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「驢馬」における中野重治と堀辰雄

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(1)

「驢馬」における中野重治と堀辰雄

著者名(日) 木村 幸雄

雑誌名 大妻国文

38

ページ 211‑235

発行年 2007‑03

URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001345/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

﹁ 騒 馬 ﹂ における中野重治と堀辰雄

﹁腫馬﹂は︑大正十五年︵一九二六︶四月︑中野重治︑堀辰雄︑窪川鶴次郎︑西沢隆二︑宮本喜久雄︑平木二六らが創刊

した詩を主とする丈芸同人誌である︒同人たちは室生犀星のところに出入りしていた文学青年たちで︑犀星の存在が彼ら

を一つに結びつけ︑﹁騎馬﹂を立ち上げさせる要となっていたのである︒犀星との関係で︑芥川龍之介も︑﹁瞳馬﹂を見守

る後見人の位置を占めていた︒早くから犀星のところに出入りしていた堀辰雄は︑中野重治と出会う前から︑詩を書く面

︵ 注

l白い男がいると聞かされ︑中野が︑﹁裸像﹂に発表していた﹁浪﹂などの行情詩を愛請していたという︒﹁裸像﹂は﹁騒馬﹂

が創刊される一年ばかり前に出ていた同人雑誌で︑中野重治はそれに初期好情詩を発表していた︒大正十四年の暮︑田端

の宮木喜久雄の部屋で︑新しい同人雑誌創刊の打合わせが行なわれたとき︑中野重治と堀辰雄とが同席していた︒その席

で中野重治は︑新しく出す雑誌の名として︑﹁車輪﹂とか﹁赤縄﹂というのを提案したが︑それはあまりにも中野好み週ぎ

るという異議が出された︒中野重治は︑すでに大正十四年夏には新人会に入会しており︑十月には林房雄たちと社会文芸

(3)

一一

研究会をつくっていた︒そこで堀辰雄が︑彼の好きなフランシス・ジャムの詩から思いついて提案した﹁瞳馬しが同人一

同の賛同を得るところとなり︑それに決まった︒﹁櫨馬﹂創刊のとき︑中野重治は二十四歳︑東大文学部ドイツ丈学科三年

生で︑堀辰雄は二十二歳︑東大文学部国文学科二年生であった︒

﹁騒馬﹂の文学史的な位置づけについては︑すでに一つの定説が出来ている︒それは︑大正から昭和の初にかけての転換

期に登場した新しい二つの文学潮流|プロレタリア文学とモダニズム文学とのそれぞれの先駆者となる中野重治と堀辰雄

とが︑﹁騒馬﹂に仲良く同居しつつ︑革命の文学と文学の革命をめざす文学活動を競い合うことによって︑昭和文学史の新

しい一ページを切り開くことに寄与したというものである︒

しかし︑﹁櫨馬﹂創刊号︵大日・

4

から終刊号︵昭

3

5

︶にいたる約二年間に刊行された全十二冊の誌上において︑

中野重治と堀辰雄とが実際にどういう文学活動をどのように展開していたのか︑その具体的な内容についての考察が充分

になされてきているわけではない︒その聞には︑昭和二年七月の芥川龍之介の自殺前後の約九ヶ月にわたる休刊もはさま

れている︒そこで︑﹁櫨馬﹂誌上における中野重治と堀辰雄の文学活動の軌跡を具体的にたどり直してみておきたい︒その

( 創

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﹁櫨馬﹂における中野重治と堀辰雄

一 一

(5)

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(6)

