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真宗研究29号 014千葉乗隆「初期真宗と仏光寺」

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Academic year: 2021

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八記念講演

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︵ 龍 谷 大 学 長 ︶ 初期教団と仏光寺と題しまして、 しばらくお話をさせていただきます。今日お話中しますのはことさら新しい内容 ではございません。諸先輩方がご研究なさいました、 その成果を紹介させていただくことになりましょうか。その辺、 ご領承いただきたいと思います。 私が住職をしている寺は徳島県にございます。実は、この寺の開基は、了源上人のご命令で四国へまいりまして、 寺を聞いたのでございます。今日こうしてこちらのご本山でお話をさせていただくのも、そうした因縁がありまして、 たいへん有難く存じておる次第でございます。ただいまからは先程中しましたように、了源上人を中心とした初期教 団における仏光寺教団、その特色といった点を少しお話したいと思います。 私共が本堂などに安置されたご本尊にお参りする時、最近は﹁南無阿弥陀仏﹂としか称えません。ところが親驚聖 人時代の、仏前に礼拝する様子を見ると、 そこで称えられる名号は単に六字名号だけではない。 ﹁ 南 無 無 碍 光 如 来 ﹂ ﹁南無不可思議光如来﹂といった七字、 八字、さらには九字、十字の名号もよく称えられていたようです。 親驚聖人の側にお仕えしていた蓮位が、下野の高田の慶信にあてた手紙があります。その中で、慶信の父親・覚信 初 期 教 団 と 仏 光 寺 一 九 七

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初 期 教 団 と 仏 光 寺 一 九 八 の、往生の状況を知らせています。この覚信という方は、ご承知のように高田のご本山がご所蔵になります宗祖直筆 の﹃尊号真像銘文﹄の袖室田にその名前が見えまして、親驚聖人に深く傾倒した門弟の一人でございます。晩年になっ て、下野国から京都の聖人にお会いしようと上って来る途中、病気をします。同行の者が下野へ帰って養生するよう 勧 め る と 、 ﹁自分は聖人のお膝元で死ぬんだ﹂といって、上京し、京都で死亡します。なくなる時、﹁南無阿弥陀仏﹂ の六字名号と ﹁ 南 無 無 碍 光 如 来 ﹂ と い う 七 字 名 号 と 、 また﹁南無不可思議光如来﹂の九字の名号とを称えながら、 静かに往生したと聖人のお手紙の中に記されております。このように六字だけでなく、 七字なり八字なり、九字、十 字といった名号を同時に称えていたようでございます。 親驚聖人がお聖教の中で、六字名号についてお説きになる箇所には大抵の場合、﹁南無不可思議光仏﹂、或いは﹁南 無不可思議光如来﹂﹁帰命尽十方無碍光如来﹂等の名号が同時に解説されています。これは聖人が、 ﹁ 南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂ の六字名号は単なる呪文ではないのだと。数をたくさん称えてその功徳で往生するといったような、 つ ま り マ ジ カ ル な念仏を排除するため、六字と同時に八字なり九字なり十字の名号を解説なさったと考えられます。 親驚聖人は門弟の申し出によって名号本尊を遣わされるのですが、 そ れ ぞ れ い た だ い た 門 徒 は 、 その名号を中心と し依り処として、ご法義を味わってきたと考えられます。そうすると、各門徒によりまして、尊敬する名号が少し違 っていたのじゃないか。例えばこちらの仏光寺さまでは、 ﹁ 南 無 不 可 思 議 光 仏 ﹂ ﹁南無不可思議光如来﹂といった八 字、九字の名号を大変大切になされます。恐らくは、荒木門徒と称せられた時以来、伝統的に八字、九字の名号を尊 敬なさってきたわけですが、これはやはりそうしたところに根ざしているのではないかと考えられます。 また本願寺 教 団 で は 、 覚如上人は真宗の本尊は ﹁ 帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来 ﹂ の 十 字 名 号 で あ る と い い 、 蓮如上人も初期の段階に は、門徒の要請によって授与した本尊に﹁帰命尽十方無碍光如来﹂の十字名号がございます。従って先刻申しました

