南方熊楠と柳田国男
神社会祀問題をめぐって
七 ︑ 法 矧
芳 賀 直 哉
﹁猫一疋の力に憑って大富となりし人の話﹂掲載誌問題に端を発した柳田との確執と並行して︑この時期の熊楠の最
大関心事が近野村にのこる近露・野中の二王子の神林保存であったことは既に述べた︒十月二十六日夜と日付のある柳
田宛書簡の末尾で︑熊楠は﹁予は何とかしてこの二社の全林を残さんことを望むなり︒﹂と保存にたいする強い願望を
表明している︒月が変わり十一月六日に書かれた手紙では︑この近野村二王子社神林伐採の件はうまい具合にいきそう
な見通しを報告したのだが︑そのわずか一週間後の十二日になるとにわかに風雲急をつげるようになる︒
先に︑近野村諸王子合祀を推進した神職武田弁次なる者に関する熊楠の寸評を紹介したが︑十二日付書簡では村会議
員四名の風評にふれ︑こう記す︒
﹁かの村は人悪しきことおびただしく︑村会議員四人屈強にして最初新設の社の費用のため ︵中略︶数社を滅却伐木
し︑千円ばかりに売り用いあり︒ 中略 つまり故蹟保存とか何とかそんなことに少しも意なく︑ただただ新社
設備という名の下に伐木して︑多少私懐を肥やし︑もしくはこれまで伐木運動に使いたる金の幾分を快復せんとの意
③
に 有
之 候
︒ ﹂
右の﹁明治四十四年十一月十二日夜認十三日朝出﹂と記された状には︑事が切迫している様子がありありと出ている︒
柳田に対しても︑当時史蹟名勝天然記念物保存協会の評議員であった白井や戸川残花さらに井上神社局長らに働きかけ
を依頼し︑熊楠自身も白井に近野村二王子社保存についての要請文を出した旨報告している︒また︑神社保存のための
基本財産﹁五千円﹂に関し︑内務省︵神社局長︶ にその当否を聞いてくれるよう柳田に頼んでいる︒書面にただようの
は熊楠のあせりである︒それまで近野村一件は順調に保存の方向にきていたのが︑ここへきて急転回した様子が次の熊
楠のことばからもうかがえる︒
﹁従来いずれの抗議も有力なりしに︑今回に限り︑戸川︑白井二氏の力瘡を添えられたるさえあるに︑仕負け候ては
③ 実に小生一連の力も落ち申す理窟ゆえ︑何分宜しく頼み上ぐるに候︒﹂
依頼をうけた柳田は十五日に簡単な返事を書いているが︑そこでは﹁五千円﹂云々は内務省の意思ではない旨を伝え
るのみで︑詳細はいずれ白井より連絡があるだろうと返答を留保した言い方で結んでいる︒
熊楠のあせりの色は濃い︒﹃二書﹄刊行後の小閑はどこへやら︑二王子社滅却問題はいよいよ待ったなしの事態で保存
運動も手詰り状態︒誰でも﹁やけ酒をあおり﹂︑﹁日夜慎悩﹂したくもなろうというもの︒そんな状態だから︑﹁エコロジー
④ 等の論も委しきことは当分でき﹂そうもない︒
右に引用したように︑この十二日付の熊楠の手紙で﹁エコロジー﹂なる語が使われているが柳田宛書簡ではこれが二
回目のことである︒
次便十一月十六日夜に書かれた手紙は八つ当たり気味の愚痴もまじって︑熊楠の意気鈴沈ぶりは気の毒な程である︒
この書簡はまた︑かれとかれの息子の﹁剃髪﹂を報告する有名な箇所を含むので︑抄出しておく︒
﹁小生赤子連日病気の上︑小生も脚気ごとき病気になり気絶するような気持のこと有之︑命に替えられぬから神林等
のことに関することを当分止め申し候︒−中略−東京の保勝会よりの声援だに今少しく強く候わば事成り申すべ
きに︑返す返すも惜しきことにて︑当国民が保勝会も徳川侯も倶れ虞るるに足らずという観念を抱くに至りては︑到
底小生らの微力の耐うるところにあらずと存じ申され候︒︵中略︶小生は右述ごとく妻子もまた小生も病気になり候上︑
関係すること能わず中止致し候︒白井先生等へ御言いわけのため︑二十六年ぶりに昨夜頭を丸め︑全く剃り落とし︑
芸当はとても師友の土宜法竜に及ばぬから南方法矧と号し︑︵中略︶惇五歳になるものも剃頭させ法僻と法号せしめ︑
閉門して一切世事を謝し︑新聞紙を見ず︑塵外の思いをなしおり申し候︒ごただし傍点筆者︶
右引用文中に﹁昨夜頭を丸め⁝⁝﹂とあるとおり︑前日十五日の日記には﹁夜毛利氏を訪︑それより小倉屋にビール
飲︑福路町にて頭そり﹂との記載がみえる︒息子熊弥の剃頭について日記には何も書かれてはいないが︑十五日夜か翌
日には親子ともども丸坊主になったのだろう︒柳田の眼には﹁突飛な行動﹂と映った熊楠らの剃頭だが︑熊楠自身はこ
れを﹁白井先生等への御言いわけ﹂のためだと言うのだが少し疑わしい︒と言うのも︑せっかく神林保存のために助力
をしてくれたにもかかわらず近野村二王子の件は事がうまくはこぼずまさに伐採されんとしている︒お詫びのしるしと して頭を丸めて閉門蟄居いたしますと言うには︑じつさいの生活ぶりは変わってはいないからである︒さすがに十七日
から数日間は飲まなかったようだが︑それでもほとんど毎日出歩いていておよそ﹁閉門﹂には程遠い︒そもそも当時の
