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「世界像」の脱構築と言語ゲーム論 : 記憶の合成 や融合の結び目という幻想

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著者 久部 和彦

雑誌名 静岡大学国際連携推進機構紀要

巻 3

ページ 63‑78

発行年 2021‑03‑12

出版者 静岡大学国際連携推進機構

URL http://doi.org/10.14945/00028194

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「世界像」の脱構築と言語ゲーム論

―記憶の合成や融合の結び目という幻想―

久 部 和 彦

【要 旨】

本稿では、括弧付の「世界像」や「背景知」、即ち、誰かによって(恐らく専門家である が)言葉で語られたこれらの「ストックや束の保存イメージ」を示唆する集約的な観念(ア イデア)について論じ、同時に、もし何らかの波及や教育により多数の日常言語の担い手 がこうした観念を掘り下げる習性(言語への意識化)を有した場合、言語マインドの形成 にはどのような影響や変化が想定しうるかという問題についても論じる。議論は、「理論化」

という選択肢を取らず、観念の「言語ゲームの様相」を記述し「示す」ことにのみに注力 する。言語の観念の形成史とその意識化や格納箱を省察するフレームには「基底」や「理 論」はないという論じ方であり、このマインド自体が、観念の理解地図を「脱構築した事 後風景」であるとも言える。ヴィトゲンシュタイン的な「展望(Ubersehen)」(見廻し、示 す)という手法は、(実際の順序年代は逆であるが)デリダ流の「脱構築」の「後に」来る のである。

【キーワード】 世界像、背景知、融合と集約化と束の観念、言語ゲーム論、脱構築

1.はじめに

自然言語の研究者が脱理論化を進め、「展望(Ubersehen)」を手法化する学風が1950年 代後半以降J.L.オースティン(1)やG・ライル(2)をはじめとする日常言語学派に広がったこ とは周知の事実である。その後もこの手法や視点は特にイギリスでは今日まで広く教育や 研究の場にも浸透し、「見廻し」と「比較」、「記述の束」や「類似性」の探求、「生活形式」

と「着地点を演繹できない展開性」をもつ「言語ゲーム論」の省察などから、理論を挟ま ず「見る思考」を「基底」に据えて世界を記述し見廻すことをこの影響を受けた人々は「実 践」し、終点として掲げている。ライルやストローソン(3)の背後には、後期のヴィトゲン シュタイン( 4 )の言語ゲーム一元論( 5 )ともいうべき「展望(見廻し)の言語透視」という

「鏡」が控えている。言語の研究知とは「研究し理論化で何かが得られ、説明が整合的にで きるもの」などではなく、「実践して何かを活かし悟るもの」であり、諸記述が堆積知と混 ざる言語ゲームの行き交いを「(よく)見て」行う実践の「中に」現れる。このことは、詰 まるところ、説明できなかった理論の山を脱構築する営みでもなく、むしろその根元にあ る言語領域での統計を拾う理論化というアプリケーション自体を脱構築してしまっている ので「ある」。本稿ではこうした研究視座から「世界像」や「背景知」など「知力立案に関 わる集約と起点の観念」がどのように論じうるのかということ自体を問題としていく。ま た、論じるという「実践的点検」(日常の言語ゲームの見廻し)の中に、言葉の整理や知育 における影響の問題を含め、言語の知的構成力の深奥に「基底」的なイメージとして「あ

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る」とされる「集約的・融合的・複合的」な「像」や「知」の「アイデア(観念)」につい て、こうした「研究者や教育者の言語ゲーム装置」自体を脱構築できるか否かを含め論じ ていく。

2.「世界像」の観念を脱構築する:説明の変幻と流転を含む土壌自体の「展望」

脱構築とは、毎回そのアプリケーションの度に呼び覚まされる知的な説明方式の「上書 き行為」という側面をもつが、同時に、ひとつの思想とも言われることがある。脱構築と いう思想そのものもまた常に脱構築され、常に新しい説明や意味を構築していく。そのよ うな「脱構築」という語の用法の変幻を進んで活かす態度自体も脱構築(6)であるとも言え る。

ところで、「像」や「知」などの観念の説明については、言語研究や哲学研究の領域にお いて、それが何かという問いに対しての無数とも言える理論化や説明をしてきた歴史があ る。指示対象が眼前にある場合、その呼び名の機能を託されたテキスト文字と対象の指示 機能(リンケージ)は容易に成立する。こうした場合は、生活の「動作」や「選択」の場 面と一体的に理解されるため、さしたる問題は生起しない。ところが、抽象的な集約や合 成が施された観念は、多くの場合、指し示す指示対象が個物としてはなく、また、あった としても内在的な要素により構成される合成物や、複合的な心像の合成像などと述べられ たりするため、指示対象とテキスト文字との等式が「消されて」はじめて理解が成り立つ という概念がほとんどである。「呼び名」ではなく「観念」として認識するというような言 語ゲームと言ってもよい。「世界像」や「背景知」だけでなく、「多様性」や「国際性」など の語も指示対象が不定であり、変幻自在に、指示対象なしのまま、使用されているのが実 態であろう。こうした語を本稿では便宜上「観念系の語」と呼ぶことにする。「観念」とい う概念の説明も100通りあるというぐらい多くある。言語学史や哲学史を読み返すと説明 の山があり、どれが「観念」という語の答えかは「ひとつ」ではない。にもかかわらず、

