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  あ る 歌 人 の 上 海 暮 ら し

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 中央大学論集 第38号 2017年 2 月

一  武田泰淳の「風媒花」から

  戦後文学の代表的作家である武田泰淳︵一九一二〜一九七六︶に︑﹁風媒花﹂という小説がある︒一九五二年の雑誌﹃群像﹄に一一回にわたって掲載され︑その後すぐ単行本となった︒武田泰淳は﹁日本文学全集﹂の類に必ずといってよいほど収録される作家である︒戦前に書かれた﹁司馬遷  史記の世界﹂や︑戦後の﹁蝮のすゑ﹂︑﹁秋風秋雨人を愁殺す  秋瑾女士伝﹂﹁目まいのする散歩﹂などと並んで︑﹁風媒花﹂は武田泰淳の代表作といっていいだろう︒

  小説﹁風媒花﹂は︑戦前の﹁中国文化研究会﹂という組織に集まる個性ゆたかな人間模様が織りなす物語である︒作者のみならず︑同時代の多くが語るように︑﹁中国文化研究会﹂とは一九三〇年代半ばに発足した﹁中国文学研究会﹂をモデルとしており︑作中の峯は武田泰淳自身︑軍地は竹内好︵一九一〇〜一九七七︶のことである︒時代の重苦しい空気を背景に︑同時代の中国と直に向き合うインテリと右翼など様々な人物が蠢くこの小説には︑雑誌発表直後に竹内好の鋭い﹁武田泰淳論︱﹃風媒花について﹄︱﹂を初めとして︑賛否両論︑多くの評

  あ る 歌 人 の 上 海 暮 ら し

     ︱︱山本初枝と魯迅︱︱

渡 辺 新 一

論がなされてきている︒

  さて︑﹁風媒花﹂の﹁九  愛︵その二︶﹂の終わり近く︑勝ち気にはやる青年たちに急かされた峯の恋人の蜜枝が︑青年たちの寄せ書きなった日章旗に黒々と墨で漢詩を書くシーンがある︒やや長くなるが︑いまその部分を書きだしてみる︒

  席にもどった蜜枝がコップの酒を飲み干すと︑青年の一人が拍手喝采した︒彼女は瞑目して︑奇蹟のあらわれるのを待った︒もしも失敗すれば研究会の恥辱になる︑と彼女は思った︒筆を執って布地の右肩に︑﹁長夜﹂と書いた︒﹁字が大きすぎるぞ﹂﹁シッほっとけ﹂

  彼女が皺をよせてしまった旗を︑青年丙は舌打ちしてまた引きのばした︒耳鳴りと口の渇きをこらえて︑彼女は﹁長夜︑春を過すに慣るる時﹂と書いた︒奇蹟の筆はひとりでに走って︑彼女自身意義もうろうたる七言詩が︑書きはじめられた︒

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中 央 大 学 論 集

  ︱︱長夜︑春を過すに慣るる時     婦を挈へ雛を将り鬢に絲有り     夢裏に依稀たり慈母の涙     城頭に変幻す大王の旗﹂   それが魯迅の句であることも彼女は忘れていた︒いま東京の城頭に︑大王の旗 0000が変幻しつつあることも彼女は知らなかった︒その詩句が妻子の睡しずまったあと︑旅館の庭を徘徊する魯迅によって︑悲痛の想いでまとめ上げられたことも知らなかった︒一九三一年二月七日の夜半から八日の晨に至る或る時刻に︑魯迅を慕っていた青年文学者は処刑された︒上海郊外︑竜華警備司令部の一隅で︑二四人の若い仲間は銃殺された︒魯迅は生き残り︑彼らは人知れぬ地下に埋められた︒英租界に逃れた老文人は︑よき友が一人また一人と︑新しき鬼と化して消えて行くのを︑手をつかねて見守らねばならなかった︒それらのことを︑蜜枝は知らなかった︒彼女の筆は︑次第に大きさを増す墨文字で旗の全面を埋めつくそうとしていた︒

  誰かが書いた万歳や署名︑中央の日の丸の赤い球の上にも︑筆は遠慮なく進んだ︒もはや誰もとめようとはしなかった︒

  ︱︱城頭に変幻す大王の旗     朋輩の新鬼と成るを見るを忍び     怒つて刀叢に向ひ小詩を覓む     吟じ罷んで眉を低うして写すに処なく     月光︑水の如く緇き衣を照す﹂

四六年︶   ︵    ﹃武田泰淳全集﹄第四巻二一一〜二一二ページ筑摩書房昭和   寄せ書きの済んだ白地に赤の日章旗に向かって︑墨文字で魯迅︵一八八一〜一九三六︶の詩句が黒々と書かれるこの件は︑一幅の絵にもなりそうな緊迫した場面である︒この小説の一つの主題が厭がうえにも露出しているとも読める︒そして︑なにやらただならぬ雰囲気を魯迅のこの七言律詩は醸し出している︒

  引用された前後の詩にはさまれた︑蜜枝の知らない事実︑﹁一九三一年二月七日の夜半から八日﹂にかけてのことがらなどを︑次にみてみよう︒

二  「左聯五烈士事件」から

に名をとどめる中国左翼作家聯盟︵左聯︶にまつわることであった︒ 司令部の一隅で︑二十四人の若い仲間は銃殺された︒﹂とは︑文学史   ﹁魯迅を慕っていた青年文学者は処刑された︒上海郊外︑竜華警備   中国左翼作家聯盟は中国共産党の指導のもと︑一九三〇年三月二日に中華芸術大学︵竇楽庵路二三三号︑現在の多倫路二〇一弄二号︶で成立した︒大学とはいえ︑少し大きめの家屋といった建物である︒成立大会は極秘に準備され︑極秘におこなわれた︒第一次国共合作が一九二七年の﹁四一二クーデタ﹂で崩壊して以降︑南京国民党政府は共産党への圧力を強化しその活動の多くを非合法化したのである︒左聯の成立大会では魯迅︑沈端先︵夏衍  一九〇〇〜一九九五︶︑銭杏邨︵一九〇〇〜一九七七︶を主席団に選び︑常務委員には主席団の三名のほか︑馮乃超︵一九〇一〜一九八三︶︑田漢︵一八九八〜

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渡辺:ある歌人の上海暮らし

一九六八︶︑鄭伯奇︵一八九五〜一九七九︶︑洪霊菲︵一九〇二〜一九三四︶の計七名を選出した︒魯迅は成立大会で﹁中国左翼作家連盟に対する意見﹂と題する講演をおこなった︒左聯は魯迅や柔石︵一九〇二〜一九三一︶らの編集の﹃萌芽月刊﹄︑蒋光慈︵一九〇一〜一九三一︶編集の﹃拓荒者﹄︑丁玲︵一九〇四〜一九八六︶編集の﹃北斗﹄など︑一〇種ほどの刊行物を出したが︑いずれも刊行からほどなくして国民党政府によって発禁処分にされた︒この左聯という組織は︑一九二〇年代後半から顕著になった後期創造社と太陽社の魯迅らへの攻撃で始まった革命文学論争の︑両陣営による寄り合い的なところがあった︒だが︑いまは左聯の問題に立ち入る余裕はないので︑先に進む︒

  この左聯のメンバーに加わっている作家に︑魯迅がその人間性を信用していた柔石がいた︒また︑ハンガリーの詩人ペティフェイの詩の翻訳で何度か会ったことのある殷夫︵白莽  一九一〇〜一九三一︶がいた︒魯迅の柔石に対する思いは︑柔石の死の二年後に書かれた﹁忘却のための記念﹂に詳しい︒

  ことは中国共産党内の権力闘争である︒

  一九三一年一月七日︑コミンテルン︵第三インターナショナル︶中国駐在代表団の団長ミフ︵一九〇一〜一九三九︶は︑中国共産党第六期代表大会第四回中央全体会議︵四中全会︶を招集し︑モスクワ留学帰りの王明︵一九〇四〜一九七四︶を党のトップに据えようとした︒王明と博古︵秦邦憲  一九〇七〜一九四六︶は中央委員に推され︑王明はさらに政治局委員になった︒王明は当時支配的であった左翼冒険主義と評価される李立三︵一八九八〜一九六七︶に替わって︑モスク ワの威光を背に︑のちに教条主義と評価される王明路線を推し進めようとしたのである︒中国の現実を無視したそうしたコミンテルンの﹁理論的正当性﹂だけを根拠に進めるやり方に反対する党員も存在した︒このときの四中全会は分裂とならざるをえなかった︒明白に反対の意志を表明したのは︑後に湖南大学などで教鞭をとることになる羅章龍︵一八九六〜一九九五︶や史文彬︵一八八七〜一九四二︶らである︒

