Title
鏡としての他者 : ブルータスの悲劇
Author(s)
川本, 真由子
Citation
英米言語文化研究 = British & American language and
culture(43): 71-86
Issue Date
1995-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10361
鏡 と し て の 他 者
− ブ ル ー タ ス の 悲 劇 一 川 本 真 由 子 真実の自己を知り、かつそれを正しく表現することの困難というテーマは、 シェイクスピアの劇作品において、時には、自己劇化や人間の自律性の問題、 あるいは価値の問題などと結びつきつつ、繰り返し現れる。シェイクスピア の創作歴のほぼ中ほどに位置する『ジュリアス・シーザー』(推定創作年代 1599-1600)においても、このテーマを見出すことができる。シーザーとブル ータスが、自ら課した役割を演じていることは、多くの批評家が指摘すると ころであるが、’この小論では、ブルータスを中心に、シェイクスピアの他 の劇作をも視野に入れつつ、シェイクスピアが上記のテーマをどのように描 いているかを見て行きたいと思う。 I 『ジュリアス・シーザー』の二、三年後に書かれた、トロイ戦争の英雄達 を風刺的に描いた『トロイラスとクレシダ』(推定創作年代1601-2)には、個 人がいかにして自己を知るかについて、ユリシーズがアキリーズに説く興味 深いくだりがある。しばし耳を傾けてみよう。 劇 の 冒 頭 、 慢 心 の あ ま り − と ユ リ シ ー ズ は 推 定 す る の だ が − ア キ リ ー ズは、連日戦場にも出ず自分のテントに引きこもったまま、友人のパトロク ラスに、アガメムノンやネスター等、ギリシャ軍の首脳陣の物真似をさせて 1J.L.Simmons,S"α〃espeare'sPc理"〃Wbγ雌TheRomanTragedies(Char-lottesville:UniversityPressofVirginia,1973)pp.86-94,姥原啓「シーザー とプルータスー性格と演技をめぐって」『シェイクスピアの演劇的風土』(日本シ ェイクスピア協会編、研究社、1977年)など。 71打ち興じている。そこでユリシーズはアキリーズのテントの前を通りかかっ た際、こんなことを言ってきかせる。 ...man,howdearlyeverparted, Howmuchinhaving,orwithoutorin, Cannotmakeboasttohavethatwhichhehath, Norfeelsnotwhatheowes,butbyreflection; Aswhenhisvirtues,shininguponothers, Heatthemandtheyretortthatheatagain Tothefirstgiver. (lU.iii.96-102)^ ユリシーズは、ある本に、個人の価値は他人という鏡によらなければ自覚で きないと書いてあると語る。アキリーズもその通り、と同意する。 Thebeautythatisbornehereintheface Thebearerknowsnot,butcommendsitself Toothers'eyes;nordoththeeyeitself Thatmostpurespiritofsense,beholditself, Notgoingfromitself... Ill.iii.103-107) 感覚の精髄とも言うべき目でも、自分から離れなければ自分を見ることがで きない、とアキリーズは言い、自分で自分の真の姿をとらえることの不可能 さについて勿論だと言う。そこでユリシーズはさらに最初のアイディアを敷 桁し、価値ある人物でも、その価値を他人に示さなければ、その価値はない 2AliceWalker,ed,7〉り伽sα"αCressida(TheNewShakespeare:Cam-bridgeUniversityPress,1957).以下、Z》り""sα"aCressi〃からの引用はこの版 による。
