﹁牛が宗教になれない﹂話
︱霊異記の世界︱
渡
部
和
雄
一
これらはく話﹀だから︑人生が話の中に生きる︒︿話﹀が成立 するとはそうした悲しいこと︒因果が︿話﹀に於て存在してしま
う︒話は次の様な世界を作る︒
上十六 大和の国に一の壮夫あり︒郷里姓名未だ詳ならず︒刃
骨不仁 喜殺生命︒其の人︑兎を捕へ皮を剥りて野に放つ︒
とある男は生活に関わる共同体への帰属を失っている︒話がそう
出来上っている︒だからこの男は作者のく失われた共同体への帰
属Vに相応している︒ ﹁天骨仁ならず﹂は共同体から拉致され︑
文明の中に甕讃するいけにえである︒この孤絶した犯罪に共存す
るのは文字通り﹁生命を殺すことを喜ぶ﹂こと︑具体的には﹁其
の人︑兎を捕へ皮を剥りて野に放つ﹂というそこだけである︒い
わば︿兎﹀だけが辛うじて︑この男の犯罪に並び立つことができ
そうに見える︒この男の犯罪を支えているのは︑兎という動物が
生きる自然形態・︿倫理﹀だけのようにも思われてくる︒
中二十二 和泉国日根の郡の部内に︑一の盗人有り︒道路の辺
に住む︒姓名未だ詳ならず︒天年心曲 殺盗為業 不信因果︒
⁝⁝浬樂経に云はく﹁蟻子を殺害するだに︑猶殺罪を得るも︑ 一闘提を殺すは︑殺罪あることなし︒﹂ ここには宗教に直対した個︒︿罪﹀による同時形成がある︒その 罪は瞳子に支えられているはずであった︒それにしては︑一般性 では罪とは法律の名ではなかったか︒蟻には︿殺罪﹀が成立不可 能なのだから︒ 中二十三 聖武天皇の御世に︑軸索︑夜を巡りき︒⁝⁝実き叫 ぶ音有り︒言はく﹁痛きかな︑痛きかな﹂といふ︒勅信聞きて 馳せ陳ねて見れば︑盗人︑弥勅菩薩の銅像を捕り︑⁝⁝然して 彼の盗人を官に送り︑ひとやに閉囚へてき⁝⁝ という二十三の筋は二十二と同じだから﹁天年心曲殺盗為業不信 因果﹂の性質は同様とみてよい︒かかる者には﹁無有毒罪﹂と話 者は音調を高くするだろう︒ だがこの話には見巡り役人と盗人と官と獄舎と法身仏などが出 てくる︒やはり︿罪﹀とは官と獄舎の性質でしかない︒︿痛い︑ 痛い﹀と見巡り役人に聞えるように訴えたのは法身仏であった︒ 法身仏と勅意が手をつないでく罪Vが形成される時︑叢薄は一層 ヒステリカルに音調を高あるしがなかったろう︒その丁田は生き ていたと思った︒
話中の動物を次の区別によって挙げてみる︒
﹁牛が宗教になれない﹂話︵渡部︶
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号
一題目に出ているもの
これは話の主題に関わりが大きい︒
二本文中に出ているもの これは必ずしも主題に関わるとは限らない︒ 三引用仏典に出てくるもの
これは話に大分影響を与えているらしく思われる︒
二
題目
上一
二狐
三
七亀 九鷲
十牛
十一魚
十六兎 二十牛
一=馬 二八
三十
三二 三四 本文仏典 馬
蛇 犬
鳩
鮮︵家訓︶
鳳
大蛇・狗
犬・狸 鹿
鹿
題目本文仏典
中二烏 三 牛 四 蛤 五牛 羊・魚 七 鳥 狐・狼 八蟹・蝦蛇
九牛 十鳥 烏 ︵卵︶ 十一 蟻 十二蟹・蝦蛇
十五牛 十六 蝶
十七鷺︑
二十 蜂
二二 馬 蟻子 二四 馬・牛
二九猪 三十 牛 三二牛 猪牛・羊・鹿・灘馬 三四 馬・牛 三五 馬
三八大蛇 四十 鷹・狐 四一大蛇 猪.望潮.蛇.馬.鳥鴇狐 牛・犬・三 四二 馬 題目本文 下二狐・狗
五 六
十三 十四
十五
十八 二四猴
二五 二六
二七 二八蟻
三二 三三
三五
三八 三九
鹿 魚
蚊 馬︒風
鯉
仏典 犬
馬・牛・鶏・鷹・馬・牛 魚
馬 魚
牛︒馬
狐・虎 鰍鯛狐・馬・蜷 鷹・犬鳥・猪・鹿
①題目中に出てくるのは当然本文中にも出てくるが︑題目は本文
を象徴するが故に︑重ねては掲げない︒
②本文中に重出する場合も掲げない︒
③動物としての扱いでないものは掲げない︒
それにしても右様の動物は土臭いが故に︑そうしたものを掲げ
てくる私は動物に親しいと思われたらどうしょうと︑この董恥︒
とはいうものの﹁にはかにマラに蟻つきて噛み︑痛み死﹂ぬ以上
の死に方も思いつかぬ︒ みられるように題目︑主題を呈示するものに最多のものはく牛
﹀である︒本文中で最多のものはく馬﹀である︒︿牛馬﹀は説話
の対象としての民衆に身近かな関心であったのだろう︒作者にし
てもこれらとの生活共同体から︑そう隔たらない所にいた︒狐な
どは話の中で動き廻っている︒動物とは疑いなしにく原型Vのこ
となのである︒
中三十四 奴碑逃げ散り︑馬牛死に亡す︒
下二十六 馬牛・奴碑・稲銭・田畠等有り︒
など牛馬が生活に親しかったことを示していようし︑一方では宗
教の最高権威としてのく経﹀に依拠して出てくることもあったろ
う︒
中三十 他の一銭の塩の債を負ふが故に︑牛に堕ち塩を負ひ駈は
れて⁝⁝
中三二 債を負ひて償はずは︑牛羊︑鹿︑騨馬等の中に堕して⁝
下二六 物を債りて償はずは馬牛と作りて⁝⁝
下三三 一切の俗人︑三宝の牛馬に乗ること得じ⁝⁝
と牛馬は先天的な宿命を負っていた︒︿経Vは生産共同体拒否の
