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伊 東 静 雄 と 危 険 な 好 情

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(1)

伊東静雄と危険な好情

ii

﹁春 のい そぎ

昭和と持構

議療朔太郎が岳掃の﹃氷島

h (

9﹀を︑その詩語の

﹁退却﹂的な用法という海自で新罪すべく﹁司氷島b

耐について﹂を発表したのは︑いわゆる十五年戦争の濡中︑

間近に日中戦争をも迎え入れようとしていた昭和十一年七

月︑句四季﹄の誌上であった︒萩原にしてみれば︑どこか

鮪第の内在を苧みながら膨張の一途をたどる我が留の︿近

代﹀を︑被患的に糾弾せんとする企図がなかったとはいえ

ず︑文学的にも吋持の頭理h

︿ 昭 3﹀以蜂繰り迭し関われ の方法

1 1

ょうとした﹁持語としての日本語﹂の危機についてなど︑

この頃を一つのピiクに︑ある種の備根をおりまぜながら︑

次第に文私的義績の方向へと私的な傾向を潔めて行く︒翌

年に咋詩人の使舎﹄を制作︑関髪老入れず吋日本への回

b (

昭日)を公番先し︑予定通りの旋国を晃せていく︒

要するに﹃氷島b自体が﹁退語い党構のリリカルeクライ

であったように︑昭和とは︑萩原朔太郎にとって持請不雀

の時代でしか設かった︒﹁賠和脅年論﹂︿昭日﹀のなかで

彼は謡う

a i

3 E

に酔ひ︑大正の青年

誌﹃観会hに酔ったLが︑﹁昭和の脅年等は︑かうした過

去の迷夢から醒め︑初めて自弓の環境してゐる現実の社会

と文住を認識して来﹂︑この﹁告覚のために︑彼等はその

先入の﹃詩岡山を失ひ︑先人の所調小常識人と化いしてしま

(2)

った︒しかし﹁その表情の深い内部に︑過去の脅年が悩ん

だ以上の︑より深刻にして厳粛な寵題﹂を課され︑﹁かか

る過渡期の苦悩と陣痛とを﹂一手に引きうけなければなら

1 1

ここで萩震が﹁詩いと呼んで話ち出

したものこそ他でもない︑彼にとってのJ

ぞれゆえに﹁故郷﹂でもあり︑また﹁青春﹂でもありうる

︿うた﹀の一切なのだ︒﹁過渡期の苦梢と陣痛﹂とは︑そ

うした︿うた﹀の欠如の上に立つ︿うた﹀創出の困難さ以

外の荷ものでもない︒

同じことは︑その﹁昭和欝年﹂の一人である小林秀雄な

どによっても誌かれており︑﹁故郷を失った文学を抱いた︑

脅春を失った青年達﹂(﹁故郷を失った文学L

8)

れた︑世代窮命的な試繰という受けとめ方になる︒むろん

小林由身にとって︑かくいう︿うた﹀う棋の使命は︑たく

みに田避された︒ひたすら︿うた﹀うことの密命を自家の

思索の中に理論づければよかったのだが︑その傍らで︿う

た﹀へのこだわりを捨てきれなかった中原中也ならぬ富︑水

太郎などに﹁過渡期の苦梢と陣痛﹂は痛切に相違なく︑幸

か不幸か彼の方は︑散文詩形に自身の詩の突破口を見つけ

ながら︑昭和の入口でたおれてしまった︒あるいはもう一

入︑同年齢の梶井基次郎などをそばに霞いてみればいい︒

大正十三年に蕎かれた﹁樺襟﹂は︑あらゆる意味で昭和詩 の最初の実験H跳躍といってよく︑その結果︑︿うた﹀の所在をめぐる思索が︑反って散文(小説)といラブォルムを嬰請するに及んだのだ︒島るもてあまされた自意識の負荷︑それに付随して生じる不定影な敵意の進行︑等々

! i

彼等の文学に共通するこうした詩想の空転にも似た動曹は︑

大正末期を設浪の一陣として︑以降昭和十年代に及ぶまで

の﹁昭和膏年﹂の詩魂をよぎりつづけていたように思われ

る︒ぞれは︑一方で︿うた﹀の不在を噴きながら︑他方で

散文詩に昭和詩の行方を見定めていた荻原の詩史観にいさ

さかも矛盾せず︑矛盾どころか︑縄井などの試みに︑時代

に先んじる稀な詩魂の一所在を認めていたのが︑当の荻原

然るに梶井君の作品集﹁棒様L 百本に於ける﹁文学Lの実在観念を発見した︒勿論

﹁抽神様﹂の作品は︑小説といふべきよりは︑小品もし

くは散文詩の範峰崎に麗すペ告ものであるか知れ怠い︒

しかしながらこの精神は︑すべての文学を通じて普遍

さるべき︑絶対根本のものであり︑僕の常に観念して

居る﹁文学﹂の正観と符節して居る︒(略)縄井某一次

郎君は︑日本の現文壇に於いては︑稀れに見る真の本

質的文学者であった︒後拡最も烈しい衝動によって創

作するところの︑真の情熱的詩人であって︑しかもま

(3)