も同然だと述べる。 ...nomanisthelordofanything, Thoughinandofhimtherebemuchconsisting, Tillhecommunicatehispartstoothers; Nordothheofhimselfknowthemforaught Tillhebeheldthemformedinth'applause Wherethey'reextended... (111.iii.115-120 ユリシーズはここで、アキリーズに、その万人に優れた武勇を、テントの 中にしまい込まずに戦場で奮ってほしいという望みから、個人の値打ちとそ の鏡としての世間の評価というアイデアを持ち出しているのだが、このアイ デアはシェイクスピアにとって関心の深いものだったらしく、少し前に書か れた『ジュリアス・シーザー』においてもすでに重要な役割を果たしている。 劇の展開にそって、しばし見て行こう。 このアイデアがはっきり表明されているのは、キャシアスが、シーザー暗 殺の陰謀にブルータスを引き込もうと努力するくだりにおいてである。劇の 第一幕第一場では、護民官であるマララスとフレーヴイアスの、シーザーの 独裁の可能性に対する反感が描かれる。そして第二場で、ブルータスとキャ シアスは次のような会話をかわす。 as. Bγ〃. Cos. Tellme,goodBrutus,canyouseeyourface? No,Cassius;fortheeyeseesnotitself Butbyreflection,bysomeotherthings. 'Tisjust; Anditisverymuchlamented,Brutus, Thatyouhavenosuchmirrorsaswillturn Yourhiddenworthinessintoyoureye,
Thatyoumightseeyourshadow... (I.ii.50-57)3 ブルータスに、自分で自分の顔を見ることができるかと問いかけたキャシア スは、ブルータスが否と答えると、そうだろう、君は自分自身の値打ちに気 付いていないと言う。そしてさらに、ローマの多くの名士達が、ブルータス に己れの値打ちに気付いてほしいと思っている、と言う。ブルータスはキャ シアスのこの言にやや警戒して次のように答える。自分の中にないものを捜 し出させようとして、自分をどのような危険に引きずりこもうとしているの か、と。 Intowhatdangerswouldyouleadme,Cassius, Thatyouwouldhavemeseekintomyself Forthatwhichisnotinme? (I.ii.62-64) そこでキャシアスは、自分がブルータスの鏡になろう、そしてブルータス自 身がまだ知らないブルータスの姿を、あるがままに見せてやろうと言う。 Therefore,goodBrutus,bepreparedtohear; Andsinceyouknowyoucannotseeyourself Sowellasbyreflection,I,yourglass, Willmodestlydiscovertoyourself Thatofyourselfwhichyouyetknownotof. I.ii、65-69) 3T.S.Dorsch,ed,〃""sCaesar[TheArdenShakespeare](London: Methuen,1955).以下、ノ"""5Caesαγからの引用はこの版による。
鏡 と し て の 他 者 ブルータスが近頃悩みを抱えていることは彼自身がこの会話の直前に告白 している(I・ii.36-39。その中で彼が言う、相争う感情とは、シーザーに 対する愛情と、ローマを憂える気持ちであると考えられる。キャシアスはそ こにつけ込み、自らの心中にあるシーザー暗殺の意図を、ブルータス自身の それとして見せるつもりのようである。そしてブルータスは、この場ではそ の鏡の中を覗き込むのをさし控えるものの、そこに何があるかは察している ようである("Whatyouwouldworkmeto,Ihavesomeaim"I.ii. 161)。シーザー暗殺の可能性は、ブルータスの心の奥底にすでに存在してい たかもしれない。しかしそれを明確な概念とし、かつ実行に必要な強い情念 をかきたてるのはキャシアスである。キャシアスはブルータスを「高潔な」 ("noble"I.ii.61)ブルータスと呼び、かつてローマが暴君タークイン を追放した際の主導者であったブルータスの祖先のことを思い出させる。そ して、現代を汚辱の時代と呼び、「ローマよ、お前は高潔な血統を失ってし まったのだ」("Rome,thouhastlostthebreedofnoblebloods!"I.ii. 149)と嘆いて見せる。