厄介な問題は、ナローなパスを微妙に言い換えながら、この「表象」や「観念」を語る専 門家の言語ゲームが長らくその曖昧さを脱構築しようとしなかった点にある。語る側の弊 害が長引き、こうした観念系の語への意識化は言語の教育というステージからも遠のいた。

観念系の語への意識的な教育を仮に捨てた場合、その後には懐疑論や概念のフロート(漂 流現象)と不一致の多発する言語ゲームが残ることになるのであろうか。実は、そのよう に「バラバラ」にはならないという見方もある。例えば「表象」という語は「知覚」によ り取り込んだ映像が記憶にストアされ呼び出されるようなイメージとして「大方は」理解 している。この「中間地点の確保」があれば、十分であるというわけである。あるいは、

かえってそこで留まるほうが形而上学的教育に寄り過ぎず、むしろ適切であるというスタ ンスもある。表象には、知覚表象や記憶表象、その複合と発展を通した想像表象など、保 有後に変幻するところまで外延が延びると一般には説明されている。この説明とは、誰に よってされているのか? 勿論、多くは専門家たちによってなのである。ただ、その後に 一般教育ステージにこうした語の使用が降りて来るというのではない。むしろ、先に、一 般の言語ゲームに散見されていたからこそ、専門家が乗り出したのである。「表象」という 語の使用の具体的なイメージとしては、例えば、熊の縫いぐるみを入手し、毎日見ていた

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あと、出張に出て、そこで思い出された縫いぐるみの映像などである。その記憶から手繰 られた像の思い出しは「表象」である。しかしながら「表象」という語の使用と意味につ いての「見解」や「訳語」の選択という部分では、これまでもやはり専門家が介在してき た。デカルトは「 idees 」としたが、現代のフランスの言語学や哲学では英語と同様に

「representation」が主流になっている。ドイツではカント以来「vorstellung」が主流であ る。「世界像(Weltbild)」も「表象」も、語の意味は指示対象によらず「語る起点の力」と して観念的に捉えられている。こうした語は「そのまま」にしておけばよいのか、あるい は、よく吟味させて教育したほうがよいのであろうか、と言葉の教育現場が問いかけた場 合、専門家はどう答えるのであろうか。

今のところ対処法については材料が少ないので、取り扱いについては停滞したままであ る。

3.言葉の指導のウィングを観念系の語に広げるのは有害か

これまで言語の知的構成力の源泉になる結び目のイメージとして語られがちな集約され 融合と複合により織り合わされたプロダクトとしての「像」や「知」という「アイデア(観 念)」の存在について触れたが、こうした専門家や教育現場が観念系の言葉の教育にもウィ ングを広げ、誘導的になり、省察的な観念への言及などが増えた場合、観念の付与の幅自 体を「有害」として「外す方向」で進めろという反対意見も出る可能性がある。仮に、メ タ言語力は自然言語交換の日常言語ゲームに任せ、言語の反省的次元での教育は、踏み込 みを控えめにすることが是とされたとしてみよう。その場合、反省的な思考力(メタ的次 元の知育)の開発や維持が成り立たないということに「なる」のであろうか。身近な例を 考えてみると、大学の総合型選抜を含めて小論文や思考力を問う意識はこのことと表裏一 体ではないが無関係でもないかもしれない。私の見方では、論理的な言語の運び方をマス ターし、それを示せる能力は、集約的で融合的な「〜像」や混合を経て形成される「〜知」

といった観念の学習が無くとも、十分可能であると思われる。代入される項に指示対象と してクリアな個物ばかりを求めてロジックを教えた場合でも、抽象的な思考力が発展しな いとも思われない。目には見えないものは「無い」のではなく「ある」と教えることも問 題ないが、観念の説明力自体を教えなくとも、思考力の教育は後退しない。例えば、集約 的な概念はすべてイコールに集約されたと言われる観念ではないのである、などというこ とを、わざわざ、切り取って述べることは、言葉の教育の現場に組み込まれていなくても 論理的な訓練にはさほど問題はないと思われるのである。「家具」は指示対象とはなるが、

個物ではない。「鏡台」や「箪笥」や「テーブル」の集約名称が「家具」であるが、家具と いう個物はないのである、というところまでで、十分であろう。「家具がある」という言語 の発話は個物ではないが「何らかの指し示される指示対象」を持つことが理解できるとこ ろまででよいのではないのか。「悲しみ」や「喜び」の唯一のイデア(モデル)はないかも しれないが、「〜の悲しみ」や「〜の喜び」は「指示対象(代理対象)」や「意味」を欠か ずに「言語ゲームの遡上に乗っている」ということを、「泣いている人」を指し示すことに より理解させうると思う。問題になるのは、「世界像」のような「呼び名」ではない観念が、

「指し示す(指示)対象」はないが「心像」としてあるというような「観念」を「ある」と

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するような指導なのである。言語表現法なのか、それとも存在を言い立てるのかというよ うな見方の省察視座にきちんと整理が行き届いていれば、それを駆使する研究者や指導者 がいても混乱や問題はなく論理的な知育は可能であると思われるのである。