た時時に︑最も冷酷無捕の自を持ったとりスチック の暫学者だった︒︿﹁本質的な文学者﹂昭叩・9

おそらく︑こう書かれる傍らで︑萩原には昭和膏年のい

ちはやい﹁苦悩と陣癌﹂が透けて見えていた︒世代に帰嘉

されるべき詩の困難さと︑時代に諜せられた詩形の槙索と

が︑﹁持機Lという散文(小説)に詩の﹁精神﹂を見た一

この時期の萩原にとって︑﹁詩﹂はすでに不可能なフォ

ルムとしか晃加えていず︑代りに﹁詩的精神﹂という揚蓄が

詩に代替して行われるようになる︒したがって︑理論上の

という感じさえ寺えるのだ︒

今の日本の詩人は︑形態の問題で行者詰まり︑絶望的

に関難なヂレンマに結って居る︒詩人が自ら自縄出版縛

し︑手も足も出ないやうな状態に摺て︑無理に苦しが

った持を書いてるより︑令しろ大いに雄濯して︑自由

な散文豪書く方が貯い︒突に現在の日本文誌は︑詩人

に﹁詩﹂を求めないで︑﹁詩的散文Lを求めてさへ居

るのである︒換言すれば今の詰本は︑・米だ真の意味で

﹁ 詩

Lといふべき文学が生れ得ない状懇の社会にある︒

そこで今日詩的精神を持っている人々は︑日みがくた

エッセイや散文詩やの︑詩的散文を欝く外にないので (略)真のエッセイや随筆やは︑散文精神によ

って書かれないで︑詩的精神によってのみ審かるべき

だ︒即ち此等の文学は︑詩人によってのみ書かるべき

aしかも日本の詩人は︑用調自国由詩以外に発展せず︑

この縄の詩的散文を書く人のすくないのは︑撲の窓外

に不思議とする一昨である︒却って詩境以外に︑保田輿

盤郎君や辻野久癒君やの新人群から︑この穫の詩文的

エッセイストが現れたのは何うしたわけか︒今の告本

に於て︑真の詩精神や詩文学やが詩壇以外から輿りつ

つあるといふ換の予感は︑決して泌ずしも無根拠のも

のでないだらう︒(﹁詩人は散文を欝けL

2)

当然鱗裡にあるのは︑時を追って確告を新たにする﹃詩

の原理恥の予言

l i

あるといふ︑不思議なわけのわからない没理論に到遣す

る ﹂

liであったgしかし︑ぞれ以上に﹁没理論﹂とも見

えるこの時期的こうした言説を︑務々はどのように受け容

れればよいのか︒﹁却って詩壇以外に︑保田輿重郎君や辻

野久憲粧やの新人群から:::云々いとは︑語るに落ちた退

役詩人の蒙昧なのか︒おそらく︑そうとばかりは言いきれ

まい︒詩が臨難な持代だけに︑その国難さをすすんで危機

意識として受けとめている表壌のなかに﹁詩的精神﹂を見

ているのだ︒散文詩や小説ならまだしもエッセイ︿引評

‑3‑

(4)

論)にまで詩を噴ぎ出そうというのは︑その惑を措いては

なく︑例えば︑はじめにも触れた﹁﹃氷島恥の詩語につい

てんがこの五ヶ月後の記述であるのを考え併せると︑詩語

としての退却などは︑むしろ︑かく身をもって塁さんとす

Lの積極的なあらわれの一つだったのかも知

れない︒たぶん︑そういうアイロニーを萩原は護っている

のだ︒︿うた﹀の不可能性を︑もってみずから︿うた﹀た

らしめんとする不喝なまでのアイロニー

ii

文中で吋コギ

ト恥の間人の表現に触れ︑またそれとは加に時期を開じく

して次のような一文を草していたことは︑決して鶴黙とは

ひさしく持情詩は失はれてゐた︒これは悲しい事実で

あった︒(略﹀持といふ文学は鰐処へ行ったのか?

成る他の人々は︑謀術にさへならない粗野な言葉で︑

全く英の感性を欠いているところの︑アヂ的政談演説

のやうなものを怒鳴ってゐた︒人々はそれを﹁自由

Lと時び︑をこがましくもプ口様︑民衆派︑人道派

等の名を備称した︒だがそんなイズムを称し得るほど︑

芸術する神経はどこにも無かった︒詩は︑﹁英しく歌

Lべきものであって︑暴力団壮士の演説みたいに︑

粗暴に殺伐に﹁荒々しく怒鳴るLべきものではない筈

である︒(略)持情詩を復活せよ!リワシズムを時 ぴ戻せ!これが今日の日本に於て︑文学と詩歌(和歌も俳句も共に含めて﹀の全文塘に︑最も強く時ばれる所の声である︒/雑誌﹁コギトLの誌上に於て︑伊

東静雄君の詩老初めて晃た時︑僕はこの﹁失はれたリ

リシズム﹂を発見し︑日本に尚一人の詩人があること

を知り︑棋の躍るやうな強い悦びと錯望をおぼえた︒

これこそ︑真に﹁心の歌Lを持ってるところの︑真の

本質的な持揖の詩人であった︒(略)﹁わがひとに輿

ふる痕歌﹂は︑伺といふ痛手にみちた歌であらう︒伊

東静雄君の持簿詩には︑もはや警春の悦びは部処にも

ない︒(略)ぞれは詩め全く失はれた昭和時代︑社会

そのものが希望を失ひ︑文色そのものが日的性を紛失

し︑すべての入が壊疑と不安の培黒世相に生活してゐ

るところの︑まさしく昭和一0年代の現代日本を表象

して居る︒しかも捕命的な詩人等は︑かうしたりリヅ

クのない時代にさへも︑尚彼等の琉を歌ひ続けねばな

らなかった︒そこで彼等の歎は悲しく傷つき︑リズム

は支離に破滅し︑声はしはがれて低く︑心はい虚無の様

疑に培く悩み傷ついて農る︒(﹁吋わがひとに輿

ふる衷歌﹄伊東静雄君の持﹂︑吋コギト﹄昭日・

1)

