アジア概念、ヘーゲル『歴史哲学』の場合 (1)
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アジア概念、ヘーゲル
『歴史哲学』の場合(1)
川 田 俊 昭
【緒言】 アジアは概念である。
アジアが概念である,と言うことは,概念が更にその奥において概念の概念,
即ち根本概念(基礎概念,上位概念)に そして更に根本概念は最高命題(同 一性原理,第一原理)に(必然的に)制約されるものとして,即ちそれらの全体 む む
としては一つのシステム,関聯……構成 体系をもつことを我々に示す。「体 系……この語は,構成或は集りを意味するギリシャ語から作られたd(D.ディド ロ他編『百科全書』より)
むしろ,(社会科学の場合,殊更に)概念は体系として在る,と言った方が,
ヨリ正確である。換言すれば,概念は(真理として)体系あっての概念である。
然して,斯かる形式的資格を欠く時,(通俗におけるが如く)概念は単なる言葉 のカケラ, 従ってその使用は「魔女の句々」(ゲーテ『ファウスト』)よろしき 言葉の遊戯に堕す他ないであろう。その悪しき典型を,我々はG.W.F.へ一ゲ ル(或はK.マルクス) 弁証法 の俗流Epigoneにおける取扱いに見る。「この 上なく気儘な,又愚劣な言葉と概念の遊戯……矛盾によって成り立っている命題 をもって,無思想なオシャベリをすることを,哲学的思惟と思わせるようにした こと これが弟子共の誇るヘーゲルの影響なのであるd(A.ショーペンハウエ ル「大学の哲学について」)
現実的なもの は,その諸特徴(特色)が或る程度作為的に抽象されること によって,換言すれば理性を媒介することによって,理念,究極的には,一つの 原理(その原理は 自然的及び精神的に与えられたもの の具体的内容を一貫す る)の下に体系を形成するのである。(ここで体系に関する定義づけを二つ ) 「体系とは,技術や学問の様々の部分が互いに支え合って居り,又最後の部分が 最初の部分によって説明されるような状態における,それらの部分の配置に他な らない。他のものを根拠づけるものは原理と呼ばれる。そして,体系は,原理の 数が少ければ少い程一層完全である。諸原理を只一つの原理に還元することは望 ましくさえある。何故なら……すべての体系の中にも又,第一の原理があって,
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それに体系を構成する様々の部分が従属しているのだからd(ディドロ他『前掲 書』)「『体系』とは,一つの編成されたる全体であって,その採り上げる領域に関 しては,比較的な完全さを主張するものである。その因子(部分)の相互間に矛 盾があってはならない。略言すれば,次の様にも定義出来るであろう。体系とは 形式的全体性である,とd(H.ワーゲンフユール『経済学における体系的思考』)
近代的意味における体系(の問題) それは周知の如く,1.カントによって 提起された。「(近代的な意味における)学問の古典的定義は,周知の如くイマヌ エル・カントが与えた。即ち,彼は原理によって整えられたる認識の全体として
これを形式的に規定したのである。学問は如何なるものでも ガントによれば それ自体として一つの体系である。それは諸々の原理によって立てられなければ ならぬ。それはいわばそれ自身のために存する建物であるd(ワーゲンフユール
『前掲書』)
む む
ヘーゲル,彼はそれを歴史の視角,即ち 哲学的歴史,歴史哲学 の視点 より発展させた。 新たな整序(如上の諸条件を極度に集約させたところの,
しかも 矛盾 を体系に持ち込む独創によって)を行った。そこではく概念(観 念)二実在〉でさえある。「ドイツ観念論哲学はヘーゲルの手で最後の体系的な 形をとった。……ヘーゲル観念論は世界を一つの体系と見ようとする試みであるd
(B.ラッセル『西洋の知恵』)……「ヘーゲルは体系的な思惟を絶対化した
『真理が存在する真の姿は体系的思惟たり得るのみ』,とd(ワーゲンフユール
『前掲書』)
G.W.F.ヘーゲルは,『歴史哲学』(Vorlesungen Uber die Philosophie der Geschichte,
1837.ヘーゲルの死後編集された「講義」。),序論,第二篇「世界史の地理的基礎Geogra−
phische Grundlage der Weltgeschichte」において,冠頭,次の如く述べている。
「民族精神の自然との関係は,人倫の全体としての普遍性や,それの個々の現われとし ての行動する個人に比べると,外面的なものである。けれども,この自然的な関係が精神 の活動のための地盤と見られなければならない限り,それは本質的に又必然的に一つの基 礎をなすものである。我々は本論の初めに当って,世界史の中では精神の理念は外的な諸 形態の一系列という形で現実の中に現われ,その形態の各々は現実に存在する民族として 出現する,ということを主張しておいた。しかし,この現実的な存在の面は時間と空間,
即ち自然的存在に属する。即ち,各々の世界史的民族がそれ自身もっている特殊的な原理 は,同時に,その民族の自然規定性なのである。そして,この自然性の衣を着た精神の特 殊的な諸形態は分散的な形をとる。というのは,分散性こそ,自然の形式だからである。
ところで,この自然め区別は,先づ精神が発生するための特殊的可能性とも見らるべきも
アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合 (1) 3 のであって,その意味で自然の区別こそ,ここにいう地理的基礎でなければならない。し かし,それかといって,単に外的な地理的位置Lokalitatとしての土地のことを学ぶのが,
我々の問題ではない。我々の問題は,その土地の子である民族の類型と性格に密接に関係 するものである地理的位置の自然類型を学ぶにある。この性格こそ,民族が世界史の中に 登場し,世界史の中に位置と場所とを占めるための様式をなすものなのであるd(岩波文 庫旧訳,上,178−9頁。以下,援用は同心に拠る。)
民族一精神(という本質)が,人間 「個人に」,或は「全体としての」社会(国家,
世界)に内在する(と考えられる,ヘーゲルの所謂 客観的精神 として)限りにおいて,