  四中全会が開催された三日後の一月一〇日︑コミンテルンから派遣された三名の代表者は︑羅章龍ら反対者をよんで調整をこころみたが︑不調に終わった︒羅章龍らはそこで﹁中国共産党中央非常委員会﹂︵﹁非委﹂︶を組織し︑それにともない左聯内の文芸路線も李求実︵李偉森 一九〇三〜一九三一︶が中心となって﹁中国革命文芸聯盟﹂を組織するにいたった︒羅章龍は四中全会の非合法性を主張し︑﹁全党同志に告げる書﹂と﹁国際インターへの手紙﹂を公にした︒これは一九二一年に成立した中国共産党における最初の分派行動だったといえる︒こうした分派行動は容易に敵対的対立へと変質し︑敵対的対立はともすれば︑本来の打倒すべき階級敵に対する感情より激越な憎悪に転化するものだ︒同一の階級でありながら︑いや︑同一の階級であるからこそ︑目の前の非同調者は最も許せないのである︒こうした権力闘争︑主導権争いは︑組織の大小に関係なく多かれ少なかれあるものだが︑この場合︑ことはそう簡単ではなかった︒

  一月一七日︑﹁非委﹂は上海の漢口路︵三馬路︶と浙江路の交差する地点近くの東方旅社で秘密裏の拡大会議を開いた︒ところが︑会場は五〇名にものぼる私服警官によって事前に包囲されていた︒会議が始まると︑一人の男が電灯が故障したと言って会場にやって来て︑修理が済んで電灯がつくとそれを合図に一斉に私服警官が部屋に突入

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中 央 大 学 論 集

し︑会議参加者はその場で全員逮捕された︒その中には柔石をはじめ︑殷夫︑胡也頻︵一九〇三〜一九三一︶︑馮鑑︵一九〇七〜一九三一︶︑李偉森のいわゆる﹁左聯五烈士﹂もいた︒この秘密裏に開かれた﹁分派行動﹂の拡大会議参加者が一網打尽に逮捕されたということは︑ミフや王明らにとって甚だ好都合といわなければならない︒この拡大会議に故あって参加しなかった羅章龍は︑のちに﹁上海東方飯店会議前後﹂という一文を発表している︵﹃新文学史料﹄一九八一年第一期︶︒それによれば︑﹁非委﹂の拡大会議には︑密告者がいたという︒羅は二つの可能性をあげて具体的に名前まで言及している︒一つは﹁顧順章﹂なる人物が電話で東方飯店での﹁非委﹂拡大会議の詳細を工部局に密告した可能性︑もう一つは︑モスクワ東方大学留学帰りで王明と仲の良い﹁唐虞﹂なる人物が工部局に密告した可能性である︒工部局とは︑一九世紀半ばのアヘン戦争後に設置された共同租界の最高機関で︑英︑米︑日︑中の参事会員によって構成されていた︒逮捕の翌日︑イギリス租界法廷は即刻これらの逮捕者を中国当局に﹁引渡﹂︵原文のまま︶することを決定した︒当時の中国政府は南京にあり︑﹁引渡﹂とは即刻死刑を意味していた︒

  二月七日の深夜︑上海竜華の獄に繫がれていた逮捕者に突然点呼がかかった︒南京に大きな刑務所が完成したのでいまから移送する︑という︒その実︑その場で二三名の逮捕者は全員が銃殺された︒柔石は身に一〇発の銃弾を浴び︑手錠と足枷を架けられたまま埋められた︒

  以上がごく大まかにたどった﹁左聯五烈士事件﹂の概要である︒これは左聯の文学活動に直接関連したなかで遭遇した惨事ではなく︑中国共産党内のヘゲモニー争いの一コマに身をおいていたために招いた惨事だった︒   さて︑ところで︑柔石は逮捕される前日に魯迅と会い︑魯迅が北新書局と交わした契約書の写しを受けとっていた︒明日書店で出す予定の雑誌は柔石が担当することになっており︑その印税などの詳細を明日書店に知らせるために︑魯迅が渡したのである︒柔石は逮捕されたとき︑その契約書の写しを持っていた︒逮捕の翌日︑手錠をかけられた柔石は巡捕︵租界における警察官︶に伴われて明日書店に現れた︒書店の社長は柔石の姿を見てことの重大さを悟り︑その男は知らないと巡捕にこたえ︑急いで王育和︵一九〇三〜一九七一︶に知らせた︒王育和は寧海生まれの柔石と同郷人で︑柔石の釈放のために奔走し︑処刑されたあとも遺児の生活を経済的に支えるなどした人物である︒社長はさらに林淡秋︵一九〇六〜一九八一︶に﹁老趙急病︑入院﹂というメモを渡した︒柔石の本名は趙平復で老趙とは柔石のことである︒林淡秋は寧海中学で柔石とともに教員をしていたことがあり︑一九三〇年以降上海で柔石らと文学活動をしていた︒その日柔石と会う約束をしていた林淡秋も︑すぐにことの重要性を悟った︒その日の夜︑馮雪峰︵一九〇三〜一九七六︶は景雲里の柔石宅を訪れたが会えず︑翌日︑丁玲の住処で胡也頻︑柔石らが逮捕されたことを知り︑魯迅に伝えた︒馮は一九二五年に北京大学で魯迅の講義を聴講し︑一九二八年末以降は魯迅と共同で翻訳などの仕事をし︑左聯の発起人にも名を連ね︑中国共産党と魯迅とのあいだの連絡をとりもった人物である︒

  柔石が獄中から極秘に出した手紙によれば︑一月二三日に三十五名の囚人とともに竜華に移され︑政治犯としては初めて足に鎖をかけられたという︒魯迅には当時︑国民党浙江省党部から逮捕状が出ており︑魯迅の身は藍衣社︵蒋介石直属の反共の特務機関︶のブラック・リス

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渡辺:ある歌人の上海暮らし

トに載っていた︒あきらかに魯迅の身には危険が迫っていた︒

三  花園荘で書かれた七言絶句

かれたことをさしている︒ 痛の想いでまとめあげられた﹂とは︑日本人の経営する旅館で深夜書   ﹁妻子の睡しずまったあと︑旅館の庭を徘徊する魯迅によって︑悲   魯迅は身の危険を感じ︑一九三一年一月二〇日午後︑妻の許広平︵一八九八〜一九六八︶と息子の周海嬰︵一九二九〜二〇一一︶を引き連れ︑乳母の許を伴って︑内山完造︵一八八五〜一九五九︶の手配で花園荘に避難した︒花園荘は魯迅が当時住んでいたラモス・アパート︵拉摩斯公寓︶から近く︑黄陸路三〇号︵現在の黄渡路四九弄五号︶にあった︒花園荘は日本人の与田豊蕃︵一八九二〜一九六〇︶が開いた旅館で︑その日︑内山書店店員の王宝良︵一九〇八〜?︶が四台の黄包車︵人力車︶を雇い︑魯迅一家の日常生活に必要なものを運んだのである︒内山完造は与田を信頼し︑魯迅は内山を信頼していた︒魯迅一家は浴室の隣の湿った狭い一室に住んだ︒たまたま同時期に花園荘に滞在していた関西大学学生の長尾景和︵一九〇七〜?︶によれば︑魯迅が住んでいたのは副楼の階段下のもともとは従業員の小部屋で︑ベッド以外は何もないほど狭かったという︒魯迅と無名の日本人学生との出会いは︑以下のようだった︒

  長尾景和が﹁四川北路﹂︵原文のまま︶で見知らぬ日本女性から道を訊かれて困っていると︑背後から流暢な日本語で応えた中国人がいた︒次の日に花園荘でその中国人と会い名刺を渡すと︑名刺は持ち合わせていない︑私は周豫山という者だと応じた︒同じ旅館内なのでよく顔を合わせ︑最初の話題は美術に関することで︑ゴッホ︑ゴーギャ ン︑ミレーの絵からダンテの彫刻︑さらに日本の水墨画から広重や歌麿の版画まで話が及んだ︒長尾はこの人は美術家にちがいないと思ったという︒次の日の話題は医学から始まり︑ビタミン︑ミネラル︑ダーウィンの進化論から話は天文学やアインシュタインの相対性理論などに及び︑その博学ぶりに驚いた︒ある日魯迅の小説集﹃吶喊﹄と郁達夫の作品を購入して︑自分には難しすぎて読めないと周豫山に伝えると︑大笑いして﹁ぼくが魯迅です﹂﹁ぼくの本名は周豫才で︑筆名は魯迅です﹂と答えたという︒この無名の日本人学生を魯迅は信用した︒ある日︑魯迅は北四川路の横浜橋で左に入った小道にある人物宅に手紙を届けてほしいと依頼した︒長尾は手紙の受け取り人の名は﹁難しい漢字﹂だったことを記憶している︒こうしたことを伝える﹁上海〝花園荘〟で私は魯迅と知り合った﹂︵﹃回憶偉大的魯迅﹄ 新文芸出版社 一九五八年︶は︑一九五六年に許広平が来日したさい︑求めに応じて書いたものである︒

