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結果的加重犯の考察 ―「冒険犯」概念の提唱―

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早稲田大学博士論文概要書

結果的加重犯の考察

―「冒険犯」概念の提唱―

北 尾 仁 宏

(2)

「結果的加重犯の考察 ―『冒険犯』概念の提唱― 」概要

本稿は、結果的加重犯論の中でも特に伝統的争点である「重大結果に対する過失の要否」

に焦点を当て、客観面については危険性説的発想を実行行為論として取り込みつつ、主観面 については故意・過失の中間的な第三責任形式「冒険」を、特に「過失」から分離すること を通じて、過失不要説・必要説間の止揚を図り、結果的加重犯の処罰範囲の適正な画定・確 定方法の導出を志向する。以下、本稿の章立てに従い、各章の概要を示す。

序 章

ユニークな、あるいは変則形態の結果的加重犯とされながらも、危険運転致死傷罪は、既 に我が国の司法に定着したといえる。しかし、その適用要件・適用範囲については常に疑問 や非難が投げかけられ続けて来た。重大な交通事故が世論の耳目を集めるたびに、危険運転 致死傷罪自体の拡大や過失運転致死傷罪の重罰化が叫ばれる現状に鑑みれば、危険運転致 死傷罪自体の理論的検討の深化と、とりわけ同罪と過失運転致死傷罪との区別の明確化が 求められるが、そのための礎石として、まずは結果的加重犯自体に対する総論的検討が要請 される。

結果的加重犯論では、特に重大結果に係る過失を基本犯の故意とは別個に要求しなけれ ばならないのかという点が、責任原理との関係で中心的な対立点とされてきた。もっとも、

具体的な事案の結論に関しては、過失不要説と過失必要説との間で、ほとんど実質的差異が 見られないことから、別の対立軸や問題点が背後に存在することが予想される。

結果的加重犯をめぐる先行研究は、客観面(不法・違法性)の基礎付けに貢献しており、

所謂「危険性説」(「基本となる行為に内在するあらかじめ定められた類型的な危険が結果に 実現したものが結果的加重犯である」とする考え方)の発想は、既に我が国でも通説化しつ つあると言える。危険性説の立場からは、結果的加重犯それ自体が、故意犯や過失犯に対し て客観面で独自性を有することとなる。

他方、主観面については、先行研究も含め、過失必要説に立とうが立つまいが、専ら「故 意」「過失」概念を用いた説明が試みられてきた。しかし、この説明方法は、客観面で主張 した結果的加重犯の独自性を十分に反映できるものでない。また、「過失」はあくまでも軽 い責任形式である以上、結果的加重犯独自の責任の重さの説明にとって有用とも言い難い。

したがって、従来の過失必要説とはまた違ったかたちで、結果的加重犯の重い責任を積極 的に理由づけることができ、かつその重い責任の限界も画すことが可能な帰責の在り方が 求められるのである。

本稿は、五章構成とし、第一章・第二章で日独英の判例・学説を概観した上で、第三章で 結果的加重犯の客観面(特に危険性説・直接性説)を検証し、第四章・第五章で、その客観 面に対応すべき適切な主観的限定方法を導出する。なお、終章で若干の補論を施す。

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第一章 結果的加重犯と傷害概念をめぐる我が国の判例法理

本章では、具体的事例に対する我が国の判例・学説間の事実上の一致に鑑み、両者の間の 真の対立点(あるいは、そうした対立点の存否自体)を明らかにする目的で、裁判所の思考 方法、具体的には、イ.客観面の帰属範囲の確定方法と、ロ.結果的加重犯の(主観的な)

帰責方法を、明らかにする必要がある。

その際、①結果的加重犯の成立範囲の判断方法(イおよびロ)が如何なるものなのかとい う点、②結果的加重犯に問われる行為者に要求される主観の内容(主としてロ)が如何なる ものなのか、具体的には、それで必要十分とされる「基本犯の故意」の内容が何かという点、

