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レジャー産業と顧客満足の課題

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Academic year: 2021

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『サザエさん』にみる戦後日本人のくらし

氏名 玉木 悦子 生活文化学科 1.はじめに...1 2.『サザエさん』とは ...1 2−1.『サザエさん』ができるまで ...2 2−2.イソノ家の紹介 ...3 3.『サザエさん』からみた戦後の日本...4 3−1.昭和20年代の日本...4 3−2.昭和30年代の日本...9 3−3.昭和40年代の日本... 12 3−4.全体を通してみた時代による変化... 13 4.『サザエさん』からみえたもの... 14 5.おわりに... 15

1.はじめに

日本のイメージといえば「すし、相撲、電気製品、 サムライ」などいろいろあるが、「漫画」も印象が強い。 この頃日本の漫画が翻訳され、たくさんの国に出回っ ているほどだ。人気漫画はアニメ化されテレビで放映 される。日本で漫画というものは子供だけのものでは なく大人も好んで読み、受験生は歴史漫画によって時 代背景や物語の内容を知ることもあるのだ。おそらく 日本人の生活において漫画はなくてはならないものに なっている。そんな漫画が大好きな日本で一番長い期 間テレビにおいて放映されているのが『サザエさん』 であろう。『サザエさん』は昭和44年にフジテレビ系 にて連載開始した。私が生まれる前から放送され続け ていて、私はアニメを通じて昔の時代のことを知るこ とも多かった。その『サザエさん』がもとはといえば 新聞連載小説で、長い間連載されていたことを知り、 漫画『サザエさん』をみれば当時の生活を知ることが できるのではないかと思い、研究することにした。 調べるにあたってまず、漫画を読み、話の中で話題 になったことをリストアップした。そうすることによ り、なにが世間の注目を集めていたのかがわかるから だ。次に昭和20年代・昭和30年代・昭和40年代 の作品と分けてその時代でどのようなことがあったの かをとらえた。その他、全体を通して何が変わったの かもみる。その他、『サザエさん』に影響を及ぼした漫 画『ブロンディ』も研究し、比べることにより、日本 のアメリカに対する想いを読みとる。 以上のことをすることにより、『サザエさん』に登場 する「イソノ家」が当時の生活を表現することで著者 の「長谷川町子」が何を言いたかったのかを読みとる。

2.『サザエさん』とは

『サザエさん』とは第二次世界大戦が昭和20年8 月に終結した戦後の昭和21年の4月から「夕刊フク ニチ」にて長谷川町子が連載を開始した4コマの漫画 である。この頃昭和21年とは最悪の貧困状態にあり、 食べ物など配給制度はあったものの手に入らなかった。 その生きていくのがやっとの時代に庶民の生活をその ままに描き、人々に支持されたのが『サザエさん』に 登場しているイソノ家である。イソノ家は当時の人々 と比べても大差のないサラリーマンの中流家庭として 描かれている。内容は日々の生活を通して物語が出来 ている。なんてことのない普段の生活の1場面が描か れていることもあるし、その時期の世間の話題(事件・ 事故・経済)が描かれることもある。しかしどの話を通 しても変わらないのはイソノ家の誰かが失敗をして恥 をかくことである。長い間人々に愛されたのは、この すましていないおっちょこちょいなイソノ家のキャラ クターが理由だろう。 また、『サザエさん』は時事の移り替わりだけではな く、日本人の心の変化も確実に捉えて漫画に描いてい る。例えば、親と子供の関係である。連載開始あたり は父親に家庭の権限が全てあり、家族の尊敬を集めて いた。しかし、年代が経つにつれ、親と子の立場が逆 転し始めた。漫画に「満員電車で老婆が前に立ったた め少年が席を譲ろうとしたが、母親がそれを止めた。

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代わりに母親が席を立ち老婆に席を譲ろうとした。し かし、老婆はその席に座らず、誰かを呼んだ。その呼 びかけに応えて老婆の息子(立派な大人)が現れ、老 婆は自分に譲られた席に息子を座らせた。」という場面 が出てくる。過保護になったことを描いているのだ。 このように、長谷川町子は様々な観点からその時代 の問題や、人の考えを読み取り、伝えてきた。それが 『サザエさん』なのである。 なお、サザエさんは昭和21年4月に始まり、昭和2 4年全国紙「朝日新聞」に登場した。昭和49年2月 21日付けで休載。その間6477回の連載を新聞に 載せた、テレビアニメにおいては平成16年現在も放 映され続けていて、日本国民に親しまれている。 2−1.『サザエさん』ができるまで 大正9年1月30日、佐賀県にて長谷川町子氏生まれ る。中流階級、3人姉妹の真ん中であった。 九州の福岡で幼少を過ごした。小さい頃から絵が大好 きで、絵をよく描いていました。健康にも自信があり、 子供の頃はいたずらばかりして皆を困らせていた。 しかし、昭和8年町子13歳の時に父親が病死してし まう。一家の大黒柱を失って途方にくれ、近所の奥さ んたちの態度も変わってしまい、残った家族4人は肩 身の狭い生活になり、生活環境は一変してしまう。 一年後の昭和9年、町子の母親が突然「東京へ行く。」 と一大決心をし、長谷川家は首都、東京に行くことに なった。 そして、東京世田谷に住み着いて半年、飴玉を口にい れ、寝転びながら当時爆発的な人気を巻き起こしてい た「のらくろ」をみて「アー、田河水泡のお弟子にな りたい」とつぶやいたのを聞き、母親は子供のたわご とと聞き流さず、即、姉に命じて荻窪の田河水泡先生 のところへ行かせた。そして、やっとの思いで先生に 会わせてもらい、弟子にしてもらい、そこから長谷川 町子の漫画人生がスタートした。16歳で山脇高女を 卒業すると同時に内弟子として先生の家に住み込み始 めた。しかし、ホームシックにより11ヶ月で終わっ た。 内弟子ではなくなった町子だけれど、田河は出版社に 町子を推薦するなどして、労を惜しまずやり、町子を 支えた。そのおかげで町子に児童向き漫画の仕事は絶 えることなかった。 ある日、母親から「貯金が一銭もなくなった」と聞か され、町子たち姉妹は絶句した。姉は手っ取り早い挿 し絵の注文とり、町子はぼつぼつ漫画による収入はあ ったけれど、とても暮らしていけず、世の中の厳しさ を知った。 そんな時、知人の紹介で姉の絵を見た菊池寛が『女性 の戦ひ』いう連載小説の挿し絵の仕事を任せてくれる ことになり、各社から注文が殺到するようになった。 親しい記者に「世田谷の隅に居ちゃ不便だから、近く にいらっしゃい」と言われ、母は早速借家を見つけて きて文京区に移り住むようになった。 当時の町子の仕事は少女倶楽部に『仲よし手帖』を3 年、国民新聞に『ヒィフゥみよチャン』を連載。この とき町子は20歳だった。 この後、第二次世界大戦が始まった。東京にいても紙 がないため仕事が出来ず、昭和19年、疎開をするこ とに決めた。行き先は故郷の福岡。 福岡にて、町子は月給75円で西日本新聞社の絵画部 に配属された。仕事内容は写真部から回ってくる戦争 スナップを修正したり、軍需工場などに漫画・ルポに やらされたりする仕事だったが、紙が少なかったため、 昼の12時に出勤し、夕方4時に帰るという生活をし ていた。 昭和20年になると新聞もタブロイド版になった。毎 晩のように警戒警報で畳を上げ、靴を履いたまま寝る といった生活をしていた。そうして、昭和20年8月 15日終戦となり、このまま仕事を続けていて、収入 を得ても、着るものも、食べ物も売っていないので、 意味がないと、翌日に辞表を提出した。その後、米軍 が進駐してきて、アメリカ兵が日本画を欲しがってい ると知り、町子と姉は水彩画をセッセと描いて売って いた。 そして昭和21年、西日本新聞から「夕刊フクニチ」 が発行され、町子に連載漫画の依頼がきた。町子はあ っさりと引き受け、こうして後の日本で国民的人気者 になる『サザエさん』の連載に取り掛かることになる。 町子は連載の話を引き受けたとき、主人公はおてんば 娘にすることはすぐ決めたのだが、家族構成に悩んで おり、妹の付き添いで散歩する海岸で考えていた。そ のため、登場人物が全て海産物になったのである。 『サザエさん』は「夕刊フクニチ」で昭和22年11