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分類によれば、仏光寺さまの方は八字ないし九字の名号、本願寺は十字名号を依用なさったと。こうしたところにも、 各教団の相違を示す一端、があるように考えられるのでございます。 そこで、親驚聖人がなくなって後、各地で成立をいたします教団について、 さまざまな観点から詳細に点検すると、 細かな違いが見られる。それはもちろん色々な条件によると思います。その地方の風土とか、気質とか。或いは先の ように聖人から当初いただいた名号によって内容が変ってくるとか。さまざせな条件が重なりあって、独特の宗風と いうか雰囲気のようなものが醸成をされてきたのじゃなかろうか。そういった点について、仏光寺教団にライトを当 てて少し見てまいりたいと思います。 ご承知のように親驚聖人は、その当初から浄土真宗という一宗を聞く意図は全くなかった。 ﹁智慧光のちからより 本師源空あらわれて、浄土真宗をひらきつつ選択本願のべたもう﹂と﹁高僧和讃﹄にありますように、この浄土真宗 という名称は、源空すなわち法然上人から教えられた宗旨に親驚聖人が名付けたものでございます。従って親驚聖人 に、浄土真宗の一宗を起こす考えは毛頭なかったわけです。 ところが、親驚聖人の人格と教えを中心にたくさんの人々が集うようになると、自ずからそこに集団が形成をされ る。これが後に教団へと発展していくわけです。が、 そ の 際 に も 聖 人 は 、 ﹁わが弟子ひとの弟子ということあるべか ら ず ﹂ と か 、 ﹁親驚は弟子一人ももたずそうろう﹂といい、念仏する人々はみな如来の弟子であると、弟子や師匠と いう上下の階層により結ばれる教団というものの形成は考えていなかった。聖人は初期の段階では、上下関係で結ば れる教団については否定的であったと考えられます。 ただ、晩年に善驚事件が発生し、教団が大混乱に陥った際に、親驚聖人は従来のお考えを少し改めたのではないか。 そういうことが手紙の中で若干窺えます。善驚事件に際しては横曽根門徒の性信がリーダーとなり、正しいみ教えを 初 期 教 団 と 仏 光 寺 一 九 九

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初期教団と仏光寺 二

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守ろうと大活躍いたします。そこで聖人は手紙の中で、関東の門弟は﹁性信坊のかたうどにこそなりあはせたまふベ けれ﹂、性信坊に加勢をしみな一致協力して この難関を乗り切ってほしいという内容のことを書き送っている。 正 しい教えを守る人達はやはり団結して、 よこしまな法にあたらなくてはいけないということを、この時点では強く感 じていたのではないかと考えられるのでございます。 親驚聖人は念仏者がみな団結して正法を守れと積極的姿勢をとられるわけですが、 では初期教団の念仏集団のあり 方につきまして、どういった形態で、 またいつ頃から実際に具体的に教団形成がなされるようになったのでしょうか。 よく、越後時代から既に親驚聖人は伝道活動をし、越後地方にも念仏集団ができあがっていたとおっしゃる方もい らっしゃいます。ただ﹃門弟交名牒﹄あたりを見ますと、越後時代の門弟は僅か一人ですし、その後の念仏集団の分 布状況からして、越後での五年間の流罪時代は、親鷺聖人にとりましてはやはりものを考える思惟の時代であったと 想像されます。越後を出て関東に移る途中、上野国佐貫において三部経読語を中止し自信教人信の伝道活動を始めた という有名な話がございますが、恐らくは関東に来て以後、積極的な伝道活動が開始されて、 そこでだんだんと念仏 者の広がりが大きくなっていったと考えられます。 その際も、先刻申しましたように、師弟という上下関係によって結ばれる教団の形成はあまり考えられていなかっ た。ただそうした親驚聖人を中心とする念仏集団のあり方とは、例えば源信和尚は﹃横川首拐厳院二十五三味式﹄を つくり、毎月十五日に念仏者が集まって宗教行事をするという二十五三昧講を設けたわけで、そうした既存の組織に 則った集会形成ではなかったかと考えられます。二十五三味講とは、法皇とか比丘とか或いは一般の人々が社会的階 層を超えて、信仰により平等に結ばれていた結社だということであります。親驚聖人を中心とした集会もそのような、 お互いに社会的階層、こだわりを超えた集いで、 しかも門弟の聞にも上下の階層というふうなものを否定する、 L