③第二点とは逆に、結果的加重犯に問われる行為者に要求しない主観の内容が如何なるも のなのか、具体的には、通説的理解によると判例が不要としてきたとされる「過失」の内実 が一体何なのかという点、以上3点を分析の視座とする。

分析対象は、大審院(含:台湾総督府裁判所)期から(現在の)最高裁判所期にわたる機 関において、結果的加重犯の成否に関して行為者の「予見」や「過失」が問題とされた代表 的な14の事案と、(特に傷害概念の範囲を明らかにすることに繋がることから)「同時傷害 の特例」が問題とされた三つの事案、合計 17 事案及びそれらに関連する諸裁判例である。

本章の分析の結果として、裁判所の立場は以下の4点に集約されることが分かる。

第一に、結果的加重犯の成立範囲は、行為と結果との間に因果関係が肯定される範囲であ る。ここにいう因果関係は純粋な条件関係というよりも、むしろ客観的相当因果関係や危険 の創出・現実化公式として見るべきものである。

第二に、結果的加重犯の本質は基本犯ではなくむしろ重大結果の方に存在し、同種結果を 中心とした故意犯・過失犯の規範的中間類型として結果的加重犯が事実上機能している。

第三に、結果的加重犯として問責される行為には、重大結果の客観的予見可能性(重大結 果発生の危険性)が存在しなければならない。他方、主観面については「基本犯の故意」で 足りる。この「基本犯の故意」の内実は事案次第であって、明らかではない。

第四に、結果的加重犯として問責される行為者に「結果の予見」は不要である。判例の中 には「結果の予見可能性」まで不要であるとするものも無くはないが、大半は敢えて「予見」

不要という表現に止めている(この点に、判例と学説のすれ違いが存在する)。なお、主観 的予見可能性を基礎付ける、行為者が具体的に認識した(より正確には、認識していたはず の)事情は上述した客観的予見可能性の前提事実として事実上取り込まれていると考えら れる。たしかに、そのように取り込まれた行為者主観は一定程度抽象化されるのは避けられ ないが、それでも全く行為者主観が考慮されていないわけでもない。

第二章 結果的加重犯と責任をめぐる議論の概況

第一章での検討結果から、裁判所は建前では古い時代の純粋な過失不要説を採用してい るかのような表現を用いつつ、本音ともいうべき部分では相当以前から、そうした単純な過 失不要説に対して数々の修正を施してきたことと言える。しかし、この「建前」と「本音」

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との乖離が、理論的にも実務的にも克服されるべき不明確さをもたらしている。

そこで、本章では、この不明確さを解消する手掛かりを得る目的で、我が国の学説と、我 が国が累次参照してきたドイツの判例・学説、さらにはそのドイツの状況をも相対化する目 的で英国(イングランド及びウェールズ)の判例・学説を(論証の都合、独英日の順で)概 観する。

第一節では、先行研究により度々紹介・検討されてきた「危険性説」や「直接性説」の母 国たるドイツの判例・学説に検討を加える。

危険性説の祖とされる D. Oehler は、「結果的加重犯は、その基本犯とされる行為につい て、重大結果発生との関係で特別に類型的な危険(besonders typische Gefahr)が認められる 点に特徴がある」とする基本思想から出発し、①傷害の故意の中に、同時に生命を危殆化す る故意/(少なくとも)生命の危殆化を義務に反して知らずにおくということが含まれてい るということに、まさに犯罪の本質がある、②主観的目的はともかくとして、基本犯の実行 と重い結果の発生とが、「客観的目的可能性(objektive Bezweckbarkeit)」(=「人的支配操縦 の可能性」)によって架橋される場合だけが結果的加重犯として評価される、③客観的目的 可能性と因果関係の相当性とは相異なる(構成要件)メルクマールである、という三本柱を 打ち立てた。

この基本思想と①とが相俟って、「結果的加重犯の基本犯行為には、その性質として、最 終結果との関係で定まる類型的な危険性がそもそも含まれている必要があり、このことこ そが結果的加重犯を独自の犯罪類型として特徴付ける(結果的加重犯独自の不法内容を見 出す)」とする考え方、すなわち危険性説が誕生した。ドイツの支配的見解は、この「類型 的危険性」の実現過程の有無を「直接性」の有無として把握する(直接性説)。

