• 検索結果がありません。

補助参加論の新たな試み︵二・完︶

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "補助参加論の新たな試み︵二・完︶"

Copied!
35
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

補助参加論の新たな試み︵二・完︶

アメリカ連邦民訴規則上の日甘﹃<①巨﹂8との比較検討を基に

和 田 直 人

︵目 次︶

序論 ・       第五節小括

第一章 訴訟参加論の抱える問題点       第四章 私  見

第二章 ア刃リカ連邦民事訴訟規則二四条        第一節問題の所在

    −日需コ︒昆oづー︵以上︑四四巻二号︶ ︐   第二節 動態的な視点の必要性

第三章 日本法への示唆  ︵以下︑本号︶      1当事者と参加人間における暫定的な関係1

−第一節 巨需冥05試oうと補助参加の関係 ・        ︐第三節 定式化作業の限界

 第二節 適時申立主義−       第四節 補助参加に求めら︐れる機能

 第三節 アメリカ法における許否判断の構造       結  び

 第四節権利参加と許可参加の峻別・

  補助参加論の新たな試み︵二・完︶       ︑      −   ︵都法四十五ー一︶ 二七七

(2)

二七八

第三章 日本法への示唆

 第二章においては︑アメリカ連邦民訴規則上の訴訟参加制度である巨Φ零Φ昌ざロ︵以下︑アメリカ連邦民訴規則上の亨

8⊇Φ呂︒5については︑特にことわることなく巨Φ冥雪試8と記す︶について概観してきた︒本章ではこれを受けて︑わが

国の補助参加制度との関連性︑わが国がアメリカ法から受けることのできる示唆について言及する︒

第一節 巨8コΦ昌8つと補助参加の関係

 まず︑日8目o邑8と補助参加の関係について︑簡単に整理しておきたい︒アメリカ法が︑参加の形態につき︑わ

が国とは異なり︑任意参加としては罫Φコ①昌85の一類型のみを用意するだけであることは既に紹介してきたとおり

である︒このようなアメリカ法の参加に関するアプローチは︑アメリカ法を通してわが国の補助参加制度を考えよう

とする際に︑実に困難な問題を生じさせる︒すなわち︑補助参加制度と9Φ零028⇒との制度的関連性についてであ

る︒

 巨mコΦ昌δ5が連邦民訴規則上で唯一の任意参加制度であるということは︑わが国において︑日冨ミ窪亘oコは補助

参加だけではなく︑共同訴訟的補助参加︑独立当事者参加の領域までもをカバーする非常に広範囲な参加類型として

把握されなければならない︒しかしながら︑わが国における一般的な理解としては︑巨9零Φ呂8における参加人が︑

訴訟当事者として扱われ︑この者に対して既判力も及び︑また訴訟構造上も三面訴訟と解されていることから︑参加

(3)

人の地位や訴訟構造の観点からは︑巨①コΦロ試oづは独立当事者参加に最も近いと理解されていることがこの問題を一

層難しくしている︒けれども︑このように参加人の地位や審理構造といった参加制度の一部のみを切り取って︑巨︒㌣

<①呂05を無理矢理にわが国の既存の法制度に当てはめてしまうことは︑考察の幅をいたずらに狭めてしまうだけで  .

あつて好ましいことではない︒現に︑わが国の多数当事者︵訴訟参加︶論においても︑補助参加制度を二当事者対立

構造の単なる延長としてではなく︑紛争をありのままの形で訴訟というまな板の上に乗せるためのツールとして積極

曽とらをいこうという立場が﹂れまで提唱されてこなかったわけでは㌻・きらには・補助参加に関する個々の

議論に目を向けてみても︑参加人への判決の効力として︑.いわゆる参加的効力にとどまらず既判力を念頭におこうと         ︵2︶ いう学説も存在する︒    一      ・ ︑ところで︵本稿において筆者がアメリカ法を考察の題材として用いた興味と関心は︑これまで述べてきたような︑

アメリカ法に内在する︑柔軟な訴訟フォーラムの捉え方︑すなわち︑紛争を原被告対立の対立二当事者型の構造に当

てはめるのではなく︑参加申出人︵補助参加人︶も﹁紛争の当事者﹂の一人であるという視点から︑これを三面的︵あ

るいは多面・全面的︶に捉えていこうという発想にある︒紛争当事者全員による自律的な紛争処理を達するために    ︑

も︑補助参加を任意参加の基本形として理解し直そうというのが筆者自身の狙いでもあるのだが︑その意味では︑ア

メリカ法が任意参加について巨Φ自Φ5﹇δづしか用意していないということは︑訴訟という司法制度.紛争処理制度の      ︑

中での任意参加の位置づけい役割というものを見つめ直すための格好の素材でもあるともいうことができると思わ

︵3︶  >−      ° れる︒ °      .−

 ︵1︶請求を基礎に据えて多数当事者訴訟を把握することに批判的である代表的な見解としては︑谷口安平﹁多数当事者訴訟に

   補助参加論の新たな試み︵二・完︶       ︑        ︵都法四十五−一︶ 二七九      

(4)

         二八〇

  ついて考える﹂法学教室八六号︵一九八七︶六頁以下がある︒

︵2︶たとえば︑新堂幸司﹃新民事訴訟法︵第二版︶﹄︵弘文堂︑二〇〇一︶六九九頁以下︑高橋宏志﹁補助参加について︵四︶﹂

  法学教室一九七号︵一九九七︶一一〇頁︵同﹃重点講義 民事訴訟法︵下︶﹄︵有斐閣︑二〇〇三︶三三三頁︶は︑当事者と︐

  参加人との間で作り上げられた判決の基礎に基づく裁判所の判断に争点効や既判力を肯定する︒さらに︑井上治典﹁民事訴

  訟法第七〇条の判決の効力の性質およびその客観的範囲﹂同﹃多数当事者訴訟の法理﹄︵弘文堂︑一九八一︶三八〇頁以下︑

  松本博之11上野泰男﹃民事訴訟法︵第三版︶﹄︵弘文堂︑二〇〇三︶六〇三頁は︑訴訟の結果の不可争性という既判力との共

  通項を見いだすことで︑それを参加人と相手方の間にも及ぼすことを肯定している︒

︵3︶ ただし︑現在の筆者には︑任意参加につき︑そのルートを一本化するという発想があるわけではないことを予めお断りし

  ておく︒もっとも︑学説上において︑参加ルートの一本化に親和的であると読み込めるような主張がこれまで提唱されてこ

  なかったわけではない︵たとえば︑佐上善和﹁訴訟告知と第三者の介入負担﹂法学セミナー三四三号︵一九八三年︶九五頁

  を参照されたし︶︒

第二節 適時申立主義

 まずアメリカ法の規律において注目されるのが︑適時申立主義の採用である︒これは第二章でも触れたように︑利

害関係人による参加申立てが︑当該訴訟の状況︑参加申立人の当該紛争への関与の仕方・程度などの要素からみて︑

不公平であり︑訴訟をいたずらに混乱・遅延させるものであった場合に︑そのような参加申立てを排除するために規

定されたものである︒

 さて︑当然のようにも思われるこの原則であるが︑実は︑わが国の補助参加制度においては︑補助参加申出の適時

性は補助参加要件として︑明文の規定として存在しないばかりか︑解釈論としても必ずしも積極的に議論されてきた       ユ わけではない︒つまり︑わが国︵の︵補助︶参加制度および補助参加に関する学説︶では︑アメリカ法に比べて︑﹁どの時

