NO. 70
部落のいまを考える⑩ 『部落史を読む』を読む 野 町 均 とべる刊行会 『京都部落史研究所所蔵図書目録J
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1111 藤 田 敬 一部落のいまを考え る ⑩
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を
読
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を読む
はじめに さきごろ藤田敬一、師岡佑行両氏の編になる﹃部落史 を読む﹄︵阿件社︶が上梓されました。そこでこの﹁部 落史を読む﹄を読んで感想を述べよ、というのが﹁こぺ る ﹂ 編 集 部 か ら の 出 題 で す 。 部落史の門外漢への出題にたじろぎもしましたが、こ こはともかく本書を読みながら書きとめた部落史をめぐ るいくつかのトピックを蛮勇をふるって採り上げてみる こ と と し ま す 。 さて本書は京都部落史研究所﹁京都の部落史﹂の概説 部分に当たる第一巻前近代篇及ぴ第二巻近現代篇をめぐ る二つの座談会記録︵前者が網野善彦氏と藤田、師同氏、 後者が井上清氏と藤田、師岡氏︶と二つの講演記録︵網 野氏、横井清氏︶及び一つの論説︵藤田氏︶からなって います。ここではそれぞれについて論ずるのではなく、 全体を通読して部落史を考えてゆく際、重要と思われる ことがらや興味や疑問を覚えた点を中心に感想を述べて み ま す 。 こベる 1﹁暮らし﹂と﹁意味づけ﹂ 一九九五年に全十巻が完成した﹃京都の部落史﹄で編 集・執筆の任にあった師岡佑行氏は、本書の叙述の基本 方針として﹃部落史を読む﹄のなかで次のように語って い ま す 。 ﹁人問、さまざまなところに生活がある。どのように 部落の人が生きてきたのかを描こうとしました﹂と。 これは藤田敬一氏の﹁差別と貧困に岬吟する部落、芸 能・芸術の発祥の地としての部落、労働と生産の部落、 これがこれまでの歴史の中の主な部落史像、だった﹂との 発言に応えたもので、このやりとりは期せずしてこれま での一般的な部落史像とそこに欠けていたものを浮き彫 り に し て い ま す 。 師岡氏はまた近世政治起源説の枠組みを棚上げにして ﹁日本の歴史において賎視・差別されてきた人びとがど のように暮らしてきたのか、生活をきずいてきたのかを はっきりさせようと考えました﹂と語り、暮らし、生活 の視点を強調されています。そして、部落差別の背景に は﹁部落に愛憎をふくんで生きた生活があることを知ら なかった点が大きい﹂だからこそ﹁賎視された人びとの 暮らしを、観念や心性までふくめて明らかにしていくこ とが大切﹂だ、とも述べています。氏にとって、生活の 視点からする歴史叙述は過去の事実を明らかにするだけ でなく、現代の部落差別に対する歴史学者としての取り 組 み で も あ り ま し た 。 生活があってもほとんど暗黒の生活というイメージが 部落差別の背景にあるとの指摘は、部落の暮らしとそこ に住む人びとの生活感情への理解の不十分さを意味して います。教育現場の話で申しますと、藤田氏が挙げる差 別と貧困、芸能・芸術、労働と生産はいずれも生活その ものなのですが、それを語ることが部落の人びとの偉大 さを強調するためであったり、あるいは部落の低位さだ けが強調される結果差別事件が惹き起こされるといった 議論を承けて、急逮芸能や労働を附けくわえるといった 単純さや安易さがこれまでの部落史学習にあったように
思われてなりません。 ﹁解放なるものの基準があらかじめ用意されていて、 それに合わない、もしくは反すると考えられるものは切 り捨てられるんです。そうすると清澄すぎて、人間とか け離れた歴史像が描かれてしまう﹂との藤田氏の指摘は 学界もそうかもしれませんが学校現場でも見られる傾向 で、歴史のささやく声にしっかりと、豊かな感情で耳を 傾ける、そのような気風を同和教育が十分に育んでこな かったとの反省がわたしにはあります。 独特の個性を備えた辞書として定評のある新明解国語 辞典︵第五版︶の﹁暮らす﹂の語釈には﹁寝たり起きた り、食事をしたり、遊んだり、などして一日︵一日︶を 生きて行く﹂とあります。