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山 阿 白 一 労 組 問 ーとくに﹃器顕密二教諭﹄を中心にして│ 弘法大師空海︿七七四 l 八三五年)は周知の如く、平安初期に真 言宗を開宗した高僧であるが、その教理の中心となるものは即身成 仏思想と法身説法にあったといえる。このうち即身成仏思想は、当 時の南部の法相宗を始めとする三劫成仏思想に対するものであって、 主として成仏の遅速に関係するものである。また法身説法は空海独 自の仏自身観であり、即身成仏思想ともに顕密二教判の理論的根拠と される。空海は﹃秘蔵賓鎗﹄・﹃絵密憂茶羅十住心論﹄といった後 期の著作の中では、真言密教以外のすべての教えを顕教であると規 定し、真言密教はそれらの顕教を内在しており、かっ、それらを超 越した教えであると述べられている。しかしながら、﹃部顕密二教 諭﹄といった初期の著作の中では、顕教と密教を比較することに重 点がおかれており、顕密二教の相違点は、何かと言えば、成仏の遅 速と並んで仰ぐべき仏身が異なると主張されたのである。 空海は﹃部顕密ニ教諭﹄の冒頭で、﹁夫仏有三身教則二種。応化 開説名日顕教。雪顕略逗機。法仏談話謂密蔵。秘奥実説。﹄︻四七 四頁︼といい。また﹁如来変化身為地前菩薩及二乗凡夫等説三乗教 法。他受用身為地上菩薩説顕一乗等。並是顕教也。自性受用仏自受 法楽故輿自省属各説三密円。謂之密教。﹂︻四七四頁︼と述べられ ている。したがって、いまだ十地に至らぬ所謂、地前の菩薩や声聞 ・縁覚などのニ乗及び凡夫の為に変化身が説いた三乗の教説、また 十地にすでにある地上の菩薩の為に他受用身の説いた一乗の教説な どを皆な顕教と称し、他方悟りの法楽を受用して自受用三味にあ る法身仏が、自らの内に証得された悟りの境地をあるがままに説か れたものが密教であるという。ここに秘と言い、密と言われるのは 博士課程 二回生今
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凡夫にとっては捉えられず、向い知れぬ世界があることを表現する ことに他ならない。空海は、さらにまた﹁因分可説者顕数分斉。果 性不可説即是密教本分也。﹄︻四八二頁︼と述べられている。すな わち一般に因分可説果分不可説と言われていた当時の仏教界の 中で、まさに果分不可説と言われている境界を説くことこそ、真言 密教の本格的な領域であると言って自己の立場を明らかにしている。 ﹃舘顕密二教諭﹄では以下、﹃華厳五教章﹄の性海不談、﹃十 地経論﹄の果分不可説、﹃摩詞止観﹄の心行処滅などの具体的な書 物を例に取り上げて﹁此宗他宗以此為極。此則顕教開慨。但真言蔵 家以此為入選初門不是秘奥。仰覚薩不可不思。﹂︻四八三頁︼と 顕労密勝を強く主張している・真言密教にとっては、顕教の境地は ほんの入口にすぎず、更に奥深いものであることを述べているので ある。言うまでもなく、顕密二教判という教相判釈には他宗に対す る批判を内蔵するものであるが、空海は﹃器顕密二教諭﹄において、 縦横にその批判の筆をふるっている。すなわち唯識・中観に対して は、﹁唯識中観歎言断心滅。如是絶離並約因位談。非謂果人也。﹂ ︻四七四頁︼と述べ、また﹁則随経興詞非究寛唱。﹂︻四七六頁︼ と結論づけている。迷いの境界に執着してその立場からのみ見る から、あたかも悟りの境界と凡夫とが断絶しているかのような教説 になるのであって、これは悟りを聞いた人の境地を全︿無視したも のであるとしている。ただ経典の言葉に引きずられている結果に他 ならない・したがって究極的な教えとは言えぬと述べているのであ る。また天台に鉾先を向けて﹁法華経者是応化仏所説。何以放。為 応化声聞等仏授記別故。或者談法身説甚謹周而己。﹂︻四八四頁︼ 内 4と論破している。すなわち﹃法華経﹄には応化仏が応化の声聞等の ために授記しているとあるが、ここでの教主はあくまでも応化仏で あって、それを法身仏の説であるかのように言うことは、偽りも甚 しいと述べているのである。つまるところ、空海の主張は﹁深則秘 密浅略則顕。・・・法身説探奥。応化教浅略。﹂︻五 O 五頁︺と述 べられている﹃器額密二教論﹄の末尾の言葉が、すべてを言い尽く しているように考えられる。 それでは空海がこのような顕劣密勝の立場を主張するのは如伺な る理由によるものであろうか・空海の思想が迷情の否定のみに向か う顕教の消極的な性格にあきたらず、常に法界に遍満する仏の穂を 表そうとする積極的な方向を目指していたということが考えられる のである。