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13 2 長崎諏訪神社の成立と唐人寄進 2.1 唐船貨物の賜与と口銭銀 置銀 150

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要 旨  江戸時代の長崎は日本唯一の対外的窓口で、昔から中国からの渡来者(唐人) が多かった。諏訪神社は江戸時代初期に建てられた神社で、建設当初から唐人と の関係が緊密であった。諏訪神社には唐人たちが税金や貨物を納付し、その発展 に大きく貢献した。唐館に集中管理された唐人たちは諏訪神社参拝を理由に外出 の機会を得、神社は日中文化交流の場にもなった。諏訪神社の例祭「諏訪くんち」 にも色々な唐人文化の要素が取り入れられ、祭りから当時の唐人生活の実態がう かがえる。 キーワード 日本文化 長崎 諏訪神社 唐人  1 はじめに  「鎖国」を特徴とする江戸時代においては、長崎は日本唯一の対外貿易港であった。 長崎を通して、中国やオランダから物資や人が絶えず日本に入り、特に中国からはほ とんど毎年のように唐船が渡来していた。先行研究の統計によると、1600 年に唐船が 初めて長崎に入港して以来、19 世紀半ば頃までの二百数十年間、毎年長崎に入港し た船数は平均的に五六十艘あり、特に清国が 1684 年に「遷海令」を解除して「展海 令」を発布した後、長崎の来航唐船数は爆発的に増え、元禄元年(1688)に史上最大 の百九十二艘にも上がったという1。船の規模によって、乗組員は大船が百人、中船は 六七十人、小船は三四十人ぐらいいるので、毎年長崎に来る唐人は平均的に二三千人 にも達し、元禄元年の場合は九千人以上2もあったと推定されている。これらの唐人は、 一ヶ月から半年、一年ほど長崎に滞在し、その中に年々日中海域を往来している人も 多かった。江戸時代に総人口五万であった長崎にはこれほど多くの唐人が生活してい ることから、経済はもちろん、文化交流、生活様式の相互影響が大きかったことが推 測される。今までの江戸期における日中文化交流の研究は、経済、貿易など物質的な 交流に着目したものが多く、その研究成果も数多く蓄積されているが、唐人の生活ぶり、 特に唐人と長崎当地住民との関係を論ずる研究が極めて少ないようである。本論は神 社という特別な存在に注目し、渡来した唐人の生活ぶり、彼らと長崎の神社との交流

長崎諏訪神社と唐人生活

The Link between Suwa Shrine in Nagasaki and Chinese in Japan

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を考察し、江戸期における唐人と神社の関係という、日中文化交流の一側面を明らか にしたい。諏訪神社が長崎における最も影響力が大きい神社で、古くから唐人との関 係が緊密であるため、諏訪神社を考察対象にした。 2 長崎諏訪神社の成立と唐人寄進  日本では古くから諏訪信仰が盛んで、各地に諏訪神社がある。諏訪神社の本社は長 野県にあるが、長崎に諏訪神社が建てられたのは 16 世紀の半ば頃で、京都の諏訪神社 の分霊を奉祀したのに始まる。当時長崎にはキリシタンの勢力が強かったため、神社 の発展にあまり有利な環境ではなかった。17 世紀初頭から幕府のキリシタン禁制政策 が厳しくなり、キリシタン追放、教会解散、踏み絵などの手段によってキリスト教を 弾圧する一方、新神社の造営や社殿の回復など神社や寺院の復興に力を入れた。寛永 元年(1624)、佐賀の修験道者である青木賢清という人が京都の神祇長官吉田兼英を拝 謁し、諏訪社再興勧請の許容状をもらって長崎に帰り、翌年に長崎奉行の支持のもと で松森の圓山に社殿を建て、昔別々に祭られた諏訪、森崎、住吉三社を一社に合祀し て、諏訪神社と呼んだ。これが長崎諏訪神社の縁起だという。以来、諏訪神社は代々 長崎奉行と代官の支持を受けて発展してきた。寛永十一年(1634)に初めての諏訪神 事が行われ、正保四年(1647)に、幕府から玉圓地に朱印地一万七千余坪が寄進され、 新社殿を建て始めた。慶安四年(1651)に社殿を松森から現在地の玉圓山に正遷宮し、 寛文九年(1669)に朱印状を受領した。50 年の発展を経て、諏訪神社は長崎で第一神 社の地位を確立し、「長崎くんち」と呼ばれる九月の神社例祭も長崎の代表的な神事と なった。  しかし、諏訪社が長崎第一神社の地位を築き上げるのは容易なことではなかった。 代々の神主の努力や幕府、長崎奉行乃至市民からの支持は言うまでもないが、毎年長 崎に渡来した唐人たちも諏訪社の建設に大きく貢献した。寛永十二年(1635)から唐 船入港がなくなる幕末までの二百年の間に、唐人が長崎諏訪神社へ物質や金銭の支援 をしつづけたことが各種資料によってわかる。次に唐船利益の配分と唐人寄進を中心 に述べていきたい。   2.1 唐船貨物の賜与と口銭銀、置銀  『長崎古今集覧』「諏方社」の条に「寛永十二年、大猶公特下鈞旨頒贈唐船一隻銭貨 以充廟資、今仍其例」3。『長崎名勝図絵』にも「寛永十二年より年々唐船一艘だけの 貨物を賜ふ、明暦元年改て船毎に銀おのおの若干宛を寄付し、今又社用銀を賜ふ」4 の記載がある。寛永十二年から唐船一艘の貨物を祭礼と修理の費用に当て、残りを社 人に賜るよう幕府から命令がくだされたのである。寛永十二年は西暦 1635 年で、前の 1634 年に諏訪神社初の神事が行われた。神事を行うには相当費用がかかるため、幕府 は唐船貨物賜与の命令を下したのであろう。『長崎唐人屋敷』の「日本来航唐船数表」