おそらくこのような平凡な日 常が人間の、そして時代のメンタリティーを形成する基 本でしょうから、師岡氏の指摘がとりわけ印象に残るの で す 。 人びとの暮らしを見据えなくてはならないというのは 部落史、部落問題に限ったはなしではなく、生活をしっ かり見つめることをしないと、なにごとにおいても事態 を捉えそこないやすい。 大学生のころわたしは中国の文化大革命に強い関心を 抱いておりました。﹁人民日報﹂や﹁紅旗﹂にならぶ勇 ましい文字に心惹かれ、紅衛兵の接見や国慶節に天安門 楼上に姿を見せる中国共産党要人の序列を眺めていたの です。ところがいわゆる四人組が失脚して、 ルボルタ l ジユや写実的な文学作品をとおして文革の実態が白日の N A V P 勺 下に曝されるようになりますと、いやおうなく中国につ いて、文革についての理解の浅はかな自分の姿があらわ になります。どうしてこんなふうに捉えそこなったのか。 それは、イデオロギーや勇ましい言葉のフィルターをか けて階級闘争だけを見ょうとして、人びとの暮らしぶり に目をふさいできた結果でありました。 はじめて中国へ旅行をした際、﹃毛沢東語録﹄ の数段 を中国語で暗唱できるほどなのに、トイレは何だったか なあとあわてて辞書を引かなければならなかった、それ ほど人びとの具体的な暮らしを忘れていたのです。この こぺる ような経験があるものですから、暮らしを見ることの重 みを強調しておきたいのです。 3
わたしたちは肉体と精神でもって生活している。肉体 を動かして生きる自分とその自分を管理する自分がいる。 だから暮らしを見ょうとすれば、この肉体を動かす部分 とともにそれを管理している部分を見なければなりませ ん 。 管 理 す る 自 分 は 、 一定の条件を考慮しつつ生き方を 決定し、自身の生活の意味づけや他人の生活との比較を 行います。﹁暮らし﹂と一対にして﹁意味づけ﹂を挙げ た の は こ の た め で す 。 師 岡 氏 の 語 る よ う に 、 い わ ゆ る ﹁ 内 ﹂ が ど ん な 観 念 、 心性をもって自らの暮らしぶりを認識しているかはもち ろんですが、同時に﹁外﹂がどのような観念、心性で ﹁ 内 ﹂ の生活を見ているのかを把握できたら、そこにあ るズレや共感が浮き彫りになるでしょう。それは差別を めぐる観念、思想をたどることであり、現代と対比でき る 問 題 で も あ り ま す 。 余談になりますがわたしにこの意味づけの重要さを考 えさせてくれたエピソードを一つ紹介しておきます。 大正から昭和にかけて廃娼、女性の人権擁護、婦人参 ︿ ぷ し ろ お ち み 政権獲得運動に尽力した久布白落実︵一八八二
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一 九 七 一 一 ︶ の ﹃ 廃 娼 ひ と す じ ﹂ ︵ 中 公 文 庫 ︶ に あ る 挿 話 で す 。 数え年十五歳の彼女が母に連れられて親戚筋にあたる 矢島梼子、当時の女子学院の校長に会いに行きます。矢 島女史は落実の顔をじっくり見て﹁この人はあまり器量 がよくないからつづくでしょう﹂と言った。そのころは 女学校卒業よりもよい嫁入りぐちがあればそちらを優先 させる家庭が多く、卒業まで学院にいる人は多少オ l ル ドミス型にできていると相場が決まっているように思わ れていた、と卒業した落実は回想しています。こんなふ うに明治の女子教育では中途退学などまったく問題視さ れていないけれども、現在では大きな社会問題と意識さ れています。中途退学というのは正でも負でもない生活 上でのニュートラルな事実なのですが、その意味づけに 変 化 が あ っ た の で す 。 賎視、差別された人びとは自身の暮らしをどのように 考え、意味づけていたのだろうか、その生活は他からど のような意味を付与されて見られていたのだろうか。 ﹁内﹂と﹁外﹂が自身と相手の暮らしをどのように意味 づけていたのかをたどることによって差別の歴史が見えてくる、そのような部落史が今後出てきてほしいと期待 し て い ま す 。 ﹁械多﹂と﹁非人﹂ 近世において穣多と非人はおなじく賎視されていたの ですが、明治以降は様相を異にしました。