(5)

      ︵5︶ 機の参加であるか﹂という時間の要素への配慮に対する関心が薄いのである︒さらに言えば︑わが国の場合︑一般的

な解釈に基づけば︑補助参加が許可されると補助参加人に付与される全ての行為が︵参加の時機を問わずして︶当然に

なしうることになるのだが︑わが国の補助参加制度が︑補助参加人について︑建前の上では﹁半人前﹂の当事者であ

るとする一方で︑かなり強力な権限︵もっとも︑補助参加人の権限が強いかどうかは︑評価の問題であるので異論があるかも

しれないが︶を与えている点で参加人と既存当事者との関係を規律するにはあまりにも硬直的であり問題があるとい       ︵6︶ わねばならない︒       ︐

 また︑わが国の規定が適時性の問題を正面から定めていないことは︑補助参加の利益論︑補助参加申出に対する許

否判断のあり方について︑さらに新たなコンフリクトを生じさせていることも見逃してはならない︒このコンフリク

トの背景は︑わが国の補助参加の利益論が動態的な概念を想定してきたのではなく︑固定概念としての︵ひとつの法

的な︶権利を前提として議論されてきたことに求めることができよう︒つまり︑法的な権利を前提とするということ

において︑わが国の補助参加の利益論は︑補助参加申出の時機︵すなわち申出の適時性︶に関する議論を包摂していな

いのである︒もっとも︑わが国の実務が補助参加申出の時機を問わずに﹁補助参加の利益﹂のみによって許否判断を         下しているのであれば︑要件論に適時性の問題が含まれないことによる問題は何も生じないが︑実際の裁判例を見て

      ︐   ︑       し︵7︶ みると︑参加の時機が許否判断のファクターとして組み込まれていると推測されるような事例がないわけではない︒

そこで︑このような適時ではない申出につき︑どのような理由付けで補助参加の申出を却下するかが大きな問題とな

る︒この場合に考えられ得る道筋は大別すれば二通りである︒その第一は︑﹁補助参加の利益がない﹂として却下す

る方向であり︑第二は︑補助参加の利益以外の枠組みで却下することである︒ただし︑第一の方法では︑参加申出人

にいわゆる﹁補助参加の利益﹂が備わっている場合に︑困難な問題が生じる⌒もっとも︑﹁判決主文中の判断にかかる利      ︑

   補助参加論の新たな試み︵二・完︶       ︵都法四十五−一︶ 二八一

(6)

二八二

害関係﹂︑﹁判決理由中︵主要な争点︶の利害関係︶﹂というこれまでの議論の枠組みにおいて︑補助参加の利益がない場合には︑

そもそも適時性判断が問われないことは改めて言及するまでもない︶︒すなわち︑これまでの伝統的な補助参加の利益をめ

ぐる議論においては︑﹁判決主文中の判断にかかる利害関係﹂︵制限説︶もしくは﹁判決理由中の判断にかかる利害関

係﹂︵拡張説︶がありさえすれば︑この利益の存在を肯定していたことから︑︐そこに補助参加の利益を判断する際の要        ︵8︶ 素を新たに付け加えることが迫られるのである︒次に︑第二の方法についてであるが︑こちらも補助参加の利益以外

の枠組みで考えるという点で︑現行法の文言との整合性で若干の問題を生じさせる︒いずれの議論を採るべきかはと      ︵9︶ もかくとして︑補助参加の利益についていかなる立場を採ろうとしても︑適時ではない参加申出を無条件には許容し

ないという方向性では見解は統一されているように思われる︵少なくとも︑判例実務はその方向にあると評価してよい︶︒

そうだとすれば︑この申出の適時性に関する議論は︑当然のこととして注目されなかっただけということにもなるの

かもしれないが︑補助参加許否判断の当事者に対する可視化を重視する筆者の観点からみれば︑この議論は︑補助参

加要件の本質︑補助参加許否の裁判の本質を考える際に様々な示唆を提示してくれるものである︵この点については︑

第四章で改めて触れる︶︒

︵4︶ もっとも︑高橋宏志﹁各種参加類型相互の関係﹂新堂幸司編集代表﹃講座民事訴訟法3﹄︵弘文堂︑一九八四︶二六一頁

  注︵8︶︑同﹁補助参加の利益︵二︶﹂法学教室一九五号︵一九九六︶八九頁︵同﹃重点講義 民事訴訟法︵下︶﹄三一二頁︶

  のように︑補助参加申出に対する許否判断のファクターとして︑申出の適時性を考慮しようという主張が全くなかったわけ

  ではない︒

︵5︶ 攻撃防御方法のレベルであれば︑一五七条で対応できる問題であるが︑参加の申出そのものにこの法理をそのまま当ては

  めることは︑参加の申出が訴え提起に準ずるものであることに鑑みて︑必ずしも適当ではないと思われる︒

︵6︶旧民訴法下では参加の対象となる訴訟が係属中である必要があった︵旧民訴法六四条︶ため︑適時性の問題にも多少なり

(7)

 ︐の枠組みが存在していた︒しかし︑平成改正によって︑こめ要件が後退したことにより︑現在では︑補助参加を再審の申出

 ,

ニ併せてなすことも理論的には可能となった︒そう考えるど︑この適時性の問題は以前にもまして深刻な課題であるという

  こともできよう︒      .

   ところで︑わが国の補助参加制度は︑一方では参加人を半人前の当事者であるとしながらも︑︑他方では強大な権限を与え

  ている︵少なくとも︑わが国の現在の議論では︑補助参加人の独立性を強調する学説︑すなわち補助参加人の権限を拡張し       へ   ていこうという流れが主流である︶︒このような傾向は︑理論的には︑参加人の手続保障を手厚くするものであるとして︑.

  歓迎されるべき傾向ではあると評価して良いと思われるが︑その他方で︑現実の裁判実務からは︑補助参加が既存の訴訟を

  混乱・遅延させるものとしてのより一層警戒される︵すなわち︑補助参加の申出を許可しづらくなる︶おそれが強くなると

  いう点も見過ごしてはならないと思われる︒この点で︑日9ミ巴﹇8ローの規律は︑参加人の権限確定に際し︑当然に参加の時

  機も考慮されうるという点で︑わが国の法に比べ当事者の公平性という点でバランスが良いと思われる︒

︵7︶ たとえば︑︵やや特殊な事案ではあるが︶控訴審段階︵控訴審開始後約五ヶ月が経過した段階︶で申し出られた補助参加

  が却下された事例の紹介として︑井上治典﹁控訴審における補助参加申立て却下の記録﹂同﹃民事手続の実践と理論﹄︵信   へ   山社︑二〇〇三︶二一九頁がある︒

︵8︶ この点に関しては若干の議論が存在する︒井上治典﹁補助参加の利益−半世紀の軌跡1﹂判例タイムズ一〇四七号   ︑

  ︵二〇〇一︶六頁︵同﹃民事手続の実践と理論﹄一七一〜一七二頁︶は︑濫用的な参加申出に対してば﹁正当な利益・必要

  性が認められない場合には︑訴権の濫用と同じく︑参加申立ての濫用として︑参加の利益なきものとして却下される﹂とす        ン   る︒井上教授の立場では︑補助参加の利益は実体的な権利概念からは解放されているために︑補助参加の要件︵補助参加許

