――目次――
論文
1,
道元禅師の前半生における転機とその意味するもの, 増永霊鳳, Turning Points and their Meaning in
the First Half of D
ōgen’s Life, Reihō MASUNAGA, pp.1-21.
2,
マルセルの〈信仰〉とその存立の機制, 高橋渉, Faith and its Mechanism in G. Marcel, Wataru
TAKAHASHI, pp.23-46.
3,
中国における仏教医学, 道端良秀, Buddhistic Medicine in China, Ryōshū MICHIBATA, pp.47-69.
4, Meister Eckhart
における「突破」の思想について, 上田閑照, Über die Lehre vom “Durchbruch” bei
Meister Eckhart, Shizuteru UEDA, pp.71-101.
書評
5,
平川彰著『原始仏教の研究』, 藤田宏達, Kōtatsu FUJITA, pp.102-108.
6,
田村芳朗著『鎌倉新仏教思想の研究』, 玉城康四郎, Kōshirō TAMAKI, pp.108-112.
匝 がある。思うに、仏教の開祖釈尊は如何に 論じても確たる結論に達しない世界の起原や人間 の 始源などに、時を浪費 り 癬 することなく、ここ、いまという現実の間 題 に関心をおいたのである。そして、この現実の 人生を苦と判断した。 苦 道 ︵ 卸 実ガ 註 ︶ ほ思 らままにならないこと、すなわ ち 我意にそわな い ことを意味する。そして、その 具体的内容を生淋病 1 生 なしたことは否定しがたい。ここに道元禅師の前 半生における第一の転機
Ⅰ第一の転機
の も % 日本曹洞宗の高祖道元禅師︵一二 001 一 二五三︶は三歳︵建仁二年︶にして 父 久我通規 を 失い、八歳︵承久元年︶ 鯉 にして、生母の死別にあい、深く世の無常 を 感じて出家した。伝に従えば、生母は臨終に 際して、禅師を枕頭に招 たす そぎ、わがなぎ後は 、磨 らず剃髪染衣して仏道 を 修行し 、 逝ける父母の冥福を資 げ、 兼ねて 四 生 六道の業苦を救えと 遺 と磯試
したという。禅師は弔葬を高雄山に修す るや、 寵 前に脆き香揖括
拝し、香煙の溺 鰯 とし て 上り、 篆 画の幻影たち ひざま つ 車 何 まちにして生じ、たちまちにして滅するを 敦、 祝 して、深く諸行︵すべて造られたもの︶の 無 常なるを感じ、﹁白刃 冒 冊 すべく、飲食無かるべくも、臣一日 呆ぞ 忘れん や ﹂︵行録︶といって出家の決意を固めたと 伝 えられている。道元禅師の前半生における
転機とその
意味するもの
増永霊殿
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モ ' ず = Ⅰ メツ ダニ。 死の四苦とした。中について、死苦はいわかる 限界 境位 ︵ 0 ﹁の コ いの @ ︵ Ep ︵ ぃ Q コ ︶である。病も﹁死に 至る病﹂︵ 木 ra ロオ オ の 臣 ぃ 年日月 0 隼の︶である。人間はモータ り ティ︵ ヨ 0 コ いヨ きといわれる よう に、まさに死すべ き 存在で ある。動物は自己の 死を意識しない。自己の死を識らないものは 自 己を持ち得ない。死は必らずやってくる。しかし いつやってくるか 判 らない。そこに、限りなき不安︵ レコめ 二︶が あ る 。また死は全く孤独である。独りとばとばと 行 かねばならない。 お れわれは死を追い越すことはできない。人間は 死に際してはじめて、本来的自己︵の仔の コ ⑱ ぽ一 ヴの ︵︶に面接し得るの である。 人は死の限界 境位 に追いつめられた時、深く人 開存在の根源にまで追及し、人生の究 寛的 問題を 解決しようと志向 するところに、宗教的要求すなわち発心が激発 する。そして、ただ宗教的要求のみが、宗教の何 たるかを示すのであ る 。 正法眼蔵随聞記第四巻には、次の如くある。﹁ 此 の 志をおこす事は切に世間の無常を思 う べ きな り 。此の事は亦 只 仮令の観法なんどとすべ き ことにあらず。赤蕪 ぎ ことりくりて思 う べきことにもあらず、真実に 眼前の道理なり、 人 ゆるくすべ きや、 此の道理も猶のびたる事なり。 を 期すべくとも、終に死ぬべ き 道理に依りて 死 り、 耳にちかし。是は他のうえにて、見聞する @ べからざるなりと。︵全集 本セ三 0 頁 ︶ してん。 只 仏道を信じて 浬 磐の真楽を求むべし。 思 うて 、 時光 をうしなはず、学道に心をいるべ のおし え 、聖教の文、証道の理を待つべからず、 す、 其の間の憂え楽しみ、恩愛怨敵等を思 いとげ きなり、其の後は真実にやすぎなり。性の上下と ﹂となり。我が身にひきあてて、道理を思うに、 況んや年長大せる人、半ばに過ぎぬる人は余年 返す返すも此の道理を心にわすれずして、 朝 に生じて タ べに死し、昨日みし人、今日は な きこと、眼に 遮ぎ ば 、いかにでもすご 幾く 計りなれば学道 只今日今時ばかりと たとい七旬八旬に 命 根の利鈍は全く論ず (122) 2 '"".
