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諸  カ

ドキュメント内 『宗教研究』185号(39巻2輯) (ページ 71-78)

を  以  て 

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Ⅱ  コ ) 

  

年の コ 

オ    

の Ⅱ 

  

     

ヨミ 

パガ の  コ ) 

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の 

ヰ し 

文才 

し  て  そ  の 

へ︑更に﹁ 一 ﹂そのものへと云 う 思弁的徹底の面 で 見たのと同じ事を︑今度は ︑ 魂がその本質に 目覚めその根源に還 

瀕 して行くと云う実存面に於てとらえ︑ ヱ " ク ハルトの神秘主義の本領を探ろうとするのがこの 小論の意図である︒ 

先づ ﹁魂の根底﹂︵的︵ 仁 三色目の田 0 ︶と云う ヱ ッ クハルトの考え方に就いて基本的な概念を得て おかなければなら 

ね ︒神に於てその﹁ 三 

ーニ 

性 と本質又は自体 とが 分 げられた如く ︑ 魂に関してもその本質︑自 体 ︵の 仁 すのヰリ コゴ のが二丁 

ヨが の ︐の ㏄ののコヱがい 臣 ︶ ヨリ の・ ミ ののの二年 e Ⅱのの ‑ の ・ 隼 Ⅰ 偉 のゆ 胡 ︶ コ 目の巴 サ 0 コ︶ と諸力 ︵で 0 ︵の二目ゅ の ㏄二︶目口 の ︒ ガ Ⅱ㏄ハ % の 宙 e Ⅱののりの︶ 

との区別が基礎になる︒魂の諸 力 のまとめ方そ のものには特に変 っ 即ち︑感覚︑共 通 感覚から始まり︑ 

強固有の働きの内に下級の諸力と上級の諸力 と が分げられる︒そのうち下級の諸力 は ︑分別 カ ︵ ヴ ののの下の田のコすの ぎ ︶ ハ 

怒り︵ き目戟ぎ ︶︑欲求③ e 潟目コ 的の︶の三を摂 め ︑上級の諸 力は ︑ 保 威力としての記憶︵の片口の 目 ドゴ 臼円 の目色︶ 仁客 Ⅰ 曲 Ⅱ 円 ︶ ︑ 

理性︵ セの Ⅱ二ロ 臣 ︵︵︒ づ ︒Ⅰの︵のコ日 オ臼丑 ︶︑恵壬 心 ︵セ イミ の ︶の三である︒この上級の三つの 力 は屡々﹁精神 ﹂︵ 帥 立耳︶としてま 

とめられ︑父神の﹁ ニー一 ﹂性を写した所謂 被 造 約三一性︵ 宙ぎ円 ︵㏄の cr のの︵ ゅぎ ㏄日日が︶ と 見ら れる︒エックハルト 

に 独自な事は︑これ等の諸 カと 魂の本質そのも のとの質的な区別︑正確に云えば︑この区別のと らえ方︑殊にこの 区 

(192)  72 

Meister  Eckhart  に 於ける 

「突破 

」の, 巴想は ついて 

ぉ 凹に移し入れられそこに模像乃至写像ではな く 第二の原像が生れるわけである︒この ょう な 考え方からすると︑ 

神の自己内に於ける神の像と魂の内に於ける 神 の像 との常規の神学的区別︵円 

目宅 

Ⅰ三と 注 〜 ヨの㏄トロの日色の︶︶の 克 

販 が実存の最関心事となって来る︒ い づれにし ても以上の意味で神が自己を像った所︑神が その金ロ の ︵ め Ⅰのと 金 

妻 ののの コ とを 以 って転入して来た所︑それが ヱッ クハルトにとって魂の自体であった 0 又 ︑この よ う に魂の自体はそ 

こに神が宿り住んでいるものとして﹁神の家﹂ とも云われている︵ し 0 日 拐 年立の 

降ぢ 

崔のお のコゴ曲 P 目ト 日がの ︐の仁ト 

73  (193) 

内に神はその 会コ笘めハ のと 毛 e 

馨 

とを注入す る ︒従ってその 庄こ のは︑神の日も︵のの 充 溢からの直接の涌出 ︵ pN ヴ ﹁ 建臼りぎ 口の︵ コが ︵ め Ⅰの︶ ポ Ⅰある︒これは︑ 鏡 に 映像が写される如 き 関係以上であって ︑ 像の 内に原像そのものが    ︵ 廿 ︶ 度 した把握がある︒ ヱ クハルトに ょ れば神が ︑ 醜に於て | 正確に云えば 魂 として自分自身を像 る 時︑その 荘ニ のの  如何なるすご口のも写されていない無 相の ︵ま三の しじ心地である︒ 