﹁牛が宗教になれない﹂話︵渡部︶ 性質を持ち︑霊異記の作者はその故に心理負担の種々相を示すこ とになる︒牛馬が多く語られるにしても︑牛と馬の取り扱いは︑ 牛が主題的に因果応報の悪報を構成するに対し︑馬はそうした形 をとらない︒牛は犯罪者であり︑馬は隣人であろうとする差異に も六義の心的状態が反映していよう︒原型であるものを悪報とし た経に帰依する以外に僧の存在もまたなかった︒ ①上十 子の物を愉み用ゐ︑牛と作りて役はれ︑異しき表を示す 縁 ②上二十 僧︑湯を涌かす分の薪を用ちて他に与へ︑牛と作りて 役はれ︑奇しき表を示す縁 ③六五 紫煙の尽りに依り牛を殺して祭り︑又放生の善を修し て︑現に善悪の報を得る縁 ④中九型︑寺を作り︑其の寺の物を用みて︑牛と作りて役は るる縁 ⑤中十五 法華経を写し奉り︑供養することに因りて︑母の女牛 と作る因を顕す縁 ⑥中三二 寺の財利の酒を逸り用みて︑償はずして死にて︑牛と 作りて役はれ︑債を償ふ縁 の六例︑悪報︿牛と作りて﹀は例えば最後の話の最後部に﹁成実 論に云はく﹃若し人︑債を負ひて償はずは︑牛羊︑鹿︑騨馬等の 中に堕して︑その宿債を償はむ﹄とある様に︑ほとんど宿命のよ うにそうであった︒ 馬は次の様に扱われている︒ ①上一 馬に乗り ②中二二 馬に乗りて往く
︵中二三 馳せ陳ねて見れば︶
三
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号
③中二四
④中三四 ⑤中三五
⑥中四一 ⑦中四二
⑧下十四 ⑨下二六
⑩下二七 ⑪下三八
と︑一 馬を借りて乗り来る 馬牛死に亡す 馬を留めて 或るは蛇馬牛馬鳥等に生まれ 馬の尿染みたり 馬より下りむとするに 馬巌窟碑稲銭田畠等有り 持てる物馬布綿塩なり 景戒が馬死ぬ つは馬は農耕生産共同体としてあった︒その時は牛も⑥⑨
の様に同位相に存在していた︒⑨には﹁東大寺に牛七十頭︑馬三
十疋︑治田二十町︑稲四千束を進り入れ﹂とある︒生産共同体で
は牛馬は同等の位置を持っていたとみてよい︒しかも⑨の最後に
は︑
経に説くが如し︒ ﹁物を詰りて償はずは︑馬牛と作りて償ふ云
云﹂といふ
とあり︑古典文学大系では﹁成実論の要旨をいったものであろ
う﹂という︒作者は要旨︑即ち宗教的一般性でそういうことがで
きたわけである︒にもかかわらず︑その⑨で悪報はやはり︿牛﹀
として姿を現わす︒
腰より上の方は︑既に牛と成り︑額に角を生ふること︑長さ四
寸ばかり︒二つの手は牛の足を作り︑爪さけて牛の足の甲に似
たり︒ という具合なのである︒馬は︿経﹀を拒絶している︒馬が牛のよ
うにならないのは前掲本文例の様に乗物として人に密着していた
故であろう︒馬はそうある様に描かれ︑牛はない様に捏造された 四
のである︒牛は労働性によって人間の文明度から疎外され︑馬は
親近性︵僧よりは官人に於てそうであったろう︶によって悪報か ら疎外され︑あるいは︑牛は労働性により︑馬は手段として共に
疎外される︒そうした場所に作者が立っていたのであろう︒
人間がく原型Vから疎外される時季であった︒霊異記の下巻︑
最後の話の直前に景戒は自らのことを書いている︒
・延歴十六年丁丑の夏四五両月の頃︑景戒が室に︑毎夜々に狐鳴
く︒
︒然して︑経ること二百二十余箇月︑十二月十七日を以て︑景戒
が男死ぬ︒
・又十八年己卯の十一十二箇月の頃︑二項が家に狐鳴き︑又時
々︑並無く︒ 些q ︒次に来し十九年庚辰の正月十二日︑景戒が馬死ぬ︒又同じ月二
十五日に馬死ぬ︒
※是を以て当に知るべし︑災の相先づ兼ねて表はれて︑後に其の
実の災来ることを︒
という記録には︑寺領がじっと皮︑自然の底にひそんで耳をすま
している不気味さがある︒それは宗教以前の︑動物と人間との共
同の世界である︒故に﹁警戒が男﹂と﹁景戒が馬﹂は並立してい
る︒共に彼にとっては身体が変質してしまうほどのく災﹀であっ
たろう︒彼は何故か︿災﹀に敏感であった︒ それにしても何故く狐Vだったのか︒狐は悪報の動物であった
故だろうか︒それもあろう︒あるいは生産共同体から律令国家へ
の途中で墨流は︿経﹀に触れている故に︑個にひそみ入るく狐の
災相Vが現われたのであろう︒
︿説話﹀に悪報の馬がいないのは︑多分︑人が律令国家への共
同体として馬を選んだ故である︒牛は生産労働の中に残された︒
貧窮生産共同体の崩壊から律令国家へのコースに︑経を媒介とし
て︿個﹀が成立する︒その経に牛馬が悪報である先天性として存
在する時︑︿個﹀は裂かれた傷みとして存在する︒牛と馬が別れ
たのは︑生産共同体と律令官人が別れたのに似てい︑︿個﹀はそ
の別れ目に存在したろう︒魂の惨劇は︑それが始められた時から
くそれ自らVなのである︒
かかる構図を持つ時︑
上二一 畜生と見ると錐も︑我が過去の父母なり︒六道四生は我
が生まるる家なるが故に⁝⁝
といってくることは︑くつがえりつつある思想のヒステリー︑宗 教の政治化に外ならない︒畜生は父母の転生であり︑地獄・餓鬼
・畜生・阿修羅・人・天の世界︑胎・卵・温・化また転生の世
界︑我が生まるる家であるという︒しからば現在の我を取りまく
無限は我自らではないか︒我と無限の混在・融和︑それはリアル
に貧窮生産土ハ同体の生活の根底をなしたものであった︒そのこと
を踏まえた上でなおかつ︑牛や狐は悪報や災相であるとはく経﹀
への信頼によっているせいであろう︒この時︑生産共同体は対象
化され︑牛も馬も︑一は生産労働に︑一つは乗物に︑その位相を
異にしながら人間から疎外されて行った︒ではなく︑動物が原型
であるとすれば︑本来的には牛と馬と狐たちが人間を疎外してき
たのである︒ここに人聞の意識という魂の惨劇が発生し︑それが
景戒と霊異記をして︑日本最初の︑そして殆ど唯一の思想たらし
めた︒
﹁牛が宗教になれない﹂話︵渡部︶
二
かく仕上げられた︑日本唯一最高の思想を守るたあに彼らは必
死にく経Vを守護した︒ ﹁蟻食を殺害するだに︑撃殺罪を得る