この問題につ いて師同氏は﹁現在、被差別部落と呼ばれるところの多 くは旧かわた村だったところで、非人の集住地だったと ころは解消してしまっているところが多いですね。その 理由を突きつめることは大事な課題﹂であり、部落解放 運動も例外はあってもほとんど旧かわた系の部落によっ て進められていると述べています。差別されたのは穣多、 非人以外にも宿、穏坊、青屋など多岐にわたっています がここでは稼多と非人に限定しておきます。 明治になってからのおなじく旧身分であった犠多と非 人に対する差別の様相のちがいは師岡氏が語るように現 代の部落差別を考えるための重要な提起だと思います。 非人の集住する地域への差別はなくなったのに旧かわた 身分の地域はそうはならなかった。両者への意味づけに ちがいが生じてきたのです。ただし非人部落として現在 までも差別の目で見られている地域があるとの事例を聞 いた覚えがありますので非人への差別が皆無とは申しま せんけれどもそれに近いのが現状でしょう。 非人の場合いわゆる足抜けができたという事情があっ た。それに、江戸時代の穣多と非人に対する差別の度合 いも相当ちがっていたのではないかと思います。たとえ ば荻生祖僚の場合。但僚は非人に対しては﹁いまの代の 乞食・非人は、世の風俗のあしきと世の詰りたるより生 じたるものなれば、畢寛上の治めの届かぬ所あるに帰す る事なる故、これを救う道あるべき事也。然るになんの 思い廻しもなく、善七手下になす事、ただ仕形にこまり っ た な ての事なれば、奉行御役人の才智の拙きというべし﹂ と 書 い て い ま す 。 ︵ ﹃ 政 談 ﹄ 岩 波 文 庫 ︶ 乞食や非人は一般の平民からなった者たちであり、幕 府の政治の行き詰まりがその数を増やしている。非人輩 こべる 出の原因を政治に求めているのですから、こういうのが 5
政治起源説なんでしょうね。祖僚のこの非人に対する認 識は筋の通ったしっかりしたものだと評価します。とこ ろが非人に対しこれほどの認識を示した但伯仲が械多とな ると﹁さてえたの類に火を一つにせぬというは、神国の 風俗是非なし﹂、犠多と生活をともにしないのは神国の 風俗であり、その身分が生じた原因など一顧だにしてい ません。非人について考察したその思考が械多について はまったくはたらかない。但棟においてはそれほど穣多 についての差別観は厳しかったと思います。 み み ぷ く ろ もう一つ根岸鎮衛﹃耳嚢﹂にあるエピソードを紹介 し て お き ま す 。 ある江戸の大店の若旦那が長崎奉行のお供として崎陽 の地へまいります。じつは態のよい親元からの追放で、 この若旦那、はなはだ身持ちが悪く、当地でも放蕩はや まりません。やがて主人の長崎奉行が任を終えて江戸へ 帰るのに、どうした事情か彼は残って、深くなじんだ芸 者と所帯を持つようになります。ところが一一一年すると 江戸へ帰りたくてたまらなくなり、悩んだ末に妻を残し たまま出奔して親元へ帰ってしまうのです。 残された妻は苦悩に沈むのですが、意を決して男を追 って江戸へと旅立ちます。﹁所詮女の身にて遠国の波濡 を参り難し﹂と思った彼女は﹁非人になり、少し気違ひ の様子にしなし﹂てやっとのこと男のもとへたどり着き ます。若旦那にお会いしたいと訴える非人の女に店の手 代たちは驚きますが、真相が明らかになると、若旦那の 両親も彼女の切実さに心動かされ、 ハッピーエンドとあ いなります。︵﹃耳嚢﹄﹁女の一心群を出し事﹂岩波文庫 版 中 巻 ︶ 事実かどうかの実証はできないのですが、事実として もきわめてまれな事例であるために﹃耳嚢﹄に記録され て い る の で す が 、 いずれにせよ荻生但徳のようなイデオ ローグだけじゃなくて、庶民のまなざしも非人に対して は穣多と比較するとまだ寛容だったと考えられます。わ たしが械多と非人をひとくくりにした部落史に疑問を覚 えているのはこのためです。 また担保が﹁神国の風俗﹂に﹁えたの類﹂を対置して いるのも気になるところで、非人についてはあれほど合 理的に思考した彼が、械多については﹁神田﹂を引き合
