人文論叢 (二重大学)第28号 20H
〈私〉 の消去 の後 に7
一性起 としての世界 と人間―
村 上 直 樹
要 旨 :本 稿の 目的は、 〈私〉 を立てずに人間の経験を体系的に説明す る理論 を構築す ることで ある。その理論 は、性起 に関する理論 という形で構築 されることになる。そ して、我 々の性起 に 関す る理論 は、物質概念の更新を要請す る。 その要請 は、「死 一物か ら生 一物へ」 というスロー ガ ンによって表現 される。 ここで言 う死 一物 とは、近代 自然科学の形成 とともにもた らされた物 質概念であ り、生 ―物 とは、量子論、 自己組織化論、内部観測論、大森荘蔵の知覚的立 ち現われ 論等がそれぞれ死 一物 に対置 して呈示 してきた物質理解を総合す ることによって、我 々が措定 し た物質概念である。我 々の性起に関する理論 は、物質は死 一物ではな く生 ―物であると主張す る。
そ して、生 一物 としての物質は、以下のような性質を持つ。 i)それが「 ある」 という事態が、
極微の次元における生成論的な生成 と消滅 によって もた らされている、 五)新たに生成 した り消 滅 した りす る、 面)能動性を持つ、 市)それ 自体で知覚的に現前す る、v)有意 。有色 0有 情で ある、宙)その総体が不可分の単一体をなす。前 々号、前号では、 こうした生 一物概念を明確に す る作業の一環 として、生 ―物概念の源泉 となった量子論、 自己組織化論、内部観測論の物質理 解が どのような ものであるのかを論 じた。引き続 き本号では、同 じく生 一物概念の源泉 とな った 大森荘蔵の知覚的立ち現われ論の物質理解 ―一 「物質はそれ 自体で知覚的に現前する」、「物質は 感覚的性質や表情や意味をそれ自身 に内属 させている」 とみなす物質理解 ―一 を、我 々による追 加説明を加えつつ整理 していきたい。
5.死―物 か ら生 一物 へ
6)物質 はそれ 自体で知覚的 に現前す る 一一 知覚的立 ち現われ論 の物質観①
物質 はそれ 自体 で知覚 的 に現前す る。 これ は、大森荘蔵 の知覚的立 ち現 われ論 が (暗に)呈
示 して いる物質観 である6常識 的 には、物質 はそれ 自体 で は知覚的 に現前 しない。物質 は、知 覚主体 た る 〈私〉 が知覚す ることによ って、 は じめて知覚的 に現前す るようにな るとい うのが、
常識 で あ る (物質 その ものは決 して現前 せず、物質 に関す る情報 を もとに脳 が産 み出 した物質 の表象 しか現前 しない とい う世界脳産教義 もあ る程度 その支持者 を獲得 して きて はい るが)。
大森 の知覚的立 ち現 われ論 は、 こうした常識 と対立す る。以下、大森 の所論 を簡潔 に要約す る。
大森 によると、何 かが知覚 的 に立 ち現 われて いる とい う事態 において、「見 る もの 一見 られ る もの」、「 聞 くもの―聞かれ るもの」 とい った認識論 的な主客構造 は存在 しない。 そ こに、見 る、 聞 くとい った認識論 的な作用体験 は存在 しない (大森 1999g:50‑51;大森 1999i:71)。
また、見 る、 聞 くとい った作用体験 が存在 しないわけであ るか ら、見 る主体、聞 く主体 と して の 〈私〉 とい った もの も存在 しない。(知覚作用、並 びに知覚主体 と しての 〈私〉 の存在 を否 定 す る大森 の議論 は、 す で に1の 1)で略述 した。)何かが知覚 的 に立 ち現 われて い るの は、
知覚主体 と しての 〈私〉 がその何 かを見 た り聞 いた りしたか らで はない。 目の前 に賀茂川 が立
ち現 われているのは、 〈私〉 が賀茂川 を見 たか らではない。賀茂川 はただ見 えているだけなの で あ る。空 間風景 はただ見 えているだ けなのであ る。 そ して、「空 間風景 がただ見 えているこ との中には何 の主客構造 もない」(大森 1999i:74)。 知覚的立 ち現 われ は、知覚 され ることな くただ立 ち現 われ るのである。
そ して、知覚 的立 ち現 われ には背後がない。立 ち現 われ るのは「実物」 である。知覚的立 ち 現 われの背後 に、現象 し、現 出 し、射映す るよ うな何 かは、存在 しない。何 かの表象 として知 覚 的立 ち現 われが生起 す るので はな い (大森 1999g:46)。 何 かが知覚的 に立 ち現 われて い る
とい う事態 において、認識論 的な主客構造が存在 しない とい うことは、 およそ「表象」 と呼ば れ る ものに類す る ものがそ こにはない とい うことである。主体 が客体 を知覚す るとい うことが あ って こそ、 その客体 の「 表象」 とい うもの もあ り得 るものだか らである。主客構造がない と ころでは、「 表象」 な る ものは宙 に浮 いて しま う (大森 1999i:74)。 立 ち現 われ るの は、世界 の「表象」 や「像」 とい った ものではない0。 世界 が「 単 にそ こに じか に立 ち現 われ る」(大 森1999a:3)の で あ る。「 立 ち現 われ るのは、掛 け値 な しの「実物」 である。」(野家 1989:
167)見えて い る賀茂川 は表象 と しての賀茂川 で はな く、本物 の賀茂川であ る。本物 の賀茂川 が じか に立 ち現 われ るので ある (大森 1999b:130‑133)。
以上 が大森 の知覚的立 ち現 われ論 の要点であるが、 そ こで言 われている「実物」、「本物」 と しての知覚的立 ち現 われ とは、結局 の ところ物質 であ る②。 そ して、 この物質 は、知覚主体 た る 〈私〉 が知覚す ることによ って、 は じめて知覚的 に現前す るよ うにな る ものではない。物質 が知覚的に立 ち現 われているとい う事態 において、認識論的な主客構造 は存在 しない。物質 は、
知覚 され ることな く立 ち現 われ る。大森 の知覚的立 ち現 われ論 によると、物質 はそれ 自体 で知 覚 的 に現前す るのである。
さて、以下 は、物質 の知覚 的現前 の様態 に関す る我 々による追加説明である。物質 はそれ 自 体 で知覚的に現前す る。 そ して、 これは言 うまで もないことか もしれないが、物質 が知覚的 に 現前す るにあた って、単独で現前す ることは決 してない。 りん ごが現前す るにあた って、 その りん ごが単独 で現前す ることは決 してない。 りん ごは、例えば、家 の居間のテー ブルの上 に現 前 す る。つ ま り、知覚的 に現前す る物質 は、必ず物質世界全体 の中に現前す る。 そ して、 その 物 質世 界 の中心 には必 ず メル ロ=ポ ンテ ィが「 自己の身体 le corps propreJ(Merleau― POnty
1945=1967:160)と 呼んだ もの 一― 我 々の用語法 で は 〈自一身体〉 一――が現前 してい る。 と い うことは、知覚 的 に現前す る物質 は、「 自己の身体」 に相対す る形で しか現前 しない とい う ことである③。物質 はそれ 自体 で知覚的に現前す るが、 その際、 それはく必ず物質世界 の中心 にある「 自己の身体」 に相対す る形 で現前す るのである。 そ して、物質 とこの「 自己の身体」
