若 き 西 田 幾 多 郎 の 宗 教 的 思 索
石神
些Or
はじめに1宗教的なるものへの接近
若 き西 田幾多郎の宗教的思索
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西田哲学は宗教哲学であるといわれることもあるが︑少なくとも宗教的な哲学であるということはいえよう︒最初の著
作である﹃善の研究﹄(明治四+四年出版)の末尾が﹁宗教﹂編であること︑そして亡くなる年に書かれた最後の論文が
﹁場所的論理と宗教的世界観﹂(昭和二+年五月脱稿)と題されていることからも︑西田にとって宗教ないしは宗教的なこと
がらが︑たえず彼の心を占めてきたものであることが推測される︒ところで︑いつ頃から彼に宗教的関心が芽生えてきた
のであろうか︒
西田が金沢の第四高等学校の一年生になったとき(明治二+一年・西田+九歳)︑親友の山本良吉にあてた手紙が現在残っ
ている︒そこで西田は神についての自分の考えを述べている︒いまそのうちの一節をみよう︒
﹁夫レ蒸気電線ノ如キ之ヲカノ無知ノ上古人民二見セシメハ必ス驚キ拝シテ神トナサン︒然レトモカレ今学理上ヨリ
考ヘテサホト怪ナルニモアラス︒誰モ狂ナランヨリモ拝シテ神トナスノ者アランヤ︒鳴呼吾人今日神トシテ尊拝スル者モ
後世ヨリ之ヲ見レハ︑カノ亜弗利加人力蛇類ヲ尊フト同一ナルモ知ルヘカラス︒実二宗教心ハ己ノ知力及ハサル所︑何
トナク恐怖ヲ生シ遂二一個ノ妄念ヲ発スル者タルニ相違ナシ︒是故二見ヨ日月ハ之レニ触ル能ハス︒忽然空中ニカカ
リ︑上古時代二於テハ人間二最モ悟リ難キ怪物ナリ︒然ル故二上古人民日月ヲ以て神ト思ハサル者殆ント少ナキニアラ
スヤ︒何レヨリシテ考へ見ルモ宗教ハ妄想ニシテ信スヘキニアラスト信ス︒﹂(×≦口,刈)
ここで西田は神観念の発生を論じ︑その非合理性を批判しているのである︒不思議なものについて人間は古くからそれ
を神として崇めてきた︒しかし︑それは知力が及ばないがゆえに恐怖心からなされたものであって︑結局のところ妄念で
ある︑と︒この︑宗教心を﹁妄念﹂とし︑宗教を﹁妄想﹂と断ずる西田の考えは︑無神論的あるいは反宗教的なものとも
いえるものであるが︑こうした宗教批判は唯物論的啓蒙思想の影響を受けたものであろう︒それはまた当時の進歩的知識
( ‑ )
人の立場を示してもいる︒上の手紙ではさらにキリスト教の神について﹁奇怪千万ノ神﹂と批判もしている︒たとえば神がノアの洪水をなぜ起こ
したのか理解できないという︒おそらくまだ西田は聖書について十分学んではいなかったであろう︒しかし︑神なるもの
について一つのアプローチをここで試みたということはいえる︒だが︑これをもって︿宗教的関心を抱いた﹀というわけ
にはいかないだろう︒
上山春平氏によれば︑金沢四高を中退して以来︑東大選科時代︑失業時代︑能登の中学校分校教諭時代という﹁一種の
脱落者としてのきびしい人生コース﹂をたどりながら︑それまでの自由民権運動的な外的変革を求める道から︑内面的な
( 2 )
宗教的救済への関心を深めていったに違いない︑という︒それは明治三十年頃であった︒のちに友人︑山本良吉にあてた手紙に︑
﹁社会の事はとても実力のみにてゆくものにあらず好機を得るの外なく候︒(中略)よし外には何の為す所なきも︑
自己の完成は人生の最も尚ぶべき大事業にあらずや︒﹂(明治三+九年三月二+一日︑×≦目,謹)
若 き西 田幾多郎の宗教 的思索
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とある︒就職がうまくいかず︑病気がちであった当時の西田にとって︑内面への関心はなるほど必然的な方向でもあった
かもしれない︒
明治三十年頃から目立つことは︑さかんに参禅を始めたことである︒明治二十九年︑長女が生まれたのを機会に雪門禅
師のところを訪れている︒当時の書簡に彼は述べている︒