その関係 「人倫の全体としての普遍性や,それの個々の現われとしての行動する個人 に(対する関係……)」は,(同一,一体のものとして,)直接的であると同時に,内面的で ある。「精神そのものの中にその根拠をもつd(ヘーゲル『哲学入門』,岩波文庫版訳,14
頁。)
【註記】 ヘーゲルの言う。
「……精神は自分の中に中心をもつものである。精神は統一を自分の外部にも たずに,これを(自分の内部に)既に見出して,持っている。精神は自分自身の 中にあり,又自分自身の許にある。物質はその実体を自分の外部にもつが,精神 は自分自身の許にあるものdas Bei−sich−selbst−seinである。何故なら,もし私が 他に依存するものであれば,私は自分でない他者に関係することになり,従って 私はこの外的なものを離れて存在することが出来ないからである酬(「歴史哲学』,
訳76−7頁。)
精神 その外にあるもの,「外的なもの」,外存在,それが「自然」 自然 そのものである。
しかし,(その外にある自然 )「自然との関係」 「民族精神の自然との関係」(現実 における最も現実的なるもの)を欠かしては,(現実的に)前者の関係は存在し得ぬ(或 は認識し得ぬ,実在=概念)という意味においては,「自然的な関係が精神の活動のため の地盤と見られなければならないd
まさしく,斯かる意味においては,「民族精神の自然との関係」(も) 「それは本質的 に,又必然的に一つの基礎」,即ち「地理的基礎」として,(前者に)不可欠,不可分なも のである。一それは,単に仮象的,現象的 「外面的」に,従って又,偶然的なるもの
(外的事情に依存するところの)に止まり得ない。それは,精神(理性)にとって,とい うより,むしろ精神,精神的統一(体)の一部として 不可欠,不可分・・…「本質的」,
「必然的」なるもの(内的なるが故に)である。
精神(理性)、精神的統一体の一部。
W.ゾムバルトはその著『三つの経済学』(Die drei Nationa16konmien,1929.)
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第12章「体系System」の初めにおいて,(カントを援用しつつ)次の様に述べて いる。
「今,我々のなすべきことは,経済学を『科学』と呼ばれるところの独立の精 神的統一体に形成することの出来る手段と道とを発見することである。知識の集 合は,周知の如く,個々の構成部分が一体系に組立てられることによって,科学 となるのである。……それ故に科学は,個々の構成部分より,しかも既にそれ自 体の中に全体なる統一体を含んでいるところの統一的計画に従って建設されてい
る建築物の美しい姿において見られる。……認識の体系的なるものを,即ち一原 理から聯関を作り出すものが『理性』である。『斯かる理性統一体は常に一つの 理念を,即ち認識の全体の形式についての理念を前提する。そしてこの全体は,
諸部分の一定の認識に先行し,各部分に対してその地位と,爾余の諸部に対する その関係とを先験的に規定すべき諸条件を包含している。従って,この理念は,
悟性認識の完全なる統一体を要請し,それによって悟性認識は単に偶然的な集合 ではなく,必然的法則に従って聯関する体系となるのである。……』」(178−9頁,
訳212−3頁。)
……理性の内的聯関をもった体系。
ここにも,「偶然的」,「必然的」なる語法による強調があることに注意せよ。
尚,体系なる概念がヨーロッパにあっては元来,有機体的発想に基づくこと,
ゾムバルトの援用したカント『純麗理性批判』そのものにおいても (無論,『判 断力批判』においては自明であるが),その様な言及があることに注意せよ。
統一,生ける統一は,有機体越生(ドイツ・ロマン派の所謂 生ける自然 ) における不可欠の条件,むしろ生そのものであることにも注意せよ。その最も特 徴的なのが,ゾムバルトと同様に新歴史学派の一人,ゴットルF.統Gottl−
Ottlilienfeldの場合である。(今日的な一人としてはK.E.ボウルディングが挙げ
られる。)
もっとも,ゾムバルトは,皮肉にも,カントのそれ(周知の如く,カントの認 識批判は 自然の学 としてのニュートン力学を前提としていた)が,有機(体)
的でないことをもって,カントより離れるのである。
即ち,ゾムバルトの言う。
「我々が今日カントより離れる点は,体系を構成する理念の選択に関するもの である。……カントの立場は,彼が認識の対象としては唯(外的)自然を知るの みであるということによって基礎づけられている。……文化聯関の認識には妥当 しない。ここでは体系を構成する理念の選択は,決して我々の自由ではなく,む しろこれらの理念は事物の特質によって与えられている。ここでは……ロレンツ●フ ォン・シュタインがこの問題に関して詳説していることが当っている。『すべて
アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合 (1) 5 の科学において,我々が素材の恣意的なもしくはヨリ合目的々ならざる配置と区 別して,体系と呼ぶところめものの大なる機能は,この聯関(すべての現象の)
を有機的聯関,従って又すべての人間にとって日々目に見えるが如き,活溌な聯 関として説明することである。故に何人と錐も体系を案出することは出来ない。
体系はその諸要素中にあって,既にそれが始まる点において与えられている。そ れ故に体系は自分自身によって発展するものである。』」(180頁,訳213−4頁。)
それは大凡ヘーゲルの行き方以外の何ものでもない。にも拘らず,(如上 の援用に引続き)これ又皮肉にも,ゾムバルトは,ヘーゲルについての調刺(誤 解か,作為か)をなす。
即ち,言う。
「……この天才が,我々の科学のために生々した生活能力ある体系を作ること に成功しなかったのは,彼が余りにも深くヘーゲルの考え方に釣り込まれたため であったd(180頁,訳214頁。)
ともあれ,ゾムバルトは,結局においては,(全くヘーゲル流の,特に『歴史 哲学』,「世界史の地理的基礎」に準じた)経済の文化科学的(精神科学的),歴 史科学的認識のための理念型(カテゴリー)の導出を実行する。
言う。
「……『経済』は空間的に又時間的に結びつけられた一つの事実合成物である。
すべての文化,従ってすべての経済は,それが現実的である場合には歴史である。
