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上 森  亮

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Academic year: 2022

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(1)

論 文

「そうすると、物質は、感覚の永続的可能性 と定義されるかもしれない」[Mill 1979: 183]。

これまでに何百回も引用されてきた一節でJ・

S・ミルはこのように述べている。本論文の目 的は、これは何を意味しているのかを明らかに することである。

一見したところ、ミルの文章の意味は明白で あり、そして偽であるように思われる。しかし、

「物質」を定義するとはどういうことか。そも そも定義するとはどのような営みであるのか。

これまでの研究においては、「感覚の永続的可 能性」という印象的なフレーズのゆえに、この 定義の本性という基本的な問題が見逃されてき たように思われる。これに対して、本論文はま ず第Ⅰ節で『論理学体系』における定義論を概 観し、そこから先の文章を解釈する視点を確保 する。そして、次に、Ⅱ節ではミルが「知識の 相対性」として提示したテーゼを、Ⅲ節ではミ ルの形而上学・認識論における鍵である「観念 連合の法則」を解説し、Ⅳ節では先のミルの一 文をそれまでの考察から導き出す。最後のⅤ節 はミルに寄せられた批判を概観し、ありうる応 答を提起する。

Ⅰ 『論理学体系』における定義論 ミルによれば、「もっとも単純で、もっとも 正確な定義の観念は、語の意味を叙述する命題 である」[Mill 1973-4: 133]。たとえば、「人間」

という語は「かくかくの属性を内包する名前で ある」という形式で定義されるだろう(1)。それ に加えて、定義は分析(analysis)と類似した ものである。ここで分析とは「複合的全体を構 成要素に分解すること」を意味しており、「属 性の集合を総体的に内包する1つの語を、同じ 属性を単一あるいはより小さなグループで内包 する2つ以上の語で置換するときにわれわれが 行なう」のが分析である[Mill 1973-4: 134]。

そして、「もしも分析できるならば、つまり、

具体名と抽象名の意味を構成している属性ない し属性の集合を部分に分けることができるなら ば、定義する余地がある」[Mill 1973-4: 136]。

このことから、定義できないのは、意味のない 語(2)とそれ以上分析できない単純なものであ ることになる。それでは、分析できない単純な ものとは何か。この問題について考えるのは次 節に回すことにして、もう少し詳しく定義につ いて論じておこう。

従来の哲学・論理学の歴史においては、定義

上 森  亮

J・S・ミルと知識の相対性

*早稲田大学大学院社会科学研究科 2011 年博士後期課程満期退学(指導教員 古賀勝次郎)

(2)

が扱うのは実在の事物であるという見解と定義 は名前や語だけを扱うという見解が対立してき た。ミルは後者を支持し、前者は不合理だと論 じている。仮に、定義が事物についてのものだ としよう。そうすると、以下のような三段論法 が成り立つが(ただしミルは伝統的論理学を前 提としていることに注意しなければならない)、

これは不合理である[Mill 1973-4: 146]。

ドラゴンは火を噴くヘビである。

ドラゴンはヘビである。

∴あるヘビは火を噴く。

周知のように「あるヘビは火を噴く」という 結論は経験的に偽である。定義から経験的に偽 である命題が導かれるのは不条理なので、(背 理法により)定義が扱うのは実在の事物ではな い。ゆえに、上の三段論法は、次のように修正 されるべきである[Mill 1973-4: 147]。

ドラゴンは火を噴くものを意味する語であ る。

ドラゴンはヘビを意味する語である。

∴ ヘビを意味するある語はまた火を噴くもの を意味する。

このように述べ直せば、定義からは語の意味 に関連した命題しか導かれない。したがって、

定義は名前や語に関するものであるべきである。

しかしながら、こうした考察は、定義が恣意 的であるということや定義のためには語の用法 にだけ注意すればよいということを含意するわ けではない。むしろ、定義を求めるのは「非常 に困難で複雑な探求であるだけではなく、名前

で表示される事物の本性を深く掘り下げる考慮 を含む」作業である[Mill 1973-4: 150]。ミルは、

このことを例証するために「正義とは何か」と いうプラトン的問題を取り上げて、三段階の考 察が必要とされる、と述べる(実際のところ、

以下の探求の形式は『功利主義』における正義 の説明手続きとほとんど同じである cf.[Mill 1969: 240ff.])。ここである行為と別な行為の両 方が「正義に適っている」と言われるとしよう。

この場合には、以下のような順序で問いを発し、

探求を進めるとミルは想定している[Mill 1973- 4: 152]。

(1) 問題となる点における人々の言語の用法 は(探求を可能にする程度)十分に一致 しているのか。

(2) それらの行為が両方正義に適っていると 呼ばれるならば、共通の属性はあるのか。

すなわち、それらは概念やクラスを形成 するのか

(3) もしも共通の属性がある4 4ならば、あらゆ4 4 44性質を共通にもっているのか、そうで あるならば、それは何か。

この中では、(1)のみが言語の用法を扱うも のであり、残りの(2)と(3)は事実の問題の 探求を必要とする。加えて、(2)に否定的に答 えられるならば、名前が表示するものを適切に 含むクラスを形成する作業を行なわなければな らない。このことから、定義は恣意的ではない し、また定義の追求においては言語の用法にの み注目すればよいというわけでもない、という 結論が導かれる。

さらに、ここで注目したいのはミルが(2)

(3)

で概念やクラスをあげていることである。たと えば、ミルは次のように述べている。

 「一般的真理を肯定できるような形でクラスを 形成しておかなければ、一般的真理、つまりクラ スに適用される諸真理を確定することはできな い。あらゆるクラスの形成には…そのクラスを特 徴づけ、そのクラスを構成する対象をその他のも のから区別する事実・状況の概念が含まれる」

