後代パーリ文献における止観
K
.
PHRAPONGSAK
1.はじめに
ノfーリ仏教における「止観J(samatha-vipassana)の研究は,種々の学 者によりなされている。従来の研究と言えば,ほとんどが5世紀の Budd-haghosa による「清浄道論~(
V
i
s
u
d
d
h
i
m
a
g
g
a
)
などに依って,止観の働き や修行法などを検討したものである。止観が阿合・Nikayaにおいては詳細 に述べられておらず w清浄道論』などにおいて体系化された修行法だから であろう。『清浄道論』などにおいて,止観の修行体系は充分に述べられて いるが,止観がどのように成立したか,あるいはどのように展開したかは明 らかに述べない。一方,阿合・ Nikayaで1
立体系化された修行法などは充分 に述べられていないが,止観の成立と展開の過程をたどることは出来る。 ただし,阿合・ Nikayaには止観の定義や修習次第などは詳細には説かれ ないので,文脈及び用例を参考に理解せざるを得ない。さらに,阿合・ Ni -kayaに見られない術語,例えば「止」の過程なしに「観」のみを修習する 「純観J(suddhavipassana)あるいは「乾観者J(sukkhavipassaka)は註 釈文献でよく見られるが,阿合・ Nikaya!こおいて禅慧の両者が並び修習さ れる本来の修行法とは相違点を持っている。 ゆえに,本稿では先行研究を踏まえた上で,経と論との中間時代から註釈 文献時代まで,各時代の文献、を順に検討-する作業を通じて,特に止観の定義 と修習次第の展開する思想史的過程を明らかにしたい。-
51-後代パーリ文献における止観
1
1
.
経と論との中間時代における止観
Nikayaで、明瞭に説かれない止観の定義は,次代の経と論との中間時代に 成立した『無礎解道~ (Pafisambhidamagga)ではじめて明確化されるよう に な っ た 。 『 無 擬 解 道 』 で よ く 見 ら れ る の は r止 」 を 「 心 の ー 境 性J (cittassa ekaggata)・「不散乱J (avikkhepa)であると説明するものであ る。「止」は「出離J(nekkhamma)をはじめとする七十七力による心のー 境 性 ・ 不 散 乱 で あ る と 説 か れ る 。 一 方 r観」は順次に観ずる「随観」 (anupassana)であると説明される。「色J (rupa)をはじめとする二百一 法を無常・苦・無我であると順次に観ずるのである。この「随観」は『無擬 解道」で三通りに説明されている。 [表-1]w無凝解道』に見られる止観の定義 「止」 出離などの七十七力による心のー境性・不散乱である「定」 「観」 色などの二百一法を無常・苦・無我などと順次に観ずる「随観」 また, Nikãya においては止観の働きが詳しく説かれないが~無礎解道』 「双運論J(Yuganandhakathã) では w増支部~ (Aゐguttaranik命α)から の引用に基づいて止観の働きがさらに詳細に説明される。ここでは,止観の 修習が ① 止 を 先 行 さ せ る 観 を 修 習 す る (samathapubbangamarpvipassanarp. bhaveti),
② 観 を 先 行 さ せ る 止 を 修 習 す る (vipassanapubbangamarpsamatharp bhaveti),
③止と観とを共に修習する (samathavipassanarp.yuganandharp.), ④意がj去に対する心の浮つき(法悼挙)に執われたものになり(品am. muddhaccaviggahitarp.manasarp.hoti) , (その後〕その心が内に定立-
52-し,落ち着き,一点になって統ーされる (yantarp cittarp ajjhattan neva santitthati sannis:idati, ekodi hoti samadhiyati) と説かれている。 ①「止を先行させる観を修習する」は r出離〔・無H亘書、・光明想・・・・・・〕 の力によって心のー境性・不散乱である定が生じる。その定に生じている諸 法を無常・苦・無我であると順次に観ずる状態によって観が生じる。このよ うに,初めに止が生じ,後に観が生じるJ(止→観)と説かれる。 ②「観を先行させる止を修習する」は r無常・苦・無我であると順次に 観ずる状態によって観が生じる。その観に生じている諸法に棄捨を所縁とす る性質・心のー境性・不散乱である定が生じる。このように,初めに観が生 じ,後に止が生じるJ(観→止)と説かれる。何を無常・苦・無我である と順次に観ずるかと言えば r色J(rupa) をはじめとする二百一法を無 常・苦・無我であると順次に観ずるのである。 ③「止と観とを共に修習する」は r所縁・行境・捨断・遍捨・出起・還 転・寂静・極妙・解脱・無漏・度脱・無相・無願・空・同一味・不超越とい う十六の双運の状態によって止と観とを共に修習するJ (止観双運)と説か れ
2
。そして,どのように十六の双運の状態によって止と観とを共に修習す るかと言えば r心の浮つき(悼挙)を捨断〔・遍捨・出起・還転・度脱〕 するならば,心の一境性・不散乱である定は,寂静〔・極妙・解脱・無漏・ 無相・無願・空〕となり,寂滅を所縁〔・行境〕とする。無明を捨断〔・遍 捨・出起・還転・度脱〕するならば,順次に観ずる状態によって観は寂静 〔・極妙・解脱・無漏・無相・無願・空〕となり,寂滅を所縁〔・行境〕と する。このように,所縁〔乃至空〕の状態によって止と観とが同一味となり, 双運となり,互いに超えることがない」ということである。 ④「意が法に対する心の浮つき(法悼挙)に執われたものになり, (その 後〕その心が内に定立し,落ち着き,一点になって統ーされる」は r無常 〔・苦・無我〕であると思念する者に光明〔・智・喜・軽安・楽・確信・策 励・現起・捨・欣求〕が生じる。その比丘は,“光明〔乃至欣求〕は法であ 内 ︿ U F h u後代パーリ文献における止観 る"と,光明〔乃至欣求〕について考える。そのことによる散乱が浮つきで ある。その浮つきに執われている意は,現前するものを無常・苦・無我であ ると如実に知ることがない」と説かれる。そして,何を無常・苦・無我であ ると思念するかと言えば r色」をはじめとするこ百一法を無常・苦・無我 であると思念するのである。 以上,①では「出離をはじめとする七十七力によって心のー境性・不散乱 である定が生じる」と「止」を説明する。それ故に,これらの七十七力は後 代に止の対象とされる「止業処J(samatha-kammatthana)に相当するも のであろう。そして,その後に「定(止)に生じている諸法を無常・苦・無 我であると順次に観ずる」と「観」を説明するので r定に生じている諸法」 は観の対象としての「観業処J (vipassana-kammatthana)に相当すると言 える。一方,②では r観」を「色をはじめとする二百一法を無常・苦・無 我であると順次に観ずる」と説明するので,これらの二百一法は観の対象と する「観業処」である。そして rその観に生じている諸法に棄捨を所縁と する性・心のー境性・不散乱である定が生じる」と「止」を説明するので, 「最初の観に生じている諸、法」は止の対象とする「止業処」になると言える。 したがって,①の止業処は「出離をはじめとする七十七力」であるが,②の 止業処は「最初の観に生じている諸法」によって生じるので,①と②の止業 処は同じものであるとは考え難い。一方,①の観業処は「最初の止に生じて いる諸法」によって生じるが,②の観業処は「色をはじめとするこ百一法」 であるので,①と②の観業処も同じものであるとは考え難いであろう。 次に,③の止と観とを共に修習する「止観双運」は,止観で煩悩を捨断す る,すなわち,止で「悼挙J (uddhacca)を,観で「無明J (avijja)を捨断 する十六の双運の状態によって止と観とを共に修習する。最後に r止と観 とが同一味となり,双運となり,互いに超えることがない」ということであ る。これが「双運論」のみならず無碓~平道』全体に見られる止観の本質 とも言える。 そして,④「色」をはじめとするこ百一法を無常・苦・無我であると思念 -