の間 には、光 のよ うな媒体 を介 さない不可思議が関係が成立 している。 その関係 にういては、
9)で論及す ることにな るだ ろ う。
ところで、4)において、我 々は、場 の量子論 の観点か らす ると、物質 が「 あ る」 とい う事 態 が極微 の次元 における生成論 的な生成 と消滅 によ って もた らされているとい うことを確認 し た。「森羅万象 (宇宙)は、毎 瞬 に崩壊 し、 同時 に毎瞬 に創造 されてい く」(古東 1992:152) とい った生成論 的な図式 を場 の量子論 の中に認 めた。 そ して、 こうした生成論 的な物質観 と上 記 の物質 はそれ 自体 で知覚的 に現前す るとい う物質観 を組 み合わせ ると、 さ らに次 のよ うな物 質観 が得 られ るだ ろ う。極微 の次元 における生成論 的な生成 と消滅 の過程 によ って物質 が絶え ず生成 して くることが、すなわ ち、物質 が知覚的に現前 して くることである。
一‑90‑一
村上直樹 〈私〉の消去の後に7‑性起としての世界と人間一 なお、生成論 的な物質観 は、徐 々に受容 されているよ うに思 われ るが④、物質 はそれ 自体 で 知覚 的 に現前 す るとい う物質観が受 け入 れ られ るのはきわめて困難 だろう。受 け入 れ られ ると して も、多 くの時間が必要 とな るだろ う。 こうした物質観 を受 け入れて もらうには、 まず、客 体 と しての物質 が、知覚主体 と しての 〈私〉 によ って知覚 されているとい う錯視 が どのよ うな 機制 によ って生 じているのかを明 らか に しなけれ ばな らない。 シュ レデ ィンガーの言 い方 (あ
くまで も言 い方 だけ)を借 りれば、物質 を知覚主体 と しての 〈私〉 の客体 とみなす とい う「客
体化o可cctiVation」 ⑤が生 じているわけだが、その客体化 とい う錯視の機制を明 らかに しなけ
ればな らない。 そ して、 この錯視 の機制 に関 して、知覚主体 と しての 〈私〉 が存在す るとい う 確信 は どの よ うな機 制 によ って生 み 出 されて い るのか につ いて は、 す で に論 じた ことが あ る (村上 (直)1998)。 また、錯視 の機制 の全体 に関 して は、後 日、本稿 の中で論 じることにな る だろ う。
7)有意・ 有色・ 有情の物質世界 一― 知覚的立 ち現われ論 の物質観②
色彩、匂 い とい った感覚 的性質 や意 味 を持 たない幾何学 的存在 と しての物質 な る もの、「客 観 的・ 物理 的な実在 と して表象 され る自然界 自体 な る もの」 は、「歴史 的・ 文化 的 に相対 的な 像」 に他 な らな い (廣松 1990:74)。 上記 の よ うな物質 は、「 ガ リレオ以来 は じめて存在す る のであ って、 ア リス トテ レス物理学 はそのよ うな ものをまだ知 らなか った」 (Grathoff 1985=1
996三 383)。「今 日の小学生 のい う物質」 には「何等 の倫理 的な宗教 的な意 味がない」 が、「聖
トマ スの い う物質」 はそ うではない。近代 自然科学 の形成以前 には、「物質 とい う意 味 は、倫 理 的及 び宗教 的な価値 の中に発達 して来 た」(西脇2007:496)の で あ る。近代 自然科学 の形 成以前 において は、物質 は、色彩、匂 い とい った感覚的性質 や意 味、 そ して表情 ―一 美 的、感 情 的、 情念 的な相貌 ―一 を内在 させ た もの と して理解 されて いた。 しか し、3)でも概観 した よ うに、 ガ リレオやデカル トによ って、感覚的性質 や意 味や表情 は、物質 か ら剥 ぎ取 られて し ま った ⑥。近代 自然科学 の形成過程 において、「物質 の裸体化、 がい骨化」(大森 1998:101) が進 め られたのである。
そ して、 この「 物質 の裸体化、 が い骨化」 は、物質 の「「 第一性質」 の転換」(村上 (陽)
1985:278)に付 随す る ものであ る。 ス コラ学 の伝統 において、物質 の第一 の性質 と言 えば、
感覚的性質 の ことであ った (村上 (陽)1985:277)。 ア リス トテ レスがその物質論 の根底 に据 えたの は、熱・ 冷・ 湿・ 乾 の4つの性質 であ り、 それ らはいずれ も感覚的性質 であ った (高橋 2006:464‑465)。 これに対 して、「 この世界 におけるあ らゆる現象的な多様性 を、形や大 きさ、
運動 な どの ご く僅 かな性質 に還元 して説 明す ることがで きると主張す る」 ガ リレオ とデカル ト は、形 、大 きさ、 運動 を物質 の第一 の性質 と し、 それ以外 の性質 を二義 的な もの とみな した (村上 (陽)1985:277‑278)。 例 え ば、 ガ リレオ は、『 偽金鑑識 官』(1623年)の中で、「 大 き さ、形、数、遅 い もしくは速 い運動」(Galileo 1623=1979:505)と い った ものを物質 の第一 の性質 と し、「味や匂 いや色彩な どは、 それがそ こに内在 しているかにみえ る主体 (当の事物)
の側 か らみ ると、 たんな る名辞 であ るにす ぎないのであ り、 たん に感覚主体 のなかにそれ らの 所在 が あ るにす ぎない」(Galileo 1623=1979:502‑503)と みな した。 そ して、 その ことによ っ て、感覚 的性質 や意味や表情 は、物質 か ら剥 ぎ取 られ、「物質 の裸体化、 がい骨化」 が行 われ たのであ る。
また、 ガ リレオやデカル トによる物質 の「「 第一性質」 の転換」 の他 に も、「物質 の裸体化、
がい骨化」 を推 し進 めた要因が もう 1つ ある。17世紀前半 に、 ガ ッサ ンデ ィが古代 の レウキ ッ ポスやデモ ク リ トスの原子論 を復活 させた ことが、 それである。彼 らの原子論 によると、世界 の 中に真 に存在す るの は、「 空 な る もの」(=「無 限 な る もの」)とその 中で常 に動 いて い る
「 その塊 りが小 さいため に眼 に見 えない」原子 だけであ る (山本 1958:72‑73)。 この原子及 び その集 ま りは、重 さ0軽さと堅 さ0柔か さ とい う性質 を持 つ (山本 1958:74‑75)。 しか し、
「 その他 の知覚 され る性質 の何 もの も本性 を有 しない、 む しろそれ らは凡 て変化 させ られた感 官 の印象で あ って、 これか ら表象 は起 る。 とい うのは冷 い ものに も温 い ものに も、本性 がある のではな くて、 〔原子 の混 合の〕形態が変 ると、 それが またわれわれの変化 を もた らすのであ るか ら」(山本 1958:75)。 デモ ク リ トスは言 う。「人 の慣 わ しで甘 さ、人の慣 わ しで辛 さ、人 の慣 わ しで温 さ、人 の慣 わ しで冷 さ、人 の慣 わ しで色。 しか し真実 には原子 と空虚。」すなわ ち、「 感官 によ って知覚 され る ものは有 ると信 じられ、 そ う思 いな されはす るが、 しか し真実 にはそれ らで はな くて、原子 と空虚 だけがあ る」(山本1958:77)の である0。
