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近 代 的 司 法 制 度 の 成 立 と 外 国 法 の 影 響

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(1)序. 説. ドィッ法の影響. 近代的司法制度の成立と外国法の影響 一. 旧民事訴訟法の制定. 裁判所構成法の制定. 四. 近代的司法制度の成立と外国法の影響. 騨. 二 近世期の民事司法制度. 三. 現行民事訴訟法の制定. 二. 明治初年における復古思想と近代化思想. 四. 近代的司法制度の準備期と外国法の影響. 一 フランス法の影響. 調停法. 三. ニ. 五. 括. 英米法の影響. 総. 三. 訴訟法制の整備. 裁判所法制の整備. 五. 五. 四. 説. 中. 村. 英. 郎. 近代的司法制度の成立と外国法の影響. 二六一. 法の影響の下︑次第に近代化され︑明治期の中頃には︑すでに現在の司法制度の基礎をなす近代的司法制度がその体. のであつた︒その後︑明治維新に入つてから︑国家体制が近代化するとともに︑司法制度にかんする法制も︑外国. 幕末に至るまでの日本には封建的支配体制が行われ︑そこでの司法制度は勿論﹁封建的﹂の烙印をおさるべきも. 序.

(2) 論. 説︵中村英︶. 二六二. この近代的司法制度成立の過程の背後には︑当時の国家体制の変動︑それをとりまく政治的︑文化的︑社会的諸. 系をととのえる に 至 っ た ︒. 条件が複雑かつ密接にからんでおり︑それらの諸要素が現代の司法制度の性格を決定するのに大きな影響を与え. ている︒明治期における司法制度の成立過程を︑これら諸要素との関係において明らかにすることは︑現代の司法. 制度を正しく理解し︑またその発展の方向を見定めるためにも極めて重要な意義をもっている︒ところで︑その発. 展過程を︑その背後にあるすべての要素との関係において全面的にとらえることは︑この小稿のよくなしうるとこ. ︵一︶. ︵二︶. ろではない︒本稿では︑とくに外国法の影響という面に焦点をあわせ︑また時期的には第二次世界大戦前までの司. 法制度︑その中でも︑とくに民事にかんする司法制度の成立の経緯を明らかにすることを目的とする︒. ︵一︶水田教授は︑さきに﹁日本法令年表﹂ ︵早稲田法学別冊第四巻︶を著わし︑慶応四年から昭和八年に至るまでのわが国の法令. ﹁アメリカ法とは何か﹂. ︵同誌一八巻一一号︶︑. ﹁西欧法受容の歴史的背景IH皿﹂︵同誌一八巻一二号︑一九巻二1七. ︵法律︑勅令︑省令︑訓令等︶を蒐集整理され︑また︑最近では﹁アメリカ法とは何か﹂との統一テーマの下﹁法律のひろば﹂ 誌上に︑. 号︶︑ ﹁アメリヵ法からの影響について﹂ ︵同誌一九巻八・一〇・一一号︑二〇巻一号︶の論文を連載し︑幕末より︑明治初期. にかけての︑わが国での外国法文化の受容︑摂取の方法︑態様などを︑それをめぐる歴史的背景にまで遡つて詳細に究明されてい. る︒本稿も教授の諸論稿に負うところが大きい︒. 資料を克明にあげることが重要であるが︑それでは︑かえつて本論の筋道を見失わせるおそれもある︒本稿では︑とくに重要な. ︵二V明治期の司法制度に直接間接関係のある文献は︑ぼう大な数にのぼつているび本稿のようなテーマを取扱う場合には︑これら. もののほか︑資料の摘示を省略した︒.

(3) なお︑司法制度の成立過程を全般的にあつかつた論文として︑団藤重光﹁近代的司法制度の成立﹂. ︵刑法の近代的展開︶︑石. 井良助・明治文化史法制篇︵二〇八︑四〇一︑四八八各頁以下︶︑染野義信﹁司法制度﹂ ﹁裁判制度﹂ ︵日本近代法発達史二・ 六巻︶がある︒. ところで︑明治維新に際し獲得した司法制度が近代的であることは︑それ以前の︑近世期の司法制度と比較する. ことにより︑よくこれを明らかにすることができよう︒以下︑まず近世期の民事司法制度を考察することからはじ. 近世期においては︑司法権と行政権の判然たる区別は存在しなかつた︒裁判は政事の一としてなされたのであり︑. 二 近世期の民事司法制度. めることにしよう︒. 一. 従つて︑当時の裁判機関の組織は︑その時代の幕府の封建的統治組織を明らかにすることによつて︑明瞭となろう︒. 刑事訴訟法の研究に詳しい︒. ︵一︶江戸時代の司法制度については︑一般法制史にかんする文献のほか︑小早川欣吾.近世民事訴訟制度の研究︑平松義郎.近世. 徳川幕府の下においては︑将軍が最高の行政機関であり︑従つて︑これが最高の司法機関でもあつた︒将軍家光. の頃までは御直裁判︑御前裁許が行われていたのである︒しかし︑その後裁判のことは老中の手に委ねられ︑これ. が将軍の名において決裁していたが︑江戸中期の頃になると︑老中もその裁決のことを評定所に委任するようにな. 二六三. り︑評定所が幕府最高の裁判機関となり︑重要な民事刑事の事件を裁判していた︒評定所を構成する裁判官は︑寺 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(4) 論. 説︵中村英︶. 二六四. 社︑町︑勘定の三奉行︑大︑小雨目付であるが︑事件の性質によっては︑町奉行︑雨目付の三者が︑また町奉行︑勘定奉行︑. 雨目付の四者がその衝に当っていた︒なお︑三奉行は︑それぞれ管轄の事項につき単独で裁判権を有しており︑また ︵二︶ 幕府の地方官も管轄内の訴訟につき裁判権を有していた︒そのほか諸大名も︑それぞれ自領において裁判権を有し. ていた︒諸国には戦国時代以降︑各国法があったのであるが︑一六三五年︵寛永︸二年︶の武家諸法度において﹁萬事如. 江戸之法度於国々所々可遵行之事﹂︵一二条︶と申し渡された結果︑法制は︑およそ幕府のそれと同じとなり︑裁判も. 公事方御定書の定めるところ評定所のそれとほぼ同じものであった︒これらの裁判制度は︑それぞれ排他的.併列. 的に存在するのであつて︑その管掌事項につき︑一審かつ終審として裁判をした︒なお特殊のものとして鰯頭の役. 寺︑座頭の総録︑稼多非人の稼多頭も︑それぞれの身分の者につき裁判権をもち︑寺法︑座法︑稼多仕置等に基き裁. 判するものであつた︒かくして︑この時代の裁判機構を現代のそれと比較してその特性をあげるならば︑司法機関. が行政機関から分離独立しておらず︑裁判が行政機関の手によつて行われたこと︑裁判権の所在が多岐にわたり︑か ︵三︶ つ︑それが並列的に存在したこと︑また身分によつて︑裁判機関を異にすることなどをあげることができよう︒. ︵二︶幕府の地方官中︑最も広い裁判権を与えられていたものは︑京都所司代と大阪城代の二つである︒なお京都︑犬阪︑駿府の町. 奉行︑伏見奉行︑長崎奉行︑佐渡奉行等のいわゆる遠國役人もある程度の裁判権を与えられていたとのことであるく瀧川政次郎 ・日本法制史五〇五頁︶︒. 以上のように︑裁判機関は︑中央︑地方にわたり多岐に分れていたが︑そこにおける訴訟手続は︑公事方御定. ︵三︶裁判手続の身分的性格については︑小早川・前掲九九頁以下参照︒. 二.