も︑一閲提を殺すは︑殺罪あることなし︒﹂とく経﹀によって宣
言する彼らは︑経に似てヒステリカルであった︒この時︑人間は
蛆虫ほどのものでもなかったが︑その蛆虫を殺す時︑経もまた存
在しえないという矛盾を何の故にか︑経−僧の宗教系列は知らな
かった︒にもかかわらず︑僧であるとは経を信ずることであっ た︒宗教が成立してくる時︿経﹀は肯定的に取扱われる︒︿経﹀
だけが宗教の本源的支えなのである︒
下話 沙門︑方広大乗を講持し︑海に沈みて溺れざる縁
下十三 法花経を写さむとして願を建てし人︑日を断つ暗き穴に
て︑願力に頼りて︑命を全くすることを得る縁
下二二 重き斤に人の物を取り︑又法華経を写して︑現に善悪の 報を得る縁
例えば右の話では﹁忽率に死ぬ﹂蝦夷という人が︑ ﹁法花経を写
し奉りし人︑閻羅王の宮より還り来る﹂という具合に生き返るの
であるが︑写経は死から生への力であった︒このことは思想的に
も勿論そうなのであって︑死からの復活が宗教の本質なのであ
り︑その本源が︿経﹀にあるという理論が可能である︒経は集団
性から個への媒介であり︑ここに個が生であるという内容が成立
する︒ 下三七 因果を顧みず悪を作して︑罪報を受くる縁
では︑その閻羅王の宮でこんなことがある︒ 諸史に問ひて言はく﹁若し此の人世に在りし時に︑何の功徳善
五
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号
を作せる﹂とのたまふ︒諸史答へて言はく﹁唯法華経一部を写
し奉れり﹂といふ︒王の言はく﹁彼の罪を以て経巻に宛てよ﹂
とのたまふ︒巻に宛つると錐も︑罪の数倍勝れること無量無数
なり︒亦経の六万九千三百八十四文字に宛つるに︑恕罪の数倍
りて︑救ふところ無し︒
という︒この六万九千三百八十四文字は下三五にもあって︑写経
の厳正さが思い知らされる数字であるが︑その数字に罪を充てう
るという発想は大変なものである︒一字一巻一部に生命という罪
の別名が充てられる壮絶さは宗教というものの真骨頂なのであろ
うか︒しかるが故に︑
下一 法華経を憶持する者の舌︑曝りたる燭腰の中に著きて朽ち
ざる縁 が成立しうる︒真実︑宗教というのは奇蹟が可能なものなのであ
ろう︒ 次いで︑殆ど経と同じに肯定されるのは︑その具現性である
く像﹀である︒
中二二 仏の銅像︑盗人に捕られて︑陣しき表を示し︑盗人を顕
す縁 中二八 極めて窮しき女︑詠歌の丈六の仏に福分を願ひ︑奇しき
表を示して︑現に大福を得る縁
中三四 孤の皇女︑観音の銅像に纏り敬ひ︑奇しき表を示して︑
回報を得る縁
中三六 観音の木像︑神力を示す縁
中四二 極めて窮しき女︑千手観音の像に煽り敬ひ︑福分を願ひ
て︑大富を得る縁
といった具合に︑像はそれが形であるように現実的な福に関わっ
六
て把握されている︒
下二九 村童︑戯に木の仏像を剋み︑愚なる夫研き破りて︑現に
悪死の報を得る縁
紀伊の国海部の郡仁心の濱中の村に一の愚凝の夫有り︒姓名未
だ詳かならず︒自性愚凝にして因果を知らず⁝⁝
当の里の小子︑山に入りて薪を拾ひ︑其の山道の側に戯れ遊
び︑木を剋みて仏像とし︑石を累ねて塔とし︑戯に弱める仏を
以て石の寺に布き︑時々に戯れ遊ぶ⁝⁝
彼の愚なる夫︑戯に剋める仏を咲ひて︑斧を以て殺り破りて棄
てつ︒而して去くこと遠くあらずして︑身を挙げて地に倒れ︑
口々より血を流し︑両つの目抜けて︑夢の如くして忽に死にき︒
という︒︿仏像﹀というものを宗教はここまで仕上げてきた︒
﹁里の小子︑山に入りて薪を拾ひ﹂というのは貧窮生産共同体の
真実の姿である︒無心の汚れなき宗教もある︒その同じ場所に
﹁有一愚凝夫﹂でしかも﹁姓名未詳﹂とおかれることは恐ろしい︒
﹁海部と安諦とに通ひて往き還る山﹂長峰山脈の中の一山︑にこ
の男は通っていた︒この現実は確乎たる生産共同体の構成を示し
ている︒其処では姓名未詳ということはありえない︒それが﹁自
性愚凝︑不知因果﹂として宗教の中に拉致されてきた時︑真実彼
は恐怖に出会ったに違いない︒生産共同体の下ではく愚凝﹀は生
きることができる︒それが自性愚凝として仏像に直対させられた
時︑郡司や里長とは異質の恐ろしいものの前に立つことになった︒
だから自性愚凝とは共同体を越脱した︿個﹀が宗教に立ち向う姿
であった︒そしてこの一本釣の故に話はこう進むことができた︒
中三五 宇遅の王は天骨邪見 不信三宝
という表現︑あるいは︑
中四十 橘朝臣諾楽麻呂は葛木の王の子なり︒⁝⁝立楽麻呂の
奴︑諾楽山に鷹鳥猫を為して見れば︑其の山に多く狐の重盗
り︒奴︑狐の子を捉へ︑木用て串に刺し︑其の穴の戸に立つ︒
奴に嬰児有り︒母の狐⁝⁝己が子を背きしが如く︑奴の子を貫
きて穴の戸に立てき︒
とあるのは︑経−僧の系列に対して橘諾楽麻呂が一本釣りされて
いる故である︒皇族でも貴族でも宗教は対象化できた︒ただ話の
中で諾楽麻呂の奴と狐は対等に動いている︒狐は宗教によって対
象化されていない︒ ﹁賎しき畜生と雌も︑怨を報ずるに術有り︒
現報甚だ近し︒慈の心なからざれ﹂と話者一聴者の間にこの︿話
﹀が対象的に置かれる︒これは話の持つ宿命であると共に︑話さ なければならない僧の位相でもあった︒多分﹁畜生と雌も︑怨み
を報ずる﹂のではなく︑畜生が原型であり︑その恐ろしさを僧が
忘れたのである︒ 経・像についで肯定されるのは︑その入れ物であるく寺Vであ
った︒ 上二十 憎湯を涌かす分の薪を用ちて他に与へ︑牛と作りて役は