いに出す。﹁神国﹂ナショナリズムが械多を排斥してい るのだとすれば、維新以後のナショナリズムについても 問 う て み た い こ と が ら で す 。 四 ﹁連続﹂と﹁断絶﹂ 差別意識はどのようにして生まれたのか、その原初的 形態はどのようなものだったのか、これは人間存在のあ り方、人間の本質とかかわる問題であり、そのためには 差別意識に含まれているいろんな要素を取り出してみな くてはならない。そこで藤田氏は具体的に﹁畏敬・畏 怖・賎視・忌避・排除﹂を挙げるのですが、差別意識は こうしたさまざまの要素を含んだものとして把握すべき だと思います J ここではこれらの要素と穣れ意識を関連 さ せ な が ら 考 え て み ま す 。 横井清氏は、部落差別にはわたしたちの祖先の信仰、 価値観、外来文化の受容、歴史上の条件、特質等が凝縮 されていると述べています。こうした複雑な事情を考慮 しながらもその根源にあるものを網野善彦氏は﹁自然と 人間の関係から発生する問題﹂﹁人間と自然との関係に その根源がある﹂と強調されています。部落差別と深く 関連する織れの意識もこの人間と自然のかかわりのなか か ら 発 生 し た と 把 握 す る の で す 。 この械れ意識に﹁畏敬・畏怖・賎視・忌避・排除﹂が 絡みついてまいります。その絡みつき方は時代によって 異なります。横井氏は、お産の械れや死者に触れること を採り上げ、それらに従事する人びとは識れとして差別 の対象ではあっただろう、ただし、それ以上に、ふつう の人にはない特別な才能や技術などを兼ね備えた人びと という認識が強かった時代があったと語っています。お 産と葬儀に携わる人びとへの﹁賎視・忌避・排除﹂以上 に﹁畏敬・畏怖﹂の意識が強くあったのが、鎌倉時代の 終わりころから室町時代にかけて価値観の転換が生じ ﹁畏敬・畏怖﹂が引っ込んで、代わって﹁賎視・忌避・ 排除﹂の意識が強まったと見るのです。 網野氏も十四世紀から十五世紀にかけて﹁穣れに対す こぺる る畏怖感、つまり自然と人間との均衡がくずれるさまざ 7
まな事態に対する恐れがだんだんとなくなりつつも、措慨 れに対する忌避感だけは強く残っており、 しかもそれが 習慣化しながら次第に肥大化していくという状況﹂があ っ た と 指 摘 し て い ま す 。 それではこの二人の中世史家が指摘する価値観の転換、 もっと大きくは文明の転換と称してよいでしょう、その 転換は現代のわたしたちにどのようなかかわりを持つの でしょうか。横井氏は﹁過去の人びとの物差しが知りた ぃ。その過去の人びとが持っていた物差しというものが、 未だに生き続けている。そのようなことが、現代の部落 差別意識との関係では、全く無縁であり、無価値なのか どうか、ということを考えてみてはどうだろうか﹂と述 べ て い ま す 。 わが国の中世に生じた文明の転換がもたらした織れ意 識の変容と現代の部落差別はわたしたちとどのようにか かわりあっているのでしょうか。現代人は穣れ意識にど れほどとらわれているのかという問題になります。 この﹁畏敬・畏怖﹂を少なくとも表面からは消してし まっている被れ意識は横井氏が執筆している ﹃ 部 落 問 題 け が れ 事典﹄︵解放出版社︶の﹁穣﹂の項目によれば﹁現代に まで至る部落差別の思想的基盤の根が培われたと推察さ れる﹂のであり、生まれ筋や血筋の認識により裏打ちさ れ近世へと受け継がれている。しかも現在、日常の表面 には織れ意識は無縁と見えたとしても﹁全く思いがけな いときに、思いがけない形で不死鳥のごとくに匙り、現 代に生きる者の立脚点をあかあかと照らしだす﹂かもし れない。こうして械れ意識と部落差別との関係は﹁差別 の撤廃をめざす部落史・部落問題研究の今後の最重要課 題 の 一 つ ﹂ と な り ま す 。 ここには織れ意識を﹁連続﹂という視点で見る論理が 間然するところなく述べられています。ただ、この考え 方を理解しながらも、械れ意識を﹁連続﹂というかたち でのみとらえてよいのだろうかというのがかねてからの わたしの疑問なんです。械れ意識が現代の部落差別と無 縁であるとかそれらの関連の究明が無価値だというので はなく、械れ意識を﹁連続﹂ではなく﹁断絶﹂の視点か ら も 検 討 し て み ・ な く て は な ら な い の で は な い か と 考 え る の で す 。
