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非経験者による被爆をめぐる新しい語り

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非経験者による被爆をめぐる新しい語り

―― ピースバトンナガサキの実践を手がかりに ――

冨永佐登美

1.はじめに

長崎へ原爆が投下されてからすでに69年が経過した。24年現在、被爆者の平均年齢は79歳 を越え、被爆経験を語る方も減少している。長崎においては、被爆を直接経験した人が近い将来 いなくなってしまうことへの対抗策として、手記の作成、経験談の映像化などとともに、被爆経 験を語り継ぐ実践も続けられてきた。20年代には、被爆者たちの語りを継承するものとして、

被爆を経験していない人たち(非経験者)が被爆について語る活動も開始された。ところが、

それらの活動において「被爆体験の風化」という言葉がしばしば用いられるように、被爆者たち の語りをうまく引き継げないという感覚も共有されている。

筆者は27年以降、長崎において被爆をめぐる語りを実践している被爆者や非経験者たちの活 動を参与観察し、継承活動において彼らが感じる「語り継ぎの困難」とはいかなるものなのかを、

おもにその語りの形式に注目して考察してきた。本稿では、まず長崎における被爆をめぐる語り がどのようにして生まれ変化してきたか、地方紙の記事を参考にしつつ概観し、長崎で作り上げ られてきた被爆をめぐる語りの枠組みが、継承活動にどのような影響をあたえているのかを考察 する。そのうえで、ある非経験者グループの実践を具体的に検討することで、非経験者に可能な

「被爆をめぐる語り」の新しいありようを提示することを目的とする。

2.長崎における被爆をめぐる語り

2.1.被爆をめぐる語りの誕生

5(昭和20)年8月9日の長崎への原爆投下から1週間後に第二次世界大戦が終結し、日本 は占領統治を受けることとなった。7年間にわたる占領期に検閲制度が敷かれたことが、戦争や 被爆に関して公式に語られにくかった原因のひとつとも言われている

しかし、じつは原爆投下から3か月後には被爆をめぐる語りが公的に一度実践されている。広 島および長崎への原爆投下の影響を調査した当時の文部省学術研究会議原子爆弾調査委員会が、

被爆者から「原子爆弾の体験をきく」会を開催していたのである。以下は長崎新聞に掲載された 語り手募集の文章である

長崎市における原子爆弾被害に関して医学的調査研究を行うため文部省学術研究会議原子爆

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弾調査委員会では連合軍に協力し目下長崎に於てこれが調査研究をすすめていますが、その 研究に貴重なる資料を提供すべき対象として八月九日(戦災当時)長崎市岡町刑務所周辺の 横穴壕に避難し生命を取り止められた方々の直接の体験談を徴取することが最も重要とされ て居ります。(長崎新聞 15年11月4日付)

この文章からは、被爆経験が公式に語られた最初の機会では、聴取の目的が連合軍への情報提 供にあったことがわかる。同月8日の長崎新聞では、この募集に10数名が応じその語りから正確 な爆心地が科学的に割り出されたと報じられている。つまり、連合軍と文部省は、爆心地の正確 な位置を特定するために、投下の瞬間に爆心地近くに居合わせた人たちの語りを募集したのであ り、その場で起きていたことを科学的に証することのみが「最も重要」な目的とされていた。被 爆をめぐる語りは、その発生時から〈出来事を証するための真正な語り=証言〉であることが求 められていたのである。

米山リサは、被爆者の語りが、自身の被爆経験を客観的に証明する文脈のもとに置かれてきた と指摘している。

広島と長崎の従来の語りは、しばしば生存者を発話主体として確立すると同時に、ナショナ ルかつ法官僚的な手続き、あるいは医学的、精神医学的な調査において、そして平和、反核 運動といった当時の強力な反体制的言説パラダイムのなかで、語り手を真実のレジームに従 属させた。(米山 25:15)

この制度化された医学的・法的手順が、物語化という、原子爆弾の記憶が形をとったそのス タイルを大いに方向づけている。(米山 25:14)

被爆者による最初の公的な語りは、爆心地の正確な位置を確定するために求められた。被爆者 の語りはまさしく〈出来事を証するための真正な語り=証言〉として必要とされたのである。米 山によると、その後も、たとえば被爆者健康手帳の申請を行なう際に、あるいは医学的調査の対 象となった際自身の被爆経験を証明するために、被爆者たちは経験を語るよう要請されてきた。

