「2005M大学」の解答と解説
○○ とは、鈴木の世界史講座のプリント教材のことである。 No ○○ とは、 年度の教材。下記ネット上にあり。 07No 2007 または に掲載中。 http://sekaishi.info http://www.geocities.jp/sekaishi_suzuki のB面最下部参照(後掲) 現代の国名と位置を確認せよ。【正解1】
No28 設問1 E 雲南にあったタイ人の主力が大移 動したのはモンゴル勢力の拡大による。 ★問題本文3行目「10 ~ 13 世紀にかけて雲 南に成立していた(b)という国は、タイ系 民族が築いた国と考えられている 」という。 記述は誤りである 大理の建国者は白蛮系 チ。 ( ベット系のペー族)の豪族、段氏である。大 学入試問題には、既に過去のものとなった古 い学説が書かれている場合がある。 設問2 D 東隣のカンボジアのアンコール= ワットも 14 世紀頃以降上座仏教の寺院とな る。西隣のビルマも上座仏教である。 設問3 F 南下後最初の王朝スコータイ朝は 第3代ラームカムヘーン王位1275?-1299/1317? の 時全盛期。彼はモン人から上座仏教を取り入 れ、タイ文字を制作した。アユタヤ朝はイン 、 、 ド洋 中国両方に交易ルートを持って繁栄し スコータイ朝を併合した。東隣カンボジアの 世紀にアンコール=ワットを建てた)を脅かし衰退させ、その文化を吸収した。 アンコール朝(12 設問4 C アユタヤ朝を滅ぼしたのは西隣のビルマのコンバウン朝である。 設問5 F 19 世紀後半、東にフランス領インドシナ連邦(1887-1945)、西にイギリス領インド帝国 (1877-1947 1886、 年にはビルマを併合)に挟まれながら植民地化を阻止した。 設問6 D 上座仏教である。 設問7 A 最後の3行は突然ラオスの話題に変わる。しかし、ラオス(場所確認!)もタイ系なのだ。 設問8 トヴァーラヴァティー・・・・今日のタイがある地域で最初の王朝はモン人の王朝だった! 設問9 大理・・・・10 ~ 13 世紀雲南に栄えた大理は、白蛮系(チベット系のペー族)の豪族、段氏が建国。 宋に入貢。支配者はチベット系だが、タイ人が多数住んでいた。モンゴルの拡大で、大理国はフビ ライに滅ぼされたタイ人は大移動(南下)した! 設問10 ラームカムヘーン(旅行者用解説書ではラーマ=カムヘンと書いてあることもある) 大移動後最初のタイ系王朝、スコータイ王国(13 世紀末成立)第3代。上座仏教を取り入れ、タ イ文字を制作した。 設問11 サンスクリット(古代インドの聖なる言葉) 設問12 ランサン王国・・・・現在のラオスの地に建てられたラオ人の王国 1353-1707。「ランサン」とは「百 万頭の象」の意味。18 世紀、ルアンプラバン王国(北部 、ヴィエンチャン王国(中部 、チャン) ) パサック王国(南部)の3国に分裂し、消滅した。 のB面最下部のコピー No28 この項は大幅に増補しました( )Ⅳ
タイ人の王国
2008.7.6 1)≪頻出≫6~8世紀頃、モン人(先住民)がチャオプラヤ川下流域、図2 の記号Cの場所にドヴァーラヴァティーを建国。上座仏教。唐に朝貢。 クメール人)の繁栄はタイ人の活動を 2)パガン朝の成立、カンボジア( 。 ( ) 活発にした 雲南の大理(10~13世紀)は白蛮系 チベット系のペー族 の豪族、段氏が建国。支配者はチベット系だが、タイ人が多数住んでい モンゴルの拡大で、タイ系民 た。13 世紀、フビライは大理国を滅ぼし、 (南下)した! 族は大移動 ①大移動(南下)後最初のタイ人王朝は、13 世紀末、中部タイに成立した 1275?-1299/1317? 【7: 】である 第3代ラームカムヘーン王。 位 の時全盛期。彼は上座仏教を取り入れ、タイ文字を制作した。 ②14 世紀中ごろ、チャオプラヤ川中流域の【8: 】が有力化した。・・・・上座仏教の国。農 産物など内陸産の商品をタイランド湾沿岸に集荷、中国や琉球に輸送して発展。タイ人小国家を併合、 アンコールを占拠、マレー半島への進出をはかる。15 世紀には、今日のタイに相当する領域の統合に成功した。18 世紀、ビルマのコンバウン朝に滅ぼされた。ビルマ軍を撃退したタークシン位 1767-82 が建て たトンブリ朝は短命に終わり、1782 年、その武将だったラーマ1世がラタナコーシン朝(バンコク朝) を創始し現在に至る。19 世紀後半 【、 9: 】領インドシナ連邦(1887-1945) 【、 10: 】 領インド帝国(1877-1947 1886、 年にはビルマまで併合)に東西から挟まれながら植民地化を阻止した。 ( チュラロンコーン )のチャクリ改革について調べよう。 ラーマ5世 位1868-1910 『王様と私』の王子のモデル 【 】記入例 6:パガン朝 7:スコータイ王国 8:アユタヤ朝 9:フランス 10:イギリス 非常な難問である。しかし、基本を押さえていれば恐るる足らず!