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道元禅師の双半生における
転機とその意味するもの
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。経歴は時における連続の原理である。 時 は 不連続の一面をもつとともに、連続の一面を もっ。去来の面あると 同 生 半時に、不去来の面を有する。 一 U 目 していった。無常は仏性なりという思想は六祖 と 行日日との問答にはじまるが、禅師は仏性の巻に おいて﹁しかあれ。は 草木叢林の無常なる、これ仏性なり。人物身心 の 無常なる、これ仏性なり。国土山河の無常なる これ仏性なるに よ り てなり。 何褥 多羅二親三菩提、これ仏性なる がゆえに、無常なり。大股淫薬これ無常なるがゆ えに、仏性なり﹂と い う 。有無を包越した無常は、
限なぎ生成発展 である。三十 セ 菩提公法の巻にも﹁観心無常は曹 懐古仏いわく、無常 即 仏性 也 、しかあれば、 諸類 の 所 解する無常と もに仏性なり﹂とある。仏性は刹那刹那に新しき 相 によって 己 自らを 全 現しつつ、無限に生きるのである。㈲生死
不 停は無常を意味する。禅師は生死を ただちに淫薬と断定して﹁生死はすなわち 浬盤 な りと 覚了 すべし。 のいまだ生死のほかに 浬 葉を談ずることなし﹂ といい、﹁この生死はすなわち仏の御いのち な り 、これをいと い すてん も % とすれば、すなわち仏の御合 なう しなわんと するなり﹂といい、生死を却って 仏命 となし、 生死を仏家の調度として これを迎えている。ここに自己の和㈹禅師は無常仏性の意義を深 鰍 尽界 にあらゆる 尽有 はつ t,0 なりながら、時時な り 。有時なるによりて 吾 有時な と れり、有時に経歴の功徳あり、 い わゆる今日 ょ り 昨日に経歴 す 、昨日 よ り今日に経歴 す 、明日 より明日に経歴 す ﹂といよ の ノ @ 疑 生 を
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道元禅師の双半生における
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の 意味すえられ易いが、しかしその実、実践的な問題を多 分 に含んでいる。この問題は身心を挙して 行ず る 実践にあらざれば、 到底根源的に解決し得ないのである。 建漸記に 従えば、禅師がこの大疑団を提げて、建仁寺を訪 ぅや 、栄西は直ちに ﹁三世の諸仏あること知らず、 狸奴白枯 却って あ ることを知る﹂と答えたという。この話は元来 南 泉普願 ︵ セ 四八1人 三八︶の説いたところであるが、その解釈は必 らずしも一定しない。しかし、一般には小さ 知見の葛藤を裁断し ふぜ んな て 、不染汁の修訂 に 身を投ずべきことを示した ものといわれている。禅師は仏性の巻で﹁一切衆 生なんとしてか仏性 ならん、仏性あらん。もし、仏性あるはこれ 魔 常 なるべし。魔手一枚を将来して一切衆生にかさ ね んとす﹂と説 き、 ろさ さらに﹁ 侍蕨 ならば、山河を見るは、仏性を見 るなり。仏性を見るは 騎偲馬皆 をみるなり﹂と 示 したことは参考に価 する。 仏 といえば、何か高遠なものを予想し易 いが決してそうではなく、現前の騎 肥 馬 皆 がその まま仏性でなければ ならない。衆生は仏性の自適 取 であるから、 仏 性 有りなどいうは魔手一枚を将 ち来 って衆生にか さねることとなるで あろう。三世の諸仏は尊ぶべきもの、 狸奴白枯 は 卑しむべきものと考えるのはすでに凡夫の二見 にとらわれた相対 観 である。この相対観を脱却すれば、三世の諸仏 はそのまま 狸奴白拮と 化するであろう。 狸 敏白 枯 は 三世の諸仏の自 道 取 であり、自体現である。三世の諸仏と称する は 却って魔手一枚に体ならない。しかし、それは 決して分別 知 による 閑 葛藤であってはならない。﹁あることを知らず ﹂といら否定の一話はまさしくこうした 閑 葛藤 の 裁断を意味する。 それは固より身心を挙して行ずる実践によって 修 証されねばならない。勿論その傍証は不染汚の 行 であって、その 何 れにも拘泥すべぎではない。行じながら、それ をも忘れるものである。果して、禅師はこの 一 語 によって国光返照 し 、分別 知 を包越した実践こそ、真に自己を救 ぅ ものであることを体得したのである。禅師は栄 西の力強きこの逆説 的な一話によって禅への関心を深め、将来への 方向を決したのであろう。その場合、栄西の人格 的 感化の大きかった ことも看過されてはならない。 9 (129)
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が 心底に残って落つきかねていた。勿論
辮 道話
真実の仏法を異郷に求むべく、勇みたった道元
に 禅師は﹁至公は祖師
西 和上の上足としてひとり
・ 明 全の二人は貞応二年︵一二二三︶二月二十
無上の仏法を正伝
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一日、京都を発っ
り 。あえて余輩のならぶべきにあらず﹂︵全集
本 一セ頁
︶と述べ、伝光録には、﹁かの
明 全和尚は
顕密心の三案なった
視察し、また言語学習の必要上、約三
ケ月 同地
沿岸の船中に過したのである。この船中で最も深
