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東 アジア工業化の起点

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東 アジア工業化の起点

―堀和生氏の著作をめぐって―

小 林 英 夫

The Start Point of East Asia Industrialization

̶ Focusing of Professor Hori Kazuo s Article ̶

Hideo Kobayashi

This paper is arguing how to consider the social structure, continuity as well as discontinuity of East Asian economic development including Japan and its former colonies such as South Korea or Taiwan. I insist on the aspect of discontinuity in this area, but Professor Kazuo Hori highlights the continuity in this region. In this paper, I focus on the discontinuity aspect and criticize his recent books.

はじめに

堀和生氏は京都大学経済学部教授として,また朝鮮・韓国経済史の第一人者としてその名はつとに 知られている。いまから16年前のことであるが,筆者は,京都大学経済学部教授の堀氏から朝鮮植 民地支配史研究に関し厳しい批判をいただいた1。しかし,この16年間どう考え続けても堀氏の批 判には承服できないので,非礼を顧みず,あえて氏のご高説に対し反論を述べさせていただく所存で ある。

1 堀氏の小林英夫『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』(御茶の水書房 1975年)への批判は堀和生『朝 鮮経済の史的分析』(有斐閣 1996年)を参照されたい。拙著刊行後21年ぶりの本格的批判で あった。その堀氏の批判への小林の反論は,16年後に出版された小林英夫・李光宰編『朝鮮・

韓国工業化と電気事業』(柘植書房新社 2011年)の「序章」で展開された。したがって,まず は「序章」を参照されたいが,そこで論じつくせなかった追加批判点に関して本稿で論じたい。

ゆえに本稿は,この「序章」の続編と理解して頂ければありがたい。

1. 堀学説の「展開」の軌跡

1.1. 『朝鮮経済の史的分析』(有斐閣 1996年)

拙著『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』(御茶の水書房 1975年)に対する堀和生氏の処女作『朝 鮮経済の史的分析』(有斐閣 1996年)での批判に関する筆者の反批判と堀氏の論理的・実証的問題 点に関しては,すでに拙稿「序章」(小林英夫編著・李光宰著『朝鮮・韓国工業化と電力事業』柘植

早稲田大学アジア太平洋研究科教授

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書房 2011年)で詳述した。したがって,まず,ここでは,「序章」を要約するかたちで,ごく簡単 に堀氏の筆者への批判点と筆者のそれへの反論をおさらいしておこう。

堀氏は次のように主張する。これまでの植民地下の朝鮮史研究は日本帝国主義支配史研究であっ て,朝鮮・韓国史ではなかった。前掲拙著『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』はその典型のひとつで ある。これまでの朝鮮史が支配史にとどまり朝鮮・韓国史に脱皮できなかった最大の理由は,政策研 究主体で,それを重視したためであった。これを克服するためには,政策に代えて「実態」を重視す べきであり,もし「実態」を重視して朝鮮・韓国の発展史を見れば,朝鮮では1930年代に資本・賃 労働の「本源的蓄積」が進み,資本・賃労働関係が容易に逆戻りできない「不可逆点」に達し,その まま躍進を続けるなかで,戦後の韓国資本主義の発展につながっていった,と見るべきだ,というの である。したがって,戦前と戦後は連続したひとつの流れのなかに位置づけるべきだ,と主張する。

小林は,こうした堀氏の朝鮮・韓国経済史の把握の仕方について異議を提示し,前掲『朝鮮・韓国 工業化と電力事業』の「序章」でその批判を展開した。したがって,批判点の詳細は,同上書を参照 願いたいが,行論との関係で,その時の小林の堀氏への批判ポイントを列挙すれば,以下の4点に要 約することが可能だった。

堀氏は1930年代の朝鮮資本主義を分析するといっているが,堀氏が行った日本支配下の朝鮮分 析はあくまで日本資本主義の外地への延長であって,朝鮮資本主義そのものの分析ではない。つ まり,堀氏の行った分析は,日本資本主義の分析であって,朝鮮資本主義のそれではないのであ る。

② ①と関連して,堀氏の論では政策主体が消え去って,誰が政策の推進者なのかが明確ではない。

したがって,戦前の植民地支配と戦後の独立した韓国経済との差異が明確な形でうかびあがって こないのである。つまりは,朝鮮「工業化」に関しては,政策面での検討を著しく軽視しており,