所で以上の " 村の ぃ コミ 轄 n". , ゆコ e a 二の ぃヨぎ臼 ︐巨 ましの︐は︑ 諸力 との対比に於ける魂の 自体 

定 であるが︑かかる自体を自体たらしめるもの は︑ 神である︒即ち ︑ 神の有︵補則 有 ︶を受けて 有 とし 

る処 ︑其処が魂の目 休 なのである︒魂の毛ののの コ は神の名のお コ のみを受 け 得る︵の口や椅の コ のにの ぽ の目 9 コの 

オの コミ es の コ の1ま・ 98 ︒魂は毛 8 宰に於てその 毛 ののの コ を 画 かに神から受ける︒ 父 0 コぬ ︒ 汀ゆコ のの コ の ド 

︐ し目 Po の︶︒神の方から云えば︑神は神の全 休を挙げて魂の内に転入して来るのである︵︒ 0 叶如 かⅠ 

のの 下 ︵︵︶ ざ宙 ︒日出二の日田 すヨ " 臣 Ⅰ ゴ 目玉 トい往コのヨ ︵ ユこ 1ミ︐ 9 式・︶︒即ち ︑ 魂の自体は ︑ 神がそ こに 転 

のとして︑魂の目棒なのである︒この ょう な者 ︐ え方のもとには︑魂が﹁神の像﹂であると 云 5 車 に 就い  の 否定的な規 て 成立ってい 年男 

ぬむ ︵〜 ざ 1 

ヨ ぎ匹 三日 音 

三のぎ日の 

入して来たも 

ての独自の徹  を 持っと云 う 事が魂の毛 串 c とされる︒それに 対して魂はその自体に於ては一切の働きをなさ ず︑ 従って 諸 力 め媒 

介を脱し︵ ぎ のが甘の 2 日 ぎ魑 ︶ 諸力 に転ぜられ ず ︑それ自身の寂静に住している︒ 物 との関係を 一切離れている故に 

Ⅰ 。 

  

  

は 上︑魂の目 体は︑諸カ との対比で 云へば︑無 作 寂静であり︑無媒介の端的であり︑無相の心地 である事︑及び 魂 

以上のようであるとすると︑  ヱッ  クハルトは  所  謂  ﹁魂への神の内在﹂を説いているよ  う  に見える 

  

ッ  クハルトの思想の根本テーマの一つである︒  然  し  魂の内に神が内在するとは  ヱッ  クハルトに  と  ってどう云う事であ  っ  たか︒神の魂への内在とは︑魂の内面に絶対が  開かれている事であり︑その事によって魂は自  分目身の内で自分を  超え出ており︵化すの  す の  コ  寸サ浅紅  いオ  おけ  臼  ︶ ︑  そして自分の内で自分が超えしめられている  正  にその所が  ︑  魂の内  面  であり魂の目棒になって来るのである︒この  ようにエックハルトの場合︑神の魂への内在が直  ちに魂の神への税目  と相即し︑而もこの相即を自覚的に強調する  点  に  所謂汎神論との根本的な相違がある︒ここに  ェ  ッ  クハルト理解の  一  つの要がある︒その相即は  ︑  例えば︐戸田  ョい 

︵ 5@  ヒコ  Ⅰ  ド のこの︶  コ  のいま  @ ㏄ い  トコロのⅡの凹の・年ゆ  宙ト  岸のぎの  の す  注ぎ  幅 0  ︵の  "  ︵ つ  h.  ざ  9  め簿  ・︶  0  即ち  ︑  神が  魂  の  内に住む正にその  現にもよく示されているが︑典型的には次のよ  うに云われる︑︒  芭ぃめ  降のぎ立毛  館ぎ  隼のⅠの目の  ︒  宙ゆ栢  Wo  丑  ︶ ココ  の︶の  サ の  田  の ど  丑のの  も  の ゅヨ  の計宙の目のヨ田Ⅰ  曲叶  るのめ  ヨ  "  ︵由のの  00  ︶  と  云  う  簡潔な表 

  

      と  云  う動性  そのものが魂の﹁自体﹂をなすので  ある︒ 

く 194) 

   o 

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Ⅰ  の リ のけの二 % ヴ岸岸 ⅡーののⅡ 日 ・ コ ・㎏も の ︶ 0 

74 

Meister  Eckhar  億  に 於ける 「突破 」の,思想について 

  

  

とされる︒そしてその二重の意義を統一して︑  魂  の  根底は無  底  なる︵的  ココ  巨の  ‑ のの︶根底であると  云われるのである︒ 

7  合 と同じくこの 幅 ︵ ロコ ︵と云う概念で﹁連続の非 連続﹂が肥えられている︒即ち ︑ 魂の自体は魂 の む目巨 として︑ 

諸力 0 発源である︵ ま EFq の曲の ︑ Q げ由 げい のコこ め ぃ 年の日 ゆ Ⅱ仁司 ロ 0  伍のの き ︑ののの コ の 1 ︒ ㌧ h. 仕 ︐㏄㏄一反 @ ﹂の意味でのののの コ ︵〜の 