田辺あたりでは大のおとなでもツルツルに頭を剃っていた者がさほど珍しくなかったにちがいないのだから︵事実友人
の石友も坊主頭だ︶︑これは柳田が思ったほどには﹁奇抜で驚くべきこと﹂ではないのだろう︒後年︵戦後︶︑柳田は熊
楠を回想した短文を三つ書いているが︑そのうち二つでこの時の﹁剃頭﹂を印象深く語っている︒しかも別の或る事件
五四
﹁神社合祀の政策の励行せられた頃︑先生は極力之を非難し︑此1は英米の学者に微を飛ばして連名の抗議をさせよ
ぅと︑在京の諸友に言って来られたのを︑白井光太郎教授が真に受けて大いに立腹せられ︑そんな心掛けの人とはも
ぅ附合ひはせぬと︑可なり激しい手紙を送られたさうで︑あの大豪傑がそれを見て忽ち心折れ︑おれは一生の間御国
の光を世に掲げるために︑全力を傾けて居た男であるのに︑今このような言の心待ちがひから︑同志のさげすみを
受けたのは口惜しいことだった︒盛んなる者も終には衰へる︒もう是で我世も下り阪だろうなどと︑しをらしいこと
を細々と書いて其終りに︑絶交とあるからは君から白井氏にさう伝へてくれ︒南方は是を発心の因縁として︑頭を円
ママめて無上道に帰入し︑其名も法解と呼んでもらふことにする︒又法師の児は法師になるぞよきといふ故事もあるから︑
件も同様に名を法矧と附けたなどと︑さも戯れ言のやうに報じて来られたのだったが︑あまりに奇抜な行ひだつた為
に︑人はこの心境を解することが出来なかったのである︒﹂︵昭和二十五年﹃近代日本の教養人﹄所収の﹁南方熊楠﹂︒
後に﹃さゝやかなる昔﹄に再収︶
この中で柳田は二つの思いちがいをしている︒四十年も前のことで無理もないことだが︑ひとつは﹁法解﹂と﹁法矧﹂
を取りちがえていること︒二つめは︑剃髪の原因が外国人に撤文を送ろうとしたことに白井が怒り絶交を宣せられたこ
とにあったと柳田は解している点で︑この誤解は二十六年﹃展望﹄に載せた一文でもくり返される︒
﹁白井さんの所へきた手紙には︑︵中略︶世界中の学者に手紙を出して︑日本の政府にプロテストさせるといふ様なこ
とが書いてあった︒それで︑白井さんも怒って南方さんへ絶交状を送ってゐる︒この事件について私の所へ二通手紙
がきてゐるがそれが面白いのです︒始めのには︑外国人を利用するのは︑策略のことだから︑そんなに絶交されるな
どとは心外であるとかいてあり︑二番目のには︑白井さんには︑どうか是非あやまってほしい︒その為に︑自分と子
供とは剃髪するからと書いてよこしてゐます︒そして本当に剃髪してゐます︒﹂︵﹁南方熊楠先生﹂︑後にこれも﹃さ〜
や か
な る
昔 ﹄
に
所 収
︶
右に引用した回想文にも書簡内容の後先という記憶ちがいはあるが︑それを言いたてても仕方ない︒問題なのは︑柳
田の﹁思いちがい﹂がその後のさまざまの熊楠伝にそのままもち込まれているという点であるが︑それを﹁あげつらう﹂
ことが小論の目的ではない︒最晩年の柳田の﹁勘ちがい﹂は単に記憶の誤まりにすぎない︒いやむしろ﹁思いちがい﹂
を起こしやすい事情が︑熊楠父子の剃髪事件にはあったと言うべきだろう︒それはどういう事情か︒熊楠が﹁頭を丸め
た﹂と報じたのは十一月十六日の手紙であった︒その三日後の十九日にかれは和歌山県知事川村竹治宛に一通の手紙を
書く︒これは結局のところ知事の手に渡らなかったのだが︑そのなかに﹁外国の学者に撒文を発して云々﹂といった内
容が盛り込まれていたし︑同じ日に白井に宛てて同趣旨のことを書いたにちがいない︒このことに怒って白井から絶交
状が届いたのは事実である︒今日︑白井宛書簡も白井からの手紙もともに失われているため︑具体的な文面はわからな
いが︑知事宛書簡の内容から推測はできる︒つまり︑この時期︑あいだに三日をはさんで柳田の記憶に鮮明に残るよう
な二つの事件があったのである︒この二つを因と栗に結びつけさせてしまったのは︑四十年の歳月なのかも知れない︒
その当時の柳田は﹁剃髪﹂報告に次のように反応を返している︵十一月十九日付の手紙︶︒
﹁小生はどうしても野中一件にあれより以上の助力をなすを得ず︒1−中略
ことに今回の事件のごときは︑前後の状況を察するに︑失礼ながら貴下は低値としてある政治問題︵しかも微小なる︶
に利用せられ給うなり︒あったらの神の杜も︑かかる騒擾の中に捲き込まれては生くべきものも生きず︑⁝⁝︵中略︶︒
口惜しまざれに入道し給うほどの我執ありてこそ︑これまでの御学問もできたことながら︑願わくは立ちもどり自然
研究者の冷静なる観察点に立ち給うべく候︒無邪気なる法解法師の新発意姿こそゆかしく候え︒﹂︵傍点いずれも筆者︶
子供のクリクリ坊主頭は可愛いが︑熊楠のは﹁口惜しまざれ﹂だと感想を述べているのである︒﹁戯れ言﹂だの﹁口惜
しまざれ﹂だのと言えば熊楠に少し酷な感じがするが︑大真面目ではあってもどこか深刻さのないところが熊楠の取り