(5) 書を規準とするものであり︑中央︑地方いずれもほぼ同じものであつたようである︒この時代に︑すでに民事事件︑. 刑事事件の区別があり︑前者を出入筋︑後者を吟味筋と呼んでいたが︑訴訟手続として多く行われ︑また法制が整. 備されていたのは︑吟味筋であり︑出入筋は︑多く当事者間の示談によつて解決されていた︒これを内済とよび︑. ︵四︶. 裁判機関による裁判は︑この内済の成立しない事件についてなされるというのが︑この時代の訴訟の基本原則であ つた︒. ︵四︶内済の原則については︑小早川・前掲七七頁以下︑三九一頁以下参照︒. 内済は︑この時代において︑民事紛争解決の手段として大きな役割を果したが︑それは江戸時代を支配した封建. 的な社会構造と︑それの思想的背景をなした儒教の教義がそれをかく然らしめたということができる︒社会構造の. あらゆる面が閉鎖的であり︑しかも従属関係の支配する封建社会においては︑人の生活する部分社会は一つの大家. 族ともいうべきものであり︑そこで紛争を起すことは︑団体の平和を害することに外ならない︒町・村役人は団体. の平和を維持するためほん走し︑当事者双方に妥協を求め︑共同体の平和を守ることを要請した︒そ乙では︑縦の. 服従関係と︑横の親和関係を尊重する儒教の教義が︑示談を円滑に成功せしめる大きな要因となつていた︒かくし. て︑金銭出入等︑日常継起する民事事件の大多数は︑内済によって解決したのである︒. 以上のような内済によつて解決しない事件については︑それぞれ管轄の裁判機関による裁判が行われたのである. が︑この裁判には︑お上の恩恵によりなされるものとの考え方がつきまとつていた︒儒教の教理は︑各個人を国家. 二六五. に従属するもの︑被統治者としてとらえているのであつて︑個人が国に対し裁判を求める権利があるとは考えていな 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(6) 論説︵中村英︶. 二六六. い︒このことがまた︑この時代において︑審理が非公開で行われ︑またそれが一審かつ終審であつたこととも結び. ついてくる︒これは現代の訴訟制度の下︑国民に国家に対する裁判を求める訴権を認め︑審理が公開で行われ︑ま. た下級裁判所の裁判に対し上級裁判所に上訴を認めるのと大いに異なつている︒訴訟手続については︑公事方御定. 書などにより︑不完全ながらその手続を定めているが︑裁判の規準となる実体法は明らかでなく︑その大半は旧慣. ﹁解く﹂ということであつて︑要するに︑社会に行われる道理に. 習法にまかされていたというのも︑この時代の特色の一つである︒そのことがまた︑裁判における役人の自由裁量 の余地を大巾にのこしていた︒裁判とは﹁捌き﹂. 基き︑しかも裁判役人の主観的裁量により紛争を解決するということであつた︒これは︑法の定めるところに従い. 当事者間に権利義務の法律関係が存在することを認め︑この権利の実現のため裁判が行われる現代のそれと︑相当 の開きがあるものといえよう︒. 近世期の民事司法制度は︑大体以上のようであつて︑そこでみられる封建的性格は︑明治維新以来︑西欧の合理. 近代的司法制度の準備期と外国法の影響. 明治初年における復古思想と近代化思想. 三. 主義に基づく司法制度の導入により飛躍的に近代化されることになつた︒. 一. ﹁天下ノ権力総テコレヲ太政官二帰ス︑則チ政令二途二. 一八六八年︵慶応四年・明治元年︶三月一四日︑五箇条の御誓文があり︑さらに同年閏四月二一日には政体書があ. つて︑明治維新の基本綱領が宣言された︒これによると︑.

(7) ︵一︶. 出ルノ患無カラシム︑太政官ノ権力ヲ分ツテ立法︑行法︑司法ノ三権トス︑則偏重ノ患無ヵラシムルナリ﹂という. のであり︑西欧近代諸国家の基本構造にならつて︑三権分立の制度を採用するものであつた︒. ︵一︶政体書は︑参與福岡孝弟および副島種臣の起草にかかるもので︑福岡は︑起草に当り︑北米合衆国の制度を漢訳した﹁餅邦史. 略﹂という書物を参考にしたということである︵尾佐竹猛・維新前後に於ける立憲思想一九七頁︶︒しかし︑三権分立のことは︑. 幕末の頃識者の間で論ぜられた公議政体論において認められたところであり︑また︑西周﹁議題草案﹂︑加藤弘蔵﹁立憲政体略﹂. などにおいても論じられている︒要するにこの時代の最新の知識が三権分立の思想をとり入れたものということができる︒その. 歴史的背景については︑水田教授﹁西欧法受容の歴史的背景n﹂法律のひろば一九巻三号二八頁以下に詳しい︒. 三権分立の政体が採用され︑日本は近代国家への第一歩をふみ出したのであるが︑それは早急には実現されてい. ない︒明治維新の当初においては︑倒幕︑王政復古に急であつて︑天皇親政の旧制にもどることが考えられていた︒. そのため︑太政官に神紙官がおかれ︑祭政一致の方針がうち出されるなど︑保守反動の機運が増大した︒この機運に. のつて︑刑事法の分野では一八六九年︵明治二年︶に弾正台︑引続き刑部省の設置︑一八七〇年︵明治三年︶新律綱領︑. 一八七三年︵明治六年︶改定律令の制定など︑律令制度の復活がみられた︒この間民事法の分野では︑特に見るべき. 立法はなされていない︒由来︑東洋の刑事法制は︑古くより優れた伝統をもち︑その法典化が容易であり︑また︑. 国家権力の拡充侵透のためには︑刑事法制の確立が必要であつたことが︑刑事法の早急な整備をもたらしたのであ. り︑これに反し︑民事法の分野では慣習法とも称すべきものが広汎に行われており︑その法典化が極めて困難であ. 二六七. つたということ︑また国家政策的にみて︑これを早急に法典化する必要がなかつたという事情︑などが民事法制の整備 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(8) 論. 説︵中村英︶. の立遅れとなつて現われているということができる︒この傾向は︑その後も引続いている︒. 二六八. ところで︑このように王政復古の主張の下に︑古制への復帰の傾向がみられたのに対し︑天皇親政の下に︑新た. な近代国家へ向つて再出発しようという主張も現われている︒これを王政維新派と呼ぶことができよう︒王政維. 新派は・幕末以来の外国との接触︑兵制の改革︑兵器製造等を通じ︑封建組織の限界を認識し︑外国の圧力がただ. 兵器の優秀性に基づくものではなく︑産業革命を経た西洋近代国家のもつ資本主義社会体制の力によるものである. ことを認識していた︒そのため︑先進諸国の圧迫から日本の国家的独立を守るためには︑先進諸国をモデルとした. 資本主義社会体制の近代国家を建設する必要があるとの考え方をもつに至つていた︒この傾向は︑当然のことなが. ら︑海外の事情に明るい識者を中心としたのであるが︑その後︑急速にその勢力を拡大し︑明治におけるわが国の. フランス 法 の 影 響. 近代化を強力に推し進めることになつた︒. ニ. ︵一︶わが国には古くからオランダ人が来航しており︑徳川三百年の鎖国の間にも︑これが西欧とのつながりを保. ︵二︶. つ唯一の窓口になつていた︒従つて︑江戸時代の全体を通じて︑オランダの文物のわが周に対する影響は相当強か. つた︒しかし幕末の頃︑ロシヤ︑イギリス︑アメリカ︑フランスなど相ついで渡来し︑西欧の事情がわが国にも知. られるようになつてくると︑オランダの文化が独・仏等の他の国の文化に負うことが大きいこと︑また︑ヨーロツ. パにおけるオランダの二位的な国際的地位などが次第に明らかになヴ︑また︑直接︑英・独・仏の文化に接するこ.