  否の裁判︶を参加申出に関する正当事由︵正当性判断の局面︶として正面から理解することは決して困難ではない︒つまり︑

  参加人と既存当事者間での手続面でのフェアネスを重視する井上教授の見解においでは︑°補助参加の利益の判断に申出の適

  時性が入り込むことは至極当然のことなのかもしれない︒が︑このような考え方は伝統的な補助参加の利益論とは明らかに     ︑

  一線を画するものであると思われる点で注意が必要である︒         ︑・        ︐

   これに対し︑福本知行﹁ドイツ民事訴訟法における補助参加の利益論の形成﹂金沢法学四六巻一号︵二〇〇三︶五三頁注

  ︵10Yは︑﹁参加の許否それ自体を柔軟に決定すべきものとしながら︑°.さらに一般条項である訴訟上の権能の濫用禁止によ

゜る制限まで持ち出さなければ具体的場合における参加の許否を決定できないというのは︑参加要件の柔軟化︑弾力化という゜

補助参加論の新たな試み︵二・完︶        渉       ︵都法四十五−一︶ 二八三

(8)

二八四

  傾向が理論的な基礎付けよりもむしろ政策的な考慮を先行させて進展してきたことを端的に物語る﹂として井上説に疑問を

  なげかける︒確かに︑後半部のわが国における補助参加要件論に関する批判に関しては︑筆者も正当であると考える︵同様

  の指摘を本稿でもしている︵第四章第一節︶︶が︑︵福本助教授自身はこの場合に法がどう対処すべきかを明言されていない

  ので筆者の誤解︑読み違いである可能性はたぶんに否定できないのだが︶濫用的参加申出に対する対処として︑一般論を持

  ち出さなければ参加の許否を決定できないのは︑むしろ︵補助参加の利益に硬直的な態度を示している︶伝統的な補助参加

  の利益論の方であるように思われる︒

︵9︶ 参加申出人︑当事者に対する手続権の保障︵参加要件および許否判断の理由へのアクセス︶を重視する立場からみれば︑

  ︵これまでの補助参加要件の議論がこの問題を特に念頭においてこなかったことに鑑みると︶適時性の問題が明文上の要件

  として規定されることが望ましいのはいうまでもない︒仮に現行法解釈の枠内で申出の適時性にかかる処理をするならば︑

  同様の理由で補助参加の要件論として処理するよりも︑よりストレートに一般条項の問題として処理する方が当事者に対す

  る保障は厚いといえるのではないかと思われる︵濫用的な申立てについても同様である︶︒付け加えるならば︑井上教授が

  指摘されるように補助参加の利益︵補助参加の要件︶を参加にかかる正当事由であると観念することで︑この解釈の申に適

  時性の問題を組み込むこと自体に魅力を感じないわけではないが︑補助参加許否判断の現状をふまえた場合には︑判断理由

  へのアクセスがいたずらに困難となるだけであるように思われてならないからである︒なお︑独立当事者参加に関する議論

  ではあるが︑新堂・前掲注︵2︶七一六頁も参照されたし︒       −

第三節 アメリカ法における許否判断の構造

 前節で述べた適時性判断に代表されるアメリカ法の参加に対する態度は︑アメリカ法が有する参加に関する広汎な

裁判所の裁量権の存在に見ることができる︒アメリカ法が参加要件の面では︑必ずしも要件の定式化にこだわらない

姿勢をみせ︵許可参加に関しては︑その許否をもっぱら裁判所の裁量に委ねているし︑権利参加の要件においても︑その要件の

解釈の幅はかなり広い︶︑効果︵参加人の権限︶の面では︑それを定めるべき規定すら設けていないことは既に紹介して

(9)

きたとおりである︒このようなアメリヵ怯の規律からは︑個々の紛争において考え得る実に様々な利害対立の状況に

対し︑訴訟手続が動態的な判断行動を設けることで︑手続の側からより積極的にアジャストしていこうという姿勢が

読み取ることが可能だろう︒

 このようなアメリカ法の態度の典型としては︑たとえば︑第二章でも紹介したように︑5.訂零o昌05において参加

人の権限は︑参加人が本訴について有する利益を事案毎に認定して初めてその範囲が決定されるどいう構造を挙げる︐

ことができよう︒ここで︑一つ注目すべきは︑アメリカ法においても︑参加人の権限を論じる際に出発点となったの

は︑従属性概念であったことである︒しかし︑こ⑳従属性概念の解釈は常に当事者の訴訟支配権の絶対化という事実

の前に歪められる危険を伴っていたし︑そもそも︑参加人の多様性が従属性だけでは語り尽くすできないということ

も解明されてきた︒そこで︑連邦民訴規則は従属性理論からの脱却を試みたのであり︑その際に︑・当面の道具として

用いられたのが籍参加と許可参加の峻別論であつ︵煙・もつとも・この区分が︵アメリカ法特有の着により︶権利参

加の領域が拡大したことによって︑現在の宣9自Φ巳旨コにおいて︑機能不全に陥っていることは︑第二章で触れたと

おりであるが︑この機能不全を契機とする議論によって辿り着いた一つの結論が︑参加人の権限について一般論とし

て論ずることを放棄する︵その前提として︑参加人の権限は必ずしも既存の当事者のそれとは等しくないとする理論を観念す

る︶ことで︑既存当事者の訴訟追行権との文脈で参加人の権限を事案毎に画そうという論理で窃・

 ここで一つ考えるべきは︑アメリカ法におけるこのような実務は︑あくまでも参加人の権限を確定するものであっ

て︑その結果として︑参加人の権限が当事者の権限に比べて小さくなったとしても︑それは裁判所の裁量によって制

限されたというわけではない︵訴訟運営上の便宜から裁判所が裁量的に参加人の権限に制約を加えることとは区別される︶と

いうことである︒そもそも日9零o昌o⇒において参加人の原則的な権限は︑原被告の自律的な訴訟追行を妨げない程  ︑ へ

   補助参加論の新たな試み︵二・完︶      ︵都法四十五−一︶ 二八五

(10)

二八六

度で認められるのであって︑それを超える権限は参加が認められたというだけでは当然には与えられないのである︒

もつとも︑この文脈によれば︑参加人の権限を確定するためには︑原被告が自律的に訴訟追行しうる範囲がどこまで

であるのかという問題を克服しなければならないのである︒

 以上のような態度をとる巨9qo昌自において︑参加人の権限を予め制定法によって画するのではなく︑参加要件

︵参加申立の理由︶と照らし合わせながら︑紛争の具体相との文脈から画定していこうという構造を採用することは︑

ごく自然な流れであると受け止めることができる︒もちろん︑わが国の法において︑紛争の具体相に応じられるだけ

の柔軟な訴訟参加制度を模索しようとするときに︑このようなアメリカ法の態度︒構造が︑有益な示唆をもたらして

くれることは言うまでもない︒

 ところで︑日本において裁量という用語を用いると︑﹁裁量1ーフリーハンド﹂という印象を強くもたれることが多

いためか︑その判断が不透明・不可視的であり裁判所の恣意的な判断につながるおそれがあるとの批判がなされるこ

とが多い︒このことは︑わが国の視点・立場から日9冥Φ昌oゴに対して向けられうる批判にもつながりかねない︒た

しかに︑当該紛争における当事者以外の利害関係人の利益を守るための制度である参加への申立てが︑当該申立人と

既存当事者以外の事情︵極端な例ではあるが︑たとえば︑裁判所にとって審理の妨げになるという理由等︶から妨げられるこ

とは大きな問題である︒わが国の補助参加の利益をめぐる解釈が抱える大きな問題も︑実はその解釈が補助参加申出

人からも既存当事者から不可視なものである︵つまり︑決定理由の本質にアクセスできない︶ことに内在することは︑既

に前稿藁・本稿竺章でも触れてきたとおりである︵さらに言えば・わが国の場合︑法文上の建前としては︑裁判所の裁

量が働く余地がないものとして一般的に理解されてきたことに鑑みると︑問題は一層深刻である︶︒しかしながら︑ヨ需自Φ彗戸o白

の規律においては︑参加人の権限確定の問題は︑既に述べてきたように参加人の権限が裁判所の裁量によって制限さ

(11)