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月5日付けまで連載され、23年の11月21日付け から「新夕刊」において昭和24年4月2日付けまで 連載された。その後12月1日付けで「夕刊朝日新聞」 に登場し、そして昭和26年4月16日に当時連載さ れていたアメリカ漫画『ブロンディ』に替わって「朝 日新聞」朝刊に『サザエさん』が登場した。そして、 その後昭和49年2月21日付けで休載するまで朝日 新聞にて連載され国民に親しまれたのである。 2−2.イソノ家の紹介 ● 家系図 イソノナミヘイ = フネ フグタマスオ = サザエ カツオ ワカメ タラオ 『サザエさん』は基本的に 「イソノ家」が中心の話とな っている。まず、物語の主人 公「サザエ」がいて、サザエ が中心になって漫画『サザエ さん』は進んでいく。サザエ は九州出身でイソノ家の長女 である。父親であるナミヘイ の転勤により東京へ上京。上 京後、初めは雑誌社に記者と して勤め、その関係で婦人警 官を2、3日体験したりした。 その他は得意な裁縫を生かし て、生地の仕立ての仕事を家で開いたりした。マスオ と結婚したあとは母親フネと共に専業主婦になる。性 格はおっちょこちょいで、布団を仕立て、近所の人に 渡した。早速その掛け布団を使ってみたところ様子が おかしい。掛け布団を切り裂いてみたところ、仕立て の際に使った物差しが出てきた。など、何かをするた びにドジを踏む。目立ちたがり屋で、慌てんぼう。明 るく、朗らかである。また、ボランティア活動にも熱 心で、赤い羽根の募金では、箱を持ち、街頭で声を出 して、募金を募っている。趣味は編み物、料理、ショ ッピング。「ナミヘイ」はイソノ家の主。サラリーマン で、福岡に勤めていたが、東京に転勤になる。一家の 長として厳格と貫禄があり、子供たちの尊敬を集める。 しかし、フネには弱く、子供たちが見ていないところ ではフネに頭が上がらない。三日坊主で、物事が続か ない。先祖も日記を3日でやめているところから、イ ソノ家の遺伝だと考えられる。サザエ、カツオ、ワカ メもこの血を継いでいるので当然三日坊主である。趣 味は盆栽、晩酌、釣り。髪の毛がないことを気にして いて、頭の上の一本ある毛を大事にしている。ナミヘ イの妻で、サザエの母である「フネ」は、しっかり者 で落ち着きのある、イソノ家の影の家主である。常に 家族のことを気にかけ、家族に頼りにされている存在 である。「マスオ」は東京に越してきたサザエと知り合 いスピード結婚。一児の父となる。結婚後はサザエと 子供のタラオと共に一軒家を借りて住んでいたが、燃 料不足により家の周りの塀をノコギリで切っていたと ころを大家に見つかり、その家を出て行くことに。そ うしてサザエの実家イソノ家に住み始めるようになっ た。早稲田大学に校歌を酔っ払ったときに歌ったこと から、早稲田大学出身と思われ、サラリーマンをして いる。性格は生真面目で無器用。良き夫で、良き父で ある。趣味はゴルフ、バイオリン(あまり上手とはい えない)イソノ家の女性に弱く、特にサザエには勝て ない。ナミヘイ、フネの子「カツオ」はイソノ家の長 男。スポーツ万能で、相撲では負け知らず。お調子者 でいたずらが大好き。誰これをかまわずいたずらをす るので、サザエとカツオの町内追いかけっこは有名。 妹のワカメとも仲がよく、二人で共謀していたずらや、 つまみ食いをする。しかし、母の日にはお金を貯めて フネにプレゼントをするなど心のやさしい少年のため、 憎めない。妹の「ワカメ」は食べ物に目がなく、ある 日、ワカメがお菓子をマスオにあげたのだが、マスオ の一口が大きすぎると泣き叫ぶ。実はこれはより大き いお菓子を手に入れるための手段で、マスオはほんの 少ししか食べていないのに、もとあったお菓子の大き さよりも2倍はありそうなお菓子を買わされることに なってしまった。人見知りをするが、30分もすれば 慣れてしまい、大人でも仲良くなってしまう。兄のこ とが大好きな、天真爛漫で、おしゃれに興味のある女

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の子。サザエとマスオの子供「タラオ」はものわかり のよい子で、家族のアイドル的存在。『サザエさん』の 子供たちは、最初は成長していたが、ある一定の時期 で成長しなくなった。カツオは連載が始まったときは 小学校に入ったぐらいの年齢であったが、小学校高学 年くらいまで成長し、ワカメは3、4歳で登場し、小 学校入学をして、低学年あたりで成長がとまった。タ ラオは生まれたばかりの赤ちゃんで連載途中から登場 した。成長が止まったときはもう歩けるようになり、 言葉も話せるようになっている。 その他イソノ家以外の人物を紹介すると、ナミヘイ の甥である「ノリスケ」は博多から上京してきて、結 婚までイソノ一家と同居する。何度も見合いを断られ た末に、ナミヘイの知人からの紹介でタイコと出会い 結婚。趣味は昼寝と食べること。カツオとワカメに捕 まりねだられるため、クリスマスと正月の時期はイソ ノ家に姿を現さない。ノリスケの妻「タイコ」ノリス ケと見合いにより出会い、結婚。その後一児の母にな る。趣味はバレエ、洋裁、生花、ピアノ、英語、スキ ーとなっているが、見合いの席での話なので本当かど うかはわからない。結婚当初から家計を握っていて、 ノリスケはさからえない。ノリスケとは仲のよい夫婦。 ノリスケとタイコの子供も出てくるが、男か女か不明。 名前は最後まで明らかにされず、「ナミエ」にしようと して区役所に届けに行く途中同じ名前の奥さんを見て 気が変わり名前を変更するため引き換えした。という ことがあったことから考え うが高いが、子供のこと を「坊や」と呼ぶことも あったので、やはり性別 は不明。牛乳が大好き。 賢い子で、父親であるノ リスケがテレビ番組の途 中でコマーシャルになり いそいそとトイレに向か う姿を見て、自分もコマ ーシャルになったときに 母親に合図してオムツを かえてもらうことを覚え た。これにはサザエさんもビックリしていた。「ナミヘ イの兄」も出てきたが、名前は出てこなかった。フネ が間違えるほど背格好がそっくりのところから、双子 と推測される。但し、兄は眼鏡をしておらず、頭のて っぺんにある髪の毛は2本生えている。兄弟仲が良く、 ナミヘイは兄と一緒にいろいろなところへ行った。忘 れてはならないのが「イソノ家のペット」である。実 はイソノ家ではたくさんの種類の動物を飼ったことが あるのだ。白いオス猫(ミー)(タマ)、ブチの猫、捨 て猫(名無し)、小鳥、ニワトリ、金魚、飼い犬のジョ ンと預かっている犬。八百屋でキャベツを取替えに行 ったマスオが、キャベツだけでなくおまけに子猫まで もらってきたこともある。