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ゆる御同朋御同行の集いであったと思われるのでございます。 ところが親驚聖人が没してその後時代を経ますと、だんだんと各地の門弟が独立的な傾向を帯びてまいります。下 野国︵栃木県︶の高田では真仏・顕智両上人を中心に展開した高田門徒。或いは下総国︵千葉県︶の横曽根の性信を 中心にした横曽根門徒。或いは常陸国︵茨域県︶の教念を中心にした布川門徒、武蔵国︵埼玉県︶の荒木の光信を中 心にして展開する荒木門徒と、ご承知の通りさまざまなその土地の名称を冠した門徒団が形成されます。 やがてそれぞれ特色ある教団となっていくのですが、その際にこうして集団が形成されると、各教団を規律するそ れぞれの法度とか、提ができあがってきます。それらの門徒の提を見ると、そこにもその教団独自のあり方が反映さ れております。例えば西本願寺には善円十七箇条制禁というのがあります。この善円がどんな門徒に属する人か、 it っきりしませんが、十七箇条の制禁に彼の署名がございます。制禁は何種類か存在しますが、 ほとんどその内容は似 ております。その中に二、一ニ、各門徒の状況によって特別な規則が盛られております。善円の十七箇条の制禁を見て も、他の制禁に共通する部分が多いわけですが、特別な内容としては、人の口入や馬の売買、或いは商売の際に、門 徒であるという地位を利用して取引きしてはいけないとか、商売の時に暴利を貧つてはいけないという条項がござい ます。そこから、善円制禁が対象とした門徒団は、そうした商売をする人が多かったのではないかのと推測ができま す。さらに長野県の松本の正行寺に伝わる、了智の定﹁六箇条﹂というものを見ると、師匠を大切にしなければなら ないという条項が目立ちます。この門徒団はどうも師匠を大変崇める傾向が強いように感じられます。また新潟県の 浄興寺の二十一箇条制禁の条項では、﹁諸仏等同﹂﹁弥勤等同﹂という問題がどうも大きく取り上げられております。 親 驚 聖 人 は 、 八十三歳の時、笠間の念仏者に宛てた書状に、信心の人は釈迦や弥勤と等しいのだ、 と い っ て い ま す が 、 これを真言宗の﹁即身成仏﹂と混同して理解をする門徒が出てきて若干のトラブルを生じたようであります。浄奥寺 初 期 教 団 と 仏 光 寺

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初 期 教 団 と 仏 光 寺

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二 の二十一箇条にはそれについての戒めが見えますので、この門徒団では、当時そうした諸仏等同・弥勤等同の問題が 関心の的であって、先のような条項が生まれたとも考えられます。こういった風に、各門徒においてそれぞれの制戒 が設けられるわけでございます。 そ こ で 、 やはりこの仏光寺教団においても、了源上人が仏光寺を中心に集う門徒に対して独自の制戒を定めておる、 これが何種類か残っています。こういう型でそれぞれの門徒団が独特の制戒を定めて、門徒を統制するということが 見 え て お り ま す 。 それと同時に、各門徒団は親驚聖人以来の独特の血脈の系譜を立てて、自分の法系の正統性を明らかにします。仏 光寺で申しますと、これは後に詳しく触れたいと思っていますが、 ﹃ 絵 系 図 ﹄ ︵一流相承系図︶というものがござい す。その最初に書かれた序題に﹁親驚聖人は真宗の先達、 一流の明徳なり。勧化都都にあまねく、化導道俗をかねた まへり。彼の門徒あまたにあいわかれたまへる中に、予が信知したてまつるところの相承は、真仏、源海、了海、誓 海、明光これなり。ここに了源、 かの明光のをしへをたもちて、:::﹂と記されて、親驚聖人から了源上人に至るま で の 血 脈 を 明 ら か に し て い ま す 。 了 源 上 人 に 至 る 血 脈 の 中 で 、 親 驚 聖 人 の 次 に 真 仏 上 人 、 それから源海、了海などの上人へと次第をしますが、 そ の 真 仏 上 人 に つ い て 、 実はその当時、真仏上人が二人いたのでございます。 こ の 二 人 の 内 、 仏光寺の第二代に比定 される真仏上人はどちらであるか。これについて議論がありまして、先年なくなられた官崎円遵先生が、従来は高田 の真仏上人であるとされ、こちらの系図や他の大抵の文書でもそうなっております。ところがそれは常陸の大部の平 太郎真仏ではないかとおっしゃったわけでございます。 ﹃源海因縁﹄という本の中に、親驚聖人の次に位置付けられ た真仏上人とは 常陸国横曽根の平太郎真仏だということが出ております。さらに﹃親驚聖人御因縁﹄、 ﹂ れ は 談 義

