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2007
こべる刊行会NO. 1
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インタビュー:部落解放運動再生への道を考える②周囲との関係をつなぎ直すことからの再出
発
山本
義彦
+
藤
田敬
一
横浜・寿識字学校から⑦精神の棺お
け
づくり
大沢敏郎f
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近読んだ本から⑬子ど
もの視
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一森田ゆり著『子どもが出会う犯罪と暴力一防犯対策の幻想』坂
倉
加代子
写真と 文 一 宗 景 正(写真と文京崇正)
金城卜ミ(かねしろとみ)さん さんLん
圃 圃 園 田 部 落 解 放 運 動 再 生 へ の 道 を 考 え る ②
周囲との関係をつなぎ直すことからの再出発
山
本
義
彦
部 落 解 放 同 盟 大 阪 府 連 ,6. 会 浅 香 支 部 顧 問土
牒
田
敬
一
自らの原点を見つめる 先ほど現在の事態は、自分がこれまで生きて きたことを否定しているように思うと言ったけど、あな た の 部 落 解 放 運 動 の 原 点 は 何 で す か 。 山本義彦やっぱり貧しさと差別された体験です。小学 校三年のとき、友だちから﹁ょっちゃん、泥棒や﹂と言 わ れ た ん で す 。 ﹁ な ん で 泥 棒 や ﹂ と 聞 い た ら 、 ﹁ 給 食 、 食 うてるけどいっこもお金渡してないやんか﹂と。ショッ クゃった。ものすごく悲しかった。﹁泥棒ちゃうわい﹂ と言い返したけど。職員室に行って、先生に﹁給食、や め ま す ﹂ と 言 っ た ら 、 ﹁ ぁ 、 そ う ﹂ 。 藤 田 ﹁ あ 、 そ う ﹂ だ け か ︵ 笑 い ︶ 。 山本それですごく腹が立って。﹁なんで?﹂と、どう 藤 田 敬 一 して聞いてくれへんねん、と。もう一つは、小学校五年 のとき、行商にまわっていた父親の品物がバッタリ売れ んようになったんです。いつも買うてくれる奥さんが教 えてくれたという。﹁おっちゃん、物、売れへんやろ﹂ ﹁ う ん ﹂ ﹁ お っ ち ゃ ん 、 矢 田 か ら 来 て へ ん か ﹂ ﹁ う ん ﹂ o 同 じように行商でまわっている人が﹁﹁矢田から来てる人 の物をょう買うてるな﹂という話をしてはったよ﹂と。 父親がうちに帰って、﹁矢田で生まれたのは俺のせいゃ な い ﹂ と 泣 い て ま し た 。 藤田当時、矢聞は青物行商の街ゃったね。矢田の、つ まり被差別部落の連中の野菜などをょう買うな、と。あ なたが五年生ということは一九五六︵昭和三一︶年ごろ か。わたしが矢田に寄せてもらう直前の話やね。 山本僕は、小学校二年から働いてきたよ。朝四時に起 き、親父と一緒に大田町の木津市場へ買出しに行く。七 こべる l時 半 ご ろ い っ ぺ ん 帰 っ て き て 、 八 時 す 、 ぎ か ら 学 校 へ 行 く 。 きづち 学校から帰ると、針中野の叔母さんとこで革を木槌で抜 く仕事をする。家に帰って共同浴場に入り、またおばあ さんの所に行って七時から一一時まで働く。そういう生 活をずっとつづけてました。 藤田長欠︵長期欠席︶はしなかったの? 山本学校へは行くことは行ったけど、先生にいじめら れまくったね。﹁給食費、持ってきましたか﹂とたずね ら れ 、 ﹁ 忘 れ ま し た ﹂ と 返 事 す る と 、 ﹁ わ た し の 言 う こ と 、 いっこも聞かへん﹂と実力で教室から放り出された。 藤 田 勉 強 は ? 山本あまりできなかったな。 藤田中学校から浅香に移る。 山本新聞配達やって。夏と冬は叔父さんがやっていた 寄せ屋︵廃品回収の問屋︶に住み込みで働きました。中 学校を卒業するとき、久保田鉄工の採用試験を受けたけ れど落ちて。女の先生が﹁山本君、きみ、お母さん一人 しかおらへんね﹂﹁お母さん、どこでも一人とちゃうの ん?﹂︵笑い︶。﹁そういう意味ゃない。あんた、おかし な子やね﹂﹁母一人ですわ﹂﹁お父ちゃん、おらへんかっ た ん や な あ ﹂ o 勉強もできなかったけど、母子家庭とい うことも落ちた原因ゃったかもしれん。そこで河川敷に あった桜井鉄工所に二年勤め、 の 現 業 に 入 っ た ん で す 。 藤 田 現 業 っ て ? 山本下水。どぶ掃除です。 藤田いま言、っところの﹁優先雇用﹂ゃないよね い ︶ 0 山本そうじゃなくて︵笑い︶。ところが、職場で出身 地が話題になる。﹁お前、どこから来た?﹂﹁大阪です わ﹂﹁大阪のどこやねん﹂﹁住吉ですわ﹂﹁住吉のどこや ねん。お前、ガラ悪いとこから来てるのとちゃうか﹂。 しまいには、﹁お前、お父さんネンネやろ?﹂﹁どうして 親父が死んだこと知ってまんのか﹂﹁そういうこっちゃ ない。ヨツということや﹂﹁エツ﹂と。ひどくなってく ると、山本君なんて呼ばへん。﹁おい、レンガ一束!﹂ ﹁なんでんねん。レンガ持ってきますの?﹂。レンガは四 枚 で 一 束 。 ﹁ 毎 日 放 送 ﹂ は 四 チ ャ ン ネ ル 。 藤 田