い 感銘を受けたのは
五月、︵六十一才の︶
阿 青山の典座︵僧堂の炊事
長 ︶と試みた問答である、典座教訓には、それ
が 頗る印象的に記録
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西 の 弟子
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、第三の転機
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Ⅰ・・・㌔ 。 丑 ' " 。 てテ 旺 @@ Ⅰ l 道元禅師の双半生におけ て 佳山したから、速かに往って 参 見せよと教え た 。ここにおいて、禅師は宝 慶 元年︵一二二五︶ 五月一日、再 ひ 天童 り 出 に登り、親しく妙高台に至って如浄に面謁し、 これこそ、人天の大導師てあることを感知して 、師資契合して、 子の礼を取ったのてある。 宝 慶記には、禅師宣 5 次のごとくいう。 / 廿は巨印曲 る 転機とそ の 意味 する もの に 登り 罹漢 堂を拝しようとした。時に一老僧︵ 立臼 ろ @ じんが出てきて、頃日天童 柑艇 ︶ 出 には一代の宗匠 長 翁 如浄が 勅請 によっ 臥して加療に力めていた。禅師は偏 参 のうちに、 これを聞き、急いで長徳寺に踵を返さざるを 得 なかった。 されている。︵全集 本 六五四頁︶ すなね ち、 そ の老 典座は阿育王山から三十四・五星︵シナ 里 ︶ の 路を遠しとせずし て 、翌日一山の大衆に供養すべき 麺 汁の堪を求し い " け めようとして 慶元府 に乗り、かの商船を訪れたの である。禅師は老 典 座を茶に招いて、しばらく話してゆく よう に 請 う たが、 老 典座は﹁不可なり。明日の供養 苦 れ 管 せずば 、便ち不 是に @ ん し下 らん﹂と答えた。さらに禅師は、﹁手裏何ぞ 同事の者 斎 粥を理会するたからんや、典座一位 不在なりとも、 什蕨 の欠閾 かあらん﹂といった。それに対して典座 は 、﹁ 苦 れ老年にして此の職を掌る 、乃ち 毛皮 の 辮 道なり、何を以て か 他に譲るべ け んや、 又 来る時、 未 だ一夜 宿 の 暇 を 請わず﹂と答えた。禅師はその当時只管に打 坐して公案など工夫 することをもって真の辮 道 と考え衆僧の辮 食を 司る典座のごとぎ作務はつとめてこれを避けねば ならないと思って い たのである。然るに、 老 典座は只管打坐と同等 の 価値を、かかる作務の中に見出したのである。 禅師が 柳 か網 道 の 真 義 を了 じ 得たのは、この 老 典座の鴻恩に よ る と 述懐している︵全集 本 六六四頁︶上陸に先だち、 多大の感銘を ぅげ た 禅師は典座教訓の示すように、 セ 月に入って 漸 江省 寧波府の大刹太白山天童貴徳寺に掛錫した。 明全 とともに禅堂に あって 、 互いにはげましあいつつ、真実の仏法 を 求めて精励した。 嘉定十セ年 ︵一二二四︶冬に至って、禅師は 、天 黄山を辞去し、諸山の知識に偏参することとな った 。しかし、 当 時の知識に過量の人なく、禅師求法の熱意を満 すものにあい得なかった。然るに、 明 全は天童 山 にあって 、 篤い病に
ね こ ﹁道元幼年ょ り 菩提心を発し、本国にありて道を 講師に訪いて、明か因果の所由を識れり。然も 、かくの如くなり と 雄も 、未 だ仏法僧の実 帰 を明めず、 徒 らに 名 栢を懐標 に滞おれ り 。後に千 光 禅師の窒に入りて 、 初めて臨済の宗風 を 聞 き 、今全法師に随って 炎宋 に人 る 。航海 万 里幻 身を波濤 に 任せて、遂に天来 に 達し、和尚の 法席に投ずることを 得たり。蓋し 足 れ宿願の慶幸なり。和尚大慈 大 悲 、外国遠方の小人の願 う 所は時候に拘らず、 威 儀を具せず、頻頻に 方丈に上りて、 愚懐を 拝 聞 せんと欲す。無常 迅 速 にして生死事大、人を待たず。聖を去らば、 必 らず悔 いん 。本師 堂 上 大和尚大禅師友熟して道元が道を問い、法を 問 う ことを聴許したまえ、伏して 翼 わくは 慈照 。 ﹂︵全集 本 六九一八頁︶ 伝説に従えば、如浄は前夜桐山鹿 扮 ︵ 八 0 七| 八六九︶を迎える夢を見たので、或は新来の禅師 か桐 山の再来では ないかと思い、慈父の我の子に対するような 親 近 感をもって遇したという。面授の巻に、この時 の 相見を﹁大来宅 慶 元年三商五月一日、道元はじめて先師天童古仏 を 妙高台に焼香礼拝 す 。先師古仏はじめて道元を 見る。そのとき道元 に指授 面授するにいわく 、仏 々 粗 々、面授の法門 現成せり﹂︵全集恭三一九頁︶と記している。 同 じく末尾に、﹁道元、 大来宅 慶 元年二酉五月一日、はじめて先師天童 古仏を礼拝面授 す 。やや堂奥を聴許せらる。わず かに身心を脱落する に 、面授を保任することありて、日本国に本来せ り ﹂︵全集 本 三二二頁︶と述べている。 この文を両々比較するに、結局師資面授を強調 した同調 異 曲の記録である。そして、如浄こそ、 真の指導者である ことを禅師は口をきわめて讃歎する。行持の巻 は ﹁先師は十九歳ょり離郷夢 師 、 辮 遺功夫するこ と 六十五 載 にいたり てなお不退下 転 なり。侍者に親近せず、 帝 者にみ えず、丞相と親 屋 ならず、官員と親 厚 ならず、 紫衣師号を表辞する のみにあらず生まだらなる袈裟を搭せず。 。
一ミ