[Mill 1973-4: 660]。

一読しただけでは分からないかもしれないの で、ゆっくり論を進めよう。ミルによれば、一 般概念は「比較(comparison)」を通して形成 される。まずあなたの目の前にある動物がいて、

あなたはそれを観察しているとしよう。次に、

あなたは別な動物を観察し、それを最初に観察 した動物と比較する。そうして、「動物」とい う概念を形成する。その後、再び別な動物のよ うに思われるもの(動物と類似している4 4 4 4 4 4 もの)

を観察し、それを先に形成した「動物」と比較 する。そうすると、三番目に観察された動物の ように思われたものは「動物」という概念に含 まれる/含まれないことが分かるかもしれな い。もしくは、それまでの「動物」概念を修正 して、その動物のようなものも動物に含めるよ うにするかもしれないし、「別な出発点から比 較を再開し、異なった一般概念を生み出すかも しれない」[Mill 1973-4: 655]。要するに、「わ れわれは概念を得るために、現象を相互に比較 し、それから、これらと他の現象を概念と比較 するのである」[Mill 1973-4: 654]。

ここで、以上のようなプロセスでクラスや概 念が形成されたとしよう。その場合には、(3)

に進み、ある4 4属性を共有している(クラスを形 成している)ものは、すべての4 4 4 4属性を共有して いるのかと問う。たとえ、この問いに「否」と 答えてもそのことで分類が無効になるわけでは ない。言い換えれば、「なぜそうしているのか を正確に知ることなしに、すなわち、われわれ はどのような一致を概念に含むつもりか完全に 確定することなしに事物を分類しなければ、そ れで十分なのである」[Mill 1973-4: 659]。した がって、求められるのは、クラスにとって決定 的な属性を共有していないものを含めないこと とそうした属性を共有しているものを除外しな いことである。

また、ミルは定義論を終えるにあたって、「言 語の自生的成長(spontaneous growth)」の研 究が非常に重要であると指摘している。ミルに よれば、言語は「創られるものではなく、成長 する」ものなので([Mill 1973-4: 151-152])、

しばしば「類似性の連続的リンク」によって、

いかなる共通性もないものに同じ名前が適用さ れることがある。つまり、A は B に似ている ためクラスを形成する、B は C に似ているため クラスを形成する…という系列によって、まっ たく共通性のない A と Z に同じ名前が適用さ れることがある。そして、その場合には名前は 対象の混乱した寄せ集めを表示し、何も内包(意 味 ) し な い と い う 事 態 に 陥 る[Mill 1973-4:

152]。これは修正を必要とする事態である。

しかしまた、言語の成長は「たとえ非科学的 ではあっても長い経験の経過の産物」なので、

論理学にとっての有益な証拠となる。仮に、先 のような連続的リンクによって、類似性が存在 しないものに適用されるようになったとしよ う。そのときでさえ、「その進歩のすべてのス

(4)

テップ〔A と B の間、B と C の間などなど〕

にわれわれはこうした類似性を見出す」。

 「そして、これらの語の意味の移行は、しばし ばそれらで表示されるものの間の実在の連関の 指標となる。…一見すると多義的な語のまったく 異なる意味を連関させる隠れたリンクを知覚し 損ねたことによるこうした見逃しの例は哲学の 歴史に豊富にある」[Mill 1973-4: 153]。

さて、ここまではミルの定義論を見てきたが、

確認しておきたいのは、以下のことである。第 1に、定義は名前や語に関係するものであるが、

事実の問題の探求を必要とすること、そして、

第 2 に、 ク ラ ス や 概 念 の 形 成 が 試 験 的

(tentative)プロセスであることである。とこ ろが、クラスや概念形成のためには現象の観察 が先に行なわれていなければならない。それで は観察とは何か。これについて考えるのが次節 である。

Ⅱ 知覚と推論:知識の相対性

通常、われわれが知識を得る仕方は2つに区 別される。1つは、何かを直接的に意識する場 合、もう1つはそのことによって得られたデー タから推論する場合である[Mill 1973-4: 6-7]。

ここでは、前者を扱うことにしよう。ある種の 基礎付け主義を前提としているミルは、直接的 に意識しているものが「基礎」となると論じる

([Fumerton 2009: 150ff.])。そして、その基礎が、

それ以上分析できず、(前節で述べた)定義で きない単純なものである。しかし、このことに ついて考察する前に、知覚と推論を区別してお かなければならない。

ミルの前提とする哲学理論にとっては、何か を直接意識することは、それを知覚することと 等しい(若干の留保については、[Mill 1973-4:

51-54]を見られたい)。そして、決定的に重要 なことは直接的に意識するものは疑いえない、

と い う こ と で あ る(3)([Mill 1973-4: 782;1979:

ch.9])。したがって、「この動物は白い」とか「こ の動物の毛は柔らかい」などの文で表現される 知覚命題は、申し分ない観察命題であるように 思われる。なぜならば、観察するとは知覚する ことであり、それは疑いえないからである。し かしながら、われわれは観察の際にしばしば誤 るのではないか。それゆえに、クラスは修正さ れうるのではないか。これに対するミルの応答 は2つある。まず第1に、先程の「この動物は 白い」などの命題は推論を含んだものであり、

純粋な知覚命題ではない。例を用いて考えよう。

「私は、あなたがおしゃべりしているのを聞い ている」というのは一見すると知覚命題である ように思われる。しかし、純粋な知覚命題であ るためには「私はある音を聞いている」でなけ ればならない。ゆえに、「その音はしゃべり声 である」や「その声はある人の声である」など のそれ以外の要素は推論に属するものである

[Mill 1973-4: 642]。第2に、知覚とそれを記述 する命題は区別されなければならない。「私は 白いものを見ている」と記述する際には、「単 に私の感覚を主張しているだけではない。私は またそれを分類しており、私が見ているものと 私や他者が白いと呼ぶのに慣れているすべての ものとの間の類似性を主張しているのである」

