『
大
日
経 』
に
関
す
る
sNar
−thang
寺
の
相 承
系
譜
山
本 匠
一郎
目次 〔本 論〕 は じ め に bKa’− gdams 派 につ い て bKa ’−gdams派 史 資 料 sNar−thang 寺座 主次 第に見る仏教 界の 動 勢 Bu −stonが相 承した 『大日経 上の系 譜 『大目経 広 釈 』の文 献 史上の問 題 ま と め 〔和 訳資 料 〕 「明灯史 』(sNar−thang寺 第7代一第 16代 座 主 )和訳 〔参 考 文 献 ・註 〕 は じめにsNar −thang
寺
は、Tshang
(蔵 = チベ ッ ト中西部 地方 )のgZhis
−ka
−rtseの南 西16
k
皿に ある、bKa
’−
gdalns
派に属 する大学 問寺
である。1153
年
、A
ロ自a(Diparpkara
− ≦宜」伽 a,982
−1054
)の弟
子gTum
−ston (llO6− ll66 )に よ っ て創 建さ れ た。 い わゆ る
「
sNar −tha皿g
版」
大 蔵 経 を開
版 した地 と して巷 間に知 られる 1)。 諸種
のチベ ッ ト大蔵 経の
木
版 本を開版印刷す
るに際
しては、14
世 紀 初め頃 まで にsNar −thang
寺
で筆
写さ れ た膨 大 な写本
群がベ ース に なっ た。 sNar −thang
寺における大蔵 経の収 集 ・筆 写 ・編 纂
事
業は、 チベ ッ ト仏教 史に お け る画期 的 大 事 業であっ た。 これ を可 能にし たの は、12
−13
世紀に 一 大勢力
をふ るっ たSa
− skya 派 が 、事 業に対 して全 面 的な資金 援 助 を行っ た とい う実 際 面、 お よ びbKa
’−gdams
派の 学 問 的 なモ ッ トーで ある「
顕密
双修 」
という
総 合 仏 教 を志向す
る理論面
の二者
が結
びつ い て 、 実 現 され た もの とい えよう
。 当初は律 寺 (433
)智山学報第五 十 六輯
的
性格
を もっ て創
建さ れ た sNar −thang 寺
とい えども、Bu
−ston (12gO
−1364
)以降、
gSang
−phu
教 学 (顕教 )、 お よ び密
教 を導
入 し、Sa
−skya派
、bKa
’−brgyud
派、dGe
−lugs
派とも相互 に交 流 してい る。 こう
し た経緯
につ い て はすで に羽 田野伯猷氏
の 一連
の研 究
に よっ て明
らか に され てい る が、扱
っ てい る資料
が参
照機会
の少 ない 蔵 外 文 献で ある点
か ら、 以後
の研 究がそれ ほ ど進
展 して い る と は言
い難
い 。 ゆ えに本論 文
では、bKa
’−gdams
派 史 を論ず
る 上 で羽 田 野 氏が依拠
し た重要
な文献 『
明灯史』
の部分和
訳 を資料
として掲 げ
ておい た。『大日経
』
は、 チベ ッ トに仏教 が流伝 した初 期にあたる8
世紀 後 半、Buddha
−guhya
の広略
二種
の注釈
と ともに もた らさ れた (dKar
chagIDan
dkOr
ma )。 チベ ッ ト流
伝
前 期 という
早い 時期に もた ら さ れ た『
大 日経』
で は ある が、 以後『
大日経』
に関す
る トピ ッ ク は、 お よそ650
年
の 歳 月 を経 た1461
年
に、 「歴 史 家 と して有名
な」2)gZhon
−nu−dpal
(1392
−1481
) が 、Buddhaguhya
の 『大 日経 広 釈 』 を校 訂 した点に指 を折る。 しか し、 その間の 六世 紀 半に及ぶ歳 月につ い て、 どの よう
な経緯
が存
した か につ い て は、 羽 田 野氏の 指摘 を除い て、 あ ま り先行
研究
で は問題 に されて こ なかっ た。 こ こ で は羽 田野氏
の先行
研究 を
トレースす
る形で、 sNar −thang 寺
の 相承系 譜
に焦 点 を 当て て、 チベ ッ ト仏 教史
における「
大 日経 』の流伝
につ い て論
じたい 。bKa
’−gdams
派 につ い てチベ ッ ト仏 教の流
伝 史
は前
期 と後
期に分か れ る 。 流 伝前
期は、Srong
−btsan
− sg 一po
王 (581 −64g
)か らGlang
Dal
−ma 王 (803
−842
)3)まで の 古 代チベ ッ ト ニ ン マ 王 国全 盛時
をい い 、 こ の時期
に翻訳
さ れ た典籍
を旧訳 (,Nying m 。) という
。814 年
以前
まで に仏典
の訳 語法
に関して新
決 択 語 (欽 定訳 語 ) が制定
さ れ、 主 としてそれ以前に訳 出さ れ た典 籍 をい う。 流 伝 後 期は、9
世紀 半ば か らの 国 難に よっ て2
世 紀 近 くの 空 白期 間 を経た後、ll
世紀 半ば に律 の 伝 統を もっ た仏教が復興 した時か ら、 イ ン ド仏 教の 流伝が歴 史 的に終わっ た13
世 サル マ紀初
頭 まで をい い 、 この時期
に翻
訳 さ れ た典籍
を新
訳 (gSar ma )という
。 と『大日経』に 関する sNar −
thang
寺の相承 系 譜 (1LI
本)れ た典 籍 をい う。 その
Rin
−chen −bzang
−po
が、 イ ン ドか らチベ ッ トに招 聘 したの が
Vik
エamaSila寺
院の学頭
AtiSa
であ
る。Atrga
は1042 年
に チ ベ ッ トに入り、彼 を創 唱 者 として、その 弟子たちが
bKa
’−gdams 派
を形成し た。bKa
’−gdams
派は、 興 廃 した チベ ッ ト仏教 を再建 し、 その 後の チベ ッ ト仏教
に大
きな影響
を与え た。 チベ ッ ト最 大
宗派
のdGe
−lugs
派の 祖Tsong
一 a−pa
(1357 − 141g )もまた 「新
bKa
’−gd
s 派 」 を もっ て任 じ たの で 、AtlSa
直系
のbKa
’−
gdams
派は、
新
bKa
’−
gdams
派 と区 別 して 「旧派 (前派 G ・ng ma )」
と も呼
ば れ る。 しば し ば
後
世の史書
はdGe
−lugs
派 資 料に基づ い てbKa
’−gdams
派を見てい るとい
う
問題点
が指摘
さ れ、bKa
’−gdams
派の 歴 史 を知るた め に は周 辺 資 料を探 る必 要がある。bKa
’−gdams
派
に関す
る資
料 として以下の もの が ある。bKa
’−gdams
派 史 資料 (羽 田 野伯 猷 匚1986 :49 −55 ]参 照)〔
1
〕
Ye
−shes −rgyal−mtshan ,‘‘Byang
chub
lam
kyi
rimpa
’i
bla
ma 加gy
配4
pa
’i
rnam
par
tharpa
, rGyatbstan
mdzespa
’i
rgyan mchogphul
わy
跚9
nor 伽 ”phreng
ba
3
’ (Toh
.NQ5985
.『道 史』と略 記)4) 〔H
〕’Gos
gZhon
−nu−dpal
(Yid
−bzang
−rtse−ba
),“
Deb
ther sngon po
l
’(]r{)h.No7036
.『デ プ テル グ ンポ』と略記)5)
〔皿〕
Kun
−dga
’−rgyal −mtshan ,“
bKa
’gdams
kyi