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的色彩の強い本で南北朝にできたと推定されますが、その中にも荒木門徒の真仏上人は常陸の横曽根の真仏上人であ るということがしるされております。 御承知のように、平太郎については ﹃親驚聖人伝絵﹄に熊野詣での話が出てまいります。常陸の平太郎が主人の 使いで熊野に参詣をする。その途中、親驚聖人のもとを訪れ、自分は旅中、何の潔斎もせず登って来た。これから熊 野 詣 で を す る が 、 その心得を親驚聖人に尋ねるという話があります。 ﹃親驚聖人御因縁﹄にはそれがさらに詳しく書 いてあります。平太郎は領主佐竹氏の使いとして熊野詣でをする。 ただ今申しましたように、途中で潔斎をしないで 本宮に参ります。その時、夢に証誠肢の権現が現われ、平太郎が潔斎をしないで神殿に参ったのはけしからん、 と 叱 ります。その時平太郎は、実は自分は親驚聖人の念仏をいただいておる門徒であると告げます。すると熊野神は今度 は大変に喜んで、平太郎こそまことのほとけ、即ち真仏であるといった。こうして真仏という名称は、熊野神が名付 けたのだと書かれています。そして熊野詣でを無事に終えた平太郎は、やがて京都に上りますが、その道中で二万八 千人の人々を勧化した。人々は彼を平太郎上人と呼んだが、自分は親驚聖人ご在世中は上人とは呼ばれまい、といっ た。こういう話が﹃御因縁﹄に出ております。 そこで重ねて申し上げたいのは、真仏、特に荒木門徒で第二代目にすえられる真仏という人が、高田の真仏上人か、 また常陸の真仏上人か、再説ある。どうも未だに不明で、これは今後の解明に待たなくてはいけないということでご ざ い ま す 。 それと同時にもう一つ。これも宮崎先生の説でございますが、荒木門徒では、 ﹁真仏上人﹂というように、荒木門 徒の系譜に連なる先徳には した名称、が違っているのではないか。高田門徒は ﹁上人﹂という上人号を以て呼称としている。これは、 ひ じ り ﹁ 真 仏 聖 ﹂ と か 、 それぞれの門徒によって、そう ﹁ 顕 智 聖 ﹂ と か 、 ﹁聖﹂という言葉で真仏上人 初期教団と仏光寺 二

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初 期 教 団 と 仏 光 寺 二

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四 なり顕智上人を表示する。これは﹃三河念仏相承日記﹄の中に、こうして聖という名称を用いています。高田門徒の 指 導 者 た ち は 、 聖 と い う 呼 称 が 、 どうもピッタリとくる性格をそなえていたのでしょう。 そ れ か ら 横 曽 根 門 徒 は 、 阪東本の﹃教行信証﹄に﹁沙門性信﹂とあるから、 ﹁沙門﹂と称したのではないか。これは善導大師の﹃観経疏﹄の 中に﹁沙門善導﹂という言葉がございますが、こうした型の沙門が横曽根門徒。 鹿 島 門 徒 は ﹁ 沙 弥 ﹂ 。 ﹂ れ は 光 明 本 尊に﹁沙弥信海偽﹂と出ておりますので、鹿島門徒では沙弥と称したのではなかろうか、と。 このように、各門徒によってそれぞれ尊称、呼称が少しづっ違っておるというご指摘があります。従って、仏光寺 門徒は上人、横曽根門徒は沙門、鹿島門徒は沙弥、高田門徒は聖、とこういった呼称の面からも、それぞれの教団の 特色を見出だせるのではないかということでございます。 更には先刻申し上げましたように、仏光寺教団では、特に﹃名帳﹄とか﹃絵系図﹄というものを重要視なさいまし た。先ほども裏の書院で展観をご覧になった方が多いと思いますが、あの﹃絵系図﹄の中に、僧尼が並んで描かれて おります。了源上人とそのご内室の了明尼の影像を一番はじめに描き、 ついで僧と尼の肖像が描写されている。そう した点から、どうも仏光寺教団では女性を大切にし、重視したという傾向が強いのではなかろうか。本願寺の存覚上 人が了源上人の要請によって、 ﹃女人往生聞書﹄を書いた、ということがございますが、恐らくこれは了源上人とい うより、了明尼の願いによって、 ﹃女人往生聞書﹄は作られたのではないかと思われます。ご承知の通り、あの当時 は悪人と女人は﹁女人悪人﹂といつもベアで扱われていた。女性差別が大変強い。各種の経典にも女性を差別する言 葉が散見をしています。そういった中で﹃女人往生聞書﹄には、女人正機的な考えを強く打ち出していますので、仏 光寺教団では、女性を大変重視して、大切にしたのではないかと考えられるのでございます。 それから同じく﹃絵系図﹄は、序題の中で、門徒の惣的な結合、惣の衆議に基いて、色々な事柄を処理する、 そ う