この作品目録の対照表からうかがわれるところを︑かいつまんで整理してみておきたい︒

まず詩についてみると︑中野重治は一一十四篇の作品を発表しており︑そのなかにはプロレタリア詩の代表作として名高

い﹁夜明け前のさよなら﹂﹁歌﹂﹁機関車﹂などがふくまれている︒一方︑堀辰雄が詩の創作として発表しているものは︑

使

いずれも超現実的な詩的世界を斬新

な詩的レトリックを駆使して構築したモダニズムの詩となっている︒ところが同人雑記欄の方にも︑﹁ゴミ溜﹂﹁ハンモツ

ク﹂﹁冬の日﹂﹁田舎道﹂という四篇の詩の創作が発表されている︒これらの四篇がなぜ創作欄ではなく雑記欄の方へまわ

されたのかということについては後で検討してみたい︒

詩関係で目立っているのは︑堀辰雄がフランスの現代詩のなかから好きなものを選んで︑

紹介していることである︒その総数は四十四篇にのぼる︒数の多い詩人からあげれば︑ジャム十五篇︑

l

アポリネ

l

ル七篇︑ジヤコブ五篇︑サルモン二篇︑カルコ一篇となっている︒ジャムの十五篇は︑四行詩ばかりを一度に

まとめて訳して発表したものだから︑これを別にすれば︑

l

アポリネ

l

ルという前衛詩人のものが多い︒この二

人については詩人論も書いており︑堀の創作詩への影響もうかがわれる︒

いずれも詩論︑あるいは詩人論として書かれている︒中野重治が︑﹁詩に関する二三の断片﹂

︵一︶︵二︶︑﹁郷土望景に現れた憤怒について﹂という朔太郎論︑﹁啄木に関する一断片﹂を書いている︒﹁啄木に関する一

断片﹂は︑新人会の学内講演会での講演を﹁櫨馬﹂に評論として発表したものである︒これらは︑詩の変革と新しいプロ

レタリア詩の確立をめざして書かれた詩論であり︑詩人論である︒

ジャン・コクトオに就

アポリネエル﹂という二篇の前衛詩人論を書いている︒いずれも︑詩の変革と新しいモダニズム詩の開花

を求めて書かれている︒

L時代の中野重治と堀辰雄が︑プロレタリア詩とモダニズム詩と方向は異なるが︑

共に詩の革新に情熱を傾け︑競い合っていたことがうかがわれる︒

(7)

小説についてみると︑中野重治は一篇も発表しておらず︑堀辰雄は﹁錯覚﹂﹁即興﹂の二篇を発表している︒ただし︑

ずれも筋のあるいわゆる小説ではなく︑むしろ散丈詩に近いものとなっている︒

翻訳では︑さきにみたとおり︑堀辰雄のフランス現代詩の訳詩が圧倒的に目立っている︒それらの翻訳を通じて︑堀は

新しい詩精神と詩法とを摂収することにつとめていたのである︒

ハイネの書簡や言葉を翻訳することを

通じて︑革命詩人の先駆者としてのハイネを見出すことにつとめている︒ゴリキ

l

宛のレ

l

ニンの手紙も翻訳している︒

﹁腕組馬﹂創刊号に︑中野重治は二篇の詩︑﹁煙草や﹂と﹁北見の海岸﹂を発表している︒﹁煙草や﹂は︑ある一軒の﹁煙草

や﹂に寄せる﹁僕のさぶしい好意﹂を歌ったもので︑さきに﹁裸像﹂に発表されていた一連の初期持情詩の延長線上にお

いて書かれている︒犀星らの大正期の汗情詩を愛読することによってはぐくまれてきた﹁感情﹂詩派的な行情詩の圏内に

とどまるものとみてよかろう︒それに比べるともう一篇の﹁北見の海岸﹂の方は︑そこから一歩プロレタリア詩的な方へ

踏み出しているところがうかがわれる︒竹内栄美子は︑この詩を﹁裸像﹂期の行情詩とのちのプロレタリア詩との中間に

︵ 注

2位置づけている︒中間というよりも転換点に位置するものとみるべきであろう︒

ここで︑﹁櫨馬﹂期の中野重治の詩の性格を見るために︑昭和十年刊の最初の﹃中野重治詩集﹄︵ナウカ社刊昭mU

をふりかえってみておくと︑それは第一部︑第二部︑第三部の三部構成になっている︒この構成区分は︑詩が書かれた時

期︑発表誌紙の種別︑詩の性格などを勘案してなされているものと考えられる︒第一部には︑大正十四年一月から五月に

かけ︑﹁裸像﹂第一号から第四号にわたって発表された初期好情詩がおさめられている︒そして第二部には︑大正十五年四

月から十一月にかけて︑﹁櫨馬L創刊号から第七号にわたって発表された転換期の行情詩がおさめられている︒それらの詩

(8)