ょ の つねに上堂入室みなく るき 袈裟櫻子をもちい る 、 納 子を教訓する にいわく、参禅学道は第一有道心、これ学道のは じぬ なり。いま二百来年、祖師道すたれたり、 かなしむべし。いわ んや、一句を道得せる皮袋すくなし﹂︵全集木工 0 九頁︶とある。 (132) 12道元禅師の双半生における
転機とその意味するもの
翻って思うに、禅師は十八才の頃より二十六才 の 今日まで、実に十年に 重 々とする間、解かんと して 解 ぎがたき 疑 団を抱いで 断 えず苦慮しっづ け 、万里の波濤 を 蹴って、異郷にその解決をもとめたのである。 げ れども、禅師はすべ てを託し得る真の正 師 には、容易に出会うこと が 出来なかったのである。禅師の悲歎は絶大であ った 。然るに、入宋 して三年、遂にその機会は恵まれた。如浄の高 潔 な人格を通して出ずる一話によって問題は既に 解決されたといって よいであろう。真の正 師 に出合い得た禅師の感 激 には、実に大なるものがあった。求めるところ 助 ならば、与えられ るものもまた大である。求めるものと与えるも のとの人格が互いに相い触れるところに、道は大 なる感激をもって 授 愛 されるのである。あたかも、 南嶽懐譲 ︵ 六セセ |セ 四四︶との問答において、六祖慧能︵六三 八|セ一 三︶が﹁ 只だ この不染汚、諸仏の護念する所、汝も亦是くの 如 し、 吾も亦是くの如し﹂といったことと相い一 致する。 相見後における禅師の修行には、実に生命を賭 するものがあった。すなわち宵には、二更の三点 ︵午後十一時︶ ま で、暁には四更の二点三点︵二時半から三時頃︶ より起きて坐禅につとめたのである。禅師は如 浄の室に入ってより 外国遠来の求道者として、昼夜の時候に拘らず、 善女挟扶しかも方丈にきて道を間 う に 、 妨げな しとまで許された。 そこには、慈父の無礼を恕するがごとき親しさ があった。このようにして、禅師は専心一意、 如 浄の厳粛な家風を学 得し、酷熱厳寒をも厭わず、只管に 辮道 勤労し 十八 こ 。 明 全も天童 山 ほとどまって如浄に参じ、さらに 一段の策励を加えた。入宋以来の精進が酬いられ て 、その道 誉 次第 に両 漸の間に喧伝せられるまでになっていた。 然 るに安慶元年五月十八日にいたって 微 悪を示し 、その二十 セ日 辰刻 四十二才を一期として、天童 山 了然 寮 において 遷化した。舎利相伝記︵全集 本セセ 三頁︶に従え ばその時 明 全は威儀 を 正し、衣裳を整え端坐して示寂したという。 万 里の異郷において、不帰の客となった 明全 の 企 口 利を懐いて、禅師は 実に感慨無量、ただ悲痛の涙をし 械 るのみであ つ キハ -@o 13@ (133) @ ツ 巾 ・ Ⅰ坤
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丁や 。 下目 @ 甲雙るのみである。勿論 宝 慶記にはこれに触れた 記 事 があるから、道元禅師自身にはこれを示したの であろう。如浄の家 風を推測するに、学人 接 得の場合は一般に臨済 のごとき峻厳さをもって向い、平常の行履におい ては、曹洞のような 綿密させもって一貫したように思われる。名利 を 厭うこと 蛇蝿 のごとく、貫名 愛利は 独禁よりも 重しとした。さら に 、権門に親近することを欲せず、一生粗衣に甘 んじ、まだらな袈裟を纏うことなく、紫衣師号 を 辞退し、三教一致 の 見解を否定して、五家の対立を包越し、全一の 仏法に生きて、禅宗の呼称すら排撃 し、 真に身 心 脱落 底 の三三昧に 住した。青年時代ょり坐禅に精魂を傾げ、一日 一夜といえども 打 坐を廃することなく、雲堂公界 の外、或は閣上に 、 或は屏 処に、 或は巌下に赴いて、只管に止 静し こ 十八 。 仝 剛座を坐 破せんとの大勇猛心をもって、三昧 にふけりたから、 聲内 の 燗 壊することさえあった 。そうした場合、 いよいよ坐禅を好んだという。 随聞記 第二巻には 、 次のようなことが記されている。 ﹁ 我れ 大来天童禅院に寓居せし時、浄名 宵 には 二 更の三点まで坐禅 し、 暁には四更の二点三点 ょ りおきて坐禅 す 。 長老とともに僧堂 裡 にありて坐す。一夜も癩 怠 なし、其の間、衆僧多く眠る。長老巡り行きて 睡 眠 する僧をば 、 或は 拳
をもって打ち、吐かしめ
進めて、眠りを 醒す 。 猶お 眠る時は照 堂 に行 き て、 鐘を打ち、行者を 召し、蝋燭をともしなんどして、 卒 時に普 謝 して 云く 、僧堂 裡に 集り居て 、徒 らに眠りて何の用 ぞ 。然らば何ぞ出家し て 、 入 叢林するや﹂と︵全集 本セ 三四頁︶また 一 三味正三昧の巻には﹁先師古仏 云 、参禅者身心 脱 落也 、 祇管打坐ア始, 得 Ⅰ 不レ要 :。焼香礼拝念仏 修繊 看経 門ヒ あきらか に 仏祖の眼 晴を抜 出しきたり、仏祖の眼精裏に 打 坐すること、四五 は 里長 則 就の批判的態度を堅持し、臨済曹洞 そ の他の禅 流 にかたよることなく、却って五家の対 立 を包越した祥匡 で ある。従って、嗣法香を欠いて伝法の師 名を揚 げていないが臨終の香においてただ 雪費山 の 足奄 智 鑑の名を挙げてい ひぬ
浄は雪
實智鑑
に参じて、大事を了
畢し、
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清 涼
、端厳、
浄慈 じん
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風を宣揚した。