先に引用した一一文を含めて︑敢えて私的な想像をたくま

しくすれば︑荻原の見た昭和詩の命脈とは︑いちど梶井基

(5)

次郎の試み(散文﹀のなかに濠りつ泰︑この伊東静雄の持

情︿イロニ

i)

において狂い咲きした︑と受けとめられる︒

約十年の議月を隔てて︑曲線としての﹁詩の全く失はれた

昭和時代﹂が結ばせた︑面白い期成関係とみていい︒その

空岳の歳月を表向きお﹁詩Lとして歩んだものの多くは︑

萩原にとって︑むしろ散文による額文形式の類ーl

Lを放棄した散文精神の形式的犯濫ーーと挟った

に相違ないおである︒︿これは戦後四十年を経た現在の状

況に鋲ている︒)だからこそ︑撲を一にして出様の詩魂の

所在を梶井のなかに嘆ぎつけたともいえ︑もはやブォルム

上の規制などは楼しげな﹁詩Lの目安としてしか見えてい なかった︒伊東の持情に﹁唯一Lの手応えを感じたのもそ のためで︑その﹁失はれたリリシズムLに昭和詩の宮命を

みとめたのも当然の理問である︒ただ︑ここで押さえてお

きたいのは︑萩原が昭和﹁詩L検定上の一規矩を︑期せず

して二人の中に探し当てた意識であって︑あくまで萩原の

眼力の方にある︒というのも︑伊東の吋わがひとに興ふる

衷歌

b (

以下コ器歌恥とする)のなかには︑中島栄次郎も

一習うように﹁詩作ではなくて詩索だけが持にな﹂(﹁感

想﹂)るような持情の溝揺が潜んでおり︑持靖本来の手つ

きとは多少興る性格をみとめ得るからだ︒これについては

ま時をおいて創り出された変種のスタイル(小説と詩﹀を

ニ人の中に見出したとしても︑不都合はなさそうに思われ

輿()

もない︒﹁詩精神Lを模索する文学という意味で︑これこ そ﹁詩紫L本来の姿を保つ表現に相違ないのだから︒

昭和詩史の涜れは︑表立った動きとは別のところで︑そ

の第一期を伏流水としてくぐり︑第二期︿一九三0

を本流とすべく︑にわかに湧き出して来たのかも知れない︒

あたかも戦時下という設相の動乱が大勢の赴くままにキツ

︿︿

能性をみずから︿うた﹀とする使命を︑時代の皮締とすべ

く突きつけ︑すすんで徒花を咲かせたのが伊東静雄の主技

h

i i

すなわち昭和詩第二期の持情の一茎であったよう

に恵むれる︒雑誌吋コギト﹄の創刊︿昭和?)は︑その点

いかにも象徴的と見てよく︑大岡信の⁝冨うように﹁昭和七

年という年は︑昭和初年代の文学史において一糟の分水嶺

をなしている年であ﹂ったのは︑確かなようである︒

‑5‑

吋コギト﹄と詩精神

i i

前年九月に起きた務条溝事件をきっかけに我が国が大陸へ

(6)

の武力後攻を明確信させた︑満州国成立の時

i!

非常時の名のもとに台頭するファシズムあり︑またそれに

引脅ずられてエスカレートするプロレタリア文佑への弾圧

あり︑等︑思想惑乱の状況下にあって︑内外を問わず世相

を騒然とさせる事件が相次いで起きていた︒就中︑同年五

丹の五・一五事件︑翌年三月の国際連盟脱退声明︑また小

訴多喜ニの獄中での虐殺などは︑記寵されるべき事件とな

った︒文学的には︑マルクス主義運動の下降花(転向その

他)と︑ぞれに尭合って新基軸を摸索する詩懇の競合が︑

カッコ付きの﹁文芸複輿﹂をもたらそうとしていた時期に

あたり︑詩に限ってみれば﹁政治前帯意識にささえられた

プロレタリア持と︑芸術的前衛態織にささえられたエスプ

リ・ヌ!ボォの新詩灘動の︑双方にみられた一種国際主難

的な性格や外に向かって広がっていこうとする性格は︑こ

の時惑になって著しく変色し︑内向的・求心的・持構的な傾舟が全部に揮し出されてくる﹂(大間一語}ことになる︒す

なわち吋コギト﹄であり﹃四季恥︿昭

8/ 9)