(9) ︵三︶. ︵法律のひろば一八巻一二号︑一九巻三. とによつて︑人々は︑これら諸国に学ぶべき多くのものがあるのを見出すようになつた︒かくしてオランダの影響. 水田教授﹁西欧法受容の歴史的背景﹂. は次第に影をひそめ︑かえつて英︑米︑独︑仏などの影響が強くなつてくる︒ ︵二︶わが国における蘭学発展の概要については︑. ・四号︶に詳しい︒法律文化についていえば︑すでに一八四〇年代︵天保︑嘉永年間︶に﹁和蘭政書﹂翻訳の企てがあり︑和蘭. 憲法は一八四三年︵天保一四年︶和蘭刑法︑刑事訴訟法は一八四八年︵嘉永元年︶に課訳されていたということである︵水田・ 前掲法律のひろば一九巻三号三〇頁︶︒. ︵三︶蘭学がすたれ︑識者の関心が英︒仏.独学へ移つたその歴史的背景については︑水田教授・前掲法律のひろば一九巻七号二七 頁以下に詳しい︒. ところで︑イギリス︑アメリヵは薩英戦争後︑幕府に反対してかえつて薩長と結び︑ひとりフランスのみが英・. 米との対抗上幕府に接近する政策をとつていた︒英・米に見放された幕府にとつてはフランスの友好と援助とが頼. ︵四︶. みの綱であり︑一八六七年︵慶応三年︶には徳川慶喜の実弟︑当時の民部大輔徳川昭武を将軍の名代としてフランス. に派遣するなど親善開係を保つていた︒このため︑幕府関係には︑フランスの影響が強くなつている︒この使節に. 附随し栗本鋤雲︑箕作麟祥等もフランスヘ渡り︑フランスの政治体制︑法制を見聞する機会をもち︑フランス法の. 秀れたことを認識してこれをわが国に紹介している︒フランス五法の翻訳もこの頃すでに企図されたようであ語︒. ︵四︶わが国におけるフランス文化の研究は︑一八四八年︵嘉永元年︶頃︑村上英俊によつてはじめられたということである︒なお幕. 二六九. 末におけるわが國のフランス法にかんする知識については︑水田教授・前掲法律のひろば一九巻二号三四頁以下参照︒. 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(10) 論. 説︵中村英︶. 二七〇. ︵日本法と外国法︶︑. ︵日仏法学一号︶に詳しい︒. ︵五︶わが国におけるフランス法研究の沿革については︑野田良之﹁日本における外国法の摂取ーフランス法﹂. とくに明治初年の頃の研究状況については︑野田﹁明治初年におけるフランス法の研究﹂. 以上のような経緯は︑明治政府になつてからも︑フランス法に親しみをおぼえさせる原因となつたことは当然で. ある︒しかも︑フランス法が︑憲法以下︑民法︑商法︑刑法︑民・刑事訴訟法のすべてを含む完備した法典であるこ. と︑一九世紀の初頭に制定され︑明治初年においてすでに相当古くなつたものでありながら︑近代法典の最初のも. のであり︑その後の各国の立法に大きな影響を与え︑当時のヨーロツパにおけるこの法典に対する評価が相当高か. つたということ︑また消極的な面では︑英米法が判例法主義に立脚しており︑その法制を継受することが困難であ ︵六︶. り︑また︑その後のわが国の法制に決定的影響を与えたドイツ法は︑まだ帝国が建設されたばかりの頃であつて︑. ﹁何ヲ以テ仏国ノ法律二因テ日. 統一した法典として成立していなかつた︑というような事情が︑政府をしてフランス法へ一層接近せしめることに なつた︒. ︵六﹀ 一八八○年︵明治一三年︶︑ボアソナードが行なつた法学講義の邦訳﹁法律大意講義﹂には︑. 本将来ノ法律ヲ制定セント欲スル乎︑先ヅ其原由ヲ説カンニ︑英国二於テハ法律ナキニ非スト錐ドモ五六百年前二編纂セシ者ニ. シテ︑晩近二至リテ編纂シタル全備ノ者ナク︑又米国ハ新国ナリト錐ドモ各州其法律ヲ異ニスルガ故二︑是レ亦全備一定ノ編纂. 法ナク︑八十年来全備ナル編纂法ヲ有スル者ハ独リ仏国ノミ︵中略︶︑是レ日本二於テ仏国ノ法律二因リ将二法律ヲ制定セント. ︵同書四頁︶とある︒わが国がフランス法を継受した原因が端的に示されている︒. スル原由ナリ︑蓋シ日本二於テ箕作氏ノ仏蘭西法律ヲ訳セシ其原因ハ上ト同一ニシテ政府二於テ仏蘭西法律ヲ適用セント欲スル ノ意ヨリ出タル者ナル可シ﹂. 政府当局は︑一八七二年︵明治五年︶に最初に到来する条約改正の機会には︑フランス法にならつて近代法典を作.

(11) ︵七︶. り︑条約の改正を成就せしめようとはかつた︒この改正はこの時機においてはついに実現せず︑一八九四年萌治二. 七年︶の時までまたなければならなかつたが︑政府は︑当時︑熱心にフランス法の摂取につとめており︑一八六九年. ︵明治二年︶には︑箕作麟祥に命じてフランス刑法の翻訳をなさしめたのをはじめとし︑翌一八七〇年︵明治三年︶に. は︑フランス法の熱烈な傾倒者江藤新平を中心とする太政官制度局が︑フランス民法にならつた日本民法の編纂を. 意図してフランス民法の謙訳をはじめている︒この蘇訳には一八七二年︵明治五年︶より箕作もその作業に参加し︑. 翌一八七三年︵明治六年︶にはその一部が公刊されるなど︑その事業は着々と進行していた︒しかし︑なにぶんにも文化. を異にする外国の法制を翻訳し︑それによつて立法するということは︑当時においては極めて困難なことに属して. おり︑そのため︑政府は一八七二年︵明治五年︶パリの代言人ブスケ︵08お霧ωo房2雪︶を︑一八七三年︵明治六. 年︶にはパ芙学教授ボアソナード︵量拶<①窪&︒誓邑§閃︒=§匙を招へいして立法事業に参画せ. しめ︑また︑一八七一年︵明治四年︶司法省に設けられた明法寮︵後の司法省法学校︶においてフランス法の講義をなさ. しめ︑フランス法による法学教育を行つた︒かくして明治初年においては︑フランス法はわが司法部において絶大な 影響力をもつ た の で あ る ︒. ﹁外国法律ノ書佛蘭西五法ヨリ備ハルハ無シ而シ. ︵七︶一八七四年︵明治七年︶︑ボアソナードが︑司法省の明法寮において行なつたフランス民事訴訟法の議義を集録した﹁佛国訴 訟法講義﹂には︑ ︵司法省︶編纂課の名でつぎのような序文が誌されている︒. 二七一. テ我皇国今日法律改良ノ時二当リ其参考掛酌二供スヘキ者又五法ヨリ善キハ無シ﹂と︒当時の政府当局者がフランス法にいかに 傾倒していたかが︑この一文によく示されている︒. 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(12) 論. 説︵中村英︶. ︵八︶ボアソナードについては︑田中耕太郎﹁ボアソナードの法律哲学﹂. 〇. ︵杉山教授還歴祝賀論文集︶. 二七二. ︵二︶以上のような情勢を背景として︑わが国の裁判所法制に一時期を画するものとして︑一八七二年︵明治五年︶ ︵九︶ 八月三日太政官達﹁司法職務定制﹂が公布された︒司法職務定制は︑司法省職制章程︑判検事職制章程︑地方遷卒兼. 逮部職制︑捕亡章程︑証書人代書人代言人職制︑各裁判所章程および明法寮職制章程など二二章一〇八ヶ条よりな. る大部の法典で︑裁判所の構成ばかりでなく︑およそ裁判にかんするすべての事項を規定している︒一八七一年. ︵明治四年︶廃藩置県により︑わが国の統治権は中央政府に統轄されたが︑司法職務定制は︑これと併行して裁判所の. 組織を整備するとともに︑中央においては︑司法にかんする事務を他の行政機関から分離し︑司法省の下に統一し︑. 地方においては府県裁判所を設置することにより︑従来各藩の系統をひいた各府県の裁判権を司法省の統轄する府. 県裁判所の手に収めようと構想するものであつた︒明治初年よりフランス法の摂取に熱心であつた江藤新平が︑一八. ︵民訴法研究四巻︶参照︒. ︵前掲︶に詳しい︒. フランスの司法制度の概要と︑それがわが国の司法制度に与えた影響の大略については︑三ケ月章﹁フランスの司法制度に. 明治維新よりこの時期までのわが国における裁判所制度の成立過程については︑染野義信﹁裁判制度﹂. 七二年︵明治五年︶四月司法卿に就任後︑その監督の下に︑制定したものであつて︑行間︑律令の古制の影をのこさ ︵一〇︶ ないではないが︑すでにここにフランス法の影響が現われている︒ ︵九︶. ︵一〇︶ っいて﹂. たとえば︑同職務定制は︑証書人︑代書人︑代言人の制度を設けているが︵第一〇章︶︑これはフランス法のZ?. 芭周9>く8ρ>く8碧の直訳的移入ということができる︒また︒判事として︑大判事︑権大判事︑中判事︑権中.