それ故に理念は常に一定の歴史的諸現象において具体化される。即ち歴史におけ る経済は常に形態をとり,形ある客観的精神である。……常に全く具体的な,歴 史的に特殊な経済があるのみである。……経済的諸現象を一つの体系に形成し得 べき理念……それは経済のあらゆる本質的諸特徴を含有し,又これら個々の諸特 徴を一つの統一体に綜括せねばならない。しかも,それは……具体的,歴史的明 確性においてなされねばならない。…これらの諸要求を満すものは経済体系Wirt−
schaftssystemの理念である。……経済体系とは,(1)一定の経済志向Wirtschafts−
gesinnung〔もしくは,「主観的精神」,経済精神 筆者〕によって支配され,
(2)一定の秩序Ordnungと組織とを有し,(3)一定の技術Technikを応用するとこ ろの,精神的統一体として把握された経済様式Wirtschaftsweiseであるd(183−
4頁,訳217−8頁。)
ゾムバルトにおける「経済志向」がヘーゲルの「目的」,……「秩序」が「国家」
(社会),……「技術」が「精神と自然との関係」(即ち「関係」そのもの)……「経 済様式」(訳では「経済方法」となっている)が「民族が……世界史の中に位置 と場所とを占めるための様式」……と,夫々適確に照応する一ことに注意せよ。
「経済体系のこの概念は……経済生活の歴史的具体性を把握するに充分な程明白
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であり,……その体系構成力において優越しているd(184−5頁,訳219頁。)
再止しよう。
自然 「自然との関係」は「世界史の地理的基礎」として「精神の活動のための地盤 と見られなければならない限り」において,精神と自然との関係(その結合子,合一点は 何か)は「本質的に,又必然的に」(世界史の,或は世界史解釈の)「一つの基礎」をなす
ものである。
従って,ここにおける我々の問題は極めて深刻,且つ含蓄に富んだものでなければなら ぬ。 民族(世界)の運命,その生成,発展,消滅……(歴史)にも,(直接)関わる重 大な問題である。
従って又,我々における問題は,通常の社会的(社会科学的)議論における如き皮相,
「外面的」な地理問題たとえば単なる(外的な所与,与件としての)立地の問題
「単に外的な地理的位置としての土地のこと,を学ぶのが我々の問題ではないd・・…・単な る立地 そこでは(ヘーゲルの言葉をもってすれば)「自然が……理性に基づいて,そ こから産み出された一つの組織として捉えられていない……d(『歴史哲学』,訳68頁。)ヨ リ「密接」,不可分な問題 「我々の問題は,その土地の子である民族の類型と性格
〔 運命共同体 というべく〕に密接に関係するものである地理的位置の自然類型〔「民族 精神」の内的一要因ともいうべく〕を学ぶにあるd「この性格こそ,民族が世界史の中に 登場し,世界史の中に位置と場所とを占めるための様式をなすものなのであるd
我々の問題を,更に(その前の論議の次元に立返って)推敲してみよう。
ヘーゲルの場合,「精神」としての個人や社会(国家)は,「現実に存在する民族として 出現するd……換言すれば(ヘーゲルの場合)「世界史の中では精神の理念〔絶対者〕は 外的な諸形態の一系列という形で〔有限者として〕現実の中に現われ,その形態の各々は 現実に存在する民族として出現するd ヘーゲル哲学の所謂 汎神論的性格 。「絶対者
…… kは〕自分自身のうちに諸区別の体系を内在的に定立するd(A.シュヴェーグラー
『西洋哲学史』,岩波文庫版訳,下,277頁。)
しかも,「この現実的な存在の面は時間と空間,即ち自然的存在に属するd……(良かれ 悪しかれ)「自然との関係」あってこその民族,「民族精神」。
かくして,「区別の原理を内に含み」(シュヴェーグラー『前掲書』,訳273頁),単一の世 界に集約されることのない 民族の根拠,「各々の世界史的民族がそれ自身もっている 特殊的な原理は同時に,その民族の自然規定性なのであるd「そして,この自然性の衣を 着た精神の特殊的な諸形態は,分散的な形をとる。というのは,分散牲こそ,自然の形式 だからであるd
血と土1
……(この境域を越え,更に押し進めるならば……)……概念(精神,絶対者)の他在
アジア概念,ヘーゲル『哲史哲学』の場合(1) 7 自己の他在(自己疎外),それが時間と空間のうちで分散したもの,即ち自然……自 然という他在Anderssein……。(この論理を「資本制生産の諸々の自然法則」,乃至労働 における「疎外」の問題としてフルに利用したのが,K.マルクズの場合である。)
他方において,(優越せる意味において)精神(絶対者)が「すべてのもの」を支配す る 「普遍的なものがすべての特殊なものの根拠となる」(シュヴェーグラー『前掲書』,
訳275頁)ことは,(少くともヘーゲルにおいては)自明である。「……すべての個別的な ものを含んでいる普遍的なもの…・すべてのものの基礎にある普遍者…・観念的なもの…・・理 念が絶対者であり,すべて現実的なものは理念の実現に他ならないd(シュヴェーグラー
『前掲書』訳273−4頁。)……と同時に,(現実において)「地理的基礎」はその現象(の根 拠)として確実に存在する。
我々は,社会科学(経済社会学,経済学)におけるドイツ歴史学派,更にはマ ルクス,M.ウェーバー,ゾムバルト,……K.A.ウィットフォーゲルが,その 認識範疇(カテゴリー)の作成(の工夫)において,上述の如きヘーゲルに,
そのまま,倣ったことを,知っている。(ゾムバルトについては,一部既述。)
カテゴリー。
ヘーゲルの言り。
「全く受容的な態度をとり,只ひたすらに与えられた事実に従うと自分では考 え,又そう称しているところの平凡で,豪健な歴史家でさえも,その思惟の点で は受動的ではなく,自分のカテゴリーをもっていて,そのカテゴリーを通して事 実を見るのであるd(『歴史哲学』,訳66頁。)
ヘーゲルとマルクスとの連繋については,人々は却ってその共通より,差異を 強調し勝ちである。何より,マルクス自身(ヘーゲルとの差異を必要以上に強調 するところの)に人々が,そのまま同調する(換言すれば,単なる亜流となって いる)ことが,その大きな理由となっている。しかし,偏見なき頭脳の持主であ るならば,ヘーゲルとマルクスとの間に如何程の基本的差異を見出し得るか,筆 者は大いに疑問とするところである。(所謂 ヘーゲル・マルクス枢軸 の問題。)