【正解2】
大きな声では言えないが、誰にも解けない問題はないのと同じである。 10 正解 1 2 3 4 5 6 7 8 9 ア × × × × ○ × × ○ ○ ○ イ × ○ × ○ ○ × ○ × × ○ 判定 D C D C A D C B B A 1) No04のB面4行目を読め。これは分かるはずだ。 。 、『 』 (ア)ギルガメシュはBC2600年ごろの実在のウルク王 彼を題材とするギルガメシュ叙事詩こそは 旧約聖書 に見える洪水神話のおそらく最古のテキストを含む。アッシュール=バニパルこそは、ギルガメシュ叙事詩を 含む全分野にわたる膨大な粘土板文書を王宮と宮殿の2カ所に分けて保存した王である 2カ所合わせて ア。 「 ッシュール バニパルの図書館」と呼ばれる。彼はウルク王ではなく、アッシリア王である 「冥界下り」の= 。 物語で有名なのは、むしろ性愛、戦、金星の女神イシュタル(アッカド語)であろう。 (イ)前述の膨大な粘土板の大半は大英博物館に収蔵されている。大英博物館のジョージ=スミスは、楔形文字 を解読し、そこに洪水神話が記されていることを発見した専門家として有名。なお「アッシリアの遺跡から 出土した」は正しいが 「石版 (私のミスプリではなく原文も「版」になっているがおそらく「板」が正し、 」 い)ではなく粘土板 「線文字」ではなく楔形文字 「線文字」と言えば普通はクレタ、ミケーネである。、 。 2) No04のB面参照 2700 BC3100 (ア)ウルは ウルクとともにシュメール人の都市国家である、 。「紀元前 年ころまでに も今日では」 年ごろとされている。シュメール人がメソポタミアに多数建設した都市国家の一つである。 (イ)紀元前 18 世紀ころ、ハンムラビ王の治世には全メソポタミアを支配し、ハンムラビ法典を制定したバビ ロン第一王朝(古バビロニア王国)は、アムル(アモリ)人の国家である。これは1学期中間考査で出題して 多くの諸君が間違えた。 3) アもイも明白な多重の誤りを含む。 No05をマスターしていれば分かる。 (ア)ラメス(ラムセス)2世はアブシンベル神殿を建設したから「大規模な建設事業を展開した」と言えるが、 アトン神をまつる神殿を造ったのはアメンホテプ4世であり、また、カルナックの大神殿はテーベ近郊、ル クソール神殿の北東約3キロにあり、中王国以来歴代王家により2000年間造営され続けた最大の神殿群。だ が、それを「百柱神殿」と呼ぶという典拠は見いだせなかった (あったら教えて欲しい)。 (イ)ラメス(ラムセス)2世は、確かに現存する世界最古の国際条約を締結した。ただし、その相手はカデシュ ではなくハットゥシャ(ボアズキョイ)を首都とするヒッタイトであり、この時戦場となり、そして条約を 締結した場所がカデッシュ。 No05B面上部 4) No06参照 (ア)アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシアの事実上の公用語はセム系 のアラム語である。有力説によれば、イエスとその弟子たちはアラム語で会話して いたという (なのに 『新約聖書』は始めからコイネーで書かれた)。 、 (イ)地中海交易で活躍したフェニキア人の拠点とは、地中海東海岸のビブロス、シ ドン、ティルスであるが、問題はそれらが問題文の「シリアの都市」と言えるか? ということだ 「歴史的シリア」の範囲は現代の「シリア・アラブ共和国」の領土。 に限らず、レバノン(当時のフェニキアにだいたい相当する)も含み、文脈によっ てはパレスチナまで含めてシリアと言うこともあった。だからビブロス、シドン、 ティルスを「シリアの都市」と書いても誤りではない。またティルスが母市となっ て建設されたのが北アフリカのカルタゴであり、フェニキア人はアフリカの北海岸 だけでなくイベリア半島にも植民していたのは本当である。 5)ヘブライ王国の分裂後、イスラエル王国(北)がアッシリアのサルゴン2世に滅ぼされた後のこと。 (ア)繁栄を続けた南のユダ王国も、新しく興った新バビロニアのネブカドネザル2世により、エルサレムの神 殿を破壊され、滅亡した。・・・・これは正しい。この時「バビロン捕囚」が起きた。 (イ)ネブカドネザル2世は地中海の港町ティルスを攻略し、そこを支配していたフェニキア人を服属させた。 ・・・・これも正しい。ティルスは13年間もの包囲戦に敗れた。なお、後年にもアレクサンドロス大王に抵抗した唯一の都市として知られる。洋上1 km の島に立てこもるティルス軍に対し大王は海を埋め立てて道を造 り打ち破ったと伝えられる。 6)紀元前 538 年、アケメネス朝ペルシアの創始者キュロス2世がバビロンを占領し、一部のユダヤ人たち がエルサレムに戻った。なお、2代目はカンビュセス2世、3代目がダレイオス1世。滅亡する時はダレイ オス3世。 No07参照 (ア)はNo04B面参照 (ア)戦勝記念の言葉を「王の道」に面したベヒストゥーンの岩壁に楔形文字で刻ませたのはダレイオス1世。 その解読に成功したのはローリンソン(英 1810-95)。