[Mill 1973-4: 644]。

とはいえ、知覚と推論を正確に区別すること はできないのではないか、と反論されるかもし

(5)

れない。確かに、この区別が非常に困難で、実 際上不可能であることをミルは認めている。し かし、知覚と推論が混じり合っているという事 実を意識しておかなければならないというのが ミルの論点である(この事実を認識し損なうこ と は 誤 謬 の 一 種 で あ る[Mill 1973-4: 782- 784])。

それでは、直接意識する(知覚する)とはど ういうことか、という問いに戻ろう。ミルが簡 潔に述べるところでは、「感覚こそが私が直接 しているすべてである」[Mill 1973-4: 56]。あ るいは、以下のようにも説明している。

 「少なくとも、対象についてわれわれが知るこ との一部は、その対象がわれわれに引き起こす

『感情(feeling)』である。われわれが対象の性質 と呼ぶものは、われわれの意識に感覚を生み出す

『力、力能(powers)』である」[Mill 1979: 5]。

ここで注意しなければならないのは、「感情」

という語である。『論理学体系』で説明してい るように、「感情と意識の状態は、哲学の言語 においては同値の表現」であり感覚、思考、情 動を含んだものである[Mill 1973-4: 51]。

さて、先に引用した文章によれば、われわれ が対象について知ることの一部は感覚に由来す る。加えて、伝統的に想定されてきたように、

感覚は私的なものだとしよう。この 2 つの点が 認められるならば、知識は知る主体の心に相対 的であることになる。そして、これこそが、ミ ル が「 人 間 の 知 識 の 相 対 性(relativity of human knowledge)」と呼ぶ教義である。

この教義には様々なヴァリエーションがある が、ミルが支持するのは「観念連合の法則」に

訴える説明である。しかし、これについて考察 する前に、知識の相対性についてもう少し論じ ておきたい。ここまでのミルの主張は2つある。

すなわち、

(a)直接意識するのは感覚だけである。

(b) 外在的対象についての知識の一部は感覚 に由来する。

仮に、(b)だけを認めたとしても、知識の相 対性を導くことは不可能ではない。ところが、

ミルは(a)も前提としている。それゆえに、

知識の相対性の教義の主観主義(subjectivism)

的解釈を支持しているという見方もできる(cf.

[Skorupski 1989: 208ff.;Hamilton 1998])。ここ では、(a)と(b)が認められたとしておこう。

そうすると次の問題は「感覚自体は何に由来す るのか」ということである。それは、先の引用 文の「対象が感覚に引き起こす4 4 4 4 4『感情』」とい う部分から容易に推定できる。つまり、

(c) 感覚は外在的対象によって引き起こされ る。

ところが、ミルが(c)について述べている ことはしばしば一貫していないように思われ る。たとえば、以下の文章を見てもらいたい。

 「感覚こそが私が直接意識しているすべてであ る。しかし、それらの感覚は、私の意志とは独立 に存在しているだけでなく、私の身体器官と心に とって外在的なあるもの(external something)

によって生み出されたものと考えられる」[Mill 1973-4: 56-57]。

(6)

『論理学体系』におけるこの文章は、多くの 哲学の学派に共通な見解(とミルが捉えたもの)

を述べているだけである(ミルの公式見解では、

論理学は特定の哲学に与するわけではない(4))。

ゆえに、ミルがこれを自身の見解として明確に 擁護しているわけではない(この点については

[Mill 1973-4: 56-59]を参照)。そして、一見す ると上の引用とは整合的ではないように思われ る次のような知識の相対性の教義もありうる4 4 4 4と 指摘している。

 「通常の語法で、われわれが対象から受容する と言われている感覚は、われわれが対象について 知りうる唯一4 4のものであるだけではなく、存在す ると信じる根拠をもつ唯一4 4のものである。われわ れが対象と呼ぶものは、われわれが同時に受容す ることに慣れている様々な感覚から連合法則に よって形成される複合的概念以外のものではな4 4 4 4 4 4 4 44」[Mill 1979: 6, 強調引用者]。

これは非常にラディカルな見解である。とい うのも、(c)が心とは独立した(外在的な)対 象によって感覚が引き起こされると主張するの に対して、このラディカルな見解は外在的対象 自体が心によって構成されると述べているよう に解釈できるからである。ゆえに、(a)と次の

(d)を主張しているように思われる。

(d)すべての知識は感覚に由来する。

もちろん、(d)自体は、感覚によって得たデー タからの推論によって知識を拡張することを禁 止していない。しかし、(c)と組み合わせると 議論が循環するように思われる(感覚は外在的

対象によって引き起こされ、外在的対象は感覚 によって構成され、感覚は…などなど)。それ では、ミルの見解はどのようなものか。ミルは

(c)と(d)の両方を受け入れるのか(これに 対してある解釈では(d)と(b)は両立しない(5))。

その場合には、この不整合性をどのように解消 するのか。

Ⅲ 知識の相対性と観念連合の法則 ミルの用いる「外在的」という語には、少な くとも、3つの要素が含まれている。それは、

第1に、「われわれが知覚していないときにも 存在している」等々の命題で表現される独立性・

永続性・固定性という要素、第2に、前節で見 た(c)の感覚の原因という要素、そして第3に、

様々な主体からアクセス可能という意味での共 通 性・ 公 共 性 と い う 要 素 で あ る(cf.[Day 1969: 132-133])。これは感覚と対比させること でより明らかになるだろう。感覚は、(第3の 要素とは違って)私的なものであり、(第2の 要素とは違って)外在的な対象によって引き起 こされる結果である。そして、(第1の要素と は違って)感覚は主体の存在に依存しており、