本稿におけるテーマでのヘーゲルそのものの追跡も,(本稿の結論の一つに示 すように)その一つの証明であるが,ヘーゲルの記述そのものをマルクスがその ままコピーした(比較的穏当に言えば 下敷として用いた)感さえあるマルク スの行文の幾つかを発見した体験者には,殊更,痛切に感ぜられるに違いない。
ウェーバー,ゾムバルトが,何らかの意味で,直接,間接,ヘーゲルにも,マ ルクスにも,大きな連繋をもっていることも自明である。
むしろ,大きい懸隔(或は断絶)が予想されるヘーゲルとウィットフォーゲル (ウェーバーの弟子,マルクスの正統な後継を自任した)の間にさえ,その実,
大きな相似があることを人々が完全に看過している,というのが筆者の主要な見
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解(の一つ)である。 ヘーゲルとウィットフォーゲルの対照そのものが問題 外であり,突拍子もない珍奇とさえ受止められるのがオチであろうが……。
事実,ウィットフォーゲルにはヘーゲルへの言及がある。
たとえば,ウィットフォーゲルは,論文「経済史の自然的基礎」(Die natUrli−
chen Ursachen der Wirtschaftsgeschichte,1932.邦訳『東洋学社会の理論』所 収 さ一ゲル「世界史の地理的基礎」とのタイトルそのものの相似に先ず注意 せよ!),第2章「自然と社会」において,ヘーゲル(及びゾムバルト,暗にウ
ェーバー)に言及,(マルクス『資本論』も援用しつつ)次の如く述べている。
「我々の歴史分析は,ゾムバルトが最近要求しているが如き,意志自由なる仮 定からは出発しない。意志自由は一つの神学的要請である。社会の科学的把握は,
斯かる前提によっては不可能である。社会的に生産する人々の意志方向Willens−
richtung並びに活動は,最も一般的には人間の生理的性状physische Bescha−
ffenheit 他のすべての動物とは反対に一によって制約されるのであるが,特 に斯かる彼の活動の客観的基底により しかも,その時々に到達した発展段階 によって,その度毎に変化せしめられた仕方で 制約されるのである。たとえ 人間が労働過程において,労働手段の能うる限り巨大な装置を自己と自己の労働 対象との間に入れ得るとしても,その労働対象は究極においては依然として自然 自体である。『一方の側には人間とその労働,他の側では自然とその素材』,これ は社会的労働過程における最も普遍的な基本関係であって,その社会的労働その
ものと同様に,『人間生活の永久的な自然的諸条件,従って,斯かる生活の各々 の形態とは独立の,むしろあらゆる社会形態に共通せる』ものである。しかし,
このことは,すでにヘーゲルの言ったように,人間は彼に道具を賦与する外的自 然の上に,あらゆる『権利』を行使するにも拘らず,その目的措定Zweckse−
tzungenにおいて自然に『隷属している』ということを意味している。生る大哲 学者は,このことを,ヘーゲル論理学に関する彼の註釈において,次の如く言い 表している。『機械的法則と化学的法則とに分類された(この区別は甚だ重要で ある)外的世界の法則は,人間の合目的々活動の基礎をなしている。人はその実 践的活動において客観的世界に対立し,これに依拠し,そして自己の活動はこれ によって制約される』,と。……ゾムバルトでさえ,このことを見ざるを得なか った。従って後に自ら,意志形成を画一ならしめる基礎要因として,『性格』,『魂 と血』,及び『最後に』,『外的状態』 その中で『更に』『土地及び気候なる自 然毒事情』も又(1)挙げられている をも,引用しているd
先ず,この行文では ウィットフォーゲルが,ヘーゲルの「世界史の地理的 基礎」の初頭の書き出し(の論理)を,そのままといってよいぐらい踏襲してい る(「社会と自然」を「精神と自然」に書き替えよ)こと……ヨリ正確に言えば,
アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(1) 9 ヘーゲルにプラス,マルクスの「生産様式」(ヘーゲルの所謂「精神の自然との 関係」 関係そのもの乃至その結合子に相当)といった公式化がなされている ……地理的唯物論という観点( 「生産様式」の扱い方を含む)では,マルクスよ りヘーゲルにヨリ近いこと……反面,ウィットフォーゲルの指弾するゾムバルト の方向が実はヘーゲルのものであること(換言すれば,ヘーゲルの恣意的解釈が ある)……等々,が指摘され得る。
ウィットフォーゲルの言う。
「……生産様式とは,『現実的生産過程』,即ち,人間と自然とのその時々の 『物質代謝』の本質的な要素の全体であるが,その際,ヘーゲル以下の人々によ れば,その性質け,全く自然の機械的=化学的合法二二なる外的条件により条件 づけられる側面たる,斯かる過程の物的側面を強調する必要があるd
或は,言う。
「……外的・自然的世界の法則は,『人間の合目的々活動の基礎』を形成して いる。……我々は,自然と社会,自然的及び社会的生産諸力は『二つの原則的に 異った機能を果す』ということが出来る。労働行為をもつ人間は,不休,運動の 契機を代表し,自然は,本来のままでもしくは変容せしめられて,客観的基祇一 一その物的構造如何によって,その行為を全く一定の方向に導く(か,もしくは 導かぬ)ところの の契機を代表するd ,
加えて,ウィットフォーゲルの同論文の体裁,問題の扱い方の全体が,へ一ゲ ルの「世界史の地理的基礎」全体と相並行していることが着目さるべきである。
何れにせよ,社会的範疇(カテゴリー)の作図そのものでは,ウィットフォー ゲルが,ヘーゲル……マルクス,ウェーバー,ゾムバルト……と同様,同方向に あることが,注意さるべきである。
ヘーゲルの場合,我々の世界(世界史)が,単なる無差別な普遍(史)としてでなく,
所謂倶体的普遍 文字通りその固有(特有),その個別(的特殊)として語られる根 拠(=基礎)こそ,そこにある具体的な規定性 「自然規定性」なのである。「自然性の 衣を着た精神の特殊的な諸形態」,これである。
換言すれば,ヘーゲルにおいては,真なるもの(即ち精神)は,(彼の先行者F.W.J.