以上を前提にして、現在のドイツの裁判所が、この「直接性」要件を如何に捉えているか を確認する目的で、幾つかの代表的な事案を事例群ごとに検討する。このうち、無理な逃走 を図った被害者が逃走過程で死亡した事例群から、良く言えば柔軟に、悪く言えば場当たり 的に「直接性」要件が用いられていることが分かり、打撃手段としてピストルを用いたとこ ろ暴発した結果被害者が死亡した事例群から、現在では基本犯結果の危険性よりも基本犯 行為の危険性の方が重視されていることが分かり、また行為自体は「軽微」だが特殊事情と 相俟って被害者の死亡結果が発生した事例群から、もはや「直接性」の有無よりも行為者に おける一定状況に対する認識の有無の方が決定的な役割を果たしていることが分かる。結 局、食塩事件(Kochsalz-Fall)からも明らかなように、現在のドイツの裁判所は、結果的加 重犯の成否を「直接性」の有無ではなく「生活経験上蓋然的か否か」で決している。また、

食塩事件判決から明らかになるもう一つの重要なこととして、StGB § 18にいう「(少なくと も)過失」は過失犯の過失と異なるところはないというものがある。それゆえ、ある結果に つき結果的加重犯が否定された場合、その結果に対する過失犯も成立しない。

こうした裁判所の傾向に対し、学説の支配的見解はなおも「直接性」を必要と解するが、

その内実に対する理解は百家争鳴と言えよう。特に傷害致死(StGB § 227: Körperverletzung

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mit Todes Folge)を念頭に置きつつ大別すると、基本犯行為が致命的であればよいとする「致 命的行為説」、基本犯結果(中間結果たる傷害結果)が致命的でなければならないとする「致 命的結果説」、中間結果が最終結果の「一要因・一コマ」であることを求める「通過因果関 係説」(致命的行為説と致命的結果説との折衷説)、そして客観的Leichtfertigkeitを求める「重 過失説」である。これら広義の直接性説に対し、危険性説・直接性説に否定的で、結局は意 図しない結果の発生であるから過失犯同様に考えればよいとする「過失の保護目的連関援 用説」も存在する。もっとも、これらいずれの見解も(危険性説の採否に関わらず)基本犯 につき「重大結果発生の危険性」の存在を要求する点では一致を見ている。

こうした客観面の多様さに比し、主観面については「少なくとも過失」を求める StGB § 18 の存在ゆえに現在のドイツの判例・学説は、我が国で言うところの過失必要説で統一さ れている。ただし、当該既定の制定前は危険性説的発想を基にした過失不要説(K. Engisch, Oehler)も存在しており、危険性説の採否と過失の要否とは必ずしも論理必然的ではない。

また、過失を要求するとしても、そこにいう過失の内実を具体的に検討したものは少なく、

僅かにR. MaurachやM. Maiwaldらが重過失(Leichtfertigkeit)と関連させながら論じた程度 である。しかも、最も謙抑的で妥当と解される J. Wolter の見解ですら内実は漠として定か ではない。こうした中、K. A. Hallのように、過失に属するが規範的に故意犯的処罰が許さ れる領域としてLeichtfertigkeitを位置付ける見解は、結果的加重犯の責任の特殊性や故意・

過失との中間領域的性格を事実上肯定するものとして傾聴に値するが、行状責任に至りか ねないなど問題点も少なくない。

以上を踏まえると、主観面については、「半自動的に認定されることはなく、且つ一定の 危険性(重大結果発生の危険性)を基軸とする結果的加重犯の客観面の投影としても十分で ある主観的要件」が必要であることが分かる。

第二節では、英国のunlawful act manslaughter(UAM)とrecklessnessをめぐる理論と実務 を検討することで、大陸法(日独)の結果的加重犯を相対化しつつ、結果的加重犯の成立範 囲の限定方法に対する手掛かりを得る。