mampar
tharpa
,bKa
’gdams
chos’
byung
gsal
ba
’i sgron 〃meS
’ (Toh .NQ7038
.『明灯 史 』と略 記)6}上記三
者
の資料
に関す
る 羽 田野 氏の 紹 介 を簡便に再 説 して おく
。〔
1
〕 『道 史 』は、bKa
’−
gdams
派
の基本的
な論書 『
菩
提 道 次 第』
に 関 する伝
灯 諸 師
伝
で あ る。 著 者 はYe
−shes −rgyal −mtshan (1713 −1792
)で 、 著 述 年代は
1787
年。 彼はdGe
−lugs
派の 中で も密 教 系で あるパ ンチ ェ ン ラマ系
の 色彩
が濃い 人 物で ある。内
容は 、 まず
イ ン ドに さ かの ぼ り、次いで
bKa
’−gdams
派、dGe
−lugs
派に及ぶ諸 師の伝記
である。 こ こで 問題 にする sNar −thang
寺
に関 して は、創
建者
gTum
−ston (1106− 1166 )の 項で その 座主次 第を あ げてい る。 記 述 する分 量は わ
ず
か に3
枚
程 度で あ り、智 山学報 第五 十六輯
内容
は『
デ プテル グ ンポ』よ り もわずか に詳 しい 程 度で あっ て、 か なり後代
の 成 立である点
か ら もsNar −thang寺
に関す
る資料 的価値
は他 2
書 に比べ て相対 的 に低V 〔ll
〕 『デプ テ ル グン ポ』
は、 チベ ッ ト仏 教 史として最 も重要な書の 一つ である。
著者
はgZhon
−nu−dpa1
(13g2− 1481)で、 著 述 年代は1476
−78
年。gZhon
−nu−
dpa1
は翻 訳 師 (L。−tsa−ba)と して 、 rTse −thang 寺で活 動 した人で 「rTse −thang の 人 」 (rTse
thang
pa
)と称
さ れ る。 rTse 一血 ang寺
はdBus
(衛; チベ ッ ト中東 部)の
Yar
−klungs
川 とgTsang
−po
江が合
流 す る辺 にある 、bKa
’−brgyud 派
に属 する 大 学 問寺
で あ る 。Ta
’
i
−situ
Byang
−chub −rgyal −mtshan (1302− 1373 )7)に よ っ て
1351
年に開創 さ れ た。 当時の 学 問
寺
は超 宗 派 的 な性 格 を持 ち、 rTse −
tha
皿g
寺
は、 sNar −thang寺
(bKa
’−
gdams
派)、dGa
’−ldan
寺 (Ts・ng 一 a−paが 1408 年創 建 )、
bKra
−shis−lhun
−po
寺 (dGe −・dun −gmb が 1446 年創建)とも
相
互 に交
流 し た。 と りわけdGe
−lugs
派は密 教的側面
を多 く
bKa
’−brgyud
派 に負 う
。 sNar .thang
寺
の論
述に関
して は、
大 蔵 経 縁 起 及び
gSang
−phu
教学
につ い て論
述す
る箇所
で し ば し ば触
れてい るが、 その 座 主次 第に 関 して は わずか に !枚 程 度の分量 に す ぎ な い 。
〔
皿1
〕 『
明灯
史 』は、bKa
’.gdams
派 史 に関す る 「綜 合 的かつ 体系
的 な詳細
な解 説書 」である。 著
者
Kun
−dga
’−rgyal−mtshan8 )は、
gZhon
−nu −dpal
に師事し、 rTse −thang
寺
の寺務長
(las chen )を勤
め た。 著 述 年 代 は1494
年で、『
デプテ ル グン ポ』
と近接
した時 代に著 さ れ た。bKa
’−
brgyud
派
の 人物
が
bKa
’.gdams 派
の編年
史 を著 述 した点につ い て は、 羽 田野 氏に よ れ ば「彼が rTse −
thang
関係 者で あっ て、bKa
’−gdams 派
もし くは黄 帽派 内に封鎖 され た人物で なか っ たこ と は、 客 観的 中 正 な史観 と叙述 を成 功せ し
める に寄 与 する とこ ろ が
大
きか っ た か にみ える」。 『明 灯 史』
は、師
gZhon
・nu−dpal
の『
デ プテル グンポ』
に刺 激 されて著作
さ れ たも
の と見
ら れ、 『明灯 史
』
で も しば しばgZhon
−nu −dpal
に対 する信 頼 と敬 意 を表
してい る。 しか し 『明灯 史 』は 『デプテ ル グ ン ポ』の
bKa
’.gdams
派 史r
大日椡 に関する sNar −thang 寺の相承系 譜 (山本) の 論 究に十倍 する分量で あ る点か ら も、 その厳 密 性 と精 緻 さを窺い 知 るこ とがで きる。 sNar −thang
寺 座 主 次 第に見る仏教 界の動 勢 そ れで は 『明 灯 史』に お け る sNar −thang
寺の座 主 次 第 を見て み よう。 sNar −thang
寺
座 主 次第(
初 代〜16
代ま で) 代 座 主 名 在位 期 間 在 位年数初代 gTum −ston (1106− 1166) Il53− ll67 14
2
代 rDo −stonShes
−rab−grags ll67− 118720
3 代 Shang −btsun rDo 一可e/od ll87− ll95
8
4 代 Gro −ston bDud −rtsi−grags 1195− 1234 39
5 代 Shang −ston Chos−kyi−
bla
−ma 1234− 1243 106
代 Sangs−rgyas −sgom −pa−s已ng −ge−skyabs 1243− 1252 107 代 mChims Nam −mkha ’−
grags
(1210− 1288)9) 1252− 128836
8代 sKyo sTon −par−grags−
pa
(1228?− 1311)1288
−1304
? 159
代 mKhan −chenNyi
−ma −rgyal −mtshan (1237?− 1317)1304
?−1312
? 710 代 mKhan −chen ’Dul−ba−’
dzin−pa (Ze’u mTshan −grags−pa−
brtson
−’grus
)(1253?− 1328)
1312?−
1324
?12
11
代Grags
−pa
−shes−rab (1259?− 1335 ?) 1324?− 1335? 1112 代 mKhan −chen Blo−bzang−grags−pa (1299’〜− 1375) 1335?− 1375 39
13
代 mKhan −chen Kun −dga ’−rgy飢一mtshan (1326?− 1401) 1375− 1401 2714 代 mKhan −chen Grub −
pa
−shes−rab−pa (1357−1423
) 1389− 1418 30 15代 mKhan −chen bSod −nams −mchog −grub−pa (1399−1452
) 1418− 1433 1616
代 mKhan −chenGrags−don−
pa
(sPyan −sngaGrags−don −
pa
) (1377− 1467)1438− 1467 30
こ こ で は と りわ け sNar −
thang
寺 第7
代 座 主 mChi 皿 sNam
−mkha ’−grags