であり吋里

穂恥︿昭ぬ)であるような雑誌の創刊がそれにあたる︒詩

人たちは﹁多かれ少なかれ︑強まる時代の悪気流の中で昌

己を再検討し︑あるいは昌己を再建せねばならないことを

感じはじめていた﹂︿関﹀のである︒

とりわけ吋コギト﹄派の﹁詩精神﹂にとって︑状況は危 機以外の何ものでもなく︑彼らの多くが創刊時に二十歳を少し出たばかりの学生︿轡審顕﹀であったのを考え併せると︑詩を間後ずる文学とは︑途方もなく屈曲した︑それだけに困難な課題として映ったに相違ない︒その主幹ともいうべき保田興重郎の試みが︑初めから﹁﹃変革の閣議恥と

i

︿

3v

にしていた理屈である︒

JR

﹂という形式がすでに︿うた﹀を態味せぬ地

平から︿うた﹀う必黙を表現に課おねばならなかったので

私らは﹁何の為に﹂﹁なにを﹂書くかと︑新しい角度

から問ふ以前に︑つまり文学の効用をいふが︑ぞれ以

前に﹁なぜ文学をする﹂︑﹁文学をしだした﹂︑とそ

の生の態識を関はうとする情熱を感じる︒明らかにこ

のこ者の微細な誌別の護立を看過し得ない︒この原罪

的な過去の措命観を追求してゆきたい︒そこから私の

文学はそれの多影と豊穣を縛るであらう︒

可コギト恥創刊時に⁝融業後記として寄せた保田輿重郎の

言葉である︒臨苅ればわかるように︑文学の発端︑その持索

自体の中ヘ立ち帰ろうとする生の哲学が︑彼等の﹁詩精

神﹂なのであった︒﹁吋なぜ恥文学をやるのかを問うこと

3吉があった﹂︿大関吋}わけである︒こう した課自の姿勢は︑例えば向いν頃書かれた小林秀離の﹁現

(7)

在文学の不安﹂や﹁Xへの手紙﹂などをそばに置いてみる

と一層明らかになる︒とりわけ﹁Xへの手紙﹂は︑その創

作とも批評ともつかぬ告告集在用いて﹁時に心せいた︑あ

るいは時に自己解析に冷静で︑告患的であるかと思えばパ

セティックな主情的な賂鱗老ふくL︿饗路孝典﹀ませなが

ら︑時代から強いられた現実と観倉の錯乱に眼を向け︑

﹁マルクス主畿の吋思想hにたいする文学と需諦の自立性

によった苛烈なたたかいの島と︑おのれの内部をのぞきこ

んだ小林の思考の臨界点

L (

関)を恭しているように見え

る︒その意味で小林はみずからを﹁膏春を失った青年連﹂

︿﹁故郷を失った文学﹂)と呼ぶことができたし︑状況を

﹁青年的性格が社会の表爵に現れ

L (

間)すぎた時代と見

なすこともできた︒しかし︑小株より八議年下の保田輿重

部にとっては︑認識は何ら己れの青春を意味色(普遍化)

しない︒つまり時代に強いられた現実に違いはなくとも︑

その錯乱の時こそが紛れもない己れの青春なのだから︒青

春の欠如は︿うた﹀の欠如と関様に︑﹁無いいと知った上

で生きる必然を強いられていたのである︒ぞれは︑二人に

共通して訪れた宿命論的な思考

ι

も︑決定的な差興老もた

らした︒小林の捕命輸には︑かたちはともかく韓蟻に持ち

揺の牒史観が滋けて見えるが︑保留のそれい札は︑どちらか

というと縮踏史観のようなものが非用している︒いわば︑ 欠如としての﹁いまいとごごとをなお信じたい︑とするアイロニカんな態度決定が自明に刻印されているような印象を与えるのだ容こうした事情は保聞に限らず他の吋コギト恥採にも鵠く鴻じており︑例えば︑雑跡創刊時に来だ縁のなかった捗東静援なども︑ぞれらしい持情の片鱗を︑いちはやくこんな識に刻みつげていた︒

田舎を逃げた私が都会よ

どうしてお前に敢えて安んじよう

試作を覚えた急が行為よ

どうしてお前に壇れないことがあらう

(

‑7‑

7

ω

かたちに棺違はあれ︑先の保田の﹁アイロニー

ι

に﹁詩作ではなくて持勲だげが詩にな勺 v

ここに確かめておきたい︒方向詩意味の欠撰を︑すすんで

我明し記述することが︑そのまま島身の方向日嫌味

i !

まり持情にーーになっているのである︒この作品が︑爽際

には伊東の個人的な生活史に援護して欝かれながら︑こう

した時代︿世代)の嬰舗に難縁でなかったことを銘記して

(8)

おく必要がある︒

ついでに補足すれば︑出ザ東はこれを番く

小がつかうのじぷんから

じゅうだいがでるときまって さくぶんはほんとにむづかしいと いふことだけかいたもんです

︿﹁ぼくのうた﹂招7

9)

と︑こんな戯れ︿うた﹀まで﹁ぼくのうた﹂に入れようと

しており︑単なる照れやはぐらかしとは克えぬ顔つ寺を寝

かせているのだ︒﹁詩紫L行為自体が初めから︿うた﹀の

断念として山引き受けられ︑ぞれゆえにアイロニーたらぎる

を得ない︿うた﹀うことの自噸が︑逆説的記表白される仕

組みになっている︒ゃった﹀の擦は違っていても︑本質的

ι

Lに似通った﹁詩紫L操作が克てとれよう︒就中

﹁じゅうだい︿自由題)がでるとL去々あたりは︑先の保

田の発言さえ初練とさせ︑また伊東にとって誌︑

真実いふと私は詩句など要らぬのです また書くこともないのです︿﹁即興﹂昭

m

4)