4.世界像への言及で起こるストーミング

世界像とは何か?という「問い」を行うことは「一般人の言語ゲームの文脈」(注)には なく、世界像とは何かという「素直な(素朴な)疑問」を深めるには言語の研究者たちの コミュニティ(研究言語ゲームの集団)を覗くことになりがちである。この言葉を聞いて、

多くの人々が直感的に感じることは、「世界像」の「像」とは、「見たこと(見た像)をその まま足し算した集合(a collection of each picture)」とはおよそ想定していないということ ではないだろうか。世界像と「言っている」時の「像」という言葉は、シンボライズ(世 界像という〈呼び名:記号〉)であり、像のイメージのような集約的凝縮感から発している ということを表現しているだけなのではないのか。そうであれば、これは、複合的な集約 合成作業から「導き出された意識」への言及であり、「表象」ではないのである。そのこと は、いわゆる「1つの〈こと〉の写像」ではないということでもある。勿論、何もない「タ ブラ・サーラ(白紙)」とも思われないのは当然であろう。では、合成された「新規」の

「合成像」が心に浮かんでいるのであろうか。やはり、それでもないと思われる。とすれ ば、「像(picture)」というのは「言葉上の例え方(唯名的な用法)」であり、世界像と言え るような感じ方を述べる「堆積経験を集約したマインド」、あるいは、「単なる言語表現法」

であるということなのであろうか。まずは、こうして、書き出してみると、「世界像とは〜

である」と言う人がいても、実は、その人の発話は、相対的な意味しか持たず、言語を反 省的に捉える次元の経験者(学習機会や意識付けがあった人)や何らかの言語の仕事に携 わる人々(法律家・教育者・言語学者)でさえ、「指示対象(reference)」を簡単には「明 示」することが出来ない言語表現なのである。

5.生活の形式の「中での」言語ゲームによる習得か、言葉の教育の守備範囲の拡張か ここで、我々の言語ゲームの実感という観点を検討してみたい。指示対象を有する語は 名前や呼び名として生活の形式の中で、行動の合理性を獲得するための「適応」のゲーム であり、観念に囲まれた用法の多い語は、行動の「後の」省察や認識の確認のよる心持ち や視座形成(マインド形成)に関わる言語ゲームである。我々の言語ゲームではこの繰り 返しの波の中で心と言葉の「調和感覚」を見出すというのが実態であろう。人間の「物理 的充足感」のための指示対象に絡む言語領域が一方であり、対照的に、観念に絡む言語領 域は、人間の「精神的充足感」のための「調整剤」として他方にある。この割合への調節 感覚や利用制限の配分意識というようなものはなく、我々は自由意志により、どちらにも ウェートを置きながら言語ゲームの海に生きる。特に、この「観念系の語」への意識シフ トのほうは、厄介でありながら無視できない「必要悪」のような位置をもつ。人間の心と 言葉による生活形式には、この「目に見えない非個物の存在感」が「知性」や「信仰」と いう活動とのバランスを操作する「結び目」になっている。こうした「観念系の語」が入 り込まなければ、人は活々と語れなくなるので「ある」。心や言葉のバランス操作に観念系

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の語を取り込み、こうした観念が実在するかのように信じて行動することにより「生き甲 斐」や「語り甲斐」を生むのである。この「繋ぎ目」が言語生活のベースを占めていると いうのが私のこれまでの感じ方であり、これがある限り、おいそれとは「観念」や「表象」

あるいは「心」といった目に見えない「思念系」の言語表示活動を制限することは人間の 精神的な破壊にも繋がりかねないと考えている。また、本音では、観念系の言語を教育現 場に降ろしても「うわべ」の確認演習に留まり、「情念や思念を巻き込んだ生の使用」は、

やはり「生活形式の言語ゲーム」の中以外では身につかないと感じるのである。「心からの 真剣な語り」の言語ゲームは、生の現場でしかありえず、教育の演習の場では、立ち現れ ない。観念的な語の利用に意識が振れることは、人間である以上、程度の差こそあれ、誰 でも避けられないが、これを平準的に教育するというのは「カテゴリーミステイク」(7)なの である。放置し自然に任せ私としては観念系の語の教育レールはなくてよいと思う。

6.言語教育というのは、簡単ではない

今更ではあるが、言語教育というのは、簡単ではない。各国語学へ広がる関心や需要の 多くは、いつも、生活や行動面の不便さやバリアを改善するための範囲に留まる。指示対 象が明確な言葉の操作の段階さえクリアすれば可能性が広がるという意識はかなり普遍化 しているように見える。その先まで、すなわち観念や抽象的な概念の操作性のレベルまで 言葉を学べるように「すべき」か「する気があるか」は非常に怪しい。自国語を越える操 作性を手に入れた途端、その語学が今度は「第一言語」になりうる。第一言語というのは、

母語でなくてもありうる。またそれでもよいのである。母語=第一言語と勝手に思われて いるフシがあるのではないのだろうか。言語は自然と生活の形式の「中で」マスターされ る。取り込みの段階での無差別的な吸収部分と、それらを反省的次元で「噛み砕きながら」

訓練調整する部分との「双方の組み合わせによって」育つのが言語である。「問い」は「好 奇心」や「脱構築」の導線であるが、いつも「問うてばかり」ではいられないのである。

脱構築しない時間も人間の言語生活形式の一部なので「ある」。教育現場は言葉については 何をどの程度すればよいのであろうか。観念のゾーンまでを守備範囲とするか。あるいは、