れ︑奇しき表を示す縁
上二七 邪見なる仮名の沙弥︑塔の木を研きて︑悪報を得る縁
中九 己︑寺を作り︑其の寺の物を用みて︑牛と作りて役はるる
縁 下三六 塔の階を減じ︑寺の憧を仕して︑悪報を得る縁
という風に︑右の例では僧は寺の下に位置してい︑また下二二
﹁寺の物を用ゐ︑男茎磐若を写さむとし︑願を建てて︑現に善悪
の報を得る縁﹂では閻羅王の宮で次のようなことがある︒
﹁翠黛の善をか作せる﹂といふ︒答ふらく﹁我︑善を作らず︒
﹁牛が宗教になれない﹂話︵渡部︶ 唯大磐若経六百巻を写さむと欲ふが故に︑先に願を発して︑未 だ書き写さず﹂とこたふ⁝⁝ ﹁汝︑実に願を発し︑家を出でて道を修す︒是の善有りと錐も︑ 多に住める堂の物を用みしが故に︑汝の身を黒く︒今還りて願 を畢へ︑復堂を償へ﹂といふ︒ 経と像を守るたあに︿寺﹀は保護されなければならない︒ここに は写経・寺・僧の順序がある︒経を保持できれば寺は否定される ことも可能である︒下一に︑ 持てる物は︑法花経一部︑白銅の水瓶一口︑縄床一足なり︒僧 常に法華大乗を請持して宗となす⁝⁝ ﹁今は罷り退き︑山に居らむと欲ふ︒伊勢の国に誓えむ﹂とい ふ︒ 又吉野の金の峯に︑一人の禅師有り︑峯を行きて行道す⁝⁝ と︑経と一体化し︑燭艘となり︑寺に寄せる身体もない僧が描か れている︒寺はなくても宗教は成立する︒だが得なしに経は存在 しえない︒あるいは僧だけが経を顕証する︒しかし序列として僧 が経にまさることは決してない︒経とは目的なのであるから︒ 上十九 法花経品を読む人を曹りて︑現にロゆがみて悪報を得る 縁 法花経に云はく﹁若し軽み咲ふ者有らば︑当に世々に牙歯冠に 欠け︑唇醜く︑鼻平み︑手脚もとりて︑目すがめになるべし﹂ とある﹁法花要言を読む人を砦﹂つたのは自度僧である︒僧も経 の前では威力がない︒ それにしても法花経に云うという︑経に拒絶されてある形状は なんと︿貧窮﹀に似ていることか︒とすれば経は善報や富裕や美 に似ていた︒仏像の形状がそうなのである︒とすれば先の経を調 七
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号
持する濁骸とは一体何だったのか︒
かかる矛盾の中で︑その故でか霊異記の作者は狂気のように僧
を守ろうとする︒
上十五 悪人︑乞食の僧を製して︑現に悪報を得る縁
上二九 邪見にして︑乞食の沙弥の鉢を打ち破りて︑現に悪阻の
報を得る講
中一 己が高徳を屡み︑賎形の沙弥を刑ちて︑現に悪魔を得る縁
中七 智者︑変化の聖人を誹り妬みて︑現に閻羅の閾に至り︑地
獄の苦を受くる手
中十一 僧を罵ることと邪婬とによりて︑悪病を得て死ぬる縁
中十八 法花経を講持する僧を指口りて︑現に口ゆがみて︑悪死の
報を得る縁
下十五 沙弥の乞食を撃ちて︑現に悪行の報を得る縁
下二四 修行の人を妨ぐるに依りて︑猴の身を得る縁
下三三 賎しき沙弥の乞食を刑罰して︑現に頓に悪死の報を得る
縁 とのように︿僧﹀は面輪︑軽蔑から必死に守られている︒その僧
は主として乞食の沙弥︑賎形の沙弥であり︑それを軽蔑すること
は殆どがく悪死﹀に相当している︒霊異記の世界の激しさと懐疑
がしのばれる︒僧といわず︑沙弥といっているところに︑生産共
同体崩壊の現実相を身に引きうけた者のエネルギーが感じられ
る︒
下十四 越前国加賀の郡に︑浮浪人の長有り︒浮浪人を探りて︑
雑僑に駈ひ使ひ︑調庸を徴り乞ふ︒時に京戸小野朝臣庭麿とい
うもの有り︒優婆塞となり⁝⁝
行者に遇ひて日はく﹁汝は︑何くの人ぞ﹂といふ︒答ふらく 八 ﹁我は修業者にして︑俗人に非ざるなり﹂といふ︒長︑いかり 高めて言はく﹁汝は浮浪人なり︒何ぞ調を輸さざる﹂−⁝・ というここには優婆塞と律令国家との格斗がある︒優婆塞に乱暴 しようとした浮浪人の長は馬と共に空にあがって地に叩きつけら れて死ぬ︒浮浪人の長とは律令国家の真実守護者なのである︒
﹁頂に陀羅尼を載せ︑経を負つる意は︑俗難に遭はじとなり﹂と
いう宣言のすばらしさ︒俗にあっては生産土ハ同体を生き︑僧であ っては経に直対しようとする情熱がく優婆塞Vの在り様であり︑
そこには生産共同体の崩壊のかなしみのエネルギーが存在してい
た︒
下十五 ⁝⁝﹁汝はなにの僧ぞ﹂といふ︒乞者答へて日はく﹁我
はこれ自度なり﹂
とはなんと鮮かな宣言ではないか︒
下三三 ⁝⁝国の司︑部内を巡行して︑正税を給ふ︒其の郡に至
り︑正税を下ひて百姓に班はたり︒一の自書あり︑字を伊勢の
沙弥と日ふ︒薬師経十二薬叉の神名を諦持し︑里を歴りて食を
乞ふ︒正税を給ふ人に就きて稲を乞ひ︑その曝しき人の門に至
りて乞ふ︒彼の乞ふ者を見て︑乞ふ物を施さず︑其の荷へる稲
を散らし⁝⁝
と必死に反律令性の中に自己の生を求める乞食︑自度僧がある︒
自度そのものが律令破壊の性質であり︑律令破壊の中に自己の生
の充足があるのは︑これはく百姓﹀の性質である︒彼らが斗つた
のは浮浪人の長に対してであり︑犬養宿禰真老であり︑紀直吉足
であった︒それらの人々は律令体制の本質であった︒霊異記が時
折みせるヒステリカルな激越さは貧窮生産土蛙同体が律令制へ崩壊
する悲しみのエネルギーであり︑歴史に印された︑治れな人間性
の記録なのである︒だからそのエネルギーが︿経﹀に出会った
時︑日本史上珍らしい︑個という自意識が成立しえたのである︒
とすればく経Vというのは百姓に似ていたのか︒魂というもの
の性質が生産共同体崩壊の悲しみに似ていたのか︒多分︑経とい