キャシアスは、人も我も認めるブルータスの属性、 「高潔な」という言葉を繰り返すことによって、ブルータスにその言葉を行 動で示すよう誘いかける。 この一幕二場での、キャシアスの扇動は非常に巧みである。"noble"とい う言葉を繰り返す一方で、シーザーとブルータスの名前を比べて見せ、競争 心をあおりたてる。 BrutusandCaesar:whatshouldbeinthat“Caesar"? Whyshouldthatnamebesoundedmorethanyours? Writethemtogether,yoursisasfairaname... (1.ii.140-142) キャシアスはシーザーがかつてダイバー川で競泳をした際の体力と勇気のな さ、スペインで熱病にかかった時の意気地のなさを語り、シーザーを対抗可
能な普通の人間にまで引きずり落とす。そしてブルータスに、シーザーの他 にもう一人の競争相手を−それは理想像でもあるのだが−さし示す。 TherewasaBrutusoncethatwouldhavebrook'd Th'eternaldeviltokeephisstateinRome Aseasilyasaking. (I.ii、157-159 名も同じ、もう一人のブルータス、その昔タークィンを追放してローマを圧 制から救った、今のブルータスの祖先にあたる人物を、キャシアスはライヴ ァルとしてさし示す。このキャシアスの話の間にも、ブルータスは遠くから 聞こえて来るシーザーに対するローマ市民の歓声に耳をそば立て、二度まで もその歓声の意味について心配気に言及する。「まさかシーザーが王に選ば れたのではあるまいな」、「この喝采はきっと、何か新たな栄誉がシーザーの 頭上にかさねられたためのものだろう」(I.ii、78-79,131-132)と。 キャシアスが羨望の人であるのは疑いがない。しかしブルータスはどうな のか。ブルータスの心の奥底に、シーザーに対する羨望があったかどうか。 それは暖昧にされているが、キャシアスがさし示した二人のライヴァル、シ ーザーともう一人のブルータスのうち、後者がいかにブルータスの心に深く 食い込んだかは、ブルータスが二幕一場の独白において言及しているII. i.53-54)ことからも推測される。キャシアスは自ら鏡となって「高潔な」 ブルータス像を見せる。それは「高潔な」血統が命じるように、ローマを圧 制者から救う男の姿である。ブルータスはその美しい姿を見つめ、果たして シーザー暗殺が本当に正しい行為なのかといったことにはほとんど注意を払 わない。 理想の自己の姿に魅入られた男はもう一人、ほとんど滑稽なほどの描き方 でこの劇中に見出される。それは他でもない、シーザーである。シーザーは キャシアスの羨望に気がついているが、恐れてはいない。何故なら自分はシ ーザーだから、と言う。
WouldhewerefatterButIfearhimnot: Yetifmynamewereliabletofear, IdonotknowthemanIshouldavoid SosoonasthatspareCassius Suchmenashebeneveratheart'sease Whilestheybeholdagreaterthanthemselves, Andthereforearetheyverydangerous. Irathertelltheewhatistobefear'd ThanwhatIfear;foralwaysIamCaesar. (I.ii.195-198,205-209) あるいは運命の三月十五日、引きとめる妻のキャルパーニアに、「危険とお れとはいわば双子のライオンだ。おれのほうが兄であるだけいちだんと恐ろ キヤ しいoシーザーは出かけるぞ」(11.ii.46-48)と大言荘語する。あるいは議 ピ ト ル 事堂の前で、アーテミドーラスが、シーザーの身にかかわることだと言って 危険を知らせる手紙を渡そうとするのへ、「おれの一身にかかわることであ れば最後でいい」(111.i.8)と、太っ腹なところを見せる。シーザーは偉大 な、神のごときシーザーを演じている。てんかんという病持ちであり、片方 の耳が聞こえないという肉体上のハンディキャップも、キャシアスのやせて 飢えた顔つきや、キャルパーニアの恐ろしい夢がさし示す身の危険も、彼の 演技への−あるいは彼が自己表現だと信じているものへの一一意欲を削ぐ ことはできない。この点で、シーザーは、実際家として描かれているキャシ アスやマーク・アントニーよりも、はるかにブルータスと共通点を持ってい る。自己規定によって生きる人間として、シーザーは、ブルータスの同類で あり、この劇中で、ブルータスの生き方をより派手な言動でもって示唆し、 説き明かす役割を担っていると考えられる。 さて、キャシアスの掲げた鏡の中に、ローマを暴君シーザーの圧制から解 放する者という自分の姿を見たブルータスは、さらに、ローマ市民からの複