54-する者に r光明・智・喜・軽安・楽・確信・策励・現起・捨・欣求」であ る「法悼挙」が生じる。この法悼挙により意が執われて現前するものを無 常・苦・無我であると如実に知ることがない。その後に,これらの法悼挙を 離れれば,その心が内に定立し,落ち着き,一点になって統ーされる。この ④を註釈書で「乾観者J(sukkhavipassaka)の修習である「純観J(sudd. havipassana)と解釈するが,これは前述の②と同様で、あると見られる。つ まり,無常・苦・無我であると思念することから始め,そして心のー境性に 至る(観→止)。④の業処も「色」をはじめとする二百一法なので,②と 同じである。ただし,④は無常・苦・無我であると「思念するJ (manasi. karotj)のであるが,②は「順次に観ずるJ(anupassatj)のである。さら に,この④は別の修習というよりも,②の修習によって途中で「光明」など の修習の障害が生じることを詳細に表現するものであると見られる。 「双運論」における止観の四つの修習は,分類してみれば,①「止を先行 させる観を修習するJ (止→観)と,②「観を先行させる止を修習する」 (観→止)に分けられるであろう。③は煩悩を捨断する止観が同一味とな り,双運となり,互いに超えることがないということで止観の本質を表現し, ④は別の修習というより②の修習によって途中で修習の障害が生じることを 詳細に表現するものともが見られる。 また,これらの二つの修習は w大義釈~ (Mahaniddesa)においても見ら れる。それが『経集~ (Suttanipata) 847から引用して解釈するものである。 ここで r繋縛のない離想者」は「止を先行させる聖なる道を修習する」阿 羅漢を指すが r愚痴のない慧解脱者」は「観を先行させる聖なる道を修習 する」阿羅漢を指す。それは,前述の『無碇解道~ r双運論」の①・②と一 致すると見られる。ここでは r止」の力で「繋縛J (gantha)を消除し, 「観」の力で「恐痴J (moha)を消除すると区別して説明するが,阿羅漢 となれば,繋縛とJ愚痴及び蓋・欲想、・意想、・害想、・見想がすべて捨断される ので,両者は平等で差別のない修習であると考えられる。 次に w 小義釈~ (Cullaniddesa)では止観の働きは説かれないが r止」 F h d ﹁ D
後代パーリ文献における止観 の定義を述べている。これが『経集~
6
7
から引用して解釈するものである。 その中に「止」の定義があり r心の住立・定立・確立・平衡・不散乱・意 の安定・止・定根・定力・正定」であると説かれる。このような説明は, 『無擬解道』や『大義釈』では r止 」 に 関 し て は 見 ら れ な い が r定」 (samadhi)や「等持J(samahitatta)などを同じ定型句で指すものが見ら れる。さらに,この定型句は,経と論との中間時代における文献のみならず, アビダンマ文献にもよく見られる。 [表-2]w小義釈』に見られる止の定義 心の住立・定立・確立・平衡・不散乱・意の安定・止・定根・定力・正定1
1
1
.
アビダンマ(論)時代における止観
雨伝上座部のアビダンマ文献には w法集論~ (Dhammasaゐ~ga1J i) ・『分別 論~( Vibhanga) ・『界説論~ Whãtukathã) ・『人施設論~(Pugga1.
a
μ
宛 伽tti)・ 『論事~ (Kathãvatthu) ・『双論~ (均maka) ・「発趣論~ (Patthana)という 『七論』がある。その中,止観に関する記述は初期論書としての『法集論』 と『人施設論』に見られる。まず w法集論~ r概説品J(Nikkhepa-kaQcla) において止観の定義が説かれる。 Tattha katamo samatho?
Ya cittassa thiti saQthiti avatthiti avisaharo avikkhepo avisahat -amanasata samatho samadhindriyarp samadhibalarp sammasamad-hi - ayarp vuccati samatho. (Dhs.S
l
355)止とは何であるか。
心の住立,定立,確立,平衡,不散乱,意の安定,止,定根,定力, 正定,これが止と言われる。
56-Tattha katama vipassana
?
Ya panna pajanana vicayo pavicayo dhammavicayo sallakkhal)a upalakkhal)a paccupalakkhal)a pal)cliccal11kosallal11nepunnal11 vebhavya cinta upaparil王kha bhuri medha paril)ayika vipassana sampajannal11patodo panna pannindriyal11pannabalal11pannasatth -al11pannapasado panna-aloko panna-obhaso pannapajjoto pannar -atanal11amoho dhammavicayo sammaditthi - ayal11vuccati vipas -sana.(Dhs.91356) 観とは何であるか。 慧,了知,簡択,考察,法の簡択,等観,近察,精察,聡明,善巧, 巧妙,番思,思念,観察,英智,賢明,智慧,観,正知,鞭〔のような 慧),慧,慧・根,慧力,慧剣,慧殿,慧光,慧照,慧灯,慧宝,無痴, 法の簡択,正見,これが観と言われる。 と 説 か れ る 。 こ の よ う な 定 型 句 は こ こ の み な ら ず r心生起品」 (Cittuppada -kal)cla)に お い て も 見 ら れ る 。 こ こ で は , 善 心 (kusala -citta)・不善心 (akusala-citta)・無記心 (avyakata-citta)に区別し,最初 に善心に基づいて諸法を欲界 (kamavacara)・色界 (rupavacara)・無色 界 (arupavacara)・出世間に分類し,最後に不善心・無記心を順に説明す 白 司 る。その内 r止」及び「観」の定義が以上の定型句で現れる。また,この ような定型句は「止」を定義するものだけでなく,諸法の中の「ー境性」 (ekaggata), r定根J(samadhindriya), r正定J(sammasamadhi), r定力」 (samadhibala), r不散乱J (avikkhepa)についても現れる。一方 r観」 は「慧根J (pannindriyam), r正見J (sammaditthi), r慧力J(pannabala), 「無痴J (amoha), r正知J (sampajanna)の定義と同様である。ただし, 「止」の表現は「善心」のみならず r不善心」にも見られ,両者の相違点 は「正定」であるか「邪定J (micchasamadhi)であるかである。外道の禅 定を仏教の禅定としての「正定」に対して「邪定」と呼ぶ例があるので,
-
57-後代パーリ文献における止観 「止」は仏教特有であってインドの他の諸宗教に見られない言葉と言えども, 外道の「邪定」としても一応は認められると考えられる。一方 r観」は智 慧に属するので r不善心」に現れないのであろう。 [表
-
3
1
w法集論』に見られる止観の定義 「止」 心の住立・定立・確立・平衡・不散乱・意の安定・止・定根・定 カ・正定 善心 慧・了知・筒択・考察・法の筒択・等観・近察・精察・聡明・善 「観」 巧・巧妙・番思・思念・観察・英智・賢明・智慧・観・正知・鞭 〔のような慧〕・慧・慧根・慧力・慧剣・慧殿・慧光・慧照・慧 灯・慧宝・無痴・法の筒択・正見 「止」 心の住立・定立・確立・平衡・不散乱・意の安定・止・定根・定 不善,c" 力・邪定 「観」 またr
心生起品」で「世間J(Io
k
i
y
a
)
の止観と「出世間JO
o
k
u
t
t
a
r
a
)
の止観が区別されているのが注目される。善心の止観が欲界・色界・無色界 という世間から出世間の段階まで現れるからである。このような区別は初期 経典でも八聖道に関するものが見られるが,そこでは世間と出世間との区別 でなく,有漏(
s
a
s
a
v
a
)
と聖(
a
r
i
y
a
)
・無漏(
a
n
a
s
a
v
a
)
との区別である。 次に w人施設論~r
四人J(
C
a
t
t
a
r
o
-
p
u
g
g
a
l
a
)
には f増支部』から引用 したと見られる「阿修羅品J(
A
s
u
r
a
v
a
g
g
a
)
に止観への言及がある。「心寂 止J(
c
e
t
o
s
a
r
n
a
t
h
a
)
と 「 増 上 慧 法 観J(
a
d
h
i
p
a
n
n
a
d
h
a
r
n
r
n
a
v
i
p
a
s
s
a
n
a
)
の 説明は, (i) r心寂止を得たが,増上慧法観を得ない人J,(ii)r心寂止を得 ないが,増上慧法観を得た人J,(iii)r心寂止及ぴ増上慧法観を得た人J, (iv) r心寂止及び増上慧法観を得ない人」という四人が存在すると説かれ 伺 る。ここで「心寂止を得た人」が「色倶行か,無色倶行かの等至を得た人」 と説明され,一方「増上憲法観を得た人」が「出世間道か,出世間果かを得 た人」と説明される。これに対する註釈書では,これらの四人を(i) r八等。 。
至を得た凡夫J, (ii) r乾観の聖声聞J, (jii) r八等至を得た聖声聞J, (iv) 「世間の大多数の人」と解釈する。
I
V
.