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ハ
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道
る
もの
Ⅰ。 ・ モテケ弔 百年来、先師のごとくなる古仏あらざるなり﹂と いい、﹁仏祖の眼 晴 裏に打坐すること、四五百 年 よりこのかた、
光り
師 ひとりなり、震旦 回 に斉眉少し﹂と讃歎する ほどであった。 また 随聞記 第一巻には次のごとき文がある。 ,,@.,@,, ⅡⅠ 百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり。 震 Ⅱ 国 に斉肩すくなし。 打 坐の仏法なること、仏法 は打生 なることをあ き らめたるまれなり。たとい 打 坐を仏法と体解 するというとも、 打 生を 打坐 としれる、いまだあ らず、いわんや、 仏 法を仏法と保任するあらんや、しかあれば、 す なわち心の打出あり、身の打 坐 とおなじからず。 鼻 の 打坐 あり、心の 打坐 とおなじからず。身心脱落の打 坐 あり、 身 心 脱落の打 坐 とおなじからず。既得 侍旗 ならん 、仏祖の行 解 相応な り 。この意想 観 を保任すべし。この心意識を参 究 すべし﹂︵全集 本 三五九頁︶とある。 この ょ ・ う に、高潔な人格と高適な識見と熱烈な 信 念と 峻厳な指導法とを活用し得る人こそ、 真 に 五師の名に価す る 。禅師は学道用心集において王師を規定して、 ﹁ 夫れ 王師とは年老 首 宿 さ 問わず、ただ正法を 明む。王師の印記 を 得るなり、文字を先とせず。 解 会を先とせず、 格 外の力量あり、 過 節の志気あり、我見を先とせ ず 、情識に滞らず、 行解 相応するすなわち王師なり﹂︵全集 本四セ四 頁 ︶といっている。またつぎのようにいう、﹁ 行 者 白身の為に仏法を 修すべからず。名利の為に仏法を修すべからず。 果報を得んがために仏法を修すべからず。霊験 を得 んが為に仏法を 修すべからず。 但だ 仏法の為に仏法の為に仏法 を 修する、 乃ち足 れ道なり﹂︵全集 本四セ 四頁︶ と 。すなわち五師 は 有所得をもって仏法を修することなく、ただ 仏 法の為に仏法を修する純乎として 純 な人でほげれ ・はならない。この ょ う な人にして、はじめて清貧に 甘じ 、戒行に随 い、暑熱極寒にも堪えて修行を続け、利他の行 願 に 生き得るものであ ろ う 。 如浄の高潔な人格と批判的態度とは、禅師の識 烈 な要求を全面的に満足せしめた。従って、禅師 も ﹁大来 回 、一三一 ﹂ お﹁先師天童洋和尚、住持のと
き 、僧堂にて衆僧
坐 禅の時、眠りを
試 しむる
、 履を以て打ち、
膀舌ロ
詞噴
せしかども、
衆僧
皆 打たるるを喜び讃歎しき。有時上堂の便で
云く、我れ
既に老後、今は衆を辞し、蚕に住して
若さ
扶けて居るべ
げ
た 。如浄はこれを見て﹁参禅は須らく身心脱落
なるべし。只管に打
唾 して何をなす﹂と警策した
。禅師は傍らにあっ
て 、この一言を聞
き、
末だ
曽て
経験せざる感動
を 覚えた。練りに練り、鍛えに鍛えられた禅師の
心け @ 休
この二
% @ 卜 トよっ
て 、その
那 一点に触れたのである。この言ょ
く 満を持せる禅師の心絃を打った。
裕然
として自己
の 革新生命の転換を
そもきん
自覚した禅師は直ちに方丈に登って焼香礼拝し
た 。如浄が﹁焼香の事件座主﹂と問えば、禅師は
﹁身心脱落し来る﹂
と 答えた。如浄がさらに、﹁身心脱落、脱落身心
﹂といえば、禅師は、﹁這箇は是
れ 暫時の伎
価 、
和尚妄りに英中
な印
することなかれ﹂と述べた。如浄はこれに対し
て 、﹁
吾 妄りに汝を印せず﹂と答えば、禅師は﹁
直ちに
足 れ妄りに
某
(136) 16し
㌧ 道元禅師の双半生における 転機とその意味するもの かくも、迅速に大事を了 畢し 得たのは、禅師の動 @ 刻 な 求道の念と真摯な修行の カ とが自ら 果満し 結実したからであ る 。 香厳 の 撃竹 霊雲の見 桃が 大悟の契機となった ごとく、禅師不休の精神的準備による緊張力が 王師如浄の鉗鎚を受 ば て、その深 い 法堂 に 溢れる︵身心脱落の︶ 語 によって、かくも早急に激発したのである。 随 聞記 第四巻にも、﹁花の は 年々に開くれども、 人 みな 得倍 するに非ず 、竹 は 時々に 響 けども、聞くもの尽く 証遣 するに 非 ず 。ただ大参 修挿め 功にょ り、 辮 通勤労の緑を得て得道明心するな り ﹂︵全集 本セ 四四頁︶とある。大参 修 持の功に より、 辮 通勤労の緑 ュ 四 、面授嗣法の問題 甲を印せざる 底 ﹂と問う 師が身心脱落し来り、 自 ている。然るに、禅師は 切要としないほどまでに 仏となっても 愈と 精進す 今を至極と思うて行道を ここに本来清浄と無限浮 身心脱落﹂と印可してい ﹁道元大 来 国宝 慶 元年二 仏なり﹂︵全集九八頁︶と い頃と思われる。た 。如浄は再び、﹁身心脱落﹂と答えた。ここに
おいて、禅師は恭しく礼拝した。
如 、浄は禅
己を没して、真実の仏法を深く体得したことを
看破し歓喜のあまり、幾何となく印可を興
え
﹁和尚妄りに
某 甲を印することはかれ﹂といって
、この根源的な体験がもはや他者の印可を
べ き
ものであることを示している。
随聞記
第六巻
円
﹁学道の人、たとい、悟りを得ても、