これより先に、ペルセポリス碑文の解読で楔形文字の 解読に道を開いた先駆者はグローテフェント(独1775-1853)である。 (イ)「王の目 「王の耳」とよばれる巡察官を派遣したのは、ダレイオス1世。その目的は、サトラップの監」 視である。 7) (ア)景教とは、エフェソス公会議で異端とされたネストリウス派キリスト教のこと。ゾロアスター教は「けん 教 ( けん」の漢字は「示」偏に旁りは「天 )である。信者は中国にもいた。しかし、莫高窟から教典「ア」「 」 ヴェスター」の解釈書が発見されたという話は聴いたことがない。知っていたら教えて下さい。なお、当然 ですが、莫高窟は雲南などではなく敦煌である。 井上靖「敦煌」の主人公は、殿試にまで進みながら失敗し、呆然と都を彷徨ううちに、偶然西域の女性から もらった西夏文字の文書がきっかけで西夏へ。敦煌が西夏に滅される時、主人公は膨大な数の経典を洞窟に埋 める。この小説のモチーフとなったのは1900年発見の敦煌、莫高窟の第17窟「蔵経窟 「宝庫」である 「敦」 。 煌文書」と言われる膨大な文書が封じ込まれたのは 11 世紀前半と推定され、経緯については 2 説ある。①敦 煌が西夏により占領された際に経典を焚書されることを恐れて隠した。②不必要なもの・価値のないものをと りあえず置いておいた。①は井上靖が『敦煌』で採用したので有名ではあるが、 西夏朝は仏教を信仰してお1. り、経典を破壊すること自体が有り得ない、 この敦煌文献には到底価値の無さそうなものが多数含まれてお2. り、中には習字や書き損ないと思われるものまである、という指摘がある。現在では、不必要なもの・価値の ないものをとりあえず置いておいたという②がほぼ定説となっている。 授業者は唐初に発明された木版印刷が、宋代に広く普及したことと関連があると思う。版本(印刷された書 物)が普及した後も写本を大切に保存する習慣のあるわが国と異なり、宋代の中国では正確に校訂された版本 が大量に出た書物は、写本など不要と廃棄してしまう風習があったようで、それらの大半は失われた。さすが 、 、 「 」 漢字を生み出した国 中国は捨てるのも上手なのだ!莫高窟の第17窟には そのような 不要となった写本 類が文字通り山のように積んであった。当時の有名な書物の写本はもちろん、寺子屋のテキストから不要とな った契約書、明らかな書き損じなども含み、宋代の社会を解明する文字情報の宝庫であり 「敦煌学」という、 研究分野まで生み出した。今だにそのほんの一部しか研究が進んでいない。 (イ)近代以降のヨーロッパにおいてゾロアスターはキリスト教批判のための重要な象徴として、ヴォルテー ル、ニーチェなどの著作に登場する。・・・・これは一応正しいと言えるだろう。もちろん、ニーチェの有名な 『 』 、 、 著作 ツァラトゥストラはかく語りき は ニーチェ自身の思想をザラスシュトラに仮託して述べたもので ゾロアスター教との直接の関係はほとんどなく、キリスト教批判のための象徴として使われているんだ、と 授業者は読んでいるのだが誤っているだろうか。ザラスシュトラの教えには 「永劫回帰」などない(と私は、 思う 。ヴォルテールも仏訳されたばかりの『アヴェスター』を読んで影響されたようであるが、私は詳しく) ない。なお、11 ~ 13 世紀、西ヨーロッパで流行したカタリ派(異端)は、マニ教の影響であるから間違え ないように。 8)紀元前 166 年セレウコス朝がユダヤ教を禁じたためマカバイ一族は反乱を起こし、宗教的・政治的独立 を獲得する。これがハスモン朝。しかし、そこへ新しい勢力ローマが登場し、その後のユダヤ人たちの運命 を翻弄する。 No15B面参照 (ア)ハスモン朝を含む地中海束岸の諸勢力をローマに組み入れたポンペイウスは第1回三頭政治の後カエサル と対立した。・・・・この表現は正しい。詳しく言うと、BC63 年にハスモン朝を倒しエジプトを除くオリエン トをほぼ平定した功績を元老院からたいして評価もされず不満をつのらせたポンペイウスは、BC60 年、カ エサル、クラッススとともに第一回三頭政治を始めた 「第1回三頭政治の後」という表現だが、クラッスス。 がパルティアで戦死した BC53 を持って第1回三頭政治の崩壊、従ってカエサル VS ポンペイウスの権力闘 争開始、とするのが通説だからこれでよい。 (イ)ユダヤ人指導者のなかで、神殿勢力のファリサイ(パリサイ)派はハスモン朝と緊密な関係を結び、律法 を重んじるサドカイ派はそれを批判した。・・・・これが何故誤りか分かるだろうか!今日のユダヤ教の教義を 作ったのはファリサイ(パリサイ)派の末裔である。より原理主義的なサドカイ派は、ハスモン朝と緊密な 関係を結び、BC63 年のハスモン朝滅亡後もローマ帝国と闘争を続け、ユダヤ戦争でも真っ向からローマ帝 国と戦い、AD70年のエルサレム陥落とともに消滅した。 9)紀元前37~4年、ローマの属州とはいえ実質的な行政権を維持したヘロデ王はエルサレムの神殿を修復 したが、人びとの間の緊張感は高まり続けた。クムラン教団が現れたのもこのころである。紀元66年にはユ ダヤ人の大反乱(第1回目)が起きた。なるほど、こういう緊迫した状況の中で「ユダヤ人の王たらんとし ている」と訴えられたら処刑されるわけである。イエスの人生と教えは、こうした不穏な情勢を背景として