篇は︑まさに大正が終り昭和が始まるという転換の年に書かれており︑﹁裸像﹂期の持情詩から第三部の昭和初年代のプロ

レタリア詩への転形期の性格をおびている︒そういう詩の第一作が﹁北見の海岸﹂にほかならない︒最後の第三部には︑

昭和二年から六年にかけて書かれ︑﹁瞳馬﹂やプロレタリ文学運動︑革命運動関係の新聞や雑誌に発表されたプロレタリア

詩がおさめられている︒同じ﹁櫨馬﹂に発表されたものでも︑大正十五年十一月刊の第七号に掲載された﹁帝国ホテル﹂︑

i

ル ・

iデル﹂以下は第三部におさめられている︒その辺の時期区分は明確になされている︒

そういう展望をふまえながら︑﹁北見の海岸﹂の転形期の好情詩としての性格に注目してみたい︒海岸に題材を取った好

に寄せて︑秋のさ︑びしい旅情を歌いあげたものであり︑﹁浪﹂は︑はてしなくつづく磯に︑朝から夕方にかけて寄せては崩

れる動きを無限に反復している白浪のイメージに託して︑広漠たる寂塞感を歌っている︒いずれにしろそれらは自然に寄

りそって歌われた伝統的な短歌的持情詩の系譜につらなるものにほかならなかった︒

ところが﹁北見の海岸﹂になると︑︿黒い人影﹀が登場して来て︑それに寄せる社会的・階級的な思いやりが持情の核と

なっている︒﹁浪﹂と﹁北見の海岸﹂との違いは︑両者の冒頭の部分をあげてみるだけで明らかとなる︒

人も犬もゐなくて浪だけがある

浪は白浪でたえまなく崩れてゐる

浪は走ってきてだまって崩れてゐる

浪は再び走ってきてだまって崩れてゐる

︵ 浪 ︶

(9)

}¥ 

沖合はガスにうもれて居る

その濡れた渚に黒い人影が動いて居る

黒い人影は手綱を提げて居る

黒い人影は手綱をあげて乏しい獲物をたづねて居る

黒い人影は誰だろう

黒い人影はどこから来ただらう

濡れた渚に影絵のように登場してさまよう︿人影﹀のイメージといえば︑先行するものとして朔太郎の﹁春夜﹂に︑﹁と

というのがあったことに思い当る︒﹁春夜﹂の渚にさまよう﹁病人の列﹂のイメージが︑期太郎の内部に巣食っていた︿疾

患意識﹀から生まれたものであったとするならば︑﹁北見の海岸﹂の渚にさまよう﹁黒い人影﹂は︿貧しい家族の群﹀のイ

メージとなっており︑それは中野重治の内部にめざめた︿階級意識﹀から生まれたものであったにちがいない︒

中野重治には︑︿階級意識﹀以前に︿塵労意識﹀というものがあった︒すなわち︑﹁俗世間のわずらわしい骨折り﹂を思

いやる意識があった︒最初に発表した詩の習作の総題が﹁塵労紗﹂となっていたのにかけて︑かつて私は中野重治を﹁塵

労の詩人﹂と呼んだことがある︒﹁裸像﹂期の一篇に﹁夜が静かなので﹂があるが︑それは︑﹁何事も意にまかせず空しく

六十になる父のかなしみ﹂︑﹁大きな不幸でも来るやうでしょっちう心配でならぬ母のかなしみ﹂︑﹁すこし正直すぎる出戻

りの姉娘のかなしみ﹂と︑﹁塵労﹂から生まれる肉親たちの﹁かなしみ﹂を思いやって歌いこんだ持情詩であった︒それに

(10)

比べると﹁北見の海岸﹂に﹁黒い人影﹂として登場してくる貧しい家族の群が背負っている﹁塵労﹂は︑もっと社会的・

階級的な視野のひろがりのなかにおいてとらえられ︑歌われていると言えよう︒

やがてここを汽車が通るやうになるかも知れぬ

大きな建物が立って

高い煙突から黒い煙が上るやうになるかも知れぬ

そして賑かな油ぎった歓声がわき上るかも知れぬ

そしてその時

黒い人影はどこに居るだらう

彼の息子や娘はどこに居るだらう

彼らは病気をせぬだらうか

そして医者が居るだらうか

彼らは死なぬだらうか

このように﹁北見の海岸﹂の﹁黒い人影﹂にまつわる﹁塵労﹂は︑資本主義的発展の影に追われて北へ北へと流浪をつ づけ︑その犠牲となって行くプロレタリアの﹁塵労﹂として階級意識をもってとらえられている︒その点に注目をして︑

︵ 注

3

ミリアム・シルパパ

lグは︑﹁北見の海岸﹂を﹁マルクス主義の観点にたってものごとを見た最初の詩﹂として評価してい

る︒たしかに﹁浪﹂の自然から﹁北見の海岸﹂の人事への変化︑また﹁夜が静かなので﹂の︿塵労意識﹀から﹁北見の海 岸﹂の︿階級意識﹀への発展には︑中野重治のマルクス主義受容がかかわっていたにちがいない︒

(11)