論と註釈文献との中間時代における止観
この時代に属する文献は w捕隣陀閉経~ (Milindaμ
宛ho)・『導論』 (NettiPakara1Ja) ・『蔵釈~ (Petak.
o
ρ
adesa)であるが,その中で止観に直接 関係があるものは w導論』と『蔵釈」である。「禰隣陀閉経』においては, 曲 目 四念処をはじめとする三十七道品を列挙した後で名称を示すのみである。 両書における止観の定義は r止」が「心の散乱の除去を特相とする」 (cittavikkhepapatisarphara明lakkhal:Ja), r散 乱 の な い 定 心J (sama-hitam cittam avikkhittam)や 「 定 誼J (samadhikkhandha)や「定根」 (samadhindriya)などと定義される。一方 r観」については「法集論』 に見られる「慧・了知・〔乃至〕・正見J (panna pajanana... sammaditthi) の定型匂があり r馨 組J(pannakkhandha)や「慧根J(pannindriya)な どと定義される。このような定義は,経と論との中間時代・アビダンマ時代 と比較して,本質的には変わらないが,定型句による表現が見られないとい う点で異なる。 ここで,止観の働きには「止・観」と「渇愛 (ta早ha)・無明 (avijja)J との厳密な対応関係が見られる。「止」により「渇愛」を r観」により「無 明 」 を 捨 断 し , さ ら に 「 十 二 縁 起 」 を 滅 し , あ る い は 「 心 解 脱 (cetovimutti)・慧解脱 (pannavimutti)Jに至るなどとするものである。 つまり r止・観」を修習すれば,修習の円満に至るのである。これらのこ 法を修習すれば r渇愛・無明」が捨断される。渇愛・無明が捨断されれば, 「取・有・生・老死・愁悲苦憂悩Jが滅することや r食欲・無明」を捨離 して「心解脱・慧解脱」に至ることなどが説かれる。そして,この止観は四 諦の「道諦」に他ならないとされるのである。これらの関係は初期経典に既 に現れている。それは,0)遍知すべき法である「五取謹J, (ii)捨断すべ n u後代パーリ文献における I~ 観 き法である「無明・有愛J, (iii)直証すべき法である「明・解脱J, (iv)修 習すべき法である「止・観」が説かれるものである。 また r止を先行させる観を修習する」と「観を先行させる止を修習する」 との二つの修習がここでも見られる。ただし,この二つの修習は,従来は見 られなかった「渇愛行者 (ta
I
J
h
acarita)・見行者 (ditthicarita)J,及ぴ 「欲楽に専念するもの (kamasukhal
1
i
kanuyoga)・自己の疲苦に専念する もの (attakilamathanuyoga)J と関係するものとして説明されている。そ の関係は r渇愛行者」が「欲楽に専念するもの」となり r止を先行させる 観の修習」へと導かれるべきである。一方 r見行者」が「自己の疲苦に専 念するもの」となり r観を先行させる止の修習」へと導かれるべきである。 前者は「歓喜転回J(nandiyavatta)と,後者は「獅子遊戯J(sihavikkilita) と呼ばれるこ道である。この二道はそれぞれ別箇のものとして説明されるが, 何れにせよ「略解による智者 (ugghatitannu)Jに対してである。それ故に, この点から見れば r止を先行させる観の修習」と「観を先行させる止の修 習」との二つの修習次第は,平等で差異がないと言えるであろう。さらに, 前述の二道以外は『無礎解道.!l r双運論」の③「止と観とを共に修習する」 がここに現れ r広説による智者 (vipancitannu)Jに対してであると説かれ る。つまり,ここで「止と観とを共に修習する」ことは前述の二道に比べて, 階位が低いと見られる。v
.
註釈文献時代における止観
三蔵に対する諸註釈文献における止観の定義は,論と註釈文献との中間時 代と同様に,経と論との中間時代・アビダンマ時代と比較して,本質的には 変わらないが,定型句による表現が見られないという点で異なる。「止」は 「定J (samadhi), r八 等 至J(samapatt)i, r心 修 習J (cittabhavana), 「増上心J(adhicitta)などと定義される。一方 r観」は「慧J (panna), 「増上慧J (adhipanna), r順次に観ずる随観J (anupassana)などと定義 - 60一される。 そして,上述の「止を先行させる観の修習」と「観を先行させる止の修 習」に関しては,論と註釈文献との中間時代に現れた「渇愛行者・見行者」 の表現を受け継いで展開していった。止を先行させる観を修習すべき「渇愛 行者」は「止行者J(samathayanika)と,観を先行させる止を修習すべき 「見行者」は「観行者J (vipassanayanil王a)と呼ばれ,新たな術語が用い られるようになったのである。この「止行者・観行者」に関してはBudd -haghosa の『清浄道論~
(
V
i
s
u
d
d
h
i
m
a
g
g
a
)
で説明されている。『清浄道論』 は二十三品からなり,戒・定・慧の三学の順序に説かれている。止観に関係 する部分は「定・慧」なので,まずは両者の構成を考察しよう。 定の修習は,第三品の「業処受持品J(KammatçhãnagahaI~a-niddesa) 以下第十一品の「定品J (Samadhi-niddesa)までの九品に述べられる。まず, 第三品の「業処受持品」では「定」について解説している。その中 r定の 種類」は「近行定J (upacarasamadhi)と「安止定J (appanasamadhi)が あり,後述するように,この二種類の「定」は止観に極めて密接に関係する ものである。次に「四十業処」を詳細に説明する。最後に,第十一品の「定 品」で「定」の功徳(anisamsa)すなわち,(j)現法楽住(ditchadhammasu・khavihara), (ij)観 (vipassana), (iii)神通 (abhinna), (iv)勝 有
側 (bhavavisesa), (v)滅尽定 (nirodhasamapaUi)を得ることが説かれる。 以上で「定」の修習は終わりである。 慧の修習は,第十四品の「藷品J(Khandha-niddesa)以下第二十三品の 「修慧功徳品J(Pannabhavananisamsa-niddesa)までの十品に「慧地」と 「五清浄」に関して述べられる。まず,第十四品の「藷品」では「慧」につ いて論じており,五殖をはじめとする「慧地」を説明して r五、清浄」に入る。 「五、清浄」の中 r道非道智見、清浄J(maggamagganar:ladassanavisuddhi)が あり r観」を詳しく説いている。ここでは『無礎解道』に見られる三種の 制 「随観J (anupassana)が 説 か れ , 最 後 の 第 三 を 「 十 八 大 観J (attharasa 師 団 mahavipassana)と呼んでいる。次に,これらの「観」を修習しながら,
- 6
1
-後代パーリ文献における止観 師団 光明をはじめとする「観随染J(vipassanuppakilesa)が生じる可能性があ り,これらの「観随染」に執着すれば r非道」を「道」と誤解してしまう, と説かれる。この部分も『無礎解道.J r双運論」の④に相当する。そして, fこの三諦(三品)は世間の慧によって確定される」と第二十品の最後に述 個師 べられる。この「観随染」に執着しなければ,八種の観智と第九の「諦随順 智J(saccanulomikanana)が得られ,四沙門道に進み,諸々の煩悩を捨断 して四沙門果に達すると,第二十一品の「行道智見清浄品J (Patipadana早a -dassana visuddhi -ni ddesa)及び第二十二品の「智見清浄品J(Nanadassana -niddesa)で説かれる。最後に,第二十三品の「修慧功徳品」で「慧」の功 徳を述べている。 「止行者」と「観行者」に関しては,第十八品の「見清浄品」で説かれる。 ここで r見清浄を成就する止行者は,非想非非想処を除いて,残りの色・ 師時 無色界禅の中のどれか一つから出定して……」と説明されるので r止行者」 は間違いなく「色・無色界禅」に関わるものである。そして r純観行者あ 例。 るいは止行者は,四界差別において説かれた,それぞれの界を把捉する門の 中のどれか一つの門により,簡略か詳細かで四界を把捉する」と説かれる。 ここで r観」のみを修習することを強調する「純観行者J (suddhavipas -sanayanika)という言葉が現れる。通常の理解では「純観行者」は「定」 の「四十業処」に関わらないと見なされているが,ここでは「純観行者」が 「四十業処」中の「四界差別」に関わるとされている。また r四十業処」 を検討してみると r出入息念J (anapanasati)において,十六出入息念を 詳細に説明しており,その中で「この第四の四法(無常・離貧・滅尽・捨離 仰 を順次に観ずる者として出入息する四法)は純観により説かれる」と述べら 。 車 れる。さらに r身至念J(kayagatasati)において r四界により説かれる ならば観業処になり,厭逆により説かれるならば止業処になる。ここでは止 業処になる」と述べられる。勿論,ここでは「観」を明示していないが,四 界として修習するならば「身至念」も「観」になり得る。それ故に r止行 者・純観行者」と「四十業処」及び「安止定・近行定」との関係は,従来見 -
62-すごされていた面があるであろう。まず r安止定」及ぴ「近行定」の解釈 を考察しよう。
channa
r
p
.