﹁本月二十五日小生方に一女児を挙げたり︒余は多く浮世の綱をつくる身となれり︒日々己が気力の衰えん事を恐
る︒金沢へ行けば雪門禅師に参して妙話をきかんと思うなり︒﹂(×≦目℃.自)
三十年以後は日をおかず参禅に没頭し︑それは三十六年頃までつづくのである︒明治三十二年に山本良吉にあてた手紙
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には︑禅に対する熱心のほどがみてとれる︒﹁君カ所謂思想ノ統一二達スルニハ如何ナル方法二由リ玉フ御考ニヤ︒余ハ禅法ヲ最捷径ナラント思フナリ︒之ノ捷
径二由テスラ尚且統一ヲ得サル者ナラバ他二途ヲ求メタリトテ益タメナルヘケレハ︑余ハ所得ノ有無二関セス一生之ヲ
修行シテ見ント思フナリ︒﹂(×<日,お)
さて︑この手紙からは湖るが︑西田が山口高等学校にドイツ語講師として赴任(明治三+年九月)したころの手紙に︑聖
書マタイ伝を引いて友に心境を語っている︒
﹁箋臣畠亀冤︒=ξ富器冨αq9︒嘗σq巨︒彗9注︒器2げ蹄当8眠ωω霊ε器噂の語を深く感じ候か︒この言葉を守れば別に
不平の起こるはずもこれあるまじきと存し候︒この肉身も大切なるべけれども人は無理にこの肉体を保たざるべからざ
るの理ありや︒思うに人の生命は肉身にあらずその人の理想にあるならん︒﹂(明治三+年+一月+一日山本良吉宛︑×≦口
も・&)
ここで引いたマタイ伝(第六章二+七節)の言葉は﹁あなたがたのうち誰が︑思い悩むんだからといって寿命をわずかで
も延ばすことができるか﹂(新共同訳聖書による)というものであり︑食べ物や着物というような物質的なことがらを思い
悩むことへの無価値さを説いたものであるが︑この聖書の言葉を通して︑自己の内面への探求の道を苦渋のうちに表明し
ている二十七歳の西田を知ることができる︒
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世の汚さ︑醜さへの怒り︑また自分の世に受け入れられない悩み︑心労は︑青年西田の心を苦しめたにちがいない︒しかし︑彼はそうした悩みが自己の欲望から生じているものであることに気付く︒いま大切なのはこの肉体ではなく︑理想
であるとする︒
﹁人がその内心に深く深く心の奥を探りて真正の己を得てこれと一となるの時あらば︑たとへその時間一分時なりと
もその生命は永久ならん﹂(×≦自,&)
というのが︑このとき彼が導き出した結論であった︒
宗教的なものにめざめた彼は︑世俗的なものへの欲望によって動揺される自己との闘いに挑む︒このころ(明治三十年
頃)から明治三十六年までの日記には︑﹁妄念﹂との格闘︑そして﹁打坐﹂の記事で満たされている︒それは西田の思想
が発酵し醸成されていく時期であったにちがいない︒
宗教的なものへの目覚めは︑また当時の世上の宗教的無理解に対する批判ともなっていく︒いつれも短編ではあるが︑
西田はこのころいくつかの宗教的な内容を含んだ小論を発表している︒以下では次の三編をとりあげたい︒﹁山本安之介
君の﹃宗教と理性﹄という論文を読みて所感を述ぶ﹂という論稿と﹁現今の宗教について﹂と題された論稿(これらはと
もに雑誌﹃無尽燈﹄に掲載)︑および﹁人心の疑惑﹂(﹃北辰会雑誌﹄に掲載)である︒
二宗教と理性の問題をめぐって
﹁山本安之介君の﹃宗教と理性﹄という論文を読みて所感を述ぶ﹂という小論(以下﹃所感﹄と略す)は︑明治三十一年
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六月に発表された︒
この論稿で西田は︑いわゆる信と知の問題を論じている︒信と知の問題は︑もちろん西洋中世を通じての神学的大問題
である︒しかし︑近代にいたって︑この問題は概して啓蒙的立場から理解されるにいたる︒理性優位が近代の主要な傾向