シェリングの場合における如く)「……実体(即ち規定性の否定)としてでなく,主体
(即ち有限な諸区別の定立及び産出)として捉え且つ表現することが主要点である……。」
(シュヴェーグラー『前掲書』,訳277頁。)
従って又,我々が世界史(の存在,認識)について「地理的基礎」を無視し得ないどこ ろか,自然 「自然性」は(現実的特殊において)「精神が発生するための」不可欠な条 件(積極的,或は消極的な)でさえある。「自然の形式……この自然の区別は,先ず精神
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が発生するための特殊的可能性とも見らるべきものであって,その意味で自然の区別こ そ,ここにいう地理的基礎でなければならないd
にも拘らず(斯かる強調が誤解を招くことを避けるために),矢張ここでも一 つの註釈(ヘーゲルにおける精神と自然との関係についての,明確な)が必要で ある。
ヘーゲルの言り。
「……世界史の実体をなすものは精神とその発展過程である。だから,我々は ここでは,自然がそれ自身において理性の一体系をなしているものと見るべきで はなく,それを特別な,独自の要素の上に立つ一領域として見るべきではなくて,
ただ精神と関係する範囲内でのみ見ればよい。これに反して精神は,我々の見る 舞台の上では,その最も具体的な現実性であるところの世界史の主役であるd (『歴史哲学』,訳74−5頁。)
巷間,ヘーゲルについて,その自然(自然哲学)の部分の弱体を批判する声 (自然科学者の場合も含む)が少くない。たとえば,岩崎武雄「ヘーゲル」(平凡 社『世界大百科事典』)は,全体としてのヘーゲルの理解,把握には,一応,精 確を期し乍らも,この点については問題がある。
即ち,言う。
「ヘーゲルによると,自然とは概念の最高段階である絶対的理念の外化したも の,概念の他在である。この部門においても,ヘーゲルは,力学,物理学,.生物 学の3段階に分けて自然現象の展開を考えているが,ヘーゲルの考えるところで は,自然とは同じ現象の繰返しに過ぎず,従ってそれは絶対者の真の発現とは認 められない。自然の中にも絶対者の展開は存してはいるが,しかしそれはただ観 念的な系列として同時的に存しているに過ぎないのである。この自然哲学の部分 は通常ヘーゲルの最大の弱点とされているd
文中、「……観念的な系列として同時的に存している……(云々)」とは,へ一 ゲル『歴史哲学』の「世界史の中では精神の理念は外的な諸形態の一系列という 形で現実の中に現われ……(云々)」に照応しているわけである。加えて,へ一ゲ ルの次の言葉もプラスされよう。「物質は観念i生を求めるものである。と言うの は,物質は統一の中では観念的となるからである司(『歴史哲学』,訳76頁。)
しかし乍ら,「この自然哲学の部分は通常ヘーゲルの最大の弱点とされている」
と俗見に組するかの如き叙述は,まさしく余計であった。そこでは,ヘーゲルに とっての問題の本領が,何より法哲学,歴史哲学であったことが,全く看過され ている。 いわば,ヘーゲルにとっては, 歴史における国家 (道徳,社会,
経済をも包摂した)こそが,重大関心事であった。従って斯様なヘーゲルにとつ ては,(既述せる如く)「自然……それを特別な,独自の要素の上に立つ一領域と
アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(1) 11 して見るべきではなくて,ただ精神と関係する範囲でのみ見ればよい」 「関係」
(ヘーゲルの場合,それは精神の領域内にある)が把握されればよい,のである。
全く同様の誤解は,このヘーゲルの方法を伝承したマルクスについて 自然 (自然哲学)が欠落していると称して『自然弁証法』を書いたF.エンゲルスが その一つの悪しき例となっている。(所謂 ダーウィニズムからのく不幸な影響〉。)
マルクス 彼(或はウィットフォーゲル)の場合,たとえば「生産力」,「生 産様式」が,社会と自然との関係として把握されている。
マルクスは「関係」そのものを所謂「物質代謝Stoffwechsel」として把握する ことによって,そこに社会(経済)の基礎となる自然のすべてを(自然そのもの とは別のものとして,社会サイドに)集約せしめている。(むしろ,そこでは自 然そのものは無意味,没意味なものとして,切って捨てられるのである。)
ウィットフォーゲルの言葉によって,二言しよう。
「生産様式とは,『現実的生産過程』,即ち,人間と自然との,その時々の『物 質代謝』の本質的要素の全体である。が,その際,ヘーゲル以下の入々によれば,
その性質は,全く自然の機械的=化学的合法則性なる外的条件により条件づけら れる側面たる,斯かる(生産)過程の物的側面を,強調する必要がある。……生 産様式なる概念においては,社会的な契機が考慮のうちに入れられる必要がある とはいえ,社会的に労働する人間の自然に対する関係が前景にあるd
以上における限りでのヘーゲルとマルクス(ウィットフォーゲル)との差異一 一敢て言えば,ヘーゲルと異るマルクス(ウィットフォーゲル)の特徴は,(へ 一ゲルとは逆に)精神的なものに対する自然的なもの(自然そのものではない)
の優位として,所謂 否定 , 矛盾 の契機(即ち現実的,物質的,自然的契機〉
を,ヨリ強調する点にのみある。 否定 の強調 この点はその実ヘーゲルが 自己の見解を所謂 有機体説 と区別する時強調したところの主旨でもある。
(何れの場合も枠組そのものにおいては変りはない。)
人は謂っ。
ことば 『人の生くるはパンのみに由るにあらず。神の口より二つる凡ての言に由る。』
或は(反対に)
しろ
「国破れて,山河在り。城山にして,草木深しd
(前者がヨーロッパ的,後者がアジア的 夫々代表的な見方,考え方か。)
我々は,現実の問題として,精神,自然の何れにも一方的に偏し得ぬ。(勿論ヘーゲ ルの場合,精神……就中 絶対的精神 ,…… 絶対的理念 ,…… 絶対者 ,…… 神乃至 宇宙的理性 ……への偏重があるとしても。)かるが故に,その(真正なる)中庸を得る ことが困難である。
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へ幽ゲル自身,前述(における自然の評価)に続けて,「しかし」と言う。