そこは生の日常生活の言語ゲームの独断場か。言葉の自然習得ではない部分(言葉の教育 の部分)に何を期待するかは、考え方の整理(論理)や「知識」の拡張、「技術」や「科学」

の理解度の向上などがあればよい。観念系の語への教育的な言語投下は「本音のぶつかり 合う演習」にまではならないであろう。今後考え始めて然るべき言語教育空間のソフト部 分の設計問題が、この辺の事情を考慮せずに決められたならば、言葉の教育従事者たちは、

困惑するであろう。彼らは遅まきながらその問題の深層に気付きその適否や立案に赴く是 非を「事後に」論じなければならなくなる。「論じる土壌」が、先ずは「先に」要るのでは あるまいか。本稿が役目を果たす余地はここにある。引き続き教育による言葉の浸透につ いて、その外延と内包の脱構築を視野に入れた新たな脱構築の営みを「提示」していきた い。そこで今度は以下の適応と省察の反復から細部を見ていくこととする。

7. 「適応」と「省察」:人間の「心」と「行為」のバランスを操作する「観念系の語の意義」

観念系の語の問題に戻ろう。「表象」(8)は「取り込んだ後の呼び覚ましや浮かびの想起像」

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のことを言う場合が多い。ひとつの語で「集約的に」何かを述べようとするときに「表象」

という観念ワードが「呼ばれ」観念的な語が散らばるのであるが、この語は、専門家の解 説の世界を超えて一般の日常言語のやり取りにも知的なインパクトを与える語として今や 広がりを得ている。ジャーナリストなどにも「観念系の語」は既に相当広がっている。「利 用が広がった観念系の語」の現状理解に欠かせないのは、この広がりの「習得の先」の問 題である。日常言語の言語類型の使用割合に「観念系ワード」が増加した。この傾向性が 示す先にある推察は、「心の貧困への察知とその克服のマインド」などの波動である。込み 入った観念への言及頻度が増えているのは、言語の壁を持ち込む「志向(嗜好)の気まぐ れ」などではなく、社会意識の「形成の歪み」から繋がる「心の立ち枯れ」が引き起こし たものであるとの推察をする者もいる。こうした意見に対して、日常言語の言語ゲームは ある意味「おのずと整えられる」という予感をヴィトゲンシュタインは織り込んでいる(9) その意味では、ヒュームの荒涼とした大地というよりは、アダム・スミスの「見えざる手

(hidden hand)」の妙技に似たものが「ある」という「期待の啓示」が示唆されているの である。理論化という視座の編み方を超越する「展望」という作法を呼び出したヴィトゲ ンシュタインであるからこその「洞察力」と言うべきか。脱構築をやり遂げてからしか見 えない景色を「既に」知っている気配が漂う指摘である。つまりこういうことである。「心 配無用!」なのである。「我々は皆、自然言語のゲームの海で揉まれておのずと観念系の語 に託す精神的カタルシスや言語と心のバランスを〈掴み取る!〉のであり、教育の真似事 では真剣な叫びの言語ゲームは立ち現れないのである」(10)。完全な形では書かれていなく ともヴィトゲンシュタインの弟子たちは「伝えて」いる。本人が生きていたら、観念系の 語の存在意義の講義で、人間がバランスをとるための「怪我の功名」の役割を、おそらく 意識させたであろう。

8.言語ゲーム一元論か、あるいは、言語の外から超越論的に言語について学べるのか 自然の日常生活での言語ゲームにより、教育という意識化された演習的言語ゲームでは ない自然の流れの中で、観念系の語も、指示対象を有する語も、皆、その真剣なゲームの 習得の場である「言語の海」(11)で、必要とされ、学ばれていく「営み」が「ある」。自然の 言語ゲームの舞台には「見えざる手」が働き、「観念系の語」の使用や観念の効用も人間の 言語と心と行動のバランスに不可欠であることが「織り合わされている」。振り子は調節さ れるので教育する必要もないのである。マルコムやアンスコムの発言を通してこのような 観点が最晩年のヴィトゲンシュタインにはあったというのが私の伝えたい観点である。そ の上で、ヴィトゲンシュタインの言語観をどのようにまとめて把握するかということにつ いてあと少しその視座の成立基盤や立ち位置に関わる部分に触れておきたい。とりわけ、

全体の俯瞰という問題への姿勢についての考察である。「表情」や「芸術」などの非言語領 域も人間のアセットには控えている。とはいっても、「非言語」という言い方は言語によっ て「言語と非言語」という言語的なデマケーションが結ばれているに過ぎない。非言語領 域が「ない」と言っているのではない。それでも、認識は言語のラインに「ある」のであ る。「言語以外」とか「言語の外に出る」というような観念も言語によって言われるが、こ れらも言語の中で、言語でそのように語っているに過ぎないという意味で私は言語ゲーム

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一元論の中にあると思う。ヴィトゲンシュタインの考え方の究極のベースには、言語活動 の総体から丸ごと外に出て言語を見れるというような伝統的な意味での超越論的な図式は なく、言語のゲームの「中から」読み取り、悟る(繋ぎなおす=re-connect)というもの であり、その意味では、言語や事象の外に出てその物事を俯瞰的に眺められるといった視 座を説く伝統的な「超越論(transcendentalism)」の言説と等値ではないと私は解釈して いる。もっとも、学者の安易な理論化を怪しみ、アカデミーの管財人的な視点で「警句」