現代の日本人の多くが部落民をして穣れた人びとと認 識しているとはわたしには思えない。深層意識まで持ち 出しての議論となると難しすぎるけれど、少なくともわ たしの実感、観察からは、部落の人聞を械れた存在とし て意識する雰囲気は感じられない。実感というはなはだ 暖昧な言葉を用いているのですが、部落問題を考える出 発点として自分の実感、観察は無視できないし、検討の 素材としてたいせつにしなければならないのではないか と思っています。もとより自分を絶対視する態度は戒め なくてはなりませんが。 部落外の人が部落の人といっしょに食事をしたり、酒 席で杯のやりとりをするのを厭って拒否した光景がかっ てはともかくいまも日常的にあるとは思えません。もち ろん家系上に別の血が混じるとか言って部落の.人間との 結婚を忌避する事例を知らないわけではありません。た だ、知識の普及はもとより知性、心性のあり方は変化し ているし、社会構造も変化している、それらの要素を考 えるならば、穣れと部落の人聞を結びつける J 発想や思考 は﹁連続﹂ではなく﹁断絶﹂の方向にあるというのがわ たしの判断なのです。綴れ意識がなくなったとか今後な くなるだろうと言ってるのではなくて、械れと部落の人 聞を結びつける発想や思考の方向性についての自分なり の 考 え な の で す 。 差別文化の重要な要素である械れ意識を一掃しようと、 ある宗派にあっては葬儀の際にきよめとして塩を用いる 慣習をやめようと取り組んでいると聞きます。親族や知 人の葬儀での死への接触が械れだとして塩できよめると いうのであるならずいぶんおかしなはなしですから宗派 としてこの慣習をやめようと決したのでしょう。その決 定にあれこれもの申す筋合いはないのですが、ただ、き よめの塩の廃止が部落問題の解決につながると考えてお られるのなら相当な誤解でしょう。 死を械れと見る意識はおかしい、だから塩をやめよう という論理は理解できます。しかし、部落の人聞が綴れ ているからというのでみんな葬儀で塩を使っている、そ こで塩はやめなくてはいけないという論理ではないはず こぺる で、きよめの塩と部落問題の解決が関係あるのでしょう 台 、 9
こんなふうに葬儀の塩をはじめ大安、仏滅などの士ハ 曜﹂やひのえうま︵注︶は不合理な迷信だから撲滅しょ うという運動は部落問題を解決していると思ってやられ ているようですが、なんだか別のことをしている印象を 受けます。差別は人と人との関係から生ずるのですから、 その解消も人と人とが向き合うなかで取り組まなぐては ならない。塩の廃止なんかはその原理を忘れているので はないか。なんだか別のことというのはそうした意味で す 。 いま部落の人間に対する﹁賎視・忌避・排除﹂がない と主張しているのではありません。それらは織れ意識と は別のところから起こっているのではないか、それは、 こわいという意識、藤田氏の言葉を借りると﹁共同体秩 序 の 撹 乱 要 因 ﹂ ︵ ﹃ こ ぺ る ﹄ 四 七 号 、 一 九 九 七 年 二 月 ︶ か ら身を遠ざけておきたいとする意識の作用が大きいよう に 思 い ま す 。 自身の体験で申しますと、生徒が差別事象を起こした 学校の教職員や所管の教育委員会の職員は﹁被告﹂なの だと、ある解放運動の活動家に言われた経験がある。差 別されるこわさに比較すれば﹁被告﹂になるくらいなに ほどのことはないと考えておられたのかもしれません。 あるいは軽い気持ちで口にされたのかもしれないけれど も、しかし差別事象が起こると当の学校の教員や関係行 政機関の職員は自動的に﹁被告﹂とされてしまうのはお そろしいことではある。くわえて同和対策事業をめぐる 不正、厳しさただよう運動団体聞の対立の雰囲気、何か あると問答無用で集団で押し掛けてくるといった中傷や 風間などがあいまってこわい意識が醸成されているので す。かつての畏敬や畏怖のようにかしこまるのではない、 やっかいなことになるとたいへんだとするこわさ。わた しの実感、観察ではこちらの意識のほうに少なくとも械 れ意識よりもはるかにリアリティを感じます。 ︵ 注 ︶ ひのえうまは干支から出た迷信であるが、干支 そのものは時間や方角を認識するための智慧であ り 迷 信 で は あ り 得 な い 。