デモ ク リ トス らは、剛堅不易 の微小粒子が空虚 な空間の中で直線運動 を行 いく衝突 し、再結 合 し、 とい った振 る舞 いをなす ことによ って、物質世界 に観測 され る無 限の多様性 のすべてを 作 り出す と考 えて いた (Schrёdinger 1954=1991:46)。 また、彼 らによると、「 味や温か さや 色 な どの性質 は、 原子 の集合体 によ ってつ くり出 され るたん な る見 か け上 の もの、「 ノモス (習慣、約束 ごと)の上 の こと」 にす ぎない」(藤沢 1985:46)。 物質 が持つ とみな されてい る 様 々な感覚 的性質 は、物質 を構成す る一つ一つの原子 の形 や向きや配列 な どの結果 と して人間 の五感 に現 われて くる仮象 にす ぎない (藤沢 1980:79)。 物質 とは、「 延長者、即 ち長 さと幅 と深 さとを有す る もの」(Descartes 1644=1964:96)で あ り、他 の性質 を一切持 たない もので あ るとみな したデ カル トも、「 大 きさ、形、数、遅 い もしくは速 い運動」 とい った ものを物質 の第一 の性質 とみな したガ リレオ も、物質の感覚的性質 を主観的表象であるとしたが、物質の 感覚的性質 を主観 的表象であるとす る考 え方 は、元来、 デモ ク リ トス らの原子論 の中にあ った ものであ る (藤沢 1985:51)。 そ して、以上 のよ うなデモ ク リ トス らの原子論 を、 エ ピクロス の著作 に導 かれたガ ッサ ンデ ィが、17世紀前半 に復活 させ ることにな る。若 きマル クスの言 を借 りれば、 キ リス ト教 の教父 たちは、古代原子論 をま った く無視 して きた し、理性 の欠如が 支配 的だ った中世 のすべての時期 を通 じて、古代原子論 はいわば 〈破 門〉 されていたが、 ガ ッ サ ンデ ィが古代原子論 を この 〈破 門〉 か ら解放 したのであ る (Marx 2005:7)。 その結果、 デ モ ク リ トス らの原子論 は近代 自然科学 に導入 され、その ことによ って も、感覚的性質や意味や 表情が、物質 か ら剥 ぎ取 られ、「物質の裸体化、がい骨化」 が進 め られたのである。
近代 自然科学 の形成 とともに もた らされた物質概念 (死一物概念)において、物質 は、感覚 的性質や意味や表情 をそれ 自身の性質 としては持たない。それ らは、主観的表象であ り、知覚・
認識主体 によって物質 に付与 された ものである。 これに対 して、大森 の知覚的立 ち現 われ論 は、
物質 が感覚 的性質 や意 味や表情 をそれ 自身 の性質 として持 っているとみなす。知覚・ 認識主体 と しての 〈私〉 が物質 を知覚、認識す るとい う図式 を斥 ける大森 の知覚的立 ち現 われ論 は、物 質 を知覚 した く私〉 が何 らかの感覚的性質 や意味や表情 を喚起 され、 それを物質 に付与す ると い う考 え方 を (当然 の ことなが ら)是認 しない。物質 の感覚的性質 や意味や表情 は、知覚・ 認 識主体 によ って物質 に付与 され る主観 的表象 で はない とい う大森 の主張 は、「物質 はそれ 自体 で知覚的に現前す る」 とみなす ことの当然の帰結 である。様 々な物が感覚的性質や意味や表情 を伴 って立 ち現 われて くることは間違 いがない。 そ して、 その よ うな事態 において、認識論的
‑92‑
村上直樹 〈私〉の消去の後に7‑性起 としての世界と人間一 な主客構造 は存在 しない。 とい うことは、立 ち現 われて くる物 の感覚的性質 や意味や表情 は、
その物 自体 の性質 である。大森 の知覚的立 ち現 われ論 において、物質 は感覚的性質 や意味や表 情 をそれ 自身 において持 たない幾何学 的存在 ではない。物質 は、有意・ 有色・ 有情 であ る。以 下 では、大森 の知覚的立 ち現 われ論 の この よ うな物質理解 を もう少 しくわ しく―一 物質 はそれ 自身 において感覚 的性質 を持つ (有色 で あ る)とい う議論、表情 を持つ (有情 であ る)とい う 議論、意 味 を持 つ (有意 であ る)とい う議論 の順 で 一― 見 てい くことに したい。
デモ ク リ トス らの原子論 は、エ ピクロスの 自然学 に受 け継 がれ、 エ ピクロスの 自然学 は、ル ク レテ ィウスによ って叙事詩形 で記述 された。 そ して、 エ ピクロス もル ク レテ ィウス も共 に、
原子 は重 さ・ 軽 さと堅 さ・ 柔 か さとい う性質 のみを持 ち、 その他 の性質 は持 っていない とい う デモ ク リ トス らの考 え方 を継承 した。 エ ピクロスは、「 原子 は、形状、重 さ、大 きさ、 および 形状 に必然 的 に ともな う性質、 を もってい るが、 それ以外 には、 われわれ に現 われ る諸事実 に 属す るいかな る性質 を ももたない」(Epicurus 1926=1959:20‑21)と 述べ、ル クレテ ィウスは、
「 原子 には色 と云 うものが全 くな い」 (Lucretius 1961:94)、 「 原子 は色 のみを欠 いて い るのだ と考 えてはな らない。 それのみか、温度 も、寒気 も、又強 い熱 も全然 な く、音 も有せず、湿気 も含 まず乾 いて いて、 自体 か らは何 ら固有 の香 を発す ることもない」 (Lucretius 1961:98)と 記 して いる。 さ らに、原子が色 を持 たない理 由に関 して、ル ク レテ ィウスは次 のよ うに も書 い て い る。「如何 な る物 で も、 これを引 きちが り、 こまか くすればす る程、 その色 は段 々に薄 ら いで行 き、遂 には消えて しま うとい うことは、認 め得 るところであ る。例 えば、紫色 の織物 を 細片 に裂 いてみ ると起 ることで あ る。紫色 とか、又何 よ りも最 もあ ざやかな緋色 とか も、 その 織物 を糸一本 々々引 きちぎ って行 くと、全 く散 って しま う。従 って、 この点 よ り見 て も、 その 細片 が物 の原子 に帰す る程 まで に、 こまか くちぎれない内 に、色 は悉 く消 え去 って しま う、 と 云 うことが知 り得 るであろ う。」 (LucretiuS 1961:97‑98)こ のル ク レテ ィウスの見解 に関 して、
大森 は次 のよ うに評 している。物 を細か く分割 してい くと色 が消え去 るとい うことは、実質的 には、物 の細片 が見 えな くな るとい うことである (大森 1998:140)。 また、「 か りに個 々の原 子 は見 えない とい う理 由で色 がない と して も、 その ことは、見 え る原子集 団 には色 が あるとい うことを排 除 しない」(大森 1998:142)。 メ リケ ン粉 の一粒一粒 が何色 であ るか は言 えない と して も、 その ことが、 メ リケ ン粉 の塊 には白 とい う色 が あ る とい うことを排 除 しないよ うに (大森 1998:142)。