ここで︑大正十四年五月に﹁裸像﹂が終刊となってから︑大正十五年四月に﹁瞳馬﹂が創刊されるまでの約一年間の中

野重治の経歴をかいつまんでふりかえってみておきたい︒﹁裸像﹂終刊後の中野重治は︑﹃街あるき﹄に描かれているよう

な訪僅期を経て︑大正十四年夏ころ東大新人会に入会︑十月には林房雄らと社会文芸研究会をつくっている︒翌十五年は

じめには新人会の合宿に移り︑そこでマルクス主義文献の学習会などもやっている︒そして︑そこから共同印刷のストラ

イキ支援に派遣され︑労働者街に住込んで働いている︒﹁騒馬﹂第二号に発表された﹁夜明け前のさよなら﹂はその時の体

験から生まれている︒二月には︑社会文芸研究会をマルクス主義芸術研究会︵マル芸︶に発展させている︒そうした遍歴

のなかでのマルクス主義受容が中野重治に思想の変革をもたらし︑それが詩の変革へと連動して︑﹁北見の海岸﹂のような

詩が生まれたのである︒

一方︑堀辰雄は︑﹁腫馬﹂創刊号に︑﹁杖のさき︵アポリネルその他︶﹂という総題で八篇の訳詩を発表している︒アポリ

l

lの﹁悪い旅人﹂︑サルモンの﹁エピグラム﹂﹁無題﹂︑ジャコブの﹁僕の一生

は三行だった﹂︑カルコの﹁大通り﹂の八篇で︑いずれもフランス現代詩人たちの作品から好みのものを選んで翻訳してい

る︒この創刊号をはじめとして︑第二号以下第八号に至るまで︑毎号欠かさずフランス現代詩の訳詩を数篇ずつ発表しつ

づけている︒とくにコクト

l

アポリネ

l

ルという前衛詩人たちの翻訳・紹介に力を傾け︑影響も受けている︒

そういう堀辰雄の精力的な翻訳・紹介ぶりについて︑中野重治が回顧し︑﹁騒馬﹂の連中がいったいに田舎者風で︑新し

い知識︑世界知識がとほしいなかに堀がいて︑﹁ヨーロッパのごく新しいところへ向けて︑窓をひらいてくれるということ

であった﹂︑﹁断片的ではあっても︑生きたほんものが堀の手でわれわれに分けられたようだつた﹂と述懐している︒それ ︵ 注4

はそうであったにちがいないが︑むろん堀辰雄は第一に自己のために翻訳の仕事にうち込んでいたのである︒

現代詩の翻訳を通じて︑ヨーロッパの二十世紀の前衛的な芸術精神と表現方法とを摂取しようとつとめていたのである︒

そして︑それをささえとして︑自己独自の新しい文学の道を切り開いて行こうとしていたのである︒

(12)

自己独自の芸術の立場を守り通すという点において堀辰雄は頑固であり︑潔癖であった︒﹁騒馬﹂の同人たちが︑中野重

治をはじめとしてプロレタリア詩の方へ急速になだれをうつように左傾して行くなかで︑堀辰雄はただ一人とり残される

思いをかみしめながら︑自己独自のモダニズム文字の立場を守り通している︒

そういう堀辰雄の芸術的な頑固さ潔癖さは︑﹁櫨馬﹂創刊号の誌面からもうかがわれる︒目次を見ればわかるとおり︑堀

辰雄以外の同人たちは︑中野重治をはじめ︑窪川鶴次郎も︑平木一一六も︑西沢隆二も︑宮木喜久雄も︑それぞれ詩を数編

ずつ発表している︒そのなかで堀辰雄だけがさきにあげた訳詩のみで︑創作の詩を発表していない︒ところが創作欄では

なく雑記欄の方に︑二篇の詩を発表しているのである︒それも手のこんだ発表の仕方をしている︒その雑記のタイトルは

﹁何と云ったらいいか﹂となっていて︑﹁実は去年の夏うっかり書いてしまったがあんまりだったので僕の自尊心の奥ぶか

くへ隠しておいたのを︑いま他の詩が無くって仕方なく取出したものであることを︑僕は何と云ったらいいだらうかしら﹂

とことわったうえで︑﹁ゴミ溜﹂﹁ハンモックよ﹂という二篇の詩を発表している︒前者はゴミ溜にからめて恋を藷諺的に

歌った詩であり︑後者はナイーブな恋心をハンモックに寄せて斎酒に歌っている︒

ハンモックよ

お前︑置いてきぼりにされたのを知ってゐるか

昨日この別荘を

お嬢さんは去ってしまったのだ

たぶんお前も僕も倦きられてんだらうよ

それにいまこの庭から逝かうとしてゐる

一一

(13)