そこでは、語られている内容は語り手本人が経験したことか否か、そしてそれは真正であるかに 最も大きな関心が寄せられた。被爆者が従属している「真実のレジーム」すなわち、「経験の語 りは〈出来事を証するための真正な語り=証言〉でなければならない」がいかに強固なものであ るかは想像に難くない。このような経緯のもと、被爆者たちも被爆に関する語りを、出来事を証 するために間違いなく真正と言える経験談に限定していったのである。このことは、のちの継承 活動の際、被爆をめぐる語り=証言という制約となり、証言以外の、たとえば被爆者の戦後の生 活史などの重要性が認識されにくい状況を生み出している。

2.2.被爆をめぐる語りの変遷

証言としての語りに加えて、被爆者たちが「被爆者として」自身の悲惨な経験を語り始めた

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のは15年の原水爆禁止運動と連動してのことである。東西対決を背景として米英ソを中心に毎 週のように核実験が行なわれていた時代、日本でも原水爆禁止運動が高まりを見せていた。被爆 から10年あまり経過したこの頃、原爆症による被爆者の死亡という報道も相次いでいた。度重な る被爆者たちの死によって、核兵器が爆発の瞬間だけでなく、その後の何十年にもわたって人び とを傷つけることや、核兵器が実際に使用される可能性がリアリティーをもって認識されたので ある。このような状況にあって、被爆者たちは核兵器廃絶を求めて自身の苛烈な被爆経験を披瀝 し、恒久平和への希求と結び付けて語り始めた。たとえば、15年6月18日の長崎日日新聞では、

世界母親大会で被爆経験を発表する山口みよ子さんが、「十年前あの生地獄を体験した一人とし てまた数多くの犠牲者を犬死させないために平和への熱望を訴えたい」と語ったと掲載されてい る。被爆者たちは、自らの被爆経験を語ることで原爆投下という出来事を証し、そのうえで核兵 器廃絶や恒久平和を強く訴えることが求められた。

被爆者たちの語りに「継承」という目的も加えられたのは、原爆投下から40年ほどが経過し、

被爆者の高齢化と減少が表面化してからのことである。長崎市は、12年財団法人長崎平和推進 協会を設立し、被爆者が修学旅行生など非経験者に対面して経験を語る「語り部による被爆体 験講話」制度を開始した。協会の公式サイトには、「原子爆弾による被害の実相を広く国の内外 に伝え、永く後代まで語り継ぐとともに、歴史に学んで、核兵器のない恒久平和の世界を築くこ とを誓う」(長崎平和推進協会 13)という理念が記載されている。つまり、10年代から、

長崎においては、核兵器廃絶を基にした恒久平和の確立を究極の目的として、被爆の経験を後代 へ継承するという文脈が生じたのである。語り部たちは、語りの実践場所や内容について指定や 制限を受けなかったものの、当日の様子と行動から自身が被爆者であることを証しつつ、「だか らこそ被爆者は非経験者へ核兵器廃絶を強く伝えることができる。非経験者はそれを受け取り引 き継いでもらいたい」と訴えるようになった。

被爆60周年を迎える頃になると、被爆者の高齢化と減少はますます顕在化した。そのため、長 崎においても、被爆者たちの活動を受け継ぐことを目的とする試みがなされるようになった。な かでも平和推進協会が24年に開始した「平和案内人」は最もよく知られる組織のひとつである。

平和案内人は、修学旅行生や個人客とともに資料館(原爆資料館および隣接する国立長崎原爆死 没者追悼平和祈念館)や被爆遺構を巡り解説を行なうボランティアガイド、およびその制度のこ とである。平和案内人となるには、!8歳以上であること、"約15回の育成講座の80%以上を受 講すること、が条件であり、被爆経験は問われない。すなわち、平和案内人の活動は非経験者 にもできる被爆をめぐる語りの実践であり、一般的には高齢化した被爆者たちの語りを受け継ぐ ものとして認識されている。ただし、彼らの活動内容は「平和案内人事業実施要綱」により、次 の3種類と規定されている。「原爆落下中心地及びその周辺の被爆建造物・慰霊碑等の解説」「長 崎原爆資料館、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の展示解説」「その他協会が行う事業への参 画等」である(長崎平和推進協会 24)。つまり、継承を目的としつつも、平和案内人の活動の 場所や内容には規定による制約があり、語り部の被爆体験講話とは方法や様式が異なっている。