大森 は言 う。個 々の原子 や知覚 されな い原子 の小集 団 には色 が あ るので もなければ色 がない ので もない。 それ らは知覚 されない、 とい うことその ことによ らてそれ らに色 を云 々す ること は無意 味であ る (大森 1998:174)。 しか し、「一定程度以上 の表面積 を もつ原子集 団 には色 が あ る。 その原子集 団その ものに、 で あ る」 (大森 1998:174)。 大森 によると、「 原子集 団その ものに色があ り、匂 いがあ り、暖か さ冷 た さがあ り、美 しさ醜 さがあるのである」(大森 1998:
173‑174)。
なお、 あ らず もがなの話 をつ け加 え ると、通常 固体 の色 と呼ばれている ものは、 その固体 の 表面 の原子集 団それだけの色 ではない。 固体 は、表面 とその内側 のバル クか らな る。多 くの物 質 で は、バル クは規則正 しい原子 の配列構造 を持 って い る。 バル クの色 々な性質 は物理 的 にき れいに記述・ 説 明す ることがで きる。 これ に対 して、 固体 の表面 は、バル クとは異 な る原子 の 配列構造 を持 ってお り、 その性質 を きれ いに記述・ 説 明す ることがむずか しい。 こう した こと を、 パ ウ リは、「 固体 は神 が作 りた もうたが、 表面 は悪魔 が作 った」 とい う言葉 で表現 した
(小宮 山・ 森・ 宮本・ 久保 1996:2‑5)。 さて、通常 固体 の色 と呼ばれて いる ものは、素直 に考 えれば、 固体 の表面 の原子集 団の色 とい うことにな るだ ろ うが、正確 には少 々違 う。 この「悪 魔 が作 った」 とされ る固体 の表面が知覚的 に立 ち現 われている場合、 それには光が入射 してい る。すなわ ち、通常 固体 の色、物 の色 と呼ばれている ものは、バル クとは異 な る配列構造 を持 つ表面 の原子集 団それだけの色ではな く、光が入射 している (=無数 の光子が当た っている)
表面 の原子集 団の色 なのである。 そ して、 その色 は、表面 に入射す る光が変化すれば、変化す ることにな る(8)。
大森 の議論 に戻 ろ う。大森 の知覚的立 ち現われ論 が、 なぜ知覚 的に立 ち現 われ る物 ―― 一定 程度以上 の表面積 を持つ原子集団 ―一 の感覚的性質 を主観 的表象 とみな さないのか とい うこと につ いて は、 すで に述べた。 また、大森 は、「物質 はそれ 自身 において感覚的性質 を持 たない」
と想定す ることが いか に不 自然であるのか も、バー ク リィや ヒュTムを引用 しなが ら指摘 して いる。 ガ リレオやデカル トによると、物質 は色彩や匂 い とい った感覚的性質 を持 たない幾何学 的存在 であ る。 しか し、バ ー ク リィによると、感覚的性質 を持 たない幾何学的形状 とい った も のは、 およそあ り得 ない (大森1998:H5)。 大森 は、『 人知原理論』(1710年)から引用 を行 っ て い るが、 ここで は『 視覚新論』(1709年)から引用 す る。 バ ー ク リィは言 う。「 また形 と延 長 に関 して は、 自分 自身 の明晰判明な観念 を冷静 に注視す る人 に、私 は、次 のよ うな ことを判 定 して もらいたい、すなわち、 ただ光 と色の他 に視覚 によ って直接的 にかつ固有 に導入 され る 何 らかの観念 を持 っているか どうか、 あるいはまた、一切 の色 を排 した視覚 的延長 とか形 とか の判 明な抽象観念 を果 た して心の中に形成できるか どうか、 また逆 に、視覚的延長 な しの色を 想 うことがで きるか どうか、等 々を判定 して もらいたいのである。私 としては、告 白せねばな らないが、 そのよ うな大 いな る精密 さを持 った抽象 に達す ることは到底できない。 とい うの も、
厳密 な意味で は、私 は、光 と色およびその陰 りと変様以外 のなに もの も見 ることはないか らで あ る。」(Berkeley 1709=1990:106‑107)バ ー ク リィに従 えば、「 一切 の色を排 した視覚的延長 とか形 とか」 を想像す ることは不可能 なのである。
同様 の指摘 は、 ヒュームによ って もな されてい る。『 人性論』(1739年)の中で、 ヒューム は、「 色・ 音・ 熱・ 寒 を外 的存在 の性質か ら排除 したのちは、物体 の正 当な・・・・ 観念 を与 え る何物 も残 らな い」(Hume 1739=1949:71)、「 可感 的性質 を排 除すれば、連続 的・ 独立 的 な存在 を有す る何物 も宇宙 には残 らない」(Hume 1739=1949:74)と 書 いて い る。 ヒューム
も感覚的性質を排した視覚的延長とか形といったものは、「思惟或は想像にとって全く不可解」
(Hume 1739=1948:78)と みな しているのである。
ところで、 こう したバ ー ク リィや ヒュームの見解 に対す る反論 に相当す る文章 を、 デカル ト は、(彼らの著作 にはるか に先 だ って)『 省察』(1641年)の中で記 している。蜜蝋 の例 を挙 げ て、 デカル トは言 う。「疑 い もな く、蜜蝋 その ものは、 かの蜜 の甘 さで も、花 の香 りで も、 か の白さで も、形態で も、音 で も、 あ ったのではな く、 かへ って少 し前 にはかの仕方で分明な も の と して私 に現 われ、現在 は別の仕方で現 われ るところの物体であ ったのである。」(Descartes
1641=1949:46)では、 その「蜜蝋 その もの」 とは どの よ うな ものなのか。 それ は、「延長 を 有す る、屈 曲 し易 い、変化 し易 い或 る もの」(Descartes 1641=1949:46)で あ る。 そ して、 こ の「 蜜蝋 その もの」、「蜜蝋 の延長 その もの」(Descartes 1641=1949:47)は 、確 か に、「 視覚 の作用 で も、触覚 の作用 で も、想像 の作用で も」(Descartes 1641=1949:47)把 握 で きない。
ただ し、「 精神 の洞観」(Descartes 1641=1949:47)に よ って は、把握 され るのであ る。 デカ
‑94‑
村上直樹 〈私〉の消去の後に7‑性起 としての世界と人間一 ル トによると、物質 その ものは感覚的性質 を持 っていない。 よって、それは、視覚の作用 によっ て も、触覚 の作用 によ って も、想像 の作用 によ って も把握 されない。 ただ し、「精神 の洞観」
によ っては把握 され る。感覚的性質 を持 たない幾何学的存在 と しての物質 は間違 いな く存在 し、
また、 それは、「非感覚的 に、知性的 に、把握 され るべ き もの」(大森1998:126)なのである。
大森 は、 この よ うなデカル トの見解 に対 して も、次 の ような批判 を行 っている。 まず、 デカ ル トの言 う「精神 の洞観」 な どとい った ものは全 く了解不可能 であ る (大森 1998:126)。 ま た、議論 の詳細 は省 くが、仮 に、感覚的性質 を持 たない幾何学 的存在 と しての物質 とい った も のを考 え ることが可能 だ と して も、 デカル トの考 えは、 その論理 的構造 か らして不可知論 また は懐疑論 に陥 って しま う (大森1998:H7‑121,126‑127)。