空海は﹃器顕密二教諭﹄のなかで﹃釈摩詞討論﹄を引用 して、︿一)相言説(二)夢言説会一)妄言説︿四﹀毎誕言 説(五﹀知義言説の五種の言説があることを紹介している。そ のなかで空海は、﹁非義語者皆悉空無。空無之言無言於義。不言 義者妄語。如義語者実空不空。空実不実。・・・如是五中前回言説 虚妄説紋不能談真。後一言説如実説故得談真理。﹂︻四八九頁︼と いう﹃釈摩詞街論﹄の文を引用して、﹁喰目。言語心量等離不離之 義此論明説。頭数智者詳而解迷。﹂︻四九 O 頁︼という顕教に対す る批判をもって注釈しているのである。空海のこの確信は真言密教 こそ如義の言説、すなわち真理を説きあらわす言説に他ならないと いう点にあったことは明かである。したがって法身説法という空海 独自の仏身観が、真言密教の数学の上で重要な意味を持つことは言 う ま で も な い 。 それでは法身説法における法身とは伺か・空海にあってはその法 身は大日如来に他ならない。空海は﹃声字実相義﹄の中で﹁所謂声 字実相者即是法仏平等三密衆生本有之憂茶羅也。故大日如来説此声 字実相之義。駕彼衆生長眠之耳。﹄︻五二一頁︼と述べられており、 また﹃秘蔵賓鎗﹄の中では、﹁真言密教両部秘蔵是法自身大毘虚遮那 如来輿自省属四種法身住金剛法界宮及真言宮殿等。自受法楽故所演 説。﹂︻四七三頁︼と述べられている。したがってこの説法の教主 が、法身たる大毘慮遮那如来すなわち大日如来であることを明ら かにしている。﹃揺顕密二教諭﹄に引用されている﹃大日経﹄には、 大日如来が自性・受用・変化・等涜の四種の身を現して説法するさ まが説かれている。仏身に四種説をたてることについては、別に異 とするに足りぬとしても、大日が法身であり、法身説法は大日如来 のそれであることを主張したのは、当時の日本においては空海が最 初であった。一般に、変化身や応化身といった如より来生したもの としての如来は、すでに相対的世界に身を現したものであるから、 理解できるとしても、真知たる法身の説法ということは、きわめて 理解しがたいことといえる。しかしながら、空海は、法身が説法す ると言う点を強調するのである。空海は﹃館顕密ニ教諭﹄の中で、 ﹃金剛頂五硲密経﹄・﹃金剛頂磯祇経﹄・﹃金剛頂分別聖位経﹄・ ﹃金剛頂大教王経﹄・﹃菩提心論﹄・﹃大日経﹄等の密教経典を引 用す・るのであるが、これらの経典では、いずれも憂姦羅を説き、そ の中央に大日如来が位置して周囲を諸尊にかこまれながら法を演説 し給うさまを表現しているとするのである。例えば、空海は﹃金剛 頂分別聖位経﹄を引用して、変化自身・他受用・自性自受用の三身説 を説明した後に、次のように述べられている。﹁喰目。此経明説三 身説法差別浅深成仏軍速勝劣。興彼拐伽三身説法相義合。顕学智人 皆法身不説法。此義不黙。顧密二教差別如此。審察審察。﹂︹四 九九頁︼この言葉によって明らかなように、法身説法こそ密教の密 教たる所以であって、空海はここに顕教と密教の差別を見ているの で あ る 。 また空海は、大日如来が歴劫修業の結果、仏となることを得た 報身仏としても﹃大日経﹄に説かれていることを知らないわけでは なかった。それは空海自身の著作である﹃声字実相義﹄に﹃若謂報 仏亦名大日尊・・・。﹂︻五三二頁︼とする一節があることからも
-3-推測できる。そこでは、大日如来を応化身とも等涜身とも見ること ができると会遇されている。すなわち、空海はこれらの仏身をすべ て等しく、大日法自身の衆生随縁の姿と見て、随縁の種々の形相を超 えて、法身大日如来を見ていることが理解できるのである。その理 由は﹃鰭顕密二教論﹄の中で﹃傍伽経﹄を引用して﹃応化仏作化衆 生事。異真実相説。不説内所証法聖智境界。﹂︻四九五頁︼と述べ られていることからもわかる。つまり衆生救済を目当てに活動する 随縁の応化仏は、仏の自内証の法根本聖智の境界を説くことは出 来ないとするのである。空海はこのことをよく成し得るのは法身仏 のみであるとして、同じく﹃錨顕密二教諭﹄に﹁唯育法身仏説此内 証智。﹄︹四九五頁︼と述べてられている。 空海は﹃声字実相義﹄の冒頭を次のような言葉で始めている。﹃ 夫如来説法必藷文字。文字所在六塵其体。六塵之本法仏三密即是也。 平等三密遍法界而常恒。五智四身具十界而無故。悟者号大覚迷者名 衆生。﹄︻五二一頁︼ここで述べられている説法の依りどころであ る文字は、色声香味触法の六種からなる心身の知覚対象、全てをさ すのである。