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に示された数字によると、1635 年前後の来航唐船数は不明の年もあるが、平均して毎 年四五十艘であった。その中に小型の船が多くて、舶載していた品物は生糸、陶磁器、 織物、薬種、砂糖などが中心で、一艘の積荷高は五、六貫目から十四、十五貫目ほど であった。この十何貫の貨物は神社社用の大きな支えとなっていた。18 世紀初頭にな ると、唐船は大型になって積荷も大きく変化したので、宝永二年(1705)に、社用銀 としての積荷下賜は長崎奉行によって廃止された。この年まで唐船一艘の貨物を諏訪 社の社用銀に充てる制度は七十年間も続いた。  唐船貨物を賜与されると同時に、諏訪社に唐船の口銭銀が配布されるのも通例となっ ていた。口銭銀というのは、船一艘の交易取引高の内、一定の率を決め、関係者や地 元に配分するという仕組みである。  次の引用は『長崎古今集覧』に見る内容である。  馬場三郎左衛門様山崎権八郎様御代、寛永十五年寅年より御祭礼為入目唐船一艘口銭銀有 次第に被遣候、右の銀当人5町内外八町ニ而支配仕候処ニ、寛文元年丑年より口銭の内ニ而 三貫目ヅツ被遣候、年ニより多少有之候、…寛永十一亥(年)より七貫目宛被遣候得共、御 祭礼修理方等之入用仕候ニ付、延宝八申ノ年より口銭之外ニ附町一町前宛被仰付、三ケ一の 増被下候    寛文九酉年御奉行松平甚三郎様川野権左衛門様御代、神職役料寛永十二年より神職三人江 唐船一艘の口銭銀有次第ニ被下候、承応二巳ノ年迄毎年一艘分被下候、明暦元未年より唐船 口銭之内三貫目三人に被下候、寛文十二子ノ年より神職四人被仰付候、右口銭の内四貫目被 下候6    上記資料によって、寛永十五年(1638)に、神社祭礼のため、唐船一艘の口銭銀を 諏訪社に配って神社祭事の時に手伝ってくれた各町の役人たちに支配を任せたことが 分かる。口銭銀の金額は年によって違うが、寛文元年(1661)からは年に三貫ずつで ある。祭礼や修理の場合には、口銭のほかに更に支援金を配分することもあった。また、 寛永十二年(1635)から神職たちへも毎年のように唐船一艘の口銭銀が配分され、金 額は三貫か四貫ほどであった。上記資料から見ると、幕府は入港した唐船に口銭銀を 課し、その一部分を神職役料、祭礼費用、社殿修復料などとして諏訪神社へ配分した ことがわかる。上記のほか、寛文九年(1669)、幕府から朱印状が下されたのを機に諏 訪社が大規模な修復を行った。その時長崎奉行が修復料として十五貫目の経費を諏訪 社に配ったこともある。  口銭銀のほか、置銀の配分も制度化されていた。置銀とは唐船商人が世話になる官 民に贈る礼銀のことである。昔唐人が得意先や世話人に私的に贈っていたが、貞享二 年(1685)以後制度化され、毎年関税の一種として船別にあるいは貿易額によって徴