BC4 理解すべきであろう なお ヘロデ王については。 、 、「ベツレヘムの嬰児殺し を記憶すべし 彼の在位末年が」 。 年であることが、イエスの誕生年=BC4年説の根拠のひとつである。 (ア)正しい。ユダヤ戦争(第1回 66-70)勝利を記念するティトゥス帝の凱旋門(左 のイラスト)には、ローマ軍がエルサレムの神殿を破壊・掠奪する様子がレリーフ になって残っている。捕虜となったユダヤ人の多くは闘技場で殺されたと言う。 (イ)『地理誌』の著者はストラボンだし、タキトゥスの主著は『ゲルマニア 『年代』 記』であるから誤りであることは明らか。しかし 「時が来ればユダヤから出る者が、 世界を支配するとユダヤ人の大部分は信じて疑わない」の出典は鈴木の力不足で分 からない。知っていたら教えて下さい。 10)イエスの死後、正典としての『新約聖書』が確立するまでには 300 年余りを 要した。・・・・とあるが、たぶん「正典」ではなく「聖典」であろう(私のミスプリ でなはく旺文社による問題原文もそうなっている 。) (ア)イエス当人はセム系の言語を話していた・・・・本当らしい。本人も弟子たちもアラム語で会話していたと言 われている。後に『新約聖書』を構成するパウロ書簡や4福音書の原本はギリシア語で書かれた。・・・・正し い。当時の共通語としての古代ギリシア語を「コイネー」と言う。 (イ)その通りである。
【正解3】
問1 ①L(張騫) ②F(大月氏) ③D(絹の道) ④K(安史の乱) ⑤Q(玄宗) ⑥U(白居易) 問1の解説 1)古代中国において、西域で活躍した中国側の人材をまとめておこう。 張騫 ?-BC114 前漢武帝の使者として大月氏に至る。BC126 年に帰還。西域の詳細な情報を武帝にもた らし、西域経営の基礎を築く。後掲。 →BC121年頃、武帝は河西4郡(武威、張掖、酒泉、敦煌)を置く。 李広利 ?-BC90 前漢武帝の将軍。武帝夫人の李妃の兄。大宛で汗血馬を得たことで有名。 大宛に遠征(BC104-BC102)、激戦に勝利して西域経営の伸張を確保。 衛青 ?-BC106 前漢武帝の武将。7回も対匈奴遠征を行う。甥の霍去病(BC140?-BC117)も同様。 班超 32-102 後漢の力を西域に及ぼす 「。 虎穴に入らずんば虎児を得ず」は有名。後掲。 甘英 1世紀 97 年班超の命で大秦国(ローマ帝国)に派遣される。安息(パルティア 、条支国(シリ) ア)を経て大海(ないしは西海)に達し、航海の困難を教えられ断念。大海(ないしは西 シルクロードの西半分の 海)とは何かについて、地中海説とペルシア湾説がある。 を初めて中国にもたらした。 情報 月氏は匈奴の冒頓単于に攻められて大敗、更に冒頓の子の老上単于の軍にも敗れ、老上は月氏の張騫
王の頭蓋骨をくりぬいて杯にした(このエピソードは悪名高い)と言う。月氏の一部は北へ逃れ、烏孫に追 われて更に西へと逃げ、大月氏と呼ばれた。前漢の武帝は、大月氏は匈奴を恨んでいるに違いないと考え、 同盟を結んで匈奴を挟撃するために同盟を結ぶ使者として張騫を送った。張騫は、隴西(甘粛省)から出た 、 、 、 。 直後に匈奴に捕らえられ 十余年間も拘留され 妻を与えられ子供まで出来たが使命を忘れず 脱出に成功 大宛(フェルガナ)に達し大月氏までの道を教えられた。ついに張騫は大月氏にたどり着き漢との同盟を説 いたが、王はこれを受け入れなかった。この地は物産が豊かであり、周りに敵もおらず、大夏を服属させて 栄えており、匈奴への復讐心は過去の物となっていた。 失意の張騫は帰路、またしても匈奴に囚われる。一年余りして脱出、紀元前 126 年に帰還。張騫が持ち帰 、 、 った西域の知識は極めて貴重なものであり それまでまったくと言って良いほど状況が解らなかった西域が これ以降は漢の戦略の視野に入ってくる。紀元前 123 年、武帝は大将軍衛青率いる匈奴への遠征軍を出発さ せ、張騫は自らの地理知識を活かして大きく貢献した。紀元前 121 年の遠征の際に期日に遅れた罪で死罪と なる所を庶民に落とされる。 蜀から雲南→ビルマを通ってインドへと繋がるルートがあることを知っていた張騫は武帝に対して雲南を 漢の支配下に入れ、このルートを通じて西域と繋がり、匈奴へ対抗することを帰還直後から進言した。更に 、 。 、 別の方策として烏孫と同盟することを考え 紀元前119年に烏孫への使者として赴いている 紀元前114年 死去。死後に張騫の打った策が徐々に実を結び始め、西域諸国は漢へ交易に訪れるようになり、漢は匈奴に 対して有利な立場を築くようになる。 『漢書』を書いた班固の弟。軍人で歴史家。生年が同じなのに双生児ではないらしい。妹班昭も歴班超