  魯迅は一九三一年一月二〇日から二月二八日まで︑この旅館で避難生活を送った︒四〇日ものあいだ︑生活の不便を犠牲にしての避難生活を余儀なくされていたはずだが︑魯迅はそれまでと同様に友人と会い︑手紙のやりとりをし︑内山書店に一〇回ほど出向き︑二月一二日には日本の京華堂店主の小原栄次郎︵中国の文具や骨董品︑藍の輸入販売をおこなっていた︶に七言絶句を送り︑また一五日には長尾景和のために唐代の銭起の﹁帰雁﹂を揮毫している︒

  しかし︑二年後に書かれた﹁忘却のための記念﹂の筆調からは︑途方もなく絶望のさなかにあったことが想像できる︒ある日の夜花園荘を訪れた馮雪峰は︑当時の魯迅の様子をつぎのように伝えている︒

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中 央 大 学 論 集

  とても静かな晩だった︒許広平さんが私を中に入れてくれた︒魯迅先生は私を日本式のオンドルに坐らせた︒先生の顔色は陰鬱で︑黙ったままオンドルに坐っていた︒しばらくのあいだ︑何も話さなかった︒その後︑オンドルの上の机の引出から一首の詩を取り出して私に見せ︑低く沈んだ声で一言︑﹁数句を集めたよ﹂と言った︒それは誰もが知っている﹁長夜︑春を過ぎるに慣れし時﹂で始まる詩の原稿だった︒

  私はその晩夕食をご馳走になった︒食事のとき︑彼は少し酒を飲んだが︑やはり沈黙の時間が多かった︒そうした情況下で私も当然話す言葉は少なくなり︑特に﹁左聯﹂の事柄や柔石らの死にかかわる話題は極力避けた︒のちに許広平さんから︑極度の怒りや極度の悲哀のときは一言も話さないのだと聞いた︒食後しばらくして私はお暇したのだが︑あのとき彼が話したことばは一〇にもならなかったと思う︒その中の一つは︑﹁このまま続けば︑中国は彼らにダメにされてしまう﹂だった︒そのときの彼の声は低く沈み静かだった︒﹁彼ら﹂とはもちろん国民党統治者を指している︒彼がそう話したあと︑話はさらに続くものと思ったが︑この言葉の前に長い沈黙があったように︑この言葉の後にも長い沈黙があった︒

  魯迅がいつ︑二月七日の竜華の大量銃殺の惨劇を知ったのかは分からない︒国民党政府は厳しい報道規制をしいていた︒二月二四日付けの曹靖華︵一八九七〜一九八七︶宛手紙に︑﹁日本の新聞をみて︑はじめて今月七日に︑一群の青年男女が銃殺されたことを知りました︒その中の四名︵男三女一︶は左聯内部の者ですが︑﹁罪状﹂はたぶん別のことでしょう﹂と書き送っている︒おそらく内山書店か花園荘を 通して知ったものとおもわれる︒

  武田泰淳の﹁風媒花﹂で蜜枝が日章旗に墨書した魯迅の詩は︑﹁風媒花﹂が書かれる二〇年前の中国上海でのできごとなのだ︒

  いま︑その詩の全容を﹁忘却のための記念﹂に書かれた原文で見てみよう︒

  慣於長夜過春時   挈婦将雛鬢絲有   夢裏依稀慈母涙   城頭変幻大王旗   眼看朋輩成新鬼

  怒向刀叢覓小詩   吟罷低眉無写処   月光如水照緇衣   妻子を連れて身を潜め︑城頭に翻る﹁大王の旗﹂の下︑親しい友人が鬼籍に入るのを目の当たりにしているしかない︒この七律は︑詩の門外漢である者でも︑音読して胸に迫るものがある︒沈潜する怒りを通底音とし︑沈潜し続けることによって怒りは天空に突き抜けている︒

  長年亡命生活をおくった千葉県市川市須和田に妻子を残し︑七七事件︵一九三七年七月七日の盧溝橋事件︶を機に秘かに日本を脱出した郭沫若︵一八九二〜一九七八︶は︑上海に向かう船上で魯迅のこの詩を思い出し︑﹁この詩には大いに唐人の風格があり︑哀切たること人を動かす︒絶唱というべきだ﹂として︑魯迅に和して同じ七言律詩を

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渡辺:ある歌人の上海暮らし

ものしている︵﹃帰去来﹄の﹁日本からもどる﹂︶︒また︑南社の創始者の一人の柳亜子︵一八八七〜一九五八︶は︑﹁鬱と怒の情深く︑二つ之有り﹂と評して絶賛している︒日本留学時代から終生の友人であった許寿裳︵一八八三〜一九四八︶は︑郭沫若の詩が魯迅の詩に和していることにふれて︑魯迅の詩は﹁全詩に真心こもり痛切で︑人びとに伝承されている﹂︵﹃私の知る魯迅﹄︶と評している︒

  花園荘で馮雪峰に語った﹁数句︑集めた﹂というこの七律を︑魯迅は何度も推敲を重ねた︒深い悲しみと怒りのこもった特別の思い入れがあったことが分かる︒許広平は花園荘で書かれた初稿時の﹁度春時﹂が︑後に﹁過春時﹂に改められたと証言している︵﹁魯迅先生はどのように著作と編集の仕事をしたか﹂︶︒さらに﹁忍看﹂か﹁眼看﹂か︑﹁向刀叢﹂か﹁向刀辺﹂か︑熟考した様子がうかがえる︒また︑自信作でもあったのだろう︑親しい友人に何度も書き贈っている︒一九三二年一二月九日に台静農︵一九〇三〜一九九〇︶に贈るさいは︑﹁忍看﹂と﹁向心叢﹂とし︑一九三三年一月九日と二六日には許寿裳に贈ったさいも﹁忍看﹂と﹁向刀叢﹂と書いた︒二六日に改めて贈るさいは﹁忍看﹂と﹁向刀辺﹂を用いている︒いかにこの句を考えあぐねていたかがうかがえるところである︵王世家﹁魯迅︽無題︿慣於長夜過春時﹀︾的七件詩稿﹂ ﹃魯迅研究月刊﹄二〇〇七年第十一期︶︒そして︑日本人の山本初枝︵一八九八〜一九六六︶のためにこの詩を揮毫し︑内山完造を通して山本初枝に贈っている︒そのときは︑﹁眼看﹂と﹁向刀辺﹂を使っている︒

  この七律はもともと名がない︒書かれた経緯から︑﹁忘却のための記念﹂﹁柔石を悼む﹂﹁無題﹂などとよばれる︒小論では︑試みに﹁花園荘にて﹂とよぶことにする︒ 四

  『魯迅日記』から   この詩が﹃魯迅日記﹄にあらわれるのは︑一九三二年七月一一日の件である︒いま︑その日の日記の全文を引く︵学習研究社版﹃魯迅全集﹄の第十八巻の訳による︶︒

  十一日  曇︒午前︑静農より古燕半瓦当二十種拓片四枚︑重印﹃鉄の流れ﹄一冊を受けとる︒昼すぎ︑山本初枝女史のために一箋を書す︒いわく︑

    戦雲暫歛残春在   戦雲暫くは歛みて残春在り     重砲清歌両寂然   重砲清歌  両つながら寂然たり     我亦無詩送帰棹   我も亦た詩の帰棹を送る無きも     但従心底祝平安   但だ心底より平安を祝るのみ﹂    さらに︑一小幅を書す︒去年の旧作を録す︑いわく     慣於長夜過春時   長夜  春時を過ごすに慣れて     挈婦将雛鬢有絲   婦を挈え雛を将いて鬢に絲有り     夢裏依稀慈母涙   夢の裏に依稀なり  慈母の涙     城頭変幻大王旗   城頭に変幻す  大王の旗     眼看朋輩成新鬼   眼のあたり朋輩の新鬼と成るを看     怒向刀辺覓小詩   怒りて刀辺に向かいて小詩を覓む     吟罷低眉無写処   吟じ罷り眉を低れて写すに処無し     月光如水照緇衣   月光は水の如く緇き衣を照らす    すぐ内山書店の者に届けるよう頼む︒夜︑入浴︒   この日の日記の内容について︑本論とは直接関係はないことだが︑