(13) 判事︑少判事︑権少判事の六階級をおいているが︵第五章︶︑これは名称こそ古めかしいが︑フランスの裁判官の昇. 進制度を模したものと想像するに難くない︒同様にして︑裁判所として︑司法省臨時裁判所︑司法省裁判所︑出張裁判. 所︑府県裁判所︑区裁判所の五をおき︑その問︑上級審下級審の関係を認めたことも︑ピラミツド型に形成された. フランスの裁判所制度を模したものということができる︒その他︑検事の権限につき︑たとえば︑大検事以下は︑. ︵二八条︶とするなど︑それを巾の広く︑かつ判事より優. ﹁各裁判所二出張シ聴断ノ当否ヲ監視﹂するものとし︵二二条第一︶︑また﹁聴訟二冤柱アリ及鞄獄二失錯故造アリ 断刑二故失出入アレハ検事之ヲ本省二報知シ覆審ヲ乞ウ﹂. 位に立つものと定めていることは︑フランスにおいては︑検事が判事より上位のものとされており︑かつその権限 が広大であることの影響をうけたものと断言することができる︒. 明治維新政府が成立して以来︑各種の裁判所と名称される役所が設立されたが︑それは元来︑行政庁であり︑そ. の一部として裁判事務を取り扱つていたという状況であつたが︵綱糀飢而灘瀞動襯勧収勲勲帥狂勤の徳轍ボ︶︑この司法職務. 定制により︑はじめて司法機関としての裁判所が認められることになつた︒これはわが国における近代的裁判所制度の. 成立に一時期を画するものといつてよい︒しかし︑過渡期のそれであるから︑載然と司法権の独立が認められたわ. けではない︒裁判所は司法省に属せしめられたのであり︑司法卿が裁判機関の長であつた︒ここには︑まだ司法と 行政の混同がみられる︒. 二七三. なお︑フランス法は︑その後の司法制度に大きな影響を与えたのであるが︑これについてはまた後に述べること にしよう︒. 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(14) 三. 論. 説︵中村英︶. 英米法の影響. 二七四. 以上概観したように明治初年における裁判所法制の整備には︑フランス法の大きな影響がみられるのであるが︑. なお︑英米法の影響も見逃すわけにはゆかない︒わが国の識者がその関心をオランダ文化からフランス︑イギリス ︵一一︶. 等の他の西欧諸国の文化へ移していつたのは︑一八六二︑三年︵文久二︑三年︶︑福沢諭吉がその私塾における教育. を蘭学から英学に切り換えた頃からだといつてよいであろう︒その後英米の文物のわが国の文化に与える影響は次. 第に強くなつてくる︒法律文化の面でも︑イギリスの議会制度は多くの人々の関心をあつめ︑福沢は一八六六年. ︵慶応二年︶﹁西洋事情﹂︑一八六九年︵明治二年︶﹁英国議事院談﹂を著わし︑これをわが国に紹介しており︑また︑. 一八六八年︵慶応四年・明治元年︶の政体書が︑すでに直接的にはアメリヵ法の影響の下に成立したことは︑前に述べた. とおりである︵淋繭班照4︒このように英米法は当時の人々の注目するところであつて︑東京開成学授︵後の東京大学︶ ︵一二︶︵一三︶. では︑一八七四年︵明治七年﹀以来英米法の教授をはじめ︑米国人フルベツキ︵9峯o宰峯o浮く霞竃鼻︶その他. ということができよう︒. ︵日本法と外国法︶参照︒. わが国に仏法学派と英米法学派とを創り出し︑それが後にフランス法系の旧民法施行をめぐる︑有名な法典論争まで尾をひいた︑. ︵一三︶これは︑司法省の明法寮がフランス法の教育に重点をおいていたのと対踪的である︒明法寮と東京開成学校が先駆となつて︑. ︵一二︶日本における英法研究の沿革については︑伊藤正已﹁日本における外国法の摂取ーイギリス法﹂. ︵一一︶わが国におけるイギリス文化研究のはじまりについては︑水田教授前掲法律のひろば一九巻七号二五頁以下参照︒. 法系の学者が教鞭をとり︑英米法流の法学教育をしていた︒. 英.

(15) 以上のような情勢の下︑民事裁判制度の立法にも︑英米法の影響とみられるものが若干現われている︒たとえば︑. 一八七三年︵明治六年︶七月一七日の太政官布告﹁訴答文例﹂などそれである︒この布告の起草者︑制定の経緯など不. 明であるが︑その内容からみて︑英米法の訴答︵コ魯島品︶の影響をうけたことは確かであろう︒同年一一月五日. の太政官布告﹁出訴期限規則﹂も︑英米法の口鼠け毘9亀きぎ房の影響をうけたと推定される︒しかし︑英米法. は判例法主義に立脚しているので︑新興国の法制として移植するには適していない︒このように部分的にわが国の. 法制に影響を与えるところはあつたが︑全体として英米法がわが国に移入されるということにはならなかつた︒ま. たこのようにして規定された英米法系の法制も︑結局はわが国の法体制に親しまず︑その後の改革において自然に消 滅する運命をたどつている︒. 明治の後半期において︑わが国の法制に大きな影響を与えたドイツも︑明治の初年には︑まだ帝国を創建した当. 初のことであり︑統一した法典をもつておらず︑また︑プロシャ︑ザクセン等の諸邦は︑すぐれた法制をもつてい ︵一四︶ たが︑それが州法であつて統一法でないこと︑ドイッ語の普及が英語︑仏語に比し劣つていたこと︑などの事情が相 まつて︑この当時には︑ドイツ法を模範とした立法は行われていない︒. ︵一四︶わが国におけるドイッ文化の研究は︑一八六一年︵文久元年︶頃加藤弘之等によつてはじめられたということである︒なお幕. 二七五. 末の頃︑開成所︵蕃所調所の後身︶では︑英学を学ぶ者約二〇〇名︑仏学一〇〇名︑独学五〇名程度といわれる︒この間の事情 につき︑水田教授前掲法律のひろば一九巻七号二六頁参照︒. 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(16) 論. 説︵中村英︶. 四 裁判所法制の整備. 二七六. かくして︑部分的には︑英米法の影響とみられる立法もなされたが︑政府の主たる傾向は︑決定的にフランス法. 流に従つていたということができる︒司法省明法寮ではフランス法の教育をしていたのであり︑それを通じて︑フ. ランス法はわが国の司法部に大きな力をもつようになつた︒このような事情を背景として︑司法制度に第二の一時. 期を画するものとしで一八七五年︵明治八年︶の三権分立の詔勅の漢発があり︑またそれに伴い大審院が設置される ことになつた︒. 一八七五年︵明治八年︶二月︑いわゆる大阪会議において︑大久保利通︑木戸孝允︑板垣退助︑伊藤博文等が会し. 三権分立を論じたが︑この議はやがて同年三月︑これらの人々をもつて組織された政体取調委員会によつて採用さ. れ︑その趣旨が上奏された︒同年四月一日﹁朕今誓文ノ意ヲ拡充シ︑敷二元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ︑大審. 院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ輩クシ︑又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ︑公益ヲ図リ︑漸次二国家立権ノ政体ヲ立テ︑汝. 衆庶ト倶二其慶二頼ント欲ス﹂との詔勅が発せられた︒かくて︑立法︑行政権に対し︑独立な純粋の司法機関とし. ての大審院が設置されることになり︑また東京︑大阪︑福島︑長崎の四ヶ所に控訴院の前身たる上等裁判所がおか. れ︑従来の府県裁判所がその下に配せられるという組織がとられ︑裁判所の系統も序々に整備されるに至つた︒. 三権分立は近代西欧諸国のひとしく採用するところであり︑それは早くからわが国に紹介されている︵勘鵬斑照︶︒. ここで採用された三権分立制度を︑ひとりフランスの法制にのみ帰することはできない︒しかし︑この時点におい. てわが国が三権分立制度を採用するに当り︑フランスの法制を大いに掛酌したであろうことは想像に難くない︒こ.