史家である。 年に明帝の命により匈奴討伐軍に参加(既に 過ぎてるぜ! 。□善国(ゼンゼン □は善におおざと) 73 40 ) でのエピソードはあまりにも有名:初めは歓迎されたが次第に雰囲気が冷え、匈奴の使者も来ており、このままでは殺されると察した班超は、何しろ味方は36人しかおらず匈奴ははるかに多かったのですっかりビビ っている部下どもを「虎穴に入らずんば虎子を得ず(不入虎穴焉得虎子 」と励まして、匈奴の使者一行にい) きなり斬り込み大勝した。 その後、班超の奮戦で西域は後漢の勢力下に置かれた。75 年、明帝死亡。章帝の帰還命令に従わなかった ことも有名。自分が引き上げれば、匈奴が後漢に味方した者を皆殺しにするから帰れなかった!91年、班超 西域都護 亀茲 は匈奴の息がかかった亀茲(クチャ)を討った。皇帝は彼を に任じ、役所としての西域都護も に置かれた。92年に兄班固が獄死するが帰国しなかった。 年、部下の甘英を「大秦 (ローマ帝国)に派遣したことも有名。甘英は行き着くことが出来なかった 97 」 が、シルクロードの西半分の情報を初めて中国にもたらした。100 年(西域勤務 31 年 、班超は帰国の嘆願) 書を出し、102 年洛陽に帰還、故郷で死去。西域都護は 107 年廃止。後漢は何度か西域に軍を出したが、班 超がいた頃の勢力を取り戻す事は出来なかった。 2 「絹の道」に関連して3つの東西交易路を押さえておこう。) No37の地図参照 Ⅰ 図1の点線で示した「草原の道」 人類史上最古の東西交易路 ここを通ってスキタイの文化(BC 7世紀以降)がシベリヤ、モンゴル高原に伝わり、匈奴が活躍し、ア ジア系民族がヨーロッパに侵入した。起源は非常に古くはっきりしないが、古代ギリシアの歴史学者ヘロド トス(BC 5世紀)の時代には既に知られていた。13 世紀にもプラノ=カルピニ、ウィリアム=ルブルック はこの道を通ってカラコルムに至った。 Ⅱ 図1の実線で示した「オアシスの道」= 「シルクロード (絹の道)」 下の図4はその拡大図。BC 2世紀の張騫の大旅行によって中国の戦略目標の一つと認識されたが、起源 はもっと古くはっきりしない。中国が独占していた絹織物を運んだ道という意味で、このルートを実際に調 査したリヒトホーフェン(独 1833-1905 地理学者)が命名したという由来から、受験的にはこれだけを「シル クロード」と言うが、世間一般では①もそう呼ぶ場合もある。 Ⅲ 図1には示していないが「海の道」は 「陶磁の道」とも呼ばれ、7、8世紀以降盛んに利用された。こ、 とに8世紀以降、ムスリム商人がダウ船を用いて活発に活動するようになると、これがメインとなり、Ⅱは 衰退した。しかし、16世紀以降はヨーロッパ勢力によってⅢも徐々に制圧された。 3 「オアシスの道」拡大図) No37より シルクロードは前 漢の都長安(後漢の 都は洛陽だから注意 しよう)から甘粛を 抜けて黄河を渡り、 河西回廊を通って敦 煌に達する。 玉門関、陽関より 西は西域である。こ こに点在する多数の オアシス国家がいわ ゆる「西域国家」で ある。その中に、後 漢が西域都護をおい た亀茲(クチャ)もある。そこは、膨大な仏典を中国語に訳した西域僧鳩摩羅什の故郷である。 問2 (ア)C(亀茲) (イ)B(田中角栄・周恩来) (ウ)C(南京) (エ)C(司馬遷・班固) 問2の解説 ア)前掲「オアシスの道」拡大図解説参照。
イ)田中角栄は貧困の中から身を起こし建設会社社長から総理大臣になった立志伝中の人物。一級建築士。 出身校の「中央工学校」は今も存在する。目白の豪邸も田中御殿として有名だった。雪深い新潟を首都圏に 結びつけるため、上越新幹線計画、関越自動車道計画などを推進した。ロッキード事件で刑事被告人とされ たが、新潟では今も一種の英雄である。田中真紀子氏の尊父でもある。周恩来は日中戦争時代以来の中国共 産党の大幹部。当時の正式職名は国務院総理(首相に相当する 。右手の肘を) 90 度に曲げて写真に写ってい るが、これは落馬による骨折の後遺症である。1972 年 9 月 29 日、田中角栄・周恩来両首相は日中共同声明 に署名し、ここに日本と中華人民共和国とが国交を結ぶこととなった。日中共同声明に基づき中華民国には 断交を通告した。 実は、アメリカ合衆国大統領ニクソンは、1971年7 月にキッシンジャー大統領特別補佐官を秘密裡に中国 5 1972 に派遣し、周恩来首相と会談。≪ニクソン大統領が翌年 月までに北京を訪問する≫と発表した。実際 年 2 月 21 日、ニクソン大統領は、アメリカの大統領としては初めて中国を訪問し、27 日に米中共同声明が 発表された。米中共同声明で、アメリカは平和五原則を承認し、これによって長い間敵視してきた中華人民 共和国を事実上承認した。つまり、日本は何も知らされないまま、頭越しに米中が国交正常化を行った。今 まで中国を敵視してきた「同盟国アメリカ」が、突然中国を友好国にしたのだから、日本政府は驚き、田中 角栄は最速で対応した。 ウ)中国の重要都市名は地図上の位置とともに覚えよう。 A:幽州(安禄山の本拠地) 現北京 B:興慶府 大夏(西夏)の都 C:開封(かいほう) 汴京とも言う。 今も開封 五代十国時代、華北5王朝のうち、後唐以外の 4王朝の都 なお開封の東を頂点に約 110 度の扇形の中で 黄河は流路を変更してきた。 