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と も 言 、 っ た ら し い よ 。 エ ン ジ ン が 山本それは知らんなあ。豊中市役所現業職の職場委員 をやっていたとき、浅香で町内会と部落解放同盟浅香支 部がもめていて、いろんな事情があって六七年、支部に 入った。入ってみると、不正などおかしいことがわかつ てくる。これは何とかせんとあかんと思うようになった ってを頼って豊中市役所んです。それと狭山闘争。﹁狭山も闘えんような解放同 盟はやめろ。一人の無実の青年を奪い返す運動もせん支 山本義彦さん 蕗岡敬一編集長 部はおかしい。同和事業浅香支部にせえ﹂と発言して除 名されかかったけど、支えてくれた人がいて、お似合めな ? レ 。 あなたの情熱の根幹に何があったんですか。 二度と自分みたいな子どもをつくりたくないとい 、 つ こ と 。 山 藤 本 田 藤田﹁自分みたいな﹂って? 山本僕みたいな、朝から働き、字も知らず、社会経験 も少ない人間 c 子どものとき、自転車一台買えることが 夢ゃったからね。学を知らんというので卑屈になるし、 知られたくないから虚勢を張る。虚勢を張っているのは、 ものすごくしんどい。自分の本質ゃないから。自己矛盾 が起こる。それやったら一生懸命に勉強して、僕ができ なかったことを次の担い手にやってもらおうと。 藤田あなたは字をどこで覚えたんですか。 山本家で勉強しました。閑語辞典と漢和辞典を持って。 山本の山って四回やと思ってました。二一画や。義彦の義 なんて二一−面もある。嫁はんが﹁あんた、変わってんな あ 。 な ん で 泣 き な が ら 勉 強 す る の ? ﹂ と ょ う 一 言 、 っ て ま し た。﹁でも俺、ちゃんと勉強したいねん。本も読みたい ね ん ﹂ と 。 ζベる 3
部落解放運動の中でめざしたもの 藤田利権の問題は早くから気づいてましたか。 山本ええ。特別措置法ができるまでは支部役員に物を 持っていくとかがあったからね。特別措置法ができ、制 度化されるでしょ?そうすると今度は人を一堂に集め なくなる。生業資金︵世帯厚生資金とも言う。低所得世 帯などに低金利で貸し付ける資金︶について、﹁こうい う規定で﹂と借りにきた人には説明はするよ。でも人を だんだん集めないようになってくる。なんでかというと、 自分が怖くなってくるから。利権屋はそういうふうにな る。一方、借りる方も、そう。﹁集まりに出なくても申 し込みに行ったらええんやで﹂と。ここから何の自覚が 出てきます?﹁あの人の世話になった﹂という話にな る だ け で す ゃ ん 。 藤田制度が持っている怖さやね。その問題点をずっと 言いつづけてきたんだけどなあ。朝団善之助さんは幹部 請負主義として批判してましたが。幹部自身が支部員を 受益者、利益の受け取り手にしてしまうんだな。﹁部落 内民主化﹂もすっかり死語になっていったしね。 山本そう。支部三役が班別集会に出えへんというとき は、もうおかしい。いまでも町で、しばらく会わないと ﹁長いこと顔見てないな。偉うなって﹂と言われること がある。そういう感覚がだんだんなくなっていくわけで しょ?この感じが大事なのに。 藤田わたしの若いころは、朝田善之助さんは﹁おっち ゃん﹂と呼ばれてました。それが七
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年代になると役職 名で呼ぶようになる。﹁組織なき組織﹂からの脱皮をは かるには必要だったとも思うけれど、そこに権威と権力 がつきまとうようになったんやないか。それまでは、ご ちゃまぜの中で幹部が支部員に注視されている関係があ っ た わ な 。 ところで、浅香のこれまでの取り組みは、﹁にんげん の街へ・浅香﹄︵部落解放浅香地区総合計画実行委員 会 ・ 山 本 義 彦 編 著 、O
二年六月︶に詳しいけれど、あな たがめざした部落解放運動の目標は達成できましたか。 山本一つは、﹁寝た子を起こすな﹂式の考えを打ち破 れたことやね。浅香は﹁寝た子を起こすな﹂が強い地域 で、﹁多分支部は結成できへん﹂と一言われたところでし た。先輩たちが頑張っても九四O
世帯あまりのうち同盟 に 参 J 加 し て い る の は 一OO
世帯、圧倒的少数派でした。 でも町会の人びととも協力して一生懸命住宅闘争をやり、 七四年、浅香支部は七五%くらいの結集率、組織率になったんです。やっぱり大衆の持っている願いをほんまに 組織してきたからやと思う。 一方でそういうことをやりながら、一年半かけて実態 調査の結果をじっくり分析した。浅香は九四
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世帯あま り、二八OO
人の人口。一世帯あたり三・一人。義務教 育のみ修了者もしくは未修了者が三分のこもいて、一O
人のうち六、七人が字の読み書きが不自由でした。当時 七 五O