a
n
u
s
s
a
t
i
t
t
h
a
n
a
n
a
r
p
.
mara
l).a
s
a
t
i
y
a,
upasamanussa t
i
y
a,
a
h
a
r
e
p
a
t
i
k
u
l
a
s
a
n
n
a
y
a
c
a
t
u
d
h
a
t
u
v
a
v
a
t
t
h
a
n
a
s
s
a
t
i
i
m
e
s
a
r
p
.
v
a
s
e
n
a
l
a
d
d
h
a
c
i
t
t
e
k
a
g
g
a
t
a,
ya c
a
a
p
p
a
n
a
-
s
a
m
a
d
h
i
n
a
r
p
.
pubbabhage e
k
a
g
-g
a
t
a
:
-aya
r
p
.
upacarasamadh
.
i
Pathamassa jhanassaρ
arikamma,
p
r
ρ
athamassa jhan回saanantarapaccayenaρ
accayot
i
a
d
i
-
v
a
c
a
n
a
t
o
pana
ya parikammanantara e
k
a
g
g
a
t
a
:
-aya
r
p
.
a
p
p
a
n
a
-
s
a
m
a
d
h
i
t
i
e
v
a
r
p
.
u
p
a
c
a
r
a
p
p
a
n
a
v
a
s
e
n
a
d
u
v
i
d
h
o
.
(
V
i
s
.
8
5
)
「六随念処,死念,寂止随念,食厭想,四界差別」というこれらによ って得られた心のー境性,そして,諸々の「安止定」の前段階における ー境性,これが「近行定」である。また r初禅の準備は初禅の無間縁 としての縁となる」云々の言葉から,準備の直後なるー境性,これが 「安止定」である。ということで,このように「安止定・近行定」によ って二種類のものとなる。 と説かれる。またr
諸蓋の捨断による定心」である「近行地J(
u
p
a
c
a
r
a
b
-。 司 hロ
m
j)を「近行定」と呼んで、いるところがある。ゆえに,ここで「近行定」 は「諸蓋を捨断した初禅の前段階」であり r安止定」は「初禅以上の段階」 の定であることが確認される。そして,以上のように「近行定」に関わるの は「六随念処(仏随念・法随念・僧随念・戒随念・捨随念・天随念),死念, 寂止随念,食厭想,四界差別」の十業処である。つまり r四十業処」の中 で,これら以外の三十業処は「安止定」に属するものである。 それ故に r止行者」は間違いなく「安止定Jに関わるのである。そして, 「純観行者」は「定」に全く関係しないとは言えないのである。ただ r純 観行者」の定は初禅以上の「安止定」に至らない「近行定」のみである。ま た~清浄道論』の底本となった Upatissa(
2
- 3
世紀頃)の『解脱道論』 n J n h u後代パーリ文献における止観 ( Vimuttimagga)では r止行者・純観行者」を「禅観・燥観」と呼ぴ,ど ちらでも「伏葦」が出来ると説かれるので r止行者」は「禅」すなわち 「安止定」に至るが r純観行者」は「安止定」に至らない「近行定」に達 すると見られる。 仰 ところが,
Dhammapala
(6 世紀頃)の「清浄道論註~ (Paramatth -ama匁!
j
usa)では r禅あるいは禅の接近における依止によって,観を実践す る者は止行者と言われる」と説明するので,ここでは r止行者」に「安止 定J (禅)のみならず r近行定J (禅の接近)も含めている。そして r観行 者のために,止に拠らない行者は純観行者と言われる」と述べるので,ここ での「純観行者」の見解は完全に「止」に拠らないとも考えられる。しかし, 実はそうではなく,止に拠らない「純観行者」と言えども r剃那定がなけ れば,観は生成しない」と説明するところがあるので r安止定・近行定」 より下位の「華JI那定J (Khan
王i1asamadh
i)に拠って「観」を修習するもの である。この「剃那定」は『清浄道論』や「解脱道論』にも現れるが,ーヶ 所しか見出されない。そこでは「止行者」であれ「純観行者」であれ止観と 関わらないとされている。さらに r定の種類」でも「柔Ij那定」は現れない のである。 以上のように r止行者・純観行者」の理解が註釈家たちの間で一致して いないのがわかる。つまり,Buddhaghosa
の『清浄道論』はU
p
a
t
i
s
s
a
の 『解脱道論』と同様に,止観は「安止定・近行定」に関係するが,Dhamma-p
a
l
a
の『清浄道論註』では「安止定・近行定」のみならず「剃那定」との関 個 目 係をも含めている。さらに,両者の三蔵に対する各註釈書の編纂を考察して みると,Buddhaghosa
編纂の註釈書では「止行者・純観行者」と「華JI那定」 との関係が見出されないが,Dhammapala
編纂の註釈書で‘は見られる。お そらく,Dhammapala
は「純観行者」の名称のように「定」と関係なく 「禅」から離れたものとするために「剃那定」と結びつけて解釈するのでは なかろうか。また,このような解釈はDhammapala
のみではなく w無 磯 解道註~ (Saddhammappakasini)の編纂者であるMahanama (
5
- 6
世紀 -64-頃)も「双運論註J(Yuganandhakatha・vannana)において r乾観者」の 修習である「純観」を④の修習と解釈する。 以上,註釈文献における「止行者」と「観行者」の修習を要約すれば, ①「止行者」が「止修習」として業処を修習しながら,諸蓋を捨断して初 禅の段階に
λ
った「安止定」に達する。 ②「観行者」が「観修習」として「四界差別」を修習しながら, ②ー1
諸蓋を捨断した「近行定」に達する。 ②-
2
諸蓋を捨断せず「剃那定」に達する。 そして,両者とも前述のように「五清浄」を通じて本格的な「観」を修習し, 諸々の煩悩を捨断して四沙門果に達する。V
I
.