D:洛陽(東周時代の名称は洛邑) 今も洛陽 ・西晋・北魏の都 後漢 E:鎬京(宗周とも言う)は現西安市付近、西周の都 長安:現西安市の西にあった。 ・新・西魏・北周・ ・ の都 前漢 隋 唐 咸陽:現西安市の北西にある。 の都秦 F:成都 四川の中心都市として同名で現存。 の四川大地震で甚大な被害出す。 2008.5.12 三国時代(220-280)の の都蜀 G:上海 都になったことはないが重要都市。 南京 H:建業(建康) 現在の 三国時代(220-280)の の都呉 I:臨安 現在の杭州 南宋の首都 エ 『史記』と『漢書』は中国の二大歴史書) 司馬遷:BC145?-BC86 中国の「歴史の父」とも。BC99 年、匈奴に降伏した将軍李陵を弁護して武帝の怒り をかい、宮刑に処せられたが恥辱に耐えて『史記』を完成させた。 班固:32-92 前漢一代の歴史書『漢書』を著した。謀反事件に連座して獄死、妹班昭が補って完成させた。
【正解4】
問1 (ア)サトラップ (イ)王の道 問2 ストア派 問3 インド 問4 B(ネストリウス派) 問5 A(トウモロコシ) 解説 問1 サトラップの監視を任務としたのが「王の目 「王の耳 。そしてこれらの設置は、アケメネス朝ペル」 」 、 。 シアの初代キュロス2世でも2代目のカンビュセス2世でもなく 3代目のダレイオス1世の仕事であった 「王の道」は首都スサと小アジアのサルデス間、2500km、駅伝制が整備され 111 駅あった。イラン西部を通 る「王の道」に面して建てられたのはベヒストゥーン碑文。その楔形文字を解読したのはローリンソン。 問2 ゼノンもエピクロスもアテネで活躍した。 問3 ゼロはインドのグプタ朝期に発明されたとされる。 No23B面 問4 No18B面最下部の表 問5 トウモロコシは、イネ科の1年草。トウキビとも言う。原種はアフリカだとされるが栽培種の原型は アメリカ大陸で、長期にわたり主要穀物だった。16 世紀に、スペイン人の征服活動にともなってヨーロッパ に伝えられ、世界中に伝播した。痩せた土地でも実るので、ジャガイモとともに多くの人類を餓死から救っ た。ちなみに、B(木綿)の中でもインド産綿布は「キャラコ」と呼ばれ非常に高品質だった。C(砂糖)初めてサトウキビから砂糖を製造したのはインドである。BもCも、インドが大産地でムスリム商人がこれ らを東西に運んでいた。D(紙)は有名なタラス河畔の戦い(751 年)で大敗した唐軍の捕虜の中に紙漉工 がいてアッバース朝に製紙法が伝わったとされている。
【正解5】
1)問1 C(半両銭) 問2 B(隋) 問3 B(銀) 問4 A(一条鞭法) 2)問5 D(ヴァルダマーナ) 問6 C 問7 D(鄭玄) 問8 B(朱子学・陽明学) 問9 A 問10 C 問11 「民主と科学」を掲げ 「新青年」誌上での白話運動を中心とした啓蒙活動 (、 。 35文字) (1)の解説 問1 No33A面最下部 始皇帝が定めた統一銅貨が「半両銭 。ちなみに漢は「五銖銭」」 A(蟻鼻銭 、B(布銭・・農具のデザイン 、D(刀銭)は戦国時代の青銅貨幣。) ) 問2 B(隋) 中国における紙幣の歴史を軸にまとめておこう。 なぜ唐代は紙幣は使われなかったと断言できないのか?・・・・「飛銭」と呼ばれる一種の手形が用いられてい たから。 になると、民間の商人によって交子・会子と呼ばれる手形が使われた。全国一律で同じ価値を持つ交子北宋
は決済に便利だった。交子は北宋の仁宗の頃から、政府によって発行された。これが世界で最初の紙幣であ る。 になってから が政府によって発行された。しかし、後に大量発行されてインフレーションが発生し南宋
会子 た。 は、北宋の交子に由来する と呼ばれる紙幣を発行した。モンゴル帝国(後の元)では当初金・銀・銅金
交鈔 銭が用いられていたが、オゴデイのころには交鈔を使い始めた。クビライが即位した1260年には中統元宝交 ( ) 。 、 ( ) 。 鈔 通称・中統鈔 という交鈔が発行された 交鈔は基本貨幣で 金銀との兌換 交換 が保障されていた 元は紙幣の流通を押し進めた。南宋を征服して領土が拡大した時を契機に、交鈔が大量に刷られ、価値は下 落した。金銀との兌換が行われなくなってもなぜ廃れなかったかというと、当時塩は政府による専売制がし かれ、政府から塩を買う時に必要だったからである。 問3 B(銀) では という紙幣と銅銭を併用、金銀、銅銭を貨幣として利用することを禁止した。宝鈔の価値は徐々明