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収されるようになった。置銀は地役人や寺社に配分するのが定例である。元禄十五年 の唐船置銀内訳表によれば、長崎の神社十九社に置銀合わせて十二貫七二八匁を配分 したが、諏訪社に配分したのは一貫七二〇匁である7 2.2 唐船寄進と寄附銀  定例である貨物や口銭銀などの納入のほか、唐人たちは参拝や見物を機に諏訪神社 ヘ進物を贈ることもよくある。  正徳四年(1714)三月三日に、長崎に滞在する二十八艘の唐船の船頭及び船員 五十六人が聖堂参拝へ行く途中、諏訪神社に参拝した。九日後の十二日に、二十八艘 の船頭が共に諏訪社寄進の願書を長崎両役所へ差出した。其の理由としては、  諏方大明神御当地諸姓之宗廟ニテ、唐商滞留之土地ニ付、普ク御加護を蒙候事多年之儀ニ 御座候、依之、此度より船別ニ幣帛之端物弍端ツ々捧ケ寸志之敬を述申度候、此段年番通事・ 唐人屋敷乙名・與頭衆より被仰上、御恩之上唐人両人ツ々香燭をそなへ諏方江社参仕候… 8 と述べられている。長年に渡って長崎で商いをしてきた我ら唐人を加護してくれる当 地の「宗廟」である諏訪社へのお礼として、一船に幣帛の端物を二端ずつ献上すると いうのである。同三月に見物した大光寺、松森神社へ船別に端物「一端」を献上する こと9と対照すれば、唐人にとっては、諏訪社が一般の寺社より高い社格を持っている と思われることがわかる。この正徳四年の寄進物は最初に一艘白砂糖二百二十斤となっ ていたが、その後砂糖代価に相当する紗綾、縮緬、綸子等に変わった。翌年の正徳五 年(1715)に寄進量をさらに三端と増やした。  ほかに享保十五年(1730)に神納物若干、享保十六年(1731)に銀二百五十目の品物、 享保十九年(1734)に船一艘大飛紋紗綾五反ずつ、寛政三年(1791)に献灯など様々 な物を寄進した10  江戸後期商人菱屋平七が享和二年(1802)の遊記『筑紫紀行』で諏訪社の社入につ いて「一年の受用銀七十貫目計。町中及唐人よりの音物三十貫目計り。すべて百貫目 計りを納むといふ」11と記している。唐人からの寄進が諏訪神社収入の重要な財源となっ たことがわかった。  諏訪本社のほかに、唐人は諏訪社の末社に寄附することもよくある。『続長崎実録大 成』に諏訪社末社である八剱大明神社への唐人寄附について、次のように記している。  文化二乙丑年、本社吹替舞殿并ニ居宅所々修覆料トシテ、唐船三十艘ヨリ銀三貫目、壹船 百目宛寄附有之 文政三庚辰年六月、卯四番船ヨリ、船数三十艘限リ、壹船銀札五拾五匁宛寄附免許有之 同十一戊子年四月、唐船壹艘ヨリ百三拾目宛、四歩銀ヲ以テ寄附免許有之12

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 上述したように、唐船から課された税金や唐人の寄附は諏訪神社の重要な資金源に なり、これらの金銭や貨物は諏訪神社の発展に欠かせない支えとなった。唐船による 経済的な利益が大きいため、諏訪社は毎日の例祭で必ず唐船繁栄、安穏入津を祈った のである13 3 唐人の諏訪社参詣と神事見物  元禄二年(1689)年までは、長崎に入港した唐人は町知人や縁故者に迎えられ、「差宿」 と呼ばれる市民の家に泊まり、日本人との「雑居」生活を送っていた。唐人の商売も 日常生活も自由な状態なので、寺社参拝も制限無く行くことができた。寛文六年(1666) から、各町が順番に唐人の世話をする「宿町」制になったため自由宿泊が制限されたが、 貿易も外出も制限されずに自由のままであった。しかし、元禄年間になると、鎖国体 制の強化と日清貿易の急増につれて、風紀の乱れと密貿易を理由に来航唐人への集中 管理が強化された。元禄元年(1688)に幕府が唐人屋敷の営造を命じ、翌年の 1689 年 正月から入港した唐人をすべて唐人屋敷に収容して居住させるようになった。  唐人屋敷は高い二重垣に囲まれ、大門と二ノ門で外部と隔離されていた。構内に番 所や、牢屋も設けられ、生活や貿易が唐人番の監視下に置かれる状態であった。役人 や商人、遊女以外の日本人の出入が禁止で、特に二ノ門には役人でも乱りに入ること ができなかった。もちろん出館も厳しく禁止されて、許可がなければ寺社への参拝も できなくなった。市内散宿時代と比べると、唐人屋敷での生活は窮屈極まるものだと 言っても過言ではない。しかし、制限が厳しすぎるといって唐人たちは頻繁に抵抗運 動を起こし、激しい騒動事件になったことが多かったため、幕府は時期によって外出 制限を緩める政策も取られた。その中で特に寺社参拝への制限は緩和された。つまり、 寺社への参拝は唐人が外出の理由の一つとして、収容生活から解放される唯一の抜け 道とも言える。  『長崎年表』に元禄四年(1691)になって初めて「唐人ニ神事踊見物ヲ許ス」と記さ れるようになるので、唐人屋敷が成立した元禄二年からの二三年間では唐人が諏訪社 への参詣がなかっただろうと思われる。  もちろん、寺社見物の許可をもらうには、いろいろな制限があって複雑な手続きが 必要であった。『唐通事会所日録』の正徳四年三月の唐人諏訪社参拝記事によると、唐 人が唐館から出ようとする場合、まず請願書を出すことである。許可率を高めるため、 何艘かの船頭たちが連名で願書を出すのが多かった。唐人屋敷を直接に管理する乙名 や唐通事に出された願書は長崎町年寄を通じて、長崎の最高責任者である長崎奉行の ところまで提出される。許可の命令が下れば、行き先である寺社と唐人屋敷にそれぞ れ許可の通報を伝え、同行者を配備して出行の準備をさせる。不測の事態に備えるため、 唐年行司、唐人番、唐通事など多くの随行者が同行する。唐人が帰館すると、唐通事 が外出の一部始終を両奉行所に報告する義務があった14