れているわけではなく︵もっとも︑これとは別途に︑裁判所が訴訟運営上の便宜から︑参加人の権限を裁量的に制限する場合も

あ得る︶︑さらに︑続く第四節で触れるように︑権利参加といケ裁量の及ばない参加類型を用意するだけではS・ ︑

制定法自身もその裁量の輩を明文で示して紅甦・︑このような裁量に関す三般的竃惧を持ち出して批判すること

は必ずしも妥当ではない︵なお︑参加における要件定式化の限界や︑アメリカの任意参加制度が有するような視点をわが国に持

ち込みうることの可否については︑次章での記述に譲る︶︒      ︐       ・        ︑

 ︵10︶ 菱田雄郷﹁第三者による他人間の訴訟への介入︵2︶﹂法学協会雑誌プ一九巻八号︵二〇〇二︶一四九一頁︒

 (

P1︶ ちなみに︑菱田.前掲注︵10︶︐一四六四頁によれば︑日8コΦ暮﹂05に関するアメリカ連邦裁判所の運用は概ね次の通りで

   ある︒すなわち︑まず参加申立の際に添付することを要求される訴答から参加の目的を探る︒その目的として︑参加申立人

   自身に自ら原告となって提訴する権限が備わっていないことを潜脱する目的以外の正当な目的が含まれていれば︑提訴権限

   を認めるに足る利益が備わっていなくても参加を認める︒参加申立人自身に提訴権限が備わっていないことを潜脱する以外

   の目的が互ければ︑提訴権限を認めるに足る利益がないことをもつて参加自体を否定する︒いったん参加が認められた場合

   に訴訟内で何がなし得るかは︑個別に︑−当事者に与えられた提訴権の趣旨と参加人の利益を考量しつつ決定していくとい・γ

   ような構造である︒

 (

P2︶ 拙稿﹁補助参加の利益論の限界−最高裁事例の比較検討を題材にー﹂都立大法学会雑誌四三巻二号︵二〇〇三︶四

   二三頁︒

︵13︶アメリカにおける日9コΦ昆oロの歴史を紐解けば︑一九三八年の連邦民事訴訟規則制定以前から︑判例法上の法理として︑

   絶対的参加権能と裁量的参加権能という区分けが認められる︒このような類型分けは︑参加に関し裁判所が有する広汎な裁

   量権を制約するために︑裁量に委ねられることなく認められるべき参加類型を観念しようとするものであった︵このことに    ついては︑≦≦・呂︒︒器2臣§a国﹄3呵§§↑ミき§§・H°§㌔§二︒S^き§2ミぎ己§ぎ§ざ冷琶?

  e﹄°︵一⑩ωO︶巴㎝゜︒一を参照のこと︶︒もっとも︑権利参加といえども裁判所による評価を免れ得ないので︑許可参加との差異

   が相対的なものにとどまることは留意しておく必要がある︒        ゴ

 (

P4︶ 許可参加について定める國已Φb︒︽︵亘︶は︑裁判所が裁量権を行使する.際には︑﹁参加を許可することが既存当事者の権利に

   ついての裁判を不当に遅延させ︑または害することにならないか否かを考慮しなければならない﹂と規定している︒

   補助参加論の新たな試み︵二・完︶     ・         −      ︵都法四十五ーご 二八七      ︑︑

(12)

二八八

第四節 権利参加と許可参加の峻別

 巨8コΦ5江自からわが国の任意参加制度を考えるときに︑巨8自Φ昌﹂o=に権利参加と許可参加という二つの類型が

存在することの意義は︑前節で述べたような裁判所の裁量権をチェッ゜クする機能だけにとどまらない︒

 ︵1︶ 峻別論が示唆するもの

 前節で述べたように︑権利参加と許可参加との峻別論は︑裁判所の裁量に対するチェックという機能を有する︒す

なわち︑裁量が働くことなく参加の申立てを容認すべき類型を用意することで︑最低限守るべき利害関係人の手続保

障の枠を維持しようというのである︒要するにアメリカ法では︑﹁絶対に参加を認めなければならない場合﹂と﹁参

加を認めても既存当事者との間で不公平ではない場合﹂とを区別しようというのである︒もっとも︑この峻別論が︑

過度の負担を負ったために︑参加人の権限確定という領域だけではなく︑参加の類型論そのものとしても十分に機能

していないことは︑本稿でも既に何度も触れてきたことではある︒しかし︑現にアメリカにおいても︑予測可能性の

維持と恣意性の排除という要請と多様な利害への柔軟な対応という要請を両立させる法技術として︑未だ権利参加と        ロ 許可参加の峻別論を支持する見解も説かれているし︑なによりも︑補助参加に関する審理の実際とは多少かけ離れた

ところで︑絶対的に参加させなければならない場合の議論しか提供してこなかったわが国︵における補助参加をめぐる

議論︶にとっては︑﹁参加を認めても既存当事者との間で不公平ではない場合﹂を正面から観念することそれ自体が

重要な示唆に富んでいるようにも思われるのである︒

 ︵2︶ 暫定的なフォーラムセッティングへの対応

(13)

 このようなアメリカ法の議論はまた︑アメリカ法が訴外の利害関係人による﹁暫定的な﹂介入に対して寛大である

ことも示している︒つまり︑アメリカ法では﹁暫定的に﹂本訴当事者の訴訟追行を制約しうるか否かは具体的な利益

考量の問題であるとされているのであって︑最初から当事者であったということだけでは︑参加人の参加を妨げるだ

けの利益があるかどうかは明らかではない︵と同時に︑参加人の側も当事者の訴訟追行を妨げるだけの実体的な利益があるか

どうかは明らかではない︶のだから︑当事者と参加人のどちらかを保護すべきかをまずは平等な秤に乗せた上で決すべ

      ︵16︶ きであるとする︒このような︑アメリカ法における参加をめぐる争いは︑常に同じフォーラム︵つまり本訴のなかで︶

で処理されるべき問題であるので︑参加人の暫定的な権限を考慮する必要があるのは当然の帰結であるし︑また︑当

事者間の公平性を重視するアメリカ法らしい発想であるとも評価できる︒さて︑わが国の場合はどうであろうか︒わ

が国においては︑参加申出人の処遇をめぐってその暫定的な地位如何に関する議論は希薄である︒しかしながら︑後

に第四章で改めて触れるが︑四五条三項との関係でわが国においても︑参加申出人の暫定的な地位に関する議論が必

要であること︑および∵現実の補助参加審理において︑参加申出人の暫定的な地位が本案訴訟および既存の当事者に

対して与えうる影響の大きさは見逃すべきではなく︑その意味でアメリカ法から学ぶべき点は大きいと思われる︒

︵15︶国∋日㏄○︒冨日呂﹄︒箒︒・﹀ミ膏§§ざ§︒§㌔§S§§べ§︑SQさ豊さ↓ぎ宮さ§§び8§∨§§ミ﹄息§一︽=6°

 9己國品宮︒︒ー9己eげΦ昌o︒︒↑・口Φ<°ω吉知﹇冷ム︒︒︵お品︺なお︑O③忌口↑°乙力ゴe時9防o§恥§oδ討ぴoさき電さ§鮮⇔§㎏§さ

 ○§ミ勲﹄◎§註餌9さ江﹄さ⑪9§ヌ︒︒﹂出㏄<①昆↑°國mぐ曽べOや︵一⑩ooO︶も︑権利参加という言葉が︑当事者と同一の地位を与

 えるという印象を与える以上︑様々なファクター︐の考量を許す類型は全て許可参加に委ねる姿が正しい姿であるということ  は否定してしない︒︒冨葺o自身は︑國昆品鼻︵ρ︶に該当する場合とクラス・アクションにおける構成員に権利参加を限定し