一時的で変化しやすい。

このような外在性の特徴を保存する形で、ミ ルは感覚によって外在的対象を定義しようとす る。しかしながら、その前にミルは議論の前提 として2つの心理的事実をあげる。本節ではそ れを簡単に整理して、さらに後半では物質の定 義にとって重要な他者の心の存在について見て おくことにする。

まず第1の心理的事実は、人間の心は「期待

(expectation)」する能力をもつということであ る。つまり、現実の感覚をもった後に、可能的

(7)

感覚の概念を形成する。この可能的感覚とは「現 在の時点では感じていなくとも、ある条件が成 立すれば感じるかもしれない、そして感じるで あろう感覚」であり、ある条件の本性は「多く の場合、経験によって学ばれる」[Mill 1979:

177]。

第2の心理的事実は観念連合の法則(6)であり、

以下の4つの命題にまとめられる[Mill 1979:

177-178]。

(ⅰ) 類似の現象は、ひとまとめにして考え られる傾向がある。

(ⅱ) 近接して経験された現象は、ひとまと めにして考えられる傾向にある(近接 性とは同時性と直接的連続性である)。

(ⅲ) 近接性によって生み出された連合は、確 実かつ迅速になり、分離不可能となる。

(ⅳ) 連合が分離不可能となったならば、観 念同士だけではなく、実在においても 分離不可能と思われるようになる。

ミルは、このような観念連合の法則が扱うべ き問題の1つとして「心的現象の4 4 4明白な多様性

(diversity)をどれほど説明できるか」という ものをあげている[Mill 1978: 348]。ところが、

(逆説的に思われるかもしれないが)われわれ の知覚は相互にコミュニケーションが可能な程 に共通しているように思われる(外在性の第3 の要素を参照)。このことも説明できる理論で なければならない。言い換えれば、われわれの 間の共通性と多様性の両方を説明する理論を必 要とするように思われる。観念連合の法則はこ の要求を充たすことができるだろうか。ミルに よればそれは可能なのだが、その前に1つ論証

しておかなければならないことがある。それは

「他者の心の存在」である。というのも、他者 に心がないならば、他者との共通性などは問題 にならないからである。

他者の心の存在を示すために、ミルが用いる のは「アナロジー論証」と「帰納的推論」であ る[Mill 1979: 190-192,204-209]。まず私は、自 分自身について反省し、私の場合には、私の身 体の存在が感情の前提条件となっていること、

そして、行為は感情によって引き起こされるこ とを知る(「感情」という語は先に述べた広い 意味で用いられていることに注意されたい)。

今度は他者を観察し、そのことによって、 他者 は私のものと類似した身体をもっていること、

なおかつ、他者も行為・その他の外的サイン示 していることを見出す。そうすると、私の場合 には、身体―感情―行為という一様の系列があ るのに対して、他者について見出すのは身体―

X―行為である。本当に X は存在するのかとい うのが「他者の心の問題」と呼ばれるものであ る。ミルの論証はこうである。

 「これらの他者の場合でも、最初〔身体〕と最 後〔行為〕の系列は、私の場合と同様に、規則的 で恒常的であることを見出す。私の場合には、最 初のリンクは中間のリンク〔感情〕を通して最後 のリンクを生み出し、それ〔中間のリンク〕なし では生み出さないことを知っている。したがっ て、経験から、中間のリンクが存在しなければな らない、と結論づけなければならない」[Mill 1979: 191]。

さて、この論証は妥当だろうか(ミルはこれ を惑星の軌道に関するニュートンの証明と類比

(8)

的だと述べている)。この論証は失敗している というのが大方の見解である(7)。しかし1つ確 実なことがある。それは他者の心の存在を疑う 合理的な理由はないということである。言い換 えれば、『論理学体系』第3巻・25 章「不信の 根拠について」で言われている不信(disbelief)

の理由はない。簡単に言えば、その論証は次の ように進むだろう。ミルは、『論理学体系』に おいて、「普遍的因果性の法則」を確立しよう としている(しかし、これについて論じている 余裕はない。詳しくは『論理学体系』を見られ たい)。ここでは、普遍的因果性が認められた としよう。そうであるならば、私の行為の原因 は身体と感情であり、ここには法則関係がある。

そして、普遍的因果性より、他者の行為(結果)

にも法則関係にある原因が存在する(実際のと ころは、原因概念は相対的である[Mill 1973- 4: 327ff.])。普遍的因果性が成立しているとい うことは信念について次のことを含意する。す なわち、「相殺する原因がないときに4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4他者に身 体はあっても感情がない」や「相殺する原因が4 4 4 4 4 4 4 ないときに4 4 4 4 4感情がないにもかかわらず行為して いる」という主張を信じるべきではない(cf.[Mill 1973-4: 624-625])。これに加えて、私と他者は 類似した身体をもち、行為においても類似して いるというのがミルの前提である。したがって、

相殺する原因が示されていないこととアナロ ジーによる論証から、他者の心の存在を信じる ことは合理的である。

もちろん、これで完全に他者の心の問題が解 決されたとは思わないが、他者の心の存在を信 じることの合理性が示されたので、それをもと に物質の分析へと進みたい。

Ⅳ 物質の定義

本節では、いよいよ物質を定義する。最初に 以下の文章を見て欲しい。

 「そうすると、物質は感覚の永続的可能性と定 義されるかもしれない。私は物質を信じるのかと 問われれば、そう問う人にこの定義を受け入れる のかどうかを問う。その人が〔この定義を〕受け 入れるならば、私は物質を信じる。…これ以外の 意味では、私は物質を信じない。しかし、私は次 のことを確信をもって主張する。すなわち、・・・

この物質の概念は、一般的に付与されているすべ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ての意味を含んでいる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」[Mill 1979: 183, 強調引 用者]。