前提として確認すると、英法の intention は(未必の故意も含めて)我が国の「故意」、

negligenceは我が国の「過失」と定義上何ら異なるところは無い。その上で、recklessnessを

検証した結果、英法のrecklessnessは、我が国の概念との関係で言えば専ら「過失」に属す るものであるが、negligenceとの分水嶺に、事態の危険性を増大させる方向への意思決定(横 着、放置、黙認など)、すなわち、意図的なリスク引受け意思=「冒険の意思」とでも呼ぶ べきものが存在することが明らかになる。なお、recklessness は認識ある過失のみならず認 識なき過失の領域にも存在し得る。

その上で、英法は、「行為者が何らかの違法な行為を(意図的に)遂行する際に、行為者 の想定を超えた死亡結果を惹起した場合」を(出発点こそ違うもの、最終的には)結果的加 重犯と類似した思考方法であるUAMとして処理する。UAMは、基礎に(死亡結果自体に は故意は及んでいない意図的な)unlawful act を置き、そこから因果的な死亡結果が発生し

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たことを問題とする点で、結果的加重犯と構造的には同様である。UAMの成立には三つの 要件が必要とされ、それぞれ①unlawful 要件、②dangerous 要件、そして③因果関係の存在 である。このうち、①unlawful要件に基づき、基本犯に当たるunlawful act(なお、このunlawful actは「実際上の身体的侵害(actual bodily harm)」を生じさせる性質を備えていなければな らない)に係る「故意(intention)」が必要とされることに加えて、②dangerous要件に基づ き、行為者自身における死亡結果発生に係る危険性を基礎付ける事情に対する認識が必要 とされ、両者が相俟って、英法におけるUAMは、事実上recklessnessが要求される犯罪と 化している。

すなわち、英法も、客観面については、日独同様「重大結果発生の危険性」に着目しなが らも、主観面については、そうした危険性を基礎付ける事情に対する認識と基本犯の故意に 相当するものとを有機的に結合して故意・過失間に存在し、過失よりも一段重い中間的第三 責任形式(recklessness)の問題として把握している点に独自性が見られる。我が国の過失必 要説は、基本犯の故意と重大結果に対する過失(予見可能性)との関係性につき必ずしも説 得的な説明を示せていないが、英法は両者をrecklessnessとして有機的に結合させている点 に参照価値があろう。他方、「冒険の意思」を重視する点で、「意図性」すなわち「敢えてや った」行為である点を重視する過失不要説にも親和的である。ただし、「敢えてやった」と いうためには「分かっていながら」という形容が必要であり、そのために英法は行為状況や リスクに係る検証を自覚的に施しているという点も看過し難い。単に「意図性」を強調する だけでも不十分であるということを、英法は示唆している。

第三節では、我が国の学説を、便宜的ではあるが伝統的な分類に従って、過失不要説と必 要説とに分けてそれぞれ検討する。もっとも、結果的加重犯をめぐっては、少なく見積もっ ても①危険性説(的な発想)を結果的加重犯固有のものとして積極的に採用するか否か、② 直接性その他の限定原理が通常の因果的限定の他に必要か否か、③(②と表裏の関係ではあ るが)通常の因果的限定に結果的加重犯成立範囲の適切な限定という機能を認め得るか否 か、④行為者の主観的事情を過失として扱うか否か、といった種々の争点が相互に関連しな がらも個別に存在しており、過失の要否をめぐる争いは、争点④のさらにそのまた一部に過 ぎない。

検討の結果、過失不要説・必要説双方ともに「基本犯の実行行為」とその故意(すなわち 当該基本犯の故意)を前提としており、この点に関する限り、両説間の対立は基本的に存在 しないことが、まず明らかになる。その上で、危険性説的発想を採らず、結果的加重犯は「結 果責任の残滓」であるとの前提に立つ見解は、過失不要説は言うに及ばす、過失必要説(「複 合形態説」)もまた、責任原理上の問題を抱える。前者は責任原理を無視することに繋がり、