宝鈔 に下落した。宝鈔が使い物にならなかったこと、イスラム諸国やヨーロッパとの貿易が盛んになってこれら の国々が銀による決済を望んだことなどから、銀が通貨として用いられるようになった。 問4 A(一条鞭法) 明朝も民間の流れに抗し切れず、税金の納付に銀を使うことを認めた。これが一条鞭法である。これは清代 の地丁銀に発展する。 中国社会が必要とする莫大な銀は、16世紀後半以降は マニラで陶磁器や絹織物をスペイン商人に売って メ、 「 キシコ銀」を得るアカプルコ貿易で確保され、日本銀の流入もあった。 (1)の解説 問5 Dのヴァルダマーナは、ジャイナ教の開祖であるから「いくらなんでも・・」の問題である。 、 を参照せよ。 No23 No24 問6 C ツォンカパが開いたのは黄帽派。紅帽派は彼が批判した従来の勢力。 鄭玄 鄭 董仲舒 問7 Dの 、後漢の訓詁学者である。 は本当の文字ではない。 ちなみに前漢は 問8 朝鮮と日本は儒学が官学であることは周知の通りだが、その儒学の内容は、南宋の朱熹 1130-1200 が 。 ( ) 、「 」 大成した朱子学であることは忘れられがちだ 王陽明 王守仁 1472-1528が完成させた陽明学は 知行合一 を説き、明代後半に流行した。官学である朱子学に事実上対抗する思想として位置づけられる。日本の代表 的な陽明学者、中江藤樹 1608-48 は老いた母に孝行するため藩に辞職願いを出すも許可されず脱藩、思索と弟 子の指導に専念した。1837年武装蜂起を起こした大阪町奉行所与力大塩平八郎も陽明学者だった。 問9 李氏朝鮮(朝鮮王朝)の年代は1392~1910年。 (材質不明、現存せず)による印刷が行われたのは の高宗 の時である。し 世界最古の金属活字 高麗 位 1213-59 かし、高麗と言えば木版印刷による高麗版大蔵経の方が有名である。8万枚の版木は現存する。 。 年に太宗の命令で鋳 世界最初の銅活字による実用的な印刷(活版印刷)が行われたのは李氏朝鮮時代 1403 字所が設置され、多数の印刷本が実際に作られた。グーテンベルク(1450 年頃実用化)が最初ではない。ま た、朝鮮の銅活字は日本の慶長活字版のもとになった。 、 、 。 ちなみに Bの全真教は 中国 金代、 に道教の道士であった王重陽1113-1170によって創始された道教の一派 Cの訓民正音も確かに1446年、朝鮮、李氏朝鮮の世宗が制定した朝鮮固有の人工的な表音文字。王建は朝鮮 の高麗(こうらい)王朝の創始者(太祖 。) 918年高麗を建国、開城に都し王朝の基礎を確立した君主。 、 、 。 、 Dの仏国寺は 韓国 慶尚北道慶州に現存する華厳宗の寺院 新羅の訥祇(とつぎ)王(位417―458年)のとき 高句麗の僧我道が庵を結んだのに始まる。528年には大伽藍となる。兵火で焼失したのを、1659~1771年、李朝が一部再興した事実はあるが、問題文のように≪李氏朝鮮時代の創建≫ではない。 問10 「中体西用」と「変法自強」、「滅満興漢」と「扶清滅洋」は対でおぼえよう。 、 参照 07No229 07No230 「中体西用」 洋務運動(1860 年頃~曾国藩、李鴻章、左宗棠ら)の基本精神。儒教、皇帝独裁は維持し、 その道具として西欧近代の科学技術だけを摂取利用するというもので限界は明らか。 「変法自強」 清末。日清戦争の敗北を期に、政治改革を避けず、立憲君主政の樹立をめざす政治運動の名 称。康有為は公羊学の立場からこれを主張。1898 年6月、光緒帝に登用され変法を実施した が、西太后は1898年9月の戊戌の政変で政権を再度奪い、変法は終わった。康有為らは皇帝 の支持さえあれば社会変革は可能と考えていた。 義和団事件以降、西太后は自ら否定した変法とほぼ同じ改革、すなわち立憲君主政の確立を めざす改革に手を染めざるを得なくなった。これは「新政」ないしは「光緒新政 、あるいは」 清末新政とも言う。 「滅満興漢」 太平天国(1851-64)が掲げたスローガン 「反清復明」も同様。。 「扶清滅洋」 義和団事件(1900-01)で掲げられたスローガン。排外的だが真の敵が見えて来ている。 問11 辛亥革命後の中国の文化運動については 参照 以下に抜粋 07No309 二十一か条要求を受諾するという状況に危機感を抱く知識人たちは行動を起こした。
1)新文化運動
①【1: 】ちんどくしゅう 1879-1942 らは、雑誌「新青年」を刊行し、欧米の思想を紹介し、封 建制度と儒教思想を批判した。 1891-1962 1881-1936 ②【2: 】こせき は 口語文による創作を提唱し これに応えて、 、 【3: 】ろじん 、「 」「 」 。 。 は 狂人日記 阿Q正伝 などを発表した ・・・・これは口語文学ないしは白話文学運動と呼ばれる ③【4: 】りたいしょう1889-1927はマルクス主義を紹介した。2)五・四運動
第一世界大戦終了後、パリ講和会議において、中国代表は二十一か条要求の撤回など主権の完全回復を 求めたが、日本の反対で会議はこれを認めず。 山東省のドイツ権益が日本に譲渡されることを知った北京の学生たちは憤激し、4月には抗議行動を起 こした。これに触発され、5月4日、北京で始まった運動は全国に広まった。運動の性格は、既に反帝 国主義、反封建主義、軍閥打倒の全国的な民衆運動だった。・・・・これを【5: 】と言う。 ヴェルサイユ条約の調印を拒否せざるを得なくなった! 五・四運動の結果、中国は、 平和的な大衆運動が政府を動かした画期的な例である!1920年、親日派の軍閥政権倒れる! 陳独秀 胡適 魯迅 李大釗 五・四運動 1: 2: 3: 4: 5:【正解6】