本当にミルの定義は一般的に付与されている すべての意味を含んでいるのか。第Ⅰ節の3つ のプロセス(1)~(3)を当てはめて考えること から始めてみたい。

まず(1)の言語の用法の一致は見られるだ ろうか。一見したところ、物質はなじみ深いも のである。そして、われわれは「物質」概念を 用いて様々なことをなしうる(たとえば論文を 書くなど)。それゆえに、「物質」概念に一般的4 4 44付与されている意味を含めることができる。

ところが、ミルが、物質というなじみ深いもの を、感覚の永続的可能性というなじみのないも ので定義しようとしたのには理由がある。それ は 19 世紀における物理学の発達である。当時、

ファラデーやマクスウェルらの研究によって、

少なくとも物理学内部では「物質」概念が変化 していた。L・スナイダーによれば、「ミルは物 理学理論におけるこうした発達に気付いてい た」のであり([Snyder 2006: 140])、このこと

(9)

が「物質」概念の定義に影響している([Snyder 2006: 139-141])。それゆえに、(1)の共通の用 法には、一般的に付与されている意味だけでは なく、当時の物理学における用法も含もうとし た、と言える。そうすると問題は、一般的な用 法と当時の物理学の用法は共通しているのか、

ということではあるが、ミルが実際に4 4 4定義を試 みていることから考えれば共通していると考え ていたはずである。ここではそうであると仮定 して(2)の共通の属性はあるのかという問い に進もう(語法による共通性は属性を共有して いることを必然的に示しているわけではないこ とに注意されたい)。

Ⅲ節で見たところでは、外在的対象の「外在 性」には3つの要素が含まれていた。これが物 質に共通の属性だろうか。そうであるならば、

ミルはⅡ節の(c)を受け入れているのではな いか。このことは後に考えることにして、先に 外在性を分析したい。これについてミルは次の ように述べている。

 「私はテーブルの上にある白い紙片を見る。私 は別の部屋に行く。もしも現象が私に常に従う

〔別な部屋に行っても紙片が見え続ける〕ならば、

もしくはそうでないときに事物の本性が消滅す ると信じるならば、それは外在的対象ではない」

[Mill 1979: 179]。

これはまず第1の要素(永続性・独立性など)

を指摘したものである。ところが、ミルにとっ てはある種の知識の相対性はすべての知識は感 覚に由来することを含意する(Ⅱ節の(d)を 参照)。そうすると、私が別の部屋に行くならば、

私はテーブルの上の紙片を直接知覚することは

できないので、外在性の第1の要素について考 えるだけでその知識の相対性テーゼは破綻する のではないか。ミルによれば、そうではない。

上の引用にあるような外在性の第1の要素は正 確に何を意味しているのかを考えなければなら ない。そうして分かるのは、「あらゆる時点で 存在している世界について私が形成する概念 は、私が感じている感覚とともに4 4 4 4感覚の可能性 の無数の多様性から成っている」ということで ある[Mill 1979: 179, 強調引用者]。このように 可能性を持ち出すことでミルは外在性の第1の 要素を説明しようとしているが、これはⅡ節の

(d)を「すべての知識は感覚と感覚の可能性に 由来する」と修正しなければならないことを示 しているのか。確かに、ある点ではそうである。

というのも、以下のようにも述べているからで ある。

 「一般的に言って、私の現在の感覚はさほど重 要ではなく、変化しやすいものである。逆に、諸 可能性は永続的なものであって、これこそが主と してわれわれの実体や物質の観念を感覚の観念 から区別する特性である」[Mill 1979: 180]。

ミルはこのような永続的可能性を「条件付き 確実性」「確証あるいは保証された感覚の可能 性」などの名称で呼び、「単なる曖昧な可能性」

と区別すべきだと提案している。これらを区別 する指標は2つある。まず第1に、経験がその 保証を与えるかということであり、第2に、集 合的に感じられるかどうかである。すなわち、

ある集合に含まれる感覚をもつときには、残り の感覚ももっているかのように思われるかどう かが2つ目の指標となる。したがって、とミル

(10)

は続けている。

 「われわれの心の中では4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、この特定の感覚の可 能性に《現実にはいかなる感覚もまったく感じて いないときの永続性》という性質が付与されるだ けではない。いくつかの感覚をもっているときに 集合の中の残りの感覚も現在の可能性という形 でわれわれに認識される4 4 4 4 4 4 4 4 4 4のである」[Mill 1979:

180, 強調引用者]。

この文章は2つのことを述べていることに注 意しよう。まず最初に、いかなる感覚も感じて いない場合にも外在的対象は永続するという性 質が感覚の可能性にわれわれによって4 4 4 4 4 4 4 4付与され る。次に、ある集合に含まれる感覚をもてば、

同時に現在の可能性という形で同じ集合内のそ の他の感覚ももっているとわれわれは4 4 4 4 4認識す る。これらは、われわれの心において作用する ことである。こうした見解は、観念連合法則に 基づいたわれわれの4 4 4 4 4「物質」概念の分析として は申し分ないかもしれない。ところがミルは、

物質の4 4 4本性を分析しているかのように書いてい ることもある([Ryan 1987: 90-91]の言うよう に、この2つは切り離せないと考えていたとい う解釈もありうる)。しかし、この問題につい て考える前に、残りの分析を見ておきたい。

ミルは、感覚の集合に続いて、因果性を導入 する。感覚は、固定された集合だけではなく、

固定された順序も形成する。そして、連続性の 順序が観察によって確証されたならば、原因と 結果の観念が生み出される、と述べる。われわ れの感覚の間の固定された順序とは前件と後件 の恒常性であるが、現実の感覚の間には恒常性 は存在しない(ように思われる)。これに対して、