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2.3.被爆をめぐる語りの現状

被爆をめぐる語りが原爆投下という出来事を証することを目的としてきたことは、被爆につい ての語りを実践する平和案内人の活動にも影響を及ぼしている。非経験者である平和案内人は、

直接的経験のない自分自身の語りからは出来事を証することはできないため、被爆者のようには 一人称での語りを行ないにくい。また、語りを実践する場所や方法が決められているため、おの ずとその内容が数値を中心とした客観的な事実提示を行なうことに固定されがちである。つま り、平和案内人は、被爆をめぐる語りが提示してきた〈出来事を証するための真正な語り=証言〉

の文脈を受け継ぎつつも、非経験者の立場からの語りを実践するために、数値や事実の提示を中 心とした語りの形式を選択する。しかし、それのみでは、被爆者が語るようには聴衆の感情を動 かしにくい。その結果、平和案内人たちはつねに「非経験者の自分に被爆を語ることはできるの だろうか」という逡巡を抱えつつ実践を行なうこととなる。つまり、平和案内人が感じる活動の 困難さは、語りの現場では〈経験を語ることは唯一被爆者にしかできない〉という認識を前提と し、しかしその継承を担っているがゆえに生じているのである。しかし、近い将来直接的な経験 を語る被爆者がいなくなることを考えると、非経験者にも可能な、あるいは非経験者だからこそ 可能な被爆をめぐる語りとはいかなるものかが検討される必要がある。その一助となるのが活動 の内容や形式に比較的制限の少ない自主活動グループの実践なのである。公的な組織によって運 営され、内容や方法に制約も多い平和案内人ではなく、制約が少ない私的な自主活動のグループ によって、非経験者ならではの課題の克服を目指した新しい試みが実践されつつある。次章にて その試みの一例を提示する。

3.被爆をめぐる新しい語り――ピースバトンナガサキの実践より

本章では、被爆をめぐる新しい語りの可能性を探索するという観点から、ピースバトンナガサ キによる実践を検討する。ピースバトンナガサキは、25年に平和案内人の有志数名により結成 された自主活動グループであり、メンバーのほとんどが非経験者である。非経験者という立場か ら客観的説明(ガイド)に活動の形態を固定化した平和案内人と異なり、ピースバトンナガサキ は常に新しい表現方法を試行している。第1節においては、ピースバトンナガサキがなぜ自主活 動グループとして結成され現在まで活動を継続しているのか、活動にどのような固有性があるの かを概観する。それを踏まえて、第2節ではピースバトンナガサキが実践したプログラムを具体 的に検討しその特徴を明確にする。ピースバトンナガサキによる新しい活動の試みを検討するこ とで、非経験者による被爆をめぐる語りのひとつの可能性を提示したい。

筆者は、20年10月から21年11月まで、ピースバトンナガサキの練習や活動実践に同行し、

参与観察を行なってきた。これまでに、練習への同行を13回、活動実践への同行を6回行なって いる。20年10月15日、21年3月25日、21年9月2日には、練習終了後にそれぞれ1時間程 度のインタビューを行なった。インタビューは、練習後残っていただける方による座談会の方 式をとった。本稿では、インタビューや練習時のミーティングの音声をトランスクリプト化した ものをデータとして分析に利用する。

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3.1.自主活動グループ・ピースバトンナガサキの設立 と特徴

平和案内人の第1期生がガイド活動を開始した25年、

ある平和案内人を個人的に知る中学校から講演の依頼が あったという。依頼された平和案内人は平和推進協会に 相談せずに中学校での講演を受諾した。ところがそれが 平和案内人の活動範囲から逸脱しているとして問題化し た。前章において述べたように、平和案内人には規定に より活動の場所と方法に制約があり、それ以外の活動を 平 和 案 内 人 と し て は 行 な え な い(長 崎 平 和 推 進 協 会 4)。そこでこの制約の外部に出た活動を行なうこと を目的として自主活動グループ「ピースバトンナガサ キ」が立ち上げられ、学校へ出向いての講演を引き受け るようになった。彼らは学校へ出向いての講演を「出前 講座」と名付けた。その後も同様の依頼が続いたためこ の活動は続けられ、定着した。