である︒そして︑西田の現在においても︑宗教は一般にこうした啓蒙的立場から理解されるのが﹁近代的﹂立場であった
ろう︒そこには明治期の一般的知識人の宗教理解が見てとれるのである︒
宗教が知識の立場から理解されるとき︑そこに︑宗教にとってある重要な要素が見逃されていく︒否︑たんなる要素と
いうよりむしろ宗教の本質というべきものかもしれない︒西田はいう︒
﹁思うに宗教の宗教たる所以はその信条の如何︑その儀式の如何にあらずして︑吾人が有限界を脱して無限の域に超
入し︑哲学に所謂絶対なるものと冥合する所以の極めて不定的なる一作用にあるなり︒﹂(×臼,謬)
宗教の生命︑それは信条(信仰箇条)にあるのでなく︑儀式にあるのでもない︒宗教の生命とは有限から無限へと超出
し︑絶対的なものと一つになるというところにあるというのが西田の主張である︒
﹁故に宗教の本性とする所のものは毫も知識の助によりて生ずるものにあらず︑全く知識以外のものたらざるべから
ず︒﹂(×日娼魯刈ω)
知識から宗教的なものが出てくるということはない︑宗教は知識とは異なった源泉をもつのである︒たとえば︑と西田
はイエスやパウロの例をあげる︒彼らは知識のうえからは︑﹁近世の学者はさておき︑希臆古代の学者に及ぼざること
万々ならん﹂(同)︒しかし︑﹁今日の人の宗教心とイエスの宗教心とを比せばいかん﹂(同)︑明らかに宗教心においては後
者が勝るのである︒
この点︑現在の宗教家も同様である︒
﹁宗教家が往々内に高尚なる宗教心なく︑外は徒に教祖の信条に固着し︑碩末の言語などを墨守する如きは︑これ宗
教にあらずして迷信なり︑未だ宗教の何たるかを知らざる者なり︒﹂(×日喝●置)
さらに︑西田はここで﹁信条﹂に対して﹁信念﹂の優位を説く︒
﹁宗教の本旨とする所は︑この外に形したる信条の如何によらずして︑これを感得したることの深浅にあらずや︒信
条ありて而して後信念あるにあらず︑信念ありて而して後信条あるなり︒﹂(×自ご●刈ω)
ところで︑こうした西田の論調は︑当時︑雑誌﹃太陽﹄によって日本主義を鼓吹していた高山樗牛に見られるものであ
る︒すなわち樗牛は﹁日本主義を賛す﹂(明治三+年六月)において︑
﹁一種の社会的形式に束縛せられ︑祖業を継紹してその頂を円にし︑その衣を縞にし︑口に仏教を唱え︑手に仏典を
持するものは︑未だ以て仏教徒というべからず︒あわれ今日の仏教と称するものは︑殆ど空虚なる形式主義にあらざる(5)︑カ﹂
と︑宗教家批判をしている︒また樗牛は︑
﹁そもそも宗教とは何ぞや︒これを要するに︑現実生活の自然的経過によりて到達すべからざる︑一種超自然的理想
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を思慕し︑ある超理的方法によりてこれに到達し得べしとする所の一種の信念に非ずや﹂という宗教観を述べている︒この樗牛の見解は上の西田のそれと酷似している︒これはたんなる偶然の一致以上のもので
あろう︒おそらく西田は︑﹁所感﹂の前年に発表されたこの樗牛の一文を読んだにちがいない︒当時の樗牛のロマンチシ
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ズムは︑西田の立場でもあったということができる︒宗教の本質は知識に求めるのでなく︑知情意のうちとりわけ感情がそれを捉えるものだという西田の主張は︑やはりロマンチシズムの立場であるといえる︒ただ︑樗牛の﹁日本主義を賛
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す﹂は国家主義的色彩の濃いものであり︑仏教やキリスト教をはじめ︑一切の宗教を﹁国家のために﹂排斥するというものであった︒こうした樗牛の宗教否定は︑しかしながらあまりにも政治的色彩の濃い急進的な主張であり︑西田のとると
ころではなかった︒