五 ﹁ 東 ﹂ と ﹁ 西 ﹂ 部落史の話題からだいぶん離れてしまったようですの で つ ぎ に 移 り ま す 。 中世史研究の進展は、日本史上において十四世紀から 十五世紀にかけて文明史的転換があったと告げています。 そしてもう一つ、中世以前の日本社会が近世以降の社会 と比較すると多元的な要素を持つ社会であったと教えて くれています。﹁東﹂と﹁西﹂はその多元性を象徴する 意味でここに挙げました。この点については本書に収め る網野氏の講演と座談会の発言をたどるとよく理解でき ますし、また氏には﹃東と西の語る日本の歴史﹄︵講談 社学術文庫︶という専著もあります。 一九二八年山梨県生まれの網野氏は部落問題について 京都の方々から聞く状況とはなんとちがっているのだろ うとしばしば思ったと語っています。これは山梨と京都、 大きくは﹁東﹂と﹁西﹂の歴史が歩んできた道筋のちが い に つ な が る と い う の が 氏 の 見 解 で す 。 つまり被差別部 落の問題は﹁日本国の王朝天皇を頂点とする国制に深 く結びついた問題で、日本国に侵略・征服された東北や 南九州、曲がりなりにも別個の王権を持った東国の社会 は、十四世紀まで王朝の支配下にあった西国の社会と多 少とも違う﹂のであって、このちがいを意識して部落問 題を考えなくてはならないと述べています。 現在の部落問題と関連づけると、﹁東﹂の人たちが、 部落問題を知らないと発言したとして反発したり、無知 は差別だと糾弾したりするのではなく、どうしてそのよ うな状態にあるのかを考えるのがたいせつだと思います。 それにしても江戸時代には﹁東﹂﹁商﹂問わず穣多、 非人は差別されており、中世以前と比較すれば異質な原 理の機能は減退
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て同質、画一化した社会が形成されて いたのです。とすればどうしてそうなったのかといった 問 題 も 重 要 で あ る は ず で す 。 ﹂こで部落問題をめぐる﹁東﹂と﹁西﹂の問題につい こぺる て若干私見を述べてみます。永井荷風に魅せられてわた しはこの作家と作品にゆかりのある土地をよく散歩しま 11す。たとえば生まれ育った小石川の地。ここでの往事を 回想した随筆﹁伝通院﹂で荷風はこんなことを書いてい ま す 。 ﹁嘗ては六尺町の横町から流派の紋所をつけた柿色の 包みを抱へて出て来た稽古通ひの娘の姿を今は何処に求 めゃうか。久堅町の穣多町から編笠を冠って出て来る烏 追 の 三 味 線 を 何 処 に 聞 か う か ﹂ 。 いずれの町名も現在は変更されています。 一 八 七 九 年 ︵明治十二︶生まれの荷風によると彼の幼かったころ、 この久堅町の一隅に穣多町があったとされています。そ の一隅と重なるのかどうかは不明ですが、 一 八 九
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年 ︵ 明 治 二 十 三 ︶ の六月の国民新聞に載った﹁窮民柔聞﹂ ︵中川清編﹃明治東京下層生活誌﹄岩波文庫所収︶とい う記事は、この町を窮民の多い地域と伝えています。こ の著者不詳のルポルタージュによると久竪町は﹁窮民散 在し、中には紙屑拾い下足直し等多く窮苦に迫﹂られて いるところとして当時の小石川区内のいくつかの町とと もにその名が挙げられています。 一 九 一 一 一 年 ︵ 大 正 元 ︶ 石川啄木がこの久堅町の阻屋で貧窮のうちに病没します。 啄木が没して十年後の一九二二年︵大正十一︶熊本か ら高橋貞樹を頼って上京した徳永直という青年が小石川 にあった博文館印刷所の植字工となり、出版従業員組合 博文館支部の責任者となりました。\一九二五年博文館印 刷は精美堂と合併して共同印刷と改称、これを機に操業 短縮と人員整理を行ったため、組合側は硬化し、翌年の 一月からふた月余にわたる共同印刷ストライキが闘われ ました。徳永直﹃太陽のない街﹄はこの争議を描いたプ ロレタリア文学の名作で、共同印刷︵小説では大同印 刷︶のあった久竪町界隈は作品の舞台となっています。 