(1210 − 1288.mChims Thams −cad −mkhyen −pa , mChims Chen −mo と も称さ れ る) 以後の
智 山学報 第五 十六輯
流れにつ い て述べ て お こ
う
。 mChimsNam
−mkha ’−grags
は、古代
チベ ッ ト王国時代
か らの有数
の 門閥mChims家
の生 まれで、 rGyal −tse近 郊Nyang
−stod のsTag −tshalで
1210
年に生 まれ た。 幼 くして出家 し、 あ ら ゆ る仏 典 に通 暁 したと言わ れ る。 『倶 舎 論
』
の 注 釈10)等
の多
くの著 作
が あ る 。Zla
−ba
−rgyal−mtshanl1 )か ら
多
くの 秘 訣 を得
て sNar −thang寺
の教主 と なっ た。 聖十六 羅 漢の一人
で あ り、「mChims 一切 知 者 (mChims ・Thams −cad .m
yen
−pa
)」と称
され る。彼
は当時
モ ン ゴル で一大勢力
を誇
っ たSa
.skya派
の帝 師
’Phags
−pa
(1235
−1280)の
師
と仰が れ た。 帝 師’
Phags
−pa
がSa
−skya 派の 座 主 と して モ ン ゴ ルか らチベ ッ トに帰 国 した際に執 り行っ た 「
Chu
−mig の法
会」
(Chu
mig ch。s ’kh。r, 1277 )は、 十万の 僧 伽に供 養す る チベ ッ ト仏 教 史上 の 一基 点を なす 大 法会で あっ た。 mChims
N
一m a ’−grags
は そ のChu
−mig の 法 会の 首座 と なっ た。こ こ に
Sa
−skya派
と sNar −thang寺
との密接
な関係を見る こ とがで きる。また この
時代
以後
、大蔵
経 編纂事
業 が大 き く進展 したこ とは特筆
される。mChims
Nam
−mkha ’−grags
の弟
子bCom
−ldan
Rig
−pa
’i
−ral−gri
〔1227− 1305 ) は、大蔵経編纂事業
に大 き く貢 献 し、 sNar −thang 寺で 写 本 を整 理し、 目録 『太陽の 光 』12)を編 纂 し た。 こ れ が い わ ゆ る 「
bKa
∵gyur
」(甘殊 爾)の も とに なっ た。Rig
−pa
’i
−ral−
g
とその弟
子dBus
−pa
−blo
−gsa1
は論
疏 部に まで 拡 充 して sNar −thang 寺に収 集 され た諸 本 を
筆 写
・整理 し た。彼
ら は mChimsNam
−m a’−
grags
を「
教 えの 偉 大なる親」
と称
し恭敬 した と言われ る13)。
この あ た
り
の大蔵経
編纂事業
の経緯
につ い て は 『デプテル グン ポ』
も詳
しい 14)。
『
デプテル グ ン ポ』に よれ ば、dBus
−pa
−blo
−gsal
ら に奨めて大 蔵 経 編 纂事 業 を指 揮 した 一人 に mChims ’
Jam
−dyangs
が い る。 mChims’
Jam
−dyangs
はRig
−pa
’i
−ral−
gri
の弟
子で あっ たが、 非 行 か らsNar −thang 寺
を擯斥
さ れ てSa
−skya に
移
り、 の ちモ ン ゴル に 招 かれ 第8
代
皇帝
・仁宗
(Bu −yan
−du rGyal .p
。71285− 1320,在位
1312
−1320
)の帰依
を受
けた。 さ らに彼
はモ ン ゴ ルか らdBus
.pa
−blo
−gsal
らに命
じて sNar −thang寺
に経 論を集 成 させて い る。
こ
う
し た sNar −thang
寺の 学 問 的性 格は、 mChimsNam
−mkha ’−grags
以後 も 引き継が れ た。 第12
代 座主 mKhan −chenBlo
−bzang
−grags
−pa
(12gg?− 1375 )も『大日経 』に関する sNar −thang 寺の相承系 譜 (山本 )
また mChims の
家系
で ある。 その弟
子の第 13 代
座 主 mKhan −chenKun
−dga
’−
rgyal−mtshan (
1326
?−1401
)か ら、Tsong
−kha
−pa
は教 え を受 けて い る。 また奇し く も
Tsong
−kha
−pa
と生年
を 同 じ くする 第14
代 座主 mKhan −chenGrub
−pa
−shes −rab −
pa
(1357− 1423 >1
こ、 かのgZhon
−nu −dpal
が師事
して い る。sNar −thang 寺 第
10
代 座 主 mKhan −chen ’Dul
−ba
−’dzin
.pa
(1253?_1328) は、 モン ゴ ル
第 5
代 皇帝
世祖
ク ビライ (Se
−chen ,Qubilai
,1215
−1294
在 位1260
−1294
)及び
0
−la
−byang
−du
王子 (Tem6r 釧 ei Ui.第6
代成宗.1265
−1307
.在 位1294
−1307
>の供 養 僧となっ てい る。 当時の チベ ッ トは
Sa
−skya 派が優 勢で あ っ た が、 そ の 中で sNar −thang 寺の 座主 が供 養僧 と なっ てい るの は注 目 さ れ る。 mChimsNam
−Mkha ’−grags
の時代
か ら、 この時代
まで をモ ン ゴ ル朝
及びSa
−skya 派、そ して
Sa
−skya 派 と親 密 な関係 を結ん だ sNar −thang寺
の絶 頂期
と見
る ことがで きよ
う
。だ が
1354
年 に はTa
’i
−situ
Bya
皿g
−chub −rgyal −mtshan に よ っ てbKa
’−brgyud
Phag
.mo −gru
派の チベ ッ ト支配権が確立する 15)。その14
年後(1368 年)、Sa
−skya派を歴史的 に 支 持 したモ ン ゴ ル王朝 ・元 は滅 亡 し、 明の 時 代に なる。
Sa
−skya派と親 密で あっ た sNar −thang
寺
だ が 、14
世紀
に なっ てSa
−skya 派の 勢 力が衰えて
bKa
’−brgyud
Phag
−mo −gm 派
が 擡 頭 して くると、bKa
’−
brgyud
派との交
流が濃 密になっ て い っ た。
さ ら に第
15
代 sNar −thang
寺 座主 mKhan −chenbSod
−nams −mchog −grub
−pa
は、座主退 任 後 に
dBus
(衛 =チベ ッ ト中 東 部地方)のbKa
’−
brgyud
Phag −mo −gru
派の 法 主 と なっ て い る 16)。 どの寺 院に居 住 し た か は不 明だ が 、
Phag
−mo −gru
派は
dBus
のYar
−klungs
の 地 に叢
生する氏 族 教 団で ある か ら、当
然 rTse −thang寺に も影響 力 を持っ たであろ
う
。 退任 事由
は座 主の師弟
が引 き起 こし た トラブ ル に よっ て sNar −thang
寺
か ら出 ざる を得 なか っ た た め とさ れ る。bKa
’−brgyud
派が sNar −thang 寺 を擯 斥 さ れ た僧の 受け 入 れをする こ と自体、 sNar −thang 寺 と
bKa
’−brgyud
派との密接
な関係
を窺 う