 た上で︑管轄と上訴可能性についての問題を解決すべきだというスタンスと採っている︒

︵16︶ 菱田雄郷﹁第三者による他人間の訴訟への介入︵3︶﹂法学協会雑誌一一九巻一〇号︵二〇〇二︶一八九六頁︒

補助参加論の新たな試み︵二・完︶       ︵都法四十五ー一︶ 二八九

(14)

二九〇

第五節 小  括

 以上︑筆者の観点から連邦民事訴訟規則上の巨ひ02①2﹂05からわが国の補助参加が示唆を受けうる点について述べ

てきた︒日需ミΦ昌05においては︑参加の許否を参加人の権限の画定と結びつけ︑それにより実に様々な参加のスタ

イルを認めることで︑現実の紛争に柔軟に対応していこうという姿勢が見受けられる︒これは︑アメリカ法が参加と

いうものを訴訟当事者間だけにとどまらず︑全ての紛争当事者間における利害調整を図るための制度として︑積極的

に定義していることのあらわれであるように思われる︒より極端にいえば︑アメリカ法では︑紛争の一回的解決であ        ロ  るとか︑合一画定といったテーゼは大きな意義を有しておらず︑アメリカ法において参加は︑当事者の自立的な訴訟

追行と第三者の権利保護とを調整する法技術としてのみ意義を有するからなのではないだろうか︒

 このように︑裁判︵所︶に持ち込まれる具体的な紛争に対し︑現実的な対応をみせるアメリカ法の規律は︑わが国

の︵補助︶参加制度に対して︑実に様々な可能性・議論の糸口を提供してくれるように思える︒それと同時に︑アメ

リカ法の柔軟な規律は︑わが国の︵補助︶参加制度の硬直さをより鮮明に浮き彫りにしてくれるだけではなく︑わが

国の民事訴訟理論の多くが参加につき﹁紛争の一挙的解決のために︑訴外の第三者に判決効を与えるための手続﹂と        の位置づけしか与えてこなかったことへの反省を迫るものであるようにも思われる︒

 次章では︑このようなアメリカ法の規律を参考としながら︑これからのわが国の補助参加制度のあり方について︑

筆者なりの試論を展開してみたいと思う︒

(15)

︵17︶ たとえば︑菱田・前掲注︵10︶一四九二頁は︑.アメリカ法は合一画定自体に価値を見いだしていないのではないかと指摘

 している︒

︵18︶ もっともアメリカ法においても︑アメリカ法自体が有する柔軟性のために︑介入しうる第三者の範囲をいかに律するかで

 あるとか︑介入を理由づけるだけの利益侵害があることの証明がないままで介入を認めるべきかどうかなどの問題について

 結論を見いだせているというわけではない︒しかしながら︑アメリカ法の規律はわが国の法にとって︑斬新的であり︑議論

  の糸口をもとめる素材としては十分であると思われる︒

第四章 私  見

第︑一節 問題の所在

    筆者の試論を展開する前に︑まずはわが国の理論状況とその問題点を改めて確認しておきたい︒わが国の訴訟参加

   論が抱える問題については︑既に第一章において簡単に触れた︒それを一言でまとめれば︑要するに︑わが国の訴訟

   参加論は︑︑非常に硬直的であっで︑現実に生じる様々な紛争の具体相に対応しきれていないという言につきる︒たと

   えば︑補助参加制度を眺めてみても︑補助参加要件の定式化への執着︑従属性原則による割り切りといったところな

   ゼに︑わが国の法が抱える硬直的な形式主義を見て取ることが可能であろう︒

    ところで︑わが国の議論においても︑幅広く紛争に対応しようとする試みが全くとられてこなかったわけではな       ン ︐  い︒補助参加の利益をめぐる一連の議論や︑補助参加人の独立性を強調しようとする議論は︑実は補助参加が認めら

   れる範囲︑補助参加人の権限を拡げることによって︑補助参加制度を用いることのできる紛争類型を拡げ・今まで以

      補助参加論の新たな試み︵二・完︶        ︐      ︵都法四十五−一︶・二九一

(16)

二九二

上に多くの紛争類型において︑補助参加制度を活用しようという理論の側からのアプローチにほからならない︒

 しかしながら︑わが国においてこのような試みは必ずしも成功に終わったとはいえない︒つまり︑わが国の議論で

は︑︵ほぼ無批判に︶補助参加の利益を画一的に拡張すること︑補助参加人の権限を画一的に拡大することに終始して

いたために︑そこで出される結論︵理論︶は︑介入する第三者の範囲・その者の権限に対してナイーブなわが国の裁

判実務にとって︑受け入れることが困難なものであったからである︒詰まるところ︑要件や権限を画一的に広く解釈

することと︑紛争の状況にあわせて文脈的に柔軟な対応を考慮するということの差異を捨象してきたところに︑これ

までのわが国の議論における最も深刻な問題を見いだすことができると言ってよいのではなかろうか︵要するに︑補

助参加制度を活用して多面的な拡がりをみせる紛争の解決のあり方を志向しようという学説のこのような方向性は少なくとも間

違ってはいなかったが︑議論の核心にも届いていなかったということなのである︶︒

 以上のような問題認識のなかで︑これからの補助参加論をいかに考えたらよいのか︒選択肢は数あると思われる

が︑そのうちの一つが以下で述べるささやかな試論である︒

︵1︶ これまで展開されてきた補助参加の利益をめぐる議論を総括するものとして︑井上治典﹁補助参加の利益−半世紀の  軌跡ー﹂判例タイムズ一〇四七号︵二〇〇一︶四頁︵同﹃民事手続の実践と理論﹄一六七頁︶がある︒

(17)

第二節 動態的な視点の必要性     −当事者と参加人間における暫定的な関係1

     第三章第四節においても触れたことではあるが︑わが国における補助参加理論が抱えるさまざまな硬直さの中で︑

    最も重大な点は︑わが国の理論が﹁補助参加を︵絶対的に︶認めなければならない場合﹂のみを前提に議論してきた.