(17) とにその結果として設置された大審院は︑民事・刑事の上告をうけ︑上等裁判所以下の不法のものを破棄して全国法. 権の統一を主持すべきものと規定された︵大審院章程︶︒これはフランスの大審院が破殿院︵Oo弩留8器蝕雲︶の. 裁判所組織は大. 性格をもつことの影響をうけたことは明らかである︒その後︑一八七六年︵明治九年︶には︑府県裁判所は地方裁判. 所に改められ︵同年太政官布告二四号︶︑さらにその下に区裁判所がおかれることになり︵餉酔桐肱︶︑. 審院を頂点とし︑その下に上等裁判所︑地方裁判所︑区裁判所をおくフランスと同じ四階級制となつた︒一八八○. 年︵明治一三年Vには︑ボアソナードがフランスの刑事訴訟法を範として起草した治罪法が公布され︑一八八二年. ︵明治一五年︶から施行されることになつたが︑それに呼応して一八八一年︵明治一四年︶各裁判所の位置および管轄の. 区画が改正され︵同年太政官布告五三号︶︑裁判所の名称も大審院︑控訴裁判所︑始審裁判所︑治安裁判所に改められた. ︵︷肋敬旺怯湖劉涛撚彫寧脚甑欄縮か伍悔︶︶︒その名称は︑いずれもフランスのO・霞留3霧器oFOo霞傷︑騨薯①ご司ユげ琶ゆ一. 8胃①邑曾①一窃貫蕊①し島こ8留葛一図の直訳的移入であつたことは余りにも明瞭であろう︒なお治罪法によれば︑. このほか重罪裁判所と高等法院とが認められていたが︑前者は控訴裁判所または始審裁判所において開き︑控訴裁. 判所および始審裁判所の判事によつて構成されるものであり︵治罪法七〇条以下︶︑後者は︑以前の司法省臨時裁判所. に当るものであるが︑司法卿の奏請により︑上裁を以て開くものであつた︵治罪法八三条以下︶︒一八八六年︵明治一. 二七七. 九年︶裁判所官制︵醐碑踊3ではこれをうけつぎ︑高等法院︑大審院︑控訴院︑重罪裁判所︑始審裁判所︑治安裁判 所の六種の裁判所を認めている︒. 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(18) 論 説︵中村英︶. 五 訴訟法制0整備. 二七八. 訴訟法の面を一べつしてみよう︒刑事訴訟法の領域では︑一八七七年︵明治一〇年︶︑司法省に治罪法取調掛が設け. られ︑ボアソナードが草案を起草している︒この草案は︑その後治罪法草案審査委員会︑内閣︑元老院を経て若干. の修正が加えられた上︑一八八○年︵明治一三年︶太政官布告三七号として布告され︑一八八二年︵明治一五年︶一月. 一日より施行された︒これは同じくボァソナードの手により︑治罪法と同時に施行された刑法とともに︑わが国に ︵一五︶. はじめて制定された洋式の法典であり︑画期的なものであつた︒しかし︑これに反し︑民事訴訟法の分野では見る. べき立法はなされていない︒政府は︑一八七六年︵明治九年︶︑元老院に法律取調を命じており︑法律取調所におい ︵一六︶ て調査の結果︑一八八○年︵明治≡年︶には元老院草案が出ている︒その後︑第二次︑第三次︑第四次の草案がでてい. るが︑これは遂に成案とはならなかつた︒一八八三年︵明治一六年︶には︑ボアソナードの起草した﹁日本民事訴訟法. ︵綜合法学六巻八号︶. 財産差押法草案﹂が出され︑それを修正したとみられる﹁民事訴訟法草案﹂も出ているがいずれも成案とならず︑ 刑事法と異なり民事法の分野ではみるべき立法もなく︑その前半期を終つている︒. 参照︒. ︵法学研究二二巻二・三合併号︶参照︒. ︵一五︶明治初期における民事訴訟法の立法の沿革については︑向井健﹁明治初年における民事訴訟法典の編纂﹂. ︵一六︶手塚豊・伊東乾﹃明治十三年の元老院訴訟法草案﹂. ﹁控訴上告手続﹂︵歌畑醐餌輸飴弘号︶︑. ﹁裁. この期間における民事訴訟にかんする手続規定は︑﹁訴答文例﹄︵か醐帥一聾︒一繭聯茄年︶︶︑﹁出訴期限規則﹂︵た珈翫蘇強鎚鴫︶︶. をはじめとし︑その後必要に応じ制定しまた改廃された︑たとえば.

(19) 判事務心得﹂︵蘇灘甑藪劉軟弱︶︑﹁民刑事上告裁判ヲ経タル者司法卿検事ヲシテ再審ヲ求メシムルヲ得﹂︵炉鰍七. ︵瑚齢輪畔バ駄︶︑﹁刑事二附帯シテ起ル民事ノ賠償裁判心得﹂︵畢瓢砒批餌巌瑚儲陣恥︶︑﹁勧解略則﹂り︵無瓢融灘餌嵐瑚塑毒. などの布告︑布達︑達などにより︑まかなわれていたという状況であつた︒これらの規定に︑外国法がどのように影響. していたかを断定することは困難である︒しかし︑およそ︑訴答文例︑出訴期限規則が英法系と目されるのに対し︑他. は︑いずれもフランス法系の規定とみてよいであろう︒なおその他裁判所の伺に対する司法省の回答︑旧来の慣例な. ども実質上の法源となつたものの如く︑民間では︑これらを体系的に排列し︑﹁現行民事訴訟法大成﹂などとして刊 ︵一七︶. 行している︒これが実質上の民事訴訟法として機能していたということができよう︒政府も後に﹁現行民事訴訟手 続﹂なるものを編集している︒. ︵一七︶早稲田大学図書館所蔵︒第一編総則以下︑治安裁判所︑始審裁判所︑控訴裁判所︑大審院︑執行官署二対スル訴訟︑内外交渉. ノ訴訟の八編︑四九五ヶ条の法典のかたちにまとめてある︒編集の年代は明らかでないが︑内容からみて︑一八八四年︵明治一. 七年︶頃︑民事訴訟法の編纂準備のため作成したものであり︑当時︑これを基礎とし︑わが国独自の民事訴訟法を編纂しようと. 四 近代的司法制度の成立と外国法の影響. する考えもあつたのではないかと臆測される︒. ドイツ法 の 影 響. 二七九. ︵一︶ドイツが帝国を建設したのは一八七一年 ︵明治四年︶のことであり︑ その法制がようやく整備されるに至つた 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(20) 論 説︵中村英︶. ︵一︶. 二八○. のは︑一八七七年︵明治一〇年︶以降のことであつて︑ドイッ法がわが国に与えた影響は︑明治の前半期においては︑. それほど大きなものではなかつた︒しかし︑ドイツが帝国と建設して以来︑着々とその法典を整備してくると︑わ が国でも︑これを模範として法典を整備しようという動きが現われてくる︒. ︵一︶ドイツ帝国が成立するとともに︑北ドイッ連邦の法律が帝国の法律となり︑一八七二年には︑わずかの改正を経て刑法典が施. 行されたが︑その他の法律については新たに法典編纂の事業が進められ︑裁判所構成法︑民事訴訟法︑破産法︑刑事訴訟法が制. 定されたのは一八七七年︵明治一〇年︶である︒民法が公布されたのは︑その後さらに遅れ︑一八九六年︵明治二九年︶︑商法 は一八九七年︵明治三〇年︶に公布されている︒. このような傾向は︑しかし︑明治の後半期に至つて突然現われたわけではない︒すでに明治のはじめ頃︑普仏戦. 争で︑大国フランスを破つたドイツは︑当時の人々の関心を集め︑その法律文化も識者によつて注目されるようにな. つた︒一八七三年︵明治六年︶には︑伊藤博文はドイッ憲法を訳出しており︑また︑一八七五年︵明治八年︶には伊藤. の片腕でもあり︑その後の立法に与つて力のあつた井上毅がプロシャ憲法を訳出刊行するなど︑ドイッ法の研究は︑ 比較的早くから行われていた︒. 一八七五年︵明治八年︶︑岩倉大使をはじめとし︑木戸孝允︑大久保利通︑伊藤博文等五十余名が︑政府の使節と. してヨーロツパに派遣されたが︑この際︑岩倉等政府首脳は︑わが国の国体にかんがみ︑ドイツ︑とくに旧プロシ. ヤの法制に学ぶべき多くの点のあることを見出したようである︒けだし︑プロシヤの国家体制が絶対君主主義的性. 格を貫いており︑その法制を模範とすることが︑わが国の法制を整備する場合︑もつとも適合していると考えたか.