政策分析を軽視した堀氏の理論には「民族」問題への配慮がないか,もしくは著しく希薄である。

③ 堀氏は,政策に代えて「実態」というタームを持ち出す。これは,小林の言い方に従えば「市場」

と言い換えてもいいかもしれない。経済発展を導くものが「市場」なのか,それとも「政策」な のかは,これまでも多くの論争を生んできた。つまり,堀氏はそうした経済学の2つの潮流を考 えた上で,「朝鮮工業化」もしくは「朝鮮経済」を考える際に「実態」面,すなわち「市場」か ら「接近」しなければならないと述べたと推察される。しかし植民地下において,総督府の強権 力(=政策)を考慮しない「市場」などというものが想定できるのか,という素朴な疑問をもつ。

したがって,そこに堀氏が想定する「資本主義成立論」が成り立つのか,と問えば疑問だといわ ざるを得ない。ましてや1930年代から40年代前半にかけて植民地朝鮮は,総督府の統制もし くは戦争という特殊な状況に置かれていた。当然,生産・分配・価格等が統制されていた。した がって,当時の朝鮮にどれだけ「神の見えざる手」によって導かれる「市場」が存在していたの だろうか。

④ 堀氏の「資本主義成立論」の疑問点は,植民地期の「本源的蓄積」をあまりに高く評価している ことである。堀氏は「植民地末期に朝鮮は本源的蓄積が不可逆的な段階にまで進展した社会に なっていた」とした上で,戦争経済で朝鮮経済が破綻しようと戦後の独立が達成されようと朝鮮 戦争があろうとなかろうと,この関係は継続し,戦後の韓国経済躍進の礎となったというのであ

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る。市場万能論の時流に乗った朝鮮史解釈としか言いようがない。しかし筆者は,そうは考えな い。たしかに1930年代には東アジア間の貿易と植民地工業化は進展するが,1940年代の大戦争 で乗り越えることができないような切り立った絶壁に直面し,1930年代の工業化の動きは一頓 挫し,断絶を余儀なくされるのである。堀氏は,この戦争がもたらした断絶の崖,戦後の東アジ ア各国が生んだ政治的独立の変化の重要性を過度に軽視しているのである。この無視を前提に,

堀氏は戦前と戦後を結合させ,1930年代を朝鮮資本主義の「本源的蓄積期」と断定し,その後 は資本主義の「進展期」と位置付けて,戦後の韓国資本主義論を展開するのである。

1.2 『東アジア資本主義史論』I, II(ミネルヴァ書房 20092008年)

1.2.1 『朝鮮経済の史的分析』と『東アジア資本主義史論II『東アジア資本主義史論I』の関連

しかし堀氏は『朝鮮経済の史的分析』に続いて,新たに『東アジア資本主義史論II』(ミネルヴァ 書房 2008年),同『東アジア資本主義史論I』(ミネルヴァ書房 2009年)を上梓した。堀氏は,こ こでタイトルにあるがごとき「東アジア資本主義史論」なるものを提唱するのである。彼は,すでに 処女作『朝鮮経済の史的分析』において「朝鮮・韓国資本主義成立史論」を提起していた。今度は,

それを踏まえて「東アジア資本主義成立史論」を提案したいというのである。堀氏への基本的批判点 は,すでに前掲,小林英夫編著・李光宰著『朝鮮・韓国工業化と電力事業』の序章で終了しており,

『東アジア資本主義史論II』,『東アジア資本主義史論I』に対する批判は,繰り返しになり,屋上屋 を重ねることとなるが,批判は批判として最後までやるのが礼儀なので,蛇足ながら一文したためる こととする。

ところで,堀氏は「東アジア資本主義成立史論」を提唱する契機を次のように述べている。やや長 くなるが引用しよう。

「1990年代半ばに,アジアを発展の論理で捉えようとする画期的な研究潮流が生まれた。『ア ジア交易圏論』と呼ばれるその学説は,19世紀に欧米が進出してくる以前に,アジアにはすで に発達した経済世界が成立しており,この在来的な条件こそがアジア発展の基盤であると主張し た。一国単位ではないアジア各社会の相互関係のなかで,数世紀にわたる発展を捉えようとする 雄大な構想であった。『アジア』の時代に合致する歴史観として脚光を浴び,一挙に主流的な学 説になっていった。私は,スケールの大きなこの学説からおおいに影響を受けた。しかし,満足 できないところもあった。アジアの在来的な条件に大きな意義を認めることに異論はないが,こ の学説にはアジアの発展自体を積極的に説明する論理が欠けていると考えた。アイデアは斬新で あるが,実証手法には問題が多いと思われた。アジアの経済発展を歴史的に研究しようとして,