    ことにあると思われる︒

     本稿においても︑既に第三章で触れたように︑宣9自o昌ロ5における規律の柔軟さを指し示すもっとも顕著な点

    は︑暫定的なフォーラムを形成することへの寛容さにあるように思われるが︑この点につき︑わが国の理論は︑参加

    によって形成されるフォーラムのありかた︑および︑訴訟の時的な進行状況への配慮はあまり積極的に議論されてこ

    なかったといってよい︒

     以下︑本節では︑補助参加許否の裁判において参加人がおかれる地位について考察することでわが国の理論が抱え

    る問題点を浮き彫りにしていきたい︒

     ︵1︶ 異議権の意義

−    わが国の補助参加の場合︑その許否を裁判所が決するのは︑既存当事者から参加申出に異議が述べられたときに限

    られる︵四四条︶︒すなわち︑許否の裁判が異議にかかるということは︑仮に訴訟の結果に利害関係を有しない者の参

    加であっても︑当事者が異議を述べなければその者の参加は容認される︵裁判所が積極的にこの者の参加を排斥すること       ︵2︶〆     はできない︶ということである︒このことは︑補助参加を認めるか否かについては︑当事者側のイニシアティブに委

       補助参加論の新たな試み︵二・完︶       ︵都法四十五ー一︶ 二九三

(18)

二九四

      ︵3︶ ︐ ねようという考慮によるものであるとされるが︑より実際的には︑立法に補助参加人の介入では大きな痛痒が生じな

       ︵4︶   いだろうという考慮があったことも当然に考えられる︒        ︵5︶    また︑この異議は︑被参加人から述べられたものであるか︑相手方から述べられたものであるかを問わない︒すな

  わち︑︵補助参加が被参加人勝訴という目的のために︑この当事者を支援する制度であるとの一般的な理解に鑑みれば︶被参加人

  が異議を述べても補助参加が可能であるとするこのロジックは︑補助参加という法技術が︑訴外の第三者たる利害関

  係人の利益を尊重した制度であると評価する契機となる︵たとえば︑ここに補助参加人の権限につき独立性を観念しようと        ︵6︶   する根拠を見いだすことができる︶︒さらには︑異議が述べられた先を問わないということは︑参加︵申出︶人と相手方

  当事者との間にも︑参加をめぐって手続権の衝突︑緊張状態が生じる可能性があるということを法が承認していると

  いう解釈にもつながる︵もっとも︑相手方が異議を述べる理由は︑裁判資料の形成において不利となるおそれがある場合に過ぎ       ︵7︶       ︵8︶   ない場合がほとんどであることとの関係で︑この異議をどのように捉えるべきかという問題がある︶︒このように︑わが国の法

  は︑以下で詳しく述べるように︑異議を述べることでただちに参加人の訴訟行為を妨げることができない︵四五条三

  項︶という意味において︑既存当事者が補助参加申出に対して有する異議権を弱いものとして観念しているのである︒

   ︵2︶ 補助参加許否の裁判における参加申出人の暫定的な地位

   四五条三項によれば︑補助参加申出に対して既存当事者から異議が述べられたからといって︑参加申出人は訴訟か

  らただちに排斥されるわけではなく︑補助参加申出人は補助参加を許さない裁判が確定するまでの間︑訴訟行為をす

  ることができる︒この規定は︑補助参加申出に対する許否判断にもある程度の期間が必要であること︵その間︑本案       ︵9︶   の審理が中断するわけではない︶に鑑みて︑補助参加︵申出︶人の利益を保護するために設けられた規定であるとされる       ︵10︶    ︵たとえば︑被参加人が積極的に攻撃防御方法を提出しない場合などを例として挙げることができる︶が︑わが国の補助参加に

(19)

関する実務・︑理論に対して実にさまざまな問題をなげかけている︒

 具体的にこの問題はーここでは︑四五条三項の規定を︑参加が申し出られた場合に参加人を含む暫定的なフォー

ラムの設定を認める規定であると読むわけだが  わが国の補助参加をめぐる議論が︑この暫定的な関係づけに関  ー

する議論にこれまで無関心であったことを背景とし︑具体的な手続過程に目を向けた場合には実際の補助参加におい

て︑既存当事者から異議が述べられた場合には︑参加申出人は参加の理由を疎明しなければならない︵四四条後段︶

が︑実は︑補助参加人は︑この疎明活動︵あるいは︑許否判断中の本案審理で為す補助参加人自身の訴訟行為︶を通して︑

その参加の目的の大半を達してしまうという現象に表象される︒ところで︑わが国の場合︑この間になされた補助参

加︵申出︶人の訴訟行為は︑参加が却下された場合であっても︑裁判所の心証形成から当然に排除されるという建前︑

を採用していない︒すなわち︑四五条四項は﹁補助参加人の訴訟行為は︑補助参加を許さない裁判が確定した場合に

おいても︑当事者が援用したときは︑その効力を有する﹂と定めているが︑この場合の援用は︑参加許否の裁判の確

定前後を問わないし︑さらには︑黙示的なものでもよいとされる︵当事者が特に援用しないと旨を述べない限りは援用し

たものと認めれる︶からであ菊以上のことに鑑みると○わが国の法は・補助参加︵申出︶人がーその許否判断の

結果如何を問わずして1既存当事者の訴訟追行に深く介入することを︑︵黙示的に︶結果として許容しているという        ︵12︶ ことになるのだが︑以下では︑具体的な事件に沿って︑この問題をもう少し掘り下げて考察してみたい︒

 ︵3︶ 東京高裁平成一一年一月一六日決定﹁︵判例タイムズ七五四号二二〇頁︶

 事案は遺産をめぐる兄弟間の争いであるが︑本案そのものは︑XがYに対し︑亡父Aから生前贈与を受けていたと

いう理由でべ土地建物等の所有権確認と移転登記手続請求の訴えを提起したが︑これに対しYが︑亡父Aの遺言公正

証書に基づく遺贈により所有権を取得したと主張して建物明け渡し等の反訴を提起したというものである︒本件補助

   補助参加論の新たな試み︵二・完︶       ︵都法四十五ー一︶ 二九五

(20)

二九六

参加は︑Yが主張する公正証書に対して︑Xが替え玉を使って作成されたもので無効であり︑遺贈は効力を生じない

と争ったところ︑当該公正証書を作成した公証人であるZがY側に補助参加を申し出︑これに相手方Xが異議を述べ

たという有名な事件である︒︵本件に関しては︑既に先学によって詳細な分析が提供されているので︑本件の参加の許否それ自        ロ 体についてはそちらを参照されることにして︑ここでは本節の関心に限定して分析を進める︶︒本節の関心からみれば︑本件で

は︑許否判断の結論としては公証人であるZの補助参加申出は否定されたのであるが︑にもかかわらず︑Zの参加申

出の中で述べられた主張︵﹁補助参加理由疎明のための陳述書﹂︶が本件本案において︑非常に大きな役割を演じたこと

に注目すべきである︒Zの主張は︑亡Aは︑替え玉ではなくA自身の意思でYに贈与していたこと︑AはXを排除す

る考えをもっていたのであってそのAに生前贈与するとは考えられないことの事情を詳細に説明したものであった

が︑この陳述書により︑裁判官の心証も傾き︑それ以後Xも替え玉の主張を強く言うことはなくなったということで ︵14︶ .      ︵15︶ ある︒以上の経過は︑本件参加に関し︑Xの異議は形式的には通ったものの︑実質的には無意味であったことを指し

     示す︒このように︑四五条三項ないし四項の規定を念頭におく限りにおいて︑補助参加︵申出︶人は︑その許否判断

の審理のなかであっても︑本案に大きく関与することができるわけだが︑これを法が予定していた枠組みであると割          ロ  り切ってしまうのは︑筆者としては抵抗がある︒たしかに︑被参加人との関係においては︑補助参加︵申出︶人の訴

