大学教育の質的転換と地域連携の必要性    338      

4

 

幡豆のエリアケイパビリティー

… ……… 347 1   幡豆の A  Cサイクル    347 2   沿岸社会の持続的発展に向けて    353 おわりに 解   説 編者・執筆者紹介

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(18)

1

(19)

1

 

幡豆石と社会

1

 

幡豆の海にねむる矢穴石と文化遺産

愛知県西尾市幡豆地区(旧愛知県幡豆郡幡豆町)は渥美半島と知多半島に抱かれた三河湾北岸 のほぼ中央に位置する。海と山のまちである幡豆地区の海岸とその周辺には海を介した交流を示 唆する文化遺産が多数点在する。海岸部に近いところでは、弥生時代前期の環濠集落で亜流遠賀 川系の壺などが出土した江尻遺跡や五世紀後半の築造とされ、北部九州系の初期横穴式石室を有 す る 中 之 郷 古 墳 な ど が あ る( 伴 野  二 〇 〇 七 )。 中 で も 幡 豆 地 区 の 沿 岸 部 に お い て 潮 間 帯 や 沿 岸 域 で確認されてきた「矢穴石」は、その歴史的性格も含め、海の文化遺産として大きな魅力を持っ ている。 近年、これら海や湖、河川といった水環境と密接にかかわる文化遺産は「水中文化遺産」と呼 ば れ る こ と が 多 い。 国 際 的 に も 世 界 遺 産 で 有 名 な ユ ネ ス コ に よ る「 水 中 文 化 遺 産 保 護 条 約 」 が

(20)

バイア遺跡で有名なイタリアなどすでに実現している国もある。 し か し、 ま だ 水 中 文 化 遺 産 保 護 条 約 を 批 准 し て い な い 日 本 で は、 水 中 文 化 遺 産 の「 海 底 遺 跡 ミュージアム化」を目指した動きは開始されたばかりである。たとえば沖縄の久米島では、水深 の比較的浅い沿岸域に分布する海底遺跡でシュノーケリングによる遺跡見学会(主催:久米島教 育委員会・久米島博物館)が開催され、中高生から大人まで多くの参加者が集い、人気を博した (南西諸島水中文化遺産研究会  二〇一四) 。 筆 者 ら を 含 め た 総 合 地 球 環 境 学 研 究 所 の エ リ ア ケ イ パ ビ リ テ ィ ー プ ロ ジ ェ ク ト( 代 表: 石 川 ) や東海大学海洋学部もこうした水中文化遺産の観光資源や文化・教育資源としての新たな可能性 に 着 目 し、 沖 縄 の 石 垣 島 を 中 心 と し た 水 中 文 化 遺 産 を 用 い た 海 洋 環 境 教 育 プ ロ グ ラ ム の 開 発 や、 遺 跡 そ の も の の ミ ュ ー ジ ア ム 化 を 目 的 と し た 研 究 活 動 を 進 め て い る( 小 野  二 〇 一 四、 小 野 ほ か  二〇一三、 Ono et al. 2014,  坂上ほか  二〇一四) 。その最終目標の一つは、これら文化遺産の持続 的な保全でもあるが、日本では水中文化遺産の保護を目指した活動はまだまだ始まったばかりで ある。 このような海の文化遺産をめぐる近年の状況を踏まえたうえで、改めて幡豆地区を中心とする 西 尾 市 の 沿 岸 や 島 々 に あ る 文 化 遺 産 に 注 目 す る と ( 図 1) そ の 歴 史 的 価 値 の 高 さ や こ れ ら に ま つ わる歴史的背景や物語の面白さ、また身近で見学も容易であるというそのアクセス性の良さにお い て、 大 き な 魅 力 を 持 っ て い る こ と に 気 付 く。 そ こ で 本 章 で は 以 下 の 節 に お い て、 「 矢 穴 石 」 を 中心に、幡豆地区を中心とする沿岸域で見ることのできる海の文化遺産のいくつかを紹介したう 二 〇 〇 一 年 に 国 連 で 採 択 さ れ、 さ ら に 二 〇 〇 九 年 か ら 二 〇 カ 国 の 批 准 に よ り 発 効 さ れ た の を 契 機 に、 そ の 保 全 と 活 用 に 大 き な 注 目 が 集 ま り つ つ あ る( e.g. 岩 淵  二 〇 一 二、 小 野  二 〇 一 四 )。 な お ユ ネ ス コ の 定 義 に 従 う な ら、 潮 間 帯 の よ う に 周 期 的 に 水 に 浸 か る 場 所 に 位 置 す る 文 化 遺 産 も、 一〇〇年以上前のものであれば「水中文化遺産」と認識することが可能である。 日本においても二〇一三年に文化庁が「水中遺跡調査検討委員会」を立ち上げ、国としての動 きがようやく出てきた。また日本沿岸における水中文化遺産も、二〇一〇年に元の軍船や遺物が 発見された長崎県松浦市の鷹島海底遺跡が、海底遺跡として初めて国指定遺跡(遺跡名: 鷹 たか 島 しま 神 こう 崎 ざき 遺跡)とされるなど、学術・社会的な関心が高まりつつある。 一方、水中文化遺産は陸上の文化遺産とは立地が異なり、水中あるいは海底にあるがゆえにそ の姿を一般に見ることは難しく、全体像を捉えることも容易ではない。このため、水中文化遺産 は歴史的に価値があったとしても、単純にその分布範囲を囲い込み、立ち入りを制限すれば良い という発想は現実的ではなく、また保護という観点からも効果は期待できない。そこで水中文化 遺産の場合、海を生業とする様々な関係者と文化財の保護や活用を担う行政や研究者などが相互 に協力し、水中文化遺産を海洋資源の一つとして観光などに活用していくことが、もっとも経済 的かつ安定した保護の状態を生み出すと思われる。 こ の よ う な 理 解 に 基 づ い た 動 き は、 ユ ネ ス コ の 水 中 文 化 遺 産 保 護 条 約 に も 代 表 さ れ る よ う に、 世界的な潮流にもなりつつある。またその一環として、海底に残された遺跡をそのまま史跡公園 化し、文化 ・ 観光資源として活用するという「海底遺跡ミュージアム構想」も活発化しつつあり、