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 次にいくつかの例を通して、江戸時代唐人の諏方社参詣の様子を見てみよう。 (1)元禄四年(1691)諏方社の九月の例祭に、唐人が御旅所大波戸に設けられた桟敷で踊り を見物した。それより流例となった15 (2)元禄十二年(1699)九月七日夏船二十九艘の唐人たち二百三人(一船より船頭財副唐人 七人宛)が大波戸の桟敷に至りて奉納踊を見物した16 (3)正徳四年三月三日、長崎滞在中の唐人船員五十六人が聖堂参拝の途中、清水寺、大光寺、 松森天神、諏訪神社に参詣した17 (4)正徳四年三月二十二日、唐船二十八艘の唐人五十六名が諏訪社を参詣した。途中伊勢宮、 春徳寺、松森天神にも寄った18 (5)正徳年間19、唐人三十人が諏方社に参詣し、御能を見物した。 (6)享保十九年(1734)、元文元年(1736)、元文五年(1740)に諏訪神事能を唐人が見物し た20 (7)安永九年(1780)十一月二十日、諏訪社で御祝儀能が行われたが、唐人二十人が見物し た21 (8)寛政四年(1792)、奉行重病平癒を祈願するため、唐人諏訪社を参拝した22 (9)享和元年(1801)四月、唐人が諏訪社流鏑馬奉納を見物した23 (10)文政十年(1827)十一月三日、天保九年(1838)八月二十七日に行われたの祝儀能を 唐人が見物した24  以上十条合わせて十三回に及ぶ例を見てみると、唐人の諏訪社見物が許可されるの は花見時節、諏訪社例祭、神事能や祝儀能を行う時と三つの時期がほとんどであるこ とが分かる。以下それぞれの見物の実態を見てみよう。 3.1 お花見参拝  唐人が提出した外出の理由には、唐三ケ寺お墓参り、神社佛閣参拝、お花見参拝が 多くて、許可を取りやすかったようである。  正徳四年(1714)三月に、在留唐船船頭らが聖堂参拝の申請を出して許可されたが、 其の途中に諏訪社に参拝した。これは唐人屋敷に入居してから初めての諏訪社集団参 拝なので、諏訪社もとてもこれを重視し、社内に憩席を設けお茶や菓子を用意して唐 人たちを款待した。『鎭西大社記草稿』に唐人お花見参拝の様子が詳しく記されている。  毎年櫻花の盛開には官所へ御免を請ふて在館華人を案内す、日定りて清人船長を始め上品 向より下々まで凡五六十人参敬、拜し終り社司家にいたる、附添い役人には譯司、唐人番、 船番、町司、下役及懸令よりの役人社役人まで大概貳百名餘に三海の珍味の食卓酒殽をいた し下々の奴隷にいたるまでそれそれ饗応す、物写唐人には扇面に書画等をかかせ、詩文の贈

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答するもあり、衆客杯の献酬交にして殆興に入り吹弾のしらべ娼妓舞児は今様などおもしろ く謳歌舞するに、酒花に酔興を滋とりとり朗詠して最も熱閙し巳の刻より申剋にいたり宴了 る、此風俗今におこたる事なし…    出館唐人五六十人には唐人番、役人、通訳などの付き添いが百人余り同行した。警 備の厳しさがわかる。飲食招待のほか、詩画贈答、歌舞朗詠も盛んに行われ、宴会は 賑やかな文化交流の場となった様子が窺われる。  正徳四年の花見参拝には唐人たちがたいへん喜び、今後毎年一船に幣帛二端ずつ諏 訪社に寄進することを決めた。諏訪社ももてなしより数倍の返礼をもらうので、唐人 の参拝をとても喜んでいたのである。 3.2 諏訪社例祭見物  前述したように、諏訪社の例祭が始まったのは寛永十一年(1634)頃で、代々宮司 の努力と長崎奉行の支持によって、17 世紀の半ば頃に長崎一般市民の神事となってい た。異国人にも日本神事を披露するため、唐人の外出を制限するものの、神事見物の 申請は出来るだけ満足させたようである。  諏訪社例祭がもともと九月七日か九日に行うのが通例で、天候や社会事件によって 十一日や十三日などのように順延される場合もある。唐人が見物を許可されたのは上 記の元禄四年(1691)九月のことである。以後、毎年見物するようになっていた。江 戸期に奉納踊りが諏訪社前、御旅所、祇園、伊勢宮、奉行所などの場所で順番を決め て廻り踊るが、唐人やオランダ人が見物できる場所は大波戸の御旅所に限られた。そ の時、唐人専用の桟敷が設けられた。『長崎名勝図絵』に「館裡ノ唐人資を捐て客位料 とす客位は桟敷なり」25とあるが、当時見物の席を取るには、事前に金を払って予約 しなければならなかった。人数も一船何名という制限があったので、天保(1830-1843) 年間には予約できなかった唐人のために、桜町の箔屋で宴席を設け、踊りや神輿行列 を見物させることがオランダの海軍士官アセンデルフト氏の記録によってわかる。  諏訪神社の例祭では、三日間にわたって神輿渡御、奉納踊り、傘鉾、神輿還御など 内容豊富な行事が行われるが、特に市内の各町によって献上された奉納踊りには、唐 人踊、蛇踊、唐船など唐風のものが頻繁に登場するので、唐人たちにとって魅力的で 懐かしいものであった。中に故国風情に感動して泪をこぼし、踊り子たちに貴重品を なげる人もいたという26 3.3 諏訪社能見物  神社祭礼の一環として、神事能の奉納が中心的な意義を持つことから特に重要視さ れていた。諏訪社祭礼が始まった当初は、能奉納が九月十二日に決められていたが、 雨天、将軍家の忌日など諸般の事情で遅れることもあった。神事能が催される日に、