人が働いていて、個別に面接調査をした。おっさ んが﹁俺、奥村組に行ってる﹂と言う。﹁おっさん、ほ んまに奥村組に行ってるんか﹂﹁いや、書記長、あれ、 建ててるのん、奥村組や﹂﹁どこで一雇うてもろてんの ん?﹂﹁隣の松本さんのところで働いてるのや﹂﹁それや っ , た ら 奥 村 組 と ち ゃ う や ろ ﹂ ︵ 笑 い ︶ 。 お ば ち ゃ ん ら は 家 で内職しているはずやのに﹁ナショナル行ってる﹂とか、 内職しているシャープの本社が近いから﹁シャープに行 ってる﹂と言う。﹁そんなん、ナショナルやシャープの 職 員 と 言 、 っ か ﹂ ︵ 笑 い ︶ 。 また、大和川の堤防の上に四九O
戸の家が密集してて 八 一 一 % が 不 良 住 宅 で し た 。 河 川 敷 に 二O
二世帯、六0
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人が暮らしていて、七回世帯が在日韓国・朝鮮人。実態 調査を一年半かけてまとめて、﹁これでも差別はない か ﹂ と 説 得 し た ん で す 。 こ う し て 一 九 七 六 年 一 一 一 月 一 四 日 に浅香地区総合計画実行委員会をつくった。 このときあげた三大要求の一つが地下鉄車庫撤去問題。 一一つ目が住宅改良法の適用。三つ目は大和川河川敷の改 修。あとは診療所、共同浴場、青少年会館、廃品回収共 同 作 業 所 と か 。 藤田三つの課題を含めて、それらを解決することが部 落解放につながるという確信はありましたか。 山本あった。一人ひとりが自覚して、白分たちの生活 をもう一回見つめ直すことが大事やと思ったことと、団 結することで、どんなにすばらしい世の中がつくれるか と い う こ と が 実 感 で き た 。 藤田そのとき、大阪市役所のみなさんの姿勢はどうで し た ? ひ き ょ う 山本あのね。強弱があったと思うんよ。卑怯な奴もい た な あ 。 藤田担当者は。 山本真面目ゃった。 藤田パートナーとして一緒に計画を実現しようという 感 じ で し た か 。 山本助役で坂口さんという人が、ものすごくええ役割 し て く れ た ね 。 こぺる 5部落解放への確かな道を歩んできたか 藤田あなたたちは七
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年代中ごろに浅香地区総合計画 を立て、二一つの課題の実現をめざして運動する。その中 で、人聞が自分自身を見つめる、自分自身の暮らしのあ り方を見つめることによって自立することを願ったとい う わ け や ね 。 どうですか。この三O
年を振り返って、部落解放への 道を確実に歩んできたと思いますか。 山本どこで自分らが気づくかという問題だったな。僕 は若い幹部を集めて八五年にこんなことを言、ったことが あるんです。支部ができて二O
年、河川敷の家がどんど んなくなった。改修されてね。団地もどんどん建ってい った。でも、僕は共同で利用できるものをまず建てる方 針を立てた。住宅は後まわし。なぜそうしたかと言、っと、 一回割れた村ゃから二度と割ったらあかん。みんなでや ったから共有の財産ができたということを実体験として 知ってもらうことがすごく大事やと。そういうことを話 した。二O
年で浅香はなんでこんなにも変わったのか。 僕らは河川敷に住んでたから一番その怖さも知ってる。 雨で増水したら浸かるからね。台風が来たら家が飛ばさ れる。それが二O
年たってなくなった。なんでや、と。 確かに部落解放運動をやってきたけれど、この施設をつ くった金はどこから出てきたか。日本の歴史を考えると、 アジアの多くの人たちの収奪の上に事業が成り立ってい るんとちゃうんか。松本治一郎先生は﹁不可侵、不可被 侵﹂︵侵さず、侵されず︶という言葉を残した。僕らは、 自分自身が人を侵していることを忘れたらあかんと。 藤田あの言葉を、わたしは﹁人の尊厳を侵さないとい う生き方が、自らの尊厳を守る前提になる﹂と受けとめ て い る よ 。 山本﹁侵さず﹂が抜けたとき、部落解放同盟は裸の王 様になる。自らを照らし出すためにもアジアに目を向け ようと、アジアのスラム改善運動にかかわるようになり ま し た 。 五年前にタイで都市貧民に対する特別措置法ができた。 タイ政府のメンバーと都市プランナー、スラムの活動家、 内田雄造さんと穂坂光彦さんとうちの支部で﹁部落解放 運動はいったい部落に何をもたらして、何を奪っていっ たか﹂をテl
マに二泊三日で総括会議をやったんです。 ﹁確かに部落の環境改善、生活は一定豊かになった。教 育もよくなった。でも部落にとって一番大事な自立とか、 け ん さ ん 自己を研錯するとか、自己を改革するとか、そういうことが全部抜けたのではないか。自分らが主体者のつもり だったけれど、結果的に主体者になりきれてなかった。 おのれを研錯することが遅れた。役所もその方が楽ゃか らね。そこが問題なんや。スラムの改善に取り組むメン バーが、住民の自立を考えてやらへんかったら、部落解 放運動と同じ過ちをおかす﹂。そんな話をしたんです。 藤田いまの話は、日本の部落解放運動が直面している 問 題 で し ょ っ − 山本そうそう。 藤田それがなぜ囲内で議論できないのかなあ。 山本部落解放運動の活動家の中にそのような現状認識 というか、問題意識があるかどうか。 藤 田 三