こ とがで きよ う。智山学報 第五 十 六輯
Bu
−ston (1290
−1364
)が 相 承 した 『大日経 』の系 譜さて、 こ こ で
『
Bu
−ston の聴
聞録 』
(Tbh
,NQ51gg
. “Bu
− st。n’s gsan yig”)17)につ い て 一瞥してお きたい 。 すで に羽 田野伯 猷 [lg87 :17g ] が指摘 してい る こ と だ が、Bu
−ston が相
承 し た『
大 日経』
の系
譜は次の よう
で ある。Sangs
−rgyas → ’Jam
−dpal
→Jaitari
→A
ξoka 忌ff →Rol
−pa
’i
−rdo −rje →
Don
−yod
−rdo −ije
→Ba
−riLo
−tsa
−ba
→ mChimsBrtson
−seng →mChims
Don
−ne → mChimsChos
−seng → mChimsBrtan
→ mChimsNam
−mkha ’−g
鰈→
Slob
−dpon
Da
a−rgyal −mtshan→
Byang
−chen −pa
bSod
−nams −’
phel
→Lo
−tsa−ba
mChog −ldan
→Bla
−ma
dPal
−1dan
−pa
mChims
Brtson
−seng に は じまり
、5
代
に わ た っ て mChims家
に『大
日経』
が相承
されてい る ことが注
目され る。 その掉
尾に存
する のが sNar −thang寺 第
7
代 座 主の mChimsNam
−mlCha
’−grags
で ある。 mChims 家の 伝 承の 一 つ に『
大日経』
が あ り、 そ れ が sNar −thang寺
に継 承 され た と考
えら れ る。 羽 田 野 氏 は次の よう
に指摘 して い る。「チム 家 所伝の
『
大 日経 』が チ ム ー 切 智 者に よっ てナル タン寺
に持 ち込 まれた こ と は、 ナル タンの 密教の 性格の 一端
を示すと同時に、『
大 日経 』の チベ ッ ト流伝
史と して も興 味 深い もの が あ ろう
。」18)mChims
家
は 流伝 前
期か らの名
門の 一族
で 、 その 先祖
mChims rDo −ije
−sprel−chung は、
Khri
−srong −lde
−btsan
王 (742 − 797 )の 阿 闍梨 をつ とめ た。19)Khri
.srong .lde
−btsan
王 は チベ ッ トに本格
的 な イン ド仏 教 を導
入した賢
王 と して名 高 く
、Buddhaguhya
とも書簡
を交
わ し てい る (劭 ・燃 v伽 ’面∫α一Z
ε肋α,Toh
.NQ4194
/Ota
.NQ5693
)o『
大 日経
広釈』
の文献 史上 の問題さて
周知
の ことで あ る が、 こ こ で『
大 日経 』の テ クス ト上の問題につ い て「大 日経 』に 関する sNar −
thang
寺の相承系 譜 (山本 ) 訳 ・新 訳、 さ らに大 蔵 経 編入 とい う、 チベ ッ ト翻 経 史の各
エ ポ ッ クを標
示す
る縮 図と言っ て よい 。『
大 日経』
及び その 注釈
書の チベ ッ ト流 伝は、 チベ ッ ト仏 教 流伝 前期の8
世紀 後 半に、Buddhaguhya
の広 略二種の 注 釈、 す なわち 『大日経広 釈』
(β喚 yの、 『大 日経 略釈』
(P 呵σr伽 ) と と も に も た ら さ れ た。Buddhaguhya
の注釈書
は、自
らが 所持 した梵 本 を もと に して解 説 を施 してお り、 加 えて新 決 択 語 制 定 (814
年)以 前に チベ ッ ト訳さ れ た た め に文
意が と りづ らい 。 新 決 択語 制 定 後のg
世紀 初め に蔵訳 され た 『大 日経 』(Silendrabodhi
, dPal−brtsegs共訳)は 、Buddhaguhya
の 所 持した 梵 本 とは系 列が異 なっ て お り、 対 応 しない 箇所が散 見 さ れ る。Buddhaguhya
と舘
endrabodhi が そ れ ぞ れ参照 し た梵本
は、経文
や各章
が前後
・脱落
してい る な どの相 違点
がある。 こう
し た異 同を補正 する た めに、9
世紀
初 頭か ら、約
650
年
を経
た後
の1461 年
に、gZhon
−nu−dpa1
がBuddhaguhya
の「
大日経
広 釈』
(8 噴 yα)を、Siendrabodhi
,dpal
.brtsegs
共訳
の「
大
日経 』
と対応 す
る よう
に校 訂
し たの が、『
大
日経広釈 』
(Vrtti)である。 そのVrtti
の短い コ ロ フ ォ ン に、縷 々 上述 し たチベ ッ ト仏 教 の歴 史 的事 情が凝 縮 して示さ れてい る。『
大日経
広釈』
(Vrtti.再 治本 )の奥書
(D
・116
・al
P
・260
b
)こ の
『
ヴ ァ イ u 一 チャ ナ現等
覚 タン トラ逐 語釈
』という
書は 、吉 祥 sNar − thang 寺に、 チベ ッ トで 翻 訳 された典 籍の あるだ け を集め た時、 この 注 釈の 原本が完全で な く、 前 後が乱丁 し、 しば し ば少 し不完 全 な ま まになっ てい た た め 、
論
疏 部 全てに わ た り不完
全な もの と して伝
わ り、 ま た 新 決 択 語で校 訂 して い ない 翻 訳で もあ り、不 満足 な もの を呈 して い たので、 二
語
を話す
の に自在
なsKa −ba
dPal
−brtsegs
が翻 訳 したタ ン トラの言葉
と校合
して 、新 決択語
と等
しく校 訂
した本書
は、dBus
(衛 )の学 者
gZhon
−nu −dpal
とい う者が、 吉 祥 rTse −thang 寺で辛巳 (1461)の年
に書いた もの で ある。
わざわざ
跋
文で、 sNar −thang 寺の 写 本 収 集 ・編 纂 事 業につ い て言 及 して智 山学報 第五十六輯
い る点に、 チベ ッ トにお ける
『
大
日経』
流伝
の 歴史的
な経緯
と、 校 訂 者gZhon
−nu −
dpal
の 経歴 をかい ま見るこ とがで きよう
。 sNar −thang寺
の写本大蔵経
はす
で に
Bu
−ston の 頃まで に は 諸寺で活用 で きる ほ ど流布
してい た こ とが知
ら れる。 sNar −thang 写 本が
frse
−thang寺
に もた ら さ れ た経 緯は比 較 的 早 い 時 期だ っ た ようである。 すな わ ち 、
『
デ プテル グ ン ポ』
に よ る と、Bu
−ston が sNar −thang
寺
か らZa
−lu
寺 に配置した写 本 大 蔵 経 (1334 年 、シ ャ ル ・セ ル カン寺本)を
底本
に、Nam
−m a’−
rgyal−mtshan (
1326
−1401
)21)がRin
−spungs で建 立 させ た写本
大蔵経
をrTse −thang寺
に配 置 した という
22)。大蔵経
の編集
・校訂
を行
った
Bu
−ston の 功 績 を 、次 世代 に おい て継 承 ・発 展させ た の がgZhon
−nu −dpal
で ある。
gZhon
−nu −dpal
は 大蔵経校訂作 業 を通 じて、 チ ベ ッ ト翻 経 史上 の 問題 を 縮 図 化 した と も 言 える、 『大 日経 』の 文献上の 問題 を正確 に把 握 し得た