のように︑いわば︑こののちの口癖となって繰り返される

ことになる︒このような現実は概ね吋コギトゐ派に共還し

た傾向とみてよく(ぞれを反語とする立場も含めて﹀︑伺 わたしは よりも彼等の﹁危機態織﹂や﹁議びの美学Lが︑そうした

H輪郭を欠いた︿ゆった﹀にH無縁でなかったことを如実に

物語っている︒だから︑保田が﹁コギト﹂という言葉仁み

ずからを絡め︑その

2X

学﹂立以下のような輪郭H殻を与

えようレししたのも︑しごく当然の詑慮であった︒

わたしらは﹁コギトL発刊のことばを一色で審議えぬ︒

(略)弘ら試謙譲に愛用に︑鞭捷と忠告を希求するだ

らう︒ただ私らは﹁ゴギトLを愛する︒私らは最も探

く吉典を愛する︒私らはこの国の省みられぬ・古典を愛

する︒私らは古典を殻として愛する︒ぞれから私らは

殻を被る意忠を愛する︒

ここで﹁殻Lと称してもち出容れた﹁・古典Lというのが それにあたる︒革新する﹁詩精神Lにとって﹁古典Lはむ しろアイロニカルな規範たりえたのだ︒後古主義ならぬ

H現在Hへの過敏な一危機意識が探り出したモダンな指標と

いうわけである︒ぞれは︑のちに日本渡曇涼が日本と⁝一等っ

とき7日本Hじたいがもともと︑モダlニッシュなシン ボルであるH伝統Hにほかならなかった

L (

z

と気脈を一にしている︒挙るいはまた︑構川文三のいう

﹁日本ロマン派は︑前期共産主識の理論と運動に初めから

随伴したある革舎的なレゾナンヅであち︑結果として一一穫

の倒錯的な革命方式に収散しお﹂とするような︿マルク

(9)

ス主義│革命!鶴錯﹀の者抜な装置日縦断院を︑そこにあ ててみてもいいc保田が﹁古典﹂を新しいと言うとき︑ぞ

︿

Lu n 古典)は︑歴史性を﹁殻とする外部対象的な世界

ではなく︑脱麗史性を志向の安全弁となす内部世界的な

﹁般いで島ったに相違ないからだ︒実際彼は﹁等身﹂(昭

和問・6﹀と題する自己回顧的主耕作のなかで︑この︿マ

んクス主義│革命i関錯﹀の講関を﹁自得した分身の術﹂

という内部態識による歴史攻略の方法に重ねていて︑ぞれ

らしい持紫H自意識のありょうを覗かせているのである︒

こうした内的﹁分身﹂との対話や華制を患己意識の過駕な

熱量交換に罷き換え︑時代のヂスベレiトな心情をたくわ

えきったところに課固なりの詩があったようである︒

﹁ 穀

Lを愛し﹁殻﹂を破る態志の主張と︑かかる﹁分身﹂

との器開的な対話劇との聞には︑坊ち離せない関孫がある

ように見える︒のち︿戦後)に伊東静援が︑

ii

iこの苧の中のともしびは

自問にたいしそれっきりの:

︿

n

3

と自身を振り巡った感慨に嘘はなかったようである︒﹁撲

はすすんで︑その錯乱とも告虐ともいえる逓迫した自己意

識を持情の糧となしたのだ︒危機湘意識の内題裂が︑内臨ゆ

︿

Hの原理となしたのである︒し

たがって︿うた﹀が﹄虚構である分だけ︑皮肉だが必黙的に

Lの核を蔑ろにする鹿の集間性を内部に盛り込んだ

のも事実で︑結果的に︑意識の牙城たるべき﹁個﹂の輪郭

を反って暖味にする道

ii

zぞれとそまさに︿うた﹀なるも

のの本来の明縛力(共向性﹀に椙違ないが

li

zを辿ったの

は議輔なことで毒る︒保田ら﹁コギト﹂派の方法が︑いか

にも小林秀雄などのそれと一線を縦断するゆえんと晃ていい︒

ほどなく保田が﹁伝統Lと苦い﹁日本﹂という言葉全日に

したとき︑したがって彼の悪感とは他所のところで︑それ

らはキッチュな響きを苧まずζはいなかった︒近代の﹁持

鵠﹂が︑それ本業﹁個﹂の表出を額分としていながら︑ど

こかで虚叢な︑しかし確実な倍音をつくり出したとのよう

な務を︑調然と見るか必狭山と兇るかは男いる規矩による︒

i﹂が初めから内側に手応え

を求めようとする︿うた﹀の復構にある限り︑その(人鱒

おんじようではないが)動乱調ともいうべきパセティックな音声は︑

動乱以外ではない詩代H

危験なのは彼等の文学ではなく︑文学の方法││あるい

はそれ以上にコ側﹂を聾追した社会システムの総体に島つ

9‑

(10)

わが死せむ英しき日のために

連嶺の夢想よ!汝が自撃を

消さずあれ

患ぐるしい稀薄のこれの噴野に

ひと知れぬ泉をすぎ

非時の木の実熱るる

離れたる場しょを過ぎ

われの播播く花のしるし

なきがち近づく日のむが擁骸を曳かむ馬

この道擦はい若なひ還さむ

あ﹀かくてわが永久の婦郷を

高貴なる汝が白泰光見送り

木の実照り泉はわら叫

v i ‑ ‑

わが痛き夢よこの時ぞ遂に

休らはむもの!