「しかし,自然の評価は,あまり高すぎても,又あまり低すぎてもいけない。温和なイ オニアの空はホメロスの詩の典雅に寄与するところが多かったには違いない。けれども,
この空だけがホメロスを生むというわけのものではない。事実,その後必ずしも,これを 生まなかったのである。トルコの支配下には,どんな詩人も出なかった。」(『歴史哲学』,
訳178頁。)
本稿のこの部分の下書を終えて数日後,たまたま,加藤尚武「革命の死んだ日 に歴史が生れた一ヘーゲル哲学における『歴史』」(「現代思想」1978年12月臨 時増刊,「総特集一ヘーゲル」)なる一文を読んでいたところ,次の一節に行き当 つた。(偶然か将又,必然か。)
「……『時の移りとは何』,と想いつつ,私は今年の夏,ハイデルベルクの古城 の中の道を歩いていた。かつてヘーゲルも散策したであろう道である。古城とな れば,どうしても『城春にして草木深し』という一句が季節はずれながら浮んで くる。『夏草やつわものどもが』と追い打ちの一句に,更に重ね合さってくるのは 『築土のうへの草あをやかなるも,人はことにめもとどめぬを,あはれとながむ るほどに』という和泉式部の言葉である。一代の権力という意味での『世の中』
にせよ,世界の歴史の死を象徴しているのは『あをやかなる草』なのである。過 去は自ら草木の繁りの中に没して行く。……」
歴史の死一即ち精神の(仮)死。
「現代思想」の同論文集には,その他本稿の内容に直接密接するテーマとして,
・トーゲルにおける「体系」,……関係概念,「歴史」の問題などの取扱いがある。
もっともそれらの殆どは,(これ又,我国文化の宿命ともいうべく)所謂 哲学学 者 の論文であって,我々には直接には稗益しない。
尚,ヘーゲルの絶対者観とキリスト教の超越論の考え(所謂 有神論 )との 繋がり(の解明,その方法)に関しては,哲学的には,カント,J.G.フィヒ テ,シェリング,更にはヘーゲル以後のヘーゲル学派の方向……と,煩項な問題 が重復している。しかし,それらの何れの扱いにも増して要領よく且つ簡潔,明 確にヘーゲル(の歴史哲学)の意義を,E.ガンス(『歴史哲学』の編者)ば『歴 史哲学』第一版序文に,次の様に頭書している。
「新しい歴史哲学を出版することになってみて真先に感ぜられることは,いわ ゆる実践哲学のすべての部門の中で,ほかならぬこの歴史哲学の部門だけが一番 遅れて開拓された部門であり,又研究の一番貧弱な部門だということについて弁 明しておく必要があるということである。と言うのは,18世紀の初めになっては じめてヴィコVicoによって,これまでは偶然的な出来事の継起と見られるか,
信仰上のことで人間にはわからない神の業と見られていた歴史の根底に,根源的
アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(1) 13 な法則と理性の思想とを置こうという企てが始められたからである。だが,人類 の自由というものは,この理性に矛盾するものではなく,むしろ理性こそ初めて 自由の成立し得るための地盤を構成するものである。」
マルクスの法則観が(通常主張せられる如き単なる自然科学的,唯物論的法則 観でなく )ヘーゲルを介した斯かる系譜の延長線上にあることは,今更言う までもない。(我々は道化役者でないのだから,ヘーゲル,マルクス両者の差異を 殊更に誇張する必要はない。)
ヘーゲル自身は,(如上のガンスと全く同一トーンで)次の様に述べている。
「……哲学が提供する唯一の思想は,理性が世界を支配するということ,従っ て世界史においても又一切は理性的に行われて来たという,単純な理性の思想で ある。この確信と洞察とは歴史そのものに関しては一般に一個の前提であるが,
哲学そのもの〔「哲学的歴史,歴史哲学」を軸として含む〕の中にあっては,それ は何ら前提ではない。理性が一ここではこの言葉の神に対する関係について立 入って論ずることはしないで,この言葉だけに限って差支えない一実体である と共に無限の力であり,それ自身一切の自然的生命と精神的生命との無限の素材 であると共に無限の形相,即ち,その内容を動かすものであるということは,哲 学の中では思弁的認識によって立証されるのである。理性は実体である。即ち,
理性はすべての現実の存在と存立との根拠であり,地盤である。」(『歴史哲学』,
訳63頁。)
「地盤」(ヘーゲル),「地盤」(ガンス)……。
ことば
斯くて形而上における「摂理」(聖書,殊にヨハネ伝の所謂「言」一歴史にお
コ
ける人間存在の在り方,道理,「ことわり」を含む)一それ自体に即したその合
くつ ロ
理化(理性的,経験的必然性〈一法則〉を根拠とする)が,ヘーゲルの立場であ る。
ヘーゲルを更に(独自の方法,経済学の方法で)合理化したもの一それが,
新ヘーゲル派(の左派)ともいうべきマルクス(ガンスもヘーゲル左派の一人で あった)の立場であろう。
他方において,(認識論的にヨリ厳密なものとして)新カント派,中でもバーデ ン学派(ウェーバー,ゾムバルトの拠る)の立場がある。
同様,新カント派(但し,マルブルヒ学派)に拠るとみられるJ.A.シュム ベーターは,「合理化」の意義を彼の『経済発展の理論』(但し英訳書)に,次の 様に註している。
言う。
「合理化rationalises……ここで,この語をマックス・ウェーバーの意味に用 うる。……読者が見られる様に『合理的』と『経験的』とは,ここでは同一物で
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はなくとも,少くとも同類物を意味する。これらは共に『形而上学的』なるものと は異り且つこれに相対立するものであって,後者は『理性』や『事実』の領域,即 ち科学の領域を超えて進めるものなるを意味する。…・・コ(英訳書57頁,邦訳145
−7頁。)
その他。
ヘーゲルにおける(筆者の所謂)「精神への偏重」……自然……そして(結局)
「世界史の地理的基礎」…∵と辿る一連のプログラム(乃至システム)に関して は,ヘーゲル自身による解り易い次の直な簡単なスケッチ(矢張,「地盤」という 語を使った)がある。
即ち,言う。