ま と め
以上,経と論との中間時代から註釈文献時代までの後代パーリ文献に関し て,特に止観の定義と修習の次第を考察し,以下の結論に至った。 1.止観の定義は, Nikayaでは明瞭に説かれないが,次代の経と論との中 間時代で成立した『無礎解道』ではじめて明確化された。([表-1])2
.
後代パーリ文献における止観の定義自体は,本質的には変わらない。 つまり「止」が「定」と定義され r観」が「慧」と定義される。ところが, 経と論との中間時代・アピダンマ時代と比較して,論と註釈文献との中間時 代・註釈文献時代は定型句による表現が見られないという点で異なる。([表-
1
]
【表-
2
]
[表-
3
]
)
3.IF無礎解道』は,止観の修習次第に関しては FI増支部』で詳細に説か れていない四つの修習を経から引用した上で詳細に説明している。この四つ の修習を分類してみれば,①「止を先行させる観を修習するJ(止→観) と,②「観を先行させる止を修習するJ(観→止)に分けられる。③「止 と観とを共に修習するJ(止観双運)は頒悩を捨断する止観の本質を,同一 味となり,双運となり,互いに超えることがないことで表現していると考え F h U F O後代パーリ文献における止観 られる。④「法悼挙に執われたものになり, (その後〕その心が内に定立し, 落ち着き,一点になって統一される」は,別の修習というより,②の修習の 途中で修習の障害が生じることを詳細に表現するものと見られる。
4
.
①と②の修習は,註釈文献時代まで一貫して,平等で差別のない修習 であると説かれる。ただ,性格により区別されるのみである。すなわち, 「渇愛行者」は①へ r見行者」は②へ導かれるべきであると説明し r止行 者・観行者」という新たな術語として表現する。 5.註釈文献において r止行者・観行者」以外の新たな術語として r観」 のみを修習することを強調する「純観行者・乾観者・純観」という術語が現 れる。一見これらは「止」あるいは「定」に全く関係しないようであるが, 実際は直接に関係するものである。「純観行者・乾観者・純観」は「剃那定」 か「近行定」かに至る者である。一方 r止行者」は「安止定」に至る者で ある。つまり r初禅」に至るものと至らないものである。ただし,このよ うに理解できるとしても,仏道修行の上で「禅・慧」の両者が並び修習され る本来の修行法からすれば r止行者」はよいとしても r純観行者・乾観 者・純観」はやや逸脱しているとも見られ,パーリ文献においてはじめて現 れるものである。 6. r純観行者・乾観者・純観」と「剃那定・近行定」との関係について註 釈家たちの見解が一致しないのがわかる。つまり, Buddhaghosaの「清浄 道論」は Upatissaの『解脱道論』と同様に「観行者・乾観者・純観」が 「近行定」に関わるとするが, Dhammapalaの『清浄道論註』及び彼の編 纂註釈書では「近行定」でなく「華IHJ~ 定」に関わるとする。 Dhammapãla は「純観行者」の名称のように「定」と関係なく「禅」を離れたものとすべ く「華JI那定」と結ぴつけて解釈するのであろう。 Mahanamaも『無礎解道 註~ r双運論註」において Dhammapalaと同様に解釈する。 本稿ではパーリ文献,つまり南伝上座部の文献のみを通じて止観を考察し 理解しようと試みた。言うまでもなく,後代文献における止観は,北伝部派 仏教及ぴ大乗仏教の文献にも論じられている。それらの検討と,現代におい - 66て実践法としてどのように修行されているのかという点に関する考察は,今 後の課題としたい。 暗号及び参照文献 AA Ahguttaranikめla-A(thakatha (Manorathapilrani) AN Ahguttaranik
の
αCN
d
Cullaniddesa DA Dighanikaya-A(thakatha (Sumahgalavilasini) Dhs Dhammωahga1Ji DN DighanikayaMA
Majjhimanikaya-A(thakatha (P,
a
仰宛C回ild仰
の
Mil Milindapanho M N Majjhiman放
の
a
MNd MahaniddesaNet
NettiPakara1JaPe
Pefakoρ
adesaP
い
Pafisambhidamagga PtsA Pafisambhidamagga-A(t.加katha(Saddhammappakasini) Pug Puggal,
a
ραnnatti PugA Puggalapannatti-Affhakatha (Paramatthad:φ
ani) SA Satrlyuttanikめla-A(thakatha (Saratthappakasini) SN Satrlyuttanikaya ThagA Theragatha-Atthakatha (Paramatthadipani)V
i
s
VisuddhimaggaVisT
Visuddhim俺lf{a-Mahatika(Paramatthamanj間 a) 大正 大正新{帝大蔵経 ※本稿使用のパーリ原典は,特記のない限りPTS
版であるo ただしVisT
は- 6
7
後代パーリ文献における止観
Bhumibalo Bhikkhu F
o
u
n
d
a
t
i
o
n
版P
a
r
a
m
a
t
t
h
a
m
a
n
j
u
s
a V
i
s
u
d
d
h
i
m
a
g
.
g
a
m
a
h
a
t
i
k
a
,v
o
l.I
.
I
I
I
,Bangkok: Bhumibalo Bhikkhu F
o
u
n
d
a
t
i
o
n
P
r
e
s
s
,1
9
8
5
を使用する。B
r
o
n
k
h
o
r
s
t
,
J
.
[
1
9
8
6
J
The Two T
r
a
d
i
t
i
o
n
s
0
/
M
e
d
i
t
a
t
i
o
n
i
n
A
n
c
i
e
n
t
l
n
d
i
a
,S
t
u
t
t
g
a
r
t
:
S
t
e
i
n
e
r
.
V
e
r
l
a
g
.
Wiesbaden.Gmbh.
C
o
u
s
i
n
s
,
Lance S
.
[
1
9
7
4
J
“B
u
d
d
h
i
s
t
J
h
a
n
a
:
I
t
s
N
a
t
u
r
e
and A
t
t
a
i
n
m
e
n
t
G
r
i
f
f
i
t
h
s
,P
.
A
c
c
o
r
d
i
n
g
To The P
a
l
i
S
o
u
r
c
e
s
"
,R
e
l
忽i
o
n3
.
[
1
9
8
4
J
“Samatha.yana and V
i
p
a
s
s
a
n
a
.
y
a
n
a
ぺ
B
u
d
d
.
h
i
s
t
s
t
u
d
i
e
s
i
n
Honour
0
/
Hammalava S
a
d
d
.
h
a
t
i
s
s
a
,N
u
g
e
g
o
d
a
:
U
n
i
v
e
r
s
i
t
y
o
f
J
a
y
e
w
a
r
.
d
e
n
e
p
u
r
a
.
[
1
9
卯9
6
叫
]
口
9
関8
1
口
]
B
u
d
d
h
i
お{与M
討旨tForum IV
,e
d
.
By Tadeusz S
k
o
r
.
u
p
s
k
i
,
New N
e
l
h
i
:
H
e
r
i
t
a
g
e
P
u
b
l
i
s
h
e
r
s
.
O ぱfTheravada B
u
d
d
h
i
s
t
M
e
d
i
t
a
t
i
o
n
Theory"
T
h
e
J
o
u
r
n
a
l
0
/
t
h
e
American Academy
0
/
R
e
l
i
g
i
o
n
4
9
/
4
.
G
y
a
n
a
R
a
t
n
a
T
h
e
r
a
[
2
0
0
1
J
The
VJ-匂y
0
/
P
r
a
c
t
i
c
i
n
g
M
e
d
i
t
a
t
i
o
n
i
n
T
h
e
r
.
。
v
a
d
aBuddhism
,Tokyo: Sankibo
・B
u
s
s
h
o
r
i
n
P
u
b
l
i
s
h
i
n
g
C
o
.
,
L
t
d
.
Phrapongsak
,
K
.
