産 業 関 係 史 論 研 究
国枝芳夫
一︑社会的・経済的又び政治的関係としての産業関係
産業 関係史論研究
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①
(1)労働組合は︑資本制社会の生んだ必然的産物である︒ドラッカァ(H︾①けΦ同HりΦ﹃傷沖口曽口O]∪困口O犀Φ同)は︑これを経営にと
って不可欠のパァトナァであると考えている︒労働組合発生の実際の事情を明かにすることは極めて因難な課題である
が︑労働組合の経済的機能だけが︑現実の組合結成の理由であり得たかどうかは疑わしい︒寧ろ︑共同の意識の成立︑極
度の生活不安︑組織家(オルガナイザー)の働き︑ギルド等の名残りの仲間意識等々が機縁となって組合が生じたもので
あろう︒経済的機能は︑この集団が資本制社会において有する経済的意味にほかならない︒それはともあれ︑機械制工場
における作業の密集性のある所︑協力的仕事を要する事業場などでは殊にその発生が促進されたのであろう︒更に︑幾人
かの有能なアジテーター(デマゴーグ)の存在も忘れてはならない︒又︑その産業のみで成立していて︑外社会から孤立
した町村や︑大きな地域社会の内にあってもその産業の人々だけ低賃金だったり特殊な住居区域をなして社会的地位が低
く︑劣等感を感じているような場合︑或いはまた工場の成員が互いに同質でよく理解しあえるような所では︑労働組合が
作られ易かったであろう︒r
ただし︑この他にも︑社会の伝統や意識の問題がある︒例えば︑ヨーロッパにあっては中世以来成立した都市におい
'
︑
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て・人々は共同の敵に芒て団結し・他面強い個の自覚を有這・蓬の内部では・人々は土ハ同的に生活する他はない・
近代的デモクラシーの淵源となるべきものはここに.見られたのである︒恐らく︑このような伝統のある国にあっては︑か
くの如き﹁公共﹂と﹁個の自覚﹂を知らぬ我が国のような場合とは異なり︑労働組合の発生に就いても︑より自然なもの
があったのではないかと思われる︒労働組合の有する集団としての性格に影響があることはいうまでもない︒
②
ところで︑われわれは︑労使対立の根源を賃労働・資本の対立・協力関係に求め︑従って産業関係に就いても︑社会経
済史的に見ればその根底にあるのはかくの如き二つのものの関係であるとして説明をして来た︒即ち︑かくの如き経済的
弱者たる賃労働者が資本に対抗して︑対抗独占を形成したものが労働組合にほかならないとした︒
それ故︑労働組合なるものは︑本来的に従属的なるものである︒けだし︑資本主義社会にあって主導的な役割を演ずる
のは︑賃労働(その代表としての組合)ではなく資本であるからである︒然らば︑われわれが見るように産業関係がもっ
ぱら国の産業経済活動によって大きく規定されているのは全く当然の理である︑と言ってよいであろう︒もともと労働組
合が発生したのは資本主義社会が成立したことによっており︑その後も産業関係はつねに経営陣によってリードされるも
のであり︑更にその安定度は景気のよしあし︑失業のあるなし等々の経済的要因によって根本的に規定されていることは
前述した通りである︒この意味で︑労働組合なるものは本質的に資本主義的なものである︑と言ったとしても︑さほど間
違ってはいないであろう︒即ち︑労働組合は︑本来︑資本制経済にとっては内在的な構成要素であって︑それ自身反資本
主義的運動や社会主義イデオロギqとた父ちに結びつくものではなく︑資本制社会を一応前提として︑その上で労働条件
(3)の改善と社会的地位の安定を目標としたものなのである︒・0
しかし︑われわれは︑産業関係を単に以上のような経済関係にのみ限定して考えるのではない︒われわれは︑産業関係
は必然的にまた集団・対・集団の関係であり︑従って右の賃労働・資本関係も︑労使各々の態度と集団の凝集性にそれが
如何に反映されるかによって︑その結果は様々であり得ると理解されるのである︒然らば︑産業関係は︑経済的関係たる
と同時に社会関係であり︑集団関係である︒この観点からは︑労働組合とは企業活動を下からチェックし︑且つコミュニ
1「 …
産業関係史論研究
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ケーショソのチャネルとなることによって︑企業経営体のデモクラシーを基礎づける組織体である︑ということになる
が︑このような活動の中心になるものが︑労働条件︑賃金(捧給)問題及び経営参加的諸問題なのであった︒
なるほど︑企業の運営は企業主の責任であり義務である︒個々の労働者はこの企業主の目的に沿って働くという約束で
その労働力を提供すべく契約したのである︒従って︑労働者が右の如ぎ経営の問題に口を入れる必要はない︒異議があれ?)ば退職すればよい︑という様にも考えられる︒しかしながら︑企業が人々の協業の場として社会集団を・なす以上は︑企業