「先ず第一に,我々が心得ておらねばならないことは,我々の対象である世界 史が精神の地盤の上で行われるものだということである。もっとも,世界は物的 自然と心的自然との両面をもつ。そして物的自然も又世界史に関わりをもつもの であるから,我々も初めのところで,予めこの自然規定(自然原理)の基礎的諸 関係〔「世界史の地理的基礎」のこと〕に,触れておくつもりである。」(『前掲書』,
訳74頁。)
ともあれ,我々は,先に次のことを知った。(改めて,再言,強調しよう。)
先ず,(1)「民族精神の自然との関係」……即ち「民族の類型と性格」(精神)がその「地 理的位置の自然類型」(自然)と「密接に関係」すること(結局は精神の必要よりする 精神への自然の吸収,即ち 精神化 という実質で),次いで,(2)その関係 「この性格
こそ,民族が世界史の中に登場し,世界史の中に位置と場所とを占めるための様式をなす もの」であること,従って更に,(3)その関係が,その民族の世界史の中での「位置と場所」
とを決定すること,これである。
ヘーゲルにおいて「地理的位置の自然類型」がいかに重大な意義を有するか一「本質 的」,「必然的」であるかが,これをもってしても明らかである。一文字通り「世界史の 地理的基礎」と称せられる所以である。 「民族精神の自然との関係は,人倫の全体〔客観 的精神としての人倫的精神〕としての普遍性や……個人〔個性, 価値個性 〕に比べると,
外面的〔「……に比べると」……比較的,ヨリ外面的の意一「外面的」そのものではない〕
なものである。けれども,この自然的な関係が精神の活動のための地盤と見られなければ ならない限り,それは本質的に,又必然的に一つの基礎〔基抵,根抵〕をなすものである。」
「世界史の中では精神の理念は外的〔現実的,現象的,或は客観的〕な諸形態の一系列 という形で現実の中に現われ,その形態の各々は現実に存在する民族として出現する。」・…・・
精神(の世界)一民族精神一民族。(現実への方向)。
客観的に実現している理念としての人倫 自然的な世界と対置される。……民族
アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合(1) 15
(マルクス,ウィットフォーゲルにおける「社会」)一「この現実的な存在の面は〔自然 の有,物質と同じく〕時間と空間,即ち自然的存在に属する。」……「民族精神の自然との 関係」一の発生,出自。「即ち,各々の世界史的民族がそれ自身〔の内に〕もつ.ている特 殊的な原理は同時に,その民族の自然規定性なのである。」
現実の多様性 「自然性の衣を着た精神〔一自然性に自らを現わす精神〕の特殊的 な諸形態は分散的な形をとる。というのは,分散性こそ,自然の形式だからである。……
この自然の区別……精神が発生するための特殊可能性……地理的基礎……。」
汎神論の一種である仏教に謂う一1「空即是色。」所詮,自然に触発されての精神の(現 実における)分岐,分散か。
せん つる
千なりや蔓ひとすちのこ・ろより(加賀の千代女)
自然……統一よりも,むしろ分散(個別)。
一と言うより,(ヘーゲルの場合は)
統一から区別……(そして,次には)
区別から統一(自己回帰)……(が,ヨリ期待される)……。
上述するところを,(精神のヨリ積極,ダイナミックさにおいて)換言すれば一 「∵…ヘーゲルによれば……宇宙は実在的なものと観念的なものとの平衡では なく,理念が非現実的な抽象体でなくなるために自己を展開して多様な諸形態と なった実在である。しかも理念はこれらの諸形態のうちで自分を見失うことなく,
自分自身を思考する意識的な理念として自分の本質にかなった真の姿をとって存 在するために,思考する精神のうちで再び自己のうちに帰る。……絶対者はヘー ゲルによれば,存在ではなくて発展である。即ち,それは様々な区別と対立とを 定立するが,これらは独立であったり絶対者に対立したりするものではなく,個 別的なものの各々もその全体も,絶対者の自己発展の内部にある諸契機に過ぎな い。……この区別は,我々が絶対者へ付加するのではなくて,絶対者が自ら定立 するのでなければならず,そしてそれは再び全体のうちへ消失して,絶対者の単 なる契機であることを示さなければならない。……概念の内在的な自己運:動が,
ヘーゲルの方法である。……内在的な連関……この連関は,内的な必然によって 至るところに統一・から区別が,区別から統一が湧き出ること,つまり,至るとこ ろに対立が生れては又消える生動的な脈搏があることによって,与えられている のである。」(シェヴェーグラー『前掲書』,訳274−6頁。)
しかし,このことは,同時に,世界史(歴史)において果す自然(自然的なもの)の役 割が,多様な可能性を含んでいることを,我々に示唆する。
いわば,自然は二義的(と言うのは,一義的なのはヘーゲルの場合精神であるが故に)
にではあるが 自然的なるものは,その特殊的個性に従って,民族精神 (そのヨリ
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現実的なもの としでの)「民族の類型と性格」に作用,それを助長,発展させ,或は停滞さ せ,歪め,時に(異常時には)圧殺,粉砕さえする。(自己否定) 更に,多種多様な共 同体,体制(所謂「アジア的生産様式」を含めて)の可能性,その「特殊的可能i生」(「時 間と空間」にわたる)……。
もっとも,自然の「世界史の行程」に果す役割については,(次の如く)ヘーゲ ルは,(精神そのものの積極に強調を置くの余りに,)極めて消極的である。(少く
コ
ともヘーゲルは自然それ自体というより 自然と精神との組合せのもつ多種多 露な多岐性,複雑に不知である,と共に,ダーウィンニズムにも無縁であった。
意識的か。)
ともあれ,ヘーゲルの言う。
「自然界の変化は,どんなに多種多様であっても,循環の絶えざる繰り返し以 上のものではない。自然の中では『日の下に新しいものなし』である。又その限 り,官然の演ずる色々の姿態変化の芝居は退屈である。ただ精神の舞台でやる変 化の中にのみ出て来る。この精神界での現象は人間によって,単なる自然の事物 の中でとは,まるで違った規定を見せてくれる。 自然の事物の中では,いつ も変らない定まった性格が登場し,どの変化も結局みな,この性格に還元される。
一これに反し精神界では,実際にモノを変化し得る能力eine wirkliche V6直n.