ミルは次のように応答する。

 「自然の中で生起する恒常的連続のほとんどす べてにおいて、前件と後件は、感覚間ではなく、

これまで語ってきた集合間で成立する。この集合 では、非常に小さな部分が現実の感覚であって、

大部分は感覚の永続的可能性である。この可能性 は、小さく多様な現実の感覚によってわれわれに 明示される」[Mill 1979: 180-181]。

それゆえに、因果性、力能、活動の観念は、「感 覚ではなく、感覚の可能性の集合と結合してい る」[Mill 1979: 181]。そして、このように因果 性の観念が感覚の可能性の集合と結びつけられ たならば、「感覚は全体の原初的基礎4 4 4 4 4(original foundation)であるけれども、われわれに依存 する一種の偶発的なものと見なされる」。それ に伴って、「可能なものとしての感覚の全体集 合は、所与の時点で、1つないしそれ以上の現 実の感覚の永続的背景を形成し、諸可能性と現 実の感覚は原因・結果の関係にあると認識され る」[Mill 1979: 181]。このようにして外在性の 第2の要素である感覚の原因が説明される。

以上のプロセスはわれわれに、つまり私とあ なたに共通であり、「われわれは、他者も彼ら の期待と行動をわれわれが根拠づけるのと同じ 永続的可能性に根拠づけているのを見出す」

[Mill 1979: 182]。こうして、外在性の第3の要 素である共通性が得られる(先に他者の心の存 在は論じておいた)。

とはいえ、先に述べたように、感覚は多様で ある。これをどのように説明するのか。ミルに よれば、多様性を説明する理論としては、第1 にわれわれの間での精神的感受性の相違は究極

(11)

的事実とするもの、第2に以前の諸個人の精神 史の帰結と説明するもの、第3に物理的組織の 多様性に依存すると説明するものの3つが考え られる(第1のものも説明に含めれば)。この 中で第3の物理的説明についてミルは(脳や神 経系の重要性などに言及しつつも)経験的デー タが不足していることから多くを語っていない が、説明の可能性を排除すべきではないと述べ て い る( た と え ば、[Mill 1973-4: 850,856- 857;1978: 348,353]などを見られたい)。ここで は議論のために、2番目と3番目の説明が認め られたと想定し、それらの説明要因をまとめて αと表記する。そうすると、ミルによれば、

(e) (感覚の永続的可能性+α)⇒現実の感 覚の多様性

という関係が成立する。これならば確かに「永 続的可能性はわれわれとわれわれの同胞に共通 であるが、現実の感覚はそうではない」という ことも示される([Mill 1979: 182])。こうして 外在的対象のすべての属性は説明されたのであ り、結論として、「物質とは感覚の永続的可能 と定義されるかもしれない」が導かれる。

以上の考察から、(しばしば論述が不明瞭で あっても)ミルは「物質」概念を定義しようと したと解釈すべきことが分かる。なぜならば、

Ⅰ節で見たように、定義は名前や語に関連する ものであり、なおかつ、ミルは「物質」概念に 含まれる要素についてのわれわれの4 4 4 4 4知識を観念 連合法則によって説明しているからである。

それでは、ミルの概念分析は成功しているの か。これについては次節で考えることにしよう。

Ⅴ ミルへの批判

ミルの定義について、最初に感じられる不満 は、物質には感覚の可能性以上のものが含まれ ているというものだろう。知識の相対性によれ ば、私は p を私と相対的に知る。これは私と p は別個4 4であることを示している(そうでなけれ ば、すべての知識は自己知であることになる)。

つまり、たいていの場合、私は何かを知るとき に、私とは違った何かについて知るはずである。

しかし、感覚は私的であり、すべてが感覚に由 来するならば、結局すべての知識は自己知にな るのではないか。このような批判に対するミル の応答は観念連合法則に基づいたものである。

 「任意の1つの感覚とそれ4 4とは異なった何かの 間に存在すると見出す関係が何であれ、その関係 が感覚の全ての総計とそれら4 4 4とは違った何との間 にも存在すると認識することにはいかなる困難も ない。ある感覚と別のものとの間に意識が認める 差異は、差異の一般的観念を生み出し、それはす べての感覚と違っているという感情を分離不可能 な程に結合させる」[Mill 1979: 185, 強調原文]。

自己知以外の知識を問題にして、私は p を私 に相対的に知るとしよう。この場合、私と p は 別個である。次に、私は q を私と相対的に知る。

そして、私と q は別個である。このことを繰り 返せば、「われわれが知っているそれぞれの

(each)ものとは違った何かという観念のこの なじみ深さは、われわれが知っているすべての

(all)ものとは異なった何かの観念を形成する のを個別的にも集合的にも容易かつ自然にす る」[Mill 1979: 185]。これが不満に対するミル の診断である(実際のところ、ミルの診断には

(12)

2 つの説明の可能性がある(8))。

確かに、われわれは「それぞれの」と「すべ ての」という語を通常の場合は区別できるよう に思われるが、自己の本性や心のような問題に なるとそうではない。ミルによれば、「心につ いてのわれわれの知識も物質についてのものと 同様に完全に相対的である」[Mill 1979: 188]。

そして、先と同じプロセスによって、感覚や他 の感情の絶え間のない流れとは対比される概念 を形成する。それに対するミルの説明は物質の 場合と同様である。

 「私の心は、何も感じておらず、思考もせず、

それ自身の存在を意識していないときでも存在 するという私がもっている信念は、これらの状態 の永続的可能性に分解される」[Mill 1979: 189]。

これはほとんど誰も受け入れない極端な見解 である。先程見たところでは、永続的な可能性 は共通のものであったのに対して(外在性の第 3の要素)、現実の感覚は私的である。ミルは、

私の心が共通なものに分解されえるかのように 述べている。これは私とあなたが同一でありう る 可 能 性 を 含 意 す る(cf.[Scarre 1989: 198- 199])。