やむることなかれ、道は無窮なり、悟りても、
猶 お行道すべし﹂︵全集
本 七六六頁﹂とある。
化との相即がある。如浄が、﹁
我れ
妄りに汝を印
せず﹂といいっ
っ も、さらに﹁身心脱落、
ることは、禅師の境地を許すこといかに深かった
かを如実に物語るものである。仏祖の巻は
西安居待、先師天童古仏大和尚に奉侍し、この
仏祖を礼拝頂戴することを
究 尽せり、喉仏
与
を 得て、得道明 心 の身許体験を得るのである。 深 層 心理学者ユング︵ざ品︶はこのような体験 の事実を イ ン デヴ 。 大事ここにをわりぬ﹂︵全集 不 一 セ頁 ︶と述べ、 デ イエ ーシ, ン ︵ 田臼く 目口 笘ざコ ︶といい、その 強 き 自信のほどを示している。これ実に禅師 二 アーケタイフで ぎヨ 降そのものに成ると述べ 十六才のとぎであっ ている。 辮 道話も予 かさねて大来園におもむ き 、知識を両 湖 にと ぶ らい、家風を五門にぎく。ついに大白峰の浄禅師 に 参じて一生参学の た このようにして、禅師はこの年九月十八日に至り 、釈迦牟尼 仏 ょり五十代嫡々相承の戒脈を如浄 から承け、ここに 曹洞宗に属する比丘たるの資格を傭え得たので ある。また 宝 慶三年︵安貞元年二十八才︶の春に は 、大法 承受 の 信表 として胴着が授げられ、如浄の法嗣として弘法 利生の重い使命を荷負されるに至った。 禅師は如浄の慈愛深 き提梼を 受けること前後三 年 、この間恰も頭燃を払 う ごとくに精進し潮足 に 慣ぅ がごとく行道 した。禅師はこの時のことを追想して次のよ う に 述べている。 ﹁機に随い、根に順 う べしといえども、今 祖 席に 相伝して専らする処は坐禅なり。此の行能く 衆 機を兼ね、上中下 根 ひとし。修し得べ き法 なり。 我れ 大来天童 先 師の会下にして此の道理を聞いてのち、昼夜に定 坐して極熱極寒には 発病しつべしとて、 諸憎 しばらく投下しき。 我 れ 其の時自ら思わく 、誕い 発病して死すべくとも し 、病態 ぅ して修せ 、ず 。此の身をいたわり用い てなんの用 ぞ 。 痛 して、死せば本意なり。大来 園 の 善知識の会下にて 修し、死に死してよき僧にさばくられたらんは 磨 らず 勝緑 なり﹂︵全集 本セ 一一八頁︶とある。 こればとの強靭な決意をもって、文字通りに、 辮 道 四天しいよいよ入宋伝法、沙門の自信を深め 得たので、 宝 慶三 年 すなわち我が嘉禄三年遂に帰朝を決意するに 至ったのである。 きげ つ 面授の巻に﹁おおよそ仏祖の大道は唯面授面 受 、 受 面授面のみなり。さらに刑法あらず 紡閾 あら ず 。この面授のお (138) 18
瞬時に時代へ伸びることである。歴史に生きる 真の伝統は断えず新たなものを作りつつ強く展 閲 するのである。 め 大平底 録第セ 巻に次の文がある。 歩 に同じからず。然りと雄も、天童に一等 す、 打 坐し来れるなり﹂︵ 全 匝 美本五一八 セ頁
︶
訓 禅師は天童 と 一等であるが、天童の挙族 に 同じからざる独自の展開を示した。そのいわゆ る超師の力 は一方 打生め 道 本領を現わし、信を基調とする本証 妙 修の宗風 を 展開し、他方 証 上の修たるの行持 道 環の立場か ら 、面授嗣法の意義 19 (139) 転機 この ょう にして、如来の生命は歴史の中に動いて 、 時と処に従って 、 強く進展するのである。 根 源 に帰ることは 同ここに、師資面授の仏法が展開する。
い わゆる
面 授 とは二個の人格が直接
相 い触れて、一人格に
融合し、一つの
生
命 が他に伝って限りなく相続するをい
う 。しか
し 、師資面授の精神は歴史的研究に基くものでは
なくして、深
き 信念
に 立脚する。信念に生きる行の仏法は当然人格の
力 をその
根抵
としなければならない。如来の全
生命は釈尊より列祖
︶ つ
への不断の人格的契合によって、はじめて保佐
さ れるであろ
5 。それは
一 器の水を一器に
潟すょ
うに、釈尊の真精神
が 列祖によって継承されて、増すところなく、
欠 けるところなぎに至るをい
う 。面授嗣法は仏陀
0 人格全体が、その
まま祖師の人格となって
、 時と何に応じて生
き ることであり、また列祖自身がそれぞれ釈尊の人
格 に生きるのえんで
と
づト のⅡ曲コ 鵠 Ⅰ臣の ツいゴト のの︶ コ 0 ヨ ぎ 自の ト の吋のⅡ 目サの Ⅰ オ佳 Ⅱ ヱ的 ず鮭宙の Ⅰが 叶 ㏄ 申 Ⅰの す の コ の 左 ハ曲ヰヰの コ ・ 宙ざ ののコ ナミ 四の ド のⅡの目ヨ 卸トの 宙 曲馬この wh 日の q. 目トの q p コ日 ハガの ココ ︵三ののの 田コのコ ヲ 日の甲の ヰ 0 Ⅱ 申 すの︵︵ 田 自由 ダ宙 0 Ⅱ 0 Ⅱの︵山の日︵ 由 0 甘由 ㏄・巨の の目ヴ 0 Ⅱ オ 0 し ㊤ づミ の コ の メモの ぢ のⅡ ぃ 目的の す の コ これに類したことは へ ルゲル教授が彼の﹁弓術に お げる 禅 ﹂︵いの コぎ 宙のぺパロ コ ㌔ 宙 8 口の的の コ のの プ いの㏄の コダ巾ツ の の ︶ ネ Ⅰ ﹁師の肩に上るⅠ︵ レゑ 年 8 Ⅰの ゴ Ⅱのお 卜 0 プ 田河 ヨ ざの 汀あ臼 ︶といっている 0 堂山禅師︵一二六八 |一 三二五︶の伝光録はそ れ目 体法燈を 続けて、光明 つれ ならしめる面授の 歴程に印した 蹊跡 を 巧みに現した文書である。