一一

その夏のうしろ姿は

昨日のお嬢さんのうしろ姿そっくりだ

僕はそれをただ黙って見送る他はないのだ

こう歌い出されている﹁ハンモックよ﹂には︑いかにも堀辰雄らしいやさしいニュアンスや機智的な比喰や見立てが生

かされており︑他の同人たちの詩と比べてもそんなに遜色があるとも思えない︒にもかかわらず︑これを詩として創作欄

に発表することをためらい︑雑記欄の方へまわしたのは︑一言で言えば堀自身の芸術的な白侍心の高さにほかなるまい︒

アポリネ

1

ルやコクト

l

の前衛的な現代詩を翻訳することを通じて革新された堀辰雄の詩眼から見れば︑﹁ゴミ溜﹂も﹁ハ

ンモツクよ﹂も詩以前の未熟な習作に見えてきたのにちがいない︒そこに歌われている感情はなお自然の移り変わりに従

属したままで︑主体的に自立したものとはなり得ていない︒それを歌っている言葉は︑日常の経験的な世界の表面をなぞ

る域を超えることができていない︒つまり︑まだ作品が言葉そのものによって構築された自律的な詩の世界を獲得し得て

いない︒そのことは︑創刊号に訳されているアポリネ

l

ルの﹁鏡﹂やコクト

l

の﹁悪い旅人﹂に照らせば歴然とわかると

アポリネ

l

コクト!の﹁悪い旅人﹂も︑現実を超越したところに︑言葉そのものによって構築された自

律的な詩の世界を実現している︒生活体験によりかかるところに詩の真実の保証を求めようとはしていない︒一言葉によっ

て構築された虚構の中に芸術的な真実を求めている︒アポリネ

l

ルは︑﹁鏡﹂の中に映し出される自己の姿に︑現実の自己

の姿の﹁反映﹂を見るのではなく︑天使に通じる自己の﹁真実﹂を求めていたのである︒

l

の﹁悪い旅人﹂は︑旅

先で見た海の美しさを体験的に語ることを拒絶し︑奇抜な比聡をつぎからつぎへくり出して︑それを超現実的な斬新な美

そのものとして歌っている︒そういう前衛的な詩の翻訊を通じて新しい芸術精神と創作方法とを摂取しつつ︑堀辰雄独自

(14)

の詩の芸術的革新の道へと踏み出そうとしていたのである︒

﹁櫨馬﹂第二号は二つの点で壮観である︒一つには中野重治のプロレタリア詩の第一作﹁夜明け前のさよなら﹂と︑堀辰

雄のモダニズム詩の第一作﹁ファンタスチック﹂とが同時に発表されている︒もう一つは︑同人以外から高村光太郎︑萩

原朔太郎︑室生犀星︑芥川龍之介︑佐藤春夫らが寄稿していることである︒巻頭をかざっているのは﹁夜の二人﹂という

光太郎の﹁智恵子抄﹂の一篇である︒つまりそういう誌面の作り方からして︑中野重治も︑堀辰雄も︑大正期の先行詩人

たちの詩の水脈を継承しつつ︑それをのり超えて詩の革新の道に踏み出そうとしていたのだということが知実にうかがわ

僕らは仕事をせねばならぬ

そのために相談をせねばならぬ

然るに僕らが相談をすると

おまはりが来て眼や鼻をたたく

そこで僕らは二階をかへた

露路や抜け裏を考慮して

このように決然と歌い出される﹁夜明け前のさよなら﹂が︑中野重治の共同印刷のストライキ支援の体験から生まれた

一一

(15)