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年前から課題としては提起されていたよね。 狭山闘争の中で﹁自立・自闘﹂が叫ばれたけれど、ス ローガンに終わったし、部落解放運動の思想の問題とし ては展開できなかった。部落の人びとを同和対策事業の 受益者にしてしまった。大衆運動の完成期によくある傾 向 だ け れ ど 。 山本役所の位置が大きいと思う。うちのみんなに戒め てきたことが一つある。役職に就いたら、いつのまにか 自分が偉うなったように思う者が出てくる。役所は役職 によってペコペコするからね。うちの幹部にも言、ってき ました。﹁支部長とか書記長とかの肩書きを持っただけ で役所の対応がちゃうやろ。相手は最高学府を出てきて る。俺らより、もっといろんなことを知ってる。それに も か か わ ら ず 、 俺 ら が 一 三 口 う た ら 、 な ん で 口 が 止 ま る ん や 。 俺らがほんまに論破できたと思うてるか。俺らには大衆 がおるからや。でも自己研錯せえへんかったら、いつの 間にか自分は一人前だと思ってしまうで﹂と。そのこと が一番部落解放運動の弱さとちゃうか。誰もそのことを 指 摘 し て く れ へ ん 。 藤田飛鳥会事件の大阪地裁判決の要旨には、﹁圧力﹂ という言葉がキーワードになってる。﹁怖かった﹂と証 言している銀行マンや大阪市役所の職員がいる。圧力を かけようと意図しないけれども、相手がそれを庄力とし て感じる場合もあるだろう。小西被告のように圧力を感 じさせようとする人物もいる。そういう﹁圧力をかけ る・かけられる﹂という関係の中で、行政が﹁できない こ と ・ し で は な ら な い こ と ﹂ に 手 を 染 め て し ま っ た : ・ 。 山本いや、ちゃうね。役所は機構ゃないと思う。全部 個人で成り立っている。だから一線の責任者が問題を抱 えて本庁に持っていっても、﹁お前、なんで現場で処理 せえへんねん﹂と言われる。全部そう。 藤田機構なんだけれども、現実は個人の責任にさせら こぺる 7れるというの? 山本そう。だから同和対策関係の部署に配置されたら 不 幸 や と 思 う わ け 。 藤田京都市役所では比叡山の苦行をもじって、ひそか に﹁千日回峰﹂と言われていたらしいよ。じっと我慢の 三 年 と い う わ け ︵ 笑 い ︶ 0 山本それはそうやと思う o −前任者がやってきたことを 変えようとしても、上司は絶対認めへんからね。﹁なん でお前は余計なことをするねん﹂。上司にとって前例主義 でやってた方が楽やし、成果とされるんや。三年たった ら代えてもらえる。そんなことを役所は平気でするもん。 藤田部落解放同盟も役所のそういう内情はわかつてた んでしょ? 山本お互いにわかつてたにしろ、そこには事業があっ たから。﹁黙ってでも、やっとるわ﹂という話になる。 必 藤田一種の馴れ合いだな。 部落解放運動再生の可能性は 藤田あなたは、いま部落解放運動が八五年の歴史の中 で一番危機的な状況にあるという認識に立っているわけ だけれども、再生・蘇生の可能性はありますか。 山本うん。もう一回、しっかり立て直すことです。い ままでつながってきた周辺の人たち、一緒に歩いてきた 人たちともう一回連携していく。 藤田つなぎ直すということですか。 山本そう。それと、ある意味では、これまでの同和対 策と言われたものと決別することが大事やと思ってます。 我々には、いままで培ってきた共闘関係がある。町会長 とかそういう人たちともう一回向き合ってね。ほんまに 彼らと向き合い、共に歩めれば、部落解放運動をやって きたメンバーが社会的な﹁地位﹂を持つことになる。部 落の中で経験してきたことを一般地区で生かせることが いっぱいある。部落解放運動を側面から経験した人聞が ﹁手は放すけど、目は放さへんで﹂という形で分担しな がらね、地域内外の交流をつくる。僕らが部落解放運動 の中で学んできたことを社会に還元することが部落解放 運 動 や と 思 う 。 藤田しかし、中央本部などの文書を見ても﹁部落差別 が存在するか、ぎり、同和行政の継続を﹂と言ってるゃな い で す か 。 山本格差の問題について言えば、部落にもあるし、部 落外にもある。そのことから共鳴できる関係を部落の内 と 外 で ど 、 つ つ く る か と い う こ と 。