︿

4

十車年戦争下にあり︑自前に日中戦争奪迎えようという

時勢に︑このような邦地滑は危険きわまりないものであった︒

と同時に︑全く無縁のものであった︒むしろ切の現実

(環境)が無視されたところに︑死を夢みる伊東の視畿が

轍いている︒あらがっているのは彼だろうが︑そこで拒絶

しているの誌現実時現在のガだろうか︑彼の方ではないの

か︒現実時現在拡否定されるべき世界としてそこに︿あ

る﹀のではなく︑ただ不問にふされているだけではないの

か︒ここにうたわれているのは天選願望のようなものだが︑

その願盟の強さとそ天逝の不可能さの方に起因するゆえん

を考慮してみるといい︒H来るはずである日々︿来来

) H

への予感は︑あくまでHあったはずである日々︿過去

) H

mりとりとめのない思いの中に育まれており︑結局HHは不問のままなのだ︒だから﹁英しい死いを夢想する前方

への摸綜は︑ぞれとは反対の別の力に閉まれて︑侍かにあ

らがっているような身体感覚

i l

つまり手応え

i l

させている︒いかにも紛らむしい顔つきを見せながら︑危

険な手応えを醸し出しているのである︒その点︑萩原朔太

郎が伊東の﹃わがひとに輿ふる哀歌恥︿昭

m ‑ m

刊)をと

おして﹁リリシズムの純一一精神を心に持して︑あらゆる現

実的世相の地下から︑おを破りぬいて出る強い変貌の歪力

持﹂の存荘を克とめ︑これに﹁傷ついた浪畏派の持情いを嘆ぎつ川町どのは︑逆説を合診て的を射ている︒まさ

ι

﹁ 歪

力いすることによって初めて苧に入れた﹁持樟﹂なのだ︒

いわば﹁持構﹂という言葉のみが喚起する観念そのものの

(11)

在りかに肉薄して行くような││そんな過度な透過性を自

体の輪郭とするところに﹃わがひとに興ふる哀歌﹄(以下

﹃哀歌﹄とする)の持情はあったのだ︒その純潔性や孤独

感︑あるいは息苦しい美しさなども︑すべては当の持情の

性格に基づく︑肉体性の欠如に起因しているようである︒

そういう意味では︑﹁四季﹂派で﹁コギト﹂派の立原道

造の詩などにも通うものがあり︑立原がしきりに﹁人工﹂

という﹁方法﹂を言い︑みずからを﹁中間者﹂の位相に置

こうとしたことも︑その多分に美しすぎる過透明な世界が

悉くHHの自然を背景に紡ぎ出されたところを知れば︑

造作なく理解できよう︒二人の詩に通い合う素地は︑例え

ばもう一人のごったびとHである中原中也とはまた違った

意味で︑やはり︑この時代の児ならではの︑詩想の昏迷の

方にあったと言わねばならない︒だからこそまた二人は︑

﹁詩索﹂それ自体を持情の一回性に仮構することもできた︒

伊東の﹃哀歌﹄が︑自体不可避のモチーフとして﹁天逝﹂

を引き寄せたように︑本来彼等の持情H方法には︑成熟し

円熟して行くような性格は見出しにくいのである︒詩索H

方法がおのずから規制する持情の提として︑仮に円熟する

とすれば﹁言葉﹂だけではなかったか︒でなければ詩索H

方法そのものを捨てるしかない︒

︿うた﹀の危機のゆえに︿うた﹀うことのできた彼等が︑ 皮肉にも新たに直面しなければならなかったのは︑そういう危機H現実であった︒︿うた﹀うことが反って︿うた﹀自体を危機に晒すという二重の逆理ーーとりわけ伊東静雄の持情にとって︑立原のように人生を詩(天逝)の中に封印できなかったことは︑何ごとかでなければなるまい︒戦況の拡大に伴う危機と︑詩の内部に兆した危機とが︑同時に押し寄せてくる︒日中戦争を境に書かれた第二詩集﹃夏花﹄(昭和問・3刊)には︑そうした﹁詩索﹂するぎりぎ

りの伊東の境位が刻みつけられることとなった︒

今歳水無月のなどかくは美しき︒

軒端を見れば息吹のごとく

萌えいでにける釣しのぶ︒

忍ぶべき昔はなくて

何をか吾の嘆きであらむ︒

六月の夜と昼のあはひに

万象のこれは自ら光る明るさの時刻︒

遂ひ逢はざりし人の面影

あふひ一茎の葵の花の前に立て︒

す晶ち・う︿b堪へがたければわれ空に投げうっ水中花︒

金魚の影もそこに閃きつ︒

すべてのものは吾にむかひて

(12)

わが水無丹のなどかくはうつくしき

︿

L昭は・

8)