この批判にミルはどのように答えるのか。あ りうる1つの応答は、(e)に訴えるものであり、

次のように述べるだろう。永続的可能性は共通 であっても、+αの部分が異なる。ゆえに、現 実の感覚も異なり、結果的に、私とあなたは同 一ではない。

しかしながら、このような応答はミルの議論 を循環に導くように思われる。それについて述 べる前にⅡ節の(c)と(d)の関係を整理して

おこう。ミルの分析は、観念連合によって、わ れわれの「物質」概念を説明するものであると 仮定する。そうすると、これまでの分析によっ て、Ⅱ節の(c)「外在的対象は感覚の原因であ る」は、意味を変えずに、「原因であると考え4 4 られる4 4 4」に翻訳され、さらに、Ⅱ節の(d)「わ れわれのすべての知識は感覚に由来する」を仮 定すると、(d)によって(c)が説明される。

したがってⅡ節の知識の相対性自体には不整合 性はない。ここまではよいのだが、ここで(e)

を導入すると、循環するように思われる。再び、

ミルの言う感覚の永続的可能性とは、「感覚の 永続的可能性」というわれわれが4 4 4 4 4形成する概念 であると仮定しよう。観念連合による説明から 考えれば、外在的対象についてわれわれが形成 する概念は、意味を変えずに、「感覚の永続的 可能性」という概念に翻訳されうると解釈する のが自然である(そうでなければミルの定義は 失敗していることになる)。しかしそうすると、

(d)より、「感覚の永続的可能性」概念は感覚 に由来することになる。ところが、(e)より、

現実の感覚には感覚の永続的可能性+αが必要 とされる。(d)より「感覚の永続的可能性+α」

は感覚に由来する、そして感覚には…以下同様 に続く。

さらに、こうした循環の可能性はミルにとっ て基本的な概念である「類似性」にも見られる、

という批判もある。

ミルの試みにおいては、類似性が特別な地位 を占めている。これは、クラスの形成の際に類 似性の知覚が先行するとしていたことや他者の 心の存在を論証する際に類似性を仮定していた ことなどから明らかである。しかし、当の類似 性についてミルは明確には述べていない。

(13)

通常、同一性は、対称性・反射性・推移性か らなる。この中のどれを否定すれば類似関係に なるだろうか。W・R・デ・ヨングによれば、

否定すべきは反射性である。というのも、ミル にとっての類似性は異なった4 4 4 4感情の間に成立す るものだからである[de Jong 1982: 196]。

そして、反射性を否定して得られた類似関係 は、感情を比較する可能性を与えるかもしれな いが、特定の属性の導入を正当化しない。換言 すれば、仮に、感覚 w1と w2の間に類似関係が 成立するとしても、このことは w2を白いと名 付けること、つまり感覚 w2を白いという属性 に連関させることを正当化しない。なぜならば、

そのためには w1は白いということを確立して おかなければならないからである。すなわち、

(Ⅰ) 「w2は白い」は、「ある x が存在しており、

その x について w2は白いという点で x と類似しており、なおかつ、x は白い」

と同値である。

そして、類似関係は感情の集合を多くの同値 クラスに分割し、この同値クラスが属性を構成 する。これがミルの公式見解である。ところが、

ミルにはもう1つの見解がある。そこでは、属 性は、明示的に類似性と同一視され、すべての 属性には特定の4 4 4タイプの類似性が付随する、と されている(w2は w1と白いという点で類似し ている、b2は b1と黒いという点で類似している、

などなど)。もちろん、様々な特定の類似性は 一般的な4 4 4 4類似関係と緊密に結びついている。ゆ えに、白いという点での類似性について、以下 が主張できる。

(Ⅱ) すべての x と y について「『x は y と白 いという点で類似している』は『ある z が存在しており、その z について x は y と類似しており、y は z と類似し ており、なおかつ z は白い』と同値で ある」が成立する。

(Ⅲ) すべての x と y について「x が白いと いう点で y と類似しているならば、x は y と類似している」が成立する(9)

また x が y と類似しているならば、(正確に 1つの)特定の類似性が存在する。したがって、

「特定の類似性は、非特定の類似性を含意し、

逆もそうである」[de Jong 1982: 197]。という ことは、外延的に見れば、2つのアプローチに 違いはない。そして、ミルが見逃しているのは、

類似性それ自体も独自の属性を構成すること、

それゆえに、ミルの分析を進めるならば感情に 基礎づけなければならないことである。しかし、

その試みは絶対に成功しない。ここで以下のよ うな類似性の感情があったとする。

r1:w2は w1と類似している。

r2:w3は w1と類似している。

この場合に、「r1と r2が同じ属性、すなわち 類似性によって連関させられているならば、

w1、w2、w3は同じ属性と結合していると結論 づけられる」が、「感情 r1と r2はそれ自体では こ の 結 論 を 正 当 化 し な い 」[de Jong 1982:

198]。この結論のためには「r1と r2が類似性に よって連関させられている」必要がある。しか しながら、容易に想像されるように、このよう に進めると循環もしくは無限後退に陥る。この

(14)

ことから次のように述べられている。

 「簡潔に言えば、感情の分類との関連において、

普遍(つまり属性)は常に前提とされている4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。属 性の特殊(すなわち感情)への完全な4 4 4還元は失敗 している、という結論は不可避である」[de Jong 1982: 198, 強調引用者]。

実際に、ミルは類似性のはらむ問題に気付い ており、類似性は「われわれの他の〔類似性以 外の〕あらゆる感情を分析しようとするすべて の試みに前提とされている」ため、「独特で、

分解不可能で、解明不可能である」と述べてい る[Mill 1973-4: 70]。しかしながら、これで納 得する人はほとんどおらず、何らかの考察が必 要とされる。

ありうる応答は2つの部分から成る。まず第 1に、類似性の知覚は独特なものであるが、そ れを記述する際には属性(普遍)を前提とする というように知覚とその記述を区別する。その ように知覚が独特なものであることが認められ たならば、第2に、類似性の知覚によってクラ スを形成すると考える。Ⅰ節で見たところでは、