で あろ
う
。ま と め
名 門 mChims 家の先 祖 mChims rDo −rje−sprel−chung は、 もと
Khri
−srong −lde
−btsan
王の阿 闍 梨で あっ た。 こ の mChims家
に『
大 日経 』
の 相承 が あ るこ とは
『
Bu
−stQn の聴 聞
録』
か ら知られる。 その相 承 系 譜に sNar −thang寺
第7
代座主 mChims
N
一mkha ’−grags
(1210− 1288)がい る 。 彼は 全 仏 典 を渉 猟 し、帝 師
’Phags
−pa
(1235
−1280
)の師
であっ た。Sa
−skya 派の 庇 護 を受 けて、 この時代
に sNar −thang寺
は大蔵経
の筆写
編纂
に着手す
る。13
−14
世紀
、 sNar −thang寺の 大 蔵経 編 纂 事 業が 目指 し た もの は 「総合 仏 教
」
という
テーゼ で あ り、 こ れ に は 「顕 密双 修 」 とい うbKa
’−gdams
派の学 問 的性 格が寄与 した。 こ の時代
に なっ て よう
や くチベ ッ ト仏教は、 仏 教 文献に対 する綜 合 的視 点 を獲 得 す る。密教
を含
め た仏教
の統
一的
なパ ース ペ クテ ィブ は、Bu
−ston やTsong
一 a−pa
に よっ て大 成 され た仏 教 思 想上の 大 きな成
果だ が、 こう
し た思想 史
上 の 一エ ポ ッ ク に、 sNar −thang
寺は その 基 盤 を提 供 し、 大 きな役 割 を果た した。mChims
N
一m a’−grags
の 時 代 に は、Sa
−skya 派 と親 密な関 係 に あ っ たsNar −thang 寺は、
bKa
’−brgyud
『大 日経』に 関する sNar −thang 寺の相承系譜 (山本)
Phag
−mo −gm
派 とも交 流 し た。 sNar −thang寺
とrTse −thang 寺
の つ な がり
は、 こう
した宗派
の 政治力 学
が反映
したも
の と思わ れ る。 sNar −thang寺
の座
主はdBus
のPhag
一皿 o−gru
派の法主 とも なっ て い る し、 rTse −thang 寺のgZhon
−nu−dpal
は sNar −thang 寺の 座 主に師 事し て もい る。 こ うし た結 びつ き を契 機 と して、
gZhon
−nu −dpal
に sNar −thang寺
の 『大 日経 』の相 承が 引 き継が れ たものと見て よい だろ
う
。こ うした 歴史 的経 緯や人物 考証に加 えて、 なぜ
bKa
’−brgyud
派のgZhon
−nu −dpal
が 『大日経 広釈』
を校 訂 しなければ な らなか っ たの か が思 想 的に問
われ な くて はな らない だろう
が、bKa
’−brgyud
派の 思 想 的 性格
とBuddhaguhya
の密
教との 同質性という
問題に 関して は、 今 後の さ らなる課 題 と し たい 。 『デ プ テル グ ン ポ』
を著し た歴 史家 と して 、 さ ら に学 僧 ・翻 訳 家と し て有名
なgZhon
−nu −dpal
だ が 、 そう
した前面 に 比 してbKa
’−
brgyud
派の 密教者お よ び マ ジン『
大 日経 広釈
』の校 訂 者 という
側 面は、 彼の 経 歴の 余 白に さ え記 される こ と がない 。 しか しそ う した前 面の 背 後にあっ て 、 当時の多
くの 僧侶 と同様に密 教 者 と して生 きて い た、 彼の マ ージナル ・ マ ンた る側 面 を見 落とすべ きで は ない だろ う。 (443 )智山学報第五十六輯
〔
和訳 資料 〕『
明灯 史』
(
sNar −thang
寺
第
7
代
一第
16
代
座 主
)和
訳
2Ssa3
第
7
代座 主 mChims −chen −mo ・Nam
−mkha ’−grags
(1210− 1288)は、
法
主Khri
−srong −
lde
−btsan
(742
−797
)の 阿闍梨
mChims rDo 一可e−sprel−chungi の 家 系で 、Nyang
−stodii sTag −tshalで 午 年 (1210 ) に 生 ま れ た。幼
くして 出家 し て、仏典
のす
べ ての学 問
をよく修
め て 慧 眼 を開
かれた。 『倶 舎 論 』の 大 註釈
lii等
の 著 述 も多
く行
っ た。bKa
’−
gdams
の法
を伝
える者
た ち、dPal
−ldan
−gro
(第
4
代i・)、
Zhang
−ston (第5
代・)、 mChimsBlo
−brtanvi
、 mNy 一medSangs
−rgyas −sgom −
pa
(第6
代・ii)の4
入 に 親 授 して、 す ぐれ た善 知識 ・高地 人
Byang
−chub −sems −
dpa
’Zla
−ba
−rgyal−mtshan ・iiiか ら継承 した とこ ろ の 見 解の 秘 訣 (manngag )等の
多
くの 教 説 を 聞 くこ と で 教 主 と な っ た 。 聖 十六 羅 漢i・ の一人
imChims rDo −
rie
−sprel−chung :bSam −yas
の mchod rten sngonpo
(青の塔 ;bSam −yas寺北東の緑の塔のこ とか) を建て、
Byang
−chub −gling僧 院 を建立した (Deb thersngon po ,
P
.84
.1The
Bt“e Annals,PP
.94
−95
)eii Nyang .stod :Nyang −chu
JII
上 流 域。 rGyan −tse 南 東9
Nyang −toの地。iii
『倶 舎論』大註釈 :ChOS
mngon pa mdzodk
[yitrka
chen .以 下ア ク チンの稀覯本リス ト (MHrL )の 出 典 は すべ て伏 見 英俊氏の ご教 示に よ る。 記 して感謝 申し 上
げ ま す。
See
MHTL
NQ
11674, mChims Nam −mkha ’−grags kyi mdzod ’
grel.『道
史』(270b )に も説 く。 い わゆる mChims mDzod と称さ れ る 『倶舎 論』注釈書
との 関連につ い て は文末註 10 を参照。
iv dPal−ldan−gro(s):dPal−ldan−gro−mo −che . Gro −ston bDud −rtsi−grags. sNar −tha皿9寺 第
4 代座主 を39 年勤めた (在位 1195− 1234)。
vShang −ston・
Chos
−kyi−bla−ma :sNar−thang 寺第 5 代座主を 10 年勤め た (在位 1234−1243
)。 また は Zhang −ston mChims Blo−brtenとい う一人の 人物か とも思われ、羽
田 野 伯 猷 [
1987
:173
]も そうして いる が、 テクス トはZhang
−ston と mChims Blo −
brten
とに 明確に 分 けて お り、 「4 人」 (bzhi)と記 すので、 二人の 人物とし て おく。
vi mChims Blo −brten:本論で先 述し たBu −5’oガ∫ 850η 溜 で は 『大日経』相 承系譜