藤田しかし、このスローガンそのものは相変わらずの 同和行政の継続・維持を求めてるようにとれるよ。 山本必ずしも、従来のような同和行政を求めているわ けではないと思うんよ。部落外の人たちと共鳴できる運 動をど、つつくるかというとき、重要なのは自分らの経験 をどう生かすかです。八五年間やってきたことをどう社 会に還元するか。そこで広く共鳴してもらう運動になら へんかったら差別はなくならへん。ここまで、ある意味 で行政は責任を果してきた。 藤田テレビ朝日の番組で指摘したけれど、行政にでき る の は 条 件 整 備 ま で ・ : 。 山本そうそう。 藤田部落差別を完全になくすことなど、行政にできる わけがない。同和対策審議会答申︵六五年︶を根拠に行 政責任論に基づく行政闘争を果敢にやったところで﹁不 祥事﹂が起こっている。大阪、京都、奈良。 山本うん。全体がそうなっていったという面もあるけ ど。その中で思い悩んでいる活動家もたくさんおるんで す よ 。 藤田その姿が組織外の者には見えない。 山本だからそこに活動家のトラウマがある。頑なに組 織を防衛しなければと思ってるところがあるし、部落に 恥をかかせたらあかん、と思ってる。 藤田もともと部落には内の恥を外に出さないという意 識 が 強 い か ら ね 。 山本これだけ危機的な状況になっても、なおかっその トラウマに縛られる。﹁そのトラウマに縛られたらあか ん﹂ということにならんとね。 藤田もう一つ気になるのは、これまで部落解放同盟と 友好関係を維持してきたと思われる﹁学者・文化人﹂た ちがほとんど何も発言しないこと。宗教界も労働組合も、 そう。﹁こんなことでは困ります﹂までは言うけど、﹁何 やってんねん﹂という声は出ない。 山本そういう関係でしか付き合ってこなかったという こ と か な あ ・ ・ ・ 。 藤田あなたの言いたいのは、浅香を軸に、周辺のみな さんとの関係をもう一度組み立て直し、アジアの人びと との交流を深めながら、﹁部落解放とは何か。部落解放 運動とは何か。部落解放同盟は何のために存在するの か﹂を、根底的に考えるということになりますか。 山本そう。この間の運動の中で培ってきたことは、紛 れもなく歴史性を持っている。そんな中で部落解放運動 を見ててくれた人一、夢を一緒に追ってくれた人もおるし、 今度のことで夢が冷めたという人もいるし、﹁いやいや、 こベる 9
まだまだ解放同盟にはがんばってもらって﹂と思ってく れている人もなかにはいる。この人たちともう一回、真 剣に話をしたいです。 藤田そのとき、大事なのは部落解放同盟という組織で はなくて個人だと思う。個人の持っている思想性と行動 力が実践を通して人びとの信頼を回復するのゃないかな。 部落解放同盟というのは抽象的な集合名詞であってね。 山本確かにそうなんだけど、僕はね、そういうふうに だけとも思いたくないところがあるんだよね。﹁差別の 中で、必死で生きてきたおっちゃん、おばちゃんが託し てくれた責任がある。託された人がええかげんやったら、 託しょうがない﹂と思って必死に活動してきたもん。や っぱりそれは個人だけとは思えへんね。 藤田そこは意見が分かれるところだな。あなたならあ なたの人間観、人との向き合い方観、生き方観が問われ て い る ん で あ っ て ね 。 山本僕がうちのメンバーに言ってきたのは﹁差別が見 えたら目をそらすな。一回、目をそらしたら、ずっとそ らすことになる。無理せんでええ。人間の目の高さでや ろうや﹂と。そういう実践を浅香でやる。僕は浅香支部 をどうしたいか。一言で言えば、﹁浅香支部は止まり木 になりたいねん。みんな、いろんな人がきてくれて羽を 休めてくれたらええねん。元気を出して浅香から飛び立 ってくれたらええねん﹂ということ。それが部落解放運 動 の 思 想 や と 思 、 つ ん で す わ 。 ち り 藤田鎌倉時代中期、一三世紀末の﹃塵袋﹄という辞 書に﹁キヨメヲヱタト云フハ何ナル詞パゾ﹂とある。 ﹁エタ﹂という言葉は七百年以上、生きつづけている。 それほど根深い偏見と差別がそうやすやすと解消できる とは思えない。﹁エタ﹂という一言葉に込められた意識・ 無意識、偏見を溶かすには時聞がかかるということです。 部落解放運動八五年が、﹁マイナスイメージの記憶と 伝承の連鎖﹂を断ち切ることができなかったことを踏ま えて、自分のまわりから﹁人と人との関係を人間らしい ものに変える﹂努力をするしかないやろね。部落解放運 動再生への道はまだ明確になってはいないけれど、あな たもわたしも願っている﹁百家争鳴﹂、福沢諭士口の言う ﹁多事争論﹂が成り立つかどうかが鍵だということで、 終わりにしましょうか。ありがとうございました。
横浜・寿識字学校 から⑦
精
神
の
棺
お
け
守
つ
く
り
大沢敏郎︵横浜・寿識字学校主宰︶ と う り ょ う 法隆寺の宮大工の棟梁であった西岡常一さんの著作 みつお にふれたり、その弟子の小川三夫さんの語りなどを聴き ながら触発されるものがあった。 西岡棟梁については、法隆寺の解体・再建後、その逸 話 や 映 像 か ら 多 く の こ と を 知 る こ と が で き た 。 一 一 一 一00
年前の工人の技や木組みの巧みさやその完成美について、 説得力のある説明がなされていた。中国、あるいは朝鮮 たまもの 半島から渡来した人たちの技と知力と知恵の結晶の賜 であるとも言われていた。 参観者は、法隆寺の内部をみることはできないが、そ ざ い の用いられている材は、全くの寄せ集めではないかと思 ふぞろ われるほど、見事なまでに不揃いなものであったという。 その内部の不揃いな木組みが、外観としての法隆寺の建 ち姿を千数百年にわたって支えつづけてきたのだという ことに、ぼくは感動した。 小川さんは、それを、不揃いの木組みの美しさという ような表現をされていた。今、宮大工のある工舎の舎主 ︵棟梁︶をされている小川さんが言うには、それは、木 組みにとどまらず、人組みについても同じことが言える のではないか、と。小川さんの工舎には、三O