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中 央 大 学 論 集

頼む︒﹂という文面からは︑魯迅は山本初枝から依頼されていたことを果たしたものと読むべきだろう︒第一首目の﹁戦雲暫くは歛みて残春在り﹂の七言絶句は送別の詩であり︑﹁戦雲﹂とは一九三二年一月の上海事件を指す︒﹁暫﹂の字が︑戦争はいま暫くは終わっているもののそれは一時の平安にすぎないことを暗示している︒一月二八日未明に日本海軍陸戦隊が出動して始められた戦火は︑五月五日に﹁淞滬停戦協定﹂が成立した︒五月五日は旧暦の三月三〇日にあたっており︑いまは春の終わり︑﹁残春﹂なのである︒なにやら﹁国破れて山河在り﹂を思い出す︒いま︑しばし戦闘は止んで︑大砲の音もあなたの歌声も聞こえない︑あなたの帰国を送る詩は作れないが︑せめて心からあなたの平安無事を祈っています︑といった意味だろう︒﹁重砲清歌﹂の﹁清歌﹂は大日本帝国の野蛮な中国侵略に断固反対する中国人民の歌声と解する説もある︵景周﹃魯迅詩歌解析﹄ 雲南人民出版社  一九七九年  など︶︒しかし︑ここは素直に山本初枝の存在を指しているとみるべきだろう︒戦火も山本初枝も﹁両つながら寂然たり﹂︒魯迅と山本初枝がともに﹁戦雲﹂のなか︑原体験とでもいうべき共通の思いを抱いて過ごした濃密な時間があったことがうかがわれる︒

  それは︑一九三二年一月二八日に始まる﹁上海事変﹂でのことだった︒﹁事変﹂とは事柄の性質を曖昧にする呼び方だ︒中国では﹁一二八戦﹂と称する︒じじつ︑山本初枝に送った﹁戦雲〜﹂の七絶は︑中国では﹁一二八戦後の作﹂とよんでいる︒

五  山本初枝について

  いま︑簡単に山本初枝が魯迅と隣り近所の付き合いをおくった上海 当時の魯迅の日常の一端を知るために訳文の注釈を参考に簡単にふれておく︒﹁燕﹂は戦国七雄の一つ︑﹁瓦当﹂は建築物の軒先の最も目につく瓦の当て板のことで︑燕国の瓦当は半円形と饕餮文で有名である︒魯迅の拓本蒐集は北京時代から続いていた︒また︑﹃鉄の流れ﹄は︑ソ連のセラフィモ

鉄花﹂など︶︒ 屋の名義で出版した︵魯迅﹁﹃鉄流﹄編校後記﹂︑曹靖華﹁風雪万里栽 日本語訳﹃鉄の流れ﹄を参照して曹訳を校閲し︑自ら出費した三閑書 り︑替わった神州国光社も出版には至らなかった︒魯迅は蔵原惟人の 月一三日に魯迅のもとに届いた︒だが︑春潮書局は経済的に行き詰ま 五万字ある訳文を二部複写して紛失した場合に備えた︒その訳文は六 訳を終えた︒訳文を魯迅のもとに送るのは安全とはいかず︑一四︑ 曹靖華は当時レニングラードに留学中で︑一九三一年四月三〇日に翻 は李霽野︵一九〇四〜一九八七︶を通じて曹靖華に翻訳を依頼した︒ 冊のなかの一冊で︑春潮書局とのあいだで出版が決まっていた︒魯迅 ­ヴィチの叙事詩である︒﹃現代文芸叢書﹄全一〇   さて︑この日の日記の最後にある﹁すぐ内山書店の者に届けるよう

1932年7月11日に魯迅が山本初枝に 書き贈った七言絶句

(上海魯迅紀念館編『魯迅与国際友人 図録』より)

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渡辺:ある歌人の上海暮らし

時代のことをみておこう︒

  山本初枝は一八九八年︵明治三一年︶に︑姫路市で生まれた︒父親の向田謙藏は陸軍少佐で︑母親は高松藩士の山本正路の娘で貞といった︒二人の兄と一人の妹がいたが︑長兄の肇は陸軍次官の出だったが早く亡くなり︑妹は夭逝した︒初枝が生まれた翌年︑父の転勤に伴い一家は北海道旭川に移った︒父は日露戦争のさなかの一九〇四年に旅順の二〇三高地で戦死し︑一家は東京に移転した︒この年︑初枝は麹町の富士見小学校に入学し︑歌人で書家の大口鯛二︵一八六四〜一九二〇︶の組織した︑﹁千草会﹂に入会して短歌を学んだ︒一九一〇年に小学校を卒業し︑四谷の双葉高等女学校に入学してからは鎌田正夫︵?〜一九一五︶から短歌を習った︒一九一五年︑初枝一七歳のとき双葉高等女学校を卒業し︑翌年︑一〇歳年上の山本正雄︵一八八八〜一九四二︶と結婚した︒厳格な母親の右腕一つで育てられた娘は︑母の指示に従うほかなかったのだろう︒

  山本正雄は高等商船学校を卒業後︑日本郵船会社の社員だったが︑新妻の初枝を連れて上海にわたり︑船長となるべく日清汽船会社に就職した︒このとき︑山本夫婦は上海のどこに居を構えたのかは定かではない︒日清汽船の設立は一九〇七年で︑山本夫婦が上海にわたったときは︑外灘︵バンド︶五号といわれる日清汽船上海支店ビルはまだ建設されていない︵ビルの完成は一九二五年︶︒いずれにしても︑山本夫婦は蘇州河周辺から北にのびる北四川路沿いに住んでいたものとおもわれる︒この一帯は﹁越界築路﹂とよばれるやり方で日本人居住区を拡大させ︑多くの日本人が住んでいた︒因みに︑同じ一九一六年一月に内山完造は井上美喜子と結婚している︒夫の正雄は仕事がら家をあけることが多く︑若くして異国の地で新婚生活を始めた初枝の精 神的負担は推して知るべしである︒本国で小学校のころから短歌をたしなんでいた初枝が︑北四川路魏盛里の内山書店を訪れ︑人なつこい完造と懇意になったのはごく自然のことだったろう︒この魏盛里は小さな細い路地だが住人はすべて日本人だったという︵一九九〇年代なかばに整理され︑魏盛里は今は存在しない︶︒当時の日本人にとって︑上海は不思議な魔力をもつ都市だった︒村松梢風︵一八八九〜一九六一︶の﹃魔都﹄︵一九二三年作︑翌年小西書店より単行本化︶である︒長崎から船で一昼夜︑ビザも必要とせず誰でも行くことができた︒仕事にあぶれた若者︑恋に破れた青年︑警察に追われたヤクザ︑あるいは日本ではうまくいかず大陸で一旗揚げようとした野心家︑などが海をわたったのである︒

  そんな上海に︑一九二一年三月︑新進の流行作家芥川龍之介︵一八九二〜一九二七︶が大阪毎日新聞から派遣されて上海に到着した︒肩書きは海外視察員である︒芥川は上海に着くなり肋膜炎の病に伏せ︑蛾眉路にある﹁里見病院﹂に入院して暫く休養した︒病癒え︑北京に向けて先ず西湖へと出発するまでに︑章炳麟︵一八六八〜一九三六︶︑鄭孝胥︵一八五九〜一九三八︶︑李人傑︵李漢俊 一八九〇〜一九二七︶と会見し︑また東亜同文書院や上海日本人倶楽部などを訪れている︒その中国体験は毎日新聞に連載され︑一九二五年に改造社から﹃支那游記﹄として上梓された︒上海の街を案内したのは︑﹃支那游記﹄にしばしば登場する島津四十起︵島津長次郎 一八七一〜一九四八︶だった︒島津は日本人向けに﹃上海案内﹄を出した金風社の社長であり︑河東碧梧桐︵一八七三〜一九三七︶派の俳人で︑佐藤春夫︵一八九二〜一九六四︶の短篇﹁老青年﹂のモデルになった人物である︒山本初枝とならんで︑内山完造が組織した﹁文芸

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中 央 大 学 論 集 漫談会﹂のメンバーだった︵﹁文芸漫談会の思出﹂ 内山完造﹃魯迅の思い出﹄ 社会思想社  一九七九年︶︒おそらく山本初枝は島津とともに芥川を案内して上海の街を歩いたのだろう︒また︑短歌をやるのなら﹁アララギ﹂がいいと勧められたという︵吉田漱﹁山本初枝の歌とその一生│魯迅をめぐる一人│﹂ ﹃魯迅友の会会報﹄ 一九七二年︶︒だが︑﹃支那游記﹄には山本初枝の名は登場しない︒芥川龍之介の他の資料からも︑今までのところ山本初枝の名はでてこない︒いずれにしても︑山本初枝は芥川の勧めに従って︑小学時代に入会した千草会を脱退し︑翌一九二二年三月にアララギに入会した︒この年の﹃アララギ﹄四月号に︑土屋文明選による山本初枝子の歌﹁水牛の群をはなれて童遊ぶ長江の流水ぬるみたり﹂の一首が掲載されている︒アララギ発行所には︑一九二五年に初めて訪れている︒