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長崎奉行を始めとして多くの役人たちが年々見物に訪れた。このような場合に唐人屋 敷に在館している中国人を招待して神事能を見せることもあった。上記(6)に記した 享保十九年(1734)、元文元年(1736)、元文五年(1740)に唐人たちが見たのは九月 例祭の神事能であろうと推測される。  例祭の時ばかりでなく、将軍家に慶事があった場合に行われる「祝儀能」にも唐人 が見物に招待されることがある。慶事といえば、官位昇進、若君誕生、ご成婚など様々 であるが、上記見物リストに見られる安永九年(1780)十一月二十日の祝儀能は徳川 家治が右大臣昇進の祝いで、文政十年(1827)十一月三日の能は徳川家斉の太政大臣 昇任と徳川家慶の従一位昇叙のためである。天保九年(1838)八月二十七日は前年の 家慶将軍宣下の祝いのために行われたものである27 4 諏訪神事に見られる唐人文化  長崎諏訪神事は九月九日中心に行われるので、「諏訪くんち」とも呼ばれ、唐人の間 では「九使廟祭」、「九使神会」と称している。長年にわたって唐人が居住してきた町 の祭りとして、「諏訪くんち」の中に唐人生活や中国文化に関連する所が多く見られる。 次に文化年間(1804-1817)の諏訪祭を描いた「崎陽諏訪明神祭祀図」28の行列をもとに、 諏訪神事に登場する唐風の出し物を整理し、江戸時代の諏訪神事と唐人や中国文化と の関係を分析してみたい。  諏訪祭りは古くから毎年十一の町が神事奉納を分担するが、ここで本籠町と東濱町 の唐人行列を主として考察する。本籠町は今の籠町に当たる。唐人屋敷に隣接するの で、昔から唐人との関係が密接な町であった。「崎陽諏訪明神祭祀図」に描かれた本籠 町の祭礼行列は傘鉾を先頭に、次に媽祖行列、蛇踊、唐楽拍子、荷物籠持ち、唐子踊、 馬踊など様々な唐人文化を表現する長い行列である。東濱町の行列も「唐風」が特色で、 先頭に中国風楽隊、次に唐子が乗る象、唐子行列、馬踊、唐子踊などである。 本籠町の祭礼行列(「崎陽諏訪明神祭祀図」)