現象からのクラスや概念の形成は、試験的プロ セスであり、一度形成した概念やクラスを基準 として現象を比較することはできるとされてい た。そうであるならば、「r1:w2は w1と類似し ている」から「w2と w1はクラスを形成する」

が導かれる。このクラスを C1と呼ぼう。次に、

「r2:w3は w1と類似している」からは「w3と w1はクラスを形成する」と進み、このクラス を C2と呼ぶのが自然であるように思われる。

ところが、ここで w3と w1だけを比較するのは 適切ではない。というのも、「われわれは概念

を得るために、現象を相互に比較し、それから、

これらと他の現象を概念と4 4 4比較する」からであ る[Mill 1973-4: 654]。ゆえに、一度クラスを 形成したら、w3と比較すべきは w1と w2と C1

である。そして、この場合には、w1、w2、w3

を要素とする C2が形成されるかもしれないし、

C1が修正されるかもしれない(それゆえに、こ のプロセスは試験的なものである)。確かに、

ここでは白さという属性を前提としているよう に思われる。しかしながら、最初に前提として いたものを後に修正しうることを認めているた め、完全な還元はできなくとも相対的な還元は

(原理的には)可能である。つまり、「すべての4 4 4 4 属性を感情に還元することはできない」が真で はあっても、これは「それぞれの4 4 4 4 4属性を感情に 還元できない」を含意しない。

「感覚」と「感覚の永続的可能性」という概 念の場合にも同様のことが言える。感覚は原初 的基礎であるが、観念連合によってクラスを形 成し、「永続的可能性」という概念を形成する。

そして、それを感覚と比較するというプロセス には何も問題はないように思われる。このよう に述べると、永続的可能性が変化する可能性を 認めることになり、これは矛盾ではないかと思 われるかもしれない。しかしながら、ミルの説 明をわれわれの概念の分析であると捉えるなら ば、ここに矛盾はない。結局のところ、観念連 合によって不変であると思われることと実際に 不変であることは別個である。そして、19 世 紀の物理学が明らかにしたのは、物質はわれわ れが思っているようなものではないかもしれな い と い う こ と で あ る( た と え ば[Harman 1982]を参照)。ミルの定義はこのような変化 の可能性を認めている点に特徴があり、これは

(15)

欠点ではないように思われる。

最初に述べたように、ミルの定義はこれまで 何百回も引用されてきた。その分、批判も多数 ある。しかし、それについて検討するのはまた 別の機会に譲らなければならない。

*本研究は、科学研究費補助金(課題番号 23- 7483)の助成を受けたものである。

〔投稿受理日 2011.11.19 /掲載決定日 2011.12.8〕

⑴  本節では、ミルの『論理学体系』における定義 論を参照するが、ここでは現代論理学や数学にお ける定義(たとえば、[Suppes 1999: ch.8])とは 異なった定義について論じていることを念頭に置 いておかなければならない。

⑵  ミルによれば、固有名がそうである。たとえば、

イギリスのある都市は、ダート(Dart)川の河口

(mouth)にあることから「ダートマス」と呼ば れているが、何か天変地異が起こって、もはやダー ト川の河口にある都市ではなくなったとしても、

そのことによってそこが「ダートマス」と呼ばれ なくなるわけでは(必ずしも)ない。つまり、一 度名前が与えられたならば、名前を与えた理由か らは独立する点で、固有名は意味(内包)をもた ないのである[Mill 1973-4: 33]。B・アボットが 指摘するように、アメリカのニュー・ハンプシャ

―にあるダートマス・カレッジはこのことを示し ている、と言えるかもしれない([Abbott 2010:

14])。

⑶  ミルによれば、「疑いは、意識の状態ではなく、

意識の状態の否定である」[Mill 1979: 129]。した がって、仮定によって、意識の状態は疑いえない。

⑷  しかし、実際のミルの論理学は特定の哲学的見 解を前提としているというのが一般的な見解だろ う。とりわけ知識の相対性と『論理学体系』の関 連 に つ い て は[de Jong 1982: ch.8;Scarre 1989:

ch.7]などを見られたい。

⑸  もちろん、ここで(b)は感覚以外の4 4 4要素も知 識の要素であるという主張と解釈している。これ が否定されるならば、(d)は(b)を含意するこ とになる(が、逆はそうではない)。知識の相対 性についての詳細は[Mill 1979: ch.2]で論じら

れている。

⑹  観念連合については、ジェームズ・ミルの主著 でミルらが膨大な補注をつけた[Mill 1982]を見 られたい(ミルの補注は[Mill 1989: 93-188]で 読むことができる)。また、最近の研究では[Wilson 1990;1998]が緻密に論じている。

⑺   た と え ば、[McCloskey 1971: 152-155;Scarre 1989: 196ff.;Skorupski 1989: 238-240;Hamilton 1998: 170-171]などを参照。例外的に擁護したも のとしては、[Wilson 2010: 624-625]があげられる。

⑻  それは、量化子の違いと様相オペレーターの違 いに訴えるものである。相対性を除いて簡潔に言 えば、前者は、「(∀ x)(∃ y)[Pxy]」と「(∃ y)

(∀ x)[Pxy]」の違いであり、後者は、「(∀ x)

◇[Px]」と「◇(∀ x)[Px]」の違いなどなど である。

⑼  以上の(Ⅰ)~(Ⅲ)は、以下のように表現される。

(Ⅰ)w2は白い≡(∃ x)[w2Rx & x は白い]

(Ⅱ) (∀ x)(∀ y)[xRwy≡(∃ z)(xRz & yRz & z は白い)]

(Ⅲ)(∀ x)(∀ y)[xRwy → xRy]

参考文献

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(edited by J. M. Robson), The University of Toronto Press.

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参照

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