後者は責任原理を軽視・道具視することに繋がるからである。

危険性説的発想を受容した論者の間にもなお、過失の要否をめぐる対立は存在するが、こ の場合の過失不要説は一般の因果的限定の効果と客観的予見可能性(重大結果発生の危険 性)の存在を過度に重視している疑いがあり、他方、過失必要説も、特に基本犯の故意と重

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大結果に対する過失の結合方法や、「結果的加重犯の過失」と「過失犯の過失」との相違を 明らかにできているわけではないという難点がある。

もっとも、いずれにしても具体的事例に関する結論で差異が生じることが稀であること をも踏まえれば、各見解は、「結果的加重犯の責任」や「結果的加重犯の帰責方法」が何か 独自性を有していることを暗に感じとってはいるものの、如何せん扱いに困った結果、旧来 の「故意」や「過失」といった単語に引きつけて当座を凌いでいるという点で基本的に共通 しているとも言える。

第三章 結果的加重犯の客観的構造・限定方法の再検討

前章までの検討を通して、結果的加重犯の成立範囲を適切に画そうと考えた場合、どのよ うな出発点に立ち、どのような見解を採ろうとも、結局は客観面については「重大結果発生 の危険性」に着目しつつ、主観面についてはその危険性を基礎付ける事情に対する行為者の 認識を何らかのかたちでどこかに(例えば過失として、あるいは因果関係論として)取り込 む必要があるとの結論に立ち至ることは明らかになった。

そこで、本章では、主観的限定方法に係る検討に先駆けて、客観的限定方法の意義と限界 とを明らかにする。

結果的加重犯の客観的構造については、我が国でも危険性説が、重大結果に係る過失の要 否をめぐる対立に関わらず、既に通説化しつつある。しかし、この危険性説が、我が国の従 来の犯罪論体系との関係で、どのような位置付けにあり、かつどのような意義を有するのか という考察は従来あまりなされてこなかった。それゆえに、危険性説はしばしば結果的加重 犯論の領域にのみ関わる特殊な理論と見られてきた節がある。結果的加重犯の(不法の)固 有性・特殊性を基礎付けると言う文脈で危険性説が論じられてきたという経緯に照らせば、

この事態は無理からぬことではあるが、他方で、我が国では必要以上に危険性説の「特殊性」

が強調され過ぎてしまっている。また、かように過度に強調された危険性説が、しばしば直 接性説等の因果的限定の論拠とされたり、直接性説と同視されたりしている状況に鑑みれ ば、危険性説の位置付けの検証は喫緊の課題である。危険性説の位置付けに変化があれば、

直接性説等の因果的限定の位置付けもまた変化を免れ得ない。

そこで第一節では、危険性説に焦点を当てる。危険性説の本質的趣旨は、「基本犯と重大 結果とが基本犯とされる行為に係る固有で類型的な危険性を軸に一体性(固有の関係、固有 性)を有している」というものであると考えられる。これを現に生じた重大結果の側から見 れば「基本犯行為にその結果へと至りうる類型的な危険性が存在する/存在していた必要 がある」と言える。そうすると、危険性説は、基本犯行為とされる行為に、重大結果発生に 係る実行行為性が必要であると言っているに過ぎないことが分かる。実際、危険性説の祖た

る Oehler は、その論説の中で、被雷することを期待して森に行かせる行為や、墜落を期待

して飛行機に乗せる行為を結果的加重犯から排除し、逆に血友病患者を切りつけた場合な どは結果的加重犯の成立を肯定している。Oehlerのこの結論からも明らかな通り、危険性説

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で結果的加重犯から排斥しようとした事例群は、我が国では実行行為性が存在しないとし て排斥される事例であるし、逆に結果的加重犯の範囲内に含まれた事例群はいずれも実行 行為性自体は肯定され得る事例であった。やはり、危険性説=実行行為論なのである。した がって、危険性説の採否は直接性説等の因果的限定の要否とは無関係であり、論拠たり得な い。

ただし、危険性説は実行行為論に過ぎないといっても、実行行為論自体が「切り札」的で はなくとも重要性を喪失しないのと同様に、危険性説も(過度に重視するわけにもゆくまい が)やはり一定の重要性を維持する(第二節)。