3.『サザエさん』からみた戦後の日本

3−1.昭和20年代の日本 〈前半〉

「サザエさん」は昭和21年の4月22日付

けで「夕刊フクニチ」において連載が開始され

た。その当時はまだまだ戦争の影響で人々の生

活は大変なものだった。

戦争直後の事柄として挙げられることは、満州国か らの引揚げ者である。満州 国とは昭和6年9月18日 の奉天北方の柳条湖の鉄道 爆破事件を契機とする日本 の中国東北侵略戦争である 満州事変により、中国の東 北三省及び東部内蒙古をも って作りあげた傀儡国家で、 昭和7年に建国された国で ある。しかし、第二次世界 大戦の終結により、消滅し た。そのため、その国で生 活していた人たちが日本国内に戻ってくることを「引 き揚げ」と呼んだ。満州から帰ってくることはとても 困難なことで、帰路の途中で体力のない幼児などは途 中で亡くなってしまったということも少なくない。そ ういった人たちにサザエは物を貸したりしている。そ こから当時の人たちによる助け合いの精神が見えてく る。 ると、女の子の可能性のほ 当時全ての国民に不足していたものは食料や、生活 用品である。当時は配給制になっており、国から食料

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を分け与えられてはいたがとても足りるものではなか った。『日本統計年鑑』によると昭和21年の実支出総 額1720円53銭のうち主食にかかった割合は35. によるものは5.00% であるから、残りの3 0%余りの主食はどこか ら来たものなのだろうか。 その答えは「闇市」であ る。配給では生きていく ことすら難しい状態なの で、お金を握り締め闇市 へ出かけていった。「闇 市」というのは「闇」と つくぐらいのことだから 当然公的に認められてい ない裏での取引を行う店 があるマーケットのこと だが、当時は決して暗いものではなかった。現にこの 闇市がなく配給だけに頼る生活になれば人々は生きて いくことの出来ない世の中なのである。そのことは政 府も認めていて、サザエがカツオ、ワカメを連れて闇 市に向かう様子が『サザエさん』にも出てきた。「闇市」 というものはこの当時必要不可欠なものだったしかし、 当時の経済は、お金はあっても物が出回っていないの で、品物の値段がとてつもない高値になっているとい ったインフレになっていた。いくらお金があったとし てもとても足りるものではなかったのである。お金で はいくらだしてもあまり良いものが得られなかったた め、どうしても必要な物がある場合は近所の家を回り、 譲ってくれるところを探した。そのときはお金ではな く、着物など、価値の変わらない物で交換をするとい う物々交換もよく行われた。しかし、慢性的にものが ない状態だったため、産地に直接出向き買ってくると いう「買出し」をするようになっていった。しかし、 買出しには制限が設けられており、買出しに出かけた 者を駅で待ち構え、ひとりひとり荷物を計りに乗せ超 過した分は没収された。漫画では駅に「買出し二貫限 り」と張り紙が貼られていた。「貫」とは当時の重さの 基本単位で、1貫3.75kg。二貫なら7.5kg ということになる。家族が多い家庭ならこのぐらいの 食料で足りることはないだろう。さらに、米において は統制がしかれているため、もし買出しをしているこ とがばれたら、全て没収されてしまうのだ。そのため 買出しから帰ってくる人は洋服の下に隠して持ち込ん だりしてどうにか警察の目を逃れようと必死だった。 戦後の政治は民主的になり、 26%である。そのうち配給 男女同権が唱えられる よ ん あった。今でも海外では利用 さ うになっていた。「サザエさん」には男女同権の漫画 がこの時期多く出ていたので、著者である長谷川町子 氏もこの意見に賛成だったと思われる。 戦後2年も過ぎると、生活もだんだ と落ち着いてきて、今まで家計を食 料につぎ込んでいたのが身の回りの生 活用品にも回るようになっていった。 「サザエさん」では風呂が登場した。 公衆電話も登場し(左の写真)、自分か ら掛けたい場合は公衆電話から。掛かってくる電話は 近所の当時はまだ壁掛けだった電話に掛かってきて、 家まで呼びに来てもらうといった仕組みになっていた。 そのほかに扇風機、電気炉が登場したが、この頃はま だ電気代が高く、炭や炭団(木炭・石灰の粉末にふの りをまぜ、球状に固めて乾かした燃料)を使ったほう が経済的なため必要に迫られなければ使わないように していた。電気自体まだ安定していなかった。「サザエ さん」には停電が多く出てくる。戦争直後は空襲で配 線設備が被害を受けたり、その後電化製品が増加して いくことにより需要を満たすだけの発電量がなかった ためだと考えられる。そのため毎日の一定時間停電す るところもあった。また、完全な停電とはならなくて もろうそく送電や線香送電といったろうそくや線香ほ どの光しか送られてこないということもあった。それ でも初期のころはあまりにも習慣となっていたので、 一定時間の停電ならそろそろ停電かと思うほどで、さ ほど苦にはなっていなかった。それほどこのころの生 活において停電は頻繁で長かった。 当時はサマータイムが れている制度だが日本ではなくなってしまった。理 由として日本人は夏朝早く明るくなることを利用して 会社に行くのはいいが、暗くならないうちに帰ること が出来ない性分で、結局長い時間仕事をすることにん ってしまう。それでは意味がなくなってしまう。また、 イソノ家では気づいた人が1時間づつずらしてしまい、 カツオ→サザエ→フネと3時間もずらしてしまい混乱 してしまった。そういった面倒臭いという理由もあっ たのかもしれない。