さて、以上 において、物質 はそれ 自身 において感覚的性質 を持つ (有色 である)とい う大森 の所説 を略述 した。「原子集 団その ものに色 があ り、匂 いがあ り、 暖か さ冷 た さがあ り、美 し さ醜 さがあ る」 とい う大森 の所説 は、人 によ っては大 きな驚 きであろ う0。 しか し、大森 の所 説 は決 して孤立 した もので はない。藤沢令夫 も、木 々の緑、 ウグイスの鳴 き声、薔薇 の香 り、
酒の味 とい った感覚的性質 は、物、微粒子、電磁波等 々か ら触発 された主観が構成 した幻であ るとい う理解 を斥 け、「 われわれの現実 の具体 的な経験 と生活 は、 まさに色 や音 や味や匂 いの 世界 であ るほか はない」(藤沢1980:63)と い う議論 を展 開 してい る。 そ して、理論物理学者 の蔵本 由紀 が この藤沢 の議論 に賛意 を示 してい る (蔵本 2003:149‑150)。 また、養老孟 司 は、
「 クオ リア」(人間の感覚 を構成す る様 々な質感)をめ ぐる茂木健一郎 らとの討論 において、次 の よ うな発言 を してい る。「茂木 さんは物理学か ら入 られたか ら、意味のない物質か らな る物 理 的世界 を先 に知 って しまい、 あ とか らクオ リアを発見 したわけです。 しか し、僕 に言 わせれ ば、それはおか しいんです。生 きていれば、 クオ リアは初 めか らあるわけです。 クオ リアを もっ ていろいろなことをや り尽 くした果てに、人間が作 り出 したのが物理の世界だと思います。000
0そ うい う人間たちが、神様 を求めるみたいに、世界のいちばん向 こう側 に物理的世界 という ものを作 り、 そ こに到達 しよ うと したので しょう。 だか ら、物質 とい うのは、 い っさい価値づ けされない抽象系 であ り、最後 に出て きた ものなのです。茂木 さんの世代 は、 そ うい う物理 の 世界 を先 に教 わ ったか ら、言 わば、世界 の向 こう側か ら歩 いて きて、途 中で クオ リアにぶつか っ た。」 (養 老2000:150)さ らに もう一人。朝永振一郎 は、量子論 の解説書 の中で、「全 く素朴 な立場 か らいえば、色 を もたず温度 ももたない粒子 とか、色 もな く音 も伴 わない波動 な どとい うもの は存在 す る ことが 出来 ない、 と主張す ることも可能 で あ る」(朝永1965:128)とい う 記述 を残 してい る。
で は、次 に、物質 はそれ 自身 において表情 を持つ (有情 であ る)とい う大森 の所説 を略述 し たい。物質 は、色 や匂 いの他 に、 さわやかな、初 々 しい、美味 そ うな、 はかなげな、気持 ち悪 い、 とい った表情 を持つ ことがある。 そ して、一般 的 には、 こう した表情 一― 美的、感情的、
情念 的な相貌 ―― は、 その物質 を知覚 してい る 〈私〉 の主観 的な印象 であるとみな されてい る。
これ に対 して、大森 は、「 すべての物質 には長 さや幅があ り、色 や重 さがあるように、美醜が あ り好悪 があ ります。要す るに物理 的特性があ るの と同様、美 的感情 的情念 的な特性があるの です」(大森1999j:260)と主 張 してい る。気持 ち悪 い虫 の「 気持 ち悪 い」 は、虫 その ものに あるとい う主張で ある。 こう した主張 は、物質 はそれ 自身 において感覚的性質 を持 っていると い う主張 よ りも、 さ らに受 け入れ られに くい主張であろ う。
そ して、野矢茂樹 によると、物質 はそれ 自身 において表情 を持 つ とい う主張 において、「大
森 は論証 めいた ことをい っさい しない」 (野 矢 2007:145)。 大森 は、「 一貫 して 自分 が生 きて い るその現場 に立 ち」(野矢 2007:89)、 何 が立 ち現 われ るのか、 いか に立 ち現 われ るのか、
その実況 中継 に徹 し、 自分 に立 ち現 われた通 りを報告 しているにす ぎない (野矢 2007:145)。
その一環 と して、立 ち現 われ る物質 は有情である、 とい う報告 を しているのである。 さ らに、
大森 自身 も、「 美 しいだ とか、醜 いだ とか、素 晴 らしいだ とか」、 そ うい った表情 は、色 や形 と 同 じよ うに事物 それ 自体 において知覚 され る ものであ るとい う発言 において、最後 に「 根拠 は ございません」 とい う言葉 をつ け加えている (大 森・ 坂部・ 野家 1988:306)。 大森 の身体 を 取 り囲む物質世界 において、物質 はまぎれ もな くそれ 自体 において美 しさやはかなげ さを持 っ て いた とい うことが、大森 の立論 の根拠 だろう。
ただ、実際 には、大森 は、「 論証 めいた こと」 を行 っている。 まず、大森 は、「物の表情 は物 の側 にはな く、 それを見て いる人 の らいの中」 にある」 とい った記述が、適切な記述ではない ことを指摘 して い る。「恐 ろ しい闇夜 の森」 を例 に、大森 は次 のように言 う。物 の表情 は物 そ れ 自身 にはな く、 それを見 ている人 の主観的な印象 と して らいの中」 にあるとい う立場 に立つ と、「 森 自身 は恐 くも何 ともないただの物質」 であ り、恐怖 はそれを見ている人の Lい の中」
にあ るとい うことにな るが、 その よ うな見解 には当惑す る (大森 1999d:168)。「 一方 に恐 ろ し くも何 ともない「 唯の物」 である森、一方 に非物質 的な恐怖 その もの、恐怖 のエキス」 (大 森 1999d:168)があ る とい う図式、「 恐 ろ しさな ど一 つ もな い何 ものか と、恐 ろ しい ものの ない恐怖、空 の恐怖」(大森1999k:192)があ る とい う図式 は、「 勘違 い」(大森1999k:192) で はないのか。恐 ろ しい闇夜 の森が立 ち現 われている状況 を、恐 ろ しくも何 ともない森 と恐 ろ
しい もの とは切 り離 された空 の恐怖 が立 ち現 われてい る状況 として記述す ることは、適切 で は な い (あるいは不 自然 であ る)と大森 は指摘 して いるわ けであ る。大森 によると、「 物 の表情 は物 の側 にはな く、 それを見ている人 の Lい の中」 にあ る」 とい った記述 は適切ではないので あ る。気持 ち悪 い虫 が 目の前 にいるとい うことは、気持 ち悪 くない虫が 目の前 にいて、気持 ち 悪 い もの とは切 り離 された空 の気持 ち悪 さが立 ち現 われているとい うことではないのであ る。
なお、 こう した指摘 に対 しては、次 のよ うな反論 が考 え られ る。「確 か に、恐 ろ しくも何 と もない森 と恐 ろ しい もの とは切 り離 された空 の恐怖 が立 ち現 われているとい う見方 はおか しい。