う人間の魂は︑意識された生産共同体崩壊の悲しみのエネルギー
なのであろう︒それにしてもこの悲しみのエネルギーとは面白
い︑それは魂が矛盾の性質であるように︑矛盾そのものを生き
る︒
右の話で紀直吉足が﹁其の十二薬叉の神名を読みで︑我を呪縛
せよ﹂と挑戦してくるのは︑富と地位という律令的性質以外に人
間を呪縛できるものはないという︑︿文明Vからの宣言であっ
た︒自度胆がかかる文明に対して激越であるのは︑文明が律令体
制そのものだからである︒
にもかかわらず︑その文明の中に経−像1寺一門が生きつづけ
るということは︑結局その文明の体質に似ることではなかった
か︒
下十八 法華経を写し奉る経師︑邪婬を為して︑現に端整の報を
得る縁 では六万九千三百八十四文字も一度の︿婚﹀にはかなわないので
あるが︑律令官人の恋は︑あの相聞の歌は邪淫の一様式ではなか
っこ>o ナ〃力 中十三 愛欲を生じ吉祥天女の像に恋ひ︑感応して奇しき表を示
す縁 の肯定的話しぶりは︑経も像も邪淫や愛欲にはかてない文明の性
質に似ている︒宗教が文明の性質に似てきたのである︒
愚凝な男が村童の作った像を切り砕いた時︑彼は個として絶対
﹁牛が宗教になれない﹂話︵渡部︶ 者と直対しなければならなかった︒彼らは共同体における相対的 愚擬を生きることを許されなかった︒故に彼は孤絶の中に死ぬと いう凄惨さを行ったに対し︑ 中十四 窮しき女王︑吉祥天女の像に帰敬し︑現報を得る縁 聖武天皇の御世に︑聖霊二十三人同じ心に結び︑次第に食を為 して宴楽を設備く︒一の窮しき女王有りて︑宴衆の列に入る︒ 二十二王︑次第を以て宴楽を重くること己に詑はりぬ︒但此の 女王は独未だ食を設けず︒食を備くるに便無し︒大きに貧窮を 恥ぢ︑諾々の左京の服部堂に至り︑吉祥天女の像に対而して︑ 契きて曰く⁝⁝ 王衆皆来たりて︑饗を受けて喜ぶ︒其の食先の聖衆に倍し︑讃 へて富める王と称ふ︒⁝⁝因りて大きに財に富み︑貧窮の愁を 免る︒ とある二者を較べてみると︑前者は貧窮生産共同体から拉致され て宗教に直対し︑後者は像に祈って王衆共同体に恢復しえたこと を云っている︒不信心と信仰︑信仰には奇蹟が存在しうること先 にも述べた通りであるが︑前者は愚凝が宗教に一本釣りされたの に対し︑後者は有知が宗教の便利性を自分の所に呼んだのである︒ 像が雲影に拉致されたのである︒︿像﹀は女王に甘く︑山労働者 に厳しかった︒貧しき者には厳しく︑富める階級には甘かった︒ かくして霊異記は愚凝な幾夫に︿真実﹀を要求し︑女王には︿虚 偽﹀を要求することになった︒騰夫は 口鼻より血を流し︑両の目抜けて 死に︑女王は 大きに財に富み︑貧窮の愁を煽る という︒宗教に似ていたのは勿論前者である︒霊異記の作者が︑
九
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号
後者に信仰をみたのは︑文明に似た魂の惨劇であった︒それにし
ても彼が賎夫に︿真実﹀を与え︑王女に︿虚偽﹀を与えてしまっ
たのは宗教の神秘であるよりは︑五戒が賎夫に︿親しかった﹀故
であろう︒
だが律令社会における宗教という虚妄の錯覚は︑経−像の系譜
につぐ︿寺﹀︑僧と真実共同体である寺はどんどん肯定されて行
く︒
下三六 塔の階を減じ︑寺の橦を慣して︑悪報を得る縁
下二六 東大寺に牛七十頭︑馬三十疋︑治田二十町︑稲四千束を
進り入れ⁝⁝
などという状態は既に述べたところであるが︑その寺の会計は︑
下三 ⁝⁝其の寺の大修多羅供の銭三十貫を受け用みて︑償ひ納
むることえず︒維那の僧等︑銭を徴りて逼む︒
とあると︑寺の会計係がほとんど役人に近い質を持つものであっ
たことが判る︒こうして寺の内部秩序も文明社会に似てくるので
あるが︑その中で僧は︑
○聖武天皇の御世に︑諾楽の京の馬庭の山寺に︑一の僧常住す︒
然して死にし後︑七七日を経て︑大きなる毒の蛇在りて︑その
室の戸に伏せり︒弟子因を知りて︑教化して室戸を開きて見れ
ば︑銭三十貫を隠し蔵めたり︒
○知識例に依り︑智歯を菩薩に献じ︑並びに室主に銭︑財物を施 す︒その布施の銭の中五貫を︑師の弟子ひそかに盗みて隠す︒
と︑原則的には宗教に一本釣りされて経に出会ったはずの僧が集
団になる時︑右様の可能性を持つことになる︒下十四にも︑ ﹁賢
しき人を誹諦る者は︑黒煙四千の国の塔寺を破壊する人の罪に等
し﹂と方広経を引いていう︒僧と寺はこうして相互的に存在す
一〇る︒この存在の様相が︿文明﹀に似るしかないのであろう︒
かかる経・像・寺・僧の共謀円環の生活の中で︑時折見せる景
戒のヒステリカルな憤激は一体何であったのか︒それは貧窮生産 共同体の崩壊過程で経に出会った時の︑両者の出会いのエネルギ
ー︑経が経であらしめられたもの︑経の求めていることを同じく
探してみなければならないという情熱ではなかったか︒山労働の
賎夫に真実を強要できたあの本質︑拒否されてあるものとの共同
体性ではなかったか︒律令によって拒否される共同体︑その原質︑
それが経の経︒探すものとは失ったものではなかったか︒言葉・
説話以前にあるもの︑言葉にはならないで消滅するもの︑︿生
物﹀たちではなかったか︒
三
経i僧の系列で︑僧が経の中を探し求めながら︑話を民衆の中
に醸成して行った時︑両者の接点は多分︿動物﹀であった︒民衆
には経そのものを信奉する情熱は簡単には出てこない︒彼らに内
包されている情熱は生活共同体に存在した︿動物﹀についてであ ったろう︒話の内容が︿動物﹀によって構成されることが多いの