ゅ田ヨ 

おが 

諸力 の中心 lR ま口 ヨ 0 ヨ 三目ヨ ち ︒ 汀 巨守 巨ョ とも云われる | ㌔︒アコ・ qoo ︶と同時 卜卜 ︑ 幅 Ⅱ 仁呈 そのもの 

としては 諸力 を離れた無作であり︑従って 諸カ がそこから発源しながら 諸力 によってはそこに 坦 遇る 事は出来ない︒ 

﹁魂の内に一物あり︑そこから知も愛も流発して 来るが︑それ自体は知る事もせず愛する事もし な い ﹂父性・ ミ ・ 0 鱈 ︐ 

︶の b. ︶︒魂の根源でありながら︑理性による自己 返照も意志に よ る自己追究も︑そこにとどかな い ︒ここに 諸力 と自  体 との﹁連続にして非連続﹂がある︒而もその もとに︑魂の自体が脱臼であると 云 5 ﹁連続にし て 非連続﹂がある︒ 

即ち ︑ 魂はそこに於て自分自身であると共に自 公 でない︒前者の﹁連続にして非連続﹂は ︑ 魂の 自体の諸 力 に対する 

関係︑或は魂内在的な的︵ 由 まの意義を示し︑後 者は︑魂の自体の神への関係︑或は ︑ 魂をそも そも 魂 たらしめると 

云 う魂 超越的な 門 年三の意義を示している︒ こ の 二重の意義に於て ︑ 魂の目 体が 魂の根底︵ 串 0 Ⅱ的Ⅰロコ 占隼の Ⅱのか 訂 ︶ 

(195) 

0 目  体  をその  ょう  な自体たらしめているのは︑  神  である事︑即ち神が魂の内に転入して来たも  のが魂の目  体 

  

    

げる﹁男性﹂と﹁女性﹂︵  ヨい口  u.  づ ro  二毛の︒  N,  し  目  ㏄いこ︑等々  ︑  様々に説いて倦まないのである  が︑  然し二  つ  考えているのではない︒神の場合︑神と神性︑一  二 1.  一 性と﹁一の  一 ﹂とが  " ⑲目け  コ ︵  ︐  と天  ぅ概  念  で結ばれた  広  して︑魂の目  体が  魂の  ゅ ︵ 廷コ  こであると云われ  8  時︑エックハルトの魂の把  え  方の統一が示さ  れる︒そして 

神  の  の  魂  、  む  で 

  

︐名臣  b 

     

一 一 

魂 はその根底に於て自己同一が破られており︑ その 腕 自性が魂の自体であった︒魂の目体は ︑そ こで魂が 魂 自身で 

あり魂がぎすと云い得る所であるが︑ぎすと 一 ム い得るのはもともと神のみであり︵ づ性 ・の・ お 9  の oh. ︶ ︑ヰ蠕井 かり 目 c す 

神のぎ甘が魂の内に転入されたものであ った ︒故に ︑ 魂はその自体に於て ︑どすと 云い 得ても︑正にそ う 云い 

得る根拠からして︑ " ぎ 下文臣 ぎゴ︐と 云 う自 己 同一せなさず︑却って " どゴす ぎ ユ c ゴ ︵ ぎゴ " と 云わねばならな 

い ︒自己が自己でないと云 う 所が本来的に自己 の 根底であり︑そら云 う あり方が即ち﹁ 魂 ﹂と 云われるものなので 

ある︒所が魂がど ァと 云 う時 ︑ ど すと云い得る その故に一つの根本顛倒が生ずる︒ Hn ゴが︐ 

H  のぽすかコ白 

はす叶 Ⅰの ゴ " 

としてその根拠に脱 目 しつつ〜の出である代りに 討下が︑ 

正に村 

ゴと 云い得るその故に直 接に 肯定 一 さいね︑従っ 

てそのど下が " 村ォす ぎ ぎす " として自己を とらえてしまう︒これは自己同一が脱白を ︐閉ざ し ︑ 無 底の根底を掩 

いつつ︑自己の内に自己を根底としたものとし て 自己を立てる事である︒自己の根底に於て 

同一の形である︒そしてかかる百敷 的 自己同一が ぅ のは︑自己を私して自己に閉ぢ た 自歌曲自己 ︑ 魂の目体を私しっ  ︵ 6 ︶  ︑ ‑ 村ゴ すぎ 汀す " と云  っ 今や ︑ 魂の諸力 め 統一者而も諸 力 を所有すると 云う仕方での統一者となる︒このような意味で 0 目歌曲自己同一者 ︵ l ︶ が︑ヱッ クハルトが " のお の コ のの ォ笘 ︵ ︐ ︵目的の コ ー お 牙 uh ︵︶と呼んだ所のものである︒それは︑一切 のものを﹁自分のも 

の ﹂として私せんとする根本盲動としての我慢 即 所有主である︒自己を私する事が隠れた根にな って︑所有に於て 自  己の有を立て︑自己の有を所有によって満し広 げ んとするあり方である︒このの貯の コ の nrphd に よって魂の諸力 は︑ 

  私の諸カとなり︑かくしての俺の コ の りす ㏄︵︵は ︑私 0 話 力 を使って一切に於て絶えず﹁自分のもの ﹂を求める︵ 山 日日のⅡ 

年 のの目の円 コ のま臼の口︶︒即ち 諸力は 所有主たるの あの コ の c プ ㌔任の私用に供せられ所有のための手段 とされてしまうので 

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ドキュメント内 『宗教研究』185号(39巻2輯) (ページ 71-78)

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