柄で︑﹁剃髪﹂も熊楠らしいと言えばいえる︒
ところで︑白井を激昂させ柳田に反感をもたれた熊楠の計画の具体的内容はなんだったのだろうか︒それを推測させ
⑪ る川村知事宛の手紙を要約してみよう︒
野中王子︑近露王子の神林は今日本宮街道︵中辺路︶ にただ二つのみ残る史蹟の名林であり︑本邦希有の老大杉のほ
かこぶしその他の古木が多く︑千百年来斧斤が入らなかったこれらの神林は諸草木相互の関係が密接で︑近年いわれる
ところの﹁エコロギー﹂研究の好適地である︒
ところが無知私欲の輩が伐採の既得権を口実にして貴重な神林を一部であれ伐採することは︑内外の学者にとっても
又史蹟存保のためにも大変惜しまれることである︒そこで自分は白井博士に頼んで井上神社局長にも事情を話し事の是
非を聞いてもらったところ︑同局長は ﹃神林を切ってそれを売却した金で神社基本金とすることは絶対にあってはなら
ぬ﹄ という返事であった︒ところが︑本県の神職取締である紀俊氏は ﹃神社と神林は全く別のもので神社を存続させる
基本金をつくるために神林を伐ることは問題ない﹄ と言っているそうである︒このように︑政府の方針が下部まで徹底
されず村の役人や神職が自分達に都合いいように解釈し貯計をめぐらすことが絶えない︒
田辺の闘鶏神社社司が行なった実例などは︑以前差し上げた ﹃南方二書﹄ にも紹介したので見てほしい︒
神社合祀が濫行されるようになって︑白が発見し図録してきた諸生物が日に日に絶滅していき︑せっかく何年も精密
な検究を続けてきたのにこのように研究対象が全滅してしまっては ﹁九仰の功を一筆に欠く﹂ ことになって︑長年の苦
労も水泡に帰す恐れがある︒
学問は一人の私事ではない︒自分一人の損失はすなわち学者全ての損失である︒我国の損は他国の得にな︒︑こちら
の隙はあちらが乗ずる機となるから︑これらのこと︵神社合祀による神林の滅却のこと︶は外国に向けては一切語って
いない︒しかし今︑﹁世界学術開進の上より見て︑本県神社合祀と︑これに償い行なわるる古蹟︑古物︑名勝︑神林の破
壊霞は︑尋常ならざる罪悪事なる由を経述し︑欧州著名の人士に質し︑その連署して一篇の告文をわが政府へ遣られ
んことを求めんとす︒おりから昨朝︑英国ロンドン大学前総長フレデリック・ヴィクト〜・ジキンスの書翰に接し︑氏
ヽヽ ヽ 1 1 1
︑
︑
︑
は必ずこのことを斡旋さるべきを確知せるによ︒︑早速件の文を草し︑発送致すべく思い立ち候︒﹂
自分が二年前に神社合祀反対を唱え始めたとき︑どうして知事にそのことを訴えないのかと責めた人がいた︒また同
じ誇りをうけないように︑安江稲城氏に頼み︑本書状と新聞切抜き二枚をお送︒申し上げる次第である︒ジキンス氏に
送る陳状書は︑後日発送するさいには写し一通を進呈するつも︒である︒︵ただし要約文中傍点は筆者︒また︑カギ括弧
のなかは熊楠自身の原文︑二重カギ括弧は発言者のことばの内容要約である︒︶
右要約文後半のカギ括弧で示した部分からわかるように︑能稿はジキンスに頼んで抗議署名を集めてもらいそれを日
本国政府に送︒つけて圧力をかけてもらうことを計画していたのである︒これは実現しなかったが︑計画を知らされた
白井が﹁国辱ものだ﹂と噴慨し︑そんな不遜な者とは以後絶交とあいなったのだろう︒熊楠は﹃二書﹄刊行の頃よ昌
井とも文通をはじめていて︑近野村二王子社神林保存問題では賓に手紙のや︒と︒をしていることが日記の受発信記
録からわかる︒とくに十一月は︑柳田との間の頻度と同じくらいの割になっている︒先の川村知事宛の手紙を書いた十
九日には︑白井に宛てても熊楠は手紙を出しているので︑恐らくこの便で抗議計画を知らせたと思われる︒そして白井
五七
よりの﹁絶交宣告文﹂は二十五日に熊楠の許に届いた︒この日以降少時は受発信記録に白井の名前はない︒白井の名が
再び載るのは十二月十七日の受信欄である︒また︑熊楠の十一月二十八日午前二時と日付時刻のある柳田宛書簡には︑
﹁白井博士はまことに一徹な人と存ぜられ候︒小生に対し︑文通を謝絶せられたり︒﹂とあるから︑右の推定は確かであ
る︒ 外国への撒文送付計画に対する白井の反応は﹁文通謝絶﹂であったが︑肝腎の柳田はどうだったのか︒熊楠は微文送
付について柳田には直接なにも知らせなかったので︑柳田は白井から熊楠の十九日付の書簡を見せてもらい︑次のよう
なやはり激しい調子で熊楠の﹁軽挙妄動﹂をなじる返事をしたためている︒これも抄出する︒
﹁白井氏の手より貴下の手紙をうけとり拝見す︒今後運動の方法明煩に二派にわかるものとすれば︑小生は申すまで
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