私が試行錯誤の末にたどり着いた研究方法は,長期経済統計の分析であった。複数の国にまた がっている国家主権や民族にかかわる問題では,歴史の見方が厳しく対立する場合が多い。そこ で,なるべく客観的に把握するために,数量的な資料を可能な限り大量に集めようとつとめた。

その代表は貿易統計である」(堀和生「経済史から東アジア世界をみる」『紅萌』第19号)

堀氏は『朝鮮経済の史的分析』に続いて,『東アジア資本主義史論I』,同『東アジア資本主義史論

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II』を上梓し,新たに「東アジア資本主義史論」なるものを提唱したのだが,この「東アジア資本主 義史論」なるものは,「アジア交易圏論」を基にしていること,このアジア交易圏論は,「アイデアは 斬新であるが,実証手法には問題が多いと思われ」「アジアの発展自体を積極的に説明する論理が欠 けている」ため,これを克服するため「長期経済統計の分析」という手法を導入し,氏の言う「東ア ジア資本主義史論」を創り上げたというのである。

では,その中身を述べてみることとしよう。まず,「東アジア交易圏論」を紹介すると,日本工業 化の兆しを探ろうとした同論は,1500〜1900年における中国を中心にした東アジアにおける貿易の 繁栄こそが日本工業化の兆候だったと主張しているのである。堀氏は,こうした「東アジア交易圏論」

を基に「東アジア資本主義史論」を構築したとする。その際,堀氏は「東アジア交易圏論」の主な「主 語」を中国から日本へと塗り替え,そしてその対象時期の1620世紀を「戦前」に取替え,さらに

「東アジア交易圏論」における「貿易」の言葉の代わりに「分業」という用語を採用することで,「新 理論」,つまりは「東アジア資本主義史論」を創出したのである。

このように見てみると堀氏は「東アジア交易圏論」をアレンジして「東アジア資本主義史論」を構 築したように見える。しかし,これまでの流れを整理すれば,この「東アジア資本主義史論」は,実 は堀氏が『朝鮮経済の史的分析』において展開し,すでに小林英夫・李光宰編『朝鮮・韓国工業化と 電気事業』の「序章」で批判した「朝鮮・韓国資本主義成立史論」となんら変わりがないのである。

前者においては植民地朝鮮における資本・賃労働の「本源的蓄積」が不可逆点に達し,それが戦後の 韓国資本主義発展の起点となったという主張である。それが後者においては,戦前における東アジア の資本・賃労働の「本源的蓄積」が,これまた不可逆点に達して戦後における東アジアの経済発展の 起点となったというわけである。堀氏の「東アジア資本主義史論」は「東アジア交易圏論」をべース に構築したように見える。しかし,これまでの流れを整理すれば,この「東アジア資本主義史論」と

「朝鮮・韓国資本主義成立史論」は,ほぼ同様の論議で,二つの論の違いはただ一つ,前者のスコー プが「東アジア」であったのに対して,後者のそれが「朝鮮・韓国」だということである。つまりは,

「東アジア資本主義史論」は,「朝鮮・韓国資本主義成立史論」の基本的枠組みはそのままにして,そ の対象を「朝鮮・韓国」から「東アジア」へと変えたものでしかないのである。

1.2.2 『東アジア資本主義史論I『東アジア資本主義史論II』の問題点

では,堀氏の『東アジア資本主義史論』にはいかなる問題点が内包しているか。ここで,その問題 点を検討しておくこととしよう。

第1の問題点は,彼がいう「東アジア資本主義」とは一体何なのか,という点である。堀氏は言う。

「日本帝国主義は,1945815日日本の敗戦によって解体したが,それと資本主義の崩壊や消滅 は別の問題である。確かに,東アジア資本主義は日本経済を核として物資,資金,労働力や技術が循 環する中央集権的な『円環構造』であったので,日本帝国の解体は旧植民地社会の再生産に深刻な打 撃を与えた。しかし,ひとたび資本主義の本源的蓄積が始まった社会が,外的条件の変化によってそ のシステムが発展するか消滅するかは,理論的な検証ではなくひとえに実証によって検証されるべき 問題である」(前掲『東アジア資本主義史論I302303頁)