5年に発足して以来、「ピースバトンナガサキ」の

メンバーたちは、依頼があった学校や団体に出向き、被爆に関する出前講座を行なってきた。内 容は原爆投下や被害の状況などを客観的に教授するものであり、平和案内人による解説とさほど 違いはない。しかしその形式は大きく異なっている。ピースバトンナガサキは、会場にスライド プロジェクタを持ち込み、画像やアニメーションなども含んだ独自のプレゼンテーション・ファ イルを使用しながら講座を進めるのである。この講座に加えて、彼らは活動3年目頃より詩や手 記の朗読や紙芝居の上演といった、新しい語りのスタイルを組み込み始めた。現在では、講義形 式の講座と、朗読や紙芝居などの上演を組み合わせたものを「出前講座」として提供するよう になっている。とりわけ小中学校への出前講座では、講座と上演の二本立ての形態を基本とし ている。講座と上演が併存することが、ピースバトンナガサキによる出前講座の特徴である。

活動に常時参加するメンバーは約10名であり、幼児期に被爆した人、被爆二世の人、被爆者で も二世・三世でもない人がそれぞれ同程度の割合を占めている。メンバー全員が平和案内人とし ての活動も続けながら、月2回練習を行なうほかに、学校などへの出前講座や朗読イベントへ の出演を行なっている。20年7月には、長崎県美術館にて、被爆に関する資料を展示した空間 で朗読や講話を行なうイベント、ピースバトンフェスタを主催した。ピースバトンナガサキは、

自主活動グループであるため、平和推進協会をはじめいかなる公的な組織にも属していない。た だし、メンバー全員が平和案内人でもあるため、平和推進協会の会議室を練習場所として借用し、

資料館内で朗読の実践活動を行なうなど、平和推進協会とは近しい関係を保っている。

出前講座では、講師役が、主催者の希望や時間、聴衆の年齢や理解度などを勘案したうえで、

使用するスライドを選択し構成を決める。その際の語りは平和案内人のガイドにおける語りと同 じく被爆という出来事の外部に視点を置いた三人称的な語りが中心となる。しかし、講師役は聴

写真1.講座の様子

写真2.生徒たちによる詩の朗読

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衆の反応を見ながら即興で語りを構築していく。それゆえ語りの内容も方法も固定化されていな い。聴衆にクイズを出し、その反応によりその後のスライドや語りを変更する場合もある。すな わち、講座において数値を中心とした事実性レベルでの語りを行なう場合でも、ピースバトンナ ガサキのメンバーたちは聴衆との相互作用の場を作り可変的な語りを実践しているのである。

講座に続いて行なわれる上演でも、聴衆の年齢に合わせた演目が選ばれ、前後には解説が加え られる。最近ではその場で生徒に紙芝居や詩の朗読を担当させる事例も増えている。つまり、ピー スバトンナガサキのメンバーたちは、三人称的な語りによる講座の後に、詩などの朗読による一 人称的な語りを作り出すことによって、被爆という出来事の内部に視点を置いた語りを聴衆にも 共有させようとしているのである。

実践活動終了後、ピースバトンナガサキのメンバーたちは反省会を開き、問題点や対応策を話 し合う。次の出前講座においてはその対応策が実践される。一例を挙げる。諫早市の小学校で出 前講座を行なった際、講師は爆心地とその小学校のあいだの距離を口頭で何キロと説明した。と ころが、反省会において、口頭では子どもたちが距離をイメージできなかったようだとの指摘が あった。それを踏まえて、次週の出前講座(同じ諫早市の違う小学校)では、距離数を書き込ん だ地図のスライドが挿入された。4〜6年生を対象とする講座では、その距離では福島第一原発 事故における避難指示圏内となることも説明された。このように、ピースバトンナガサキのメン バーたちは、活動において、常に聴衆の反応に注意を向け、問題があれば対処方法を検討し内容 を変化させていく。活動におけるこのような可変性と即応性はピースバトンナガサキというグ ループの大きな特徴である。

3.2.新しい語りの展開――ピースバトンナガサキの実践より 3.2.1.多様な伝え方を模索する

ピースバトンナガサキにはさまざまな団体から出前講座の依頼がある。なかには原爆投下や被 爆、戦争といった言葉をまだ理解できないような子どもを相手に出前講座を行なう場合もある。