(21)

第 1 部 海と人の関わり 1 幡豆石と社会 この菩薩像は海から引き揚げられたものだと言 う伝承が残されており、今でも「海から来た観音 さま」と呼ばれている。この伝承は江戸時代の元 禄期頃より伝わるもので、地元漁師が網漁の際に 海から引き揚げ、その後、大漁が続いたり、観音 さまが彼の夢の中に出てきたりといったエピソー ドが地域の民話としても残っている( e.g.『むかし   むかし   はずの里』 )。残念ながら、 その引揚地点、 えで、その魅力や保護、活用といった今後の可能性について論じる。 幡豆とその周辺における主な海の文化遺産 図 1は、 幡 豆 地 区 を 中 心 に 主 な 海 の 文 化 遺 産 の あ る 場 所 を 示 し た も の だ。 こ の う ち 沖 島 や 前 島 を含む沿岸域に分布するのが、本章で注目する矢穴石群である。幡豆地区の矢穴石は、江戸初期 の慶長一五(一六一〇)年に幕命によって始まった名古屋城築城の際に切り出された石材の切り 出し痕を持つ石で占められている。古くから幡豆一帯は「幡豆石」と呼ばれる花崗岩類の産地と なってきた(昭和以降における幡豆石の積み出しに関しては 4を参照のこと) 。 矢穴とは、石を切り取る際に開けられた幅五センチメートル、長さ一二センチメートル、深さ 五センチメートル程の長方形をした楔穴を意味する。近世においては、こうした矢穴を複数開け てそこに樫製の楔を差し込み、打割する方法が採用されたことから、矢穴が波線状に開けられた 石が存在することとなったのである。年代的には古いほど穴のサイズは相対的に大きくなると言 われている。また矢穴石は幡豆地区の海岸部(崎山海岸・田尻海岸・西丸山海岸など)だけでな く、山間部となる八貫山などにも散在するほか、前島・沖島といった島嶼部にも多い。 矢穴石のほかにも、幡豆地区には水中文化遺産に類する海の文化遺産の目撃例・実例・伝承が 幾つか存在しており、今後の新たな調査に繋がる可能性を有した興味深い例もある。 た と え ば 幡 豆 地 区 の 鳥 羽 崎 山 に あ る 観 音 堂 ( 写 真 1) に は、 堂 内 に 高 さ 三 〇 セ ン チ メ ー ト ル ほ どの木彫の観世音菩薩像が安置されている( 図 1参照) 。 トンボロ干潟 東幡豆港 東浜 中ノ浜 妙善寺 ナギソ岩 倉舞港 西尾市 0 1km 西幡豆漁港 吉田港 寺部海水浴場 松島 西丸山海岸 寺部海岸 幡頭神社 豊受大神宮 崎山観音堂 八貫山 田尻・崎山海岸 沖島 梶島 前島 図 1 幡豆地区および周辺域と主な海の文化遺産のある場所 写真 1 鳥羽崎山にある観音堂(撮影:小 野)

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種命の遺骸が流れ着いたという伝承のある 「亀岩」 (写真 3) が昔のままに保存されている ( e.g.『は ずの民話』 )。 さらに西尾市全域に目を広げると、佐久島の西地区にある 石 し 垣 がけ には江戸時代、千国船を係留す るために使用した石柱が潮間帯に見られる。また佐久島と南知多町の日間賀島の間には、かつて 寺があったが津波によって沈没したという伝承が残っている。この伝承が残る「寺島」と呼ばれ る海域は現在、水深のやや浅い瀬が広がり、かつては潮間帯や陸域になっていた可能性もないわ けではない。寺等の建築物があった確実な痕跡はまだ確認されていないが、これらも今後、潜水 調査を含めた詳細な検討が求められている。 梶島の東方の暗礁ではかつて、 「漁網に石仏が掛かった」という話がある。この石像もまた、 「宝 珠地蔵」として町内の一角に祀られており、海難供養のために梶島の岩礁上に祀られていたもの が、地震などの衝撃により崩落し、海中に沈んだ地蔵尊なのかもしれない。また梶島でも矢穴石 が確認されている。三河湾の入り口に浮かぶ篠島にも多くの矢穴石があるが、次節では幡豆に残 る矢穴石を中心に、矢穴石から見えてくる築城の歴史について論じたい。 (小野林太郎・伴野義広)

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矢穴石からみる江戸時代における築城の歴史

ここでは、前節で紹介した三河の海に眠る文化遺産のうち、各地に分布している矢穴石に焦点 同じく鳥羽崎山には豊受大神宮があり、 由来などについては不明点も多いが、水揚がりという点では重要な海の文化遺産であろう。 ここには「おかめ塚   昭和三十二年六月   第五参栄丸」 と 刻 ま れ た 高 さ 四 〇 セ ン チ メ ー ト ル ほ ど の 供 養 塔 が あ る ( 写 真 2) こ れ は ウ ミ ガ メ を 供 養 し た も のと思われ、海の文化遺産の一つである。豊受大神宮のある鳥羽の船溜りは丘陵地の先端部が海 岸部に迫り、自然の入江を形成していて特徴的である。また豊受大神宮は、三重県伊勢市豊川町 にある伊勢神宮の外宮が有名だが、伊勢と同じく三重県にある鳥羽の地名同様に三重方面と何ら かのゆかりがあったのかもしれない。 そのほか、四番組町内会の幡頭神社には日本武尊の東国征伐の帰路、駿河の沖で遭難した建稲 写真 2 鳥羽崎山の豊受大神宮にある「お かめ塚」(撮影:伴野) 写真 3 幡頭神社にある「亀岩」(撮影: 伴野)