この記述から判断できるように,堀氏の「資本主義」とは「本源的蓄積」に他ならない。そして,

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堀氏の論理からすれば,これがひとたび始まれば逆行することはなく,消滅するか,進行するかしか ないというのである。しかし,この大前提が間違っている。1930年代に萌芽的に見られた東アジア 工業化の流れは,1941年から45年までのアジア太平洋戦争の勃発と混乱,戦後の東アジア及び東南 アジア各国での独立に象徴される政治的激変を越えることができたのか,一言で言えば1940年代の

「アジアの崖」の断絶を超えることができたのか,評者のこれまでの研究によれば,ここでいったん 切れて新しい舞台が展開されていったのである。堀氏の最大の問題点は,1940年代のこの激変を過 小評価している点にある。堀氏が戦時期の東アジア工業化を異常に高く評価するなかにそれは象徴 的に現れている。「ひとたび資本主義の本源的蓄積が始まった<東アジア―引用者注>社会が,外的 条件の変化によってそのシステムが発展するか消滅するかは,理論的な検証ではなくひとえに実証に よって検証されるべき問題である」という言葉には,何らの実証性裏付けもない。

これと関連した第2の問題点は,堀氏の再生産論の理解である。この点に関して堀氏は,以下のよ うに述べている。「軍需に直結した製品等は衰退していくが,生活に直結する大衆消費物資は……{中 略}……さらに発展していた」「このような業種ごとに発展と衰退を総合的に評価するために,全体の 工業・工場労働者数を見てみると……{中略}……韓国は……{中略}……50年代半ばには回復し,そ の後は増加をつづけていた」(同上書331頁)「本章では,植民地期に資本主義的生産様式が支配的に なっていたところの両社会{台湾・朝鮮―引用者}が,植民地から解放された後に再生産のメカニズ ムをどう展開していったのかを,主要なマクロ的指標で明らかにしてきた」(同上書,337頁)

堀氏は,本源的蓄積は後戻りしない不可逆点に達した,朝鮮資本主義は「帰れざる橋」を渡ったと

「判断」し,あとは資本主義の再生産軌道がどう変化したかを工場数と工場労働者推移でみていくの だという。再生産論という極度に抽象化された理論をいきなり現実の東アジアの経済統計データーで

「検証」し,そしてその増減で軌道が確立したか否かを検証する,というのは,ひどく乱暴な議論だし,

本源的蓄積は後戻りしないという前提も,東アジア世界で証明されているという話は聞いたことがな い。つまりは,堀氏は,「本源的蓄積」を恣意的に東アジア地域に拡大して解釈し,ひたすら統計デー ターの整理へと猛進するのである。

第3の問題点は,堀氏の「大東亜共栄圏」の把握如何である。はじめに筆者の「大東亜共栄圏」把 握を紹介しておく。結論を先に述べれば,「大東亜共栄圏」は,東アジアの資本主義化にはほとんど 寄与しなかった。1930年代に萌芽的に表れていた動きを戦争の拡大のなかで逆に退歩させたのであ る。この点では,杉原薫の指摘は示唆的である。つまり,日本が「世界システムのなかで独自の発展 経路を追及するためには,国際金融,軍事産業,資源開発をめぐるグローバルな経済の動きを追うな かに円ブロックを的確に位置づける能力が決定的に重要であった。日本に欠如していたのは,決して 軍事的政治的な判断力だけでなく,その点についての深い洞察であった」(『岩波講座 東アジア近現 代通史』第5巻,岩波書店,2011147頁)。そして,「深い洞察」を持たないままに突き進んだ日 本が何を生んだのか。そして東アジア各国が戦後に政治的独立を達成したことを考えると,1930年 代のそれが「東アジア工業化の新しい核」になりえたのか。その回答は「否」であろう。1930年代 の東アジア的ネットワークは「円ブロック」の成長ではあったが,それは東アジアの地域工業化の萌 芽であったにしても,実を結ぶべくもなく,杉原の表現を借りれば,「グローバルな経済の動きを追 うなかに円ブロックを的確に位置づける能力」が欠如していたがゆえに「見果てぬ夢」に終わったの