0年、彼らはある保育園から3才〜5才児向けの出前講座の依頼を受けた。メンバーたちは幼 児向けに簡略化した講座と紙芝居を組み合わせて出前講座を行なったが、上演後の反省会におい て「幼児には伝わらない」という発言があり、幼児向けプログラムの改良を余儀なくされた。2 年、同じ保育園から出前講座の依頼を受けたため、ピースバトンナガサキは前回の反省をもとに 新しい演目に挑戦した。それは園児が興味を持ちそうな動物や植物が登場する絵本を朗読劇に再 構成したもので、保育園で上演するまでに練習を重ね、小学校1〜2年生にむけての上演も2度 行ない、その都度改変を加えた力作であった。しかし、絵本の内容が複雑だったこともあり、3 才から5才の園児には理解が難しかったという結論にメンバーは至った。以下に引用するのは 反省会でのやりとりの一部である。

N:結局ねー、あの、原爆っていうの、その、私たちの観念で、あのこうーわからせようっ ていうのは(K:うん)もう、まだ無理と思う(K:無理ですね)。3年、3歳4歳、

もうばくぜーーんとでいいのよ(一同:うん)。あぁ、鳥が死んじゃった(一同:うん)

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ね、犬さんが鳴かなくなっちゃった(M:そうそうそうそうそう)猫がいなくなっちゃっ たんだとこれぐらいがわかればもうそれでいいのよ。

M:そこまででいいのよね。

N:もうそれでいいの。

M:私たちはその先を要求するから無理になるの。(冨永:あぁー)

N:原爆っていうのをね理解させようとはじめから頭から思うから(M:そう)無理でね。

K:原爆に関係したものじゃなきゃ、とかさ(一同:うん) N:そう思うからね。

K:先入観なんでしょ?(N:うん、うん)怖い爆弾って。

N:でもみんな周りのものがいなくなるんだなぁという漠然としたこうー(M:うん)、ね

(M:そうそうそう)、イメージがわくくらいでいいのよ。

M:お父さんもお母さんもいなくなったとかね。

N:そうそうそんな感じ、そんな感じでね。

M:したらわかるもんね。

N:そうそうそうそう。それでいいのよまだ3歳4歳ってのは、ね、もう小学校に入ってか らいろんな知識が入ってくるからねそうすると、まぁ、土台があれば知識が、あの、な るから。(21年9月2日)

「保育園はどげんしても難しい」と言いつつ彼らは3才児へも伝わる方法を模索する。従来、

被爆をめぐる語りはまず原爆や被爆について語ることが大前提とされてきた。しかしながら、こ の時Kさんは「(演目を)原爆に関係したものじゃなきゃ、とかさ」と発言することで自分たち が演目の選択肢を狭めていたことを指摘し、これに対して一同が「うん」と賛同している。結果 として彼らは「(原爆に拘らなくても)お父さんもお母さんもいなくなったとかでいい」という 結論に至った。ピースバトンナガサキでは、低年齢の聴衆が原爆や被爆についての一定の共通理 解を有していない場合、戦争の悲惨さや苛烈さのイメージさえ伝われば、原爆とは直接関係のな い内容の語りでもよいと考えはじめているのである。その背景には、聴衆である園児が成長し原 爆や被爆の語りに触れたときの布石として、戦争がもたらす被害についての漠然とではあるが強 烈なイメージを共有してもらう方が、原爆についての客観的な知識を提供するよりも、長い目で 見て効果的である、すなわち「平和(ピース)」を次の世代に確実に「手渡す(バトン)」するこ とに資するという判断がある。

演目を選択する際の自由な発想は聴衆が大人の場合にも発揮される。以下は今後の活動に関す るやりとりである。

冨永:お話を自分たちで、もう完全にオリジナルで作ろうっていう K:作るねえ。

S:あぁもちろんそれいい。

一同:それいいよね。

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M:xxは死んだ、とかね、それを自分たちで作った方が、わかりやすいかもね。

K:そうですよね。

N:そしたら著作権も、なんにもないし(一同:笑) S:そうそうそうそう。

N:ほんとに単純に、ね。(21年9月2日)

自分たちでオリジナルの話を作ることに関してはその場にいた全員が即座に賛同した。このこ とは、彼らが被爆に関する物語の創作に関して、語りを作る主体が被爆者か否かをさほど問題に していないこと、すなわち、上演のような演目においては、語りが〈出来事を証するための真正 な語り=証言〉でなくてもかまわないと考えはじめていることを示唆している。上記のやりとり が契機となったのかは定かではないが、オリジナルの語りはすぐに制作され翌月の朗読会におい て早速上演された。次項ではこの朗読会におけるピースバトンナガサキの実践を検討することに よって、メンバーたちが新たにはじめた試みの萌芽を見出す。