ものであることは周知のところである︒その体験については﹃むらぎも﹄にもくわしく描かれている︒しかし原体験がそ

のまま詩になるわけではない︒体験をそのまま言葉に移しかえても詩にはならない︒原体験を詩の世界へと飛期させるた

めには言葉が想像力に乗ってはばたく翼とならなければならない︒新しい詩が成立するためには想像力をかき立てる新し

い詩の理念と新しい表現法との獲得が必要となる︒

﹁夜明け前のさよなら﹂をプロレタリア詩の第一作として成立させた新しい詩の理念と方法については︑第三号の巻頭に

かかげられた﹁詩に関する一一一一一の断片﹂という詩論において明らかにされている︒詩論の冒頭に︑ブハ

l

リンとプレオブ

ラジェンスキーによって編まれた﹃共産主義入門﹄の献辞を訳してかかげ︑それが﹁一一編のすぐれた持情詩﹂となってい

ることを立論し︑﹁持情詩﹂の概念の変革を迫っている︒単純化して言えば︑個人の感情を繊細に歌いあげる﹁個人主義的

な行情詩﹂をのり超えて︑集団の感情を力強く歌いあげる﹁集団主義的な行情詩﹂の制作を提唱している︒そういう提唱

を︑﹁夜明け前のさよなら﹂が実作において先取りしていたことは︑

ろ ︑ つ ︒

﹂こに六人の青年が眠ってる

下には一組の夫婦と一人の赤ん坊とが眠っている

僕は六人の青年の経歴を知らぬ

彼らが僕と仲間であることだけを知って居る

僕は下の夫婦の名前を知らぬ

ただ彼らがこの二階を喜んで貸して呉れたことだけを知って居る

(16)

この詩論のなかで︑中野重治は︑大正期の詩壇の潮流を︑幻想詩派︑回想詩派︑叫喚詩派の三派に分けてとらえ︑それ らのいずれも﹁全然無産階級的でない﹂としてしりぞけ︑﹁無産階級の詩﹂︑﹁吾らの詩﹂の新しい理A子乞つぎのように提示

微少なるものへの関心が必要である︒

強宕なる拍調と新鮮なる感覚とを持ち︑その歴史的使命を自覚せる無産階級の意識によって裏付けられた吾らの詩は︑

微少なるものへのこの関心を恐らくは必要とするであらう︒

ここに強調されている﹁微小なるものへの関心﹂とは︑小さな事実・物への関心であり︑それらへ関心を持ち︑眼を向 けることが︑新しい真理を発見する道につながるという︒言われていることは別に新しいことではないが︑中野重治はそ れを唯物論的な認識の基本とておさえ直し︑新しい詩が空疎な観念に足をすくわれることを警戒していたのにちがいない︒

その﹁微小なるものへの関心﹂が︑﹁夜明け前のさよなら﹂のなかでよくうかがわれるところは︑第四連の前半である︒

夜明けは間もない

この四畳半よ

コードに吊されたおしめよ

煤けた裸の電球よ

セルロイドのおもちゃよ

貸布団よ

(17)

̲ L .  

ノ、

ここに﹁微小なるものへの関心﹂が︑労働者の家庭生活のなかに見られるこまごまとしたものへの関心として︑﹁さよな

ら﹂という別れの行情につつまれて歌いあげられている︒そしてその夜明け前の別れは︑ただちに﹁夜明け﹂に向けて︑

未来に向けて︑革命に向けての出発とつながっている︒

その花を咲かせるために

僕らの花下の夫婦の花

下の赤ん坊の花

それらの花を一時にはげしく咲かせるために

この結びにおいて︑﹁歴史的使命を自覚せる無産階級の意識﹂は︑﹁花を咲かせるために﹂という暗輸に托された目的意

識として歌いあげられている︒﹁夜明け﹂という詩語に自然の夜明けと社会の夜明けとがダブル・イメージとして重なって

いること︒﹁花﹂が﹁革命﹂の暗険として歌われていることは言うまでもあるまいが︑そこにこの詩の転形期の好情詩とし

ての性格を見出すこともできよう︒

さて堀の方は︑第二号にモダニズム詩の第一作である﹁ファンタスチック﹂を発表しているばかりでなく︑

l

﹁瑠璃草﹂﹁寓話﹂を訳しており︑また﹁馬耳東風﹂という雑記欄にも﹁冬の日﹂﹁田舎道﹂という詩の習作を発表している︒

(18)

そこで﹁騎馬﹂第二号の誌面において︑詩のモダニズム的変革の追求過程にある堀辰雄を三つの側面から見ることができ まず﹁ファンタスチック﹂の革新的な詩的イメージの展開に注目してみたい︒

わたしは小さな詩集を持ってゐる

そのなかに詩でつくった花畑があり

そこを開くといつも

さまざまな花の匂がする

その花畑にある晩

一人のお嬢さんが散歩しにきた

咲いた花を寝かすため

すっかりランプを消したとき

誰だかそそっかしく

月のラムプまで消してしまったので

お嬢さんはただくらい風の束のやうである︒

草むらの暗がりをこはがり

ぢつとしてゐた蛾は

そのくらい風のやうなものに流されてくる

かすかな光を見つけるとうれしさうに

(19)