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いう条項が見えています。南北朝から室町期にかけ、 まず近畿地方の先進的な農村地帯において、農民の自治的運動 が次第に活発になってまいります。それは、惣村という形態で、農民がみな寄り集まり、代表者の乙名︵長﹀を選ぶ。 乙 名 の リ l ドのもとで村が運営される。こうした傾向がだんだん各地強くなってくる、 いわゆる惣村形成がなされて くるわけでございます。そのような農民の社会的結合形態を真宗教団の門徒組織の中に取り入れて、門徒の惣的な結 合がなされる。それは単数の知識によってリードされる惣的結合が、特に仏光寺門徒の中に強く現われてきている。 それはただ今申しました﹃絵系図﹄や、 ﹃絵系図﹄ができて三年後に了源上人が造られた﹃算頭録﹄の中で、門徒の 惣の衆議によって教団を運営するということが見えております。そういった点、当時の社会組織形態の状況を反映し た門徒の形成が、仏光寺教団でいちはやく採用していたと考えられるのでございます。 こうして子細に点検してまいりますと、各教団においてさまざま異なる傾向が出てくるわけです。今一つ仏光寺教 団で特色とすべきものは、光明本尊の依用でございます。 最初に申し上げましたように、仏光寺系の教団では八字ないし九字、 ﹁南無不可思議光仏﹂或は﹁南無不可思議光 如来﹂の名号を重視なさいます。光明本尊は本来、 八字ないし九字の名号を中噂として、両脇に六字と十字の名号お よ び 三 国 の 高 僧 た ち 、 また聖徳太子の絵像を配して、それを礼拝の対象とする独特の本尊でございます。これが主に 仏光寺系の教団で用いられているということとも、やはり一つの大きな特色ではないかと考えられます。 もう一つ、了源上人が、京都に寺を造立した時に、阿弥陀仏の木像と同時に聖徳太子の木像を安置された。阿弥陀 仏の木像は、有縁の古仏を得てそれを奉安した。聖徳太子の木像については、 わざわざ彫刻しそれを安置したという こ と で ご ざ い ま す 。 こういったふうに、聖徳太子の像を安置することは、初期教団に共通する一つの特色ではありますが、近畿地方や 初 期 教 団 と 仏 光 寺 二

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六 それ以西に創建された真宗寺院では、あまり聖徳太子の木像を安置することはあまり見られません。これはやはり関 東教団の一つの特色ではないか、 と 考 え ら れ ま す 。 それからいま一つ、仏光寺教団の大きな特色として、談義的な色彩が濃厚であるということです。先刻申し上げま し た ﹃ 源 海 因 縁 ﹄ と か 、 ﹃親驚聖人御因縁﹄に出てくる真仏因縁など見ますと、非常に談義的傾向が強い。この点が 一つ大きな特色ではないかと考えられるわけでございます。 だいぶ時間も迫ってまいりました。まだまだ申し上げたい点が多いのですが、結論的なことを申しますと、初期教 団では、先刻申し上げましたように、各地の門弟はそれぞれ親驚聖人以来の法の流れ、すなわち血脈を立てる。 そ の 聖人の教えをどのようにいただくかという中で、風土的特色も加味され次第に独自の雰囲気が現われてくる。そうい っ た 中 で 、 仏 光 寺 系 の 教 団 で は 、 八字ないし九字のお名号を重視する。更に、女性を大切にする。或は、談義的な色 彩 が 濃 厚 で あ る 。 ﹃名帳﹄や﹃絵系図﹄による独自の伝道法を案出する。さまざまな特色が認められるのではないか、 と考えられる次第でございます。 大 変 、 中 途 半 端 な 、 おそまつな話を申し上げましたが、 ほんの、仏光寺教団の特色の概略を申し上げたにとどまり まして、時聞がまいりましたので、以上をもちまして終らせていただきます。ご静聴いただきまして大変ありがとう ご ざ い ま し た 。

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