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第 1 部 海と人の関わり 1 幡豆石と社会 場合などもある。しかも各大名の刻印は数種類あったようで、たとえば名古屋城の刻印だけでも 五〇〇種類が確認されているという。 石垣普請を務めた主な大名としては、加藤清正の盟友でもあった福島正則、黒田長政、細川忠 興、池田輝政、加藤喜明、浅野幸長のほか、鍋島勝茂、毛利秀就、山内忠義など錚々たる顔ぶれ だった。 ところで名古屋城の石垣用材は三河湾沿岸や島以外にも、各地で採石された。名古屋城の石垣 研 究 の 第 一 人 者 は、 髙 田 祐 吉 氏 で あ る。 髙 田 氏 は 名 古 屋 城 の 石 垣 と 採 石 地 の 関 係 に 着 目 し、 現 地 調 査 を 重 ね た 結 果、 幡 豆 を 始 め と す る 各 地 の 石 丁 場 あ る い は 石 切 り 場 が 明 ら か に な っ た( 髙 田  一 九 九 九、 二 〇 〇 一、 二 〇 〇 六、 髙 田・ 加 藤  二 〇 一 三 )。 幡 豆 の 矢 穴 石 に つ い て は、 加 藤 安 信 氏 や 地 元 の( 故 ) 福 田 啓 志 郎 氏、 山 本 村 夫 氏、 石 川 静 男 氏 ら も 研 究 を 進 め て き た( e.g. 加 藤  二〇〇八) 。 これらの先行研究により幡豆地区で矢穴石が発見 ・ 確認されてきた主な場所は、 (1)鳥羽八貫山 ・ 田尻海岸・崎山海岸、 (2)寺部海岸、 (3)前島、 (4)沖島、そして (5)西丸山海岸の計五か所である。ほ かにも幡豆地区周辺では、隣接する西尾市吉良町や蒲郡市の沿岸域など、矢穴石が発見されてい る場所はいくつかあるが、ここではこの五か所について紹介したい。 鳥羽八貫山・田尻海岸・崎山海岸 鳥羽八貫山の矢穴石は、一九九九年に髙田氏が、福田氏や石川氏らとともに行った分布調査に りが うまでもない。特に石垣は、その上に天守が建設されるため、基礎としても重要であり、石垣造 このうち城の防御性という視点から最も重要となるのが、石垣とそれを囲む堀であることは言 持つ天守、櫓、堀などから構成される。 てた安土城以降に普及したとも言われ、平地に二重の掘りと石垣を築き、その中に複数の階層を はそれらを復元したものである。これらは「平城」と呼ばれるスタイルのもので、織田信長が建 本全国に残る城の多くは、戦国末期から江戸時代初期にかけて築城された現存のものか、もしく まず戦国時代から江戸時代初期にかけての城づくりについて簡単に整理しておこう。現在、日 をあて、江戸時代における築城の歴史とその謎に迫りたい。 築 城 の 要 で も あ っ た。 戦 国 末 期 に 築 城・ 普 請 の 名 手 と し て 名 を は せ た 加 藤 清 正 や 前 田 利 家、 藤堂高虎らは、この石垣造りが何より巧かったとも言われる。このうち加藤が手掛けた城の代表 格として、熊本城、江戸城、そして名古屋城がある。中でも天下人となった徳川家康が、江戸城 とともに大規模な築城を命じたのが、名古屋城である。 その名古屋城の築城において天守台の石垣普請を担当したのは、加藤清正だった。記録によれ ば、石垣造りは丁場割といって、加藤を始め多くの西国大名に割り当てられた。その割り当てに 関する詳細については、宮内庁書陵部所蔵の「名古屋城町場請取絵図」でも確認でき、名古屋城 総合事務所には写本が保管されている(髙田・加藤  二〇一三) 。 築城計画は綿密に組まれ、それぞれの大名は刻印といって自分のマークをあらかじめ石垣用材 の 採 石 地 で 彫 っ た。 こ れ は 家 紋 の よ う な も の で も あ る が、 も っ と 単 純 化 さ れ た も の で、 名 前 の

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一方、 八貫山の麓にあたる田尻海岸や崎山海岸に点在する矢穴石は、 潮間帯上に存在しており、 水中文化遺産としても認識できる文化遺産である。田尻海岸では一四列、三六個の矢穴がある巨 石 や、 二 列 五 個 の 矢 穴 の あ る 岩 ( 写 真 6) 崎 山 海 岸 で は 一 列 八 個 の 矢 穴 の あ る 岩 が 見 つ か っ て い る。また崎山海岸では「丸に永」の文もあったとされるが、現時点では確認できない。 寺部海岸 み か わ 温 泉 施 設 の 眼 前 に 広 が る 寺 部 海 岸 に も、 こ れ ま で に 計 二 一 個 の 矢 穴 石 が 確 認 さ れ て い る ( 図 3) 現 存 し て い る 矢 穴 石 に 刻 印 が 認 め ら れ る も の は な い が、 か つ て は「 丸 に 上 」 と「 鍵 に より、肥後藩主加藤清正の刻印三個を発 見したのが最初であった。さらにその後 に実施した調査により、現段階では少な くとも八個の刻印、四種類を確認してい る。 図 2は、 こ れ ま で に 発 見 さ れ た 八 貫 山やその周辺に位置する田尻海岸や崎山 海岸における矢穴石の分布を示したもの である。 八 貫 山 の 矢 穴 石 の 中 で も 特 に 興 味 深 い の が、 加 藤 清 正 の 刻 印 と 考 え ら れ る 「違い山形」 「生駒車」 「丸に二つ巴」 「輪 鼓 」 と い う 文 が 刻 ま れ た 石 で あ る ( 写 真 4・ 5) つ ま り、 こ う し た 矢 穴 石 の 存 在 により、八貫山が加藤清正の採石地に間違いないことが確認されたのである。 筆者らも、八貫山を訪ねたことがある(柏木・小野  二〇一一) 。肩の高さまで茂った雑草をか き分け登っていき、突如としてこれらの矢穴石が現れた時の感動は忘れられない。八貫山は陸域 にあるため、 海の文化遺産とは言い切れないが、 四〇〇年以上前に築城された名古屋城と幡豆が、 海を介して結ばれていた歴史を今に残す重要な文化遺産であることは明らかであろう。 図 2 八貫山・田尻海岸・崎山海岸の矢穴石分布図 (『幡豆町史 資料編 1』、pp403; 図 1 より作成) 写真 6 田尻海岸の矢穴石(撮影:伴野) 写真 4 八貫山で発見された「違い山形」 文と「生駒車」文の入った矢穴石(撮影: 伴野) 写真 5 八貫山で発見された「輪鼓」文の 入った矢穴石(撮影:伴野)