3.2.2.朗読会プログラムから

1年10月30日、ピースバトンナガサキは長崎国際平和映画フォーラムにおいて25分間の朗読 の上演を行なった。このプログラムではいくつかの新しい試みが実践された。まずプログラム全 体をひとつの流れとして整える目的で、演目と演目のあいだにメンバー自作のナレーションが挿 入された。原稿は非経験者であるSさんが作成し、同じく非経験者であるTさんが朗読した。T さんのナレーションの合間に他のメンバー数名による詩の朗読が入るという流れで4編の詩と1 編の随筆を紹介したのである。ピースバトンナガサキは、それまでは被爆者が創作した作品や手 記を上演していた。つまり演目の内容や作者に「被爆」というバックグラウンドを求めていたの である。しかし、この朗読会において、はじめてナレーションすなわち語りを自分たちで制作し、

朗読したことは、ピースバトンナガサキの活動における語りの幅を広げる契機となった。

語り部としても活躍する80代の被爆者TNさん(男性)も朗読に参加した。TNさんは、ピー スバトンナガサキの設立当時からこの自主活動グループに理解を示し、これまでもイベントに参 加したことのある方である。彼は語り部として活動する被爆者であるので、自身の経験を語るこ ともできたであろう。しかし、ピースバトンナガサキは、彼に他者の作でありしかも内容からは 語り手が被爆したか否かも判別できない詩「写真の中の友」を準備した。

演目の中盤で朗読された山田数子の詩「慟哭」には、原爆や被爆という言葉は一度も現れない 子どもを失った悲しみを切々と訴えるこの詩に被爆のイメージを重ねるか否かは聴衆の判断に委 ねられる。この詩を被爆二世の女性と非経験者の女性が輪読するという組み合わせも試みられた。

検討してきたように、従来被爆をめぐる語りの実践においては、真正なる被爆経験が求められ てきた。しかし、ピースバトンナガサキはもともと語り手と被爆との関係性よりも、被爆という 経験が聴衆に最もうまく伝わるやり方を重要視する。その結果、ナレーションを自作したり、T Nさんのように被爆者が他者の経験を一人称で語る、あるいは、被爆とは特定されない語りを非 経験者が朗読するといった多様な形態が試みられることとなった。つまり、ピースバトンナガサ

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キは、はからずも語り手と被爆との関係性を一旦解除してみせたのである。これは、非経験者に よる被爆をめぐる語りに多様な可能性を開く試みとして位置付けることができる。

4.おわりに

ピースバトンナガサキのメンバーは、自分たちの基本的な地歩を平和案内人活動に置き、自主 活動と両立している。証言に限らずさまざまな資料や物語りから自身の考えを発展させ、時には 演目を自作することで、自己の内部に被爆や被爆者に対する思いを蓄積できると考えているので ある。自身の内部に思いが蓄積されることについて、メンバーのNさんは「自分の、自分自身の こう、こやしになっていくっていう感じはー、するね」(21年3月25日)と表現し、その場に いた他のメンバーも一様に賛同した。

じつは、この多様で幅広い語り実践の経験によって「自分自身のこやし」を増やし、それをガ イドの語りに反映させることこそが、〈出来事を証するための真正な語り=証言〉を唯一のもの としてきた被爆をめぐる語りの突破口となりえるのである。このような実践では語りはいわゆる

〈証言〉に限定されない。幼児に対する時にはイメージのみを伝えるような表現にもなるし、新 しい語りを非経験者が創造することもある。被爆者ではない作り手による詩や手記を非経験者が 朗読する場合すら生じる。被爆の実相を直截に表現しなくても、聴衆がそれを感じとることので きる表現が生まれる可能性があるのである。このように、出前講座において多様な語りを実践し たことが、聴衆との間にコミュニケーションの回路を開くことを可能にし、ひいてはすべての語 り部がこの世を去ってしまった後の継承活動の可能性を広げることにつながる。ピースバトンナ ガサキのような自由度の高い自主グループでは、今後も新しい語りが生成されていくだろう。し かも、それだけでなく、彼らの活動が拡がることによって、平和案内人のように公的な立場で継 承を担うがゆえに活動に制約が付されている活動主体を変化させる可能性もある。