を慎重に発する後期のヴィトゲンシュタインの姿勢は、ある意味で、超越論的「側面」や 匂いが完全に無いともいえなくはない。初期のP・M・S・ハッカー(12)などのヴィトゲン シュタイン研究者の一部にも、あれこれ考え方が変遷し、カント的な視座があると述べる ものもいたが、今は、もう多くの見解として、後期の立場というのは言語ゲーム一元論で あるということが多数説である。全著作を研究してきた私やマルコムの周辺の者(13)たち も、「言語活動を言語の外に出てみる」と言う事自体が言語の中で述べられていることであ り、言語を超えてはいないと考えている。言説はすべて言語の内にあるのである。

9.リバーパラドクス、実存の意識、言語ゲーム論、脱構築

西洋の言語と哲学の研究においてのデカルトからカントに至る伝統的な「認識論

(Epistemology)」の中でも、後期のヴィトゲンシュタインと同様な主張が断片的にでも著 作に表れるものは少ない。もし、ヴィトゲンシュタインとの類似点がある学者がその中に あるとすれば、それはバークリーである。唯名論(Nominalism)との類似点もあり、バー クリー(14)の考え方が、意外に、類似性をもつ可能性は否定しない。コリン・ラッドフォー ドもそのように考えていた一人である。だからといって、「私的言語批判(Private Language Argument )」( 15 )や「規則に従うこと( Following a Rule )」( 16 )「家族的類似性( Family Resemblance)」(17)や「(言語の)共同体(Community)」(18)といった後期ヴィトゲンシュタ インの中心的な観点が「理論の魔法」では一蹴できず「時」と「流れ」の中で揉まれなが ら「展望」されていくという考え方がバークリーに既にあったとは思われない。後期のヴィ トゲンシュタインの書いたものは、マルコム(19)とも何度も語ったが、私に言わせれば、こ の世の言語ゲームの織り成す様の抜粋的な絵巻造りであり、「フロート(流れ)と融合」が 織り成す言語の交換現場における動的な再生流転のスケッチでもある。これは、理論書で はなく、「言語ゲームの記述の束を透視し脱構築する」実存の絵巻でありある種の「予言集」

なのである。イギリスの大学で言語や哲学の科に籍を置くとキルケゴールとドストエフス キーはカフカとカミュおよびサルトルと併せて「実存主義(existentialism)」という授業 名の括りに出会うことがある。2週間程度の集中的な指導で学部の1年生でもこれらを学ぶ のだが、ヴィトゲンシュタインがキルケゴールやドストエフスキーを好んでいたことも学 ぶ。プラトンやアリストテレスの古典哲学に関する授業でも、ヴィトゲンシュタインは併 せて教えられている(20)。こうして、当時の研究態様を思い出していくと、敢えて近似値的 な考え方が見出せるのは、ヘラクレイトスではないだろうか。「万物は流転する」という立 ち位置も、「同じものは無い」と同時に「同じものもあること」も、然りである。但し、ヘ ラクレイトスはヘーゲルとの脈絡で研究者は見ることが多いかとも思う。マルコムの発言 やG・H・フォン・ウリクト(21)の書にも出てくるがヴィトゲンシュタインは「ヘーゲルは

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異なって見えるものが同じであるということばかり言おうとする」が「自分は同じように 見えるものが実は異なっているということを言おうとしている」と述べていた。このこと は、ヘラクレイトス的なことまでを含む意ではないかもしれないが、織り成す融合は最終 地点ではないことにヴィトゲンシュタインは拘っているのではないのだろうか。やがて、

きれいに縺れが解けるというのが、前期のヴィトゲンシュタインと同様に、後期のヴィト ゲンシュタインにも理屈抜きの「背骨」としてあるのであろう。にもかかわらず、私やマ ルコムやガイ・ロビンソンは、散々この件について論じた。そして、結論としては、言語 ゲームの「途中の過程の縮図」という意味では、ヘラクレイトス的な図式へのマッチング があることを否定しなかったのである。最終的には、デリダ的な流転の「脱構築」ではな く、日常言語のゲーム(展開性・不確実性)は「終わりなき流転」と「見えざる手による 振り子の調整の自然成立」の「織り合わせ」であるが、立ち止まれば、「世界を正しく見る」

ことは、放棄されていない。川の流れの可変部分と不変部分の例えなどにも顕著であるが、

ヘラクレイトスの「リバーパラドクス」に見られる「織り成す様」や「融合・合成体の視 点」を否定できないのが言語ゲームの実態の観察の「中には」確かにある。そこで、それ を「見つめる目(透視力)」を得ることこそが「実践」のプロダクトなのである。「流れつ つ合流し混ざりつつ織り成される」ことや「見えざる手」の振り子の調整力の例えを踏ま えつつ、「よく見て」、記述することで、実存を直視し、言語の描き方や捉え方の「脱構築 準備(シャッフルのステージ)」も進むと考えるのである。