その中で禅師はい う ﹁華を服じて不変なることを知らしめ破顔し て 長齢なることをし らしむ﹂ 円甘 0 片口Ⅱ コ ︶ コ帥宙 0 毛のⅡ目のヰ目㏄ 村由 0 毛ヰ 下ののオリ 臣 ㎎ の ︶ののの 毛ミ レコ宙のの ヨ トこ オニ由 ゆの由の片 0 目の ぽ 旧プ ゴ 0 叶 e Ⅰ コぎ Ⅱ また﹁釈迦の肉身今なお暖かに、迦葉の微笑ま た さらに新たならん﹂︵ 常済 大師全集六頁 セ頁 ︶ コロ ぽ の す 0 宙ゼ 0 叶の囲 ガぜゅ いのの片目 片 のの ト の 妻笘 Ⅱ ヨ 。 ンコ 串 ︵ ゴの Ⅱ注コ ヰ の日出 の oh ガ 叫いせ 斡づ a r の コ の毛のぎのの 0% 革を 拮 じて不変なるを知らしめるは伝統の本源 にかえることであり、破顔して長齢なることを 知 らしめるは、時代 に 進み、歴史の伸びることを意味する。釈迦の暖 皮肉は迦葉の個性を媒介として正伝せられ、 道 元禅師︵高祖︶の 真
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閨にしたのである。
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師の機に関して、著録
第十一則は﹁見、師と荒しぎ時は師の半
徳
を減
ず
道元禅師の双半生における
転機とその意味するもの
面目は螢四禅師︵太祖︶の人格を通して歴史に 展開したのである。 なお道元禅師の基本的態度について、 け 仏道傍 行 に道心を為 先 とし、㈲下降的末法史観に敢然 反 対し、 円 禅宗・ 仏 心宗 ・曹洞宗等の宗名を否定した意味を明かに し、 進んで禅師独自の本証 妙 修の思想信念につい て 実存的に論究し 、 その仏性論、時間論、生死観を詳細に究明する 予定であったが、紙幅の関係上、他の機会に譲り ヰハ -@@O @ Ⅴ ㌔・ し甲ヨ 0日月が
甲ゆ R 目のまの亡臣のの㌔ 田 ︵︵ ン 下げ︵ 0 お 0 ︵いの コ しけⅠの オ ㌃ 日 ト戸お接いの コ 笘コ年巨ヨのへ柑曲コ 円ゴ 0 岸的下円のワ 日のの ヒコ のむの一の 0 ヰ 0 臣 でづギ 0 燵ぃオヰ 0 い ㏄ 臣 ,いの コ ヰコ し ゆヱ ぜ Ⅰ か つ い 二幅 参照、田辺元、永平正法眼蔵、哲学私観、橋田邦彦 正 法眼 蔵 秋意︵五巻︶ 秋山範 三 、道元の研究、道元 祀 第三巻︵一九六五・ セ ・ 一 0 ︶ 唐木順三、無常、衛藤即応、宗祖としての道元 祀師 拙著、道元、永平正法眼蔵︵道元の宗教Ⅰ現代人の禧 、学道 14 Ⅰマ マルセルは一般に八キリスト教的実存哲学者 v と 云われる。 ハ 4 ︶しかし彼自身は、のちになってこの ような呼称を斥け 2 小 3 ︶ @0 し、さ t@ にそれらの人間把握にもとづいて、 時代 境位 に対する強い批判をも行っているので ある。 ゆを通して明らかにしょうとする。そして、 持 に 信仰に関わることをその中核として、人間の 存在様態を分析的に叙述 43) く 信仰 ノ とその存立の 機制 つ 八 道 た 昔 絡 G ら ま艇 抽各 ぅ の を マ か 体 敷 か v 験 設 セ と と す か も い る も よ 云 う こ "
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の 歌曲も作曲したという。マルセルにおける 演 劇と 哲学と音楽は 、八 ただ 一づの 宗教的な確信 に 近づく三つの道であっの ︵ ハ りレ u ︶ 本論の課題は 、 特に八信仰 v を主題としてマル セルの所論を吟味することにある。はじめに、 マ ル セル哲学の概要 2 目 しも断絶はないし、彼の作品のうち、抽象 的な部分にだ け 固執することは、かえってその 意 味を根本的に見あやま ろ ほ 劇作家としていくつかの戯曲を発表しているが 、そのほか三、四 0 篇ののから、家族、産業、技術等についての著述を
多く発表しているが、それらの著書と初期の哲
学的論者との間には、
少
- 仰 ㎏︶
ル
セル哲学の概括はかなり困難である。また、
マルセルは第一一次大戦
頃
が 、これはもともとは体系的な著書への準備の つもりだったという。しかし、やがては体系的に 述作することが自分 に 対する不誠実になると考えるよ う になり、 結 局 はそのままで出版したのだと述べている︵前記 、英訳の序︶。体系 を 斥ける彼の哲学は、発展としてではなく、 む しろ写真用語の意味での 八 現像 V 色体 セ臼 。口ロ ヨ の目 ヰ とか、或は八顕現機化
V の メ 宮田︵の︵ ざロ としてみられるべきも のとされる。︵ 6 工 ︶ かかるマルセルの著作態度を 、ポヘ ソ スキーは八反体系的 V 制 する否定的態度としてあらわれる。初期の哲学 的 著作であるコ形而上学的日記 L は、まさに日記 の形で出版された が 、 八 存在 V ゆ ︵︵のへの人参与 V ちり 臣ざぢ笘ざコ によって超えられるところ 八 存在 v は、人間の存在様態に関するマルセル 哲 学の主要なカテゴリーであ 0 人間 把窩が 守 - 介して云われるものである。 人 聞が 八所有 V においてあること り 、 八 存在 V については、希望とされる。従って 、 入 信仰 V は、人間の域に ちとして把握され得ることになる。 マルセルの著述活動は、体験されたものを反省的 に 叙述するという方法を に 存立するものとされる。八所有 v 及び る力 : ︵ @ 4 ︶Ⅰそれらは、いわば 、 八 実存 V として のいわば標徴は、不安あるいは絶望であ おいては、不安等の廃滅と希望の成り立 とるが、このことは、体系的な述作に対︵Ⅰ︶目し。 ゃお|き ・ ︵ 2 ︶めナ・ でき ・等を参照。 人間の八さしあたりの非本来的なあり方 V から 八本来的なあり方 V への方向、即ち八所有Ⅴから 八 存在 V への方向を 措定してこの方法に副ってあらためて位置づ け るという仕方を試みることにする。このような 方 向の措定によって 、 マルセル哲学に対する一つの整合的な理解が得ら れる よう に思われるからである。そして次には マルセルの所論に ︵ 花 ︶ 仰 V の把握とその解明の試みが、この小論で 課 お げる入信仰 V の存立の機制を、人間の実存的 なお、マルセルの著書の引用には次のような略記号を