荷風が穣多町とした地域と窮民街や印刷所とは重なり 合わないかもしれませんけれども、 いまは閑静な住宅街 となっているこの地域のあゆみを眺めていると、貧しい 人びとは多かったもののそれだけではなく印刷業も盛ん となっている地域へと変化していっています。人の出入 りも激しくなり、町のイメージも変わってゆきました。 部落問題をめぐる﹁東﹂と﹁西﹂のちがいはこうしたと ころにも表れているのかもしれません。 仮説実験の方法を被差別部落の歴史の授業に導入した意欲的な試みである住本健次・板倉聖宣﹃差別と迷信﹂ ︵仮説杜︶は﹁東﹂と﹁西﹂の問題について﹁江戸時代 から被差別部落が多く存在し、それに対する偏見が強か った西日本では、人口流入が多かった新興都市ほど被差 別部落が増えていくことになったのです。逆に、もとも と被差別部落が少なく、偏見の少なかった東日本では人 口流入が多かったところほど、被差別部落は減っていく ﹂ と に な り ま し た ﹂ と 述 べ て い ま す 。 差別意識や偏見の強い地域と弱い地域では、おなじよ う に 人 口 流 入 が あ っ た 場 合 、 一方では被差別部落は拡大 再生産され、他方では縮小される、このような一般論が 成り立つかどうか現在のわたしには判断できません。話 題を東京に限ってもほんとうに偏見は少なかったのでし ょうか。住民の移動、流入により部落が早くから貧民、 窮民のスラムと化したり、多くの町工場が立地して労働 者が多く住むようになる、こうして、部落とされた地域 に資本主義的な変容が起こり、部落の記憶が遠くなって いったと考えられないでしょうか。 ←_L. ノ、 ﹁片側﹂と﹁両側﹂ 歴史を見るとき、わたしたちはともすれば現代の物差 しで見てあれこれ評価する発想にとらわれやすい。差別 と貧困という観念だけで部落問題の現在を把握し、さら にそれを過去に遡及させてしまいますと過去から現在ま で部落は差別と貧困の一色で覆われてしまいます。 心が凝り固まっているために歴史のさまざまな表情を 読みとれなくなり、江戸時代には経済的に豊かな部落も 多かったなどと聞くと、裏に政治的な意図を隠したタメ にする議論ではないかと疑つでかかったりする。江戸時 代のかわた身分の人口増が示されると、その原因は、間 引きをしなかった部落の人びとのやさしさにあると強調 し、部落の﹁内﹂が﹁外﹂よりも人間として立派だった と叫ぶばかりで、人口増に耐えられる経済力を見ょうと こベる し な く な り ま す 。 教育業界における近世政治起源説をめぐっても、歴史 13
を論ずるというよりも互いに政治的意図を探り合いなが ら議論をしているような雰囲気を感じます。政治起源説 の否定がこれまでの同和教育を全面的に否定するための 材料とされたり、これまでの同和教育を墨守するための 生命線として政治起源説が意識されていたりするのです。 ﹃ 部 落 史 を 読 む ﹄ の内容は座談会、講演、論説と形態 は異なるのですが、この凝り固まりから自由になって、 部落史を検討してみようという姿勢は一貫しています。 たとえば行政闘争の理想型とされるオ l ルロマンス事件 を回想しながら井上清氏は﹁行政闘争というのは、行政 と仲良くして融和運動をやりましょうということではな いですか、簡単にいえば。部落解放運動というものはこ ういうものかという気もするが﹂と述べていて、その当 否はともかくとしても、こんなふうに凝り固まりから自 由になろうとすればいままで崇めれられてきた神話の検 討、解体作業に向かうのは当然のなりゆきでしょう。 凝り固まった姿勢で、そして現代の物差しを振り回し て歴史を見る危険性は心しておかなければなりませんし、 それは知的怠惰ないしは安逸と呼ぶべきでしょう。ただ し、歴史と現代との関連で申しますと、現代への鋭い洞 察が歴史を魅力的にするという事情はあります。現代の 問題への積極的な関心が、それまでなにほどもないと思 われていた事実に光をあてたり、埋もれていた事実を掘 り起こしたりして歴史の表情を豊かにしてゆくのは歴史 を学ぶ醍醐味だと思います。それまではちつちゃな事実 と考えられていたものが人間と社会についての鋭い洞察 をとおして大きな意味を持つようになる、細部に宿った 歴史の神クリオとの出会いはこうした現象を指している の で し ょ 、 っ 。 ﹁ 某 、 一心に屠家に生まれしを悲しみとす。故に物の 命は誓うてこれを断たず。又財宝は心してこれを貧ら ず﹂と鹿苑院院主景徐周麟に語る山水河原者又四郎。延 徳元年︵一四八九︶六月五日の夕暮れどきの鹿苑院の光 景は横井清氏とクリオとの出会いを通じて大きな意味を 持つようになったのではないでしょうか。︵横井清﹁中 世 民 衆 の 生 活 文 化 ﹄ ︶ 藤田氏は﹃京都の部落史﹄の感想として﹁部落差別撤 廃のために部落内外の共同の営みが不十分であれ存在し