はその一つの証拠であろう︒
中五 漢神の崇に依り牛を殺して祭り︑又放生の善を修して︑現
に善悪の報を得る縁
⁝⁝彼の家長︑漢神の崇に依りて要し︑登るに七年を限りて︑
年毎に殺し杞るに一つの牛を以てし︑合はせて七頭を殺しき︒
⁝⁝六節に斎戒を受け︑放生の業を修し︑他の此世の類を殺す
を見れば︑論せずして駿ひ︑又八方に遣し︑生物を訪ひ買ひて
放つ︒ と︑なんとあの牛を殺して悪報︑そして放生という新手段︒経が
二つ引用される︒
︒鼻奈耶経﹁山留陀夷︑昔天溜塗と作り︑一つの羊を殺ししに由
り︑今羅漢と作ると錐も︑然︑詳報を婆羅門の妻に得て殺さ
る﹂
︒最勝王経﹁流水長者︑十千の魚を放ち︑魚︑天上に生まれ︑四
十千の珠を以て︑現に流水長者に報ず﹂
とく殺害Vとく放生﹀は動物に関わって宗教論理の本源をなすも
のらしい︒
中八 蟹蝦の命を贈ひてて放生し︑現報を得る身
中十二 蟹蝦の命を瞭ひて放生し︑現報に蟹に助けらるる縁
などの有名な話は︑また放生でもって自らの生命を助けるもので
あった︒だから放生はあの宗教の論理に於ける経や像の威力に匹
敵する価値を持っていた︒この放生は身近かなことで︑生活上に
宗教を納得させうる︑即ち説話として説定できる恰好なものであ ったろう︒写経による救済というものが庶民にはなかなか難しく︑
放生の方が実感的であったろうというよりは︑元々︑経の本源が
動物の方にあったと考えた方がよいのかも知れない︒自度僧も生
産共同体を去ったが故に︑残された貧窮生産共同体の中の動物i
僧からの疎外としての共同体︑その共同体からの疎外としての動
物一は真実貧窮生産共同体崩壊の悲しみのエネルギーの源であっ
た︒経の求めるのは動物に近いものであり︑動物の話を納得でき
る庶民が︑それを話す僧の根源であることは本質的に似てい︑動
物からの疎外としての経と庶民からの疎外としての僧はまた似て
いたのである︒経も僧も雨除という︿倫理と愛﹀のエネルギーと
﹁牛が宗教になれない﹂話︵渡部︶ して存在した︒だから時には︑僧は庶民と矛盾でありつづける︒ 下六 禅師の食はむとする魚︑化して法華経と作りて︑俗の誹を 覆す縁 吉野山に一つの山寺有り︒一の大僧有りて︑その山寺に住し︑ 精に攻めて道を修す︒身疲れ力弱りて︑起居することえず︒魚 を食はむと念欲ひて⁝⁝弟子︑師の語を受け︑紀伊の国の海辺 に至り︑蓬けき鰭八隻を買ひて︑小櫃に納れて帰り上る︒時に 本より知れる檀越三人︑道に遭ひて問ひて言はく﹁汝が持てる 物は何物ぞ﹂といふ︒童子答へて言はく﹁此れは法花経なり﹂
へ さとしさ ・:⁝ ﹁実に魚体と錐も︑悟入の食物に就きては︑法花経に化す︒我︑ 愚凝邪見にして︑因果を知らずして︑犯し逼め悩乱す︒願はく は罪を脱し賜へ⁝⁝﹂ と︑ここでは︿愚凝邪見﹀がそのまますっと︿信﹀に連なってい る︒僧によって対象化された説話とそれを信ずる民衆の間にはあ る種の矛盾がある︒ ﹁汝が持てる物は︑経に断じ︒これ魚なり﹂といった時︑俗と いわれている人々の目には︑あの︿幼き時より網を用みて魚を捕 りて︑現に悪報を得る﹀話が︵上十一︶あったかも知れない︒何 故なら︿大海に漂流して︑尺迦仏の名を称へ︑命を全くすること を得る﹀話︵下二五︶は古典文学大系頭注にあるように﹁この説 話は︑当時の共同体漁業のあり方を示すものとして注目される﹂ とすれば︑生活上︑俗人の方が魚に親しく︑生活と動物の関係だ けはごまかしようのないものであったろう︒だから俗の言が正し かった︒そして僧が法花経を信じ得たとすれば︑このく愚癒邪 見Vの信仰に依ってそれが可能になったのであろう︒そして真実︑
=
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号
魚猟が犯罪であったのは魚夫︵上十一︶に於てではなく︑そこか
らの共同体崩壊の悲しみのエネルギーとしての僧の意識に於てで
あったろう︒だからく放生Vというのも︑それは庶民のものでは
なく︑僧のものであるはずであった︒蟹を放生するのは牧童では
なく宗教主体としての女の方である︒何故本源である民衆に︑疎
外された僧の話が行われたかというと︑生産共同体の律令体制へ
の崩壊は時代そのものの現象であり︑僧は︿先駆的意識﹀であっ
た故に︑話の論理が俗人に受け入れられ︑肯定されたのであろ
う︒民衆が時代を占拠すれば宗教は消える︒
律令制から−意識を通して一その対極にある動物の世界も︑そ
こにはそこの世相がある︒生産共同体という意味では牛が一番近 かった︒︿牛となりて使わるVという表現が︑その意に反してそ
れを証明している︒この牛が︿悪報﹀として話されることと︑
中二四 閻羅王の使の鬼︑召さるる人の賂を得て免す縁
使の鬼云はく﹁我︑牛の宍の味を嗜むが故に︑牛の宍を饗せ
よ﹂ 磐嶋云はく﹁我が家に斑なる牛二頭有り︑以て進らむが故に︑
唯我を免せ﹂
というのは矛盾しないらしい︒それが生産共同体の本来性であっ
たというよりは︑説話者に牛が対象的に疎外されてしまっている
せいらしい︒自分に直接性のないものは矛盾とはならない︒対し
て馬は︑ 上二一 慈の心刷くして︑馬に重き駄を負ほせて︑現に悪報を得
る縁 ⁝⁝馬の力に過ぎて︑重き荷を負ほす︒馬行くこと得ぬ時に
は︑いかりうち駈ふ︒重き荷を負ひて労れ︑両の目に涙を出
一二す︒菰を売り寛はれば︑即ち其の馬を殺す︒⁝⁝六道四生は︑
我が生まるる家なるが故に︑慈悲先くあるべからず︒