10.「よく見るための取り掛かり」という意識は、既に脱構築の地平線を越えた後に来る よく見るための取り掛かりは、先ずは「家族的類似性」を探求し、共通項と除外した項 の仕分けを推論の中で合理化しながら世界を「見る」ことである。このことが適えば、「よ く見る」という「一歩目」が進むという「感じ方」を得る。「実践する」とは正にヴィトゲ ンシュタインの短いながらも鋭い指摘であり、私の本稿での作業もこの伝統に沿った「中 での」「見ること(透視)」と「提示の実践」の記述日誌であることを記しておきたい。ま た、その実践の「後に」ではなく「前に」すでにデリダ的な「脱構築」が挟まれている。

所論を展開する前に、書きとめておかなくてはならない。本稿では、「世界像」や「背景知」

といった観念系の語に潜む「束的ストックの言語保存イメージ」や、それらの語にリンク されがちな多くの省察フレーム自体の論じ方を問題とし脱構築する作業(学問)に言及し ている。それが出来ると「言うこと」は、私は既に脱構築の地平線を越えた「後」である ことを悟れていることに他ならない。勿論、脱構築を越えるとは、あるときに「いま脱構 築できた!」というようなことではないのである。それは、言葉力の覚醒への働き掛けや 展開の予期せぬ面白さへの啓発といった「言語活動の実践的効能」を日常言語という自然 の言語ゲームの中で体得した跡に「現れる」。引き出された「事後認識」で知る(悟る)と 言ってもよい。

11.「よく見る」が日常人の視座に「広がる」のは「脱構築現象」の「広がり」であるか

「よく見る(透視)」という「業の実践」はイギリスでは「広がり」がある。日本では今 のところ言語の研究者コミュニティの「中で」閉じている。ところが、ここが日本で日常

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人に広がった場合は、この意識化は「行為の姿勢」として横並びの気風が強いレールに乗 る。広がりは前段までに論じたように「日常の自然な言語ゲームの中」で成立する。その 点は、「よく見る」という姿勢の習得も、「観念系の語」への習熟も、意識的な教育など無く とも、調和的に広がる言語ゲームの振り子の「中に」育つというヴィトゲンシュタインの 説に従って推論する観点を同様のままにしておく。そうなると、どのような様子が想像で きるか。当然、先ずは言語の波及媒体である活字情報や映像メディア情報への触れ方や出 し方の中にも流し手と受け手の双方から変化が入り込むであろう。教育現場の演習的加勢 などなくとも、「言葉のメタ省察力」という「意識」が、広く「よく見る」日常人の概念操 作のパレットにその場を占めることになるだろう。そうなった後で、「波及」は遠心的に進 行するであろう。観念記述のラベルにある「像」や「知」というのは、観念的なイメージ・

アイテムであり、既に「呼び名」にすぎないものとして、「より知られること」になるだろ う。「よく見れれば」多くの観念系の語は「世界像」も「表象」も「背景知」も「像」や

「知」や「象」の記号代入的な理解などではないことが「広がる」であろう。また、よく見 れる者たちにとっては「脱構築」も済んでいる。無意識に自由な視座に流転し越時越境し たのである。あとは、「示すこと」と「見ること」の実践を繰り返すのみで「ある」。こう した「多数の視点のパラダイムシフトの完了」は「推論の組み換え力」にも影響を与えう ると推定されるが、言語の諸観念を掘り下げる意識化を自然言語の日常的な言語ゲームの 中で習得した広がりは多数の脱構築(古き図式への誤謬や信仰)が成立することになる。

観念系の語には「個別の像を合成し融合してできた合成像が潜む」といった図式に誤導さ れる人々は減るであろう。

もし、このように、私の観念図式を相対化できた脱構築と同様に、多くの日常言語の担 い手のマインドを脱構築できれば、思考回路の連結力や繋ぎ目の再生力などの大きなうね りを生み、理解の意識や感性のスタイルが刷新されるかもしれないのである。諸観念への 掘り下げ意識がもたらす言語ゲームの転回可能性は、その教育や伝播(与え方や論じ方)

に相対せず、自然言語の言語ゲームの海に「中で」スプレッドするという考え方でいける のならば、教育格差とも無縁である。観念の整理に手を付ける言葉の掘り下げ教育はリス クを有しているとも言える。自然の日常言語ゲームがきちんとそのリスクを埋めてくれる のであるから、教育の場に「観念系の語」のメタ言語教育や省察的な意識化は無用である。

このことを「今」(まだ観念系の語への意識化が一般化していない言葉の教育界の現状があ るうちに)論じておきたかったのである。意識化の波及を自然の言語ゲームの調節に任せ ず人工的な意識化の言葉の教育に組み込み、同時に、運悪く中途半端な教育視座のもとに 教育の演習として観念系の語の中途半端な教育指導が広がった場合には、その後の社会と 人間に与えうる影響の修復は、非常に難しいものになるような気がするのである。安易な 教育信仰に観念系の語の教育を渡してはならない。「展望(Ubersehen)」(見廻し・比較・

示し)のみしか我々には手がないと悟る意識化のほうが先である。広げる前(広がる前)

であれば、広げないような方策や対策にも手が廻る。観念系の語の脱構築は、理論や教育 では実現せず、「自然の日常的な言語ゲーム」により、観念の結び目を解く堆積的な実践と 展望の中に脱構築が「立ち現れる」(22)のである。

(11)

12.おわりに

理解の一般化を要する意味論(認識・操作の一般化)は機械が介在する銀行のATMパネ ルの言語表示構成など、社会の中での要請に応えるものも多々ある。例えば、「預け入れ」