  山本初枝は一九二七年二月︑長男正路を授かった︒このころ﹃アララギ﹄に載った初枝の作品を引く︵数字は発表年・月︶︒

  吹く風はあらしとなりぬ船出せる夫をし思ひいねがてぬかも︵一九二六年一一月︶   霧こめて外面は見えず我夫の船も今宵は帰らざりけり︵一九二七年五月︶

  大砲の音を近く聞く夜半は帯をとかずに一夜を明す︵一九二七年六月︶   排日を支那人となふる此日頃病む子守りつつ一人居りけり︵一九二八年七月︶

  ほとんどがこのように自分の日常生活を詠んだもので︑一時の心象 風景を切り取り淡々と投げ出した感じが強い︒

  因みに︑この年の一〇月三日に魯迅が教え子の許広平とともに広東から上海に着き︑愛多亜路長耕里︵現在の延安東路︶の共和旅館に投宿し︑五日後に横浜路の景雲里二三号に移っている︒

  山本初枝は毎年のように帰国していたらしい︒上海からの船便は頻繁にあり︑外国からの帰国という感じはしなかったようだ︒一九二九年春︑初枝はアララギ発行所を訪れ︑初めて土屋文明と会った︒その後は毎月作品を送り文明の指導を仰ぐことになった︒

  その山本初枝が魯迅と出会ったのは︑一九三〇年の春のころだった︒   魯迅が亡くなった翌年の一九三七年︑改造社は全六巻の﹃大魯迅全集﹄を出版したが︑その﹃月報﹄第一号に山本初枝は﹁魯迅先生の思出﹂を寄せている︒まだ上海での記憶が生々しいせいか︑無名の日本人女性に残した一人の中国人男性の存在の大きさをよく伝えている︒﹁先生にはじめてお目にかかったのは何時の頃かはつきり記憶にはないが︑多分昭和五年の春頃内山書店で紹介されたのが最初で︑其後私が上海を引上げる昭和七年の七月まで親しくしていただき︑其後も病床に就かれるまで御手紙をいただいて居る︒﹂で始まる文章は︑日常のありふれた生活の折々のさいに自然に始まった付き合いのなかで生まれた様子が語られている︒﹁先生に接して居ると決して支那人らしく感じなかった事も不思議に思はれる︒先生の思ひ出はつきない︑先生の死は私を心から悲しませ惜しい方を失ったと残念でたまらぬ︒しかし今でもまだ上海に行けば会へる様な気持ちがする︒﹂

  一九三〇年五月︑魯迅は景雲里から北四川路の拉摩斯アパートに移った︒内山書店はすでに一九二九年に山陰路の北四川路と交差する

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渡辺:ある歌人の上海暮らし

ところに規模を大きくして移転していた︒住処はその書店の裏の千愛里三号にあり︑山本初枝の家は内山完造宅の隣りの四号にあった︒つまり︑この時期から︑魯迅と内山完造と山本初枝とは上海の日本人が多く住む横浜橋地区の︑互いにきわめて近いところで暮らすことになったのである︵文末の地図参照︶︒

六  「第一次上海事変」

  さて︑ところで︑﹃魯迅日記﹄は本人自ら﹁備忘録﹂といっているように︑ほとんどが無味乾燥な簡単なメモの記述で終わっている︒だが︑実際の出来事と照らし合わせて読むと時として面白い読み物に様変わりする︒魯迅周辺の人物が残した証言や記録︑歴史的事件︑それらの出来事に対する当然おこなわれたはずの反応は︑﹃魯迅日記﹄の記述には濃淡の差だけではなく有無の違いとなって現れている︒あきらかに魯迅は自分の日記が後日﹁作品﹂として読まれることを意識していた︒受け取った手紙類をことごとく焼いて破棄したように︑日記に名前を記すことによってその人に累が及ぶのを避けようとしたのだ︒   山本初枝がその﹃魯迅日記﹄に初めて記載される日は︑以下の通りである︒

  一九三一年五月三一日  日曜︒晴︒昼すぎ︑柳原燁子女史に会う︒山本夫人︑海嬰に奈良人形をくれる︒夜︑広平とともに三弟を訪ねる︒

  書かれている事項を簡単に整理しておくと︑柳原燁子︵一八八五〜一九六七︶は︑大正天皇のいとこで現在も小説やメディアに取り上げ られることがある情熱の歌人白蓮のこと︒宮崎滔天の長男の宮崎龍介︵一八九二〜一九七一︶と大恋愛のすえ一九二三年に三回目の結婚をして世間を騒がせたことでも有名である︒このときは夫婦で上海を訪れていた︒内山完造の紹介で会ったとおもわれるが︑場所は分からない︒海嬰︵一九二九〜二〇一一︶は一九二九年九月二七日に許広平とのあいだに生まれた男児の名︒三弟とは︑当時上海に住んでいた弟の周建人︵一八八八〜一九八四︶のことである︒日記に日本人の名が記載されるのは珍しくない︒特に上海時代は晩年まで︑日記に登場する日本人の名は中国人の名に比して大差はない︒魯迅は多感な青年時代に足かけ八年間日本に留学していたこともあり︑また当時の上海は列強の租界の地でありビザなしで入れたこともあって︑上海に住む日本人も上海に行く日本人も︑外国という意識はほとんどなかったのだろう︒  白蓮こと柳原燁子とは︑二日後の六月二日夜に内山完造に招かれて当時は北京東路にあった功徳林︵精進料理の店︒一九三二年に南京西路に移転した︶で会食している︒そのさいの同席者は︑夫の宮崎龍介︑内山書店の店員の斉藤菊子︑のちに完造と結婚することになる加藤真野︑この年三月に佐藤春夫の紹介状をもって上海に滞在し︑一二月まで魯迅の﹃中国小説史略﹄その他の作品について魯迅から個人的に詳細な指導をうけた増田渉︵一九〇三〜一九七七︶︑当時魯迅と最も近い中国人作家の一人で左聯メンバーでもあった郁達夫︵一八九六〜一九四五︶︑そして内山夫妻だった︒魯迅は六月一四日に宮崎龍介と白蓮にそれぞれ別の自作の七言絶句を揮毫している︒いま︑白蓮のために揮毫した詩を引く︵訳は﹃魯迅全集  集外集拾遺﹄ 学習研究社 一九八六年  による︶︒

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中 央 大 学 論 集

  雨花台辺埋断戟   雨花台辺に断戟埋もり   莫愁湖裏余微波   莫愁湖裏に微波余う   所思美人不可見   思う所の美人  見う可からず   帰憶江天発浩歌   帰りて江天を憶えば浩歌発る て気軽に自作を揮毫することが魯迅にはよくあった︒ きこの詩を白蓮に贈った魯迅の思いは分からない︒だが︑求めに応じ   ﹁雨花台﹂と﹁莫愁湖﹂はいずれも南京にある革命遺跡で︑このと

  先に引いた日記にもどる︒﹁山本夫人︑海嬰に奈良人形をくれる﹂という文面からは︑すでに魯迅と山本初枝のあいだにお互いの信頼感が存在し家族ぐるみのつきあいがあったことがうかがわれる︒初枝の息子正路は海嬰より二歳年上で︑前年春頃に初めて二人は話を交わしたとすれば︑この一年余りで互いの家庭のことまで心に留める仲になっていたのである︒その後の﹃魯迅日記﹄には︑本のやりとりや︑一人息子の海嬰にお菓子や玩具を贈られたという記事がでてきて︑両者の付き合いが親密なものであったことが分かる︒それは︑政治や思想のレベルの付き合いではなく︑より人間的な︑日常生活のうえでのものだった︒山本初枝が魯迅の思想全般を理解していたとは言いがたく︑魯迅もまた初枝と対するときは文学の話もできる気のあった女性という域をでなかった︒魯迅は意識的に政治の話をしなかった︒初枝が魯迅のアパートを訪れ︑﹃アララギ﹄に載った斎藤茂吉や土屋文明の歌を説明すると︑魯迅は自分の詩を取り出して︑それではこれを短歌に訳したらどうなるでしょう︑などときいたこともあった︒また︑佐藤春夫の詩集﹃魔女﹄が内山書店に入荷した一九三一年一一月一一日には︑書店に並んだ三冊のうち魯迅と山本初枝が購入した︒当時初 枝は夫から自由に使える金を五〇元もらっていたという︵山本初枝﹁魯迅と内山完造のこと﹂ ﹃未来﹄一七九号  一九六六年一二月号︶︒

  この日︑二人が購入した﹃魔女﹄は︑この年の一〇月五日︑東京の以士帖︵エステル︶印社から出版されたもので︑発行部数は一〇五五部︑五部は愛蔵家版︑五〇部は会員版で︑残りが一般読書家用だった︒一冊五元というのは決して安くはない︒因みに︑当時の魯迅の生活費は毎月二〇〇元︑書籍代や版画︑絵画代に一〇〇元︑北平に住む母の魯瑞と最初の妻朱安の生活費として一〇〇元が必要だったという︵増田渉﹃魯迅の印象﹄ 角川選書  一九七〇年︶︒   こうした日常生活のうえでの気の合った者同士の付き合いは︑翌一九三二年の﹁上海事変﹂で一気に濃密な原体験を共有することになった︒先にふれたように︑帰国する山本初枝に贈った送別の詩﹁一二八戦後の作﹂がそのことを語っている︒その間の詳細は拙論﹁︽魯迅日記︾空白の一日をめぐって﹂︵﹃中央大学論集﹄第一二号  一九九一年︶にゆずる︒ここでは︑よく引用される山本初枝本人の肉声を引用したい︒