もなく白井氏に加担す︒日本のこともわからず貴下の手紙一本にて直ちに運動をするような紅毛どもに声援をたのみ︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
今後わが邦のクルツスの問題に容曝せしむることなどは小生も大きらいなり︒− 中略
野心多き毛利氏以下の人々と連合し︑これを政治問題にしてしまい︑しかも公然の悪罵漫罵をもって大小の吏員の
非を鳴らさるる故︑その間には感情の複雑なる葛藤を生じ︑︵中略︶誰しも自分の立場を保持するの窮策としていよい
︑
︑
︑
︑
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︑
︑
︑ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
よその非を遂ぐるなり︒思うに熊野の天然は︑貴下のごとく志美にして策の拙なる豪傑の御蔭にて︑これからもなお
大いに荒廃することならん︒外国学者のプロテストが効を奏するは︑欧州のごとく国は分かれて社会は一箇なる間柄
に限るべく︑日本にとってはただ国際上の外聞わるきのみにて爪の垢ほどの効もなかるべし︒しかし︑小生かかすレ
︑
︑
︑ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
も熊野一地のために声援せしにあらず︒
ヽ ヽ ヽ
べ く 候 ︒
中略
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
一国の問題としては︑やがて多少の功を収めて御目にかけ申す
全体外国の学者など︑他国の領土に生存する生物につきて何の要求権ありや︒これを保存すると否とは全くわれわ
れの勝手なり︒− 中略1神社局長はかの後もあの問題につき心配し︑新聞記者に対し特に自分の意向を明言して
おるなり︒しかし︑一々それを利用して県郡の命令を峻拒するの風を生じては︑地方は一日も安泰なること能わず︒
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1
︑
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拙者が和歌山県におりても︑あのような乱暴な反対運動に対しては必ず一旦は抑圧を加え申すべし︒− 中略
今後といえども貴下の御本心だけには同情を表し申すべく︑方法は皆だめだと評したく候︒﹂ ︵但し︑傍点は筆者︶
二十三日付のこの手紙が熊楠の許に届いたのが二十六日︒﹁紅毛どもに声援をたのむ﹂ことなど大嫌いだとか︑毛利に
利用されたの︑反対活動の方法が丸でダメだなど︑腹のなかに積もりにつもっていた欝憤や批判を柳田は全部吐きだし
ている︒いやそればかりか︑自分なりの方法で﹁多少の功を収めて御目にかけ﹂てみせますと見栄まではり︑わるのり
してか︑あなたみたいな稚拙な豪傑の御蔭で神林はますます荒廃するでしょうと皮肉をも付け加えている︒
この言いたい放題の柳田書簡に対し︑熊楠はなぜか即日に返事を書かず︑二十八日深夜になってしたため始めている︒
先ず︑前から問い合わせの諸点について逐次ていねいな返答を記し︑後半部で二十六日着の手紙にふれ柳田の感想にひ
とつひとつ応えている︒熊楠は﹁近野村の神林は今に伐られず︒﹂と現況を知らせ︑柳田の反感をかった政治運動のこと
に関してはこう反論する︒すなわち︑世間のことがらは全て政治家の左右するところになってしまっており︑純粋に学
問的な議論ではひとは動かないものだ︒当地の神社や神林が少しは存続しているのも私に毛利らのような味方がついて
いたからである︒字間のみで事がはこべば自分はこんなに時間や金を使うことはなかったはずである︒
外国学者達の助力をかりることは自分としても面白くはない︒神社そのものをどうこう言うのではなく︑神林の樹木
や植物の保存のための要請なのだから︑外人が日本に対してものを言ってもよいではないか︒清水港の土堤破壊を守っ
た例もあると聞いている︒しかしそうは言っても︑いよいよ止むを得ず外国人に陳情文を出すのは決心がいる︒妻子と
離縁し累がかれらに及ばないようにしてからと考え少し蹟躇している︒
白井博士に対して何か言い訳めいたことはしないが︑誓って同氏に迷惑のかかるようなことはしない︒手紙を出した
いが絶交を宣せられている以上︑出せばお追従になるからひかえているところだ︒そんな訳でこれ以上保勝会に助力を
頼むこともできず︑あなたのお説のとおり︑合祀は早晩中止となっても当地の神林濫伐は今以上にますます行われるだ
ろう︒自分も父母を捨て長く海外に留学した罰で︑生涯故国に尻をおちつけられぬ運勢なのだろう︒だからこのあたり
で身辺を整理し再び外国へ傭われに行きたく思う︒父子ともども剃髪したのは﹁おどけて﹂したのではなく︑断固とし