立 ち現 われてい るのは、恐 ろ しい闇夜の森である。 しか し、 その「恐 ろ しい」 とい う森 の表情 は、 あ くまで も知覚主体 た る 〈私〉 が″いの中で主観 的印象 と して構成 した ものであ り、 〈私〉
によ って森 とい う元来 は無表情 な物質 に付与 された ものなのだ。 だか ら、森 の「恐 ろ しい」 と い う表情 は、 や は り 〈私〉 の主観的印象である。」 こう した見解 は、一般的 には妥 当な もの と みな され るだろ う。 しか し、仮 に、知覚主体 としての 〈私〉 とか 隔いの中」 とい った ものの存 在 を認 めた と して もいの、 こう した見解 には難点 が あ る。 それ は、 〈私〉 が構成 した主観 的印 象 と しての「 恐 ろ しい」 が森 とい う物質 に付与 され るとい う現象が まった く理解不能である、
とい う難点である。人間の身体 か ら「恐 ろ しい」 が発せ られ、 それが森全体 に ピタ ッと貼 り付 くとで もい うのだ ろ うか。「 恐 ろ しい」 が空気 中を伝 わ ってい くのだろ うか。物 に意味が付与 され るとい う現象 が理解不能 であるよ うに (後述)、 物 に主観 的 印象 と しての表情 が付与 され るとい う現象 も理解不能であ る。
また、物 の表情 とは、 〈私〉 が主観的印象 と して構成 した ものであるとい う見解 が正 しい と す るな らば、 自然 の美 しさを称 え るとい った ことは、 こっけいな振 る舞 い とい うことにな って しま う。 自分で作 った ものを、 自然 の属性 として称揚す ることは、 いか に もこらけいであ る。
‑96‑一
村上直樹 〈私〉の消去の後に7‑性起 としての世界と人間―
物 の表情 が 〈私〉 が構成 した主観 的印象 であるとす るな らば、 ホ ワイ トヘ ッ ドが言 うよ うに、
「 詩人 た ちはその抒情詩 を 自分 に向か って歌 うべ きで あ り、 その抒情詩 を転 じて人 間精神 の卓 越 を歌 う自己礼賛 の頌詩 とすべ きである」 (Whitchёad 1925=1981:72)と い うことにな る。
大森 の議論 に戻 ろ う。大森 は、 さ らに、物 の表情 が らいの中」 で構成 された主観的印象であ るとい う錯覚が、 なぜ生 じて しま うのか とい うことも説 明 してい る。 その説 明 とは、以下 の通 りで あ る。何 か恐 ろ しい物、例 えば上記 の闇夜 の森 が立 ち現 われている時、一般 的 には、 その 立 ち現 われ に随伴 して一群 の身体 的な反応 一一 手足 の震 え、腋 の下 の冷 や汗、胸か ら腹へ突 き 抜 け るゾ ッと した感 じ等 々 一一 が起 こる°→。 そ して、 これ らの身体 的な反応 は、 あ くまで も 恐 ろ しい闇夜 の森 の立 ち現 われ に随伴す る出来事 であ って、恐怖 その ものではない。 しか し、
こうした随伴的な出来事が恐怖 の本質であると取 り違え られ (その取 り違 えを誘 ったのが ジェー ムス・ ラ ンゲの説 であ る)、 また、 それ らが体 内、身 の内にあ ることか ら、何 か恐怖 の情 な る ものが「 心 の中」 にあ る とい う錯覚 が生 じてい るので あ る (大 森 1999c:94;大森1999k:
193)。
さて、物質 はそれ 自身 において表情 を持つ とい う議論 は、知覚的立 ち現 われ論 の中で展開 さ れた ものだが、1980年代後半以 降 の絵画 の美 に関す る考察 の 中で も再論 されて い る。 その際 に、大森 は、新 たに「風情 (応ゝうじょう)」 とい う言葉 を導入 している。大森 の規定 によると、
風情 とは「 人 の顔 の表情 と全 く同 じ意味で風景が持つ表情であ り雰囲気である」(大森1999k:
174)。 立 ち現 われてい る個 々の事物 にはそれぞれ表情 があるが、全知覚風景 に も全域的な表情
が あ る。 その全域 的な表情 を、大森 は、風情 と規定 して い るので あ る (大 森 1999k三 186)。
(ただ し、大森 の議論 において は、全知覚風景 の中心 とな るよ うな事物 の表情 も風情 と呼ばれ て い る。)この風情 も 〈私〉 の主観 的な印象 ではな く、風景 その もの に接着 してそ こにある も ので あ る (大森1999k:174)。 そ して、大森 によると、絵画 とは、現実 の風景 の風情 を再現
しよ うとす る ものであ る (大森・ 坂部・ 野家 1988:306)。 「月夜 の雪 山の崇高 な風情 は、 その 山の形 や雪 の 自 と分離不 可能 な形 で知 覚 され る」 (大 森 1999k:175)が、 例 え ば、 そ う した 崇高 な風情 を再現 す る ことが画家 の狙 いなのであ る。「 絵画 の動機 を風景 や人物 の視覚 的再現 に求 め るとい うのが一般 の通念」 であ るが、絵画 の真 の狙 いは、「 知覚風景 の写真 のよ うな再 現写生 ではな く」、「知覚風景 の上 に乗 る風情 の再現 にあ る」(大森1999k:177)ので ある°つ。
以上 において、物質 はそれ 自身 において表情 を持つ とい う大森 の所説 を略述 した。上述 のよ うに、 こう した所説 は、物質 はそれ 自身 において感覚的性質 を持 ってい るとい う所説 よ りも、
さ らに受 け入 れ られ に くい ものだろ う。 しか し、 この所説 も孤立 した ものではない。例 えば、
西 田幾 多郎 は、『 善 の研究』(1911年)の中で、 純粋経験 にお いて現前 す る真実在 は情意 か ら 成 り立 ってお り、現実界 か ら情意 を除き去 って しまえば、 それ は もはや具体 的の事実 ではな く、
単 に抽象 的概念 とな って しま うと論 じて い る (西田 1950:64̲65)。 また、廣松渉 も、「 表情性 現相 は、知覚的与件 に情意 的な成分 が累加 されて成 り立つ」、「表情性知覚 な る ものは、客観的 な感覚 的対象認識 に主観的な感情 を混入 した ものにほかな らない」 とい う考 えを臆見 とみな し、
「純然 た る知覚現相 な どとい うもの は如実 には存在 せず、如実 の現相 はその都度す で に情意 的 な契機 を手 んでお り、本源 的 に表情 的である」 と主張 している (廣松 1989:16‑17)。
で は、最後 に、物質 はそれ 自身 において意味 を持つ (有意 で あ る)とい う大森 の所説 を見 て みたい。 ただ、 あ らか じめ書 いておけば、大森 自身 は、物質 はそれ 自身 において意味を持つ、
とい った言 い方 を していない。大森 が実 際 に示 した ことは、 いかな る意味 に も汚染 されていな
い裸 の物 が立 ち現 われ、次 いでそれ に意味が付与 され るとい う考 え方が間違 いであるとい うこ とである。 そ して、裸 の物 に意味が付与 され るとい う考 え方 が間違 いであるとい うことは、結 局 は、物 が事 んでいる意味 は、物 それ 自身 にあるとい うことである。以下、我 々による追加説 明 を加 えた上 で、大森 の所説 を略述す る。