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カツオはプラスチックを見たことがないという。さ か の回復の兆しをみせはじめ、収入が増えだ 屋 憧れが強くなっ 電化製 はなく、電化製品を使うことに のぼって漫画を調べてみると、なるほど、プラスチ ックと思われるものが出てきていないのである。食器、 机は鍋のえは木製、その他、火鉢の石制、鉄製などで 作られていた。公衆電話も木製で2 号自動式壁掛電話 機と思われる電話が利用されていた。それも木製なの で、カツオがプラスチックをみたことがないというこ ともうなずける。 〈後半〉 日本経済 した。しかし、同時に物価も上がりはじめ、電話料金 の値上がりにはじまり、郵便、電車賃の値上がりと続 いた。主婦にとっては賃金が上がったが、支出も増え ることになり、結局生活水準は前と変わらないことで、 うれしいやら悲しいやら複雑な気分になっていた。こ の頃は給料やボーナスは手渡しでもらっていた。その ため、給料日には家族全員が家で親・夫の帰りを今か 今かと待っていた。そして給料を妻に直接渡すことに よって父親・夫のメンツを保っていたのである。 訪問販売というのもこの時代の特徴である。豆腐 が笛を吹いて家の前を通り過ぎる。家で作ってきた佃 煮を試食させながら売り込んでいく。屑屋御払い(屑 屋−紙くずやぼろなど、廃品の売買を業とするひと。 御払い−代価の支払い、不用品を売り払うこと)が廃 品を取りに来る。金魚、シャボン玉の液・・・などた くさんの職業の人が町内を回っている。自分の目当て の人が家の前に来ると家を飛び出して声を掛ける。酒 屋の御用聞きにおいては一軒一軒家を回って注文をと るなど、時間も労力も使って商売をしていた。現代で は電話一本ですんでしまうのはもちろん、インターネ ットショッピングでは買い手は実物を見ずに、また売 り手のほうはどんな人が買うのかもわからずに売買を してしまう。といった時代になっている。こんな時代 に比べたら、ひとりひとりとのふれあいを大事にする 訪問販売は物を売る、買う喜びの実感を強く感じさせ ているのではないだろうか。また、月賦の集金も家に 直接来て、お金を徴収して行った。 昭和20年後半になると機械化への てきた。戦争直後では食べることが精一杯で夢を持っ てなどいられなかったが、20年代後半になり、生活 が安定してくると夢を持つようになってくる。人々の 夢とは「アメリカンライフ」である。なぜ、「アメリカ ンライフ」を夢に持つようになったのだろうか。答え は『ブロンディ』にある。『ブロンディ』とは1930 年(昭和5年)9月8日にチック・ヤングこと、本名 ムラート・バーナード・ヤングがアメリカで新聞連載 漫画として発表した漫画である。アメリカの新聞連載 漫画には、「ガッシリした体格で人並み外れた腕力を持 つ主人公」を描いたものと、「毎日の家庭生活を心から 愛する穏やかな家庭婦人」を描いた漫画の2パターン に分かれていた。前者は『ポパイ』や『デック・トレ イシー』などが挙げられ、後者は『ブロンディ』であ る。『ブロンディ』アメリカ国民の生活を写し出した、 いわば「アメリカ版『サザエさん』」のようなもので、 『サザエさん』のように国民の人気を集め、チック・ ヤングの机上には毎日数千のファンレターが山積みさ れていたという。そのようなアメリカ国民の生活をそ のまま写し出した『ブロンディ』は戦後の日本人にと ってどう映ったのだろうか。『ブロンディ』を分析して みる。アメリカの家庭生活を描いた『ブロンディ』は 1930年9月8日アメリカで発表された。日本での 発表は1949年1月1日(昭和24年)で、195 1年4月15日(昭和26年)まで続いた。登場人物 はバムステッド一家で、主人公で、主婦の「ブロンデ ィ」は未亡人プーバードゥープ夫人の一人っ子。おて んば娘。ブロンディの夫、「ダグウッド」はブロンディ に心底惚れ込み結婚する。二人は長男の「アリグサン ダー」と、当時懸賞による全米の読者からの応募で名 前がついた長女の「クッキー」2人の子供に恵まれ、 生活している。といった設定になっている。 読者のブロンディ像とは、電気冷蔵庫などの「 品」と分厚いサンドウィッチが代表する「豊富な食生 活」のふたつである。これは当時の日本の庶民にとっ て豊かさの象徴であ り、これを持ってい ることが何よりの自 慢であった。アメリ カでは、家庭内では 夫よりも妻に主導権 があり、家事におい てはすべて妻まかせで より時間的にも労力的にも楽になり、皿洗いなどは夫 に手伝ってもらうことで、毎日あくせくと家事に追わ れているなんてことはなく、実に合理的に生活をして

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いる。そして冷蔵庫を開ければ常にハムや卵といった 食料が大量に入っていて、お腹が空けばそこから好き なものを好きなだけ出し、パンに挟んで分厚いサンド ウィッチを作ってほおばる。といった印象を持つよう になった。 しかし、実際掲載された『ブロンディ』の漫画を見 る 場 ア 『ブロンディ』を読ん 思 方ではなく毎回家庭電化 。 と、意外と電気冷蔵庫などの電化製品はあまり出て こない。出てきてもそれが電化されているのかが区別 できないような登場のしかたであり、サンドウィッチ も掲載された作品の数からすると決して多いといえる 数ではないのだ。むしろ掲載作品のほとんどが日本の 一場面と同じように電化製品が全く出てこない空間で 話が進むということも珍しくなかったのである。 なぜ日本の庶民たちはここまで『ブロンディ』の登 人物たちの生活に憧れたのだろうか。そこには庶民の アメリカに対する先入観がある。当時庶民はアメリカ のイメージとして「アメリカ=家庭電化製品に溢れた 生活」というイメージをもっていた。「アメリカ=家庭 電化製品に溢れた生活」というイメージをどうして持 ったのか。それはこのブロンディが連載していたもの すなわち新聞自体に答えはある。というのは、当時の 人々は新聞によって情報を入手 していたのだ。その新聞で時折 紙上にアメリカの生活について 紹介がされる。「今流行の家。バ ス、暖房完備」「素晴らしい機能 のついた電化器具」「我々にとっ てはどれも羨ましいものばか メリカに対して憧れを抱かせ、 これから売り出す製品に対して「アメリカ好みの・・・」 「今アメリカで人気の・・・」などと売り文句をつけ ていた。そのため新しい製品はアメリカでは誰もが持 っている平均的なもので、アメリカの主婦たちはこれ により大変有意義な生活を過ごしている。と思うよう になってしまい、その先入観を持って連載の始まった 『ブロンディ』を読んだ。そのために、バムステッド 家も自分たちが憧れている電化製品を持ち、家事に縛 られていない生活をしていると思い込んでしまったの である。 それでは、先入観を持たないで り」といって読者の でみるとどうなのだろうか。実際のバムステッド家の 生活は実は一般的な家庭よりも少し引けをとっている。 掃除にしても毎回掃除機を使うわけではなく、同じぐ らいの回数でほうきやちりとりが出ているし、テレビ がその回の話しの話題 になったと思ったら鏡 を使って隣の家のテレ ビを盗み見しようとい った内容であった。朝 日新聞に連載された 『ブロンディ』に関す る限り、本当はバムス テッド家にはテレビも なく、自動車も所有し ていないのであった。 っていたほどバムステ ッド家はアメリカでは裕福な このように実は日本の読者が 製品に頼った生活をしていたわけではなかった。 確かに先入観を持たずに『ブロンディ』を分析すれば そこまで羨むべき生活ではなかったのかもしれない だが、日本の人々は所有していないもの(テレビなど) も含めて『ブロンディ』に登場する家庭電化製品はも ちろん、その延長線上の電化製品や進んだ乗り物(自 家用車)などをひとくくりにした『ブロンディ』を「日 本のモデル像」として定義づけをしたことで、人々は アメリカという国に強い憧れを持ち、いつか自分たち もバムステッド家と同じような生活を送りたいといっ た欲望を持つことになり、確かな目標を持つことにな る。その目標を達成するために人々は日々努力をして いったのだ。本当の『ブロンディ』は電化製品をあま り持っていなかったが、その時期に出た広告との相乗 効果によりその後の日本の高度成長期を迎える一因に なことは確かである。「サザエさん」の中でも家電製品 への憧れが強く出ていて、家電製品に対する話題が出 てくるようになる。電気アイロンや扇風機などはすで に持っていたのだが、金持ちの家は電気洗濯機を手に する時代になっていた。電気洗濯機、電気冷蔵庫、掃 除機などそのころはまだ高級な品物であった。もしそ のような高級な家電製品を買ったものならば、近所の 人は家に押しかけて実物を見させてもらい、主婦の会 話の中には「これを次買う。」「これ買ったけどとても いいわよ。」など話の話題になり、もし自分たちが手に 入れれば自慢話をし合うのだ。また、車も出始める。 少し前までは人力で走っていたタクシーも自動車に変