[
2
0
0
9
J
r
阿含・Nikayat
こおける止観の成立と展開」 『印度学仏教学研究J5
7
-
2
,東京:日本印度学 仏教学会.S
c
h
m
i
t
h
a
u
s
e
n
,
L.[
1
9
8
1
J
“On Some A
s
p
e
c
t
s
o
f
D
e
s
c
r
i
p
t
i
o
n
s
o
r
The
o
r
i
e
s
o
f
‘Lib
e
r
a
t
i
n
g
I
n
s
i
g
h
t'and
‘E
n
l
i
g
h
t
e
n
- 6
8
一Vetter
,
T. 金 宰 昆 佐 藤 密 雄 中村元 水野弘元 森章司 森祖道ment'in Early Buddhism",
S
t
u
d
i
e
n
zum
J
a
i
n
i
s
m
u
s
und Buddhismus
, Wiesbaden:Steiner-Verlag-Wiesbaden-Gmbh.
[
1
9
8
8
J
The I
d
e
a
s
and M
e
d
i
t
a
t
i
v
e
P
r
a
c
t
i
c
e
s
0
1
E
a
r
l
y
Buddhism
, Leiden: E. J. Brill.[
1
9
9
5
J
n清 浄 道 論 』 に お け る 剃 那 定 と 近 行 定 一 SamathayanaとVipassanayanaの接点一J ~イ ンド哲学仏教学研究J3, 東 京 東 京 大 学 文 学 部インド哲学仏教学研究室.[
2
0
0
3
J
r慧解脱についてJ~印度学仏教学研究~5
1
-
2
, 東京:日本印度学仏教学会.[
1
9
7
5
J
r清 浄 道 論 に 於 け る 止 観J~止観の研究』東 京:岩波書底.[
1
9
7
5
J
r原 始 仏 教 に お け る 止 観J~止観の研究』束 京:岩波書庖.[
1
9
6
4
J
~パーリ仏教を中心とした仏教の心識論』東 京:山喜房偽書林.[
1
9
9
7
J
~パーリ論書研究』東京:春秋社.[
1
9
7
9
J
r南方上座部の行道論J ~東洋学論叢(東洋大 学文学部紀要第3
2
集)仏教学科中国哲学文学科 篇IV~ 東京:東洋大学文学部.[
1
9
8
2
J
r業処説の種々相J~仏教教理の研究一田村芳 朗博士還暦記念論集』東京:春秋社.[
1
9
8
4
J
~パーリ仏教註釈文献の研究」東京:山喜房仰 書林.-
69-後代パーリ文献における止観 註 (1) 関口真大は,様々な分野での止観の研究論文を編集し『止観の研究』として 刊行した。その中に,佐藤密雄[1975] (113-138)は「清浄道論に於ける止 観」を発表した。 Gyana Ratna [2001]は,パーリの『清浄道論』を中心に Nikãya及ひ~Abhidhammaを研究対象として,上座仏教の伝統の中に伝授され てきた膜想体験の実践とその内容を体系的に整理した。さらに,止観などの仏 教 修 行 論 の 研 究 成 果 は , Cousins [1974] (115-131), [1984] (56-68), [1996] (35-58), 森 章 可 [1979](71-123), Griffiths [1981](606-624), Schmithausen[1981](199-250),金宰歳 [1995] (3-16)などがある。 (2)拙稿 [2009]参照。 (3) cittassa ekaggata avikkhepo samathabala
r
p
.
(Pts. 1. 97-98 ; 11. 172), cittar
p
.
ekagganti samathabalar
p
.
(Pts. 11. 176)など。 (4) samathassa avikkhepa ttho (Pts. 1. 16), samathassa avikkhepa tthar
p
.
(Pts. 11.119), avikkhepatthena samatho (Pts. 1.21, 74; 11.85, 90, 143, 161)など。 (5) これらの力が「智論J(Nanakatha) 26及び「力論J(Balakatha)では出 離 を は じ め と す る 七 十 七 力 に よ り 心 の 一 境 性 ・ 不 散 乱 で あ る 「 止 力 」 (samathabala)として「観力J(vipassanabala)と共に説明される (Pts. 1 .97-98 ; 11. 172)。 ま た 双 速 論J(Yuganandhakatha)で は 「 止 を 先 行 させる観を修習するJ(samathapubba白gamar
p
.
vipassanar
p
.
bhavetj)とし て説かれる (Pts.II.93, 95)。これらの七十七力が前述以外 r智論J24では 「無関定J(λnantarikasamadhj)として詳細に説かれる (Pts.1 .94-96)。こ の 七 十 七 力 は , 分 類 し て み る と ( j ) 出 離 (nekkhamma)・無意 (abyapada)・光明想 (alokasanna)・不散乱 (avikkhepa)・法差別 (dham. mavavatthana)・智(簡明)・喜悦 (pamojja)の七法, (jj)八等至 (samapatti):四禅(jhana)・四無色 (arupa),(jjj) イ・遍 (kasIl)a),(jv) 十 随 念 (anussati), (v)十 想 (s訪問), (vi) (三十二〕出入息 (anapana) になる。 (6) vipassanaya anupassanattho (Pts. 1 .16), vipassanaya anupassanatthar
p
.
(Pts. 11 .119), anupassanatthena vipassana (Pts. 1 .21, 74; 11.85, 90, 143, 161)など。 (7) これらの法が「智論J26及ぴ「力論」では色をはじめとする二百-
i
.
去を無 常・苦・無我であると順次に観ずる「観力」として「止力」と共に説明される (Pts.I .98; 11 .172)。また r双運論」では「観を先行させる止を修習する」 (vipassanapubbangamar
p
.
samatha bhavetj)として説かれる (Pts.11.96 97)。 こ れ ら の 二 百 一 法 が 前 述 以 外 智 論J1では「証智すべき法J(dhamma -70-abhinneyya)として説かれる (Pts.1. 5-8)。その中に二百一法があり,それ を 分 類 し て み る と ( i ) 五 組 (khandha), (jj)喜色喜悦 (piyarupa. satarupa) 六 内 処 (ajjhattikayatana)・六外処 (bahirayatana)・六識 (vinnal).a)・六触 (phassa)・六受 (vedana)・六想 (sanna)・六思 (san -cetana)・六愛 Ua曲亘)・六尋 (vitakka)・六伺 (vicara), (jij)六界 (dhatu), (iv)十 遍 (kasina),(v)三 十 二 身 分 (akata), (vj)十二処 (ayatana), (vii)十八界 (dhatu),(viij)二 1--二根(indriya), (ix)十 二 界 取 (dhatu-bhava), (x)等 至 (samapattj)四禅(jhana)・ 四 心 解 脱
<
C
etovimuttj)・四等至 (samapattj), (xj)十二縁起 (patccasamuppada) になる。 (8) (j)無常・苦・無我である順次に観ずる無常随観 (aniccanupassana)・苦 随観 (dukkhanupassana)・無我随観 (anattanupassana)の形である。これ が「双運論」では「観を先行させる止を修習するJ(vipassanapubbangamaJ:Tl samatha bhavetj)として無常-苦・無我である順次に観ずると説かれる (Pts. 11.96-97)。また r観論J(Vipassanakath亘)では「順次に観ずるJ(anupas -satj)ではなく r観ずるJ(passatj)になる。ここでは「無常」乃至「雑染 法J(sankilesikadhammata)の四十の形相であると観ずることが見られるが, 最後にこれらの四十の形相を「無常・苦・無我」に分類するのである (Pts. Il. 236-242)。
(ij) (j)に厭離随観 (nibbidanupassana)・離貧随観(viraganupassana)・ 滅尽随観 (nirodhanupassana)・捨離随観 (pat inissagganupassana)を加え るものである。これが「智論J7で「順次に観ずるJ(anupassatilとは何であ るかを説明するが,ここでは無常・苦・無我のみならず,厭離・離食・滅尽・ 捨離までも説明する。すなわち,①常でなく無常であると順次に観ずる,② 楽でなく苦であると順次に観ずる,③我でなく無我であると順次に観ずる, ④歓喜せずに厭離する,⑤染着せずに離貧する,⑥生起せずに滅尽する, ⑦執着せずに捨離するのである (Pts.I.57-58)。また r智 論J26及び「力 論」では「観力」として「止力」と共に①無常随観,②苦随観,③無我随 観,④厭離随観,⑤離食随観,@滅尽随観,⑦捨離随観を説明する (Pts. 1.98-99; II. 172-173)。
(jjj) (jj)に尽滅随観 (khayanupassana)・ 衰 滅 随 観 (vayanupassana)・ 変易随観 (vipari頃manupassana)・無相臨観 (animittanupassana)・無願随 観 (appar
;
ihitanupassana)・ 空 性 随 観 (sunnatanupassana)・ 増 上 慧 法 観 (adhi pannadhamma vi passana)・如実智見 (yathabhutanal).adassana)・過 忠随観(亘dinavanupassana)・省察随観 (patisankhanupassana)・還滅随観 (vi va ttananupassana)を加えるものである (Pts.1. 20, 24-25. 98-99; II. 円 i後代パーリ文献における止観 11-13, 56など)。
(9) AN. 4.17 Patipadavagga 170 (AN. II.156-157)
(
10) Pts. 2.1 Yuganandhakatha (Pts. II. 92-103)
(11) Katha
r
p
.