「 自己の身体」 を中心 と して間断 な く生起 し続 け る物質世界 は、現象学 の言 う生活世 界=
「 それだ けが ただ一つ の現実 的な世界 であ り、現実 の知覚 によ って与 え られ、 そのつ ど経験 さ れ、 また経験 され うる世界であるところの生活世界」(HusserH954=1995:89)に 相 当す る。
そ して、 この物質世界=生活世界 は、「色 のつ いた様 々な場所 や脈絡 のない雑音 や寒暖 の中心 とい った ものの単 な る寄 せ集 めで はな い し、 また そ うで あ った ことはかつ て一 度 もな い」
(Schutz 1962=1985:11)。 物質世界 は、 意 味 を持 たな い色 や形 や音 の単 な る集積 で はない。
物質世界 は、常 にすで に意味を手 んで立 ち現 われ る。 そ して、物質世界が意味世界 と して立 ち 現 われ る とい うことは、物質世界 に属す る多様 な物 が必ず「何かあるもの と して」 ― 水差 し と して、塵 と して、 サ ンザ シの実 と して、「止 まれ」 の合 図 と して、怒 りの表現 と して、神 の 恩寵 と して 一― 立 ち現 われ るとい うことであ る。 この「 あ る ものがあ る もの と してctwas als ctwas」 立 ち現 われ る とい う「 と して」 構造als̲struktur(Hcidegger 1927=1994:322;古 東 1992:86‑87)が、意味世界 と しての物質世界 の基本 的な存立様態である。
ところで、物質世界 に属す る多様 な物 は必ず「何 かあ る もの と して」立 ち現 われ る、すなわ ち必ず意味を手 んで立 ち現 われ る、 とい う考 え方 に対 しては異論 がある。例 えば、菅野盾樹 や ダ ン・ スペルベル によ ると、西欧人 の世界 において は、「認識対象 はすべて当然 の ことと して あ る意 味、 あ る意 味作用 を もつ、 とい う応ゝうに表 わ され る」 が (Sperber 1974=1979:136)、
「 意 味 にみ ちた宇 宙」 とい う表象 は普遍性 を持 たな い文化概念 であ る (菅野 1983:20)。 西 欧 人 の世界 においては、すべてが何事 かを言 わん と欲 している (意味 している)とみな されてい
る (Sperber 1974=1979:136)、 すべてが「 意 味の相 の下 に」把握 されてい るが (菅野 1983:
21)、 例 えば、エチオ ピアの ドルゼ族 の間では、「 これ は何 を意味す るのか」 とい う問いは、語、
文、 テ クス ト、 もしくは うなず きのよ うな直接言語 で説 明で きる振 る舞 いにのみ向け られてい る (Sperber 1974=1979:137)。 意 味遍在 は西欧人 のイデオ ロギーであ る。「 存在す る もの は 意味 にみた されている」 のではな く、「意味のある もの もあればない もの もある」(菅野 1983:
18‑19)のである。菅野 は、「意味遍在のイデオ ロギーを括弧 に入れ」、「意味を遍在か ら局在へ 追 いや らね ばな らない」(菅野1983:22)と主張す る。
また、野矢茂樹 も意 味 の遍在 を否定す る発言 を行 ってい る。野矢 は言 う。「 た とえば「 〜 と して見 る」 とい う言 い方 で もそ うだ けど、知覚 にはた しか に「 〜 と して見 る」 とい う言 い方 を 要求す るよ うな場面 が あ る。 だけどそれはそ うい う特有 の、特定 の場面 なのであ って、 そ うい う場面 があるか らとい って、 われわれは 日常 の何気 ない ときに も、すべて「 〜 として」見 てい るんだ とい うのは、 た とえばハ ンソンがや って しま ったナ ンセ ンスな言 い方 であ って、 これ こ そ暴力 的な理論化 だ とぼ くは思 う。」 (野 矢・ 大庭2004:70)野矢 によ る と、人 間の普通 の生 活 は、「習慣 的な レベル、意味 も規範 もないよ うな レベルで埋 ま っている」。 そ こには、「意 味 も心 もヘチマもない」のである (野矢・ 大庭2004:69)。 野矢は、意味の成立を「特有の、特 定の場面」 に限 っている。野矢 も意味を遍在か ら局在へ追いやった一人である。
このように、物は必ず意味を手んで立 ち現われる、 という考え方に対 しては異論が出されて いる。 また、 こうした異論が出されることには、妥当な理由もある。 しか し、やはり、意味は
二 98‑
村上直樹 〈私〉の消去の後 に7‑性起 としての世界 と人間一
遍在す る、すべての物 は「意味 の相 の下 に」立 ち現 われ る、 と言 わ ざるを得 ない。前置 きが長 くな って しま うが、説 明 しよ う。例 えば、西欧中世史家 によると、「 中世 キ リス ト教社会 にあ っ ては、生活のあ らゆる局面 に、宗教 的観念 が しみ とお り、 いわば飽和 していた。すべての事物、
すべての行為 が、 キ リス トに関連 し、信仰 にかかわ っていた」 (Huizinga 1919=1976:302)。
キ リス ト教 の象徴主義 は、 俗世 の物 を、神性 の表徴 とみなす (Huizinga 1919=1976:315)。
世界 は神 の手 によ って書 かれた書物 であ り、 そ こにおいてすべての物 は意 味が充満 した言葉、
す なわ ち象徴 だ った (Gurevich 1992:425)。 西欧 中世 の人 間 は、詩人 ボー ドレールの よ うに
「 象徴 の森」 に住 んで いたので あ る (Lc Go∬1989=1999:36)。 物 は、「 一層深遠 な実在 を表 現 す る役 目を負 った言語 以上 の もので はほ とん どなか った」 (Bloch 1939=1973:80)。 物 は、
単 に象徴 とな る ものではな く、人 間がそれ に象徴 的内容 を含 ませ る もので もなか った。物 は象 徴 なので あ った (Gurevich 1992:426)。 西 欧 中世 の人 間 に とって、 獅 子 はマル コで あ り、鷲 は ヨハ ネで あ り、 仔牛 はル カで あ った (Gurevich 1992:425‑426)。 人類 が原罪 を犯す以前 に 天 国 において咲 いて いた とされ る棘 のない薔薇 は、原罪 を免 れた女つ ま り聖母 マ リアのア トリ ビュー トであ り、純潔 の象徴 だ った (若桑1993:9‑H)。 荒 れ狂 う雷雨 の天空 は、悪魔 の軍勢 の行進 だ った (Bloch 1939=1973:79)。 西 欧 中世 の人 間 の身体 の周 りで は、 す べて の物 が象 徴 的な意 味 を帯 びて立 ち現 われていたのであ る。 ただ、菅野 や スペルベルの言 をまつ まで もな く、 こう した ことを普遍化す ることはで きない。 また、上記 の よ うな象徴 が、宗教改革以降衰 微 して い った ことは、 ホ ワイ トヘ ッ ドに よ って も指摘 され て い る (Whitchead 1927=1981:
91)。 上記 の よ うな象徴 の意 味 は、 いわば 目立つ意 味、声高 な意 味、主 張す る意 味であるが、