人ほどの 宮大工を目ざす、中学校を卒業してすぐの若者たちから 一O
年、二O
年と在舎している弟子の人たちがいる。不 揃いな人組みなどというとことばが悪いが、同じではな い個々の独自性をもった人たちの集まり、集合体がいい のだ、と。その中で、見て学び、触れて覚え、それを身 体に染みこませ体力にしていくことが、集合体の互いの せ っ き た く ま 切瑳琢磨になるというのだ。 こんな話を聴きながら、寿町の識字のことが思い浮か んできた。今、街は、社会情勢の反映なのか、それへの 適合なのか、すっかり静かになってしまった。その静け さについて、ぼくは、ただその表向きが静かになっただ けで、個々の人たちの生育や生活の中身、その背景はそ んなに変わったとは思っていない。ただ、見えなくさせ られてしまっているのだろうと思う。かつては、自分の 思ったことは間髪をおかず言い放ち、動いたからだはそ こベる 11のまま対象に向かっていた︵理不尽に対して︶。しかし、 世間には、こんな直接性は、ほとんど受けいれられない。 だから、静かになっただけなのだ。でも、ぼくは、この 静けさのなかの小さな波風にこそ注意を払っていきたい と 思 っ て い る 。 に ぎ 賑やかだったとき、街も人も喜怒哀楽にあふれでいた。 振り返って考えてみると、識字の部屋に現れた人たちは、 確かに誰もが不揃いだった。揃うという基準がないのだ か ら 、 不 揃 い と 一 言 、 つ し か な か っ た だ け な の か も 知 れ な い 。 山から伐りだした原木のように、それぞれに幹も枝ぶり きこぶ も木癌も切り口もその香りも独特のものがあった。本当 は、街の様子も人の動きもよく理解できていなかったほ つ ま ず く自身こそが、彼ら・彼女たちにとっては、蹟き、引’ ぷ二つ つかかるのにちょうど良い無骨な切り株のようなもので あったのかも知れない。 例えば、アルコールの入った人︵例を引くのに、いつ もアルコールの入った人で、申しわけない。でも分かり ゃすい。もちろん、ホロ酔い気分で静かに座っている人 たちもいた︶が部屋に現れれば︵これは、ぼくに対する あ い さ つ 単なる挨拶で、今日モ俺ハ仕事ヲシテ、一杯ノンデ元気 ダツタゾ、オ前モ元気ヵ、ということであったが︶、放 っておくわけにもいかず接待をしていると、やはりその 場は混乱する。﹁ソウカ分カッタヵ。マタ来ルゾ﹂など と言って、機嫌よく引き取ってもらうまでには五分や一
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分はかかる。ぼくにとって何とも親近感のもてる人た ちばかりであったが、接待が終わったとき、それ以前ま で、識字で何をしていたのかを忘れてしまうことはたび た び で あ っ た 。 そんなとき、席に座っている人たちは、ぼくが、かな り迫真に迫る勢いと声でやりあっていても全く気にする ば じ と う ふ う こともなく、馬耳東風のそよ風の世界をただよっていた。 め い て い 酪町した人が三、四人も出入りすれば、識字のコ一時間、 何をやっていたのかと頭を抱えこんでしまうが、そんな ときに限って、予測も予想もしなかった胸をうつあたた かい文章が書かれていった。どうなっているのかと思い ながら、終わってみれば﹁なかなかいい識字の時間だっ た﹂ということに変に納得していた。不揃いで不均衡な 三時間が、何のちからか、美しい三時間になってしまっ て い た の だ 。 不揃いの美しさということを考えているうちに、余分 なことを思いついてしまった。今、学校教育もふくめ社会的にも、さまざまな場にお いてこの不揃いであることが疎まれ排斥されてきてしま っている。人間独りで、完成あるいは完壁な姿などない ように、多くの人やものに固まれて少しずつ個が磨かれ、 人間としてそれぞれが多様に育っていくことがごく自然 なことではないか。不揃いの補完や相互作用こそが人と 人との関係をより豊かにしていってくれるのではないか。 い の ち ある人が、学校を制度のリズムから生命のリズムに切り 替えよう、と語っていたがその通りだと思う。自然農法 を思い浮かべるまでもなく、生命は、単純ではあるけれ あ ふ ども、溢れるほどの人組み m Vなかで、生き、生かされ育 っ て い く の で あ る か ら 。 これは、識字をするなかで少しずつ分かってきたこと であるが、制度化、画一化は、ことばを奪ってしまう。 育つべきことばを奪ってしまうということは、育つべき 人聞を奪ってしまうということだ。制度化、画一化され た日常生活のことば︵第二次言語︶の崩壊と再生が繰り 返されながら、個々のからだのなかに内包されているこ とば︵第一次言語︶が、それを超えていくとき、新しい ことば︵第三次言迂問︶が生まれてくるのだろうと思う。 これは、硬直した身体が、不揃いのまま、柔軟なからだ になっていく過程なのかもしれない。 もう少し宮大工について。宮大工の世界は、一