上 にあっ て Na皿 一rnkha ’−grags に伝えてい る。
vii mNyam −med Smgs −rgyas −sgom −
pa
−seng −ge
−skyabs :sNar 一血ang 寺 第 6 代座 主 を 10年勤め た (在位 1243− 1252)。
viii Byang −chub −sems −dpa’Zla−ba−rgyal−tshan :文末註 11 参 照。
『大日経 』に関する sNar −
thang
寺の 相承系譜 (山本)と も
称
さ れ る 。Chu
−mig の 法 会 ・ の 首 座 とな っ た。衆
生 の救 済 者
・法
王’ Phags −
pa
(1235− 1280・i)等
、 チベ ッ トの 一切の 貴 顕が供 養 恭 敬 して、 長老 bCom
−ldan
−pa
(1227− 1305・ii) とdBus
−pa
−blo
−gsal
・iiiは 「教 えの偉
大 な る255b 親
」
と敬 称 する。 総 じて は 「mChims ・一切 知者 」(mChims ・Thams −cad −mkhyen −pa) と
称
さ れ る。 薬 師 ・ター ラー尊 ・八十成 就 者 等の 本 尊の 多 くの 口訣 を受
けて加 持 さ れ 、 座 主に36 年間在位
(1252 ?− 1288)して 、広大
なる教
えを実践に移して、その子 年 (1288)に示 寂 さ れた 。
彼
は「
薬 師
の変化 」
と称
され、 タ
ー ラーの
浄
土に迎 えられて、
伝記
を夢
の中で説い た。dPal
−ldan
Gro
一mo −。
he
(第 4 代 ) がつ くっ た『
菩 提道
次 第根 本tw
・i・』につ い て 、 祖 師の 説く方法 その もの を解 体 して、 教理 によ っ て さ ら に整 えた語 注 『最 勝道の
宝xv 』とい
う
書 をつ くっ た。 い まわの 際 まで もその 註
釈
の も とに ご指導
され た ところの 実践を誤 りな く続 けた。 ま た sKyel −nag −
grags
−sengxv ’、 rGyang −ro
Pap
−chenxvii、Rig
−pa
’
i
−rol−gri
等の す ぐれた弟 子 も多 く輩 出した。位の僧衆が お り、 『道 史』 (270b )にも 「十六羅 漢が sNar−
thang
で次々に会 見し た」こ とを伝 える。 羽 田 野伯 猷 [1986
:200
−202
]参照。xChu −mig の法会
Chu −mig は sNar −thang 南方約 6km の 地。 1277 年に開催され た
Chu −mig の法会は、 帝師
’
Phags−pa (1235− 1280)が
Sa
−skya の 座主 と してモ ン ゴルか ら チベ ッ ト に帰国し た際に執 り行なっ た 、 チベ ッ ト仏 教 史上 の
一基 点 を な
す 大法会で、
10
万の 僧 伽 に 供 養 し た とい う。 sNar −thang 寺とSa
−skya 派 との 濃密 な関係を窺 うこ とが で きる。 羽 田 野伯猷 [1997:285 ]参照。
xi ’Phags−pa
Blo−gros−rgya1 −mtshan :1235− 1280. Sa−skya Papφta (1182− 1251)の 甥。
1270 年にモ ン ゴル 第 5 代皇帝世 祖 ク ビライ (Se−chen ,
Qubilai
, 1215− 1294 在 位)の帝 師と なっ た。
xll
bCom
−ldan
−pa:Rig −pa’i
−ral−gri.1227− 1305. sNar −thang 寺の大 学 匠と し て チベ ッ トの持 蔵 者の3
分の2
を 集 め る ほ どの名声を 博 し た。 目録r
太 陽の光』(d
κar chagnyi ma ’i ’od zer)を編纂。
xlll dBus −
pa
−blo−gsal
:Nam −mkha ’−grags
及 び Rig−pa
’i−ral−gri
の弟子。 師の命を受 けて大 蔵経編纂事業に活躍 し た。
xlv
『菩提道次第根本頌』:Lam rim rtsa
ba
tshigsbcad
ma .See
MHTL
NQ
I
II
17
,Gro
−stonbDud
−rtsi −grags kyi lam mchog .『道 史 」 (270 b)に も 同 様に説 く。xv
語 注 『最勝 道の宝』:Lam mchog n−n po che . See MHTL
NQ
11118, De ’i ’grel pamChims k),is mdzad pa la mChims 2Vam −mkha ’−grags
kyi
bstanゆπ zer.xvi sKyel −nag −
grags
−seng ;Na皿 一mkha ’−gragsか ら ア ドバ イス を 受 けて sNar −thang 寺に学 問所を建設し た (Deb ther sngon po , p.
2gg
/7keBlue
Annals
, p.336
)。
智 山学 報 第五十六輯
第 8
代 座主 sKyo sTon −par
−grags
−pa
(1228?−1311
)は、gYas
−ru −byang
(北gYas
− ru 、 Tsang −p・ 江 の 北 側)の rTa−nagYang
−yul
・・iilで
、
Bon
教 の 家 系 で 子 年(1228 ?)に生ま れ た
。 sKyo の 血 統で 、 mTshan −smon −
lam
−tshul−khrirns
(1219−12gg
・i・) 、bKa
’−gdams
の法
の善知
識 ・祖 師
の二 人に教 戒 をす
べ て聴 聞 した。 座 主に15
年間在 位 (1288 − 1304 ?) して 、 亥年
(1311) に 示 寂さ れた。 彼 は sNar −thang の 大 伽 藍 と大 城 壁を建 て た。 「金 剛 手の 成 就 を得
た者 ・・」と
称
され る。Sangs
−rgyas −sgom −pa
(6
代) とmChims −chen −mo (7 代) とsKyosTon −
pa
の3
人は、 三部 (文殊 ・観音 ・金剛手)主尊
の変化
を示現
して 、 大威徳
に よっ て他
の病
魔等 を 除 く事
績 を多
く顕 した・・i。 その弟子
は’
Brom
・・正jの
Ku
−ma ’a−ra−ma −ti と
bCom
−ldan
−pa
等で ある。256a
第
9
代 座主 mKhan −chenNyi
−ma −rgyal −mtshan (1237
?_1317
)は、 sNar −thang高
地 上のKa
−rma −kha
−ri で酉 年 (1237 ?〉に 生 ま れ た。Ram
・xiii の 家
系
で、
幼 くして 出
家
して、 mKhan −chen mChims (第 7 代 ) と、 sKyo sTon −pa
(第 8代)の二人に諸々 の教
戒
をす
べ て聴聞
した。 座 主に7
年在
位 (1304
?−1312
?) して、 巳年
(1317
)に示 寂 された。 彼は 八頭の虎
・xi・ に任
ぜ られ、 教 規 を正 し く行い 、 ’Brom
師に経 巻 ・支 具を伴 う物を聴 聞し、 そ れ 以前に経巻 自体 を 明 ら か に授 記 して 、 「こ れ は 最上 ・最 勝な る 友 三 ・三 の最上 ・最xvii rGyang −ro Pap −chen :rGyang −ro Byang −chub −’bum . sNar −thang寺に大 蔵 経 を集め