数の手紙の中に同じ姿を見る。実はこれらの手紙はキャシアスが書いたもの で、筆跡を変えて別々の市民から来たと見せかけたものであるが、ブルータ スはまんまとひっかかってしまう。その手紙には、「ブルータス、なぜ眠 る?目を覚ませ、おのれを見よ」(I1.1.46)とある。そしてその時ブルータス が見るのは、自分の祖父の姿一理想像一と重なった自分の姿である。 ShallRomestandunderoneman'sawe?What,Rome? MyancestorsdidfromthestreetsofRome TheTarquindrive,whenhewascall'daking. ...ORome,Imaketheepromise, Iftheredresswillfollow,thoureceivest ThyfullpetitionatthehandofBrutus. (II.i.52-54,56-58) ブルータスは、ローマの解放者となることを誓う。 キャシアスは、自分が鏡になろうと言いつつ、実はブルータスのアイデン デイテイを形成しようとしたのだ。『トロイラスとクレシダ』にも、類似の エピソードがある。ユリシーズがアキリーズに対して、ギリシャ側の諸将と 語らって、ちょっとした鏡を掲げてみせる。その鏡は、実際よりもアキリー ズの姿が小さぐ映るよう仕掛けがしてある。つまり、皆でアキリーズのテン トのそばを通りかかるが、まるで相手がつまらぬ者のように挨拶もせずに無 視する、というものだ。ユリシーズはアキリーズがこれに怒り、奮起して、 戦場でその力侭を人々に見せつけようという気になってくれることを狙って いる。ユリシーズの掲げた鏡は明らかに他者操作のための仕掛け鏡である。 キャシアスのそれも、とりわけ市民からの偽手紙はあきらかに他者操作を意 図した仕掛け鏡である。しかし、「自分で自分の姿が見えぬ目」の悲しみは、 自分というものを想定してそれに従って自己表現することしかできず、また 自分の姿を見るには他人の目という鏡に結ぶ像を見るしかないということで ある。ブルータスは空中に描く自画像と、周囲の人々−キャシアスや市民
( と 彼 が 思 っ て い る 人 々 ) − の 期 待 す る 像 を 判 断 の 根 拠 と し て 行 動 し て し ま う。 IT シェイクスピアの描くローマでは、政治は演劇である。ローマ市民を観客 とした舞台で、人々は誰が一番ローマを愛しているか、誰が一番ローマから 愛 さ れ て い る か を 競 う 。 シ ェ イ ク ス ピ ア の 創 作 歴 の か な り 後 期 に 位 置 す る 『コリオレーナス』(推定創作年代1607-8)においても、正しい自己表現の問 題は大きなテーマである。 コリオレーナスは、執政官になるためには謙虚のしるしである粗末な衣を 身につけて広場に立ち、ローマのために戦って受けた傷跡を市民に示して、 彼らの推薦を得なければならない。しかし彼は内心では、自分の値打ちに当 然のものを受け取るのに、自分が軽蔑し、馬鹿にしきっている市民達の推薦 など何故要るのかと思っている。そこで我‘慢して試みてはみたものの、「心 から推薦を頼む」という演技は非常に出来の悪いものである。護民官達にた きつけられた市民達は、一たん同意した推薦を取り消し、怒り狂って広場に 押しかけて来る。コリオレーナスの母ヴォラムニアは彼に、「こう手をさし のべ、こう彼らに近づき、こう膝を敷石につけて」(III.ii.73-75)<と演技 の指導をする。そこで彼は民衆に頭を下げてその好意を勝ち得る演技をしよ うと再度心を決め、広場へ出かけてゆくのだが、自分の「真実をみずから汚 し、からだの動き一つ一つでもって消しがたい卑しさを心に教えるようなこ と」(ffl.ii、121-123)が、彼にはどうしてもできない。彼は民衆への軽蔑を 露骨に表してしまう。そのため、さらなる民衆の怒りを買い、追放処分を受 ける。護民官達にとって、コリオレーナスが民衆を愛していないと彼らに納 4PhilipBrockbank,ed.,Cb油"""s[TheArdenShakespeare](London: Methuen,1976).