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4.1 媽祖行列  江戸時代の唐船が航海安全のお守りとして、必ず船内に海の女神「媽祖」の像を供 えて祀っていた。船員の中に媽祖の祭祀を専門的に担当する「香工」もいた。船が入 港すると、媽祖の像は、香工の手で、唐人屋敷の媽祖廟或いは唐三ケ寺(興福寺、崇 福寺、福済寺)に運ばれる。その場合に行う儀式は「菩薩(媽祖に指す)揚」と呼ば れる。『長崎名勝図絵』によると、菩薩役に当たる香工は、灯籠を持つ一人と銅鑼を鳴 らす二人が先頭に、次に直庫(障魔汚穢を祓い除く鉄棒)を振る役が続く。唐寺へ向 かう途中、直庫を一定の決りに従って振る。其後に媽祖像を捧げる人が続き、後ろに 蓋傘を掲げる人と守護の人や唐通事などが付いている29。銅羅を鳴らして進行する「菩 薩揚」の行列は市民の目を引き、すぐに長崎の風物詩ともなっていた。「崎陽諏訪明神 祭祀図」に描かれた本籠町の媽祖行列は『長崎名勝図絵』の記載とほとんど一致して いる。清人衣裳の十人ぐらいの行列は、灯籠役、銅羅役、旗役、媽祖像役、蓋傘役な ども欠かさずに揃っている。唐人「菩薩揚」の様子をそのまま祭礼行事に取り入れ、 現実と変わりなく再現していたことがわかる。 4.2 蛇踊  媽祖行列の後に出るのは「蛇踊」である。これは諏訪くんちの代表的な奉納踊であっ て、「龍踊」とも呼ばれる。子供が手に持っている「玉」を十何人もの大人たちが棒で 支える長い「龍」が追って舞う。この踊は唐人が正月上元の日に行う「舞龍」、「舞龍燈」 に因んだものである。唐館ができる前は、雑居している市中において唐人によって「蛇 踊」が行われていたようだが、唐人屋敷ができた後、「蛇踊」は屋敷構内でしか行えな いようになった。上元の日に美しく着飾った丸山遊女などが構内へ見物しに来、市中 の人たちも周りの高い所に登ってそれを見物することもあったという。  「長崎くんち通史年表」によると、本諏訪神事に籠町の蛇踊が登場したのは享保元年 (1716)のことであった。唐人文化を最大限に表現するため、「蛇踊」に使う道具や衣 裳はできるだけ唐物を用いた。中に唐人によって寄附された物もある。例えば天保十 年(1839)に蛇踊普及のため、王氏十二家船主が船神三体、灯籠六十四、提灯六十、ラッ パ二本、銅羅、太皷、月琴、唐衣装、帽子、肩掛、筒足袋、唐沓などを本籠町に寄附 した30。「船神」とは当時唐船に必ず備える「媽祖」の像だろうと思われる。大庭脩氏 が江戸時代割符留帳によって整理した寛政四年(1792)から文久元年(1816)までの 船頭(船主)名簿31を調べると、天保九年(1838)と天保十年(1839)に日本に渡来 した唐船が十四艘あり、船主がちょうど十二名ある。その中に王姓の船主は「王雲帆」 という人しかいなかった。「王氏」はこの「王雲帆」のことではないかと思われる。王 雲帆は天保八年(1837)から弘化四年(1847)までの十年間に、寧波船や南京船の船 頭か脇船頭、財副として十二回も日本に渡来した記録がある。

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4.3 唐子踊  『長崎歳時記』の中に次のような記録がある。 …御旅所は唐人桟敷あり、此日在館の唐人とも大勢踊見物として出る、唐子踊はもとより唐 土の風を学び、三四歳の稚児までも打交り、彼国の衣服をつけ、帽子を着、いづれも華音の うたをうたひておどるゆへ、見物の唐人どもおのづから故国の情を動かして、泪を流すもあ り、または興にいり、ゆびがね花かんざしの類を桟敷よりなげて、踊子にあたうのあり、か たらわよりは旅人羇客そのありさまを見て、みな珍らしとしよろこばざるはなし34  長崎くんちを見物している唐人は、懐かしい中華風の踊りや歌に大いに感動し、泪 を流しながら踊り子に指輪や簪などを投げたりした様子である。ここにある「唐子踊」 は「蛇踊」と同じように、諏訪くんちの中華風出し物には目立つ存在であった。『長崎 名勝図絵』によれば、二月二日土神の誕生日を祝うため、唐人が屋敷構内で戯臺を設け、 「做戯」を行う風俗がある。「戯」に堪能した唐人を扮装し、舞台で歌舞を演じるのである。 「戯」と呼ばれるこの唐人芝居を日本人は「唐人踊」と呼んでいた。踊の演目は桃園結 義、豫譲報讐、草盧三顧、呂望投綸、郭巨埋児など三国志、水滸伝、二十四孝からの 故事物語が殆どで、手品、歌舞等を披露することもあった。唐館で「做戯」を行う時、 中国文化に興味を持つ文人、丸山遊女等の庶民のほか、長崎奉行や役人たちも招待され、 見物することもあった。それとは逆に長崎奉行が奉行所での唐人踊見物に唐人を呼ん だこともあった32。    このような唐人踊が秋の諏訪祭に登場したのは天和二年(1682)のことで、初めて 奉納町を担当したのは西中町であった。「鎭西大社年譜輯要録」に唐子踊を「唐人に踊 致させて出す」33という記録があったので、最初に諏訪くんちで踊を奉納したのは日本 人ではなく中国人であったことがわかる。これは日本人にとって中国の芝居を演じる のが難しいからだろうと思われる。行列のなかでの演出は舞台演出と異なり、諏訪神 事にある唐人踊は芝居の代表的なシーンしか演じることができない。「崎陽諏訪明神祭 祀図」に出る本籠町と東濱町の唐人踊は芝居装束の唐人二人が並んでいるだけで、踊 るより「展示」の機能が重んじられたようである。  唐人踊は唐子の行列とともに登場するのが多くて、それに踊り手が日本の子供たち が担当した場合が多いからか、「唐人踊」は「唐子踊」とも呼ばれるようになった。今 は「唐子踊」は「唐人踊」と区別なく使われた場合もあるが、むしろ「唐人踊」は通称で、 「唐子踊」は「唐人踊」から変化したものとも言えるだろう。 4.4 馬踊、獅子踊、引き物  両町の行列にもう一つ「馬踊」が見える。これは馬の形をした張り籠の背中を穿ち、 人が足を差し下ろして馬を腰に付けるようにして走ったり踊ったりするものである。