samathapubbangamar
p
.
vipassanar
p
.
bhaveti ? Nekkhammava-senaL
… Abyapadavasena...alokasannavasena) cittassa ekaggata avikk -hepo samadhi,
tattha jate dhamme aniccato anupassanatthena vipassana,
dukkhato anupassanatthena vipassana, anattato anupassanatthena vipas -sana.I
t
i pathamar
p
.
samatho,
paccha vipassana; tena vuccati - samath -apubbangamar
p
.
vipassanar
p
.
bhaveti.(Pts. II. 93-95) (12) Katha
r
p
.
vipassanapubbangamar
p
.
samathar
p
.
bhaveti ? Aniccato anupas -sanatthena vipassana, dukkhato anupassanatthena vipassana, anattato anupassanatthena vipassana; tattha jatanar
p
.
dhammanan ca vossaggaram -maI).ata cittassa ekaggata avikkhepo samadhi.I
t
i pathamar
p
.
vipassana paccha samatho; tena vuccati-vipassanapubbangamar
p
.
samathar
p
.
bhaveti. (Pts. II. 96) (13) Kathar
p
.
samathavipassanar
p
.
yuganandhar
p
.
bhaveti So!asahi akarehi samathavipassanar
p
.
yuganandhar
p
.
bhaveti-arammaI).atthena gocaratthena pahanatthena pariccagatthena vutthanatthena vivattanatthena santatthena paI).itatthena vimuttatthena anasavatthena taraI).atthena animittatthena appaI).ihitatthena sunnatatthena ekarasatthena anativattanatthena yugana -ndhatthena. (Pts. II. 97) (14) Pts. II. 97-100 ( 1)5後述するように, Buddhaghosaによれば r光明〔乃至欣求〕を法であると する」とは「非道を道であると誤解する」ことである。 (1) Katha6
r
p
.
dhammuddhaccaviggahitar
p
.
manasar
p
.
hoti? Aniccato(…..Du -kkhato… anattato) manasikaroto obhaso(….naI).am...piti..…passadd -hi...sukhar
p
.
...adhimokkho...paggaho...upatthanar
p
.
...upekkha...ni -kantiJ uppajjati. ‘Obhaso・
.
.
c
...NaI).am...pe...NikantiJdhammo' ti obhasar
p
.
L
.
…
naI).am... pe...nikantir
p
.
)
apajjati"',
tato vikkh巴pouddhaccar
p
.
,
tena uddhaccena vig -gahitamanaso aniccato upatthanar
p
.
yathabhutar
p
.
nappajanati,
dukkhato upatthanar
p
.
yathabhutar
p
.
nappajanati,
anattato upatth亘nar
p
.
yath亘b -hutar
p
.
nappajanati…
(Pts. II. 100-102)議タイ王室版avajjatiを『南伝大蔵 経』は採用し r傾心する」と訳す (no.41p.17註(6))。 (1司 「業処J(kammatthana)とは,禅定における心統一の対象として,原始仏 教以来用いられて来た種々なる項目をまとめたものであって,北伝の部派文献-72
一や大乗の経論にはほとんど何も述べられていないが,パーリ仏教においてのみ 大 い に 発 達 し た 実 践 教 理 の 一 つ で あ る 。 た だ し , 阿 合 ・Nikayaにおける kammatthanaの語義は,何らかの「仕事」や世俗の「職業」を意味するもの であって,後世用いられるようになった仏教の専門術語としての「業処」とい う意味は未だ存しないが,このことは原始仏教時代にこのような業処の実修が なされていなかったということを意味するものでは決してない。ただ解脱 道論』の三十八業処あるいは『清浄道論』の四十業処の項目は実質的には既に 三蔵の各所に散説されているのであって,それらが未だ「業処」とは呼ばれな かったというだけのことである。このkammatthanaが禅定における心統一の 対象手段としての「業処」の意味に用いられる用例は註釈文献(アッタカタ ー)においてである。森祖道 [1982] 127-128参照。 ( 18) samathavipassananarp ekarasattho
…
..yuganandhassa anativattanattho (Pts. 1 .16). samathavipassananarp ekarasattharp...…
yuganandhassa anativattanattharp (Pts. II. 119). ekarasa憎lena samathavipassana. anativattanatthena yuganandharp (Pts. 1. 21, 74 ; II. 85, 90, 143, 161) など。 側 Sukkhavipassakassahi arahato dhammuddhaccapubbangamarp sotapa. ttimaggarp patva sesamaggattayam 'pi suddhavipassanahi yeva pattassa araha tta ppa tti dhammuddhacca引lbba白gamamaggahoti…・・ (PtsA.584) 側註釈文献で,光明・智・喜・軽安・楽・確信・策励・現起・捨・欣求は, 「観随染J (vipassanuppakkilesa)と い わ れ る (AA.III. 143 ; P t sA.585 ; Vis.633)。 削 Sannaviratlassana santi ganthati yo samathapubba白19amarpariyamag -garp bhaveti, tassa adito upadaya gantha vikkhambhiti
i
.
honti; ara -hattappatte,
arahato gantha ca moha ca nivaraI)a ca kamasanna byapadasanna vihimsasanna ditthisanna ca pahina honti,
ucchinnamula talavatthukata anabhavarp gata ayatirp anuppadadhamma ti, sannavir -attassa na santi gantha. Pannavimutlassa na s,ωzti moha ti yo vipassanapubbangamarp ariyamag -garp bhaveti, tassa adito upadaya !noha vikkhambhiti
i
.