訟追行は︑従属性の原則により︑一定の制約を受けるし︑被参加人にとって不利益な訴訟行為は︑参加の不許可が確

定されたとしても当事者から援用されるわけではない︒しかしながら︑相手方との関係において︑若干の問題を残

す︒すなわち︑わが国の法が参加申出にかかる異議について︑それが被参加人から述べられたものであるか︑相手方

が述べたものであるかを問わないという建前を採用していることとの対比において︑従属性原則からの制約があれば

︵すなわち︑被参加人の実体的な訴訟追行権限だけに配慮すれば︶︑既存当事者の保護が足りるとするのは︑あまりにも片

(21)

面的な発想であって問題があるとされなければならない︒参加申出人の訴訟行為によって実際に重大な介入を被るの

は相手方当事者であることと︑参加申出人が現実に同一フォーラムで攻防を展開してきたことの責任は︑十分に念頭

におかれるべきであるとするのが︑審理の場のあり方としてはより公正であると言えるのではなかろうか︒

 ︵4︶ 補助参加許否の裁判の本質   ︑

 これまで本節で述べてきたことからは︑参加申出人がその参加の許否が決するまでの間に既存の訴訟に対し︑相当

程度の介入を為す可能性があること︑さらには︑わが国の法が︑このような参加人と既存当事者間の暫定的な関係づ

けについて︑何らの手当もしていないということをうかがい知ることができる︒敷術していえば︑参加申出人が有す

る当該参加の理由というのは︑参加許否判断の裁判あるいは︑参加を申し出た本案訴訟の中で参加人が訴訟行為を為

す過程においてはじめて具体的に明らかにされるのだということをも物語っているのである︒わが国の法は︑異議権

の弱さに関連して︑従属性原則の枠組みによる制約があることを理由にこの状態を黙認するわけであるが︑ここには

幾つかの理論的な誤解があると言わねばならない︒つまり︑従属性原則が働くといっても︑参加人は被参加人の訴訟

行為に抵触するような訴訟行為をできないというわけではないということである︵むしろ︑参加人が被参加人との間に

四六条の効力が生じることを望まない場合には・覆的に抵触行為をなし得ぴ少なくとも・わが国の従属性原則は・被参

加人に抵触する参加人の訴訟行為を訴訟から排斥してはいない︒換言すれば︑従属性原則はわが国において︑第一

に︑参加人の抵触行為は被参加人に不利益を生じさせない︑第二に︑抵触行為があった場合には︑四六条の効力の発

生が封じられるという意味で用いられるものであるので︑この効力を通説が示すような参加的効力であると解するな

らば︑参加人と被参加人の間の関係だけを規律するものなのである︒そこに参加人と相手方︑ひいては︑この三者の

間で実際に展開されてきた攻防の関係を規律するだけの理論は存在していないし︑当事者の自律的な訴訟追行権限が

   補助参加論の新たな試み−︵一﹇.完︶       ︵都法四十五ー一︶ 二九七

(22)

二九八

いかなるものであるかを法が勝手に観念しているという疑問が生じる点で問題がある︵わが国の法が有する態度はフィ

クションの上に成り立っている前提にすぎないということを忘れるべきではない︶︒

 これまで述べてきたことを踏まえれば︑補助参加許否の裁判は参加人と被参加人︑さらには相手方との間に生じる

手続権の衝突︑緊張状態を調整するための場所として理解されるべきであるように思われる︒そこでは︑実体的な権

利関係だけに囚われるのではなく︑訴訟で実際に繰り広げられる参加人・既存当事者の攻防過程が真に考慮されなけ

ればならないのである︒

︵2︶ 秋山幹男‖伊藤眞‖加藤新太郎11高田裕成11福田剛久11山本和彦﹃コンメンタール 民事訴訟法1﹄︵日本評論社︑二〇

  〇二︶四二一頁︒小室直人‖賀集唱11松本博之11加藤新太郎編﹃基本法コンメンタール 新民事訴訟法1︵第二版︶﹄︵日本

 評論社︑二〇〇三︶一〇四頁︵井上治典︶︒

︵3︶小室ほか・前掲注︵2︶一〇八頁︵井上治典︶︒

︵4︶高橋宏志﹁補助参加について︵一︶﹂法学教室一九四号︵一九九六︶一=頁︵同﹃重点講義民事訴訟法︵下︶﹄︵有斐

 閣︑二〇〇三︶︶二九九頁はこれを補助参加人が︵たとえば独立当事者参加の場合と比較して︶当事者として半人前だから

  であるという︵この点につき︑谷口安平﹃口述民事訴訟法﹄︵成文堂︑一九八七︶二八四頁も参照のこと︶︒たしかに︑﹁請

 求﹂を定立する者とそうでない者という比較では︑補助参加人は﹁半人前﹂であるかもしれない︵本稿でもたびたび補助参

 加人がわが国の法では﹁半人前﹂としての位置づけしか与えられていないことは述べてきている︶︒しかし︑補助参加人が

 訴訟において果たす役割に鑑みた場合︑後に述べるように︑補助参加人が本当に﹁半人前﹂であるかどうかは一考する余地

 があるのではないかと思われる︒

︵5︶ 補助参加申出に対する異議の申出は︑裁判資料形成上不利な影響の発生をおそれる相手方が述べる場合が一般的であると

 される︒秋山ほか・前掲注︵2︶四二一頁︒

︵6︶高橋・前掲注︵4︶=二頁︒また︑この点からは︑わが国の法が参加人と参加人から支援をうける側の当事者である被

 参加人との間でも︑その参加をめぐって手続権の衝突が生じうることを観念しているということも読み取ることができる

(23)

  ︵高橋宏志﹁各種参加類型相互の関係﹂新堂幸司編集代表﹃講座民事訴訟3﹄︵弘文堂べ一九八四︶二五六頁︶︒

︵7︶ 高橋・前掲注︵6︶〜二五六〜二五七頁は︑このような相手方の不利益は︑対立当事者に優秀な訴訟代理人が付くことを拒

  否できる立場にはないこととの関連で捉えられるべきだと指摘する︒だとすると︑補助参加申出に対して述べられる︵相手

  方からの︶異議のほとんどが異議権の本質をみたしていないものと評価せざるを得ない︵しかも︑実際の訴訟において︑補

  助参加の申出に対して述べられる相手方からの異議はバ定型的な文面にとどまり︑その理由の疎明にあたり︑これらの者の

  間で具体的な攻防が繰り広げられることは稀である︶︒このような現実をふまえた場合︑わが国の補助参加許否に関する裁

  判が補助参加申出人に対して採る態度は厳しすぎるのではないかという評価も成り立ちうると思われる︒

︵8︶したがって︑高橋宏志﹁補助参加について︵二︶﹂法学教室一九五号︵一九九六y九一頁︵同﹃重点講義 民事訴訟法︵下︶﹄

  三一二頁︶は︑参加にかかる異議がどちらの当事者から述べられたかを考慮しようとする︒           ︵9︶ 補助参加許否の裁判に対しては︑即時抗告をすることができるとされていることから︑許否の裁判は︑抗告審での裁判も