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代半 ばから二O
代の期間、技の修業と人間の修行を経て、三O
代で独り立ちをして、四O
代から五O
代でそれを完成 させていくということであった。これは小川さんのこと ばであるが、六O
代になると宮大工としての技も気力も 体力も実質的なところで衰えていかざるを得ないが、で みとう も六O
代からも未踏ではあるけれども、築いた土台の上 に何かあるのではないかということであった。新しい何 かが、新しい発見があるのではないか、と。また二O
代 、 三O
代で自分が養ったものが、ツケになるかも知れない あ ら わ が、明らかに五O
代、六O
代に顕れてくるのではない か と も 語 っ て い た 。 また、宮大工の棟梁は、二百年も三百年ものあるいは それ以上の風雪に耐えうる寺社をイメージし、壮大な建 築物にとりかかっていく。数百年後がどんな時代になっ ているのか分からないが、後世の宮大工がその作品を見 て、かつてこのような木組みのできた宮大工がいたのだ の こ という仕事を遺していくことが、使命のようなものであ ると小川さんは語っていた。 こぺる 13ドキッとした。かなりいい加減な二
O
代から五O
代を 送ってきてしまった人間にとって、きついことばであっ た。土台はしっかりとしていないが、六O
代からの何か に期待と希望をつなぐことにした。 別にからだのどこかが不調というわけではないが、六O
歳に到達する二、三年前からラ六O
代 の 一0
年間をど のように過ごしていこうか考えていた。考えているうち に時間は過ぎていく︵今、もうプラスーとなっている︶。 残り二O
年も三O
年も生きるわけではないから、この一0
年間ほどを自分に得心できる生き方にしたいものだと 思っていた。これらのことは、誰もがごく自然に考えて いることだろうと思う。西岡さんや小川さんのことばに ふれながら、具体的なものとしての何かを創りだすこと は不可能であるから、それでは何ができるのか。たかが 一O
年ほどで特別な何かができるわけでもない。思案に く れ て し ま っ た 。 考えのおよぶ範囲のことで、この一0
年間ほどででき ることは、どう見積もっても︿精神の棺おけづくり﹀を することぐらいしか思いつかなかった。自分の棺おけの 納まり具合と居心地をよくするために、何をするのか。 せつぱ 切羽つまっているわけではなく、ゆったりとした気持ち で、おそらく未完のままに終わるだけだろうと思うが、 その準備の姿勢だけは明らかにしておきたいと思った。 期待と希望のささやかな四本ほどの柱をたててみた。 寿町での識字の継続と日本の識字の展望もふくめてそ の体系化をすること。先人の作家や研究者や活動家たち が、膨大な時間と労力を費やし、精魂をこめ人間解放を ね が 希って書きあげた長編の作品、小説や史書やドキユメン トなどに目を通すこと。自分の関わってきた何件かの菟 ざ い 罪刑事事件のまとめをすること。あと、時間のあるとき、 内外の僻地、離島の旅をすること。 できるかどうかも分からないが、これぐらいが精々の ところかと思っている。叶うならば、四本の柱に付随す る多くの人たちに出会いながら、さらに自分の内面を磨 き高めていきたいと思っている。欲ばることなく、これ らのことを淡々と半分ぐらいこなすこと︵不可能だろう なあと思っている︶ができれば、まあまあということで 棺入点︵造語︶にしていきたい。最近読んだ本から⑬
子
ど
も
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視
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考
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る
|森田ゆり著﹃子どもが出会う犯 罪と暴力l
防 犯 対 策 の 幻 想 ﹂坂
倉
加
代
子
︵
NPO 法人四日市男 女 共 同 参 画 研 究 所 ︶ 孫が通っている小学校から﹃防犯パトロール﹂と白字 に染められた、まっ赤な N たすき μ が届いた。選挙の時 に候補者が肩から斜めに掛ける、あの ρ たすき九 受け取った母親は﹁こんなの掛けるのいややわ﹂と言 っている。理屈抜きに、その感覚は正しいと思う。 小学校の門は閉じられ﹁防犯カメラ作動中﹂の札が下 がっている。先日は小学生に道を尋ねようと近付くや、 体をかわし逃げられてしまった。 友人に﹁どこか、おかしいよね。近頃の防犯対策﹂と 話すと即座に﹁それだけ物騒な世の中になってきたって いうことよ。仕方ないんじゃないの﹂と返ってくる。そ れもそうだと思いながらモヤモヤしたものが残る。 そんな私の目に飛び込んできたのが、この本だ。帯に 大きく﹁﹃不審者狩り﹄では子どもを守れない﹂と書い て あ る 。 思わず表紙を繰ると﹁﹁子どもを守る﹄を合言葉に広 がる防犯対策。その主眼は路上に現れる﹁不審者﹄に向 けられている。しかし現実に子どもが出会う犯罪や暴力 は、路上ではなく圧倒的に屋内が多く、家族やよく知る あ お 大人たちからのものだ。ーl