ピースバトンナガサキのメンバーたちが平和案内人の活動とともに自主活動を続けているのは、

自主活動での多様な実践が――制度的な制約ゆえにたとえ今すぐには困難であったとしても――

いずれは平和案内人の語りにもフィードバックされ、これまでとは異なった可能性や別様の方法 をもたらす可能性を見出しているからではないだろうか。平和推進協会は今後も被爆をめぐる語 りの中心拠点であり続け、平和案内人はその平和推進協会が運営するなかば公的な組織として継 承活動を担っていく。非経験者として被爆をめぐる語りを行なう際、ピースバトンナガサキによ る出前講座のような一人称的語りの実践を含め、活動の方法を多様化することが重要であること を、ピースバトンナガサキのメンバーたちは経験的に認識している。

ピースバトンナガサキのメンバーたちが、自主活動において、その内容や様式を多様化させる 背景には、あと数十年で被爆を経験した人びとがすべてこの世を去ってしまうという現実がある。

非経験者による語り手しか選択肢のない時点において、どのような語りの実践が可能かを私たち は今から考えておかなくてはならない。今はまだ私たちの傍らに被爆者がいて、私たちに向けて 直接語り、あるいは語ろうとしても語りえない姿を見せてくれる。とすれば、非経験者は現在の 長崎において、被爆者とともに〈出来事を証するための真正な語り=証言〉のみではない多様な

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人生の語りを見聞きし、自らのうちに被爆や被爆者に対する思いを重ねておくべきではないだろ うか。あるいは、岡真理が提案するように、経験の核心について語ろうとしても語りえない被爆 者の姿を自らの心に刻み、その姿をも語り伝えていくという方法も試みられるべきであろう(岡 0:77)。これらは、今はじめられなければその機会を永遠に失ってしまう、非経験者だから

こそ可能な別様の語りなのである。

原爆による被害を直接体験した人の呼称は、被爆者、ヒバクシャ、被爆当事者、生存者など複数あり、使用す る主体により定義も異なっている。たとえば、17年に施行された「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」

によれば、被爆者とは被爆者健康手帳の交付を受けた人のことである。昨今では、「被爆体験者」という言葉 が、被爆者健康手帳の発行対象地域外にいながら心身への被害を受けたと主張する人々の自称となりつつある。

このように、「被爆を体験した者」の定義や用法は、使用する主体やその時代によって変化する。こうした現 状を踏まえて、本稿では被爆者健康手帳の所持や被爆の記憶の有無にかかわらず主体が「被爆者」と自覚して いる場合には「被爆者」と表記する。

手記や映像は半永久的に記録が残る媒体であるが、対面しての語り実践は一回性のものである。被爆経験につ いての語りを、記録媒体にのみでなく一回性の語り実践でも続けることの意味は、出来事の語りを研究するう えで最も根源的なテーマに繋がるため別の機会に考察したい。

本稿では被爆者以外の人を非経験者とする。

被爆者たちが被爆のことをなぜ数年間にわたって語らなかったのか。その理由としてしばしば挙げられるのは 占領下の日本における検閲の影響である。戦後10年間、被爆者は原爆のことも被爆体験も公的に語られること がほとんどない社会で生きていかざるをえなかった。繁沢敦子は、検閲制度による影響を論じている。戦前か らの検閲制度に慣れていた日本のメディアは、占領軍からの検閲によって出版が不可能になるというリスクを 恐れ、原爆に関して自主規制をかけたり出版を拒否したという(繁沢、20)。しかし彼らが沈黙した理由は それだけではない。この時期、被爆者はケロイドや放射線障害をめぐる根拠のない流言にさらされ差別される 状況に置かれていた。医療を受ける保証を得るまでに12年間かかっている。被爆者を保護する公的な社会保障 は皆無だったのである。そのような状況では、被爆経験を他者に向けて語ることに対して社会的抑圧が働いた のは避けがたかったと言える。被爆者が置かれていた状況については『長崎原爆被爆50年史』の記述によった

(長崎市原爆被爆対策部、16:1‐7)

旧字体および旧かなづかいは筆者が新字体に修正した。

長崎新聞において、被爆者のことを「被爆者」と統一して表記しはじめたのもこの頃である。それまでは他の 空襲の被災者と同様に「戦災者」と表記されることがほとんどであった。このことは、原爆投下による被災も 他の空襲被災と同様のもの、つまり、放射線被害など後々まで影響が続くとは少なくとも戦後の一定期間は考 えられていなかったことを示している。