 ・あわせれば︑︵補助参加申出の状況にもよるが︶少なく見積もっても半年以上︵おおよそ一年程度︶はかかると予想される︒

︵10︶ 秋山ほか・前掲注︵2︶四三一頁︒        一

︵11︶ 秋山ほか・前掲注︵2︶四三二頁︑小室ほか・前掲注︵2︶=二頁︵井上治典︶︒

︵12︶もっとも︑四三条二項によつて補助参加の申出が補助参加人としてすることができる訴訟行為とともにする事が可能であ

  ることにも注目せねばならない︒要するにわが国の規律では︑補助参加人は参加の申出のその時点から訴訟にある程度︵以

  上︶の程度で介入することが可能なのである︒

︵13︶ 本件についての詳細は︑井上治典﹇遺贈の効力をめぐる相続人間の争いと公証人の補助参加の利益﹂同﹃多数当事者の訴

  訟﹄︵信山社︑一九九二︶二四一頁︑高橋宏志﹁補助参加について︵三︶﹂法学教室一九六号︵一九九七︶七六頁︵同︑﹃重点

  講義 民事訴訟法︵下︶﹄三二〇頁以下︶︑高田裕成・私法判例リマークス四号︵一九九三︶一四八頁以下︑加藤哲夫・法学

  セミナー四四一号ご九九こ 一四二頁以下︑三谷忠之・民事訴訟法判例百選︵第三版︶︵二〇〇三︶二一六頁以下の分析

 qを参照されたいぼ

︵14︶ 井上・前掲注︵13︶二五〇頁︒

︵15︶ ここから︑補助参加を認めても認めなくても結果が変わらないのであれば︵本件の場合︑換言すればZが補助参加申出に

  関する審理の中で︑自らの訴訟追行によって︑自らの役目を終えてしまった︵替え玉等をめぐる争点が主要な争点から落ち

  補助参加論の新たな試み︵二・完︶ ︑       ︵都法四十五−一︶ 二九九

(24)

三〇〇

  てしまった︶のであるが︶︑はじめから補助参加を認めておいてもよかったのではないかという考慮につながらなくもない︒

  井上・前掲注︵13︶二五〇頁︒

︵16︶ちなみに︑本件におけるZの補助参加申出の理由の核心は純粋な﹁弁論要求﹂に求めることができると思われるが︵井上・

  前掲注︵13︶二四九頁︑高橋・前掲注︵14︶七七頁および七八頁注︵2︶︶︑このような者の弁論要求を保障する制度的手当

  としては︑一五二条一項二号が定めるいわゆる準当事者の陳述を活用することも考えられると思われる︒この規定は柔軟か

  つ迅速な手続運営が要求される民事保全手続における第三者審尋︵民保法九条︶を基にして平成民訴改正によって導入され

  た制度であるが︑この点につき︑筆者には本稿で詳述するだけの用意も紙幅的なゆとりもない︒今後の研究課題とすること

  をお約束してご海容いただきたい︒

   ところで︑このような第三者の弁論要求を保障する制度として︑アメリカ法には︑昌65︒巨器︵裁判所の友︶と呼ばれ

  る制度が存在する︒これは︑訴訟に強い利害を持つ者が︑当事者の同意または裁判所の許可によって③目o自゜︒6巨9となり︑

  ︵原則︑書面陳述によって︶その意見を表明する制度である︒以上のことにつき︑高橋・前掲注︵6︶二五九頁注︵5︶︑

  伊藤正己﹁巨︒已゜・○烏ロOについてーその実際と評価1﹂菊井雄大先生献呈論集﹃裁判と法︵上︶﹄︵有斐閣︑一九六七︶

  一二九頁︑原竹裕﹁弁論主義の限界と第三者情報ー私人間訴訟における公共的争点の審理1﹂一橋論叢=七巻一号

  ︵一九九七︶七九頁︒

   実に様々な具体相をもった紛争が生じる現代においては︑参加制度・共同訴訟制度だけにとらわれることなく︑訴訟︑訴

  訟外の両面において︑様々なスタイル︑法技術によって紛争当事者である利害関係人の訴訟への関与を模索すべきであるこ

  とは改めて言及するまでもないと思われる︒

︵17︶ 高橋・前掲注︵13︶七七頁︒もっとも︑高橋教授も補助参加人の独立性が強くなるならば︑その見返りとして異議権の内

  容も強くなるべきであろうと留保されている︒

︵18︶補助参加という制度を利害関係人の利益保護のための制度だと理解するならば︑そのために利害関係人が積極的に被参加

  人と抵触する訴訟行為を為すことを頭ごなしに批判することは妥当ではない︒むしろ︑それによって参加人と被参加人との

  間に参加的効力が生じないことが利害関係人の利益保護につながる場合もあるということを看過すべきではないからであ

  る︒ただし︑利害関係人である補助参加人が積極的に自らの利益を保護するために自身の訴訟行為を為すことと︑被参加人

  の訴訟追行権を保護しなくてはならないという要請が調整されなければならないということは︑改めて述べるまでもない

(25)

︵本文中でも述べるように︑補助参加許否の裁判はその調整を図るための手続として理解されるべきである︶︒

    第三節 定式化作業の限界      ︑      ・

 以上︑前節では︑補助参加申出に関する審理の実際に即して︑動態的な視点の必要性を説いてきた︒仮に筆者が主

張するような動態的な視点が︑わが国の補助参加論に必要であるとするならば︑これまでわが国で志向されてきた補

助参加理論に関する﹁定式化作業﹂が批判の対象となるのは︑当然の帰結でもある︒ −

 補助参加理論における定式化︵基準の統一化︶をめぐる議論としては︑補助参加の利益をめぐる議論が一番華やか

であった︒わが国において︑補助参加の利益論が白熱した背景は︑この問題にそれぞれの論者が有する様々な︵たと

えば︑株主代表訴訟制度をどう理解するべきかといったようなー熱な補助参加論とは切り離されるべきであるような1他

の分野とも関連した︶思惑が絡まっを﹂控︑わが国の法が堅持する建前︵制度三おいては・﹁補助参加を認める藷こ

さえ確定してしまえば︵その者の権限︑その者に対する裁判の効力の問題は︵理論的には︶解決されてしまうものと

されていることが挙げられると思われる︒

 かくして︑﹁判決主文中の判断﹂に限定されるのか︑﹁判決理由中の判断﹂にまで拡げられるのかという論点を中心

に様々な議論が繰り広げられてきたわけであるが︑結局は︑いずれの議論も一般︑論として採用されるまでには至らな

か−った︒その理由は︑皮肉にも︑この藷を白熱させた背景や議論の対象とされてきたテーゼそのものにあると思わ

れるのである︒すなわち︑これまでわが国の理論が補助参加の要件につき︑定式を打ち出せ竃かったことは・補助 ︑

参加制度全体として︑補助参加人に与えられるべき権限はどのようなものなのか︑補助参加人に課せられる裁判の効

   補助参加論の新たな試み︵二.完︶     一   ︵都法四+干一︶三〇一︐.−

参照

関連したドキュメント

支部として,震災をテーマとして取り組んでいこうと いう機運が出てきたのは,今振り返ってみると, 2012 年 の 3 月の支部総会であったように思う. 2012 年 3

アメリカ陪審制のような市民の裁判参加制度は、なぜ日本や中国のよう

 ZPO69条が適用されるのは,両当事者間において下された判決が民法の

 上記のように,前半部と後半部を入れ替えること

      

福祉レジーム論ではウェーバーの支配におけ

ジャック・メジローは教育においては「物 の見方 J を学習者自身が「間い直し」「変えて いく J ことが重要であると述べており、自ら

RIETI Discussion Paper Series 13-J-026 2013 年 5 月 アメリカにおける新たな労働者参加の試みとその法理論的基礎づけ  竹内(奥野)寿(立教大学) 要