もし、意 味 とい うものには この よ うな意 味 しかないのだ とす ると、意味 は遍在 しない とい う菅 野 やスペルベルや野矢の主張 は正 しい とい うことになる。西欧中世 において棘 のない薔薇が持 っ て いた よ うな象徴 的な意 味が意 味の通常 のあ り方 であ るとす るな らば、人 間の普通 の生活 には
「意 味 もヘ チマ もな い」 とい うことにな る。 しか し、意 味 には、声高 で主張す る意 味 しかない わ けではない。棘 のない薔薇 が聖母 マ リアのア トリビュー トと して立 ち現 われず、鷲 が ヨハネ と して立 ち現 われな くて も、棘 のない薔薇 は「棘 のない薔薇」 と して、鷲 は「鷲」 と して立 ち 現 われ るで あ ろ う。「意 味 は遍 在 しな い」 と主 張す る論者 の身 体 の周 囲 で も、 あ らゆ る物 が
「 〜〜」 と して 一― 例 えば、「先月買 った ノー トパ ソコ ン」 と して、「甘 い桃」 と して、「 こわれ た シェーバ ー」 と して、「 ク リーニ ングか ら戻 って きた ジャケ ッ ト」 と して二一 立 ち現われ る で あろ う。 そ して、 その際、「 これ は先月買 った ノー トパ ソコ ンだ」、「 これ は甘 い桃 だ」 と思 うことは通常 はない。ただ、 そのよ うに思 わな くて も、先月買 った ノー トパ ソコンは「 先月買 っ た ノー トパ ソコン」 として、甘 い桃 は「甘 い桃」 として立 ち現 われ るのである。 その ことに関
して、ハ イデガーは次 の よ うに書 いている。
《と して》 は言 明のなかでは じめて 出現 す るものではな く、 そ こで は じめて明言 され るに す ぎない。 この明言 がお こなわれ うるの も、 その 《と して》 が、 すでに明言可能 な もの とし てそ こに控 えているか らである。 端 的 に見 や ることのなかに言 明の表 明性 が欠 けていること があるとして も、 この端 的に見 ることに、いかなる分節的解意 もな く、 したが って 《として》
の構造がないな どと断定 してよいということにはな らない (Hcidcgger 1927=1994:323)。
通 常 、 物 は、「 〜 〜 だ」 と思 わ れ る こ とが な くて も、「 〜 〜」 と して立 ち現 わ れ る。 ヤ スパ ー ス の言 い方 を 引 けば、「 意 味 はわれ わ れ の知 覚 で はわれ わ れ には っき りとは意 識 され て いな い
が、何かの形の意識性としてやはりちゃんとあるのである」Caspers 1913=1971:67)。 物は、
宗教 的意味のような声高で主張す る意味を帯 びていな くて も、必ず 目立 たない意味、沈黙す る 意 味、 ひ っそ りと した意味を帯 びているのである。 そ して、 こうした明言 されていない透明な 意 味 も視野 に入 れれば、間違 いな く意 味 は遍在す るのである°°。(菅野 やスペルベルや野矢 は、
声高 で主張す る意味だけを考 えて「意味 は遍在 しない」 と主張 したのだ と、我 々は理解 してい る。)
さて、 ここか らが本題 であるが、 日立つ意味、声高な意味、主張す る意味 も日立 たない意味、
沈黙す る意味、 ひ っそ りとした意味 も共 に合 めた意味全般 は、一般的には、 〈私〉 によ って思 念 された主観的な もの (=観念)であ り、客観 的な裸 の物 に付与 され るものであるとみな され て い る。 そ して、学 問の世界 において も、 こうした意味付与 の理論が展開 されてきた。 その代 表 は、 フ ッサール による「志 向的体験 と しての意識」 に関す る理論であろ う。 フ ッサールは、
この理論 の中で、意味を担 った超越的な (意識体験 に属 さない とい う意味での)対象 の構成 を 以下 のよ うに説明 している。 まず、 フ ッサール によると、意識 を超越 した客観的存在 とい う確 信 その ものは、意識 の志 向的働 きによ って支 え られている。「 志向性 な しには、対象 と世界 は、
われわれ にとって現存 しない。」(Husserl 1954=1995:292)意識 の志 向的働 きが超越的対象 の 意 味 と存在 を構成す るのである。 では、 この志 向的働 きを持 った意識 とはどのような ものだろ うか:フ ッサール は、意識 を志 向的な体験 であ るとす るが、 この場合の「志 向的」 とい う言葉 は、「意識 とは何 ものか につ いての意識 であ り、意識作用 と してみずか らの意識対象 をそれ 自 身 の うちに有 しているとい う、意識 の この一般 的な根本特性 を意味す るものにほかな らない」
(Husserl 1929=1980:214)。 そ して、 このよ うな意味での志 向的な意識 は、 ヒュレニ的契機=
感覚与件 に何 らかの統握 の働 きが加 わ って初 めて成立す るとされ る。 ヒュレー的契機 は、色彩 与件、触覚与件、音響与件等 々か らな るが、 それ 自身 は、志 向性 を寸墓 た りとも持 たない6こ
の志 向性 を持 たない ヒュ レー的契機 をtノエ シス的契機が統握 し生気づ けることによって、志 向的意識 が成立す るのである (Husserl 1950=1984:92)。 そ して、志 向的意識 が成立す るとい うことは、 とりもなお さず、超越的な対象が構成 され るとい うことに他な らない。 ノエ シス的 契機 は、素材 としての ヒュ レー的契機 を統握 し生気づ ける、すなわち ヒュ レー的契機 に意味付 与 を行 う。 この意 味付与 によ って、 超越 的な対象が構成 され るのであ る。「 素材的な諸体験 の
「 基底 の上 に」、 ノエ シス的諸機能 を「 媒介 に して」、「超越論 的に構成 された もの」 が成 り立 っ て くる」(HusserH950=1984:146)、 あ るいは、「 感覚複合が生化 され ることによ って、知覚 された対象が現 出す る」(HusserH922=1970:86)の である。 そ して、 ここで言 うノエ シス的 契機 とは、「純粋 自我 が、意味付与 によ りつつ 自 らが まさに「思念 して」 い る対象 の方へ と、
日差 しを向けること、つ ま り、 自らの「 念頭 にあ る」対象 の方へ と、 日差 しを向けること。 さ らには、 この対象 を把握す ること、堅持す ること」 (Husserl 1950=1984:107)、 「純粋 自我 か ら放射 され る「 目差 し」 が、 そのっ どの意識相関者 たる「対象」へ と立 ち向か って」 (Husscrl
1950=1984:86)ゆ くことであ る。意味 を担 った超越 的な対象 は、純粋 自我 とい う光源か ら発 せ られ る「 目差 し」 の放射 によって構成 され るとフ ッサールは考えたのである。
なお、純粋 自我 による意味付与 に関 して、 フ ッサールは『 デカル ト的省察』(1929年)の中 で次 の よ うな直哉 な記述 も残 して い る。「世界 とはtそもそ もわた しに とって、 その よ うな
一‑100‑一