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上元の祝いとして唐人屋敷では夜は蛇踊、昼は馬踊といったように、馬踊は蛇踊とセッ トで上演されるのが習わしだと『長崎名勝図絵』は紹介する。龍燈と同じように灯火 を点したら「馬燈」に変身するのである。  本籠町と東濱町以外の町の出し物の中にも、唐人文化を表現する踊りや引き物もあ る。例えば上筑後町の「唐子獅子舞」も中国獅子舞を模倣したものである。獅子踊は「風 流獅子舞踊」とも呼ばれ、唐子に扮した児童が獅子を相手に飛び舞う舞踊である。獅 子はもちろん形だけの作り物で、前後二人これを被って飛んだり、跳ねたり、様々な 仕草をして踊るのである。  以上のいずれの舞踊でも、踊る際、唐子囃しと呼ばれる唐楽の伴奏が欠かせない。 銅羅、笛、長喇叭、月琴などを用いて演奏された唐人音曲はより濃厚な中華情調を醸 し出したのである。  諏訪神事の出し物は奉納踊のほか、引き物も特徴的である。引き物とは引いて展示 したり回転させて見せたりする山車やだんじりのことである。そんな引き物の中に唐 人船や端午風習に因んだ龍船などがある。西浜町の龍船は、江戸時代から有名であっ た。中国の竜頭船を形どった豪華な龍船の舞台に子供や囃子方を乗せて引き役たちに よって船を前進、後進させたり、回転させたりする。唐拍子と踊りも附属されている。 特に踊りには唐子が遊ぶ振りを真似する「唐子遊び」と「菩薩揚」の儀式に出た直庫 振りを表現する「手棒踊」がある。唐人船といえば、大黒町の唐人船が名高かった。『長 崎市史・風俗編』に唐人船を詳しく描いているが、ここでその概要をのべたい。簡単 にいえば唐人船は唐船乗組員の上陸行列である。先頭に「菩薩揚」の行列があり、次 に本物の唐人船をかたどって作った船の登場である。船に唐人船頭、財副、客唐人、 総管夥長に扮した子供達を乗せる。中に唐人身分を象徴する眼鏡を掛けた人もいる。 唐人の眼鏡姿に驚いた江戸時代の世相が窺える。後に天秤棒で舶載品や鶏豚などのも のを担いだ船員の姿をした者も行列に入っている。唐人入津と上陸の有り様を写実的 に表現したのである。 江戸時代唐人船行列の様子(『長崎聞見録』35

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4.5 庭見せと傘鉾刺繍  神事の当日の夜、祭りに使われるさまさまな物を町の家々で展示する「庭見せ」が ある。『長崎市史・風俗編』によれば、各家は秘蔵の書画什器を陳列して観覧に供し、 だんじり、傘鉾、唐船など特に小屋を作って見物人に見せる。展示されたものの中に、 絨毯、毛氈、唐人衣装など往時唐人船の舶載してきた物がよく用いられた。  各町の出し物の先頭を行く傘鉾やだんじりに使う掛けものにも唐織を使ったり中国 風の題材を取り入れたりしたものが多かった。文久二(1862)年に制作した西浜町傘 鉾の垂幕に使う「姑蘇十八景」の刺繍がその代表である。「虎丘勝跡」、「五松獅林」、「上 方塔影」など中国江南蘇州の名勝を下絵に、「長崎刺繍」という特別な刺繍方法で作ら れたものである。この「長崎刺繍」の特徴は色糸を様々な太さに作って質感を変化さ せること、刺繍の下に紙や紙縒などを入れて立体感を表現することなどは、17 世紀後 半頃長崎市中に居住している唐人によって伝えられたとされている。この技法で施さ れた刺繍がほかの傘鉾垂れや船頭衣装にも大量に登場していて、諏訪くんちの華やか さを演出するためにに欠かせないものとなっていたのである。  上述したように、鎖国政策の一環として、幕府が唐人への管理は極めて厳しかった ため、唐館内外の交流が非常に制限られている。しかし、いくら制限されても、唐館 内外の人々はお互いの生活ぶりに強い好奇心を抱いているのは確かのことである。唐 館内にいる唐人が何かの理由を作って一生懸命外出を図っていたと同時に、館外の人 も一生懸命館内の状況を覗こうとしていた。上元など唐館で賑やかな行事を行った場 合に、長崎市民が周りの山に登って唐館内の光景を眺めることもそうである。諏訪く んちに登場した媽祖行列や蛇踊、唐子踊、獅子踊など唐人の行事は全てこんな「好奇」 の目で選択され、くんちの出し物にしたのである。 5 むすび  江戸時代は鎖国の時代でありながら、長崎を窓口として中国、オランダ文化と頻繁 に接触していた。毎年のように渡来した唐船は大きな経済利益をもたらしたと同時に、 中国の生活様式や風俗習慣を長崎に伝えた。  江戸時代に日本に渡来した人は商人が殆どで、貿易が彼らの主な目的であった。神 社との関係もこの利益関係によって影響を受けた。初期の諏訪神社の社用は唐人口銭 銀、置銀や唐人の寄附による部分が大きかった。  唐館時代に入ると、唐人の外出が厳しく制限されたが、唐人が諏訪社の花見、祭礼 見物などを理由に外出を実現させた。能見物のために神社に招待されることも多かっ た。見物の後に唐人寄進が伴う場合が多いので、諏方神社が唐人見物を歓迎していた。 貿易以外日本人、日本文化と接する唯一の機会とも言え、見物会場は当時にしては珍 しい日中文化交流の場に変わったのである。  長崎第一神事とも言える諏訪祭に、唐船入津の実像を描く菩薩揚、荷持籠もち、唐