註
目 ㌧ @ Ⅰ - 由っ日ヨので﹁ 0 ヴ品 2% るロの・ トの紹 ,下仁田 浅 しの @ Ⅰ 0 口の。 由 コロの宙のののののの n- トの印か ・ 弔 -0 臣 目フ ﹁神の死と人聞 ヒ ︵日本での講演を集めたもの︶ ヱヱ @ Ⅰ 0 の 目 0 日日。のり 0 コ ︵ お -- エ 年日 主 Ⅰ円の目・の o-o ヨヴ 昌己 - Ⅰの日ち︵ ゆ ﹁の 母 -. め ︵︵の。 P のの P. 下廷 三目 出 せ 一 立っ ヨ 0 せざ ︵ 0 グ Ⅰ 0 下づ 、レ 由江 目 馬 ト一Ⅱ可の痒下 せ 0T. ト ののの・トヒ三の﹁ ㌧ 下 @ 巾 0% 目 0 コ 0 ︵下ってⅡ。 のす 0 のり。 コい Ⅱの 円 めのⅠ乞目やの︵ ヤ Ⅱ の オ下 @ 屈のぬ り 三の コぃ目枝お 6 辻温目まリ 二の ヨ 0 ア ︵ 緊ずダ 再 Ⅰ一口目オ E 円こ の W- 二コ せ on ぃヱ 。 ダトつ のの 口 : トっ 下色の 巴目 ︶ 呂 - ︶ 0 口 ﹁コ % 客船るす 単 五宗・ ミ 。の ロ : し ま・ 紐三ヨ 題 とすることなのである。 主体の場面においてあと づ げていく。即ち、マル 使用する。引用の際、場合に応じて主な関連箇所もい 伊吹、低調、中央公論社、昭和三三年。 Ⅰ コハ ⅡⅠ 0 臣 ︵ 0-o 幅 @4 ヒ P Ⅰの ヰ の・ せユコ no ヨづごか口簿 ﹁ % 安打。 ダきミ - 匝 0 コ所巴 のへ由 セルにおける八倍 くつか列挙した。 (146) と 、そこにみられる入信仰 V の所在を追求する。 ただし、その際には、反体系的な彼の論述をと ぎ ほぐし、それを、マルセルのく 信仰 ノ とその存立の 機制 ( ( ( ( (
( りレ ⅠⅠ 11 10 9 8 6 5 4
) ) ) ) )
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マルセルの く信仰 ン とそ
の 存立の機制
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@ し吐 て て再 、時間の存在根拠としての存在そのものへの追求 把握されるものである。ハイデ ガ ーは、 八 現存在 かとされるに至った。即ち、人間は己五の︵の コ z からさら に田印 往簗ミ艮 へと捉えなおされるのである 0 サルト か は硅も主 体性の強い実存を云った。人間の存在が自由であるこ とは、いわば絶対的であり、それこそが人間の真理と して、そこ にのみ全てがあると云 うよ うにさえみられた。しかし 、 彼も最近になって、そのⅠ 6%0% 守二仏 ぃコ ︵の 丘 場 をふまえ ながら、なおそれを超え、疎外論を介して実存主義と マルクス主義とを結合させる試みを出している。 前二 一者がいわば 形而上学的神学的対象を志向するのに比較すると異質れる実存的現実 よ @ @ 、いわず超越的な歴史性とでもいう 、、 @ 、、、、、
これらの超越への方向の事実的な面に関しては、夫々 の 相互的な共通性は、むしろみられ得ない。人間の実 存的 把捉
々は、もはや 八 実存哲学Ⅴではあり得ない。マルセル も 、そのよ う な意味で、 八 実存
哲て
にはとどまうないのである 。その他、八実存 V 及 び 実存哲学については問題が多 ではふれ得ない。﹁ののののコミ art 桝田 訳 、岩波現代叢書、二一一頁。 ボヘ ンスキ l は 、実 ヤスパ l スの四人を主題的にとりあげて、紹介、及び 批判を試み ている。 ︵ 毬 ︶ 宙セ には 日 家族の神秘 ヒい の 呂せ簗簿 のす ヨ 二 % 拝 ︶の 邑、 つ父性の本質としての創造的祈願 ヒ Ⅰのく。 盤 。 Ⅱ ひ ぃ曲の目Ⅰの。 ヨヨ 。 ひ %0 月のよ 守 ㌧笘のぺ コ @ ︵ か 、おお等の論文が収められて いる。産業、技術等については、 叫由及ぴし ㏄で主題 的に扱われ ている 0 註 3 参照。 ︵ 斡 ︶三戸 b. き ・及び 註 3 参照。 ︵ 却 ︶目し ,セ ・ Noo ︵ れ ︶ 目 0. ゃ ・ No ひ ︵ ル ︶現代における宗教の哲学的研究においては、 宗 教の究極性を実存の領域でみようとする立場は 、 一つ の 主要な問題性 を 開くものと思われる。石津 照璽 博士 司 宗教哲学の間 題 と方向㌔弘文 室 、昭和二六年、参照。
(150) 30 マルセルは、われわれのさしあたりの存在様態を 八所有 V という概念で把握する。彼は八所有 V を 、まず 笘 。 ぢ という動詞に即してみていくが、この八所有 V は、 ㈹いわゆる八もつ V という場合の笘せ %rl ㌧。 ののののの ぃ 0 コ、 ㈲性質な どとして内有する場合の安土Ⅱ ムョづ由 cat