得させるのは赤子の手をひねるよりたやすいことである。 『ジュリアス・シーザー.!においても、ローマ市民を観客としての政治的 演劇、「ローマヘの愛情コンテスト」とでも言うべきものが繰り広げられる。 「我々は犠牲を捧げるものになろう、屠殺者ではなく」("Let'sbesac-rificers,butnotbutchers"II.i.166)とブルータスは言う。そしてシー ザーの血を流すという自分達の行為がやむを得ないものであって、私怨に発
するものでないと「民衆の目に映れば」("Whichsoappearingtothe
commoneyes"II.i.179)、自分達は屠殺者ではなく粛清者と呼ばれる だろうと言う。ブルータスも、民衆の目にどう映るかが重要であることを心 得ている。一幕二場で、シーザーが広場で王冠を捧げられ、三度拒絶した時 の民衆の様子を観察していたキャスカはこう言った。 ...Ifthetag-ragpeopledidnotclap himandhisshim,accordingashepleas'danddis-pleas'dthem,astheyusetodotheplayersinthe theatre,Iamnotruman. I.ii、255-258) 民衆は芝居小屋で役者を見ているように、シーザーが気に入れば拍手喝采す る、気に入らねばやじり倒す。ブルータスも政治的行動が演劇に似ているこ とを知っている。そこで彼はシーザー暗殺の朝、同志達と別れる時に演劇の 比噛を使って激励する。役者達を見習って毅然たる落ち着きをもって振る舞 ってくれ、と彼は言う。 Goodgentlemen,lookfreshandmerrily Letnotourlooksputonourpurposes, ButbearitasourRomanactorsdo, Withuntir'dspiritsandformalconstancy. 11.i.224-227)シーザーはかつてキャシアスについて、「ああいう人間は、おのれよりも偉 大な人物を見ると、きまって心がおだやかでなくなってくる」(1.ii. 205-206)と、キャシアスの"envy"を、存在そのものに対する羨望とでも言 うべきものを見抜いた。ブルータスの心の中にそれと同質のものがあったか ど う か は 不 明 だ が 、 も し も な か っ た に せ よ 、 そ の よ う な 人 物 を 同 志 に 加 え な がら、かつ"butchers"にはなるまい、"sacrificers"になろうと意図するこ とには無理がある。実体は必ずしもそうではないのに、民衆の目に"sac-rificers"として映るようにしようと試みるのは明らかに偽隔である。5そし て、彼らの"sacrificers"に見えようという演技は、アントニーの演説の力 もあって、ものの見事に失敗する。アントニーは、シーザーの方が、ブルー タス達よりも市民を愛していたと説き、信じ込ませるのに成功する。 アントニーの演説はあまりにも有名であるが、少しだけ見ておくことも無 駄ではあるまい。この演説の特徴は、"honourable"(「名誉を尊ぶ」)という 言葉の繰り返しであるが、その時、アントニーは、"honourable"であるか ら、とか、"honourable"であるにもかかわらず、とは言わない。彼は非常 にゆるい接続詞である"and"を使う。アントニーは、シーザーは自分にと っては誠実で公正な友であったと言う。そしてこんなふうにつけ加える。 ButBrutussayshewasambitious, AndBrutusisanhonourableman. ffl.ii.88-89 アントニーは、シーザーの徳を讃えては、そのあとにこのフレイズを繰り返 す。アントニーは、"honourable"という言葉を繰り返しつつ、次第にその 言葉の価値を艇めて行く。八回も繰り返された頃にはその言葉はもうすっか 5Ren6Girard,"LET'SBESACRIFICERSBUTNOTBUCHERS, CAIUS:Sacrificein〃""sCaesai>¥AThea"γofEnvy(OxfordUniversity Press,1991),p.217.