その第一は、結果的加重犯にとって重要なのは、(中間結果たる)基本犯結果に係る実行 行為性ではなく、重大結果に係る実行行為性であるという点である。傷害致死罪であれば、

行為時に問題とされるべきは、負傷に係る実行行為性ではなく、致死に係る実行行為性であ る。したがって、実際上は極めて例外的・限定的な状況下での事案とはなろうが、実行行為 性判断の段階で結果的加重犯としての判断の対象から除外されるべきものも存在し得る。

その第二は、実行行為段階において、重大結果に係る実行行為性を問題とする以上、責任 判断の段階においても、その判断の対象は、基本犯行為+重大結果といった分断された形式 ではなく、結果的加重犯行為と結果的加重犯結果、およびその間の因果関係ということにな るということを明確にできる点である。傷害致死罪であれば、端的・直截にまさに問題とさ れる傷害致死..

行為に関しての責任を問うべきなのである。

このように考えると、結果的加重犯行為としての実行行為性の導出方法がまず問題とな る。また、結果的加重犯行為の責任を端的・直截に問うとなれば従来の「故意」や「過失」

に頼った方法とは必然的に異なるアプローチとならざるを得ない。また、結果的加重犯だけ に(特殊な)因果的限定を課すには、危険性説とは別個に何らかの説得的な論拠が必要とさ れる(第三節)。

そこで第四節では、直接性説を含め、因果的限定の可否・当否を検討する。

因果的限定をめぐっては、一般の因果関係で足りるとする過失不要説も、固有・独自の因 果的限定が必要であるとする諸見解も、一見すると対立しているようだが、実は「(有責性 判断の段階に先んじて)構成要件該当性判断の段階における因果関係にも責任原理上の要 請を充足する機能がある」と捉えている点では出発点において一致している。

しかし、「一般の因果関係判断のみで既に責任原理上の要請を十分果たし得るか」との問 いに対しては、特に故意犯や過失犯の場合に故意・過失を検討せずに済ませることができな いことからも明らかなように、「果たし得ない」との回答を与えるより他ない。また、「結果 的加重犯の場合は固有・独自の因果的限定に責任原理上の要請を果たさせるのが妥当と考 えられるのか」との問いに対しても、そのような限定は責任原理との関係で本筋とは言えず、

強引に行為者主観を持ち込めば致命的結果説に関して生ずるような問題を生じ、かつ説得 的な論拠もなければ必要性もないことから、やはり「妥当ではない」と答えるより他ない。

結局、危険性説による限定を神聖視することはできず、また因果的限定にも無理がある以

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上、責任原理上の要請を充足するためには、行為者主観を用いた(主観的)限定を如何に位 置付けて理論化するかが重要である(第五節)。

本稿は、責任原理上の要請を充足することが主眼である以上は、素直に有責性の問題とし て行為者主観を取り扱うという方法が妥当であると考えるが、その際、危険性説的発想を前 提とした客観面と対応するかたちでの検討が求められる。

第四章 第三責任形式のための予備的考察 第一章から第三章までの検討から、次のように言える。

危険性説的発想を取り入れて、結果的加重犯でも重大結果との関係で直截に実行行為性 を問題とする以上、(死亡なら死亡という)同種結果を同じく問題とする故意犯・過失犯と の対比において、結果的加重犯に対応する責任としても、やはり故意・過失と並び立つかた ちで結果的加重犯独自のものが想起されなければならない。従来の学説のように「故意」や

「過失」に引きつけるのではなく、むしろ、判例のように「故意」と「過失」の中間に位置 し、また中間的な重さを有するような(さながら英国の recklessness のような)第三の責任 として、結果的加重犯の責任を観念し、その独自領域性を新たに認めることが可能であり、

