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に詠まれた場合を見ると︑それはいつでも︑我とわが心の悲しゑを
﹁なぐさめる﹂ためであったことがはっきりする︒蜻蛉日記では︑
わりなく身心うぐ人つらく悲しく覚ゆる日ありつくづくと詠む ︑るに思ふやう
降る雪につもる年はをよそいつ上
消えむ期もなき身をぞ恨むる
など思ふほどに︑云々
などのやうに︑﹁など思ふ﹂の句で支へたところは︑多く自分の感懐
を述べた作歌であって︑それは悲しゑの痛承を自分で撫でてゐるや
うな面影を持ってゐるのである︒
花に咲き実になりかはる世を捨てL 浮葉の露とわれぞ消ぬくき
など思ふまで日を経て同じやうなれは心細しよからずぱとの承
思ふ身なれば露ばかり惜しとにはあらいをた壁この一人ある人
︵道綱︶いかがせむとばかり思ひつ壁くるぞ涙せきあへぬ
このやうな記述に見ても︑ひとり詠まれた歌がいかに﹁なぐさめ﹂
としてその力をはたらかしたか明らかであるとともに︑歌はそのや
うな性格のものとして︑この時代の中にその性格の一つを作り上げ
たのではあるまいか︒讃岐典待日記などを見れば︑このことは一そ
う明らかで︑日記の最後に
1おもひやれ慰むやとて書きおきし
言の葉さへぞ見れば悲しき
︑
と記し︑更に日記の中には
5 思ひ出づれば我君に仕うまつること春の花秋の紅葉を見ても月
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王朝初期の文学の一つの性格はこのやうな﹁なぐさめ﹂の性格を
もつたことは︑その文学を考へる時に必要なことであると共に︑そ
の傾向は︑時代的にいへぱ公任以後において変化して来るやうに考
へられる︒.それは中世に形成される︑いばぱ学問的︒註釈的能度が
次第に古典に向って形づくられる気運が生れ来るやうになったとき
からの出来ごとで︑それはまた稿を改めて記したい︒ の曇らぬ空をながめ雪の朝御ともに侍ひてもろともに八年の春 秋つかうまつりしほど常はめでたきこと多く朝の行夕の御笛の 音忘れ難きに慰むやとしいづる事ども書きつ壁くれば筆のたち ども見えず霧りふたがりて硯の水に涙落ちそひて水茎のあとも ながれあふ心地して涙ぞいと堂増るやうに書きなどせむにまぎ れなどやするとて書きたることなれば猿捨山になぐさめかねら れて堪へ難くぞ のやうな一節は︑書くことの動因が︑このやうな﹁なぐさめ﹂にあ ったことを明らかにしてゐる︒それは︑当時の入たが文学といふも のに対する考方であったと取ってよいのではあるまいか︒作家だけ の立場ではなく︑読む者の立場に鎧いてもそれは同様であったので はあるまいか︒印刷といふ行為がなかった時代︑書き写すことによ って伝へられたとき︑書き写すこと︑そのことも一つの﹁なぐさめ﹂ として生きゆく心のたよりとなっていったのではあるまいかと想像
したくなる︒それに︑このやうな態度は源氏物語や︑枕草子などの作品におい
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ても決して失せたのではないし︑またその頃の読者にしてもまたさ
うであったとして考へてよささうである︒紫式部日記の中に注意さ
れてよい一節がある︒
いかにやいかにとぱかり行末の心細さはやる方なきものからは
かなき物語などにつけてうち語ふ人おなじ心なるはあはれに書
き交しすこしけどほきたよりどもをたづねても言ひけるをただ
これをさまざまにあへしらひそぞろごとにつれづれを言ひなぐ
さめつつ云々
この﹁はかなき物語﹂﹁つれづれを言ひなぐさめる﹂このやうないひ
表はし方の中に︑やはりこの時代の文学︑物語の考方が顔を現はし
ているのではないかと思ふのである︒
今日︑それは中世以来の大きな課題である諸本の発生の問題であ
る︒概観すれぽ︑王朝期の作品においてこの問題は多くのものを残
してゐるやうである︒私はその方に詳しいものではない︒だが︑徒
然草においての諸本の現れ方は︑王朝期の勅撰集や?源氏物語︑枕
草子の比ではない︒︵そのことは︑一寸と前に触れた公任以後から起
りつつあった文学に対する態度の変化から来てゐると老へるのであ さてこのやうに︑﹁なぐさめ﹂に形づくられた文学lそれは作者 も読者も共にそのやうに理解しつつIといふ一つの考方︑文学の 一性格としてこれを認める考方を文学史の問題として︑古代文学の 世界にゑちびき入れて考へて承る一つの試象をここに呈示して結び
の試ゑを終りたい︒る︒︶それから三十六人集などの猿丸集等の一群の後人が勝手に故人 の家集を︑いはぱ偽作するやうな行動︑このやうな異本発生と偽作 の成立することは︑文学を支へる一性格として︑この﹁なぐさめ﹂ の考方を入れる時に︑それは一つの仮説ではあるが多少の明るさを 加へるのではないかと思ふのである︒ 枕草子のやうな場合︑異本といってもあのやうに烈しいちがひを もって現れて来ることは︑今日の文学の考方からすれぽ殆ど考へら れない︒異本の研究には早く池田博士の考察があるから︑それによ って知ることが出来るが︑堺本や︑前田家本と︑春曙抄本や︑盤斉 抄本との相違は﹁後人のさかしらによって︑補入︑削除︑改修等が 加へられた﹂とする池田博士の考方は万人の妥当とするところであ
︑︑︑︑らう︒だが︑唯一つ︑それはさかしらからであったかどうかである︒既にくどく述べたやうに︑﹁なぐさめ﹂に成立し︑読者また文学の
一性格にそのやうなものを認めたときに︑今日考へられるやうな︑
著者とその作品の切りはなせない結びつき︑そして第三者がその作
品に一指も触れられないやうな考方が︑この頃は未だ成立してゐな
かったのでなからうか︒現に枕草子の作者ですらも︑年径れは齢は
老いぬの歌の結句をぱ︑君をし見れぱに改めて︑むしろその機智を
ぱ誇りかに示してゐるのを見れば︑一つの作品に対する心もちとい
ふものは︑今日とは変ってゐるのである︒他人の書ひたものを︑心
ひかれて︑書き写すといふことそれ自身が︑直接生活に必要でない
文学である場合︑書写する人の﹁なぐさめ﹂であり︑文学は﹁なぐ
さめ﹂なるが故に書写する者の心やりとして︑或る部分は︑これを
書き改め︑ある部分はここれを省筆して終ふといふ行動が︑何の意
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図もなしに自由に行はれたのではあるまいか︒このやうに考へなけ
れば猿丸集あたりの説明はつきかねるのである︒枕草子の異本発生
の過程にはやはりこのやうなものがなかっただらうか︒源氏物語の
場合でもまたこの考方によって多少の手がかりを得られるものもあ
ろう︒源氏物語を一弓の系列の物語の抱き合せにしたとの推定説
を︑もし許すとすれば︑そのやうなことを可能にしたことは︑人だ
がこの物語への考方︑そして前に引用した紫式部日記の一節に示さ
れたやうに︑紫式部とその読者か︑その物語の聞手たちの﹁なぐさ
め﹂としての語り合ひが︑そのやうに作品を作り上げさせたとまで
考へられさうである︒
このような考方は正統な意味で学問的でないかも知れないが︑文
学史への一方法として考へてゐる次第である︒
附記一九五四年九月十一日岐阜においての中部文学会総会の講
演要旨であることをおことはりします︒
︲軋代五句 11
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