)¥ 

翼をばたばたさせて飛んで行った

夜明の光を凝らしたやうな石が

指輪にかがやいてゐたのである

お嬢さんは声に陰をあつめて

わたしはいつ蛾になったのかしら

お嬢さんの指のさきは火の匂ひがした

﹁ファンタスチック﹂というタイトルの通り︑幻想性に富んだ詩となってなっている︒その幻想性もモダンな幻想性であ

る︒都会風のお嬢さんが散歩にくるのは︑詩集のなかの﹁詩でつくった花畑﹂である︒創刊号の雑記欄の﹁ハンモックよ﹂

のなかでお嬢さんが登場する軽井沢の別荘よりもより幻想的で人工的な空間となっている︒そして︑﹁ハンモックよ﹂のな

かに登場する﹁僕﹂は︑夏とともに去り行く﹁お嬢さんのうしろ姿﹂をただ黙って見送るだけだったが︑﹁ファンタスチツ

ク﹂に登場する﹁わたし﹂は︑﹁蛾﹂に変身して︑﹁くらい風のやうなもの﹂となって散歩する﹁お嬢さん﹂の指輪に輝く

宝石の光を追いかけ︑その指のさきに﹁火の匂﹂を嘆いでいる︒光にあくがれてはばたく朔太郎の﹁蛾﹂は︑憂欝で重苦

しい﹁蛾﹂であったが︑堀辰雄の﹁蛾﹂は︑小さないたずら者のような軽快さを身につけて︑はばたき︑﹁お嬢さん﹂の後

この詩のイメージの展開の軽快さや機知に富んだ見立てや新鮮な比喰は︑フランス現代詩の翻訳を通じて堀辰雄が身に

つけたものであろう︒この号に発表されているコクト

1

の﹁瑠璃草﹂や﹁寓話﹂という訳詩にも︑イメージの多面的で軽

快な展開︑斬新な比除︑奇抜な機知などがちりばめられ︑織りこまれている︒そういう詩に比べて︑雑記欄に発表されて

(20)

タイトルからして土臭く︑﹁まるで田舎娘の後をつけてでもゐるやうに﹂という比聡も古臭い︒﹁田舎

道﹂が道端から抜き取られた根や土くれのついたままの草花︑だとするならば︑﹁ファンタスチック﹂は人工的な詩の花畑か

ら切り取られた切り花の美しさということになろう︒神西清によれば︑堀辰雄には︑﹁花束を人に贈るにあたって︑根だの

︵ 注

5土くれごとは渡したくない﹂という﹁詩人的潔癖さ﹂があったという︒﹁田舎道﹂を雑記欄にまわしたのには︑そういう

﹁詩人的潔さ﹂がはたらいていたのかも知れない︒﹁田舎道﹂と﹁ファンタスチック﹂との違いは歴然としており︑そこに

堀辰雄の詩の変革を追求する足どりと苦心のあとをみることができよう︒

堀辰雄が︑﹁騒馬﹂第四号の巻頭に発表している﹁石鹸玉の詩人

l

論として書かれたものであるが︑﹁ファンタスチック﹂のような幻想性に富む斬新な詩の成立をうながしささえるモダニズ

ム詩論ともなっている︒そのなかからモダニズム詩の理念と詩法とを読みとることができよう︒アポリネ

l

l

を比べ︑前者には﹁ファンタスチックの匂﹂が感じられ︑後者にはそれに加えて﹁リアルな苦味﹂が感じれるという︒堀

辰雄の﹁ファンタスチック﹂には︑たしかにアポリネ

l

ル的な﹁ファンタスチックの匂﹂は感じられるが︑まだコクト

l

の﹁リアルな苦味﹂は感じられない︒堀辰雄の詩が︑

l

の﹁リアルな苦味﹂を獲得するのは︑﹁腫馬﹂の最後の号と

なる第十二号に発表する﹁病﹂においてである︒それについては後であらためて述べるとして︑このエッセイで︑堀辰雄

l

に託して︑﹁危険な偽踊﹂の創造を通じて美と真実とを追求するのが詩だという新しい詩の理念と方法について

語っていることに注目しておきたい︒中野重治が︑﹁詩に関する一一三の断片﹂を書き︑﹁夜明け前のさよなら﹂を成立させ

たプロレタリア詩の理念と方法とを明らかにしたように︑堀辰雄は︑﹁石鹸玉の詩人﹂を書き︑﹁ファンタスチック﹂を成

立させたモダニズム詩の理念と方法とを明らかにしたのである︒

(21)