て志をもってやったことである︒
このように反論はしているものの︑さしもの熊楠も白井や柳田から見限られ反対運動も成果があがらない状態に嫌気
もさしてか︑全体にトーンは低い︒
八 ︑ 転 期
剃頭事件にはじまって﹁謝絶﹂へと至る経緯を右にみたが︑この時期熊楠はいっときの挫折感をあじわう︒十一月中
旬から白井との関係が修復される十二月下旬まで︑熊楠の︵柳田のほか毛利や古田宛︶書簡には端々に無力感すら漂っ
ている︒もちろん熊楠らしい勇ましい﹁空元気﹂もみえるのだが⁝⁝︒
親子そろって頭を丸め閉門蟄居を宣した十一月十六日の手紙には未だ﹁勇ましさ﹂は残っている︒
﹁当県今度の川村知事は前の河上氏よりも一切神社のことに無頓着で︑神林の伐らるるもの日に相つぎ︑巡査を派し
て神殿を破らするとか村吏などの往着きわまるも制止せず︒この1小生かかることにかかり合いし候ては︑また入牢
するか︑あるいは人の二︑三人斬り殺すような珍事なしとも限られず︑よって命が惜しいから中止仕り候︒﹂︵傍点筆
者︶ ﹁二︑三人斬り殺す﹂とはぶっそうな言種だが︑反対運動を中止する理由は立腹して何をしでかすかわからないから
だといいたいのである︒しかし次第にこの種の元気さが失われ︑皮肉をこめた自虐的な表現がみえてくる︒十二月一日
付の柳田宛書簡では︑これまで熊楠が保存のために努力してきた方々の山林神林が保安林指定解除となり︑ダム建設な
どで破壊されていく様子を悲しげに記している︒さらに︑毛利の知事との面談に筆を移し︑その席で知事が﹃県下のこ
とを東京の人々に告げ頼んでその勢力であれこれ威圧しょうとするのは不都合だ﹄と語った旨報じ︑こう続けている︒
﹁とにかく狭量なる人で︑妙なところに意地強き人と見え申し候︒小生も果てしもなくかかることに苦労するもつま
らず︑よっていよいよ県下の新聞を見ぬこととし︑参禅でも致し︑荷物を片つけ︑妻子をあずけ︑どこぞへ自分は去
⑯ ることにかかり申すべく候︒﹂
﹁狭量なる﹂新任知事川村竹治は熊楠にとって心象すこぶる悪い︒別のところでも熊楠はこの知事を評して﹁雅量の
なき人﹂で﹁人の説にばかり随うておりては自分の貫目は下がる﹂と考える人物だと言っており︑﹁学術上のことを自分
の貫目云々によってかれこれせんとするは︑まことにへんな所存﹂だと批判している︒
﹁荷物を片づけ参禅﹂の方はもちろん実行されはしなかったが︑法矧と私号してより発心でもしたかこの頃しきりに
経典を読み写したり︑﹁無常﹂を歎息したりしている︒例えば︑
﹁﹃曾我物語﹄に︑討人前十郎か五郎の詞に︑人生まれて三国で果つるということ有之︑小生は和歌山で生まれ諸国流
浪︑またどこで死ぬるか知れず︑三国どころか三十国ぐらいで果つるなり︒
故郷は旅寝の夢に見えもせず︑訪はぬを恨む人もなくして ﹂
﹁小生も長々か〜ることにか〜づらひ居るもつまらず︑因て合祀反対を徹回し︑荷物かたづけ田辺を去んかと存居候︒
中略 −︑到底此上労するも益無き事かと悲観罷在候︒﹂
﹁小生は貴説のごとくこれを止むを得ぬこととあきらめ︑
一切皆帰滅 無有常安者 須弥及海水
劫尽亦消掲 世間諸豪強 会必還衰朽
万世不動と崇められたる神さえ無常を免れず︒いわんや吾輩法螺父子ごとき者︑どんな説が通らぬとも世間を歩み得
ぬほどの恥辱にあらずと悟道し︑合祀反対の旗はこれ限り引き下ろし申し候︒﹂
熊楠のこういう意気鈴沈ぶりを柳田は﹁しをらしい﹂と回想したのだろうか︒たしかに白井や柳田の大反感は熊楠に
は予想外のことで︑﹁やる気﹂を萎えさせてしまうほど強烈であったが︑それでいっぺんに厭世的になったとは考えにく
い︒かれの日記の記事はいつも即事的で︑心情や感想の表明はほとんどないのだが︑この時期の記載内容からは﹁無常﹂
も﹁悲観﹂もうかがえない︒かれはいつものとおり街へ出かけ︑友人知人と酒を飲んでいる︒ここには書簡のなかで時
折弱気をみせる熊楠の姿はない︒しかし︑わたしたちはもう一度十二月一日付の柳田宛書簡に戻ろう︒
先に﹁皮肉をこめた自虐的な表現﹂ということを述べたが︑それは例えば柳田が﹃あなたのように策の稚拙な豪傑の
御蔭で熊野の自然は大いに荒廃するでしょうよ﹄と皮肉をいったことに対し︑熊楠は﹃﹁二書﹂刊行以降他府県では次第
に神林保存が成ったのに︑和歌山では遂に神林滅却が進んでしまった﹄と自虐的な皮肉をこめて﹁あてこすり﹂をして
いるようなところを指している︒これを﹁あてこすり﹂ととるのが﹁深読み﹂なら︑熊楠の絶望はあまりにも深いこと
になる︒かれは﹁荷物を片づけて外国へ傭われに行く﹂とも語るが︑その荷物からして収集物や手稿類その他大量で︑
ちっとやそっとで片づく訳もない︒その上︑自ら言うように﹁無双の悪筆﹂で他人は容易に読めず︑更に﹁諸国雑多の