またそれこそが妥当である。

そこで、本章ではそうした中間的第三責任形式の素地と独自性を検討した上で、基本コン セプトを導出する。

第一節における検討から、従来主張されてきた「故意」と「過失」との間に、第三責任形 式として、結果的加重犯で問題とされる責任を差し挟むことには必要十分性が存在するこ とが明らかになる。従来の議論は、結果的加重犯で問題とされる責任を感知しながらも無理 に「故意」や「過失」の範疇で論じてきた点に問題があった。したがって、結果的加重犯に 関しては独自の範疇として第三責任形式の存在を正面から肯定することこそが、妥当な解 決方法である。

特に「過失」の範疇を拡大させないためにも、結果的加重犯で問題とされる責任と「過失」

とは別個のものとして検討されなければならない(第二節)。結果的加重犯で問題とされる 責任を、例えば独自の性質は有しているが広い意味では「過失」の一種であるなどとして、

あくまで「過失」という表現に拘泥した定義を続ければ、反って「過失」概念の不当な拡大 を許すことにもなりかねない。

第三責任形式として結果的加重犯で問題とされる責任は、客観的構成要件要素をその認 識(可能性)の対象とするという点で故意・過失と共通であり、「最終結果発生の危険性に 関するリスク要素が行為者の眼前に存在し、現に(その幾つかを)認識していたにもかかわ らず、所期の侵害結果、又はその状況下では肯定されえない目的を遂げるため、そうした要 素の存在を意に介さず、敢えてリスクを引き受けて行為に出たところ、法益を危殆化し、結 局は結果を発生させてしまった」点を非難する点に独自性を有する(第三節)。「過失」と第 三責任形式との間には「敢えてリスクを引き受けて事態を危険性と結び付ける意思」が、第

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三責任形式と「故意」との間には「結果をわがものとする意思」が、非難の質を左右する分 水嶺に存在する。法益尊重意思の全部的欠如を非難する故意、法益尊重意思の弛緩を非難す る過失に対して、結果的加重犯で問題とされる責任(=第三責任形式)は、法益尊重意思の 部分的欠如を非難するものである。

第五章 第三責任形式の実像

前章で第三責任形式の基本構想は示されたことから、本章では、例えば「リスク」と「リ スク要素」との関係性、「リスク要素」の正体、第三責任形式に該当するか否かを検討する ための具体的要件等、第三責任形式の実像の明確化を試みる。本章における検討では特に、

「過失」との具体的相違点が明らかにされなければならない。

第一節では、(特に前世紀の)ドイツ刑法学において細々ながら間歇的に現れた中間的第 三責任形式の試み(A. Löffler、G. Arzt、T. Weigendら)とその挫折に焦点を当て、特にその 蹉跌の原因を探ることで、第三責任形式の具体的要件導出にとっての注意点・反省点を明ら かにする。反省点としては、第一に、認識対象たる「危険性」「可能性」「蓋然性」「リスク」

等の諸概念が十分に整理されないまま用いられて不明確であった点、第二に、危険性やリス クと確率とを混同した点、第三に、論者自身の中でも危険性が一定しなかった点、第四に、

未必の故意までをも第三責任形式に含めてしまった点の4点が挙げられる。逆に言えば、こ れらの諸点を解決しさえすれば、適切な第三責任形式が導かれる。

そこで第二節では、特にリスク学の知見を取り入れて、本稿にとって必要な限りで危険概 念の再整理・精緻化を試みる。これにより、上記第一乃至第三の反省点が克服される。本説 における検討の結果、「リスク」を判断する際に着目すべき項目は、①一定の状況・条件、

②特定の損害、③損害発生可能性、④危険有害性、⑤脆弱性の5点であることが明らかとな り、これを特に結果的加重犯の場面に当てはめると、①は「(重大結果との関係で考慮され る)一定の行為状況(四囲の状況)」、②は「重大結果」、③は「因果関係(相当性)」、④は

「(重大結果を前提とした)実行行為自体が有する抽象的危険性」、⑤は「(打撃部位・被害 者の年齢、素因、既往歴などといった)被害者側に係る事情」を指すと考えられる。これら