82 川 本 真 由 子 り内容を失った、空っぽのものになっている。アントニーが、ブルータスの ような"honourable"な人間が、シーザーには王になろうという野心があっ たというなら、それは本当なのだろうと皮肉を言いつつ、実はシーザーの野 心を否定しているのは言うまでもない。しかし、次第に空虚な響きを増して ゆく、この"honourable"という言葉と、"and"というI愛昧な接続詞は、実 はブルータスの本質をも見事に言いあてているように思える。確かに彼は "anhonourableman"ではあるのだ。命よりも名誉を重んずる人間である ("Ilove/ThenameofhonourmorethanIfeardeath."I.ii.87-88) と、彼が思い込んでいるという点において、それが自分のidentityである と信じているという点において、彼は"anhonourableman"なのである。 従ってアントニーは、彼が"honourable"でないとは一言も言わない。ただ その言葉はアントニーの演説の中でどんどん内容を失って形骸化して行く。 そして、民衆は叫ぶ。 Theyweretraitors・Honourablemen 111.ii.155) キャシアスには自己偽購はない。彼は自分の"envy"に気づいているし、 ブルータスを暗殺計画に引き込む意味もわかっている。キャスカが、「我々 にあっては罪と見えるようなことも、あの男の支持さえあれば、まるで素晴 らしい錬金術だ、たちまち美徳に変わる」(I.iii.158-160)と言うと、その 通り、と同意する。キャシアスはシーザーに対して、あるいはブルータスに 対しても−キャシアスは「シーザーはおれを嫌い、ブルータスを愛してい る、もしおれが、ブルータスで彼がキャシアスであれば、おれならそう簡単 に甘言に乗ぜられないだろう」(I.ii.310-312)と言う−裏切者("trai-tor")であったかもしれないが、自分に対してはそうではなかった。しかし ブルータスについては、一抹の暖昧さが拭えない。彼は"anhonourable man"を演じようとするあまり、あるいはキャシアスの掲げてみせた鏡に惑 わされたために、本当の自分を見失ない、結果的にローマばかりでなく、自
鏡としての他者 83 分に対しても裏切者になってしまったのではないか。一幕二場で、遠くから 聞こえる歓呼の声に耳をそば立てる彼のうちに、ローマ市民に絶大な人気を 誇るシーザーへの羨望は本当になかったのか。‘その羨望があるいは、キャ シアスにつけ入る隙を与え、陰謀に引き入れることを可能にしたのではない か。アーテミドーラスがシーザーに手渡そうとした手紙の中で、ブルータス の名が他の陰謀家達のそれとまったく同列に置かれていることは、あるいは シェイクスピアがブルータスの"envy"を暗示しているともとれる。アーテ ミドーラスはそれを読み上げた上で、次のように言う。 Myheartlamentsthatvirtuecannotlive Outoftheteethofemulation. 1I.iii.11-12 "emulation"とは"enviousrivalry"のことである。?もしもブルータスに "envy"があり、彼がそれを自覚しなかったとすれば、彼の自己認識は不完
全である。そして、彼が自己のアイデンティティだと信じる"anhonoura-bleman"を政治的場で演じようとして観衆にそのように見えなかったということは、あるいはその失敗は誤った自己認識から必然的に由来したもので
あったのかもしれない。 アントニーは、フイリパイの戦場で勝利をおさめたあと、ブルータスを追 悼し、その美徳を讃える。 Thiswas、thenoblestRomanofthemall.6Girard,"OCONSPIRACY!:MimeticSeductionin〃""sCaesa^¥A