(21) らである︒翌一八七六年︵明治九年︶には︑それまで外務省の公法顧間であつたスミスが満期帰国することになつた. のを機会とし︑政府は︑ドイッ駐在公使青木周蔵に︑ドイッより公法学士一名を雇入れることの交渉を命じている︒. この求めに対し︑ベルリン政府はロエスレル︵浮彗騨巨勾o①ω︸電︶を推薦し︑ロエスレルは一八七八年︵明治一一. 年︶来朝した︒彼は一八九三年︵明治三ハ年︶四月まで十五年の長きにわたつて日本に滞在したが︑その間政府上層. 部と密接な関係を保ち︑その顧問として︑その後の政府の政策に大きな貢献を果した︒わが国の立法がドイツ法流 へ二︶ に編制されることになつたことについても︑彼の直接間接の影響力は非常に大きかつたということができる︒. ︵二︶ ロエスレルと当時のわが国の法制整備の事情については︑鈴木安蔵・憲法制定とpエスレルに詳しい︒. しかし︑ロエスレルが来朝した当初の頃には︑政府の首脳は︑まだ︑わが国の法制をドイッ法流に整備しようと決. 心していたわけではない︒一方においては︑この頃︑ボァソナードに命じてフランス法流に法典を編纂すべく準備. していたことは前述した通りであり︒また︑民事訴訟法の領域についていえば︑それまで出された布告︑達などを整. 理し︑これを外国法流に一つの体系の下に編集するという方法での法典編纂も意図していたようである︵ヰ嫡鋭鯵︒. 要するにこの時代の法典編纂は︑フランス法を本命としつつも︑全面的にそれに頼りきらず︑他方においては独法︑. さらにはまた独自の立法など各方面に鰯手を伸ばしており︑暗中模索の状態にあつたということができよう︒. このような状態は︑しかし︑一八八一年︵明治一四年︶大隈重信を中心とする英国流の議会政治の主張が︑岩倉︑. 伊藤等のプロシヤ的立憲主義の主張に破れ︑大隈が下野した頃を転機として急速に変ぼうしてくる︒同年七月上奏. 二八一. された岩倉の憲法建議は︑憲法制定の基本方針をプロシヤ的立憲主義とすることを決定しており︑翌一八八二年 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(22) 論. 説︵中村英︶. 二八二. ︵明治一五年︶からつぎの年にかけての︑伊藤等のヨーロッパにおける憲法調査は︑もつぽらこの方針を実現するための. ものであつた︒伊藤はベルリンにおいてグナイスト︑モツセ︑ウイーンにおいてシユタインにつき︑ドイッ公法学の理. 論を究め︑帰国後は︑ドイツとくに旧プロシヤの法制を模範として︑憲法をはじめ諸官制を整備し日本の近代化を. おし進めた︒以上のようなわが国の基本方針決定の背後には︑ロェスレルをはじめとし︑彼に私叔し︑また早くか らドイッ法に通じていた井上毅が大きく貢献していた︒. その頃︑井上は︑さきに訳出したプロシャ憲法を若干訂正の上﹁李国憲法﹂として刊行し︑さらにヴュルテンベ. ルク憲法︑バイエルン憲法をも翻訳刊行して︑人ルのドイッ憲法研究に重要な手がかりを与えている︒またフラン. スに大勝し︑ヨーロツパにおいて覇権をにぎつた新興のドイツが︑時あたかも着々としてその法典を整備し︑一八. 七七年︵明治一〇年︶には︑裁判所構成法︑民事訴訟法︑破産法︑刑事訴訟法等︑当時最新の法典を編纂した︑とい. うような事情は︑当時の人々を一そうドイッにひきつけることになつた︒この頃と境として政府の関心はフランス. 法か︑らドイッ法へ移つていつた︒それはただ憲法についてだけでなく︑その他の法分野においても同じであり︑わ が国の法制へのドイツ法の影響は︑その後︑次第に強くなつている︒. ︵二︶大日本帝国憲法が制定されたのは︑その後一八八九年︵明治一三年︶のことであるが︑すでに憲法制定の基本. 方針を︑ドイツ︑ことに旧プロシヤ憲法を模範とすべぎことを決した政府は︑その手はじめとし︑国家機構をドイツ. 流に編制することを企てた︒一八八四年︵明治一七年︶宮中に制度取調局を設け︑伊藤が自ら長官となつて︑同年およ. び翌年は︑主とし政府全体の機構改革につき調査しており︑その結果︑一八八五年︵明治一八年︶末には太政官制を.

(23) ︵前掲︶に詳しい︒. 廃止し︑内閣制度を創設するなど官制の大改革を行つた︒さらに翌一八八六年︵明治一九年︶裁判所組織の整備をは ︵三︶ かり裁判所官制︵勅令四〇号︶を制定した︒これらには︑いずれもドィツの法制の極めて強い影響がみられる︒ ︵三︶この時期における︑わが国の司法制度の成立の沿革については︑染野義信﹁司法制度﹂. 裁判所官制においては︑裁判所それ自体についていえば︑控訴裁判所を控訴院と名称を改めたにすぎない︒しか. ︵一二条︶. し判事︑検事の登用方法︑任用資格を明らかにし︑また︑従来︑司法大臣の手に存していた裁判官任免権を奪い︑. ことに︑﹁裁判官ハ刑事裁判又ハ懲戒裁判二依ルニアラサレハ其意二反シテ退官及懲罰ヲ受ケルコトナシ﹂. として裁判官の身分保障を明らかにしたことなどの中には︑ドイッの裁判所法制の影響が見出される︒これはまた︑. 幕末においてはもとより︑三権分立の宣言された明治期になつてからも︑余り明瞭に認められなかつた司法権と行. 政権の分離をはつきり認識し︑司法権の独立を保障するものであつて︑わが国の司法制度を著しく近代化させたも. ﹁始審裁判所判事︑始. ︵一西条︶るものとされていた︒これは幕末以来の司法. のだということができる︒しかし︑司法権の行政権からの分離はまだ完全なものではなく︑ 審裁判所長︑控訴院長及大審院長ハ司法大臣ノ指揮ヲ承ヶ﹂. 権と行政権を区別しない考え方がそのまま温存されたという面があるとともに︑また︑プロシヤの絶対君主主義国. 家体制においては︑行政権が司法権より優位に立つている︑そのことの影響をうけたものともいうことができる. 二八三. ︵概鵬淵曝㈱ズ搬肋鰯蜥る︶︒かくして裁判所官制は︑著しく近代化されたが︑それは同時に絶対主義国家の司法制度とし. ての性格を示すようになつたということができる︒. 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(24) 二. 論. 説︵中村英︶. 裁判所構成法の制定. 二八四. ︵↓︶裁判所の機構は︑一八八六年︵明治一九年︶の裁判所官制により大巾に改定され︑ドイッ流に近代化されたが︑. それはまだ近代的法典としての体裁を備えておらず︑また裁判制度にかんする定めは︑その他各種の布告︑布達︑達. などに散在しているという状態であつた︒近代的な裁判所組織法の整備確立は条約改正のため必要であるばかりで. なく︑同時に起草されつつあつた憲法の施行のためにも必要であつて︑政府はすでに裁判所官制が施行された直後︑ この法典の起草を準備している︒. 憲法の編纂が︑すでにドイツ法に依拠して準備されていたことから︑国権の一部をなす司法権の組織が︑ドイツ. 法流にその編纂を企てられたのは︑事の当然のなりゆきである︒一八八六年︵明治一九年︶八月︑条約改正のため外. 務省に設けられた法律取調局が主としてこのことを取扱い︑翌一八八七年︵明治二〇年︶五月︑当時東京大学講師とし. て釆日中のドイツ人ルドルフ︵○ぎ閃&93に草案の作成を依頼した︒ルドルフは一八七七年︵明治一〇年︶のド. イッ裁判所構成法を模範として草案を起草したがごれを法文化するについては英国人カークゥッドが参加したとの. ことであり︑これを外務省案と呼んでいる︒その後︑外務大臣井上馨が条約改定に失敗して失脚するや︑法典編纂事. 業は一時頓挫したが︑一八八七年︵明治二〇年︶一一月には︑外務省の法律取調局が司法省に移り︑時の司法大臣山田. 顕義が委員長となり︑さらに法典編纂の事業は精力的に続けられた︒ここで裁判所構成法の草案として審議されたも. のは︑外務省案に基づき︑それに︑さらにドイッ人ロエスレル︑モツセ︑仏人ボァソナードの意見を欝酌したもの. であつた︒一八八七年︵明治二〇年︶一一月一四日より一二月二日まで審議を行い︑さらに修正を加えて翌一八八八.