と︑馬は既に述べた様に︑律令官人との関係を持っていて︑ここ
でも話者と共同体を作っている︒律令と僧と馬がこれだけ似てき
た︒牛と似た取り扱いをうけるものに蛇がある︒ ﹁業の因縁に従
ひて︑或るは曲馬牛国鳥等に生まれ︑先の悪契に由りて︑蛇と為
りて愛甲し︑或は怪畜生と為る﹂ ︵中四一︶というが︑これらの
動物の中で牛と蛇が陥没する︒蛇は元々︑生産共同体を構成しな
いから︑牛だけが特別で︑牛が疎外されたのは労働が疎外された
ことに似ているだろう︒
霊異記に幸福な宿命をもって現われるのは︑上七 亀︑十一 魚︑
十六 兎︑︸= 馬︑三八 蟹・蝦︑十 鳥︵の卵︶︑十二 蟹
・蝦︑十七鷺などで︑主題に含まれてある︒中十六 慷︑四十
狐などは本文中に出てくるが︑これらも挙げてよいかも知れない︒
中二二 鼠子︑は引用経に﹁愚子を殺すだに猶殺罪を得る﹂とあ
る︒馬を除くと手の中に入るほどのものばかりである︒その人間
に害を与える能力もないし︑労働力にもならないところに一つの
特徴がみられよう︒猿は﹁修行の人を妨ぐるによりて︑猴の身を
得る縁﹂ ︵中二四︶とあるから不幸な宿命を負わされていた︒同
様に︿鳥﹀であっても︑カラスは︑
中二 鳥の邪婬を見て︑世を厭ひ︑善を修する縁
とあってやはり不幸な運命を与えられていた︒ふしぎなことに︑
ここで鳥のく対幻想Vが行われている︒それは人間における対幻
想の鳥への投影︑心情的融合なのである︒︿夫の鳥﹀︿妻の鳥﹀
という表現は︑古事記風に人についていっているのではなく︑動
物についていっているのである︒雌鳥が他の鳥と共に去ってしま
い︑雄鳥は児を抱いて死ぬ︒
大領見て︑大きに悲しび︑心に慰び︑鳥の邪淫を視て︑世を厭
ひ家を出で︑妻子を離れ︑官位を捨て︑行基大徳に随ひて⁝:
と︑動物が女になってくるコースの中で︑勿論動物は女の中に自
らを失い︑女は動物を失って女となった姿をみて︑それに対応し
たのが和泉国泉の郡の大領血沼県主倭麻呂という男なのである︒
かかる男女によって動物は雄と雌の存在を失ってくる︒
鳥は邪淫の可能性を持つことに於て︑即ち対幻想を持たないこ
とに於て︑折角彼らは動物であった︒その鳥に対幻想を想定した
のは倭麻呂のいた場所が鳥に近かった故であろうが︑鳥の中でカ
ラスが選ばれたのは牛でみたように︿経﹀に制約された不幸な運
命によるのかどうか︒中十に﹁鳥の︵国﹁鳥﹂︶己が児を慈びて
他の児を食むが如くなるべからず︒慈悲なき者は︑人と錐も烏の
如し﹂とあって︑︿経﹀による制約以前にもこのようなカラスへ
の不幸な観察があったのかも知れない︒
また︿経﹀によって性格を制限されたらしいものに狐がある︒
﹁又経に説くが如し﹂ 父︑子の軽きを見て︑讐へて云はく﹁善きかな︑我が児︑疾く
走ること狐の如し﹂といふ︒其の子命終はりて︑後に狐の身に
生まる︵中四一︶
というのは︑善運か悪運かはっきりしないが︑異常な能力が狐と
結びついていたことは日本文学︑民俗の特徴的な歴史となってい
る︒だから同じ動物でも経に制約された面をみせることと︑生活
共同体との紐帯の強さによって経の制約を脱した面を見せる場合
の二面がある︒前述の兎の話︵上十六︶でも︑馬の話︵上一=︶
でも︑それらは経に依ることなしに幸福であった︒ここには動
﹁牛が宗教になれない﹂話︵渡部︶ 物を肉や労働に手段化する以前の共同体性がみられる︒ 実はその共同体の崩壊から一経一自閉へのコースが意識の発生 であり︑個の成立である︒そこにく経﹀があって︑それに拠りな がら︑だから共同体崩壊から自度への矛盾のコースが︑経という ものに重なりうるのであろう︒経の持つ矛盾の情熱が︑自度僧の 生存の矛盾に似ていたのである︒ この意識の発生は︑名のように広大な︑多様な対応を含んでい る︒それは矛盾ということにおいて綜合的であり︑全的な意識が 姿を現わしてくればそれが個人の成立であり︑自我とは矛盾の別 名︑直感的綜合性の名である︒ 経と共同体の崩壊とは相互的であり︑意識とは生産共同体の崩 壊から律令性への過程が持つ欠除の様相︑矛盾の性質である︒矛 盾が倫理であるという基礎は︑いわば自野僧的位相は馬と兎を味 方にすることに於て︑その情熱の可能性をえたのであり︑そうし た情熱の位相に経が出会ったのである︒こうして生産共同体崩壊 の悲しみのエネルギーが︑人類に託て︿愛﹀だったり︿慈悲﹀だ ったりするのは辛うじて兎に支えられているからである︒故に ︿兎﹀は倫理の根源であり︑人闇という意識の成立の可能性であ った︒かくして宗教と愛と個人という三位一体はく歴史Vである ものから疎外される︒逆に表面にでるのはヒステリカルな悲劇だ けである︒ ﹁漢神の崇に依り牛を殺して祭⁝⁝﹂の話は異神教に対してい われるものの︑その中に︑年毎に牛を殺して解ること七年聞︑な お高いえず︑七年︵近くか︶放生を続ける︒死して閻羅王の宮で︑ 先の七人の上人は検事であり︑放生の千万余の動物人は辮護人で ある︒裁判とは多数決なのであろうか︒︿無罪﹀︒牛と馬と羊な
=二
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二六号
どは悪報ではなかったか︒︿悪報﹀を殺すことも死罪であった︒
一匹の牛が二重撮りされている︒古い装置のネガ︒
しかし殺した七頭の牛と︑放生した千万余の何かは共に動物の
く生命Vを意味する以外のものではなかった︒多分︑守り切れな
い生命があったから︑作者はヒステリを起している︒矛盾だけが