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第 1 部 海と人の関わり 1 幡豆石と社会 上」の刻印があったとされる。いずれも潮間帯に分布しており、水中文化遺産としても認められ る。この矢穴石群は、みかわ温泉施設や道路から近いため、幡豆地区に分布する矢穴石の中でも 最も行き易く、発見もし易い。 前   島 前島は東幡豆港の沖合に浮かぶ無人島だが、二〇〇七年に髙田氏、加藤氏、石川氏、伴野が実 施した分布調査により、西海岸から南海岸、さらには東海岸にかけて計七八個以上の矢穴石が確 認された。特に前島の南海岸には、 多くの矢穴石が集中して分布していることが明らかとなった。 またここからは、その南に位置する沖島を見ることができる。 図 4 こ れ ら 七 八 個 の 矢 穴 石 に 番 号 を 付 け、 そ の 分 布 を 示 し た も の で あ る。 ま た こ の う ち の 七 個から、福島正則に属するといわれる「鱗に十の字」文(二点) 、「丸に出十字」文(一点) 、「角 轡 」 文( 二 点 )、 「 角 に 大 の 字 」 文( 一 点 )、 「 輪 鼓 」 文( 一 点 ) の 計 七 点 の 刻 印 が 見 つ か っ た ( 写 真 7・ 8・ 9)。これらは 図 4中の番号 31、 39、 50、 54、 57、 58、 68に位置する矢穴石である。 さらに二〇一五年三月にも、伴野らは西尾市遺跡詳細分布調査の一環として前島と沖島を調査 し、前島で新規に刻印らしきものを発見した。髙田氏に照会したところ、写真だけでははっきり しないが、 やはり福島正則の刻印と思われる 「三つ輪違いに十の字」 文ではないかとのことであっ た。これらの状況を考慮するなら、前島は福島正則の採石地と考えられ、現時点で確認されてい る 前 島 の 刻 印 は 計 八 点 と な っ た。 こ の ほ か、 『 愛 知 県 幡 豆 町 誌 』 に は「 丸 に 永 」 の 刻 印 が あ っ た N 100m 前  島 31 鱗に十の字 39 鱗に十の字 50 丸に出十字 54 田 57 輪鼓 58 角に大の字 68 田 十 大 1 2 4 57 3-23-1 3-33-4 6 8 9 10 13 11 5154 50 57 56 60 61 62 63 64 73 74 65 66 67 68 69 75 59 58 16 1821 22 77 78 76 15 17 40 36 37 38 39 43 44 53 49 48 47 45 46 42 3534 19 31 29 30 32 33 20262527 23 28 12 55 24 72 71 70 図 3 寺部海岸の矢穴石分布図 (『幡豆町史 資料編 1』、pp404; 図 2(上)より作成) 図 4 前島の矢穴石分布図 (髙田・加藤・石川・伴野による調査成果をもとに

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とされるが、今のところ確認 できていない。 沖   島 前島の南沖合に位置する沖 島でも、 二〇〇〇年に髙田氏、 福田氏、山本氏、石川氏らに よる分布調査が行われ、東側 の海岸で一三個、北東に岬状 に 突 き 出 た と こ ろ で 一 三 個、 沖嶋社にあがる北側階段下の 沿岸で三個の計二九個の矢穴 石 が 確 認 さ れ た ( 図 5) こ の 中には、 毛利秀就に属する 「二 の字」文など二個の刻印のほ か、一二個の矢穴と一五個の 矢穴が十文字に入った矢穴石 ( 口 絵 4・ 写 真 10) な ど が 見 つ 写真 8 前島で発見された「角に大の字」 文の入った矢穴石(撮影:伴野) 写真 10 沖島で発見された 12 個の矢穴 と 15 個の矢穴が十文字に入った矢穴石(撮 影:伴野) 写真 7 前島の南海岸と沖島(撮影:小野) 写真 9 前島で発見された「丸に出十字」 文が入った矢穴石(撮影:伴野) 図 5 沖島の矢穴石分布図 (『幡豆町史 資料編 1』、pp405; 図 3(下)より作成) 図 6 西丸山海岸の矢穴石分布図 (『幡豆町史 資料編 1』、pp404; 図 2(下)より作成)