(25) 年︵明治二一年︶三月には草案を内閣へ提出︑その後若干の変更を加えられたが︑元老院︑枢密院︑閣議を経て︑憲. ︵四︶. 法が発布された翌年︑すなわち一八九〇年︵明治二三年︶二月八日法律第六号として公布︑同年一一月一日より施行 された︒. ︵四︶裁判所構成法が制定されるまでの経過については︑尾佐竹猛﹁裁判所構成法制定の由来﹂ ︵法律時報一一巻一一号︶参照︒な. お︑ルドルフ自身の執筆した裁判所構成法の注釈︑および同法制定にかんする委員会の議事速記録は︑とりまとめ﹁裁判所構成 法注釈蛇裁判所構成法議事速記録﹂として︑司法資料二五九号に掲載されている︒. ︵二︶かくして制定された裁判所構成法は︑当然のことながら一八七七年︵明治一〇年︶のドイツ裁判所構成法の流. れをくむものであつた︒しかし︑同じ頃起草された民事訴訟法が︑法典の編別から条文の規定に至るまで︑ほとん. どドィツ法と同じであつたのに対し︑裁判所構成法は必ずしもドィツ法の模写ではない︒編別も︑ドィッ法が一七. 章二〇四条に分けて規定しているのに対し︑日本法は全体を四編に分け︑一四四条で規定しており︑また大きなも. 己︒一の器魯雪︶の制度を採用していない︒また日本法では︑ドイツ法にない﹁司. のを拾つてみても︑日本法は︑ドイツ法の規定する参審裁判所︵ω︒ま謡お霞8窪︶︑陪審裁判所︵oo魯毛ξαq需ア ︒窪︶︑商事部︵囚ゆヨヨ2︷響=. 法行政ノ職務及監督権﹂の一篇を設け︑司法大臣の裁判機関に対する強大な監督権を認めている︒. 裁判所構成法が︑このようにドイッ法の流れをくみながら︑それを引写しにしなかつたのは︑政府が当時すでにわが国の. 二八五. ︵五七条︶と規定し. 国家体制を絶対君主主義のものとして形成することを決めていたということと密接に関連している︒裁判所構成法. 公布の前年発布されるに至つた憲法には︑﹁司法権ハ天皇ノ名二於テ法律二依リ裁判所之ヲ行フ﹂ 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(26) 論. 説︵中村英︶. 二八六. ているが︑ここにわが国の司法権の基本的性格が示されている︒明治憲法での三権分立は︑同じく三権分立であつ. ても︑西欧諸国のそれと異なり︑天皇の統治権を三箇の機関に行わせるという乙とであつて︑司法についてみても. この絶対主義と切り離しては考えられない︒ドイッ裁判所構成法が参審裁判所︑陪審裁判所︑また商事部という制. 度により大巾に国民の司法への参与を認めているのに対し︑わが裁判所構成法がそれを認めず︑司法官僚による裁. 判という制度を徹底させたのは︑その一つの現われであり︑また﹁司法行政ノ職務及監督権﹂の一篇を設け︑司法. 大臣は各裁判所に司法行政上の監督権をもつものとし︵一三五条︶︑各裁判所長は︑司法行政にかんする限り︑司法. 大臣の命をうけ司法行政の職務を行う官史にすぎないものと規定していたこと︵一三四条︶︑またそれとの関係にお. いて︑司法機関の頂点にある大審院長も︑大審院を監督するのみであり︑その監督権が下級裁判所におよばないと. したこと︵一三五条第二︶などは︑わが国の司法権の絶対主義的性格を明らかにするものである︒また以上のような司法. 制度の担い手としての法曹についても︑一般には試験を経て判検事に任用することを定めながら︑帝国大学の法科卒 ︵五︶ 業生は無試験で司法官試補になりうるものとし︵六五条二項︶︑また︑帝国大学の法科教授のみは試験によらず判検. 事に任命される資格を有するものと規定して︵六五条一項︶︑官学偏重の態度を明らかにしたことなども︑同様の傾 向を示すものといえよう︒ ︵五︶この規定は︑その後一九二三年︵大正一二年︶の改正で削除さ魚た︒. なお︑裁判所構成法が絶対主義的性格を有することの例として︑たとえば裁判官は法定の場合を除き︑その意に反. して転官転所停職免職等されないという身分保証︵七三条︶も︑﹁但シ予備判事タルトキ及補欠ノ必要ナル場合二於テ転.

(27) 所ヲ命セラルルハ此ノ限二在ラス﹂という但書の規定により︑補欠のためという口実をつければ︑その意に反する. 転所も一般的になしうることになり︑完全なものでなくなつていることなどもよく指摘されるところである︒しか. しこの点については︑ドイッ裁判所構成法も︑裁判所の編制または区画を変更するときは︑裁判官の意に反しても︑. 俸給の全額を給しこれを他の裁判所に転じあるいは休職を命じることができるものとしており︵八条二項︶︑これは 日本法に特有の も の で は な い ︒. 要するに当時の立法当局は︑憲法の構想する絶対君主主義の枠内において︑わが司法制度につき一つの考え方をも. ち︑ドイッ法の影響を強くうけながらもそれに溺れず︑とるべきものはとり︑捨てるべきものは捨て︑わが国独自. の考え方による立法をしたということができよう︒それは︑当然︑わが司法制度が大綱においてドイッ流でありなが. ︵六︶. ら︑またそれとは異なつた性格をもつたことにつながつている︒端的にいえば︑日本の司法制度は︑ドイッの司法. 制度を模しながら︑なおそれを上廻つて絶対主義的性格を強化しているということができる︒. ︵六︶同様の関係は︑すでに憲法においてもみられる︒明治憲法は︑プロシャ憲法を範として立法されたものであるが︑それをそのま. ま受け入れたのではない︒プロシヤ憲法︵一八五〇年︶は︑一八四八年のフランス革命以後の民主主義運動の影響をうけて︑絶対君. 主主義を基本としながら︑なおその中に︑民主主義的要素をとり入れている︒しかし︑わが立法者は︑わが国の国体にかんがみ︑. そこから絶対主義の支配体制を学び︑明治憲法をプロシヤ憲法よりさらに徹底した絶対主義のものとして規定した︒. なお︑外国法の影響という観点からは︑明治初年以来︑わが国に根をはつたフランス法の影響も指摘できる9たと. 二八七. えば︑区裁判所の管轄事項として︑訴訟物の価額にかかわらず﹁不動産ノ経界ノミニ関ル訴訟﹂︑﹁占有ノミニ関ル訴 近代的司 法 制 度 の 成 立 と 外 国 法 の 影 響.

(28) 訟﹂. 論. 説︵中村英︶. 二八八. ︵七︶. ﹁必要アリト認ムルトキハ通知ヲ求メ其ノ意見ヲ述フルコト﹂ができるものとされてい. ︵一四条第二︑・︑ハ︶をあげているが︑これは明らかにフランス法制の系統に属する規定であり︑また︑検事. が︑民事事件についても︑. るのも︵六条︶︑フランス法の影響をうけたものである︒後者は一八七二年︵明治五年︶の司法職務定制以来わが国. において行われている︒その他︑起草に関係したカークゥツドの意見により︑草案当時には英法的な考え方によ ︵八ス九︶. る規定も存在したが︑構成法が全体としてドィツ法的な構造の下に組み立てられたため︑平灰が合わず︑法案が 審議された過程において次第に影をひそめてしまつた︒. ︵七︶フランス民訴法においては︑占有の訴と本権の訴とを巌然と分離しており︵二五条︶︑ 占有のみにかんする訴は治安裁判所の 管轄事項としている︒. ︵八︶たとえば︑草案六八条は︑英法の系統をひく﹁予決﹂の制度を定めていたが︑ドイッ法主義の制度に融合しないため︑後に削除さ れている︒. を聴取している咲そのため︑その補訂の過程で本来の意味が不明確になつてしまつたものや︵たとえば︑予備書記の取扱につき書記. ︵九︶この法典の編纂に当つては︑ルドルフの.独文原案を和文︑英文︑仏文に醗訳し︑カ;クウツド︑ボアソナード等各方面の意見. と予備書記を︑書記と書記補との関係の如く誤解し︿九三条﹀︑また執行吏の命令系統につき︑裁判所書記のみを命令権者と考えた ヤ ヤ という例︿一〇〇条﹀など︶︑また翻訳が困難であることにより意味不明の規定が生じている︵たとえば第八条﹁書記課ハ往復 会計記録 ・ ・ : : ノ 事 務 ヲ 取 扱 フ ﹂ な ど ︶ ︒. ︵三︶裁判所構成法では︑裁判所の機構についていえば︑従来裁判所官制に認められていた高等法院︑重罪裁判所. を廃止し︑また︑治安裁判所︑始審裁判所の名称を旧に復し︑区裁判所︑地方裁判所に変更するなどの改革をして.

(29) いる︒しかし一八八六年︵明治一九年︶の裁判所官制がすでにドイッ法の影響の下に制定されているので︑裁判所構. 成法により裁判所制度がとくに近代化されたという点は見出されない︒しかし︑構成法が︑従来︑種々の布告︑布. 達︑達などによって規定されていた裁判所制度を︑さらに詳細に︑そして体系的︑統一的な一箇の法をもつて規定し︑. 裁判制度を安定せしめたということはきわが国における近代的司法制度の成立に一時期を画するものといえよう︒. なお︑裁判所構成法において︑裁判制度が近代的に構成されたという観点から重要と思われる二・三の点をひろ. つてみよう︒構成法では︑憲法五八条をうけて︑裁判官は︑ω刑法の宣告︑または判事懲戒による懲戒の処分をう. けた場合︑⑭身体または精神の能力衰退の結果大審院または控訴院の総会の決議にもとづき︑司法大臣により裁. 判宮としての職務をとることができないと判定された場合を除いで︑転官︑職所︑停職︑免職または減俸されない. とし︐︵七三条︶︑裁判官の身分を保証するとともに︑裁判官となるには︑一定の試験に合格し︑司法官試補として三. 年間裁判所および検事局で実務を修習し︑かつ︑試験に及第しなければならないとし︑裁判官となる者の資格要件. を明らかにしている︵五七︑五八条︶・これらは︑しかし︑いずれも一八八六年︵明治一九年︶の裁判所官制において認. められたところで実質的には変りはない︒ただ︑それをより詳細に規定した点で︑それに一歩進めたものというこ. とができよう︒なお裁判所構成法は︑大審院判事︑控訴院判事となるには︑一定年限以上︑判検事︑弁護士等の職を. 務めなければならないものとしている︵六九︑七〇条︶︒これはドイッ法にもないわが国独自の規定であるが︑条約改. 正を前にして︑行政官が上級裁判所の裁判宮として︑司法権へ介入することのないことを保証する規定として意味. 二八九. をもつていた︒なお︑裁判所構成法は︑司法行政につき︑司法大臣の大巾な監督権を認めたが︑それは裁判上執務 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