たことが確認でき、かすかながらも未来への希望の明か りを灯してくれているように思う﹂と述べ、そして本書 のあとがきに﹁たしかに公的世界における法と制度の規 制はあっただろう。だが、その間隙を縫って個々人の解 き放たれた出会いとつながりがあったにちがいなく、そ れを丁寧に見届ける必要があるのではないか﹂と書いて います。ここには現代の部落問題への洞察をとおして、 立場・資格の絶対化と差別|被差別関係の固定化を指摘 し、共同の営みを提起した氏ならではの﹁部落史を読 む ﹂ 目 が あ り ま す 。 ﹁片側﹂を一方的に称揚したり、差別者と断じたりす る の で は な く 、 ﹁ 両 側 ﹂ を 、 そして﹁両側﹂の関係を丹 念にたどることによって差別の実態は明らかにされるで しよう。同時に﹁両側﹂のいとなみが人と人との関係を どう変えてきたのかといった視点から史料が検討される とき﹁解き放たれた出会いとつながり﹂の事実が新たに 見いだされるような気がします。門外漢の夢想にすぎな いのかもしれませんが、部落史がそんなふうにして豊か なものになるよう期待しているのです。直接の史料では なく歴史家の叙述をとおして歴史に接する機会の多いわ たしとしては、歴史学の成果にまなぶとともに、現代の 部落問題を考えながら﹁部落史を読む﹂目を鍛えてゆき た い な 、 と 思 っ て い ま す 。 * 本稿は一九九八年十月三十一日の﹃こぺる﹄合評 会での報告をもとにまとめたものです。 こぺる 15
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0 頁 お 』 = 0 ・ 日ま 0 並 発行 '::> 円 製 せ 一九七七年に京都部落史研究所が設立されて以来、 ﹃京都の部落史﹂編纂のために収集してきた図書・資料 の 目 録 を 京 都 部 落 史 研-
プし 所 所 蔵 図 書 目 録 と し て 刊 行 することになりました。 この目録には、七O
九五タイトル・一万四一四二冊 ︵シリーズものや逐次刊行物などは一タイトルとしてい ます︶を収録しています。このうち約四五OO
タイトル は﹁部落問題・差別問題﹂に関するものマ、京都に関係 するものを中心に全国各地の図書・資料を収録していま す。特に部落史・同和行政・解放運動の分野については、 今では手に入らない貴重な図書・資料も数多く含まれて い ま す 。 また、﹁部落問題・差別問題﹂以外の歴史・社会科 学−文学などの分野のものも多く収録しており、﹃国史 大系﹄﹃日本随筆大成﹂﹃日本思想大系﹄等の叢書では、 各巻の内容もわかるように細目を記載しています。更に、 巻末には書名及び著者名の索引をつけており、利用しや すくしています。 ﹂れまでは、研究所のカ l ド目録のみで、来所してい ただかなければ所蔵等を確認できず不便をおかけしてき ましたが、今後、この冊子を活用していただくことで、 ﹂れまで以上に多くの方々に所蔵図書・資料を利用して いただくことができるようになります。 この目録に収録されている図書・資料は、全てすぐ閲 覧できるように整理・配架していますので是非ご利用く ださい。但し、注記で﹁閉架﹂となっているものにつき ましては一部閲覧を制限させていただくものもあります。 それらの閲覧希望の方は、ご相談ください。 購入等のお問い合わせは、京都部落史研究所︵肌O
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三二︶まで。鴨水記 マ 第 回 目 ﹃ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 ︵ 日 −