や「お引き出し」は人工言語ではなく自然言語であるが、これなどは、一般理論化された

「意味理解の同一性」による言語実践の好例であろう。こうした意味の固定を要する領域 は、展開性を有し千変万化するゲームに似ている日常会話の「言語ゲーム」と織り合わさ れた「意識のゲームとしての意味論」ではなく「利便性のための制限的な意味論」である。

観念系の語には「世界像」や「表象」だけではなく、「相対性」や「国際性」、「多様性」な ど、集約的な合成像という「表現法」が編みこまれている。このような「成立事情」を省 察させる視座を教育で意識化した場合、一旦、教えはじめて、意識に上ったら、言葉や思 考の波動というものは「広がり」と「乗り越え」を見せるものなのである。その影響は、

言葉の疎通の「質的な変転」にまで達する可能性というものを想像させる。また、文字テ キストや音声の「付与順序」や「付与時期」は、その考慮と効果により、「思考の覚醒の効 果」とでも言うべき何ものかを与えうる。本稿では「言語の意識化」が研究者の言語ゲー ムを越えて行き着く「広がり方」を獲得するには、自然の日常言語ゲームの「中でのみ」

成しうるという観点が不可欠であるとしている。教育という人為的な環境では脱構築は成 立しないという「展望」も示したが、言語へのメタ的意識の変化がもたらす心理的な変遷 や影響などについてはまた別の機会に譲ることにする。

【註】

(1) See J. L. Austinʼs Philosophical Papers(邦訳「オースティン哲学論文集」勁草書房)

(2) See Gilbert Ryleʼs The Concept of Mind(邦訳G・ライル「心の概念」みすず書房)

(3) See P. F. Strawsonʼs Individuals

(4) See L. Wittgensteinʼs Philosophical Investigations

邦訳「ウィトゲンシュタイン全集8」〈大修館書店〉を見よ。

(5) 「言語ゲーム一元論」(黒崎宏著)〈勁草書房〉を見よ。言語ゲーム一元論という言葉 は朝日カルチャーセンターで行われた一般向けの黒崎氏の講義のあと私が「一元論」

という言葉でヴィトゲンシュタインの言語観に言及したことがあった。

(6) 「ディコンストラクション」(C・ノリス著)〈勁草書房〉を見よ。

(7) ギルバート・ライルの〈カテゴリーミステイク〉の議論を見よ。

(8) 〈表象〉には、知覚表象と記憶表象などがあり、写像がどこかに絡んでいる。

(9) この日常言語の言語ゲームはある意味「おのずと整えられる」というところの「 」 の中はマルコムの発言(1989年10月キングスカレッジでのゼミのあとでの会話)で ある。ヴィトゲンシュタインはこうしたことを織り込んでいるということについて も1989年10月にマルコムと話した際に私がこの内容を話すとアダム・スミスの「見 えざる手(hidden hand)」の妙技に似たものが「ある」という点についてマルコム が「確かに!」と同意したのである。

(10) アンスコムの指摘〈1994年10月〉(ケンブリッジのアンスコムの自宅での議論の会)

「我々は皆、自然言語のゲームの海で揉まれておのずと観念系の語に託す精神的カタ

(12)

ルシスや言語と心のバランスを掴み取るのであり、教育の真似事では真剣な叫びの 言語ゲームは立ち現れないのである」と述べた。

(11) 言語の海という表現は、マイケル・ダメットの著作のタイトルに「 The Seas of Language」がある。

(12) P. M. S. ハッカー著「洞察と幻影」(邦訳)の頃のハッカーの考え方。当時はヴィト ゲンシュタインの中に超越論的カント的な萌芽があるかのような感じを持っていた とハッカーが述べた。P.M.S.ハッカーがSt. Johnʼs College, OxfordのFellowであった 頃月曜日の夕方にゼミを持っていたが私をゲストとして参加するように誘った頃の 会話の中で言及した。現在のハッカーは私の属したケント大学哲学科の教授。

(13) マルコムの周辺にはガイ・ロビンソンがいた(元サウサンプトン大学講師でボスト ン大学教授)。またピーター・ウィンチがキングスカレッジを離れた後もRoyal Institute of Philosophyの会合で居合わせた。こうした時の会話などに関係する話題が出た。

(14) See George Berkeleyʼs The Principles of Human Knowledge. コリン・ラッドフォード

(Colin Radford)はケント大学教授(私自身はデカルトとヴィトゲンシュタインに ついて習った。)

(15) 「哲学探究」リマーク番号「243」以降の議論「私的言語論」。

(16) 「哲学探究」リマーク番号「198」前後から「242」までの議論「規則に従うこと」。

(17) 「哲学探究」の〈家族的類似性〉のリマークはFamily Resemblanceというアンスコ ムの英訳。

アンソニー・ケニーなどはFamily Likenessと訳している。

(18) 「確実性の問題」のリマーク番号「298」にあるGemeinschaft(Community)「共同 体」の記述。

(19) Norman Malcolm(ノーマン・マルコム)はヴィトゲンシュタインの高弟。イエー ル大学で教えていたが晩年はイギリスのロンドン大学(キングスカレッジ)の教授 で水曜日15時にカレッジを問わず全ロンドン大学の大学院と教員の中からセレクト した参加者にゼミを開催していた。私はLSEに所属していたが水曜日はキングスカ レッジでマルコムにその死の年の最後の学期(Lent Term)まで2年間師事した。