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第 1 部 海と人の関わり 1 幡豆石と社会 れ て い た「 生 駒 車 」 文 の 刻 印 も 天 守 台 で 七 〇 個 近 く が 確 認 さ れ て い る( 『 幡 豆 町 史   資 料 編 四〇七、 四一一頁) 。 一方、前島で発見された「鱗に十の字」文の刻印は福島正則に属するものとされているが、八 貫山でも確認された「輪鼓」文は加藤清正の刻印とされる。各大名の刻印は複数あり、同じ刻印 が 使 用 さ れ る こ と も あ る が、 同 時 期 に 同 じ 丁 場 で 採 石 す る こ と は な い。 し た が っ て、 前 島 は 福 島 に よ る 石 丁 場 で あ っ た 可 能 性 が よ り 高 い。 こ の ほ か に 沖 島 で 発 見 さ れ た「 二 」 の 刻 印 文 は 毛 利秀就、 かつて寺部海岸で発見された「丸に上」 文 が 豊 前 の 細 川 忠 興、 崎 山 海 岸 で 発 見 さ れ た と 伝 え ら れ る「 丸 に 永 」 文 は 筑 後 の 田 中 忠 政 に 属 す る も の と さ れ て お り、 彼 ら の 石 丁 場 も 幡 豆 地 区にあった可能性が高い。 幡 豆 の 海 辺 や 山 中 に 残 さ れ た 矢 穴 石 は、 一 見 そ の 辺 り に 転 が っ て い る た だ の 石 に し か 見 え な い か も し れ な い。 し か し、 少 し ば か り 注 意 深 く 見 れ ば、 そ こ に は 戦 国 時 代 か ら 江 戸 時 代 に か け て 活 躍 し た 武 将 や 大 名 た ち の 足 跡 が 残 さ れ て い かった。 西丸山海岸 東 幡 豆 の 西 丸 山 海 岸 で も 潮 間 帯 上 に 計 八 個 の 矢 穴 石 が 確 認 さ れ て い る ( 図 6) 残 念 な が ら、 刻 印の入った石は発見されていないが、寺部海岸と同じく沿岸道路から近くて訪ね易く、アクセス 度の高い矢穴石群である (写真 11) 髙田氏によれば、矢口が一〇センチメートル以上の矢穴石は名古屋城築城時の石垣用材のため に あ け ら れ た 可 能 性 が 高 い と い う( 髙 田  二 〇 〇 六 )。 こ の 理 解 の も と に、 改 め て 幡 豆 地 区 に お け る 矢 穴 石 を 見 て み る と、 確 か に 矢 口 が 一 〇 セ ン チ メ ー ト ル 以 上 の も の が 多 い ( 写 真 12) こ の た め 幡豆を含め、三河湾沿岸部で発見されている矢穴石は名古屋城築城時か、その後の宝暦大修理用 に搬出されようとした石垣用材の残石である可能性が高い。また吉田城(豊橋市)の改修の際に 用いられたとも考えられている。 こうした残石に記された刻印は、石の切り出しを担当した大名の符丁であり、担当大名を特定 できる貴重な資料でもある。したがって、矢穴石に残された刻印から、各石丁場を担当した大名 を推測することも可能になる。たとえば幡豆地区においては、 鳥羽の八貫山は残された刻印から、 明らかに加藤清正の丁場であったことが指摘できる。ここで発見された「違い山形」文や「丸に 二つ巴」文の刻印石は、名古屋城の天守台石垣でも確認されており、特に後者の刻印石は名古屋 城の大・小天守台のみで約三〇個が確認されているという。また「違い山形」文とセットで刻ま 写真 11 西丸山海岸と矢穴石(撮影:柏木数馬氏) 写真 12 幡豆の矢穴石に見られる矢口のサイズや形状(撮影: 小野)

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結することもあり極秘事項であったことがその要因の一つであろう。たとえば海との関係でいえ ば、名古屋城や江戸城などの普請場へと運ぶ際に使用された石船に関する記録もほとんど残って いない。このため、石垣に利用されたあれだけの数と大きな石がどのように積載され、どの程度 の規模の船によって運ばれたのかといった運搬方法についても不明な点はいまだ多い。 ところが、幡豆では北村和宏氏と伴野が二〇一〇年一月に行った安泰寺(曹洞宗)の位牌調査 で、慶長一五年五月三日に没した「江海院殿雄山宗英居士」の位牌の裏面に「石割奉行尾城立時 逝」という文言が線刻されていることが判明した。これは幡豆で名古屋城築城について初めて見 つかった文字史料で、釘のような先端が尖ったもので、刻書されていた。 さらに安泰寺の『檀那牒』や『過去簿   全』などから、長門国(現在の山口県)の「淡屋次郎 衛門」なる人物がこの位牌の人物として注目されることも確認された。その位牌は総高六一セン チメートルほどで、法名や没年月日は通常の陰刻だったが、裏面の没年月日の右側にはやはり線 刻で「西山極」とあった。ただし、この文意についてはまだよくわかっていない。 沖島には毛利に属する刻印があるが、毛利の家臣を調べていくと「粟屋次郎右衛門孝春」なる 人物が確認できた。この粟屋次郎右衛門孝春は名古屋城の普請に加わり、慶長一五年五月四日に 亡くなっている。普請の最中に死亡したことになり、何らかの事故に巻き込まれたのかもしれな い。そこでこの前後の記録を調べてみると、前日の慶長一五年五月三日には大雨で木曽川が氾濫 していた。その詳細はまだ不明であるが、彼の死がこの大雨と関係していた可能性は十分にある だろう。 紹介したい。 からわかってきた新たな歴史の一側面を紹介し、幡豆における海の文化遺産とその魅力について 歴史のロマンや隠された謎に触れることができるだろう。そこで次節では、さらに幡豆の矢穴石 ることに気付くはずである。またこれら幡豆で切り出された石が、海を介して名古屋城と繋がる  (小野林太郎・伴野義広)

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幡豆における海の文化遺産とその魅力

前節では、幡豆に分布する矢穴石の詳細について紹介したが、沿岸部や島嶼部などで採石され た矢穴石は、船を使って、名古屋城に運ばれたことを物語っている。 実際、石材の運搬には船あるいは筏が用いられたと考えられており、潮の干満を活かして石材 を積み出したと推測される。江戸城築城の際には約三〇〇〇艘の石船が建造され、主な採石地で あった伊豆半島と江戸との間を行き来したという伝承も残っている。しかし、運搬に用いられた 石船や筏の詳細などに関して記された当時の記録はほとんど残されておらず、また船体遺構も確 認されていない。 このように幡豆やほかの採石地でも、採石に関して残された文字史料はほとんどないのが一般 的だ。採石の際には、 地元の人や船なども使い、 食料や水も調達したことは容易に想像できるが、 その記録がほとんどないのである。今でこそ城は文化財として扱われているが、当時は軍事に直