  楽しかった交友も上海事変によって一時断たれてしまった︒事変当時︑十日間を同じ屋根の下で砲弾におびえながらともに暮し同じ食物を分け合ったことも忘れ得ぬ思出となった︒︵﹁魯迅先生の書簡より﹂ ﹃中国文学月報﹄二十号  一九三六年︶

  つぎは︑魯迅没後来年で三〇年になるときの述懐である︒   ことに民国二〇年︵一九三一︶におこった第一次上海事変のさい︑

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渡辺:ある歌人の上海暮らし

一月二九日から二月一〇日まで魯迅一家と共に︑内山書店︵内山完造氏宅︶で不安な日々をすごしたことが忘れられない︒生命を弾丸のまえにさらし︑今日一日を無事にすごせても︑明日はどうなるかわからない時であったから︑お互いの親近感がいっそうつのったのである︒魯迅はその子海嬰を︑私は息子の正路をしっかりと胸にだいて︑眠れぬ夜をすごしたのであった︒わずかな日本の陸戦隊︑しかも地理不案内の水兵が︑上陸まもなく警備にあたっていたのだが︑路地の中から便衣隊に狙撃され︑ばたりと倒れて死んでいく姿を︑魯迅も悲しい目でながめていた︒それにもまして彼の心を痛めたのは︑なにも知らない中国の市民が︑陸戦隊に連行されていく姿であった︒

  そのなかには弟の周建人もいたのである︒さいわい内山完造さんの熱心な弁護によって助かったので︑その後いっしょに内山書店でくらすことになった︒しかしひるの間は店に出入りする日本人の目につきやすい︒そこで中国服のジャケツにとりかえ︑店の奥の方で店員のようにふるまってかくれていた︒魯迅の奥さん︵許広平女士︶は私と共に皆の食事をつくる係りとなった︒魯迅が煙草といっしょにかかえてきた塩豚の切身を︑毎日少しずつ野菜といためて食べたりした︒家の外は危険なために一歩も出られず︑こっそり売りにくる菜を大切に保存して︑ひもじい思いをやっとたえしのんでいたのである︒

  夜はガラス戸に畳をたてかけ︑書籍をたかくつみあげて︑そのなかでテーブルをかこみながら︑雑談にときをすごしたものである︒﹁ここで死んでも本望だよ︒みんな本の好きな人たちばかりだからね︒﹂と︑主人の内山さんは笑いながら茶をいれてくれた︒︵﹁魯迅 の思い出﹂ ﹃大安﹄通巻第一一四号  一九六五年五月︶

  三〇年以上も前の出来事であるため︑数字の記憶違いはいたしかたない︒﹁第一次上海事変﹂は一九三二年一月二八日に起きた︒また一〇日間ではなく︑八日間である︒﹃魯迅日記﹄によれば︑魯迅は一家全員で一月三〇日にラモスアパートから内山書店に﹁衣服数着を携帯するのみ﹂で避難し︑二月六日にイギリス租界の内山書店支店に移っているからである︒

  いまこうした避難生活の意味を理解するためには︑当時上海の街全体を覆っていた反日的︑抗日的世情を知っておかなければならない︒先にふれた芥川龍之介の﹃支那游記﹄からは︑全篇にわたってそうした空気が感じられる︒内山完造の﹃花甲録﹄からは一九一〇年代にすでにそうした記述がある︒一九一五年の袁世凱政権につきつけた﹁二十一カ条要求﹂とそれにともなう﹁五七国恥日﹂︑一九二八年の張作霖爆破事件︑さらには日本軍が露骨に中国東北地区に軍をすすめて起こした一九三一年九月一八日の柳条湖事件︵﹁九一八﹂︶と﹁満州国﹂︑そしてこの﹁上海事変﹂すなわち﹁一二八事件﹂である︒張作霖爆破事件も柳条湖事件も﹁上海事変﹂も︑ともに日本軍の陰謀によるいわば﹁でっち上げ﹂事件だった︒﹁上海事変﹂のばあい︑当事者であった上海駐在公使館付武官田中隆吉︵一八九三〜一九七二︶の東京裁判における告白によって︑事件の全貌が明るみに出た︒それによると︑当時︑満州国の建設を進めていた関東軍の参謀長板垣征四郎︵一八八五〜一九四八︶が国際連盟などの国際世論による非難の目を他に逸らすため︑国際都市上海で事を起こそうと考え︑田中少佐を満州に呼び︑二万円の資金を与えたという︒田中は男装の麗人として知られる川島

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中 央 大 学 論 集

芳子︵一九〇七〜一九四八︶を使って中国人を買収させ︑日本人僧侶を襲撃させ︑邦人保護の名目で日本軍が蔡廷鍇率いる国民解放一九路軍と戦った︑というのが一般的な理解であろう︒

  いま問題にしたいのは︑当時の上海に暮らす中国人と日本人︑それに日本内地に暮らす日本人の︑﹁上海事変﹂に対する意識の違い︑ひいては互いの相手国に対する意識の違いである︒たとえば︑日本内地では﹁上海事変﹂によって戦いが膠着状態におちいった二月下旬︑上海郊外の廟行鎮に陣取って行く手を阻む一九路軍の築いた鉄条網とトーチカに向かい︑日本の工兵部隊の三人が爆弾を抱えて突撃し︑自らの命と引き替えに鉄条網を打ち破った出来事があったが︑自爆した三人は日本内地ではマスコミによって﹁軍神﹂に崇めたてられ︑日本全土が﹁肉弾三勇士﹂︵または﹁爆弾三勇士﹂︶にわきたった︒

  これも有名な話を引く︒

  慶應義塾大学教授の野口米次郎︵一八七五〜一九四七︶は一九三五年一〇月︑カルカッタ大学の招聘をうけその旅路にたちよった上海で︑内山完造の仲介で魯迅と六三園で食事をしたことがあった︒野口が日本軍の中国侵略を正当化しようとして︑﹁インドにおけるイギリスのように︑どこかの国の家政婦のように雇って国を治めてもらったら︑一般民衆はもっと幸福かも知れない﹂と言うと︑魯迅は即座に次のように応じている︒﹁どうせ搾取されるなら外国人より自国人にされたい︒詰り他人に財産を取られるより自分の倅に使われた方がいいように⁝⁝詰り感情問題になってきます︒﹂︵野口米次郎﹁渡印通信第一回 魯迅と語る﹂ ﹃東京朝日新聞﹄一九三五年一一月一二日︶︒魯迅は野口の論文﹁アイルランド文学の回顧﹂を訳したことがあり︑また一九三三年四月一日付の山本初枝宛手紙では︑﹁野口様の文章の中に ショーは可哀想な人間だと云うのも尤もです︒﹂と︑バーナード・ショーに対する野口の評価に賛意をしめしていた︒そのためもあろうか︑この日の野口の言葉は︑魯迅にとって重い響きと決断を迫ったようだ︒﹁僕は日本の作者と支那の作者との意思は当分の内通ずる事は難しいだらうと思う︒﹂と︑翌年二月三日付の増田渉宛手紙に書いている︒﹁暴支膺懲﹂に連なる中国人蔑視は︑当時の日本人にとってごく普通の意識だったというべきであろう︒

七  帰国した山本初枝

﹃アララギ﹄に載せた歌︒ 国するように言われ︑山本初枝は幼い正路を連れて帰国した︒帰国後︑   ﹁上海事変﹂の後︑在華日本人は危険となり︑特に女性と子供は帰   おもほえず吾子をいだきてうちふしぬ近くに落ちし弾のひびきに

  路地の中に忍び入りて射つ便衣隊のピストルの音はたゆるまもなし   こうした歌は︑異国の戦火のリアルさに全く無頓着であった当時の日本人には︑驚きをもって読まれたことだろう︒帰国直後の山本初枝を詠んだ土屋文明の歌︵﹃山谷集﹄の﹁時事雑詠﹂による︶︒

  子供つれて君上海をのがれきぬ恙なくしていたく痩せたり   幾人か知りたる人の殺さるる目の前に見て君はのがれ来ぬ   帰国した山本初枝は﹃魯迅日記﹄でみるかぎり︑毎月魯迅に手紙を出している︒四月三〇日には︑﹃古東多卍﹄四月号を求めに応じて送っ