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船などをそのまま再現した行列もあれば、蛇踊、唐子踊、馬踊、唐人風俗を取り入れ た出し物も数々ある。唐人生活は諏訪祭によって記録され、江戸時代ばかりでなく、 今まで伝わってきたのである。 注・参考文献 1 山本紀網『長崎唐人屋敷』の「日本来航唐船数表」を参照。p.91, p.96,pp.101-102. 2 大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』によれば、元禄元年(1688)に日本 に来航した唐人数は 9128 人である。 3 松浦東渓(1976) 『長崎古今集覧』上巻,長崎文献社,p.404. 4 饒田喩義(1931) 『長崎名勝図絵』,長崎史談会,p.387. 5 当人とは、祭事に奉仕する内町外町から選ばれた数名の町乙名のことである。 6 松浦東渓(1976) 『長崎古今集覧』上巻, 長崎文献社, p.408. 7 太田勝也(1992)『鎖国時代長崎貿易史の研究』,思文閣,p.437. 8 東京大学史料編纂所「唐通事会所日録十」『大日本近世史料』第七巻, pp.36-37.  9 東京大学史料編纂所「唐通事会所日録十」『大日本近世史料』第七巻,p.41,p.47.  10 長崎市役所(1930)「諏訪神社」『長崎市史・地誌編神社教会部上』,清文堂   11 宮本常一(1972)『日本庶民生活史料集成』20 巻,三一書房,p.211. 12 森永種夫校訂(1974)「続長崎実録大成」『長崎文献叢書』第一集第四巻,長崎文献社,p.68. 13 長崎市役所(1929)『長崎市史・地誌編神社教会部上』,清文堂,p.228. 14 東京大学史料編纂所「唐通事会所日録十」『大日本近世史料』第七巻,p.33. 15 饒田喩義(1931) 『長崎名勝図絵』,長崎史談会,p.386.  16 長崎市役所(1967) 『長崎市史・風俗編』,清文堂,p.431. 17 東京大学史料編纂所「唐通事会所日録十」『大日本近世史料』第七巻, p.33. 18 東京大学史料編纂所「唐通事会所日録十」『大日本近世史料』第七巻, pp.43. 19 『長崎名勝図絵』p.386 に「正徳十九年」と記しているが、正徳は 1711-1715 年までの 五年間なので、「十九年」は誤記だと思われる。 20 表きよし(2001)「江戸時代の長崎の能楽」法政大学『能楽研究』25,p.129. 21 松浦唯一郎(1935)「唐人番日記一」『海色』第二輯,長崎文献刊行会,p.81. 22 長崎市役所(1929)『長崎市史・地誌編神社教会部上』,清文堂,p.123. 23 長崎市役所(1929)『長崎市史・地誌編神社教会部上』,清文堂,p.129. 24 表きよし(2001)「江戸時代の長崎の能楽」法政大学『能楽研究』25,p.130. 25 饒田喩義(1931)『長崎名勝図絵』,長崎史談会,p.507. 26 『長崎歳時記』の記載による。 27 表きよし氏「江戸時代の長崎の能楽」所載諏訪社祝儀能一覧を参照。 28 長崎文献社編輯『秘蔵!長崎くんち絵巻』に収録。 29 饒田喩義(1931)『長崎名勝図絵』,長崎史談会,p.286.

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30 長崎市役所(1967)『長崎市史・風俗編』,清文堂,p.427. 31 大庭脩『唐船進港回棹録・島原本 bunn 唐人風説書・割符留帳』による。 32 山本紀網『唐人屋敷』による。  33 長崎市役所(1929)『長崎市史・地誌編神社教会部上』,清文堂,p.70. 34 宮本常一(1971)『日本庶民生活史料集成』15 巻,pp.788-789.    35 廣川獬(1975)『長崎聞見録』,長崎文献社,p.2.

参照

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