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である(小林英夫・李光宰『朝鮮・韓国工業化と電力事業』つげ書房新社)。なぜなら,「大東亜共栄 圏」も「円ブロック」も「東アジア工業化の新しい核」の可能性は皆無ではなかったが,アジア太平 洋戦争による市場の破壊と戦後の政治変動のなかで崩壊を余儀なくされたからである。ポール・ク ルーグマンは,その著作のなかで「19世紀の国際貿易は,第一次大戦後のどの時期より,世界経済 の規模で比較すると,はるかに大規模な国際資本移動を伴っていた。19世紀後半のある平均的な年 の統計によれば,イギリスは国内貯蓄の40%を海外に投資していたのである。そして,もちろん国 境が寛大に広く開かれていた時代には,今日と比べて移民もまた多かった」(Paul R. Krugman・ Maurice Obstfeld 吉田和男訳『クルーグマン国際経済学』エコノミスト社,2002年,846頁)。そ してこうした国際貿易を退歩させたものこそが20世紀半ばから形成されてきた「円ブロック」もし くは「冷戦」体制だった,としている。筆者もポール・クルーグマンのとらえ方に賛成で,20世紀 半ばのブロック経済は,世界経済ひいては資本主義の促進要因になるよりは,むしろ阻害要因となっ たのである。

しかるに堀氏は,「円ブロック」が資本主義の進展に貢献したと力説するのである。一例をあげて 説明しよう。堀氏たちは戦前の朝鮮大豆をめぐる動きを以下のように説明している。やや長いが引用 しておくこととしよう。

「ここで強調されるべきことは,後者(朝鮮大豆の衰退―引用者)の過程が単に『大豆経済』と称 される満洲を領域的に帝国圏に組み込んだために起きてきたわけではないという点である。契機は満 洲大豆の欧州需用の減退であり,その販路を同じ帝国圏内である日本の食用大豆需要に求めざるを得 なかったことが外的条件である。そしてそれが可能であったのは,満洲大豆を日本内地市場に適合的 な品質に転化させたという内的条件によって起きたという点である。すなわち,日本資本主義の展開 は,使用価値の側面をも日本内地に対して適合的に組みかえることで,帝国内分業の再編成を促進し てきたということである。

このことは逆にいえば,朝鮮大豆が日本内地に対して適合的な商品でなくなったことを意味する。

そのような過程が進行する段階では朝鮮での『適合』への取り組みはすでに意味を為さなくなってい た。なぜならば,それはすでに日本帝国の分業体制にとって不必要な取り組みであったからである。

このことから,戦前の日本資本主義の特質は『日本内地に対して適合的に支配領域を再編成する』の みならず,その展開に伴って各被支配地域における分業の役割を再編成していくという点にまで敷衍 していくことができよう。

また,このように戦前の日本資本主義を捉えるならば,戦前植民地における経済的な取り組みは,

日本内地に対する適合性と各被支配地域間での分業バランスに,その成果が規定されているという側 面を持つこととなろう。戦前の植民地経済に関する既存の研究においては各地域を一つの経済圏とし て捉える思考が根強いが,日本資本主義の上記のような独特のメカニズムを考えれば,その思考は見 直されなければならないといえるだろう」(竹内佑介「日本帝国内分業における朝鮮大豆の盛衰」前 掲『東アジア資本主義論II』106頁)

要は,満洲大豆への欧州「ブロック」の制限などにより,朝鮮大豆よりも価格競争力を持っていた 満洲大豆が植民地朝鮮で占めるようになった,と「分業」という概念を使いながら説明し,「円ブロッ ク」が資本主義の進展に寄与していたと堀氏は唱えているのである。しかし,満洲大豆の朝鮮進出問

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題は,欧州や日本での「生存圏」(=ブロック)の成立によって,満洲大豆の欧州への輸出が阻止さ れてしまった,したがって世界での「資本主義」は後退したというのが正しい解釈ではないだろうか。

繰り返しになるが,堀氏は戦前の「円ブロック」によって,「資本主義」の発展と定着が見られた というのである。しかし,この見解は問題が多い。何にもまして,この「円ブロック」が,「上から」

もしくは侵略戦争による領土拡張のなかで強権的に作り出されたものなのである,ということであ る。したがって,一見進んだかに見えた「円ブロック」下の「資本主義」や市場経済も,結局は敗戦 とそれが生んだ東アジアでの政治的変動ゆえに画餅と化すのである。