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わった。自動車のタクシーの初乗りは80円であった。 20年代も終わりになると戦後の食料難も懐かしく 思うようになり、お歳暮・お中元などに追われるよう になっていた。品物は相手の家に直接出向いて渡して いた。もらったものは中身を確認した後、名前を書き 変えて他の家に回すということが普通に行われていた。 しかし、食料米の不足や小麦粉の消費を増やすため に人造米を食べるよう政府が指示するようになる。昭 た。しかし、毎日うどんなので、 なくても米屋につきたてを持ってきても 。 ら、イソノ家の住 り見ることがな が り、とても物をしまうところが足 和28年10月27日に閣議決定された「人造米生産 育成要綱」によると、方針は、「人造米の生産を育成し、 その消費の普及を図ることは、食糧事清の改善に資す るとともに、でん粉及び小麦粉の新規用途の開拓等か らみて適当と考えられ、その生産及び消費を推進する ものとする。」とされている。これにより、人々は本物 の米ではない人造米を食べなくてはならなくなった。 人造米とは、小麦粉にでんぷん・砕米・水を混ぜて米 粒代に細切りし、加熱して表皮に糊化層を形成させた もの。米の代用品。 実際「サザエさん」でも米ではなく小麦粉を食べるた めにうどんを作ってい カツオ、ワカメ、マスオが文句を言い、廊下に立たさ れてしまう場面があった。やはり日本人の主食は米な のである。 正月になると自分の家で餅つきをするものだった。 自分の家でし らい、自分たちで形を整え、飾るなり、食べるなりし ていた。しかし、カビ易く日がたち固まってから切る には力が要り、大変だった。 20年代末期から30年代初期はデフレ傾向になっ ており、物価が安くなっている 次に『サザエさん』の住居を見てみたい。『サザエさ ん』は昭和21年に始まったことか 居は昭和20年代における住居の一般的な家だと考え られる。そこで、昭和20年代を代表するイソノ家の 家と、現代の住宅を比較してみる。イソノ家は右の図 で見てわかるように平屋である。現在では一軒家では 2階建て以上の住宅。一軒家の他に はマンションという選択肢が出てきて、現在の日本で は平屋は昔に建てられた家以外はあま くなった。イソノ家の見取り図を見ると、廊下が長く、 一応全ての部屋と接してはいるが、家事動線が長い。 今では一軒にかける土地が狭くなってしまっているた め、廊下の面積をできるだけ省き、その分部屋を広く するようにしている。いかに効率のよい生活が出来る かを考えているので、家事動線が短くなって無駄のな い設計になっている。そのため、縁側も、もちろんな い。今の住宅において、重要視されているのが収納で ある。イソノ家のそれぞれの部屋に押入れがあるけれ ど、ベットの生活でなく布団の生活をしている。まし てやイソノ家の7人(ノリスケが居候していたときは 8人)で生活してい たのだから、かなり の場所を布団にとら れていたに違いない。 まだその当時は物が 少なかったため大丈 夫だったのだろうが、 機械化が進み、生活 増え続ける傾向にな りなくなった。そこ で、階段の下や床下、床上などのデッドスペースに収 納場所を作るようになった。カツオとワカメが同じ部 屋で勉強、就寝しているが、今は兄弟でも異性で同じ 部屋というのはなるべくしないようにしている。プラ イバシーの尊重が重要視されるようになり、ひとりひ と部屋は当たり前のことになっている。イソノ家の生 活において、一番不便を感じるであろう場所は、トイ レだろう。見取り図をみてわかるように、トイレは家 の一番奥の離れたところにある。部屋からトイレに行 くのに距離があった。また、当時の家は、炭や炭団を 使っていたため、そこまで気密性はもっていなかった。 そのため、窓に面する廊下はとても寒かった。端にあ り他の部屋とのつながりがないトイレも寒かったであ ろう。トイレというのは心臓麻痺や、クモ膜下出血を 起こしやすいところなので、現在では常に暖かくして いるほど危険が多いところなのだ。そのため、イソノ 家において一番危険なところはトイレであろう。以上 が昭和20年代の住宅を象徴しているイソノ家と現代 の家を比べてみたことだが、現代では昭和20年には 存在していなかったものの登場により、住宅が進化し ている。それでは当時にはなくて現代にはあるものは なんなのかを挙げてみる。まず、住宅品質確保促進法 である。その中に家を建てた場合に国土交通省が指定 した第三者機関が客観的に住宅の性能を評価する制度 にゆとりが多くなるにつれ、物

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である住宅性能表示制度があり、建築についてよくわ からない人でも参考になる基準が出来た。また、阪神 淡路大震災の影響も受けて、耐震設計が必要不可欠に なった。そして、太陽光発電による省エネ。ホルムア ルデヒドなどのシックハウス症候群対策、24時間換 気システム、抗菌といったアレルギーや病気への対策。 食器洗い乾燥機付きシステムキッチンや一軒家にもエ レベーターといった機械製品の増加、エレベーターは 高齢化社会において必要なものとなるであろう。高齢 化社会については他にバリアフリー化の設計になった こともある。 最近、年配の人でも子供が成長したから郊外の一戸 建てを売って、都心のマンションに戻ってくるという 人が増えている。日本の都心においては一軒家よりも マンションのほうが好まれる人も少なくない。ではな ぜマンションを好んで選ぶのであろうか。 その理由は、職住近接というよりも壮健な高齢者も 老後の生 む くてもいいので都会に住みたいと望むように 最近は多くなっている。そこで今 きたことは持ち家政策 あった。国民に小さくてもいいから一軒づつ家を持 のため世帯主の し、実際一軒家 だということが タイルが変化す ると、今までの 。そこで、賃貸 高齢化の時代を とになる。そう とにより賃貸物 わり、家を持つという 味を考え直さなければいけない時期に来たようだ。 3−2.昭和30年代の日本 東京などの都会へ上京し 活 を 医 療・文化 施設など が充実し ている都 心に住み たいと思 う人が増 えている よりか狭 なってき ている。そのため、都心にマンションが多く立ち始め た。近年の特徴としては、ペット共生のマンションが 増えたことだ。あらかじめエレベーターにペットが乗 っているということを知らせる機能や、コンセントの 位置を高めにすることで感電を防ぐなどペット共生の ために設計すれば問題なく快適に過ごせるとわかって きたからである。 こういったライフスタイルの変化によって住む場所を 変えるということが ためである。また、若者でも遠い郊外に住 までの意識が変わってきた。 戦後の日本の住宅公団が行って で たせましょうと指導してきたのだ。そ 夢は一軒家を持つことであった。しか を持ってみたら、遠いし、狭いし大変 わかり、また、今の時代突然ライフス るということも稀ではない。そう考え 持ち家政策には無理がでてきてしまう という選択肢が出てきた。この先少子 迎えると、だんだん家が余ってくるこ した既存の住宅を賃貸に回していくこ 件を充実させていくのだ。家賃のほうも傾斜家賃にす る。傾斜家賃とは、収入の少ない人には最初安い家賃 で年々高くしていくことで、こういったシステムを行 うことで若い人たちにも入れるという条件をつけて、 もっとフレキシブルにライフスタイルに合った賃貸政 策ができるようにすることが大事になってくる。今ま では家を建てることで一 人前だとされてきたが、 これからはひとつの場所 にとらわれず自分の人生 にあった家をその時々に 人生と合わせることが必 要になってくるのだ。昭 和20年代においての家 とは、家を買った時点で、 家に生活を合わせるとい う生活をおくっていた。 しかし、現代では生活に 家を合わせるという考え方に変 意 昭和30年代に入ると、日本経済の大きな発展とな る高度成長期になり日本人の生活が急激に変わり始め た。東京の人口はこの5年間に175万人も増加し、 その後もどんどん増え続け、東京の人口が850万人 を突破することになる。この背景には集団就職という 制度があったため、急激な人口の増加につながったと 思われる。集団就職とは昭和32年から始まった地方 から都会に就職する主に中卒者のために設けた制度で、 地方の駅から集団就職列車となる列車を出し、就職す るものはそれに乗り込み一路