るの に尽力した (Deh ther sngon po,p.301 ./The
Btue Annals , p338)。
xviii rTa−nag Y
g
−yu1
:gZhis
−ka−rtse北西約 30k
皿、 Tsang−po江 北岸rTa −nag−chu 川 辺にある。 Tibet Map lnstitUteの 地図に Yangyu とある。
xix mTshan −smon −lam −tshu1−khrims l 1219− 1299, N 一mkha ’−gragsの弟 子 と さ れ る
(TBRC , Person RID ;P1219 )。
xx 金 剛手の成就を得た 者 :
11
年 聞 太 陽 を 見 るこ とな く金 剛 手の修 法 を 行 っ た とい う。
xxi
Rig
−pa’i
−ral−griも sKyo −ston−
pa
に自身の病気を 除く方法 を教わっ た とい う。 xxii ’Brom :’
Brom −ston (
1005
−1064
.Ati
≦a の弟子)の家系の こと。xXiii Ram :Lha −sa の州 長官の家系。 4kalons の一つ 。
xxiv 八 頭の虎 lStag brgyad.意 味不 詳だ が、 何 らかの役 職の符牒か。 彼は
Thar
−pa『大 日経』に関する sNar ・thang 寺の相承 系譜 (山本 ) 勝 を生
ず
る」 と三位 を3
回 まと め て生ず
る詩
を教 えて、特
別にお示しに なっ たxxy。「
智
慧の 相を具えて無比であ り般 若の 相を具えて一切 を知 り
金
剛
の相
を具え
て不壊 を執
り甘 露の 相 を具 えて吉祥 を有 する
法
の 師 ・法
主は獅
子の如 く
に恐れ なく
大 悲 心を もっ て衆生 を摂め
虚 空の如
く
に遍満す
る 二 つ の遍 智をもっ て衆生 を摂め 誓 願 を浄め て 戒 を保つ最 勝 なる持 金 剛者 とな り
吉
祥 なる 日光の相
を有す
る三 の 数 を究めて衆 生 を摂め る
」
と説 くの で ある。 日光は 太陽の別 名で ある。 第九番目の後に第 十番 目を さ らに授 記 して、 厂末 世の 九の後に 最 勝 なる福 徳の 相 ある 教 えの余 火 を点 すべ し」 と説 く
の で ある。第
10
代 座 主 mKhan −chen ’Dul
−ba
−’dzin
−pa
(1253
?_1328
)は、Nyang
−stodの rGya −
brag
dPe
−stod−bya
−baxx
・・で 丑年
(
1253
?) に生 ま れ た。Ze
’u 族 の
256b mTshan −
grags
−pa
−brtson
−’grus
は座 主に お な りに な る 以前
、I
l
芸 を してい た。Se
−chenxxvii とO
−la
−byang
−duxxviii
王子の供 養 僧 となっ た。 さ らに高地 を離れて、 座 主 を
12
年 間 (1312?− 1324・?)つ と めて辰 年 (1328 )に示 寂 さ れ た。教 え とsNar −
thang
の経
院に利
益 を もた ら した。身
は高貴
で名声
あり
、 sNar −thang の 財 産 も
師
が こ の期
間中
に増
や して福 徳
の相
を具 えたの で ある。(第 11 代 )その 後、 彼の 弟の
Grags
−pa
−shes −rab (125g?− 1335 ?) は、 未年
xxv この箇所、 意味 ・出 典不詳の偈が 続 く。
3x3
の 偈 が 膾 炙 し た もの ら しい 。xxvi rGya −brag dPe−stod−bya−ba:rGya −bragは Nyang −stod の東 15
km
の 地。Tibet
Map
Instituteの地 図に Gyaprag とあ る。
xxvii Se−chen :元の 第 5 代皇帝 ・世 祖
Qubilai
.1215 −1294.在位 1260− 1294.xxviii
O
−1a
−byang
−du
:元の第6
代皇帝 ・成宗TemOr 鋤
ei−tU.1265− 1307.在位 1294− 1307.こ の御代に sNar−
thang
にテ ンギュ ルがで きた。智 山学報 第五 十六輯
(
1259
?) に生 ま れ た 。 mChims −chen −moNam
−m a’−
grags
(第 7 代 ) と’
Dul
−’dzin
−pa
Grags
−pa
−brtson
−’grus
(第10
代、 兄)等
に師事
して、bKa
’−gdams
の教 説
(gzhung・ ・i・) 、 秘 訣 (man ngag )等
を聴 聞 し、座
主に11 年
(1324?− 1335 ?)在 位 した。第 12 代
mKhan −chenBlo
−bzang
−grags
−pa
(12gg?− 1375)は、Nyang
−stod sMon −gro
のPhu
−kha
−’u に て 、 mChims の 家
系
で亥年
(12gg ?) に身
を受
けた。mKhan −chen ’
Dul
−ba
−’dzin
−pa
(第10
代)、 mKhan −chenGrags
−pa
−shes −rab (第11
代)、 rGyang −ro−
byang
− ’bum
…等
の多
くの師
に仕
えて 、教説
(gzhung )、真言
(gdams ngag ) を すべ て 了解 した。39
年間 (1335
?−1375
)、 座主 をつ とめ て 、 講義 ・論 議 ・著述 の3
つ の 門 か ら教 えの 宏大 なる事 業を行っ た。 寺 院で は 肉 食 戒 とKhams
人 に師 事 し ない 等の 戒 を正 し く行っ て、 諸々 の 衆生 を成就解脱
せ しめて卯年
(1375)に示寂
さ れ た。第
13
代 mKhan −chenKun
−dga
’−rgyal−mtshan (1326?− 1401) は、
水
門の番
をする
Gro
の家系
で寅年
(1326
・?) に身
を受
けた。 mChimsBlo
−bzang
−grags
−pa
(第
12
代)にbKa
’−gdams
の諸々 の教 説をすべ て聴
聞し、bKa
’.bcu
−pa
gZhon
.nu−seng −
ge 等
に も多
くの教説
を聴 聞し た。 乙卯 年 (1375)に座主 に就い て、257 ・ 座主 を
27 年
(1375 − 1401)つ とめ て 、 辛巳年 (1401)に示 寂され た。 『シ ク シャ ー サ ム ッ チ ャヤ
』
の 註 釈x・・i¥
の 著 述 も多
く行っ た。Tsong
一 a−pa
大 師(1357− 141g)
も
また御
足に触
れ た。 そ の後
、 mKhan −chen ・Blo
−bzang
−grags
−pa
(
12
代 )の 弟Chen
−po
sNyan −grags
−bzang
−po
は、 大 弟 子 の 地 位 に座 っ て 、xxix 教 説 (gzhung ):カダム派 内の gzhung 派は 顕 教主義。 gdams ngag 派は密教主
義。 ngag 派は 「秘 訣 派 」 と 呼 ば れ、 rNgog
Legs
−pa ’i
−Ses
−rab (緬 曲の 弟 子
で gSang−phu 寺 を 1073 年創建。 顕教学の大学 問寺 〉の系 列に属する。
xxx rGyang −ro −byang−’bum