本稿では以後、平和推進協会と記す。

現在、長崎において、語り部とは、おもに自身の被爆体験を聴衆と直接対面しながら語る人たちのことを指す。

私的な語りはそれまでも行なわれていたはずだが、公的な組織が介入して公式な語りが始まったのはこの時で ある。

平和推進協会の公式サイト「ピース・ウイング長崎」による(長崎平和推進協会、27)

2年1月現在、第4期生までの14名が登録されている。

この点に関しては『文化環境研究』第6号の拙稿にて検討した。

インタビューにあたっては、毎回全員から録音についての承諾を得て、後日トランスクリプトをお渡しした。

本研究へのトランスクリプト使用についても口頭にて承諾を得ている。

「出前」には、平和案内人が原爆資料館で行なっていることを外部に持ち出した、というニュアンスが込めら れている。

本稿においては、出前講座全般を出前講座、そのなかの講義部分を講座、朗読や紙芝居などの実演を行なう部 分を上演と表記する。

成人向けの講座などで、主催者から知識・情報の伝達のみを求められる場合には、上演を省略する場合がある。

演劇経験者が朗読の練習に参加し、発音やイントネーションなどの指導を行なっている。

二重被爆者として知られる山口彊氏の長女による講話であった。彼女は、ある被爆者の戦後の生活史を娘の視 点から語るという被爆をめぐる新しい語りの形を提示した。管見の限りでは、被爆者以外の人が、被爆をめぐ る語りを「講話」として実践したのはこの時がはじめてである。

写真1は21年7月12日に行なった小学校への出前講座を写したものである。1〜3年生に対しては、まずス ライドプロジェクタを使用して原爆投下と被爆のことを解説したのち、朗読劇を行なった。4〜6年生に対す る講座では講師役が交替し、スライドも変更したうえで専門的な知識も加えた解説をしたのち、紙芝居を行なっ

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[文献]

岡真理 27 『記憶/物語』 岩波書店。

桜井厚 22 『インタビューの社会学 ライフストーリーの聞き方』 せりか書房。

―――― 20 「ライフストーリーの時間と空間」 『社会学評論』 6" pp. 繁沢敦子 20 『原爆と検閲』 中央公論新社。

冨永佐登美・葉柳和則 29 「非体験者にとっての継承活動の現状――長崎・元平和案内人への聞き取りから の考察」 『長崎大学環境科学部 総合環境研究』 1! pp.0。

冨永佐登美 22 「非体験者による被爆をめぐる語りの課題と可能性――平和案内人の実践を手がかりに」

『文化環境研究』 pp.5。

長崎原爆被爆50年史編さん委員会(編) 16 『長崎原爆被爆50年史』 長崎市原爆被爆対策部。

長崎原爆資料館(編) 26 『長崎原爆戦災誌』第1巻 総説編 改訂版 長崎市。

米山リサ 25 『広島・記憶のポリティクス』 岩波書店。

[新聞記事]

長崎新聞 「社告・原子爆弾の体験をきく」(15年11月4日2面)

「貴重な新事実/原子爆弾の体験をきく会」(15年11月8日2面)

長崎日日新聞 「〝知らせたい原子爆弾の恐怖〟/抱負を語る山口さん」(15年6月6日5面)

[参考サイト]

長崎平和推進協会 27 「ピースウィング長崎」(http://www.peace-wing-n.or.jp/,22.1.23) peace baton NAGASAKI 1 「次の世代へ…」

(http://peacebaton.giving.officelive.com/default.aspx,22.1.26)

た。写真2は21年6月29日に行なった小学校への出前講座での生徒による詩の朗読を写したものである。生 徒による詩の朗読は当初の予定には入っていなかったが、メンバーがその場で教師たちに提案し実践した。

Sさんはピースバトンナガサキの代表の50代女性、Kさん、Nさん、Mさんは60代の女性でピースバトンナガ サキの中心的メンバーである。

山田数子は広島で被爆したので、朗読された「慟哭」という詩は、「原爆」や「被爆」という単語を含んでい なくても、実際には被爆で子どもを失った母親の悲しみを表した詩と推測できる。メンバーは事前に山田数子 について調べ、彼女が被爆者であることを確認していた。しかし、朗読会の席上においてそのことには触れな かった。

参照

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