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て ものではなく、ダ 18年の幕を である。まず、トースターから始まり、 でナショナル つ着々と買い揃えることに びたためと思われる。 行くというものである。 当時中卒の就職希望者はどこの会社においても喉 から手が出るほど欲しい存在で、金のたまごとして重 宝され、その後、高度成長期が終わりをつげ、不況の 時代に突入しても中卒者は欲しがられ、金の卵なんて イヤモンドだと例える雇い主もいた。 しかし、集団就職列車は昭和50年 3月25日に青森を出て、東京の上 野に着いたのを最後に 下ろし廃止された。 日本経済は風呂屋の値上がりや、 野菜の高値、新聞、米、電車賃など 生活にかかわるものの値上がりによ り、家計を圧迫していったが、確実にアメリカに近づ いていた。例えば、食事に関しては米食はよくないと され、米の消費が少なくなり、学校の給食も見直され、 脂肪分の多いものが取り入れられることになった。衣 服はアセテート、ナイロン、ビニールなどの人工品が 出回るようになり、高価な着物にも比較的手が届くよ うになった。そして、一番アメリカ化していることを 表しているのが電化製品の登場だ。昭和20年代では ごく限られた金持ちの家庭にしか見ることのできなか ったものが、イソノ家のような中流家庭にも置けるよ うになったの 近所に電気 冷蔵庫が来る(左の冷蔵庫は当時発売されていたもの による第1号)。その電化製品を見に行っ てうらやましがるのだが、まだ電気冷 蔵庫には手が届かないイソノ家はまず、 ガスストーブを購入。それにより、炭・ 炭団の使用がなくなる。電気座布団、 湯たんぽの代わりの電気アンカ、電気 ストーブにより寒さをしのぎ、ミキサ ー、電気炊飯器の登場により、家事が 楽になった。自家用車を持つようになり、街中にパー リングメーターが姿を見せるようになる。その後も電 気掃除機、電気洗濯機の購入と続いて、そして最後に 電気冷蔵庫の購入となった(右の冷蔵庫は昭和32年 に発売された型で、生産累計8万台)。電気冷蔵庫の購 入により、今までアイスクリームを買ったら溶けない うちに家に持ち帰り、急いで食べていたが、そんな心 配することもなくなり、家で氷までも作れるようにな った。このようにひとつず より、アメリカの生活に近 中で一番急速に伸びたの はテレビであろう。テレ ビが一家に一台の時代に なったのである。そこま でテレビが急速に伸びた 理由は昭和34年4月1 0日に行われた当時の皇 太子明仁親王と正田美智 子のご成婚がテレビ中継 されることになり、それ を見たいためにテレビを 買い求める人が増え、所 有率が伸 づいていった。電化製品の 家庭の中にのみ電化製品が増えたわけではない。人々 が通勤通学で大変な混雑になる駅に自動切符販売機が 置かれた。出張などに使われ、移動時間が短くなる新 幹線もこのころ登場した。昭和20年代には夢だと思 われていた『ブロンディ』に描かれた時代の「アメリ カン・ライフ」が手に入ったのである。このように日 本の経済は大きく進展して株が上り続けていた。国民 は日本の発展に大きな希望を持ち、婦人までも株に手 を出すほど世間は株に注目していた。戦前は高価だっ たバナナが自由貿易になり、手ごろな値段になった。

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昭和30年代になり世間の話題はどうなのだろう。 択捉・国後島の問題、皇太子妃が決まり、ご成婚。そ の後皇太子の子供が誕生。赤ちゃんブームになる。昭 和32年に世界初の人工衛星スプートニク1号が打ち 上げられた。日本人が世界に挑戦する様子も描かれて いる。南極観測隊が置き去りにしたタローとジローや、 太平洋ヨット横断などである。昭和30年に入ってか ら『サザエさん』の中に事件・事故の話題が多く出る ようになった。偽札騒ぎ。のちに偽札防止のため新千 円札発行。昭和30年代に一万円札(上のお札)、五千 円札(下のお札)を発行した。しかし、庶民には手が 出なかった。タクシーの初乗りが100円になり、台 数が増えることで、問題になったのは、車上強盗であ る。この時期は多かったらしく、3回ほどこの話題の 漫画が出てきた。押し売りの話題も多かった。刑務所 から昨日出てきたんだと脅しをかけて、要りもしない ものを無理やり買わせるのだ。これにはサザエもフネ もよく買わされていた。子供の誘拐が頻発し、親たち が警戒。マリリンモンローの謎の死は世界中を沸かせ た。伊勢湾台風により、死者・行方不明者合わせて5 200人を超し、大きな爪痕を残していった。そして 初めて事故の 話題が出てき た。「三河島事 故」である。 この事故は、 昭和37年5 月3日午後9 時37分、東京都荒川区の国鉄(現JR)常磐線三河 島駅−南千住駅間で貨物専用線を走っていた下り蒸気 機関車が赤信号を青信号であると誤認し前部の機関車 が脱線、隣の下り線路内に傾いて停止した。同35分、 三河島駅を1分遅れで発車した上野駅発取手行きの下 り電車が、転覆した機関車を発見、急ブレーキをかけ たが間に合わず電車の1両目が機関車に衝突し上り線 路内に脱線した。このため乗客を三河島駅に歩いて引 き返すよう誘導し、一部の乗客が線路内を歩きはじめ た。そこへ同40分、南千住駅を発車した上野行き上 り電車が脱線した下り電車に衝突、轟音とともに火花 を散らして脱線。1両目は車体だけを残して大破、2, 3,4両は5メートルの崖下に落ち民家に突っ込んだ。 下り電車の2,3両目も脱線、宙に浮いた。このため 死者160名、重軽傷者325名をだす大惨事となっ た事故である。(左の写真は事故直後の様子)。 「太陽族」と呼ばれる人たちが出現した。「太陽族」 とは、昭和30年に石原慎太郎が発表した小説「太陽 の季節」からとられたあだ名で、この作品は、学生と ブルジョア娘との恋愛を軸に、既成の秩序にとらわれ ない行動的な戦後世代の風俗とドライな感性を描いた 青春小説である。この作品に影響され、既成の秩序に とらわれずに行動する、戦後派青年たちのことを「太 陽族」と読んだ。また、「愚連隊」という言葉も生まれ た。「愚連隊」とは、「ぐれる」から出た語で「愚連隊」 は当て字。繁華街などを数人が一団となってうろつき、 不正行為などをする不良仲間のことを指す。 人々の遊びも変わった。お正月の羽根突きやかるた 取りは変わらないけれど、遊びに出かけることが多く なり、家族でサーカスや潮干狩りに出かけ、大人はゴ ルフに行った。景気のよいときはゴルフが流行る。漫 画にもゴルフ場をたくさん作っている様子が描かれて いた。子供たちの遊びはというと、フラフープである。 フラフープはものすごい流行になり、ピーク時には2 秒に1本売れたといわれるほどだ。同時期、男の子た ちの間で行われていた遊びが、昭和33年に桑田二郎 により少年クラブで発表された漫画『月光仮面』の主 人公になりきって遊ぶ「月光仮面ごっこ」である。ま たグリコが景品に付けたことがきっかけでワッペンも 流行した。