:註 xvii 参照。 Nam −mkha
’−grags
の弟子。
xxxi 『シ ク シャ ーサム ッ チ ャヤ』の註釈 冶 31の 四 厩 〜α5 伽 ∫ 頗
1
砌 . See MHTL
NQ11075
, rJe ’i
bla
珊 αsnar thang mkhan pobeu
gsum paKun
”dga
’”rgンal’mtshan gyi『大日経』に関する sNar −
thang
寺の相承系譜 (山本)教 えの 承 事 を なさらなかっ た。 と りわけ
dKar
−phugs
に対 して聴 聞 を な さら
ず
、Nang
−du
−gnas
−brtan
寺
、 mKhan −chenBlo
−bzang
−grags
−pa
の 踵の チ ャ イ テ ィヤ の 門で、Phyi
−lcags
−ri−chen −mo も また14
回存 して、 それ を建立 な さっ た。
第
14
代 座 主 mKhan −chenGrub
−pa
−shes −rab −pa
(1357 − 1423 )は、 丁 酉 年(1357 )に sNar −thang の 近 郊
Rong
−gu
とい うとこ ろ でdBang
の 家 系 に身を受
けた。齢 7
歳で読
み書
きを巧み に知 り
、 10 歳で mKhan −chenKun
−dga
’−rgyal−mtshan (第 13 代 )の
御
足に触
れて 出家
し、 mTshan −grub
−pa
−shes −rab と命 名 さ れ た。
20
歳で 具 足 戒 を受
けた。 彼の 師 と、 阿 闍 梨Grags
−pa
−rgya −mtsho 、 法主
Ybn
−tan− ’od 、 阿 闍 梨 sKal −
pa
−bzang
−po 等
、多
くの 師に仕 えた。経 ・タン トラ ・秘 訣の 諸 々 の 類 をよ く聴 聞して 、 修 習した。 と くに
bKa
’−
gd
s の諸法
を mKhan −chenKun
−dga
’−rgyal−mtshan にす
べ て 授か っ た。 それか ら
32
歳で 、 己巳年 (138g)に座主に招 聘 され た。 教 説 (gzhung
) と真言
(gdams ngag ) に よっ て、 諸賢
を満
足 させ て諸々 の 衆 生 に も解 脱 の 種 子257b を
育
んだ。 座 主にお よ そ30 年
(138g−1418
)在位
して、 戊 戌年
(1418
) に自分の甥 mKhan −chen
bSod
−nams −mchog −grub
を座 主 に任 命 した。 そ して5
年間、 側にお ら れて、
67
歳、 癸卯 年 (1423
)の角
宿 月 (3
月 )の21
日早朝
に希 有 な多 くの 相と ともに瑠 璃 色 に輝 く刹土 に赴 か れ た。 「入 菩提 行 論 』に
一つ の
註釈
xxxii を著
した。 rJe・
Rin
−po
−che (Ts
。ng 一 a−pa
,1357
−141g
)と同年のお生まれであ り、
吉祥 Yid
−bzang
.rtse−ba
−chen −po
(gZh
。n−nu −dpal, 1392−1481
) もま た
御
足 に触
れてい る。第
15
代 mKhan −chenbSod
−nams −mcho9 −grub
−pa
(1399− 1452 )は、Shab
dGe
一xxxii 『入菩提 行 論』の 註釈 :sPyod 伽
8
」α‘葡 脚 8 . See MHTLNQ
I 1081, sNar thangmkhan PO bc郡bzhi pa Gnib −pa −shes 一毋 わ纏 Ψ ツ0ゴ
7u9
‘ikha・xxxiii Shab dGe −sdings :
Shab
はSa
−skya 地方を 流 れTsang
−po
江に そ そ ぐShab
−chu川流域。 dGe −sdings はsNar −thangの 西約
40
km
、Shab
−chu 川辺の地。智 山学報 第五十六輯
sdings 畑 i・ の地の
Cha
正一zhur の
家系
で、 己卯 年
(13gg) に生ま れ た。幼少
より
mKhan −chenGrub
−pa
−shes −rab −pa
(第14代)と、 阿闍梨
Chos
−ldan
sKal −pa
−bzang
−po
−pa
に、
浄
侶と とも
に面前
して、 丑年
(140g) に出家
して、 mTshanbSod
−nams −mchog −grub
−grags
−bzang
−dpal
と命名
さ れ た。 酉年
(1417)には、自
分の師
と、羯磨
阿闍梨
Shes
−rab− ’ od −zer、 教 戒 師 ・xxi・sByin −pa
−dpal
−bzang
−po
が執 り行っ て 、
25
人の浄 侶の中で具足 戒 を受
けた。bKa
’−gdams
の諸法
をmKhan −chen 祖
師
自身
に聴 聞
して、 さ らにdKa
’−
bcu
−pa
−dar
−bzang
、
Grub
−chenbSod
−blo
−ba
、 sNar −thang の 人Sher
−seng 、Tsong
一 a−pa
大師
、 ’Dul
−’dzin
−grags
−pa
−rgyal −mtshan 、 mKhas −grub
−rje・xxv
、
前
の22
の リンポ チェ 、gTsang
−pa
Blo
−bzang
−pa
等、 学行 す ぐれた多 くの 師に仕 えて、 経 ・タン トラの法に精通 し、 さまた
げ
な く了解
して、 戊 戌年
(1418
)か ら癸丑年 (1433
)の 問、16
年、 座 主 に就い て、 衆生 の 利益につ と め た。 そ して 、
dBus
に出て、 吉 祥258・
Phag
−mo −gru
派
の法
門の職位
に就
い たxxxvi 。帝 師
と な っ て 、多 く
の賢者
もまた御 足 近 くに集 まっ て、 甚 深 広 大 な 法 輪 を転 じた。 ち ょ
う
ど55
歳xxxvii
、
壬
申年
(1452
)に大座 主と して示 寂 された。 論 書の 著 作 もまた多
く著 した。法
主Nam
−m a’−blo
−gros
、法
主Don
−grub
−dpal
、法
主Lo
−chen 、法
主’Dus
−pa
−ba
、 法主dGe
−’
phel
−ba
等
の学行
すぐ
れ た弟
子 もま た不 可 思議
を示 現 した。第 16 代
mKhan −chenGrags
−don
−pa
は、 丁巳年
(1377)Gan
−rtsaで生 まれた。
gDung
−gro
に 四つ の 部落
があるう
ちの’
Brog
−tsho (荒 野の部 落)である。
幼少
で出家
して 、身
は極
めて潔
白で あっ た。 mKhan −chenGrub
−pa
−shes −rab −pa
(e9
14 代 )にbKa
’−gdams
の法 輪をすべ て聴 聞した。 mKhan −chen −pa
は心に歓 喜して面 前に大 変 長い 間置い たの で 、 「sPyan −snga (面前 )
Grags
−don
一xxxiv 教 戒 師 :Gsang ste ba slob dpon.排教 師。 『毘奈 耶経 』に説 く、五軌 範 師の 一つ o
xxxv mKhas −gmb −rje :1385− 1438. Tsong 一 a−pa の弟子。
xxxvi Dの 伽 r ∫π80ηpO が伝える不祥事をこ こ で記 載し てい ない の は か えっ て興
味深い。 文末註