語字稚探したれば﹂これもたやすく理解できるものでもない︒そこで熊楠いわく︑﹁他人には目方のみ重き反古同前なり﹂
と︒熊楠が時折みせるこのような幾分すねた自虐的な面を︑﹁子供っぽい﹂と片づけてしまってよいかどうか迷う︒大言
壮語し意気軒昂な熊楠︑誇張し潤色して得意げに語る熊楠も大いにおもしろいけれど︑他面弱気な姿をみせるかれも大
変なつかしく感じられる︒
前にも述べたが︑熊楠はこだわりが強い︒柳田はそれを﹁我執﹂ とみた︒十日付の手紙で ﹁無常﹂ をうたい合祀反対 の旗はおろすと語った熊楠だが︑﹃二書﹄ の前半部を﹃山岳﹄ にて読んだ﹁奇特な人﹂が同意をかれにあらわし貴族院議
員ら有力者にはかつて議案を提出させてみようと言ってきた︑あるいはその他県内にも熊楠と同意見の人が多くいろい
ろ相談されるなどと︑柳田に報じるのである︒しかし︑こう報告しながらも︑﹁もうひと頑張り﹂の気は起きなかったよ
うで次のように続けている︒
﹁小生は右の事情にて大いに力も衰え︑長々の苦労でくたびれたから︑集衆の材料を同志の人に譲与し︑自分は引退
⑳ 致し候︒故に今後は県下にて合祀反対の大将は毛利氏にて︑︵中略︶ 相変わらず議論をつづくることと存じ候︒﹂
ところで︑白井との関係はどのように回復されたのだろうか︒﹁文通を謝絶﹂ された当初は︑﹁小生は身みずから白井
博士を何一つ犯せるにあらず︑ただ小生の方法が博士の気に入らぬという差別のみなり︒されば︑小生に文通は断たる
るとも︑今後も願わくは当国の神社︑神林を見捨てなく︑一力処なりとも保存の立つよう御尽力下さるるよう︑貴下を
⑭ 経て願い上げ置くところに御座候︒﹂などと自ら衿侍を捨てることなく柳田に書き送っている︒しかし日が経つにつれて
自侍の念も弱くなり詫びを入れるような気弱な言い回わしがでてくる︒十日付の柳田宛書簡の冒頭で熊楠は︑白井に直
接釈明と謝罪の手紙を出したいが受けとっても読んでくれないだろうから︑柳田から自分の本意を伝えてほしいと前書
きして︑外国学者に依頼しょうとしたことの釈明を述べ︑末尾で次のように謝罪の気持を書く︒
﹁小生合祀反対の意見は徹回せぬが︑真正面に立って攻難することは止め︑またいわんや外人などにかかることの助
言頼むことは全く止め候あいだ︑恥ありてかつ格る者と御懸笑の上︑白井博士においても怒りて移さず旧悪を懐わざ
るの情をもって︑小生心得違い万々御海宥下さるよう︑折をもって御取り持ち下されたく候︒けだし小生別に氏に対
し破廉恥︑人非人の言行を仕向けたるにあらず︑孤立勢い極まりて狂奔せんとせしなれば︑氏もその辺は十分察恕さ
⑳
るることと存じ上げ奉り候︒﹂ ︵傍点筆者︶
外国へ微文を発して連署をもって神林破壊に抗議させようと考えたのは︑自分の﹁心得違い﹂で恥かしいと思ってい
る︒重々反省しているのでどうかお宥し願いたいと︑こう態楠は言うのである︒
実さい外国への微文は発送されなかった︒その理由は能稿自身の都合であり白井や柳田の激しい反発である︒そのあ
たりの経緯についてもかれは明かしている︒
﹁小生外人に神社一件頼むことは︑昨今寒気のため思うように手動かず︑筆を操ること心に任せず︑かれこれ延引中
いろいろ考うるに︑到底自分の一分をいささか立つるというような卑劣なことにて︑実際分厘の功もなく︑心得違い
が起こると飛んでもなき誤釈を引き出し︑存じの外なることを仕出かすかも知れず︑︵中略︶今日たとい長文を送った
ところが十分の同情を得ることはむつかしく︑︵中略︶よってジキンスへ申しやることは断然止め申し候︒﹂
そもそも海外の学者に訴えて日本政府へ抗議文を連名で送ってもらおうとしたこと自体︑思いつき的なものであった
のではないだろうか︒なるほど熊楠自身も明かしているように︑かれ自身が合祀反対活動に関わってゆく過程で英米の
学者がかれに外国で苦情を出すよう薦めたことはあったのだろうし︑日本人のなかにも﹁血判もてすすめ来たりしもの﹂
がいたらしい︒かれ自身はこれらの要請を聞き流していたが︑ここにきて例の知県が白井や戸川らの抗議書に不機嫌と
なり︑このような行動は県政を撃肘するものと依情地になった︒丁度そんな時に旧知のジキンスより手紙が来たので︑
ここはひとつジキンスに頼んで⁝⁝と思案したのではなかろうか︒川村知事宛に書簡をしたためたのが十一月十九日で
あったが︑その前日十八日に熊楠はジキンスからの手紙をうけとっている︒
他方︑知事宛書簡じたいも︑それを託された安江稲城︵この人は当時県会議員で和歌山新報の社主であった︶の配慮
からか弟常楠の世知によるのか︑兎に角知事に届けられなかった︒そのあたりの事情も熊楠は書いている︒
﹁この人︵安江︶只今県会書記長にてそんな暇なく︑家弟常楠なる者ヒ至って懇意なれば︑家弟思慮あるものゆえ︑
︑
︐ こ こ 二