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3−3.昭和40年代の日本 昭和40年代になり、昭和30年に起きた高度成長 による日本経済の成長が緩やかになり、人々の生活の 変化が止まってしまった。それを象徴するように、電 化製品に関する話題も極端に少なくなり、この後10 年間の生活において生産が伸びたものはカラーテレビ と電話機ぐらいだ。物価は上がり続け、給食困難にな り、お弁当を持参する日もあったようだ。その後、円 高ドル安・金の自由化により、生活が少しずつである が、楽になってきた。基本価値の変わらない土地を手 に入れる動きが活発になり、別荘ブームが起こる。都 会にはマンションが建ち、土地がなくなっていたので あろう、マンションの屋上で細々と家庭菜園をしてい る様子も描かれている。自動車の普及により道を新し く作らなければならなくなり、高速道路の建設も急ピ ッチで進められた。それにマンションの建設も伴って、 セメント不足になってしまった。マンション建設によ る日照権の争いも増えた。 日本は高度成長により、世界でも有数の先進国にの ぼりつつあったが、重大な問題を抱えることになった。 それは「公害・有害物質」である。漫画のなかで、昭 和40年代から食料品においての安全性や、公害につ いての話題が突然多くなった。食料品への着色料使用 から始まり、BHC牛乳(BHCとは、残留農薬で、 有機塩素系の殺虫剤のひとつ。現在日本では環境汚染 防止のため使用禁止)、チク ロ入り缶詰の回収(チクロ とは、人工甘味料のひとつ。 甘みは砂糖の30倍。催奇 性・発がん性をもつ疑いが あり、日本では昭和44年 に使用禁止になる)、車の増 加による排気ガスにより環 境汚染がひどくなり、子供 たちは蛍を見なくなった。 光化学スモッグ(紫外線の 光化学反応によって生ずる オキシダントが視程を減少させる状態。日ざしの強く 風の弱い日に発生しやすく、目や気管などが刺激され 呼吸器系障害をもたらす)、PCB汚染(水には溶けに くいが、油には溶ける。科学的に安定し、耐熱性や電 気絶縁性にすぐれ、絶縁油・熱媒体・可塑剤・潤滑油 等に広く使っ たが、人体に対する毒性が強く、自然物および生体の 中に蓄積されやすいため、現在製造・使用禁止)、魚が PCB問題で、特に魚への汚染がひどく、魚の消費に 制限がかり、魚が嫌煙され始め、また水 をかけ、食卓から消えてし まった。など人々は健康に 不安を覚えてくるようにな る。 昭和 銀公害も拍車 40年代の話題は、 人月面着陸に成功した。(左 ジ 学生運動の活発化、昭和4 3年12月10日、東芝府 中工場のボーナス3億円 (実際には2億9434万1500円)を積んだ日本 信託銀行国分寺支店の現金輸送車がニセ白バイの警官 に現金輸送車ごと盗まれたという3億円事件。日本史 上はじまって以来の巨額強奪事件で3億円は今の貨幣 価値でいっても30億円近い金額であるという。(右の 写真は3億円事件の犯人のモンタージュ写真)昭和4 4年アポロ11号は、7月20日(日本時間21日) に、ついに史上初となる有 の写真は月面にしるされた人類の偉大な第一歩)昭和 45年の赤軍派によって日航福岡行きのB727が乗 っ取られ北朝鮮へ亡命した、 よど号ハイジャック事件と、 著名な作家三島由紀夫が自衛 隊東部方面総監部を占拠後、 割腹自殺した三島由紀夫事件。 昭和 47 年、旧陸軍の横井兵 ャングルに潜んでいたところ を28年後現地の漁民に発見され帰還した。昭和 48 年8 月、東京のグランドパレスホテルで金大中(元韓 国大統領)が誘拐された金大中事件。と人々を釘付け にした話題が続き、世間を騒がせていた。そして、最 も記憶に残ったのはオイルショックであろう。第4 次 中東戦争の際、アラブ産油国がアメリカやオランダな どのイスラエル支持に対抗して原油の減産や値上げを 行い、世界経済に大きな影響を及ぼしたことによる石 油危機でトイレットペーパーがなくなるというウワサ が飛び、大混乱を起こした。ある日突然、スーパーの 店頭からトイレットペーパーが消えた。これに端を発 長が終戦後もグアムの

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し、砂糖、しょうゆ、洗剤なども相次いで姿を消す。 昭和 48 年秋の「オイルショック」は、日本全土に危 機的なモノ不足を引き起こした。この騒ぎで日本国民 はパニックを起こし、日本経済を混乱させた。 その他の事柄として、世界では、メキシコオリンピ ックが開催され、ベトナム和平宣言・会談、アメリカ

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9 月 13 日まで

大阪において万博が開かれ、 冷たくなりつつあった。栄 『サザエさん』を最初から連載されたものを追って 20年、昭和30年、昭和40年と変わ っていく事がありことに気づく。 ある。人々は国か ら 支出 6.87%となっ 。この数字はどれくらいのものなのか。エンゲルに の大統領選にて、ニクソン当選。ロールスロイス社の 倒産、ソルジェニツィンの国外追放と海外の話題も話 題にな ってい た。国 内では 上記に 挙げた 以外に 跳躍日

4 日から

会期中に

6421 万8770 人もの人々が訪れた。期間中は大変な賑

わいで、過去最大の国際博覧会となった。

(左の写真は

万博のシンボル、太陽の塔)

日本の家庭は、子供たちのプライバシー尊重や、テレ ビの普及などによって、電化製品により部屋は暖かく なったものの、家族関係が 本と題し、造船・捕鯨世界一となった。

3 月

養が良くなり、子供の身長は伸びたが、肥満児も増え た。 3−4.全体を通してみた時代による変化 いくと、昭和 まずは食に対する考え方の変化である。昭和20年 代初め、日本は厳しい食料困難な時代になっていた。 戦後でものが手に入らなかったので の配給を受けていたのだが、少ないものだった。長 蛇の列に並び、食料を得ていたのだが、とても足りな かった。しかし、昭和30年には三時のおやつが出る ようになり、昭和20年代では貴重だった砂糖を使っ たアイスクリーム・サイダーなどが食べられるように なった。食材にしても店にいけば手に入れることがで きる。そうなった背景がある、それぞれの時代におい て収入と食費との比率をみてみる。この比率は「エン ゲル係数」と呼ばれていて、家計の消費支出に占める 飲食費の割合であり、生活水準を計る一つの目安にな っている。その求め方は、 「エンゲル係数」=飲食費(外食を含める)÷国内家計 最終消費 で求めることができる。昭和21年の実支出総額であ で計算すると7 る1720円53銭 た よると最低の生活は55%だという。この数字は人間 の最低生活よりも大幅に上回り、もはや餓死寸前のこ とを指しているのである。 上の表は1946年(昭和22年)からの図になる が、戦後の食糧難を乗り切り、現代までエンゲル係数 を表す線が右下がりになっている。これは年々日本人 の る。 かわらず、子供におやつを与えるこ 食生活が改善され、所得が食料ではない他のものに 回っていることをしめしている。特に1950年頃か ら60年頃にかけて急激に下がっている。この時期は 人々の生活がどんどん良くなり、これまでの生活が急 転した。この時期が日本の高度成長期の始まりである。 このように家計の中で食費の負担が軽くなったことに より、家計をその他のことに回すことができるように なった。 このような歴史的な事や、生活における変化といっ た物理的なことだけでなく、心理的な変化もとらえる ことができ 家計における食費の変化により、食料・おやつが好 きなだけ手に入った。そのため、脂肪分の多い欧米食 化が進んだにもか