運営は単純に個人的な責任問題では片づきはしない︒ここには集団としての問題が生ずるのである︒特に︑この集団が仕
事に関する集団であり︑従って被用者の生活の最も中心的な問題にかかわるものである以上︑あらゆる決定が唯︑一方的に
(5)上からなされるのみ︑というのは甚だ非民主的且つ非合理であろう︒況や︑労働者は経済的に資本に対して弱者であり従
属者の立場にある︒これが権利を集団的に擁護するのは当然である︒およそ︑このようなところに︑労働組合が団体交渉︑︑︑︑︑・︑(6)を求める根源的な理由があると考えられる︒そこでこれを労働組合の企業への介入権の主張と呼ぶことが出来よう︒そし
て組合員にとっては組合が介入権によって彼等の精神的な支柱と頭脳であり声であり︑その上彼が孤独ではないという安
(7)感心を与えてくれることこそが大切なのである︒この介入権が有名無実なものとならないために︑組合は現在ストライキ
権(反抗権)を与えられている︒労働組合はこの介入権を中心にして経営陣に対立・抗争・協力することによってのみそ
の存在理由をもつ︒かくの如くしてみれば︑産業関係とは︑機能的には管理という機能と仕事という機能との抗争である
(8)ということも出来る︒しかも︑労働組合は永久に機能的に経営陣と同等のものではあり得ない︒けだし︑労働組合はいか
程強くなろうとも機能的には経営に従属するものであるからである︒なぜなら︑もし仮りに労働者が経営を行ったとして
も︑彼が経営権に関与するや否や︑彼は彼の同輩の従業員らにとってはその対抗者とのみ写るからである︒実は︑ここに
こそ︑公共企業経営及び一般的経営参加問題の重大な問題点があると言ってよい︒なおまたかくの如き機能的な対立は必
ずしも資本主義そのものに固有なものではないのであって︑社会主義下においても︑その他体制の如何を問わず︑存在す
るのであるから︑この点だけを把握すれば︑労使の対立は企業社会のあるところ︑どこにでも存する︑と言って決して間
(9)違いではなかろう︒
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④
ももルもへさて︑われわれは前述した如く産業関係がまた介入権をめぐる労使の対立関係でもあることを理解したが︑この介入権
ヘセあヘヘヘヘヘヘヘヘヘセヘヘヵヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヤとは︑経営の動きを︑企業体という一つの社会集団全体の利益に照らして是正する権利にほかならない︒それは︑あたか
も企業という小規模社会で試みるリコール制の如きものである︒この点に関してみれば︑労働組合は正に政治的な団体で
(10)(11)ある︒それは︑あらゆる社会集団が︑いかに小さくとも必ず政治的側面をもつことの当然の帰結であると言ってよい︒
労働組合は本来的に従属的なものである点で本質的に野党なのであるが︑しかし歴史が教えるところによれば︑そして
また事実われわれが見るように︑資本主義のより正常な展開のためにはなくてはならぬパァドナアであり︑デモクラシー
を守る番人であった︒(少なくともそうあるべきものであった︒歴史はそのような否定的な形でも︑このことを示してい
る︒)より正常な︑と言ったのは︑・資本主義の根本的なイデアが﹁ウェーバー(言帥図ぐ弔ΦσΦ﹃)がいう如く︑いわば鬼子で
ノあるにもせよ﹂経済主義にある以上︑資本主義が放置されるならば︑あらゆる活動が唯︑利潤動機によってのみ支配され
ることになるからであって︑これを防止するものは︑資本主義から派生しつつ︑なおこれに対抗的である点にのみおのれ
の存在意義を見出すところの労働組合勢力(社会主義政党)であるからであり︑この点で︑ユニオニズムはイソダストリ
アル︑デモグラシーの観念と密接につながっているのである︒もっとも︑さればと言って労働組合の判断や行動がいつも
正しく効果的であったとは限らない︒労働組合もまた﹁経済的利益﹂を求めるという意味では限界をもち︑しかも労働者
(12)は本能的に保守的である面が多いのであって︑従って労働組合が単に眼前の利益にのみ目を奪われたり状勢判断を誤って
行動するならぽ︑労働組合はその規模が大きければ大きい程危険なプレッシュア・グループ化し︑社会をいたずらに混乱
(卜31)︑今日までは︑そのような例の方が多かったかも知れない︒しかし︑労働組合の機構が大規模化した場合にさせる︒寧ろ︑
は︑かくの如き点の自覚が︑正しい社会運営のためにぜひ必要になってくるのである︒
注
①たぼし︑これは歴史的にみて必然だということであって︑必ずしも論理的に必然的であるということではない︒
②この様な興味ある問題を指摘したものは︑増田四郎﹃西洋経済史概論﹄(春秋社・昭三〇)一〇六ー二八頁︒
③大河内一男﹃労働問題﹄(弘文堂︑昭三二新訂)︑=二一‑五頁参照︒なお︑レーニン(<一山ロ一b出H一・ [Oロ一昌)が︑労働組合を階級
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