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
⑳
わざと見合わさせおりしかと思わる︒そのまま握り潰しにしありし由にて︑その書は小生手許へ戻り来たりあり︒﹂︵傍
点 及
括 弧
は 筆
者 ︶
この時は常楠の﹁思慮﹂が幸いした︒結局︑撒文も書かれず知事宛書簡も出されずの顛末であった︒このような事情
を明かして熊楠は再び白井に詫言をそえる︒
﹁右様のことゆえ小生過ちを知りてみずから改めたる由︑貴下何とぞ白井博士に御通知︑小生心得違いの段御謝し下
⑳
さ れ
た く
候 ︒
﹂
十二月十日午前二時に書き始められた柳田宛書簡は特異である︒全篇これ全面降服︑全文すなわち謝罪文というべき
手紙である︒力なくおのれの秋をうたう熊楠の姿は痛ましくすらある︒
﹁那智の伐木禁止︑神島︑保安林に編入︑東西牟婁郡に残りし神社若干︵合祀請願書に調印し許可を得ながら小生尽
力にて合祀せざりしもの︶︑いよいよ月次幣烏を受くることとなりし︒これらが少々ながら微力の届きしなり︒エスソ
ニアの﹃カレビペグ﹄と申す長物語に︑前後不顧の勇士︑ずいぶん思うままにふるまいしに︑川を渡るとて刀を落と
し誤ってその一足を別る︑それより万事不運で終わるところあり︒小生も近野村一条まではずいぶんうまくやったが︑
近野一条がすなわち川に落とせる刀なりし︒この一事に敗亡せば小生のみかは保勝会の鼎重を田舎村夫に知らるるわ
六五
けと︑ことに力を入れ過ぎて反って同意の人士の機嫌を損ねしは是非もなきことながら︑花千日の紅なく︑人百日の
⑳
幸いなし︑﹃人生不如意なるもの十のうち常に八︑九なり﹄︑浩歎のはかなし︒﹂
右の引用文からわかるとおり︑熊楠は自らの不運を落とした刀で自分の足を切ってしまう英雄の悲運になぞらえてい
る︒近野村の一件に力を入れすぎてそれが命とりになったが︑それも無常の定めであると詠じるのである︒この落胆ぶ
りはやはり尋常ではない︒いくら白井たちから反感をかったといっても︑それだけのことで ﹁花千日の紅なく⁝⁝﹂ の
無常観の域に住してしまうものなのかどうか︒十日の柳田宛書簡を書いたときの熊楠の心境は︑あれほどに執着した近
野村王子社神林がとうとう伐採されはじめたことが大きく作用したと思う︒覚悟していたこととはいえ︑実さい現実に
神林域内に作業員が入り伐木しはじめたとの報に接して安閑としていられるものではなかろう︒熊楠はまさに我が身を
伐られる想いでその知らせを読んだ︒十二月九日の日記には︑七日に近野村の有志が﹁牟婁新報社﹂宛に出した葉書の
文面が記録されている︒そのまま日記に書き留めたのには特別の想いがあったにちがいない︒
﹁近野村野中王子神社々木︵一方杉︶愈々伐採に着手す︒十二月五日田辺上屋敷町︵監獄署前︶熊谷丑之助氏は︑木
挽及机共十二名を雇入れ来り︑直様近野村山本村長及垣内広市立合の上︑番号木数で引渡しを受け︑直ちに伐採に着
⑳
手 し
た り
︒ −
− −
以 下
略
−
﹂
右の報は十日付の手紙のなかでも短く柳田に知らせている︒さて︑この十日付柳田宛書簡を柳田が読んだのが二十日
である︒なぜ間があいたのか詳細は不明であるが︑柳田は﹁家人不注意のため﹂と詫びている︒二十日になって眼をと
おした柳田は﹁しをらしい﹂熊楠の姿に同情してか次のように慰め執なしている︒
﹁白井君にはきっそく申し遣わし申すべく︑もちろん貴下の御志に対しては誰とても寸分の批を打ち候者は無之︑た
だ方法に関する意見の相違ゆえ︑御中止なされ候ことすでに過分に候︒また︑たとい今後先頭に立ちて力戦し給うこ
となくとも︑この問題宜っきてはいつまでも商山四時として大なる効果を間接に収め給うを得べく︑かつまたこれま
でさして注意せざりし国中の篤志者から御論に激励せられて奮起するに至らば︑一隅に失い給うところのものは優に
償い得べく候︒ただ返す返す非凡の天分をもちて生まれ給いし貴下が小告の徒に翻弄せられ給うようのことありて︑
そのために本然の仕事に邪ま出来候ては口惜しき限りにつき︑その点のみは御用心下されたく候︒﹂
このように︑熊楠の過激なる振舞いを起因として生じた白井・柳田の立腹は︑熊楠の方から詫を入れておさまること
になった︒実は︑白井との文通は柳田が右の返事を書いた二十日より以前︑すなわち十二月十七日に白井の熊楠宛書簡
が届いてより再開されはじめていた︒これに応えて熊楠は二十日に返事を︑白井は二十三日頃に再び返事をそれぞれ書
いている︒文通再開後のこれら双方の手紙の内容は︑白井宛書簡が失われていて不明であるが︑熊楠は先に引用したよ
うな﹁謝罪のことば﹂を述べたほか大山神社保存の方法についても依頼をしたようで︑十二月三十日付の古田幸吉宛の
手紙に﹁白井博士よりは︑小生に訴訟を起すべしとのこと勧められ﹂ ︵傍点筆者︶との文句がみえる︒白井が保存のた