これと関連する堀氏の第4の問題点は,「分業」と「貿易」の区分が明確ではないことである。堀 氏の「東アジア資本主義論」の基になったのは「東アジア交易論」である。前述したように堀氏は「東 アジア交易論」を参考にしたうえで,そこの「貿易・交易」の代わりに「分業」という概念を使って

「東アジア資本主義論」を生み出したのである。しかし,東アジアにおける経済システムもしくは「資 本主義」を説明する際には「分業」という概念は全くふさわしくない。なぜなら,1990年代以降な らいざしらず,1930年代から40年代の国と国との経済的なやり取り,さらには「地域」と「地域」

との取引を取り扱うとき,「分業」という概念はほとんど使用されないからである。

堀氏の理論の第5の問題点は,戦前における「大東亜共栄圏」と戦後の「東アジア資本主義論」を 結び付けるそのメカニズムが全く見えてこないことである。繰り返しになるが,堀氏が「東アジア資 本主義論」を展開するにあたって,べースとしたものは「アジア交易論」である。しかし,堀氏の理 論と「アジア交易論」では大きな違いがみられる。「東アジア交易論」が「近代日本の工業化」への「中 国人との商業関係」の組み込みのメカニズムを提示しているのに対して,堀氏の「東アジア資本主義 論」は,「そのような国民経済を超えた関係は,過酷な支配対立と深い亀裂を含んだ両大戦間期東ア ジア資本主義の基盤のうえに形成されてきた。日本帝国主義が支配した戦前期とパクスアメリカーナ の戦後期のようにまったく異なる国際的条件のもとにおいて,なお東アジアにおいて連続的に発展し 続ける資本主義を東アジア資本主義として捉えることこそは,それらのダイナミックな展開の把握を 可能にする。このような東アジア資本主義の形成こそが冒頭で示した東アジアにおける長期にわたる 成長を可能としたのであった」(前掲『東アジア資本主義論II42頁)と述べてはいるが,そうさせ たメカニズム,もしくは根拠は取り上げられていないのである。つまり,戦前と戦後をつなげる接点 が見えてこないのである。

堀氏は,杉原氏が日本・韓国・台湾等をまとめて扱ったこと(杉原薫『アジア間貿易の形成と構造』

ミネルヴァ書房 1996年,同『アジア太平洋経済賢の興隆』大阪大学出版会 2003年)を盛んに批判 している(前掲『東アジア資本主義論I』382頁)一方で,それらの地域について別々に分析すべき であると主張している。しかし筆者の目から見ると研究領域を限定した堀氏の理論より,東アジア・

インド・アメリカ・ヨーロッパにスコープをとっている杉原氏の方がはるかに説得的である。一例を 資本ファイナンスの面でみれば,東アジアを超えてアメリカ,ヨーロッパのエフェクトが効いてきて いるからである。

1.3 堀和生氏の「大胆」かつ「斬新」な問題提起

2012年の段階で堀和生氏は次のような「大胆」かつ「斬新」な発言を行った。曰く「日本帝国の

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解体はこの地域の社会経済に決定的な変化を引き起こし,本国であった日本も全く新しい国際関係の 構築を模索せざるを得なくなった。韓国,台湾は強いナショナリズムを掲げ,植民地体制を解体して 国民国家の建設,国民経済の形成に努めたが,きわめて大きい困難に直面した。巨視的に見れば 1950年代とは,日本帝国内で強固に結合されていた東アジア地域内の分業関係が一度崩壊してしま い,さまざまな葛藤や選択,試行錯誤の結果として,やがてパックスアメリカーナのもとで太平洋を はさんだ新しい国際分業体制が作られて行く過渡期であった,ということができよう」(堀和生「社 会経済史学会近畿部会2012年度夏季シンポジュウムのご案内」)

この主張は,堀氏が批判する小林の主張と何ら変わらないのである。曰く「戦後の工業化を担った 企業家集団は『大東亜共栄圏』崩壊とともに日本企業が植民地から撤収し,英米の主導下で『東北ア ジア経済圏』と『再版・東南アジア域内交易圏』が作られたこともあって,多くの場合には戦前のそ れとは出自をことにした」(小林英夫『「大東亜共栄圏」と企業』社会評論社,2012年)。したがって,

堀氏の小林英夫に対する批判も,また堀氏の杉原薫氏に対する批判も的を得たものとは言い難い。

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