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渡辺:ある歌人の上海暮らし

ている︒魯迅の五月九日付の増田渉宛手紙では︑﹁ところが鎌田様の云ふ事によると船長の山本様はもう日本へ引揚るそーです︒そーすると奥様も上海へ来られません︒それもさびしい事の一つです︒﹂手紙にいう﹁鎌田様﹂とは︑内山書店の店員の鎌田誠一︵一九〇六〜一九三四︶のことである︒

  初枝の夫の正雄は日清汽船を退社し︑六月には一家総引き揚げが本決まりになった︒上海の家財道具いっさいを整理するために︑初枝は一六年間暮らした上海と別れるために上海に行った︒一九三二年六月二九日︑ラモスアパートの魯迅宅を訪問︒魯迅は七月三日に︑杭州料理で有名な知味観に山本初枝送別の宴を開いた︒この日︑魯迅が招待したのはいずれも初枝と親しい日本人だった︒魯迅の息子の海嬰の診察をしている篠崎医院小児科医師の坪井芳治︵一八九八〜一九六〇︶︑文芸漫談会のメンバーで東亜同文書院教授の清水董三の弟でフランス帰りの画家の清水登之︵一八八七〜一九四五︶︑三井洋行職員の栗原猷彦︵不詳︶︑内山書店店員の鎌田寿︵一八九九〜一九七五︶・誠一兄弟︑内山完造・美喜夫妻︑それに魯迅・許広平夫妻である︒﹁上海事変﹂のさい︑内山書店の二階で共通の原体験をした周建人がよばれていないのが聊か気になる︒建人は教え子の許鮮蘇︵一九〇一〜?︶宅に身を潜めたあと安徽大学に勤めていたが︑この時期は上海にいたはずである︒

  鎌田誠一は﹁上海事変﹂当時︑魯迅や周建人一家を手助けする一方︑日本軍の後方警備に加わり江港付近で中国農民を惨殺していたという︒誠一は︑かつて元冦によって自分の祖先が殺害されており︑中国の農民を殺すことによって先祖の仇をうつつもりだったが︑帰国してから歴史をよく知る日本人から中国も元に侵略されたことがあるとい う事実をきいて初めて自分の非に気づき︑自分が上海でおこなったことを非常に後悔し︑いつか必ず上海に戻ってやり直したいといいつつ死んだという︒周建人︵喬峰︶は魯迅から直接きいたとして︑この話を記している︵喬峰﹁日本ファシズムは消滅したか﹂︶︒誠一の生まれ育った福岡県糸島は元冦の役の舞台となったところであり︑日本の軍国主義教育が六五〇年以上も前の歴史を利用して盲目的な敵愾心を造成していたと建人は言う︒そうした事実は︑おそらくあったことだと思う︒誠一ほど極端ではないにしても︑日本人の中には様々なかたちで中国人蔑視︑中国人敵視があった︒当時︑魯迅の周辺にいた日本人は︑山本初枝をふくめてみな﹁軍国主義教育﹂をうけていた︒そのことに魯迅が気づかぬはずはない︒とまれ︑魯迅夫妻を除いて︑この日は全員日本人による送別の宴となった︒

  そして︑この日に山本初枝は魯迅に送別の詩を書いてほしいと頼んだのだろう︒知味観の送別の宴の八日後︑山本初枝への送別の詩﹁戦雲〜﹂を書いたのだった︒送別歌は唐代の詩人王維の﹁元二の安西に使するを送る﹂など日本人にも馴染みの深い詩をもちだすまでもなく︑中国文人が好んで用いた伝統的手法である︒魯迅は︑しかし︑この七絶の送別の歌を書いてなお︑書き足りない思いがするのだった︒そこで︑﹁慣於長夜〜﹂で始まる﹁花園荘にて﹂を書いたのである︒

  代表作の詩と誰もが認めるこの七律を︑なぜこのとき魯迅は書いたのかという思いが︑答は見つからないまま︑いつも浮上する︒蜜枝と同様︑山本初枝もこの詩のもつ歴史的背景を理解していたとは言いがたい︒

  魯迅は自作・他作もふくめて多くの詩を揮毫しているが︑日本人のためにも多くの詩を書いている︒それでも︑この﹁花園荘にて﹂は特

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中 央 大 学 論 集

別な重い思いがこめられたものであることは間違いない︒魯迅の山本初枝に対する特別な思いがこめられていたのは間違いないところだ︒

  一九三二年七月一一日の夜︑この詩を書き終え署名をしたとき︑魯迅はほっとして煙草の火を自分の名前のところに落とし小さな穴を作ってしまった︒この七律は内山完造の手を経て届けられたが︑その後の魯迅からの手紙に︑﹁煙草の火を落として穴をあけた︒もう一枚書きなをさうかと思ったが︑煙草の好きな僕を知っている貴方が印象深く見られるだろうと思って︑そのまま送ることにした﹂ということが書かれてあったという︵山本初枝﹁魯迅の思い出﹂ 前出︶︒

  魯迅から送られたこの半折は︑戦災で消滅した︒魯迅からの手紙は﹃魯迅日記﹄でみる限り三〇通ほどになるが︑これも戦災で灰燼に帰してしまった︒いま我々は一九三七年の﹃大魯迅全集﹄に掲載された二四通だけが︑両者の交流の有様を知る直接的な唯一の資料というこ とになる︒二四通というのは日本人のなかで増田渉に次いで二番目に多い︒

  残された二四通の手紙からは︑二人の交友が国境を越えていかに信頼の絆で結ばれていたかを知ることができる︒一七歳年上の魯迅に対して︑初枝は人生のこと︑文学上のことを相談していたらしく︑魯迅はそれにマメに応えている︒もっともしばしば出てくる話題は︑健康上のことと子供をふくめた家族のことである︒﹃魯迅日記﹄をみると︑初枝が正式に上海から引き揚げて以降︑ほぼ毎年二回︑海嬰のために自転車や玩具︑お菓子や文具などを贈っている︒魯迅に対しては︑﹃古東多万﹄のほか︑﹃明日﹄︑﹃

H A N G A

﹄︑﹃版芸術﹄︑﹃斯文﹄といった雑誌類を不定期的に送っている︒

  このうち︑﹃明日﹄は岩倉具正らの編集で一九三二年一二月に創刊され東京の明日会が発行していた隔月刊の文学雑誌︒その創刊号には小山政敏訳の魯迅作﹁祝福﹂が︑五号には増田渉の﹁支那の作家﹂が掲載されていた︵中島長文編﹃魯迅目睹書目  日本書之部﹄による︶︒また︑﹃

H A N G A

﹄は一九二四年二月に﹁

H A N G A N O IE

﹂より非売品として不定期に刊行された木版印刷本で︑一集一〇冊︒魯迅は一九二九年七月五日にその第五集から一〇集までを︑八月三日にはその第十一・十二集を内山書店から購入している︒魯迅はよほどこの木版画集が気に入っていたとみえて︑翌年の一月二七日には神戸あて八元六角を送金して第三・四・一三・一四集を取り寄せている︒つまり︑

北京魯迅博物館蔵(筆者撮影)

1933年11月13日に魯迅が受けとった山本初 枝一家の写真

(上海魯迅紀念館編『魯迅与国際友人図録』

より)

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渡辺:ある歌人の上海暮らし

魯迅の手元には第一集と第二集だけが欠けていた︒山本初枝から魯迅のもとに︑第一集から第四集までが一九三四年一月三一日に届けられた︒また︑﹃版芸術﹄は︑料治熊太編集で一九三二年四月に東京の白と黒社から刊行されていた月刊雑誌︒

  魯迅がこの三種の雑誌の購入を依頼した形跡は︑残された魯迅からの手紙には見当たらない︒戦災で焼失した手紙の中にあったのか︑あるいは︑﹃

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﹄が第一・二集だけ欠けていることが︑魯迅の書棚の記憶としてあったのだろう︒﹁先日﹃版画﹄四帖戴きました︒この木刻は三︑四年前にもう集めたものでしたが併し一及び二は当時版元にも品切れでしたのですから遂に手にはいれられませんでした︒今度初めて御厚意によって揃えたので大に感謝します﹂と一九三四年二月一二日の手紙で魯迅は感謝している︒その他︑山本初枝から魯迅に送られたものとしては︑﹁大東京百景版画集﹂とか﹁アララギ二五周年記念絵葉書﹂など︑魯迅の好んだ絵画や版画類が目につく︒