(30) 論. 説︵中村英︶. 二九〇. する判事の裁判権に影響を及ぼし︑またこれを制限することがないことを規定し︵一四三条︶︑司法権の独立に大き な考慮を払つている︒. 裁判所構成法はその後約六〇年にわたり︑わが国裁判所の組織を規制したもので︑部分的改正が数回行われてい るが︑その基本規定は改められなかつた︒. ︵四︶なお︑ここで弁護士法制についても簡単にふれておくことが適当であろう︒わが国において弁護士について. はじめて規定が設けられたのは︑一八七二年︵明治五年︶の司法職務定制における代言人職制の規定においてである︒. その後︑翌一八七三年︵明治六年︶の代人規則︵太政官布告一二五号︶を経て︑一八七六年︵明治九年︶の代言人規則︵司. この改正された代言人規則が行われていたのである︒それは︑大体フランス法の系統をひくものと. 法省里号布達︶となり︑これは一八八○年︵明治一三年︶に全面的に改正されている︵司法省甲一号布達﹀︒裁判所構成 ヤ. 法施行当時は いつてよいであろう︒. 裁判所構成法が施行された後は︑それとの関係においても新たに弁護士制度を規定する必要が生じ︑政府はその. 草案を作成し︑一八九〇年︵明治壬二年︶の第一回帝国議会に提出した︒しかし︑この草案は議会を通過するに至ら. ず︑その後︑若干訂正された上︑一八九二年︵明治二五年︶第四回帝国議会を通過︑一八九三年︵明治三ハ年︶三月四. 日法律第七号として弁護士法が公布︑同年五月一日より施行されるに至つた︒. 弁護士法は︑時の司法次官箕作麟祥らにより起草されたものであり︑そこには勿論フランス法の影響がみられる︒. しかし︑フランス法は当事者の弁護人として︑弁護士︵>く8旦と代訴士︵トぎ鼠︶の二本立の制度を認めている.

(31) のに対し︑わが弁護士法はそれをとらず︑かえつて︑ドイツ法と同じくこの両者の機能をあわせもつ﹁弁護士﹂の. 制度をとつたのであり︑この点からは︑基本的にはドイツ法流の弁護士制度によつたということもできる︒要する. に︑立法当局が︑代言人規則以来の経験をもととし︑フランス法にも︑ドイツ法にも盲従せず︑その中から︑わが. 司法制度の一翼をになう弁護士制度としてふさわしいものを取捨撰択して立法したのが︑この弁護士法だというこ. とができる︒かくして︑この弁護士法にも︑わが国の絶対主義的司法の性格が反映しているのは勿論である︒ ﹁弁. 護士会ハ所属地方裁判所検事正ノ監督ヲ受ヶ﹂︵一九条︶るものとされるなど︑弁護士会の自律権は司法大臣︑検察官. の監督権の下大きく制約されていた︒弁護士法はその後数次にわたり改正され︑一九三三年︵昭和八年︶には全面的. に改正されたが︑その改正の目標は︑つねにこの自律権の拡張に向けられていたといつてもよい︒. なお弁護士制度における重要な問題として弁護士の資格試験を︑判・検事登用試験と別建としたことをあげるこ. とができる︒これはわが国に在朝︑在野の法曹二元を作り出すことになり︑その後のわが国の司法制度に大きな問 題をなげかけることになつた︒. 三 旧民事訴訟法の制定. 民事訴訟法の法典編纂については︑すでに一八八三年︵明治一六年︶ボアソナードの起草した﹁日本民事訴訟法財. 産差押草案﹂があり︑さらにそれに手を入れたとみられる日本民事訴訟法草案も作成されているが︑それらはつい. 二九一. に成案とならなかつた︒一八八三年︵明治=ハ年︶︑伊藤が欧州における憲法調査を終え帰国し︑憲法をドイッ流に 近代的司 法 制 度 の 成 立 と 外 国 法 の 影 響.

(32) 論. 説︵中村英︶. 二九二. 編纂する方針が決定されて以来︑わが国のドイツ法に対する関心はにわかにたかまり︑民事訴訟法も︑ドイッ法にな. らい編纂することが企図された︒しかし民事訴訟法をドイッ式に編纂するということは︑ただ憲法がドイッ法を模. 範とする乙とに決定したという事情のみによるものとはいえない︒現に民法は一八八○年︵明治一三年︶以来︑民法. 編纂局においてボワソナードを中心としてフランス流の法典を編纂すべく着々と準備を進めていたのであり︵灘肋嘱. 鰍統に○飾礁棚飴ヒ一一一︶︑その関係からは︑訴訟法もフランス法に従うのが適当であつたはずである︒また刑事訴訟法につ. ○餌砿舗勲セ彫︶が行われていたのであつて︑民事訴訟法をドイツ法流に編 いては︑すでにフランス法流の治罪法︵年凱畑政. 纂するのについては︑さらにそれだけの理由が存在しなければならない︒この場合︑ドイッ民事訴訟法と︑フラン. ス民事訴訟法との比較考量があり︑政府識者が︑ドイッ流の民事訴訟法を優秀と判断したということが︑決定的要. 素として働いていたとみるのが妥当であろう︒すなわち︑ドイツの民事訴訟法は︑一八七七年︵明治一〇年︶に制定. されたばかりの当時ヨーロツパ最新の訴訟法であり︑最も進歩した訴訟制度を具備していた︒これに対し︑フラン. その時代の社会︑経済事情を. スの民事訴訟法は︑近代的民事訴訟法の最初のものであり︑その後他の近代諸国家の模範となつたすぐれたもので あつたが︑なにぶん一九世紀初頭に制定されたものであり︵灼彫膜噺厳聯松茄赫れ︶︑. 背景とするものであつて︑最新のドイッ法と比較すれば︑もはや時代遅れのものになつていた︒またその規定の仕. 方も︑具体的事件を中心として規定するアクチオネン.ジステムの実体法に対応して︑各個別の事件につき各別の. 訴訟手続が対応するという傾向を示し︑訴訟の手続が複雑であつて︑ドイッの民事訴訟法が体系的に整備されてい. るのに比較すれば︑初めて洋式の訴訟法に接する者にとつて難解であつたということができよう︒.

(33) 以上のような理由が相まつて︑政府をして︑ドイツ法流の民事訴訟法を編纂することを決意せしめたものの如く︑. 一八八四年︵明治一七年︶︑政府はテヒョー︵↓8ぎ毛︶を内閣御雇顧問とし︑これに民事訴訟法の立案を命じた︒. 彼は同年五月より原案の作成に着手し︑各章毎にこれを邦訳し︑大審院長玉乃世履を委員長とする訴訟法予備会議. の議に付し︑一八八五年︵明治一八年︶二月一応その草案を脱稿したとのことである︒その後︑テヒョー及び予備会. ︵民事法研究二巻︶参照︒. 議はさらにその早案の修正に従事した上︑一八八六年︵明治一九年︶六月確定案を得た︒テヒヨーは︑その独文草案を司 ︵﹂○︶ 法大臣山田顕義に提出した︒これがいわゆるテヒヨー草案である︒ ︵一〇︶兼子一﹁民事訴訟法の制定﹂. この草案は︑八編八七四条からなつており︑その構成は︑ほぼ一八七七年のドイツ民事訴訟法のそれに従つてい. る︒テヒヨーは︑しかし︑全面的にドイツ民事訴訟法に依拠したのではなく︑その他︑プロシヤ法︑一八六七年の. オーストリー訴訟法草案︑﹈八六八年ヴユルテンベルク訴訟法を斜酌し︑また︑英仏の法理でも︑すでに日本の実 務にとり入れられたもののうち相当のものは︑これを採用したといつている︒. テヒヨ輩案簸・モツセその禦ら意躍禦提出裏てお緩裏ら薯ととしてその讐た法典馨会. において審議された︒司法大臣山田顕義を委員長とする法典調査会は︑一八八七年︵明治二〇年︶二一月より翌年一. 〇月まで五三回の会議を開き民事訴訟法の成案をえた︒これが殆んどそのままいわゆる旧民事訴訟法となつている︒. この民事訴訟法は︑一八九〇年︵明治二三年︶四月二一日︑法律第二九号として︑民法財産編︑同財産取得編︑同債権担. 二九三. 保編︑同証拠編︑商法など他の一連の法律とともに公布され︑翌年一月一日から施行されることになつた︒ 近代的司法制度の成立と外国法の影響.

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