正解と解説 ( ) 、 ( ) 、 ) ①C 27年 :もちろん ペルシア戦争 BC492年-BC479年 ではなく ペロポネソス戦争(BC431-BC404 である。 No10参照 ②C(トゥキディデスBC460?-BC400?):ヘロドトスBC484?-BC425?もほぼ同時代である。 No11参照 ③D(クレイステネスBC6 世紀末):No09参照 クレイステネスの改革は、BC508年。10部族制への移行、五 百人評議会、オストラシズムの創設。 ④C(プロタゴラス BC485-BC415):代表的なソフィスト。相対主義・主観主義の立場に立ち、普遍的真理 の存在を否定した 「人間が万物の尺度」と言った。。 ⑤B(アカデメイア :ソクラテス() BC469?-BC399)の弟子プラトン(BC427-BC347)が建てたのがアカデメ イア、その弟子アリストテレス(BC384-BC322)が建てたのがリュケイオン学園。ともにアテネにある。 B面参照 No11 ⑥C(ウパニシャッド :) No25 参照。祭祀万能に陥ったバラモン教の内部改革で、輪廻転生からの解脱とい う根本問題を提起した。なおAのリグ=ヴェーダは No21 参照。バラモン教の宗教的文献、ヴェーダの最古 のもの。Bのマヌ法典は、バラモン教、ヒンドゥー教の教義の支柱。Dの『シャクンタラー』はグプタ朝期 のサンスクリット語文学、詩聖カーリダーサの名作。 ⑦B マウリヤ朝 :( ) No23参照 アショーカ王はマウリヤ朝で カニシカ王はCのクシャーナ朝である。 、 。(「5 」 )。 。 「 」 、 。 0音順 に登場する Dのグプタ朝はヒンドゥー教成立期である Aの ナンダ朝 は 厳密にはナンダ国 その統治下で仏教とジャイナ教が成立した。 ⑧A(鳩摩羅什 くまらじゅう クマーラジーヴァ 344-413):亀茲出身の僧。インド留学を経て南北朝時代 の中国 「五胡十六国」の前秦( 五胡」の氐が建国、 「 351-394 都は長安)の涼州、次いで後秦( 五胡」の羌が「 建国 384-417都は長安)の長安に迎えられ、仏典35部294巻を漢訳し(これが旧約くやく)、これが中国大乗 仏教の基本経典となった。 No24 参照。ちなみにBの達磨は北魏時代の中国に来て禅宗を開いた高僧。Cの 法顕、Dの義浄は玄奘とともに整理しておこう。共通点は( )インドに留学したこと。( )帰国後仏典の漢訳1 2に努めたこと。( )旅行記を著したこと。3 東晋僧 歳にして戒律の原典を求めて、長安を 年出発、陸路6年かかってインドに 法顕 337?-422? 60 399 到達。グプタ朝期のインド、セイロンなどで学ぶ 、。 412年、海路で帰国 『仏国記』を著す。、 唐僧 年、国禁を犯して陸路長安を出発、ヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナの厚遇を 玄奘 602-664 629 受け、ナーランダー僧院に学ぶ。645年、陸路帰国 『大唐西域記』を著す。法相宗の開祖。。 唐僧 年広州を海路出発、ヴァルダナ朝崩壊後の混乱期(ラージプート時代 、ナーラン 義浄 635-713 671 ) ダー僧院に学ぶ。695 年海路で帰国 『大唐西域求法。 ぐほう高僧伝』を著す。帰路の途中、シュリーヴィジャ ヤ滞在中に『南海寄帰内法伝』を著す。 ★ナーランダー僧院は 「グプタ朝の、 4代王クマーラグプタ1世(在位415頃~454頃)のとき、仏教の教学研 究の中心として大学がたてられた (」 Microsoft エンカルタ総合大百科)とあるので、法顕がインドに着いた と思われる405年にはまだ存在しなかった。 ⑨B(大乗仏教 :紀元前後からおこった新しい仏教(クシャーナ朝期 。菩薩信仰をもとにすべての人間の) ) 救済をめざして広く民衆に受け入れられた。それまでの仏教は、上座仏教あるいは上座部仏教と言う。 ちなみにCのマニ教はササン朝ペルシア統治下でイラン人マニ(216-276/77)が開いた。後期ゾロアスター 教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、土着信仰が混淆した宗教。シャープール1世は保護したがワラフラン1 世は弾圧しマニも殉教した。東は中国(7世紀末に伝来 、西はイベリア半島に及ぶ伝道が行われた。回心前) のアウグスティヌスはマニ教徒であった。ボゴミル派、カタリ派への影響を指摘する説もある。 Dのラマ教は、チベット仏教の俗称。仏教と古来チベットにあった民間信仰のボン教とが融合し8~9世紀 に成立した。13世紀パスパは元朝王室の帝師となる。14世紀末にツォンカパが宗教改革を行い、厳格な戒律 実践を主張。弟子に黄帽(こうぼう)を着用させたので黄帽派と呼び、旧来の紅帽(こうぼう)派と区別する。 ツォンカパの後継者はダライ・ラマとして尊敬され、チベットの政治支配権も握っていた (現在は亡命中)。 ⑩B(ナーガールジュナ 2~ 3 世紀 :バラモン出身なんだけど仏教学者 『中論』を著し大乗仏教の理論を) 。 確立した。ちなみに、Aのヴァルダマーナはジャイナ教の開祖。Cのカーリダーサはインドグプタ朝期の詩 聖で『シャクンタラー』の作者。Dのハルシャ=ヴァルダナはインド、ヴァルダナ朝の開祖。