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第 1 部 海と人の関わり 1 幡豆石と社会 本 章 で は、 か つ て『 幡 豆 町 史   資 料 編 1』( 二 〇 〇 八 ) に 加 藤 安 信 氏 が ま と め ら れ た 幡 豆 地 区 の矢穴石分布図を利用、 あるいは発展的に編集した分布図をいくつか紹介した。矢穴石のように、 世界遺産とまではいかない身近な地域の文化遺産も、 丹念に探っていくと多くの謎やミステリー、 歴史ロマンに満ち溢れており、重要で貴重な文化遺産である。そしてこうした身近な文化遺産を どのように保護していくかを考える時、まず大事なのはできるだけ多くの人々が、これらの文化 遺産に興味を持ち、実際に訪ねてみたり、調べてみたりすることである。 幡豆地区の場合、歴史民俗資料館でさらなる情報を得ることもできるし、地域に残された伝承 を調べることもできるであろう。また幡豆公民館や歴史民俗資料館では、文化財めぐりや、民話 めぐり、各種のウォーキングなど海の文化遺産を取り入れた事業を行っている。そこで矢穴石に 少しでも興味を持つ人は、海の文化遺産を訪ねるそれらの行事に参加してみるのも面白いかもし れない。ぜひ身近にある海の文化遺産の新たな可能性とその魅力に関心を向け、実際に見て、触 れ、自ら感じて頂ければ幸いである。  (小野林太郎・伴野義広)

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東幡豆港と幡豆石

幡豆における砕石と運輸は今も重要な産業となっている。ただし、現在はかつての矢穴石のよ うな大きな石だけでなく、建設資材としての細かな石も重要な産品である。その石は陸路トラッ このように「淡谷次郎衛門」と「粟屋次郎右衛門」という名前の若干の違いや没日が一日違う 点、そのほか法名や没年齢も違っており、同一人物とするにはなお解決すべき問題はあるが(北 村  二 〇 一 〇 )、 一 つ の 発 見 が ま た 新 た な 問 い を 生 み、 次 な る 発 見 へ と 繋 が っ て い く の は、 歴 史 を 紐解く醍醐味かもしれない。 石船に関する問題も含め、江戸初期における築城の歴史には、学術的にもまだ解決すべき謎が 多く残されている。さらに重要なのは、幡豆地区におけるこれら多くの矢穴石が、八貫山など陸 域のものを除けば、いずれも潮間帯の沿岸域に分布していることである。 ユネスコによる水中文化遺産の定義にしたがっても、また日本の水中考古学や海洋考古学の理 解においても、潮間帯に位置する文化遺産は水中文化遺産として認識される。つまり、幡豆地区 を 中 心 と し た 西 尾 市 に は、 歴 史 的 に も 価 値 の 高 い 水 中 文 化 遺 産 が 数 多 く 分 布 し て い る の で あ る。 特に矢穴石が語る過去の歴史や海を介した人々の営みは、大きな魅力を持っている。そして丹念 に歩けば、さらなる発見の可能性もまだまだ残されていることも大きな魅力だ。 水中文化遺産の中でも、主に潮間帯に位置する文化遺産は身近で行きやすく、そのアクセス性 においても優れている。たとえば、ユネスコを中心に世界で活発化しつつある「海底遺跡ミュー ジアム」では、見学に際してスキューバや船が必要となり、経済コストや時間のかかるものが少 なくない。これに対し、幡豆地区に分布する水中文化遺産の多くは、ダイビングやシュノーケリ ングができなくても、徒歩で見学や実見ができる。これも幡豆における海の文化遺産が持つ大き な魅力であろう。

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堤」と一つの「中央防波堤」のあわせて三つの防波堤が整備されている。 加 え て、 港 内 に お け る 船 舶 交 通 の 安 全 及 び 港 内 の 整 と ん を 図 る こ と を 目 的 と し た「 港 則 法 」 の 適 用 港 で あ り、 中 柴 海 岸 南 端 と 寺 部 海 岸 南 端 と を 結 ん だ 線 が 港 則 法 に 定 め る 港 界( Harbour  Limit )である。 東 幡 豆 港 の 貨 物 取 扱 量 や 種 目 は、 過 去 も 現 在 も 貨 物 の 取 扱 量 中「 石 材 」 が 突 出 し て 多 い こ と が 特 徴 と し て 挙 げ ら れ る。 二 ○ 一 一 年 の 愛 知 県 港 湾 統 計 に よ る と、 東 幡 豆 港 の 貨 物 取 扱 総 量 二二八 ・ 九トン中、 実に二二六 ・ 二トンが石材の移出であり、 その割合は約九九パーセントにも上っ た。これは、東幡豆港の後背地が良質の石の産出地であることによるものである。東幡豆港には これらの石材を船積みするための専用ふ頭があるが、山中で切り出された石材はふ頭まで運搬さ れたのち、船積みされて目的地へと向かうのである。 貨物の取扱量や取扱い種類といった港勢は後背地の生産及び消費活動に大きく影響されること は 言 う ま で も な い。 東 幡 豆 港 の 後 背 地 で 切 り 出 さ れ た 石 材 は「 幡 豆 石 」 と し て 移 出 さ れ て い く。 矢穴石の紹介でも触れたが幡豆石は花崗岩であり、硬度が高く、比重が重い。また断面は凹凸に 富むことから摩擦力が大きく、安定度が高いことが特徴である。幡豆の地形や陸域にある採石場 と時代背景が、この東幡豆港の貨物取扱量を決めているのである。 ク で 運 ば れ る ほ か、 東 幡 豆 港 ( 写 真 13) か ら 船 で 運ばれる。東幡豆港は、港湾法上の分類では地方 港湾に当たり、港湾管理者は愛知県である。この 港 の 港 湾 区 域 は 五 〇 ヘ ク タ ー ル に 及 び、 そ の 中 で「中柴」 、「桑畑」及び「洲崎」の各地区に分か れている。港湾区域とは、港湾管理者が港湾の機 能を運営・維持するために必要な区域及び港湾管 理者が管理する区域のことであり、東幡豆港の港 湾区域は、一九六五年二月四日に指定された(但 し、当然のことながら貨物の揚げ積みや漁獲物の 水揚げ等はそれ以前からされており、この日付が 東幡豆港の港として機能の始まりを表すものでは な い )。 東 幡 豆 港 の 港 湾 区 域 は 指 定 以 来 港 湾 管 理 者による整備が続けられ、現在では主に国内貨物 の 移 出 入 の た め の 岸 壁( 七 バ ー ス )、 物 揚 げ 場 や 船揚げ場、マリンレジャーのためのマリーナ等が 整 備 さ れ、 港 の 使 用 目 的 は 多 岐 に わ た っ て い る。 また港の静穏度を高くするために二つの「南防波 写真 13 東幡豆港(出典:愛知県建設部港湾課 HP)