あらがいが一つの蕗和点に達したところで︑﹁表現﹂に

未だ危険な輝きが失せぬとすれば︑﹁題

L H

Lの崩壊

の形式にも等しい︑その磨き抜かれた古語の幻惑を苦うし

3替のいそぎ﹄と戦争詩

子供もあと十日もすれば退院の筈です︒罵鹿のことに

頭っかつてゐる内に︑何だか詩の書き方も忘れました︒

応れたといふより外部が大きくすぎつつあると去った

鉱持であります︒哀歓が私だけの義教になりつつある

不安もあります︒第一に衷軟に私は犠みました︒倦む

というより︑黙すべきだとも考へてをちます︒そんな

ことを日に幾十度となく︑くりかへして考へ︑果たし

て註然として︑合歓や︑アカシヤの対生葉のゆらぎな

ど眺めてをります︒私は入聞の没落の過種が少しわか

ったやうに思ひます︒たゾぞれに隣酔はしまいと思っ

てぬます︒私は今様強い不安の中に麗ります︒

付諮問勉宛欝簡)6

ω

刊行後まもなく伊東静援を襲った

現実である︒・自己意識を一向刃の危機に仕立て︑意味ありげ

に自閉し吃立して来た詩魂の懐を聞いてみると︑すでに応

答すべきものの姿はなく︑ただぽつねんと外部作に嬉してい

る己れの生理的な成熟(討老い)だけが輪部をもっている︑

ということではないだろうかり子供のことや斑先の鼠殻の

方が今の自分にとってリアルだという感性の震き方は︑こ

れ以後の伊東の決定的な指針となるはずのものであった︒

花 げ 自 著つにと け 花 む り と れ も ば

J ¥  

実 み 題 審

; こ く 浅 に い き た と 雑 る ち 草 花 さ の

の き

い 名

か をにし、

せ へむ と

R

ちちは知らぢり

(13)

悲しゃ

わが子よしろ花の さなりこは

熊い花とぞいふ

そをききて点頭ける

をさなきものの

あはれなるこころ足らひは

しろばなきいばな

ははのぬる脚のガヘ

︿

Mm

5

)

見ればわかるように︑︿わが内なる半身﹀の苦痛や可憐

やは︑悉く現実世界の﹁小さきもの﹂に愚敏し転生してい

る︒彼自身の生理的な成熟が世界観の尺度となっているた

めに︑時間︿来語)奪基軸に簡いた人生民生活の僻轍療が

掛かれるわけど︒ぞれが持人の新機地を恭すか凡裕ル仰を証

すかは知らない︒ただ︑彼にとっては余稼﹁戦争持﹂らし

く君臨していたはずの金持歌﹄風の詩禦︿イロニ

i)

解き放たれたのだけは護かで︑その点︑大東軍戦争を昌前 にしたこの頃︑かくもあっけなく日常の陥弗に捕まってしまったこの詩人の柑溜に︑時の懇戯悲感じないわけにはいかない︒というのも︑これまで議機意識としてむしろ拒絶していた外部世界が︑戦争という現実を伴って︑ゃにわに不可避のものと化したからである︒

ただある壮大なものが徐かに頬いてゐるのであった

(

と︑みずから予感せずにはいなかったように︑伊東静雄に

とって︑その年(昭十六年)の十ニ丹八日とは︑既に識で

られたはずの︿うた﹀を︑外なる世界に初めて見出す︑恰

好の日付となったのである︒

13‑

昭和十六年十二月八日

持といふ自であったらう

渚しさのおもひ極まり

宮城を遥拝すれば

われら

!

︿

1)

(14)

こういう情操に︑いわ診る捜乗者風の持入の技時は全く

無縁のものであった︒と同時に︑一鍛庶畏大衆の感性にき

わどく蔽似していなければならなかった︒コ替のいそぎb

(

9刊)の﹁自捗﹂に言う﹁草蔭のかの欝屈と題望

の袈情が︑かとたび大詔を拝し皇箪の雄叫びをきいてあち

はった海開第進の岡山は︑自分は自分流にわが子になりとも

揺り伝へたかったいの患いを訪換とさせるだけに︑手応え

は現実のものである︒あるいは︑

などいのち惜しからむ

ただこのかさの

ひらかずば

いかなりしいくさの状ぞと

間はすらむ神のみまへの

わがかへり護 畏しや

︿﹁つはもおの析﹂昭臼・

4)

︿

隊の)写真をみれば︑うっし偽悼の襟身をり訣せ︑ぬかづけ

り︒いくおの場知らぬ我ながら︑感迫りきていかで議へん

や︒乃ち︑勇士らがこころになりてLという調書まで添え られておわノ︑見た自以上に鵠物でない戦争詩の昂揚が刻みつけられることとなった︒﹁瞬野の歌﹂︿﹃哀歌

h )

のよ

うな美佑された観念のつけ入る隙のないところに︑危機の

実惑が島り︑蔀独な観念の揺らめきが読みとれる︒その点︑

伊東の戦争詩には︑哀詩愛唱の通俗輩歌に等券大の悶畏感

情が素朴にもられていたともいえ︑就中︑それらの出切らで

以下のような詩作が併行していた事実こそ重複されなくて

はなるまい︒

十 汝 支 わ 新 識 を が 棄 を 伴 ふ に 経 ひ る し

た,t d

り ふ と 見 来 に す

れ ペiま か

な わ 童1

つ が さ べ ま か 儲 び は し さ 婚 す は き し で 荏 や 山 て き

い る 汝 な と ふ め が

と管

名 の 歳 三 夏 走

5草 り

は の 出 過 選 る ぎ 往 苦 怠

て く 子ι

の に の な 後 ち れ れ に と て

(15)