鋤”蛇γofEnvy,p.188. 7T.S.Dorsch,ed.,JuliusCaesar,p.58.Alltheconspiratorssaveonlyhe DidthattheydidinenvyofgreatCaesar; Heonly,inageneralhonestthought Andcommongoodtoall,madeoneofthem. Hislifewasgentle,andtheelements Somix'dinhim,thatNaturemightstandup Andsaytoalltheworld,"Thiswasaman!" (V.v.68-75 ブルータスを除くすべての陰謀家はシーザーに対する"envy"からやったこ とだが、彼だけは私心をまじえず、万人のためによかれと思ってやったのだ、 とアントニーは言う。しかしここに描かれた姿は、ブルータスがそうあろう とした姿、自分がそうであると思った姿であり、劇全体がさし示すブルータ ス像とは少しずれる。アントニーの賛辞は、この劇の種本であるプルターク 英雄伝のブルータス像の方によりふさわしく思える。たしかにシエイクスピ アはプルタークをほとんど忠実に追っている。しかし彼はそこに、「自分自 身を見ることができない目」についての短い会話や、キャシアス自身が筆跡 を変えて書いた数通の手紙一プルタークではブルータスの友人や同胞8が 書いたとなっている−あるいはシーザーの空威張りのセリフ、政治と演劇 の親近'性への折々の言及などを挿入することによって、ブルータス像を微妙 に変貌させた。そしてシェイクスピアが全く意図的にこれらをやっているこ とは疑いがない。何故なら、このような変更によって、そこにいつもながら のシェイクスピアの問題意識が浮かび上がって来るからである。それは、真 実の自己を知り、かつそれを正しく表現することの困難という問題である。 ハムレットはこの問題を抱えていたと思われるし、9オセローの自己劇化は 8GeoffreyBullough,Naγ7tz胸eα"aDm”α"cSourcesofSルα々g妙gα超 Vol.V.(London:RoutledgeandKeganPaul,1964),p.95. 9拙論「『ハムレットjにおける「演技」と「誠実」」(大阪府立大学英米文学研 究会発行『英米文学』第34号,1986).
鏡 と し て の 他 者 T.S.エリオットが指摘した通りである。コリオレーナスは、他人から押し つけられる演技を排して、あくまでも自分自身であろうと苦闘した。'0そし て『トロイラスとクレシダ』においては、絶対的価値(その物自体の価値)と 相対的価値(世間の評価)の関係という、この問題と深く関連するテーマが追 求されている。 妻の不吉な夢や数々の前兆によって引き起こされた人間らしい恐‘怖心を無 キ ヤ ピ ト ル 理矢理押さえつけ、「恐れを知らぬシーザー」を演じるため議事堂へ出かけ て行って惨殺されるシーザーは痛ましくも滑稽である。一方ブルータスは 「命よりも自由を重んじる人間」、「圧制を倒し祖国を解放する者」という自 画像に取り穂かれたためにキャシアスの扇動に乗ってしまう。そして愛され ていたはずの市民達から反逆者の汚名を浴びせかけられ、やがて祖国の敵と して、冷徹な実際家であるアントニーとオクテイヴイアス・シーザーに滅ぼ されてしまう。シェイクスピアは、大筋ではプルタークを忠実に追う一方で、 い か に も シ ェ イ ク ス ピ ア 的 な 人 物 達 を − シ ー ザ ー と ブ ル ー タ ス を − 生 み 出した。そしてこれをするに当たっての彼の関心事は、彼の他の劇にも様々 に重点を変えながら現れて来る、アイデンティティと自己表現の問題である。 この劇には、二種類の演技者、即ち、演技を演技としてはっきりと認識し、 他者を操作するための手段として使う、キャシアスやアントニーのような人 間一アントニーは、ローマ市民にシーザーの遺産について話し、ブルータ スー派への反感をあおっておきながら、次の場ではその配分額を少しでも削 減できないものか思案している−言わば表層の演技者達と、シーザーやブ ルータスのような、自らが選びとった役割を自らのアイデンティティと信じ、 命がけで演じ通そうとする、言わば深層の演技者達がいる。そして多分シェ イクスピアがそうであったと思われるように、我々がより関心をひかれるの は、前者よりも後者なのではないか。それはおそらく、「自分自身を見るこ 10拙論「『コリオレーナス』研究一自己、社会、そして自然」(大阪府立大学 英米文学研究会発行『英米文学』第39号,1991).
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