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と うにな っ きる。ノリス と 然叫び声を発 ーっと見てい 父 り その背景には、少子化に 物全体を暖房する方式)にした家をサザエ が 機械化が進み、家の温度が 中でも家族別々に過ごし、 後における生活環境が悪く、生き ていくことに必死だった。そんな中、朝日新聞におい 』により、アメリ の生活を目にし、アメリカにおける生活の裕福さに により、子供の成長は進み、身長が伸びたけれども、 大人子供関わらず、肥満に悩む人が増えた。 高度成長期に伴い、働き手が不足していたため、女 性でも働いている人も少なくない。そのため、女性も ひとりの人間として、はっきりと意見を言うよ ていった。昔のような家で夫の帰りを静かに待つと いういかにも日本の女性という人は少なくなり、男の ような性格の女性が増えてきた。それを表しているの 話が、街角で痴漢に襲われた女性を目撃したマスオは 女性を助けるべきか、危険 だから関わらないほうが無 難かとオロオロするばかり であったが、次の瞬間には 襲われた本人が痴漢を反撃 し、退治してしまった。こ のようにその時代の男より も男らしい女性が出てきた のである。 近所の住民と付き合い がなくなり、他人に無感心 な時代になった様子もとら えることがで ケがアパートを見に行った き、近所の人の反応を見たいため、突 したが、近所の人は皆ドアの隙間からソ るだけで、助けようとしなかった。そして、ノリスケ はそのアパートを借りるのをやめた。昭和20年代で は隣の家と非常ベルを取りつけ合い、異常がある場合 はベルを鳴らして隣の人にわかるようにした。そうし たら、目覚ましの音を防犯ベ ルだと勘違いして、隣の家に 乗り込んでいってしまったイ ソノ家が描かれていたのを考 えると、身を挺してまで助け にいく心がなくなってしまっ たのだろう。 家庭のなかの様子も変わ った。昭和20年頃は家庭に おいて父親の存在は大きく、 親の言うことは絶対であっ た。しかし、昭和30年頃か 、子供の地位が高くなった。 よる子供の数が少なくなった ことによる過保護化と、学歴社会が進み、学力重視に なったことで、父親を尊敬しなくなったことが挙げら れるであろう。また、夫と妻の関係も変わっていった。 ナミヘイとフネの時代は夫の方が強かったが、サザ エ・マスオくらいの若い夫婦になると妻の方が断然強 かった。これはちょうど『ブロンディ』の夫婦と同じ 感覚であり、日本の夫婦関係も欧米に影響されたと考 えられるのではないか。 機械化が進み、生活が楽になった時代に、「セント ラルヒーティング(建物の1ヶ所に熱源装置を設け、 そこから建 家の中を案内してもら う。サザエがふと開けた カーテンの向こう側に畳 を一畳敷き、ちゃぶ台で 正座をしながらひとりで 食事をする老婆の姿。そ こで老婆の一言、昔のほ う が ず っ と 暖 か か っ た・・・」という話が描 かれている。昔は、寒さ ゆえに家の暖かいところ に家族が集まる。そこで だんらんをしていたので、 強かった。しかし、住宅の 暖かくなったことで、家の 会話もなくなった。そのことに反対をしてひとりで昔 のスタイルを通すことで、身体の暖かさよりも心の温 かさを求めている老婆の気持ちが伝わってくる

4.『サザエさん』からみえたもの

昭和20年代は戦 寒かったけれど家族の絆は て連載されていた漫画『ブロンディ カ ら父親の立場が弱くな 目が留まった。そしてアメリカのような生活をしたい と思うようになり、日本国民は「アメリカン・ライフ」 に夢を持つようになった。 昭和30年代になると、アメリカを目指して仕事や 生活を送ることにより、急激に生活水準があがった。 人々の生活は日を追うごとに良くなり、食料に悩まさ

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れたことなど嘘のようであった。日本製品も発展を遂 限を受け 書くにあたって、最初は当時の人々が生 をどのように過ごしていたのかだけを読みとること しかし、『サザエさん』を読んでい うちに、作品には事件・事故も取り上げられている をいくら持っていようと、人々 てはいるものの、放映され続けている。未 いない。この 1994∼1995 町子『サザエさんうちあけ話・似たもの一 家』朝日新聞社2001 ・ 後アメリカニゼーションの原風景− ・ ml nta13.at.infoseek.co.jp/ http://www.ekanji.com/telephone/ al.jp/labo/history/reizou.html and-Hinoki/26 rei_jp/kakugi/kakugi_ma ・ .mainichi.co.jp/index.html ・ ホーム、アイダ設計、アエラホーム、ア 桧家コーポレーションの広告2004 川町子美術館 げ、電気冷蔵庫や、電気洗濯機もどんどん進化しつつ、 値段は安くなっていくことで庶民にも手が届くように なった。そして終わりには憧れであった「アメリカン・ ライフ」を手に入れられるようになった。 昭和40年代になると、高度成長もピークを過ぎ、 人々の生活は落ち着いた。しかし、高度成長期の代償 として公害や環境汚染に悩まされることになった。そ れにより、身体に害を及ぼし、食べる物の制 ることとなった。それと同時に家族のつながりも変化 し始め、絆が弱くなった。人々は物を得、心を失った のである。

5.おわりに

この論文を 活 を目的としていた。 く ことが分かり、生活においてだけではなく、そのとき に考えていた関心事、悩み事も分かり、全体を通して、 戦後を生活してきた日本の人々の心理的な変化も読み とることができた。 その結果、戦後すぐの生活にはとにかく物が求めら れ、物を持っていることが豊かであるとされていたが、 『サザエさん』の連載が終わった昭和40年の終わり には戦後求められた物 のつながりが弱くなってしまい、幸せとは言えなくな った。物を持つよりも、暖かい心のつながりを持って いなくては幸せにはならず、心を求めるようになって いった。 漫画『サザエさん』は長谷川町子により昭和21年 に描かれてから57年が経っている。漫画連載は28 年後に終わってしまったが、テレビ放映は現代風にア レンジされ だ日本国民に親しまれている証拠だ。 時が経ち、現代でも新しい漫画は数多く発表されて いるが、時代における身近な事柄を読みとり、コミカ ルな話にして4コマに表す。そんな『サザエさん』を 描いた長谷川町子のような漫画家はもう ような作品を書く漫画家がまた現れることを願う。 参考文献 ・ 長谷川町子『サザエさん』(全45巻)朝日新聞社 ・ 長谷川 ・ 新藤謙『サザエさんとその時代』晩社1996 岩本茂樹『戦 『ブロンディ』と投影されたアメリカ像−』ハー ベスト社2002 ・ 丸岡秀子『物価と家計簿』岩波新書1988 ・ 毎日新聞社『戦後50年』1995 広辞苑 ホームページ ・ http://www.j-area2.com/index.ht ・ http://go ・ ・ http://nation ・ http://www.npb.go.jp/ ・ http://www.geocities.co.jp/HeartL 61/sazae/ ・ http://www.expo70.or.jp/ ・ http://www.ndl.go.jp/ho in.htm http://www その他 アキュラ イフルホーム、西武開発、菱和ライフクリエイト、 ・ 長谷

参照

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