中野重治が︑﹁騎馬﹂第五号に発表した﹁歌﹂は︑二百で言えば行情詩の変革をテ

l

マとして歌いあげた転形期の詩にほ

かならない︒﹁お前﹂と自分に呼びかけながら詩人としての自己変革を迫っている︒

お前は歌ふな

お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな

風のささやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな

﹁歌ふな﹂という呼びかけのくり返しで過去の行情詩との決別を歌いあげているが︑この﹁歌ふな﹂という呼びかけが︑

﹁ふしぎに僕等の心をとらえる﹂ことについて︑堀辰雄が︑﹁この中で彼が赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふことをしなかっ

たからではなく︑むしろ赤ままの花やとんぼの羽根を彼らしく歌ってゐるからではないか︒これはほんの一例にすぎない

︵ 注

6が︑僕はさういふところに中野の詩人としての悩みがあるだらうと思ってゐる﹂と語っている︒これはまさに知己の弁と

いうべきであろう︒堀は中野が誰よりも﹁赤ままの花やとんぼの羽根﹂の美しさに心をひかれる細かい神経の持主である

ことを知っていたのであり︑その中野があえて行情詩の変革の立場に立って︑﹁歌ふな﹂という呼びかけにおいてそれらを︑

﹁彼らしく歌ってゐること﹂を理解していたのである︒そして︑中野の詩人としての悩みが︑詩の変革の立場に立つ﹁詩人

としての悩み﹂であることをも理解していたのである︒それは方向が違うとは一言え︑堀辰雄自身の﹁詩人としての悩み﹂

(22)

﹁歌﹂において︑﹁赤ままの花やとんぼの羽根﹂を歌うことと訣別した中野重治は︑同時に発表された﹁機関車﹂におい

て︑機関車の構造と運動とを力強く歌いあげている︒

彼は巨大な図体を持ち

黒い千貫の重量を持つ

彼の身体の各部は悉く測定されてあり

彼の導管と車輪と無数のねじとは隅なく磨かれである

彼の動くとき

メートルの針は敏感に廻転し

彼の走るとき

軌道と枕木と一せいに振動する

このように歌い出される﹁機関車﹂の新しさは︑詩人の眼が︑外部の物体の構造と運動とを分析的に明析にとらえ︑力

強く歌いあげているところにある︒

さて︑堀辰雄が﹁櫨馬﹂第十号︵昭

2 ・ 3

︶に発表している﹁詩L

リア詩への転換を歌いあげ︑﹁詩﹂はモダニズム詩への変換を指向している︒﹁詩﹂は︑女記号によって前半と後半に分け

風のなかを

(23)

僕は歩いてゐた

風は手袋の毛をむしり

風は皮膚にしみこむ

その皮膚の下には

骨のヴァイオリンがあるといふのに

風が不意にそれを

鳴らしはせぬか

これが﹁詩﹂の前半の二連であるが︑第一連で普通に外部を歌っていたのが︑第二連で﹁皮膚の下﹂の内部を歌う方へ 変換され︑﹁骨のヴァイオリン﹂という斬新奇抜なイメージが自己の内部から立ちあがってくる︒そして︑女で区切られた 後半になると︑﹁蝕歯﹂をイメージの核として︑もっと錯乱した幻想的な内部のイメージが開示されている︒

硝子の破れてゐる窓

僕の蝕歯よ

夜になるとお前のなかに

洋灯がともり

ぢっと聞いてゐると

血やナイフの音がしてくる

(24)

このように内部の錯乱した幻想的なイメージを詩の中に織り込み︑詩を変革する手法は︑

アポリネ

l

I

に学

んだものであろう︒

私の骨の小さな森の中に

私の動脈の青い木の中に

花と魚と小鳥とがいりまじってゐる

この三行は︑堀辰雄が︑﹁美しい怖さ﹂を感じさせる好きな詩句として︑

l

の詩のなかからぬき出して訳し︑﹁石 鹸玉の詩人﹂の結びにかかげていたものである︒この三行と﹁詩﹂の前半第一一連の発想の類似性に注目するならば︑﹁詩﹂

の出自はおのずから明らかとなろう︒類似の発想とイメージは︑堀辰雄が﹁瞳馬﹂の最後の号となる第十二号︵昭

3

・ 5

に発表した﹁病﹂にも見出される︒

僕の骨にとまってゐる

小鳥よ肺結核よ

おまへが瞬で突っくから

僕の疾には血がまじる

一一

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