①乃至⑤の各項目を基礎付ける事情が、リスクを構成する事実的要素=リスク要素である。

その上で、(第三責任形式において(も))行為者にとっては「リスク要素」に係る認識が 問題とされる。「リスク」概念自体が、定義上、「特定の結果」を前提としたものである以上、

リスク要素の認識を要求すれば、結果についても一定の主観を要求していることになる。も っとも、このような意味におけるリスク要素の認識は、従来刑法学で過失犯に関して「(主 観的)予見可能性」と呼んでいたものと変わらない。その限りで、第三責任形式も過失と同 じ「リスク要素の認識」を問題としているのではあるが、過失犯では「注意義務違反」に非 難の本質があるのに対し、第三責任形式の本質は、Weigendも指摘の通り、そうした「リス ク要素の認識」があったにも拘らず、それを「分かっていながら」「敢えて」行為に出(て、

案の定結果を発生させてしまっ)たことに対する非難にある。

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以上の検討を踏まえ、本稿は、第三責任形式の成立条件を以下の 3 要件に纏める(第三 節)。第一に、「リスク要素の認識があること」(結果の予見可能性)、第二に、「リスキー(冒 険的)な状況であると分かっていながら、敢えて行為に出ると言う選択をしたこと」(敢行 選択)、第三に「未必的にすら結果に対して故意がないこと」、である。

特に過失犯との分水嶺において、(許されざる)意図的な冒険(risk-taking)であるか否か という観点が決定的な役割を果たすことから、本稿は、この第三責任形式を「冒険」と呼称 する。したがって、結果的加重犯は、本稿の立場からは、故意犯・過失犯と並ぶ「冒険犯」

として位置付けられる。

終 章

かくして、中間的第三責任形式たる「冒険」や「冒険犯」概念が導出されたが、何点か補 足すべき事項、他日のさらなる検討を要する事項も存在する。

補足事項は、次の 4 点である。第一に、「冒険」の実定法上の根拠に関する点であるが、

これは刑法38条1項ただし書に求められると考えられる。第二に、「基本犯」の取扱いに関 する点であるが、本稿のように考えたとしても、「基本犯」概念を維持した方が、例えば英 法のUAMよりも処罰範囲の明確性が担保されることから、「基本犯」概念には一定の意義 をなおも認めることができる。第三に、「冒険」の射程に関する点であるが、①リスク要素 の認識、②敢行選択、③未必の故意不存在という各要件は、あらゆる結果的加重犯に関して 適用可能であると考える。第四に、「未遂」に関する点であるが、本稿のように考えた場合、

強盗致死傷罪(刑法240条)の未遂(同243条)の成立範囲(だけ)は必然的に拡大するこ ととなる。

残された課題は、次の3点である。第一に「共犯」の問題であり、第二に「刑事訴訟法と の関係」に係る問題(特に「罪となるべき事実」の記載方法や訴因変更等)であり、第三に、

「冒険」概念が結果的加重犯以外の分野(例えば「違法性の錯誤」)にも及ぶか否かという 意味での「射程」の問題である。

本稿は総論的検討のみで、各論的検討には殆ど触れず終いであり、上述した「未遂」の点 を除けば判例の結論を大きく変えるものでもない。それでも、「重大結果に係る過失の要否」

という伝統的争点に対して、「冒険」という第三の途による止揚が図られたことに、本稿の 第一義的成果を見出すことができる。「冒険」概念であれば実務側も受容可能であろうし、

一度実務が「冒険」を受容してさえくれれば、「責任原理上の要請を満たせ」という学説側 の要求も正面から満たされる。被告人にとっても「冒険」の3要件というかたちで争点が明 確化され利益となる。また、「冒険犯」概念の提唱により、従来「故意ではない」ことを理 由にいわば何となく「過失」と呼ばれてきた他の諸領域に対して、何らかの再考を迫ること になれば、独り結果的加重犯論のみならず、責任論、延いては刑法学全般(例えば、未遂犯 論や共犯論)に対しても、新たな視点や見解をもたらす契機となる。そのような契機として の機能が本稿にあるならば、それもまた本稿の成果といえよう。

参照

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