(20) ケント大学に客員していたLloyd Reinhartがプラトンとアリストテレスの課題でア ンスコムの論じたものを受講者にも読ませていた(1984 / 1985年)。

(21) G. H. von Wright(ウリクト:*フィンランド読み)はヴィトゲンシュタインの高 弟。元ケンブリッジ大学教授。私が直接接したのはマルコムの葬儀のセレモニー(キ ングスカレッジ)での1回のみ。アンスコムやマルコムと異なり師事したことはな い。マルコムのA Memoir Ludwig Wittgensteinの書籍に、ウリクトの書いたものも 併せて製本されていた。

(22) 大森荘蔵(東京大学名誉教授)が「流れとよどみ」をはじめとして「立ち現れ」の 概念を提示した。私の使用する意味は完全にオーバーラップした同意ではなく、そ の考え方に近いが独自の立ち現れの用法としておく。文脈に整合する形で個々の読 者の読み方をとってもらうことで問題ない。

(13)

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『名指しと必然性―様相の形而上学と心身問題』産業図書

グロック、ヨハン・ハンス(2003)吉田謙二・新茂之・溝口隆一訳

『分析哲学の生成』晃洋書房

クワイン、ヴィラード・V・O(1992)飯田隆訳

『論理的観点から 論理と哲学をめぐる九章』勁草書房

セインズブリー(セインズベリー)、R.M.(1993)一ノ瀬正樹訳

『パラドクスの哲学』勁草書房

デイヴィッドン、ドナルド(1990)服部裕幸、柴田正良共訳

『行為と出来事』勁草書房

デイヴィッドン、ドナルド(1991)野本和幸、植木哲也、金子洋之、高橋要共訳

『真理と解釈』勁草書房

デリダ、ジャック(2005)ポール・パットン/テリー・スミス編、谷徹・亀井大輔訳

『デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録』岩波書店 デリダ、ジャック(2005)林好雄訳

『声と現象』ちくま学芸文庫

デリダ、ジャック / クリッチリ、サイモン / ラクラウ、エルネスト / ローティ リチャード

(2013)青木隆嘉訳『脱構築とプラグマティズム』法政大学出版局 ドゥウォーキン、ロナルド(2003)木下毅・小林公・野坂泰司他訳

『権利論』(増補版)木鐸社

ノリス、クリストファー(1985)荒木正純・富山太佳夫訳

『ディコンストラクション』勁草書房 ハート、H.L.A.(1976)矢崎光圀訳

『法の概念』みすず書房

ハート、H.L.A.(1990)矢崎光圀他訳

『法学・哲学論集』みすず書房

パスモア、ジョン(1990)大島保彦・高橋久一郎共訳

『哲学の小さな学校』青土社

フォーダー、ジェリー&ルポア、アーネスト共著(1997)柴田正良訳

(16)

『意味の全体論 ホーリズム そのお買い物ガイド』産業図書 ブラックバーン、サイモン(2017)大庭健編監訳

『倫理的反実在論』勁草書房

マルカム(マルコム)、ノーマン&アームストロング、デイヴィッド(1986)黒崎宏訳

『意識と因果性』産業図書

マルカム(マルコム)、ノーマン(1991)黒崎宏訳

『何も隠されてはいない―ウィトゲンシュタインの自己批判』産業図書 マルコム、ノーマン(1998)板坂元訳

『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』平凡社

ライル、ギルバート(1987)坂本百大、井上治子、服部裕幸共訳

『心の概念』みすず書房

ライル、ギルバート(1997)篠沢和久訳

『ジレンマ―日常言語の哲学』勁草書房

ライル、ギルバート(1997)坂本百大、井上治子、服部裕幸・信原幸弘訳

『思考について』みすず書房

ローティ、リチャード(1993)野家啓一他訳

『哲学と自然の鏡』産業図書

ローティ、リチャード(1985)室井尚他訳

『哲学の脱構築』御茶の水書房

ローティ、リチャード(1988)冨田恭彦訳

『連帯と自由の哲学―二元論の幻想を超えて―』岩波書店

(17)

The World-Picture, the Language-Game, Deconstruction: Memory and Illusion.

HISABE, Kazuhiko In this paper I was returned to the discussion of what Wittgenstein says about the gram- matical expression of idealistic representations. Some say that the concepts of world- picture and background-knowledge are typical of the ideas that we have stored in mind as synthetic representations, whereas others say that they are mere grammatical expres- sions. According to a picture-theory of meaning, a picture is concerned with a referen- tial object. The idea of world-picture is an intellectual product of the nominalist gram- mar-catalogue. Deconstructive approach to the nominalist theme could be central and valuable if it was tightly interwoven with the holistic manner of following language- games.

In our natural language-game we master and stipulate how we think and control of the linguistic issues. Both the German concept “Ubersehen” and the English concept of description are key to the choice of the philosophical manner I seek to follow. Wittgen- stein warns and insists as follows: we should never ask what the world-picture is;

rather, we must describe how the concept is used. I would also like to offer this paper to the memory of the late Professor Elizabeth Anscombe with whom I discussed parts of the issues I handle in this paper.

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