lderungsf琶higkeit,ヨリ良いものへの変化の可能性,一完全性への衝動が見せて もらえる。……自由の概念から見た精神……即ち,これこそ根本の対象であり,
それ故に又,それは発展の指導原理でもあり,発展に意義と意味とを与えるもの でもある。」
加藤尚武(前掲論文)をもって換言すれば,こうである。
「……草木の繁りに象徴される自然的な時の移りとは全く異質な場面で,時代 における変化が考えられなければならない。それは,自然的なものを不可欠な条 件としながらも,自然的なものに動かされてはいない。自然から己れを闘いとつ て自立した人倫〔客観的精神〕の世界,即ちヘーゲルに固有の意味で『精神』の 世界での変化である。それは自然的な変化の世界ではなく,党派と党派,宗教と 宗派の争を通じて『時めく』もの〔矛盾,抗争……そして発展〕の世界でもある。」
(既にi援用せる如く )ヘーゲルは,自然的なもの ……「地理的基礎」について,
言う。
「自然の区別は,先ず精神が発生するための特殊的可能性とも見らるべきものであって,
その意味で自然の区別こそ,ここにいう地理的基礎でなければならない。」
「地理的基礎」……。
ウィットフォーゲル(前掲論文)の言う。
アジア概念,ヘーゲル『歴史哲学』の場合 (1) 17 「自然的基礎……斯かる基礎の分析なしには,又,斯かる基礎の上に行われる 発展の,斯かる基礎からの説明なしには,産業の歴史過程の合法則性は,科学的 に關明され得ないこと,明らかである。……我々のとる社会科学体系においては,
筍も歴史究明に関する限り,自然的契機は排除し難き確固たる地位を占めている。」
更に,ウィットフォーゲルは,その著『支那の経済と社会』序説において,マ ルクス・エンゲルスを援用しつつ,(如上のヘーゲルのロジックの骨子と全く同様)
次の如く言う。
「およそ,生産諸力なるものには,社会的側面の外に,自然的な一側面がある。
かの前者は,生産過程の内部において,積極的な因子,即ち『父的』要因を,後 者は『母的』に舜動的な要因を形成する。前者は,実践的に活動しつつある人間 が,彼等の歴史を,彼等の経済史をも又,自ら作るということを示す。しかるに,
後者は,次のことを示す。成程,このように活動的な人類が,彼の歴史を自ら作 りはするが,しかし,それは,人類によって作られなかった全く特定の諸条件の 下に,即ち,その具体的姿容は,社会的労働の生産性と態様とに適応して変化す るが,しかし,それらを構成する諸要素の一切の機能の諸推移にも拘らず,根本 的に不断に作用を及ぼし,従って社会のヨリ以上の発展の態様に対しては尚決定 的であるところの自然的条件の下においてであるということ。従って,マルクス はこう要求する。『一切の歴史叙述は,これらの自然的諸基礎,しかもこの自然的 基礎の上に,人間の活動が,歴史過程において,いかにそれを変更するかという ことから,出発しなければならぬ。』『種々なる共同体は,彼等の自然環境のうち に,種々なる生産手段と種々なる生活資料とを見出す。従って,共同体の生産様 式,生活様式,及び生産物は,共同体の異るに従って種々異っている。』」
「ヘーゲルとウィットフォーゲルとの接点二『支那及びインドに共通に認め られる……停滞性専制国家〔アジア的生産様式のこと〕は,如何にして成立し,
又何に基いて存立するのか。ヘーゲノkは,斯様な国家の存立を,「地理的基礎」か ら説明するのである。』」(拙稿「アジア概念,ウィットフォーゲル『東洋的専制 主義』の場合一アジアとは何か(3)」,研究年報,第21集。)
もっとも,「地理的基礎」(ヘーゲル),乃至「自然的基礎」(ウィットフォーゲ ル)に置く強調は,ヘーゲルの場合(ウィットフォーゲルに比し)ヨリ少い。
ここで,個人(ヘーゲルの所謂 主観的精神 )に関わる一つの比喩を用いよう。
仮に,我々(個人)に絶対的,形而上の霊魂なるもの(それは我々にお・ける一切の先入 であろうが)があるとすれば,有機体としての我々の心身(ヘーゲルの所謂「心的自然」,
「物的自然」),殊にその肉体(乃至その活動)が,現実(現実的なもの,実在的なもの)におけ る最初のその表現(実現,現象)となるであろう。と共に,(逆に言えば)そういった我々