そしてその線源は法身大日如来の﹁為し、語り、思う﹄ ところの活動であるとする。法身大日如来の説法は、経典の二子一 句の文字だけでなく、はたらきを伴なう、字宙全体の万物そのもの を通じての、無始以来、絶えずなされてきたものであるとする。そ れらの生きた文字は、あらゆる場所、あらゆる時に、その生きた姿 を現しており、しかも、ただ存在しているのではなく、常に我々に 対して働きかけているところのものであると捉えられている。そし て、この甚探の意義を覚知できる者を偉大な覚者であるといい、そ の真実に気づかずして迷っている者を凡夫であるセ言うのである。 空海は法身大日を衆生と対立したところの理体としては見ず、﹁真 如非外棄身何求。迷吾在我則発心到。﹂︻五五四頁︼といい、また、 ﹁衆生亦有本覚法身。輿仏平等。﹂︻五三三頁︼とも述べている。 空海は、万物が法身大日の説法の姿であることを、﹁五大皆有響。 十界具言語。六塵悉文字。法身是実相。﹂︻五二四頁︼の備頒によ って示している。地水火風空の五大や色声香昧触法の六塵が、さま ざまな組合せによって構成するところの万物、および地獄から仏天 に至るあらゆる世界は、何等かの意義を物語っていることを指摘し、 それらすべての存在をかりて語りかけているものが、法自身説法に他 ならないというのである。換言すれば、さまざまな差別を伴・つ三 界は、余す所なく、法自身大日如来の生命の現れであり、それがその まま法身説法の姿なのであるという。空海はこのように差別の相そ のままが、平等の理である法身の活動相であること示し、それを説 法という言葉を借りて表現したのである。 さて、法自身説法における説法の意味が前述の如くであっても、そ こにはなお、一つの重要な問題が残されている。それは法身説法が 絶えず、何処においても行われているとしても、あらゆる根機の衆 生がそれを聞き得るわけではないということである。空海は﹃般若 心経秘鍵﹄に、﹁如来説法二極。一顕二密。為顕機説多名句為秘娘 説総持字。﹂︻五六一頁︼と述べられている。ここで指摘できるこ とは、衆生の機根に応じて衆生の聞き得る教えに自ら相違があると いうことである。したがって顕教の機根のためには多くの言葉を費 やして教えが説き現されており、また密教の境地を体解した機恨の ためのには簡潔なダラニによってすべてを会得できるとする。空海 はすべてが仏の側のはからいによるかの知く見えるけれども、所詮 は﹁能不之間在教僚耳。﹂︻五六二頁︼と述べている。つまり、教 えを受け入れることが出来るか、否かは、ひとえに衆生の機恨いか んに係わるものであるとする。そこで空海はさらに一歩進めて、説 法を聞くことが出来ない原因は、まさに衆生の側にあるのであって、 音声や文字で示される対象としての教えの側にあるのではないと結 論を下しているのである。すなわち、﹁顕密在人声字即非。﹂︻五 六二頁︼とある。それでは衆生の側で法身説法を聞き得ぬ理由を空 海はどのように説明しているであろうか。﹃部顕密ニ教論﹄に﹁法
-4-身仏常放光明常説法。而以罪放不見不聞誓如日出盲者不見雷雲振地 聾者不問。如是法身常放光明常説法衆生有無量劫罪垢厚重。不見不 問。如明鏡浄水照面則見垢騎不浄則無所見。如是衆生心清浄則見仏。 若心不浄則不見仏。﹂︻五 O 四頁︺と述べられている。これによれ ば、空海はその理由を衆生の無量劫の罪垢深重なること、及びそ れが衆生の心の檀浄さに朝りを与えていることが原因であるとして いる。したがって、三界に遍満して常恒になされている法身説法を 聞き得る唯一の道は三密の実修によって心の徹底的な純化をはかる ことに帰結するのである。 以上、﹃崩顕密二教論﹄等の初期の著作を中心にして、空海の仏 身観の特色について考察してみたのであるが、 ( -﹀ 法応化の三身に分類した場合、顕教と密教の相違がある。 すなわち法応化の三身のうち、法身の説が密教であり、 応化のニ身の説が額数である。 ︿ 二 ﹀ 自性・自受用・他受用・変化という四身説に分類した場 合の顕密ニ教の差別。このうち、自性・自受用身の所説 が密教で、他受用・変化身の所説が顕教である。 ( 一 一 一 ﹀ 密教経典に説かれる畏茶羅を基盤とした仏身説の継承。 憂茶揮の中尊である大日如来が説法されているさまを 表すという。 ( 四 ﹀ 法自身説法の強調。またその法身が大日如来であること。 法身大日如来の説法は、教典の一字一旬の文字だけでな く、はたらきを伴う字宙全体の万物そのものを通しての、 無始以来、絶えず、なされてきたところのものである。