めに訴訟を勧めたことが事実だとすれば︑それも熊楠の微文送付におとらず相当に過激な提案というべきだろう︒白井
の人物像について三口しておこう︒熊楠に絶交を宣し同時に自分宛の書簡類の一部を柳田を経て熊楠に送り返すことま
でした白井を︑熊楠は﹁一徹な人﹂と評し︑柳田は﹁寡黙の人なれども内部火のごとき感情の人にて︑先年ドイツにて
父君の計をきき発狂せられしことあり﹂と描写している︒とにかく直情径行型の人物だったようだ︒熊楠より四歳年長︑
熊楠と交渉をもちはじめたときには東京帝国大学農学部教授であった︒柳田も予め﹁御通信の折は御手加減なし下され
たく﹂と熊楠に注意してあったのだが︑そんな器用な芸当のできるはずもなく終に衝突してしまったのである︒白井の
性格はともかくも﹁文通謝絶事件﹂ の経緯はこれぐらいにしておこう︒
ところで︑手紙のなかで﹁反対の旗を下ろす﹂とか﹁引退﹂して﹁海外へ傭われに行く﹂などと気弱げに語った熊楠
だが︑野中王子の神林がいざ伐られたとなると腹の虫がおさまらなかったのか三日この件を報告するのである︒
﹁野中の王子は︵中略︶一部分の杉︑槍三十本ほど切らすこととなり︑すでに柚十人ばかりかかり切り始め候ところ︑
仙一人樹より落ち大負傷︑またこれを指揮せし村長の惇十二︑三歳のもの肺病となりおる由︒例の一字仏頂輪王の呪
がききたるものと存じ申され候︒しかし︑人をのろえば穴二つで︑拙方も妻腸を悪くやみ出し小事絶えず︒小生もた
⑯ めに不快にて︑何ごとをもなし得ず︑茫然としており候︒﹂
以前も指摘したが︑熊楠はよくせき﹁神罰﹂ の話題が好きである︒もっとも今回は﹁仏罰﹂ のほうで︑しかも先方ば
かりか当方までも罰はおよんだものとみえる︒右の十二月十四日付の手紙は︑先の十日付書簡と比べ︑いくらか様相が
異なっている︒たしかに合祀反対の活動は止めにすると再三ここでも表明するが︑それは︑これまで一定の成果があが
り︑今回の近野村の一件も伐採権を村民が持ち一部伐採のほかは保存となった結果は﹁まずは九分まで小生持論の通り
しなれば﹂︑この辺が潮時だとのニュアンスで述べられる︒全体に意気鈴沈していた十日の筆致が嘘のようである︒外
国へ日本の恥を晒すものだと反発をかった例の件についても︑今回は釈明弁明のためにではなく正当化する目的で再び
ふれられる︒自分よりはるかに過激できわどい説︵これは新渡戸がカリフォルニア移民に対し︑米国より万事に劣る日
本国などに戻りたいなどと考えず︑米国市民となってゆくゆくはそのなかから大統領がでるよう努力せよと演説したこ
とを指す︶を公言する者もいる︒また︑﹃日本及日本人﹄はロシア語に訳され外国人に読まれているが︑この雑誌に日本
国を批判する文章が載るのは恥を海外に晒すことにならないのだろうか︒こういった例をもち出して熊楠は︑結局自分
の計画も将来はどうということもないふつうの行動だと多くの人は思うようになるだろうと予測するのである︒やはり
熊楠はこだわりが強い︒
しかしながら︑近野村二王子社の神林保存をめぐる顛末が熊楠に或る種の踏ん切りをつけさせたことは確かだと思う︒
つまり︑これ以後かれは公言した通り反対活動の前面から身を引くことになるのである︒合祀推進のうねりが︑全国的
にはすでにピークを過ぎつつあったものの︑和歌山県ではまだ続いていたにもかかわらずにである︒柳田との往復書簡
には︑大山神社を唯一の例外として合祀問題に関する話題はほとんどでなくなる︒これにともない︑書簡の往復は次第
に間遠くなってゆき︑やりとりされる内容は民俗学上の質疑応答が主で︑一回の書簡に書かれる分量︵字数︶も特に熊
楠のは以前に比して明らかに少なくなってゆく︒
四十五年五月二日付の柳田宛書簡に熊楠はこう記す︒
﹁小生は近ごろ合祀一条は全く放棄し︑顕微鏡学にのみかかりおり﹂と︒
①
﹃ 南 方 熊 楠 全 集 8
﹄
︵ 平 凡 社
︑ 一 九 七 二 年
︶ 二 二 九 頁
︒
② 南 方 熊 楠 選 集 別 巻
﹃ 柳 田 国 男 ・ 南 方 熊 楠 往 復 書 簡
﹄ ︵ 平 凡 社 ︑ 一 九 八 五 年 ︶ 二
〇 三 頁 ︒
③ ・
④ 同 ︑ 二 〇 四 貢
︒
⑤ 同 ︑ 二 〇 七 貢
︒
⑥
﹃ 南 方 熊 楠 日 記 4
﹄
︵ 八 坂 書 房 ︑ 一 九 八 九 年 ︶ 九 六 頁 ︒
⑦ ﹃さゝやかなる昔﹄は﹃定本柳田国男集第二十三巻﹄︵筑摩書房︶に収録︒但し︑ここでは﹃南方熊楠︑人と思想﹄
︵ 飯 倉 照 平 編
︑ 平 凡 社
︑ 一 九 七 四 年
︶ 二 〇 二 − 二 〇 三 頁
︒
⑧ 同 ︑
﹃ 南 方 熊 楠 ︑ 人 と 思 想
﹄ 二 四 一 頁
︒
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