意識で︑意識だけが個人なのであろう︒
カラスの場合も同様で︑妻の鳥は﹁妊婚﹂して子を捨てて行く
わけだが︑夫の鳥は仕方なしにその子を抱き伏して死ぬわけであ
る︒だからく烏Vが不幸な運命に生まれたわけではなく︑烏も否
定的媒介を経てく生命Vに殉ずるわけで︑妻の邪婬と夫の殉愛は
カラスの両面なのである︒出家・自度僧といった情熱は右様のヒ
ステリカルな愛の構造の上に立っている︒︿生命﹀に殉ずる故に
︿愛﹀の可能性なのであり︑それが宗教の内実でもある︒そこに
は子と女と男が分化してはならないという動物性がある︒対幻想
のなかった世界である︒
幸運な動物たちも︑不幸な宿命を持った動物たちも︑それらは
動物の持つ原型︑︿生命﹀への執着の表われとして存在してい
た︒
例えば︿僧﹀は︵上二十︶︑
寧ろ飢に迫められて沙土を食ふと錐も︑謹みて常住の僧の物を
食.ふことを用ゐざれ︒所以に大方等経に云はく﹁四重五逆は我
も亦能く救はむ︒僧の物を盗む者は︑我が救はぬ所なり﹂とい
ふは と︑殆ど日本では初めて正せられた言葉に保証されても︑下三六
凡そ仏法に愚りて︑修行する大意は︑他の活ける命を救ふにあ り︒今我が寿を︑病者の代身に施さむ︒仏法実あらば︑病人の
︑一四命活きよ﹂といひて︑命を棄ててかへりみず︒
といえば反対になろう︒僧は仏法の存在によって生きねばならず︑
仏法の存在によって死なねばならない︒
この両極性は被虐の形である︒︿生存﹀の難度に本質的にこれ
は相応する︒真実︑被虐とは宗教によって造形されるのであろう︒
宗教が共同幻想なら︑形というのはその幻想に侵略されて成立す
る︒
生産共同体の人生が全体的に完結していたに対し︑律令国家の
人生は律令であるものに執着して形成される︒前者は自然を愛し︑
後者は人工︵法的性質︶を愛する︒後者は生を律令の部分に化し
てしまう︒律令の部分を生き死ぬわけであり︑その悲喜は律令の
破片に相応する︒地位や職業や住居や︑仔羊さえも愛する︒共同
体ではその共同体の︿生﹀に執着するに対し︑ここでは︿生﹀は
条件の犠牲となる︒役人達には生の原型を把握できなくなって律
令的役割に自分を分解してくる︒ここで﹁天骨邪見﹂という場合︑
基準は法的秩序しかないが︑その正しさ全体が共同体にとっては
邪見でしかない︒
共同幻想に侵略されてしまう前に︑宗教的にも政治的にも︑人
間はく動物Vから倫理の素質を受けついでいた時季があった︒霊
異記はそうした世界を描いている︒
貧窮共同体の崩壊が宗教を媒介にして生きつづけようとする時︑
貧窮があるく話﹀として成立してくる時︑貧窮は富裕と同次元で
対象化される︒
中三四 父母有りし時に︑多く饒にして財に富み︑数屋倉を作り︑
⁝⁝父母命終はり︑建碑逃げ散り︑馬牛死に亡す︒財を失ひ家
貧しく︑独空しき宅を守り︑昼夜に哀び喘ぎて涙を流す︒
のはく観音の銅像に語り敬ひ﹀といった形で︑また中十四では
く吉祥天女の像に帰敬し﹀といった形で富裕に復す︒貧窮はその
文字のように︑貧窮自体としては把握されず︑富裕からの欠落と
してあるわけである︒
こうして説話には話の前提として話者も聴者もく貧窮Vに同封
されてあるのである︒だから極貧女︵中二八︶にしても︑それが
富裕の欠落であることは共通理解の上のことである︒︿極貧女﹀
という表現自体がそうなのであり︑故に話とは慰安でさえあっ
た︒そもそも馬牛と奴卿に富んだく富裕Vという欠落以前が︑貧
窮生産土ハ同体など寄せつけはしないこと律令官人の性質と同じで
ある︒︿富裕﹀とは律令官人の性格なのである︒中四二く極製
女V千手観音の像に愚り敬ひ⁝⁝は﹁応銭家に入り︑貧窮の愁を
滅し︑聖に感じて福を留め︑大富の泉を流し︑児を養ふに食に飽
き︑衣を荘る﹂という︒富裕は官人の在り様に似ている︒
︿話﹀は︑それが存在することに於て︑言葉の正しさとはなっ
た︒言葉の正しさとは唯一︑法律的正確さであるから︑︿物語﹀
の存在も︑とにもかくにも法的性質への志向なのである︒話すこ
とと聞くこととは共に法を基準とした一般性に適応・向上するこ
とであった︒︿一般性﹀が人間性であるとはマルクスのいうとこ
ろ︒その一般性の故に政治というのはまた支配的であることがで
きた︒故に支配性は一般性を志向する人々の希望であった︒
中二十に貧窮の母の女の夫が地方官だという話がある︒そうし
た時の貧窮とはなんと会心の話の内容であったことか︒ 自ら著たる衣を脱ぎ︑洗ひ浄め弊げて論経に奉らむとす
復著たる裳を脱ぎ︑浄め洒ひて︑先の如く調経を為す
というが︑僧は着古した衣を脱いで奉らなければ請経もできなか
﹁牛が宗教になれない﹂話︵渡部︶ つたのか︒この時︑経とは︸体何であったのか︒宗教で一番高位 のものが︑生活の汚れによって利用されている︒こうして耳芝は 会心の︿貧の世界﹀に人々を引き入れるのである︒まことに経と いう奇蹟に出会うまで︑貧は貧自体であった︒経に到りついた 時︑貧と富は共時的にそれに支配されたのである︒経はだから歴 史になげかけられた魂の策略であった︒この策略が生活的に顕在 してくると︑経−僧の系譜なしには貧と富も存在しなくなり︑ま た貧と富はそれに依存することに於て割合く心的楽しみVとなる︒ ︿話﹀の中に飢えや寒さの実体がないのはそのせいだろう︒ 動物になろうとすることも︑馬鹿になろうとすることもできな い︒動物であり︑馬鹿であることができる︒言葉である限り矛盾 でないことは描けない︒そして矛盾だけが人間を描いている︒
一五