honti; ara -hattappatte, arahato rnoha ca gantha ca nivaraI)a ca kamasanna byapadasanna vihirpsasanna ditthisanna ca pahina honti, ucchinnamula talavatthukata anabhavarp gata ayatirp anuppadadhamma ti, Pan -navimuttassa na santi moha. (MNd.207)※イタリック部分はSn.847の原文 を示す。 闘 samatha,ya cittassa thiti saI)thiti avatthiti avisaharo avikkhepo η d 円 i後代パーリ文献における止観 avisahata・manasata;samatho samadh' indriyarp samadhi-balarp samma-samadhi.(CNd.268) 側 Katamosamadhi ?……ya cittassa thiti sal}.thiti avatthiti avisaharo avikk・ hepo avisahatamanasata samatho samadhindriyarp samadhibalarp sam -masamadhi, ayarp samadhi.(Pts. 1 .191) 側 Samahitattoti ya cittassa thiti sa早thitiavatthiti avisaharo avikkhepo avisahatamanasata samatho samadhindriyarp samadhibalarp sam-masamadhi ti, ・..H・(MNd.501) 胸 水 野 弘 元 [1997J87参照。 側 『集異門足論』には,これに対応する次の文がある。「如説如設世間四静慮相 慮。心住等住近住安住。不散不乱綴止等持。心ー境性者。此額内心止。如設出 世聖慧所様。於法捺揮極線操最極操揮。解了等了近了遍了。機融通達審察聴叡。 質明馨行昆鉢合那者。此穎士宮上馨法観。是名奪摩他見鉢合那J(大正.26.375c) 帥 「 止J(Dhs.~54 , 334), r観J(Dhs. S55, 335) 側 「ー境性J(DhsH1, 88, 287), r定根J(Dhs~15 , 78, 291), r正定J(Dhs's 24, 94, 304), r定力J(Dhs.~28 , 99, 308), r不散乱J(Dhs.S57, 337) 側 「 慧 根J(Dhs.H6, 79, 292), r正 見J(Dhs,S20, 37, 90, 297, 317), r慧 カJ(Dhs,S29, 100, 309), r無 痴J(Dhs.S34, 106, 314), r正 知J(Dhs's53, 333) 側 Dhs's395
。
I
)
中村元 [1975J41参照。 倒 特 に , 出 世 間 の 段 階 で 「 出 世 間 の 止JOokuttararp samatharp)という言 葉がある (Dhs.S358,528, 552など)。 側 MN.1l7 Mahacattarisaka-sutta (MN. IlI.71-79)。ここでは,八聖道の正 定が中心の修行であり,他の七支は正定の補助具とされる。正見は,各支の邪 道と正道を正しく認知するために先行すると説かれる。そして,邪道と正道の 内容が述べられ,正見・正恩・正語・正業・正命がそれぞれ有漏と聖・無漏と に分けられる。 (34) AN . 4 .10 Asuravagga 92 (AN. 11. 92) ( 35) Pug.4 Cattaro・puggala26 (Pug. 61-62) 側 Kat加宛, ωρz倒 的 伝bhic' eva h叫・ ajj.加ttarytfetosamat,加5S,~ labhi!
!
.
壬
hifJaññãdha刀~mavifJωsanめ1'a? Idh' ekac氾opuggalo labhi hoti rupasahagatanarp va arupasahagatanarn va samapattinarn labhi 1okuttaramaggassa va ohalassa va. evarpρuggalo h軍bhic' eva hoti ajjhattaryt c官tosamathassalabhi ca adhipannad,加 仰 仰vipas・ sanの'a.(Pug. 62) a 4・ 勾 t間 Ettha ca pathamo ~tthasamãpattilãbhï puthujj ano. Dutiyo sukkhavioassaka-arivasavakQ. Tatiyo atthasamapattilabhi ariyasavako. Catuttho 1okivamahajano veditabbo. (PugA. 244-245)
側 imecattaro satipatthana, ime cattaro sammappadhana, ime cattaro idd・ hipada, imani panc' indriyani, imani panca balani, ime satta bojjhanga,
ayarp ariyo atthangiko maggo, ayarp 盟旦呈虫色 ayarp 豆~盟旦~ ayarp vijja, ayarp vimuttiti, ・..H・(Mi.3l7) 側「心の散乱の撤去を特相とするJ(Net. 27 ; Pe. 127)
,
r散乱のない定心」 (N et. 88 ; Pe. 122), r定組J(Net.68, 81, 91, 111, 128), r定根J(Net.68) 側「慧・了知・〔乃至〕・正見J(Net. 76), r慧 恋J(Net.66, 81, 91, 111, 128),
r慧根J(Net. 66) (41) 【表一1] [表ー2] [表-3]参照。 血却 Net.42, 43; Pe.205 (43) N et. 43, 65, 96; Pe. 123, 127 帥 Net.42 ( 45) Net.43; Pe.17 帥 Net.42,43; Pe.17, 114, 134, 174 開 DN.IIl. 273; MN. IIl 2.89; SN. V. 52; AN. II.247 側 ta早hacarita ito bahiddha pabbajita kamesu kamasukhallikanuyogam anuyutta viharant.i(Net.110) 同 tar
.
m
acaritasamathapubbangamaya vipassanaya niyyanti... (Net.7) 側 ditthicaritaito bahiddha pabb吋itaattakilamathanuyogam anuyutta vi・ haranti, ... (Net.110)側 ditthicaritavipassanapubbangamena samathena niyyanti….. (Net. 7)
側 Tatthaye samathapubbangamahi patipadahi niyyanti, te nandiyavattena nayena hatabba, ye vipassanapubbangamahi patipadahi niyyanti, te sihavikki}itena nayena hatabba. (Net.7) 側 Tatthaugghatitannussa samathapubbangama vipassana neyyassa vipas -sana pubbangamo samatho. (Pe. 249) 制 Vipancitannussasamathavipassana yuganandha. (Pe.249) 側 「 定J(DA. IIl. 983 ; PtsA. 1. 125)
,
r八 等 至J(MA. II.346),
r心修習」 (MA.II.284) 側 「 慧J(DA. III. 983 ; SA. 1.50),
r増 上 慧J(SA. 1. 27),
r随 観J(MA. II. 346) 側 DA.IIl. 754 ; MA. 1. 239 ; PtsA. III. 696 側 Vis.84-372 -75-後代パーリ文献における止観 側 四 十 業 処 (kammatthana) : 0)十遍 (kasina), (ii)十不浄 (asubha). (iii)十随念 (anussati), (iv)四 党 住 (brahmavihara),(v)四 無 色 (aruppa), (vi)食厭想 (ahare patikulasanna), (vii)四界差別<Catud・ hatu vavatthana) (60) Vis.371-372 前1) Vis.436-710 側 慧 地 (pannabhumi) (i) (五〕菰 (khandha), (ii) (十二〕処 (ayatana).(iii) (十八〕界 (dhatu), (iv)(二十二〕根(indriya), (v) 〔四〕諦 (sacca), (vi) (十二〕縁起 (paticcasamuppada) 制)五清浄:0)見清浄 (ditthivisuddhi), (ii)度疑清浄 (kankhavitaral).avi -suddhi) , (iii)道非道智見清浄 (maggamagganal).adassanavisuddhi), (iv) 行 道 智 見 清 浄 (patipadanal).adassanavisuddhO,(v)智 見 清 浄 (nal).adas -sana visuddhi) 制 註(8)参照。 側 Vis.628(註(8)の(Hi)参照) 附 Vis.633(註帥参照) 制 Evarplokiyen' eva tava nal).ena til).l).arp saccanarp vavatthanarp katarp hoti. (Vis. 638)
側八種の観智:(i)生滅随観智 (udayabbayanupassana簡 明 ), (ii)壊随観 智 (bhanganupassananal).a), (iii)怖畏現起智 (bhayatupat thananal).a),
(iv)過 怠 随 観 智 (adinavanupassananal).a),(v)厭 離 随 観 智 (nib -bidanupassanana1).a), (vi)欲脱観智 (muccitukamyatanal).a),(vii)思惟 随観智 (patisankhanupassananal).a),(viii)行捨智 (sankharupekkhanal).a)
側 Tarpsampadetukamena samathayanikena tava, thapetva nevasanna -nasannayatanarp, avasesaruparupavacarajjhananarp annatarato vutt -haya... (Vis. 587)
(70) ~2. Catudhatuvavatthanassa bhavana (Vis.347-370)
。1) Suddhavipassanayaniko pana ayam eva va samathayaniko Catud -hatuvavatthane vuttanarp tesarp tesarp dhatuparigahamukhanarp an -nataramukhavasena sankhepato va vittharato va catasso dhatuyo parigaI.1勾 hati.(Vis. 588)
(7~ AniccanupassL...Viragan upassi ... N irodhanupassL...Patinissag -ganupassi assasissami ti sikkhati, patinissagganupassi passasissami ti sikk -hati.(Vis. 267)
(73) Idarp catutthacatukkarp suddhavipassana vasen' eva vuttarp. (Vis. 291)
(74) Tattha dhatuvasena kathitarp vipassanakammatthanarp hoti, pati -- 76
kulavasena kathitarp samathakammatthanarp, tad-etarp idha samatha -kammatthanam eva ti...