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第 1 部 海と人の関わり 1 幡豆石と社会 港は、最初の築港工事が完了しても、それがそのまま完成形となることはまずない。機能の強 化や入港船型の大型化等ニーズに合わせてどんどん姿を変えていくものである。また常に波浪や 潮流にさらされる防波堤や導流堤、埋立て護岸等の施設は継続的に改修を重ねる必要がある。そ のような中で幡豆石は、伊勢湾内及び三河湾内の大小多数の港湾の築港及び改修等に継続的に使 用されてきた。特に昭和二八(一九五三)年の台風一三号、昭和三四(一九五九)年の伊勢湾台 風の来襲に伴って壊滅的な被害を受けた伊勢湾内及び三河湾内の港湾の修復工事とその後の防災 対 策 工 事 に お い て は、 東 幡 豆 港 か ら 移 出 さ れ た 幡 豆 石 は 迅 速 か つ 大 量 に 供 給 さ れ た こ と に よ り、 大いに役立ったことが記録されている。また近年では名古屋港内及び近辺の埋立地の埋立てや防 波堤の建設、中部国際空港の空港島の埋立て等にも使用されている。 このように石材の産出能力、良質な石材を必要とする消費地との関係等からみて東幡豆港の立 地は特に優れていると言え、よって古くから石材の移出を主として発展してきたのである。近年 では石材専用ふ頭と泊地の拡大、一部の岸壁水深や航路の増深等の整備により受入れ船型の大型 化や荷役可能量の増大が図られ、その機能の充実化が図られている。  (藤原千尋) 引用・参考文献 伴野義広(二〇〇七)第一章  位置と環境  第一節  立地と自然環境・第二節  歴史的環境。 In:伴野義広・原田 幹、 愛 知 県 幡 豆 郡 幡 豆 町 江 尻 遺 跡 ― ― ソ フ ト バ ン ク モ バ イ ル 株 式 会 社 携 帯 電 話 無 線 基 地 局 建 設 に 伴 う 発 掘調査報告書。幡豆町教育委員会。 三河の海運発展を支えた幡豆石 三河湾内や伊勢湾内には国際貿易の拠点となる大規模な港、国内貨物を専門に取扱う港、沿岸 漁業の漁船のための港など大小数多くの港が存在し、 それらの築港工事が古くから行われてきた。 波浪や潮流に常にさらされる特殊な環境の中、捨石や護岸には安定度の高い石が大量に必要とな る。そこで、工事現場から比較的至近に目的に適う良質の石が産出されるといったことから、東 幡豆港から三河湾内及び伊勢湾内への幡豆石の海上輸送が発展していった。重量物である幡豆石 を、港湾工事等のために一度に大量に運搬するためには、たとえ近距離であろうとも船による海 上輸送は最適な手段であるといえる。 一般的に船舶による海上輸送と言えばある程度の距離が離れた状況を想像しがちであるが、大 型 の 内 航 船 で も そ の 大 量 輸 送 能 力 を 発 揮 し て 同 一 湾 内、 同 一 港 内 及 び 隣 接 港 間 と い っ た 極 近 距 離の輸送に従事することは多い。他港では、同一港内の製油所から発電所まで燃料油を総トン数 三〇〇〇トンのタンカーで三時間に満たない航海で運ぶ例もある。 一方で東幡豆港発の幡豆石の海上輸送は、伊勢湾内及び三河湾内に限らず、紀伊半島をまわっ て近畿地方まで、また駿河湾や相模湾、遠くは伊豆諸島までの航路もある。伊勢湾及び三河湾内 相互港間であれば、船舶安全法上「平水」資格の船で航海することができるが、湾外に出る場合 は そ の 航 行 区 域 に あ わ せ て よ り 厳 し い 要 件 が 求 め ら れ る。 東 幡 豆 港 に は 平 水 資 格 船 の み な ら ず、 「沿海」 、「近海」 又は 「限定近海」 の資格を持ったより広い区域を航行できる船舶も入港している。