ただ老の患に似たり

︿﹁なれとわれ﹂昭仔

‑ m w )

こういう一種濯命愛的な可憐な痩きを告括するのが﹃春

のいそぎ﹄の境位だとすれば︑その中に秘められた︽危換

ii

つまり︑楠谷秀

昭がこの詩集について苦う﹁たんに個人的なものから︑民

族の鴻い体験の核にまでその数手をとどかせるような普遍

的な意味をになっL た﹁自覚﹂}のもたらす︑まさか先祖

がえり的な矩絡というわけにはいくまい︒それは﹁戦争束期

の生活者伊東静雄の生舎の摂理の自覚でもあったい︿問)

はずであり︑この点を違えぬかぎり︑彼の戦争詩は︑三好

連治のものなどよりは多分に高村光太郎に近い必然を担っ

伊東にとって︑その詩的観念が崩壊したときに戦争詩を

容れる葉地が築かれたように︑高村の戦争詩推移の背景に

は知態子夫人との実生活上の破局(昭

7 3誌に亙る知恵子

の狂気と苑)が用撤されていた︒あるいは外界を短縮する

内的に吃立した精神の棲家として︑高村の内的な緯であり

対象である知恵子夫人は︑伊東における﹁わがひと﹂

i l

﹁私の放浪する半身愛される人﹂(﹁晴れた日に﹂

)i

ーと似た設相にあったと蓄えなくはない︒当黙︑両者にと って私的な︑ぞれゆえに個別的な転生の仕方ではあるが︑転生の行方

(H

戦争詩﹀が︑﹁日本の恒常民衆の独特な

残悲感覚と︑やさしい美意識との共穿﹂(吉本降明バ

を許さなかったことだけ誌︑とりあえず纏認してお悲たい

ように思う︒拶東の被虐﹁愛憐いは︑高村の超越﹁倫理﹂で

あり︑共にこの渚命づけられた誕立の拠点

1

亦 ヨ 3

i

パ的なる﹄日本そのもの﹂(構谷(っと細川縁ではいられな

かっただけなのだ︒とりわけ高村の場合︑夫人との最小の

生活彊だぜが︿日本近代﹀という関刃の愛増から自己を解

き放つ唯一の牙城だっただけ仁︑身に襲いかかった生活の

破局は︑時局柄ほとんど生物本能的にこの列島の破局││

﹁ヨーロッパ的なるものLの劣等アジアへの事盟主義的侵

iーーというぬきさしならぬ破局の様躍をつくり出すこと

‑15‑

大地のブロック縦横にかさなり

断層数知れず

絶えずうどき

絶えず麓ひ

都会誌たちまち灰婚となり

海はふくれて梅噛となる︒

決してゆるさぬ天然の気塊は

(16)

ここに佳・むものをたたき上げ

危険は自常の糠となり

死はむしろ隣人である︒

︿﹁地理の書﹂昭

m ‑ 6

伊東の書いた戦争持などはものの数ではない

9ともに

﹁ファナティックなパトリオチイズムとも︑時局捜乗の精

神とも無線﹂(桶谷(﹁)で・ありながら︑かくも臆然とした

て知恵子夫人との錨人的な生活の軌道のうえにえがいた

万回然﹄法的な理念を︑高村なりに時代の大衆的な動きの

方向に社会免しようとこころみ︹およ︑その﹁社会色﹂意

識の格差から来ていよう︒以務官側村は︑太平洋戦争終結期

に至るまで︑文字通りこの﹁必死のとき﹂を﹁日常の糟L

として戦争詩を欝き続けた︒戦争への没競は﹁他の詩人た

ちとは比較にならぬほど吋自分の真実性hにおいてなされ ていた﹂︿大関守

v

ぞれは︑もう一入の旗手である一一一好達治の戦争詩などと

比べてみても︑格段の桔違がある︒すでに吉本睦暁によっ

て批判し尽くされた観があるので言及を控えるが︑例えば

大罷倍がそこに指摘するコ一一好の戦争詩は多く五七調の荘

重なスタイルをもち︑突飛な連懇かも知れないが︑設がそ れらを書きながら︑告らを万葉時拾の長歌作者たちにおこうとしていたのではないかと︑ふと思わせられるような措辞と息づかいを吊してい

d v L

という車免さえも︑

ことは必ずしもその﹁完全な先槌かえりの語法と形式﹂

(士口本町ぺ}による﹁万葉集時代の長歌作者たちの位置﹂

云々に留まるもので誌なく︑むしろ﹁長歌﹂というなら︑

その菌克歌112天子の盟国ーーーまがいの﹁長歌作者たちの

校簡﹂に難なく富己を滑り込ませてしまう︑その一一一好のノ

ンシャランスこそが問題なのだ母

草葬の毘の⁝帥

懸らはかねておもへや

かくばかりいくさに勝ちて

冬まだきけふのこの日の

この朝の野ペにたたんと

さぎりたっこの間原を

開夫利嶺のかのしら哲一を

かくありてふりさけ児んと

あ か お け お ろ し て か め も ち た し は ま ら ふ ぬ 軍;世

掠 手 の

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ゃ を

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