  一九三六年五月二六日に︑魯迅のもとに山本初枝から秋田雨雀︵一八八三〜一九六二︶の﹃五十年生活年譜﹄が届けられている︒あまり知られていないことだが︑晩年の魯迅は秋田雨雀に強い関心を抱いていた︒魯迅と秋田の共通の知人として︑一九二二年に北京の魯迅宅に寄寓した盲目のエスペランティスト作家のエロシェンコ︵一八九〇〜一九五二︶がいるが︑魯迅と秋田は面識はなかったものとおもわれる︒魯迅はもし日本に行く機会があれば秋田雨雀に会いたい︑一番話題が合うのは秋田雨雀だろうと考えていた︵原勝﹁一軒隣の魯迅先生﹂︶︒﹃五十年生活年譜﹄はこの年に東京のナウカ社から出版された︒革命論争華々しいころ︑魯迅は一九二九年一〇月一七日に秋田の﹃若きソヴェート・ロシヤ﹄を購入しているが︑山本初枝がな ぜこの本を魯迅に送ったのかは不明である︒上海時代に山本初枝は直接魯迅から秋田雨雀への関心を聞いていたのかも知れない︒

  残された魯迅の手紙には︑創作発表の自由がないことの辛さを訴えたものが多い︒最も早い一九三二年一一月七日の手紙は︑次のように訴えている︒

  この頃︑何か書こうと頗る思って居りますが何も書けません︒政府と其の犬たちに缶詰にされて社会との接触は殆ど出来ませなんだ︑その上子供は病気続き︒

  こうした訴えに対して︑山本初枝の為せることは歌を詠むことだった︒

ほしいままに著作発表しがたしと魯迅先生はなげき文よす︵﹃アララギ﹄一九三五年︶

八  魯迅の死後

  魯迅は一九三六年一〇月一九日に亡くなった︒   山本初枝は魯迅逝去の報に接し︑妻の許広平に弔電を打った︒   謹しんで御弔詞申上げます︒何も申上げる言葉もなく御同情致します︒坊ちゃんの事を思ひ悲しく存じます︒私も一人の男児を持ち一層御気の毒に存じます︒御身体を大切に︒十月廿六日夜  山本初枝︵魯迅紀念委員会編﹃魯迅先生紀念集﹄ 文化生活出版社 一九三七年︶

(18)

中 央 大 学 論 集

  山本初枝にとって︑魯迅逝去の悲しみは歌を詠むことで表現するしかなかった︒以下は﹃アララギ﹄一九三六年一二月号に載った初枝の作品のうち三首︒

賜はりし著書に献辞の亡き頃より魯迅先生は病みていましき

迅先生

悼魯

眉太く口髭しろき在りし日の面影に立つ今夜さぶしも 

家近く住みしよすがに魯迅夫妻と語りあひにし幸や思はむ 

  山本初枝は一九六六年九月二三日に亡くなった︒魯迅なき三〇年間を︑山本初枝は多難な半生を送った︒こころの支えになったのは︑上海における魯迅との交友の思い出と作歌であったように思える︒

  戦後少したっての頃だが︵山本初枝は︶﹁中国では山本初枝とはどういう女性かと︑私を問題にしているそうよ﹂とささやいた︒とにかく魯迅に話を向けると彼女は御機嫌がよくなった︒︵宮地伸一﹁山本初枝につき︵続︶﹂

年三月号︶   ﹃   新アララギ﹄第四巻第三号二〇〇一

  簡単に魯迅亡き後の山本初枝の生活ぶりを書いておこう︵吉田漱 作編  陳秋帆訳﹁山本初枝年譜﹂ ﹃魯迅学刊﹄第二期  一九八一年︒吉田漱﹁魯迅と山本初枝︱ある女性歌人の生涯︱﹂﹃日中藝術研究﹄三六号  一九九八年  などを参照︶︒ 一九三七年七月︑戦線の拡大にともない︑夫の山本正雄は揚子江航路の船長として︑予備海軍中佐の資格で徴集され︑初枝は夫の故郷の岐阜県飛騨神岡町から東京に転居した︒この年︑母の貞が亡くなった︒一九三九年元旦︑夫に会うために上海を経て南京に行く︒一九四一年一二月︑夫の正雄が脳溢血で倒れ︑一か月上海の病院に入院し︑その後長崎の病院に移る︒一九四二年六月︑夫の病気のため長崎に滞在し︑六月東京に移る︒九月二日︑正雄亡くなる︒長男正路を上海の東亜同文書院に入れるために︑上海に行く︒一人青山に住み神田の印刷会社の東光社に勤める︒一九四五年五月︑東京大空襲のため︑一切の家財道具と魯迅から贈られた手紙と本を失う︒一九四七年  東京青山から駒場に転居し︑上海で身につけた造花を教えて生活する︒一二月︑内山完造が上海から帰国させられる︒一九五六年︑神田の内山書店で働く︒八月︑魯迅夫人許広平が来日し︑二〇数年ぶりに会う︒内山完造︑魯迅逝去二〇周年記念行事に招かれて北京に行く︒一九五九年九月二〇日︑内山完造が北京で客死︒一九六〇年︑過労のために内山書店を退職︒手術後一年間長野県松代で静養する︒一九六二年︑天主教系の養老院の聖母収容所︵新宿区中落合二丁目五︱二一︶に入る︒一九六五年一〇月︑魯迅逝去三〇周年記念発起人に加わる︒一九六六年九月二三日︑聖母収容所附属の聖母病院で亡くなる︒

(19)

渡辺:ある歌人の上海暮らし

  決して幸せな晩年とはいえない日常の折々に詠まれた歌を時系列的に引いておく︒

魯迅先生逝きて十年賜はりしもの皆やきぬ思ふ侘しも︵一九四六年一一月︶御言葉は時に優しかりきするどかりき君亡き後に思ひしるかも︵一九五二年一〇月︶自らの生命をかけて幾度か魯迅助けしことも思ほゆ︵一九六〇年一月︶親しかりし魯迅先生も内山氏も上海の土に帰りたるはや︵一九六〇年一月︶上海に住みにし頃の記憶をたどり魯迅伝かかむと心決めたり︵一九六〇年一二月︶横を歩む我を支へし杖もがも厠にたつさへよろめくものを︵一九六一年一月︶

  十月一九日魯迅の訃をききし三十年前其日のなげきよみがへり来ぬ︵一九六四年一一月︶

  今もなお我の心の中に生く魯迅のことは書けどつきせず︵一九六五年七月︶   準備会に人等集りてあげつらへど魯迅に会ひし人わづかなり︵一九六六年五月︶

  遺書の中に我亡き後はさわぐなといひし魯迅の心しのばゆ︵一九六六年五月︶

  我もはや衰へし身のいかんせん手術をうけむ術あらなくに︵一九六六年九月︶   山本初枝の死去について︑歌の師である土屋文明は温かい言葉を寄せている︒直接魯迅と面識のなかった自分が魯迅から幅物を二幅も頂戴したのは山本初枝の依頼によったのだろうと感謝の言葉を述べ︑﹁︵山本初枝は︶晩年の数年は御主人の他界︑戦災と︑はたから見ても︑苦悩のつづきらしかった︒しかし山本さんは︑それにしょげることもなく︑淡々として生活されたように見えた︒豊かな時には惜しむことなく人に与えた山本さんは︑乏しくなっても決して人に求めることをせず︑その乏しきをさえわかつのであった︒私はそのことを深く心にしみて思う︒﹂﹁受けることばかり多かった私は︑今山本さんの死をいたむとともに︑山本さんに親切にして下さった人々に深く感謝申し上げたいと思ふのである︒十月六日﹂︵﹁山本初枝夫人のこと﹂ ﹃アララギ﹄一九六六年一二月号︶

  さて︑小論の結論として︑魯迅にとって山本初枝はどういう存在であったか︑どういう考えで魯迅は﹁花園荘にて﹂を山本初枝に贈ったのか︑そこにこめられたものは何か︑という問に何らかの解答らしきことをださねばならない︒だが︑先にも書いたように︑何の遠慮もせずに文学を含んだ日常生活のことを語り合える信頼できる友人であった︑というありきたりの答しかうかばない︒一方︑山本初枝にとって魯迅はどういう存在だったか︒両者のあいだには単に何でも話せる信頼できる友人以上の︑国境をこえ年齢差もこえた男女の関係に連なるものをみる考えもある︵南雲智﹃﹁魯迅日記﹂の謎﹄ TBSブリタニカ  一九九六年︶︒また︑初枝にとって魯迅は︑必ずしも幸せとは言いがたい家庭環境の寂しさを埋めてくれる﹁父性﹂のような存在をみる考えもある︵吉田漱﹁魯迅と山本初枝﹂前出︶︒

(20)

中 央 大 学 論 集

  想像は自由だが︑無遠慮な憶測はつつしみたい︒いまは︑日本の無名の一歌人と中国の著名な文学者のあいだに︑かくも暖かい友情に満ちたつきあいがあった︑ことを確認したい︒そして︑﹁花園荘にて﹂を初めとして日本人に送った数々の詩から︑この著名な文学者の日本に向けたメッセージをそれぞれが受けとめ考えていくことに意味があるのではなかろうか︒

︵商学部教授・中国語︶

参照

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