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Cultural Heritage, pp. 683-697. 坂上憲光・李  銀姫・山田吉彦・川崎一平・仁木将人・小野林太郎・石川智士(二〇一四)石垣島におけるも のづくりを通した海洋環境社会教室。工学教育、六二巻三号、四七 -五二頁。 髙田祐吉(一九九九)名古屋城石垣の刻紋。続・名古屋城叢書 2、名古屋城振興協会。 髙田祐吉(二〇〇一)名古屋城――石垣刻印が明かす築城秘話。文化財叢書第九五号、 名古屋市教育委員会。 髙田祐吉(二〇〇六)石垣刻印が語るもの。 In:東海道の城下町展Ⅱ。豊橋市二川宿本陣資料館。 髙 田 祐 吉・ 加 藤 安 信( 二 〇 一 三 ) 名 古 屋 城 の 丁 場 割 と 石 垣 の 刻 印。 In: 新 修 名 古 屋 市 史   資 料 編   考 古 2。 名古屋市。 幡豆町誌編集委員会(一九五八)愛知県幡豆町誌。幡豆町。 伊東市教育委員会(二〇一〇)静岡県伊東市伊豆石丁場遺跡確認調査報告書。 岩淵  聡(二〇一二)水中考古学入門― ― 海の文化遺産。 柏 木 数 馬・ 小 野 林 太 郎( 二 〇 一 一 )「 海 の 文 化 遺 産 総 合 調 査 プ ロ ジ ェ ク ト に 伴 う 二 〇 一 〇 年 度 東 海 地 方 調 査 報告―静岡県 ・ 愛知県 ・ 和歌山県沿岸での遺跡踏査、 聞き取り、 文献収集の成果と課題。水中考古学研究、 五号、二九 -四三頁。 加 藤 安 信( 二 〇 〇 八 ) 名 古 屋 城 石 垣 用 石 切 り 出 し 遺 跡   八 貫 山・ 前 島・ 沖 島 他 の 矢 穴 石。 In: 幡 豆 町 史   資 料編 1   原始・古代・中世。愛知県幡豆郡幡豆町。 北 村 和 宏( 二 〇 一 〇 ) 付   「 石 割 奉 行 」 粟 屋 次 郎 衛 門 に つ い て。 In: 幡 豆 町 史   資 料 編 2   近 世。 愛 知 県 幡 豆郡幡豆町。 松下悦男(二〇〇六)名古屋城の築城と石の切り出し。 In:蒲郡市史   本文編 2   近世編。蒲郡市。 南 西 諸 島 水 中 文 化 遺 産 研 究 会 編 / 片 桐 千 亜 紀・ 宮 城 弘 樹・ 渡 辺 美 季 著( 二 〇 一 四 ) 沖 縄 の 水 中 文 化 遺 産 ― ― 海に沈んだ歴史のカケラ。ボーダーインク。 小 野 林 太 郎( 二 〇 一 三 ) 伊 豆 諸 島( 二 〇 一 〇 -二 〇 一 一 年 度 ) ―― 八 丈 島、 伊 豆 大 島、 初 島、 神 津 島、 新 島 を 中 心 に。 四 七 -五 七 頁。 In: ア ジ ア 水 中 考 古 学 研 究 所 編、 水 中 文 化 遺 産 デ ー タ ベ ー ス 作 成 と 水 中 考 古 学の推進――海の文化遺産総合調査報告書 -太平洋編 -。東京、公益財団法人日本財団。 小野林太郎(二〇一四)沖縄の水中文化遺産と「海底遺跡ミュージアム構想」 、 Ocean Newsletter,  三三三号、 四 -五頁。 小野林太郎・片桐千亜紀・坂上憲光・菅  浩伸・宮城弘樹・山本祐司(二〇一三)八重山における水中文化遺 産 の 現 状 と 将 来 ―― 石 垣 島・ 屋 良 部 沖 海 底 遺 跡 を 中 心 に。 石 垣 市 立 八 重 山 博 物 館 紀 要、 二 二 号、 二 〇 - 四三頁。 Ono, R., H. Kan, N. Sakagami, M. Nagano and C. Katagiri (2014) First Discovery and Mapping of Early  Modern Grapnel Anchors in Ishigaki Island and Cultural Resource Management of Underwater  Cultural Heritage in Okinawa. In Hans Van Tilburg, SilaTripati, Veronica Walker Vadillo, Brian  Fahy, and Jun Kimura (eds.) Proceedings of the 2nd Asia-Pacific Regional Conference on Underwater 

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第 1 部 海と人の関わり

2

 

港と沿岸環境

1

 

東幡豆港の変遷

明治の中ごろから大正、昭和初期にかけての幡豆石の海上輸送には、木船の帆船「団平船」が 活 躍 し た ( 写 真 1) 団 平 船 は 石 材 の み な ら ず 常 滑 の 瓦、 熊 野 の 木 材、 大 阪 や 九 州 方 面 へ の 雑 貨 の 運搬といったように幅広く用いられていた。石切り場から搬出された石材はトロッコに乗せられ て港まで運搬され、岸壁に設置されたスロープから船倉に石材を滑らせて団平船に船積みされて いた。 そのため岸壁にはトロッコの線路やスロープ等比較的大がかりな荷役設備が備わっており、 多数の作業員が荷役に従事していた。 現在の幡豆石の海上輸送には、主に「ガット船」と呼ばれる、本船にクレーンを搭載した運搬 船 が 活 躍 し て い る ( 写 真 2) ガ ッ ト 船、 と り わ け 東 幡 豆 港 に 入 港 し て 荷 役 す る も の に つ い て は そ の 用 途 は 石 材 の 運 搬 に 特 化 し、 石 材 の ピ ス ト ン 輸 送 に 従 事 し て い る。 時 が 経 つ に つ れ 船 は 大 型 化されてきており、団平船がほ ぼ三○トン程度であったのに対 し、現在のガット船は総トン数 三 〇 〇 ト ン か ら 四 〇 〇 ト ン 台、 載貨重量トン一千クラスになっ ている。 石 材 の 積 出 岸 壁 ( 写 真 3・ 4) では、グラブバケットを装備し た本船に搭載されているクレー ンが野積みされた石材をつかみ 取り、船倉へ積み込む。ふ頭へ の石材の搬入は、トロッコに代 わってトラックにより行われる ようになった。そのため岸壁に は大がかりな荷役設備が必要な くなり、時間の短縮化、省人化 も図られてより効率的な荷役が できるようになってきた。過去 写真 1 団平船の模型(幡豆町歴史民俗資 料館蔵。撮影:藤原) 写真 3 石材専用岸壁 ガット船の着岸場 所(撮影:藤原) 写真 2 東幡豆港に停泊するガット船「宝 永丸」(撮影:藤原) 写真 4 石材専用岸壁 岸壁上に野積みさ れている幡豆石(撮影:藤原) 2 港と沿岸環境

図 3 三河湾における栄養塩負荷量、埋め立て面積(上)と透明度、赤潮 発生のべ日数、貧酸素水塊の面積比(下)の経年変化(青山(2000)より)
図 9 混合モデル(IsoSource プログラム)を用いた、各有機物 起源に対するアサリの依存度の推定(2013 年 7 〜 8 月) 図 10 混合モデル(IsoSource プログラム)を用いた、各有機 物起源に対するユウシオガイの依存度の推定(2013 年 7 〜 8 月)炭素安定同位体比 δ13C(‰) 炭素安定同位体比 δ13C(‰) 窒素安定同位体比 15δN (‰ )窒素安定同位体比 15δN (‰ )懸濁態有機物懸濁態有機物堆積有機物堆積有機物依存度(%)依存度(%)依存度(%)依存度(%
図 1 調査メモの図

参照

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