マスメディアが煽る不安の 錯誤を暴き、さらには子どもに安心と自信をもたらす実 効策を明らかにする﹂と案内されている。この文章で私 の頭の中にあるモヤモヤがサッと消えた。 著者は、まず、子どもが路上で不審者に襲われて殺さ れる事例は減少しているという確かな統計を示し、マス メディアの報道の量や質、見出しの書き方などに依存し て私達は不安をつのらせているのではないかと問いかけ る。それを裏づける事例に三紙の統計報道を読み比べて い る 。 二OO
五年一一月四日の山口新聞の一面トップの見 出しには﹁一四才未満の事件凶悪化﹂とあり、日本経済 新聞は﹁少年犯罪四年ぶりの減少﹂と出した。朝日新聞 は一一一ページ目に小さな記事として﹁知能犯少年六割増、 、凶悪犯三割減少﹂と扱っている。読み手の反応が想像で き る で は な い か 。 また一九四0
年代以降の事件を並べ﹁恐しい事件﹂は 実はどの時代にも起きているのに、子どもが交通事故で 死亡する可能性の方が何十倍も高いのに、なぜ今、登下 校・学校の防犯対策フィl
パ ! な の か と 指 摘 す る 。 さらに﹁不安﹂の危険な要素に例えば、不安は伝染す こベる 15る・お金になる・支配の道具になるなど五つをあげ﹁町 が不安と不信から互いに監視し異質な人を不審者扱いす る、寛容と多様性を失った息苦しい町になっていく危険 性﹂を歯に衣着せず書いている。長くアメリカで人権問 題研修プログラムの開発や指導に携わってきた著者なら ではの説得力だ。さらに
CAP
︵ 子 ど も へ の 暴 力 防 止 ︶ プログラムを日本に紹介した著者は言う。﹁子どもたち は路上よりもむしろ家庭や学校での暴力に傷つき、苦し み、自傷やテレクラや引きこもりを繰り返している。 ||不審者情報に気をとられていないで、わたしたちの 方を見てと。聞いてほしいこと、見てほしいことがある んだと。わかってほしいこと、喜んでほしいことがある。 励ましてほしいこと、叱ってほしいことがある。他の誰 にも言えないことがある。明日に延ばせないこと、不審 者情報よりも、もっと大切なことがあると、様々な問題 行動を起こすことで教師や親に気づかせようとするだろ 、 つ ﹂ 。 子どもたちの息づかいが聞こえてくるような著者の声 は私の内なる子どもに響く。子どもたちは、もっと自由 に遊びたいにちがいない。生きにくいよと叫んでいるの ではないかと思う私に希望を持たせてくれたのは校門の ない小学校の校長先生のお話だ。﹁学校を閉鎖して子ど もを守るのではなく、地域に聞いて人の目で子どもを守 る方針。学校へ来る人は善意の人だという前提でなりた っている。一握りの悪意の人のしたことに支配されては いけない。人を育てることが学校教育の仕事です。子ど もや学校に悪意の攻撃をした人たちは、どうしてそうな ってしまったのか、子どもの頃の家庭教育はどうだつた のか、そういう人を作らない教育は何をすることか、そ れが私たち教師・学校の役割です。事件のほとんどが男 性による犯罪です。彼らがしっかりした性教育を受けて いたらどうだつたでしょう。この学校からは犯罪を犯し てしまう人を作らないということにこそ力を注ぐのが学 校教育の役割ですよ﹂。この真向う姿勢が基盤にあって の 防 犯 対 策 で あ ろ う 。 後半、五章の﹁効果的な子どもの安心・安全対策﹂で は、子どもの視点に立って考えることを第一条件に上げ、 子どもは無力な弱い存在ではなく問題を解決する力と知 恵を持っていると述べ、子ども自身の内に安心を育てる ことの必要を人権の視点で書いている。その実践例とし て紹介しているCAP
のプログラムに私は強い興味を抱 し た 。 頭の中に明快な答えをくれたような一冊。 ︵ NHK 出版・生活人新書、二 OO 六年九月、七四鴨水記 マ ﹁ 同 和 は こ わ い 考 ﹄ を 出 版 し て 、 ちょうど二 O 年がたちました。奥付 には﹁一九八七年六月二 O 日第一刷 発行﹂とありますが、鴨川右岸近く、 新緑の阿弥陀寺境内の阿件社に第一 刷五千部がトラックで搬入されたの は 五 月 一 六 日 昼 過 、 ぎ の こ と 。 現 在 八 刷 三 一 万 部 だ と か 。 ま わ し 読 み 、 複 製 をいれれば、読んでくださった人が どれくらいになるか想像もつかない。 や す ぎ この二月、島根県安来市でで﹂わい 考﹄を鞄から取り出しながら、﹁読 みましたよ﹂と芦をかけてくださる 議 ︿ 教 員 あ り 。 一 一 一 月 に は 愛 知 県 阿 久 比 町 で保育園長さんが﹁藤田さんの主張 が、ようやく受け入れられる時代に なったということでしょうね L と 静 かに語ってくださいました。こんな 遇され方をする冊子も珍しいのでは ないかな o ﹁ 人 も 本 も 見 か け に よ る 。 しかし人も本も見かけによらない﹂ の で す 。 マ﹁部落解放運動の理論として﹃両 側から越える﹄という考え方がある わけやけど、ぼくは、これは間違い なく、ウチの支部がずっと実践して き た こ と や と 思 う 。 [ 欄 外 注 記