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禅研究所紀要 第33号 009長谷部幽蹊「聚雲派法化の展開」

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 一 淸 初 動 乱の 頻 発と 聚 雲 派 並び に 周 辺の 動 向 1 蜀 地 兵 寇の 余 燎 中 国の 歴 史 上、 強 大 化し た 政 治 勢 力は 覇 権を 確 立す べ く 彼 此 攻 防を 繰り 返し て き た が 、 そ れ に 随 伴し て 生 起す る 破 壊、 兵 燹、 殺 戮 等に よ っ て 無 辜の 民 衆だ け で な く 、 方 外に 身を 置く 僧 徒や 仏 寺も 禍 乱に 巻き 込ま れ る こ と と な り 、 程 度の 差こ そ あ れ 犠 牲を 蒙る こ と を 免れ ず 、 平 穏 裡に 教 化 活 動を 押し 進め よ う と す る 各 宗 教 団は 、 し ば し ば 冷 厳 苛 酷な 現 実に 苦し い 対 応を 余 儀な く さ れ て き た の で あ っ た 注( 1 ) 。 四 川に お け る 明 末 清 初 期の 動 乱に つ い て は 、 張 獻 忠、 耿 繼 茂の 例を 挙げ て 、 先に 少し く 関 説す る と こ ろ が あ っ た が 、 以 下そ の 余 党の 動 向に つ い て 付け 加え て 述べ る こ と に す る ( 2 ) 。 張 獻 忠の 大 西 国が 蜀の 成 都に 樹て ら れ 組 織 化が 進め ら れ る 間、 部 下の 将で そ の 義 子た る 孫 可 望( ? - 一 六 六〇 ) 、 李 定 國( 一 六 二 一 - 一 六 六 二) 、 劉 文 秀( ? - 一 六 五 八) 、 艾 能 奇( ? - 一 六 四 七) 等が 、 そ れ ぞ れ 平 東、 安 西、 撫 南、 定 北を 以て 任と し た 四 将 軍に 任ぜ ら れ 、 雲 南、 貴 州 一 帯の 地に 出で 抗 清の 戦い を 展 開し た 。 獻 忠の 死 後 彼 等は 諸 将と 共に 大 西の 余 部を 率い て 四 川 省の 重 慶を 攻 撃し 、 守 将 曽 英( 一 六 二 一 - 一 六 四 七) を 屠り 去っ た 。 そ の う ち 孫 可 望 ( 3 ) は 永 暦 六 年( 一 六 五 二) 、 両 路に 大 軍を 派し て 大い に 清 軍を 打ち 破り 、 反っ て 桂 王( 一 六 二 三 - 一 六 六 二) を 援け て 秦 王に 封ぜ ら れ 、 一 時 声 望が 高か っ た が 、 結 局 淸の 軍 門に 降

化の

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) り 、 の ち 義 王に 封ぜ ら れ て い る 。 一 方 劉 文 秀は 、 初め 川 南に 戦っ て 少し く 勝 利を 収め 、 敍 州、 重 慶を 経て 成 都を 包 囲し 、 保 寧に 至っ た が 、 淸 軍の 破 る と こ ろ と な り 、 貴 州よ り 昆 明に 至っ て 桂 王に 従い 、 蜀 王 に 封ぜ ら れ た が 、 病い を 得て 昆 明に 卒し た ( 4 ) 。 ま た 李 定 國は 勇 猛を 以て 聞え た 将 軍で 、 桂 王を 貴 州に 推 戴し 、 黎 平、 湖 南の 鰺 州、 そ の 南 靖 州、 武 岡、 寶 慶 等、 諸 方に 赫々 た る 戦 果を 収め 、 定 南 王 孔 有 德 ( 5 ) を 破っ て 自 焚せ し め た 。 か く て 廣 西、 四 川、 湖 南の 三 省の う ち 、 淸に 叛い て 南 明に 降る 者 多く 、 一 時そ の 兵 威は 四 隣に 振っ た 。 の ち 孫 可 望は 帝を 称し て 自 立の 道を 歩む こ と と な っ た の で 定 國は こ れ と 袂を 分ち 、 次 第に 相 反 目す る に 至っ た 。 た だ 定 國は そ の 後 戦う も 利あ ら ず 、 淸 軍に 連 敗を 重ね 、 雙 河、 次い で 景 線に 拠っ て 恢 復の 機を 窺っ た が 遂に 望み を 失い 、 康 熙 元 年 疊 臘 軍 中に 憤 死し た ( 6 ) 。 い ま 一 人の 将 艾 能 奇は 、 四 川の 東 辺よ り 雲 貴 方 面に 入り 、 昆 明を 拠 点と し て 南 明を 援け 淸に 抗し て 戦い 、 順 治 四 年( 一 六 四 七) 兵を 領し て 四 川の 南 境 東 川に 土 司を 討た ん と し て 交 戦 中、 箭に 当た り 命を 殞 ( 7 ) し た 。 時 期は 前 後す る が 、 順 治 十 六 年、 淸 朝は 靖 南 王 耿 繼 茂に 命じ て 四 川 一 円を 、 翌 十 七 年に は 福 建を 鎮 定せ し め た 。 繼 茂は 康 熙 二 年に 金 門か ら 廈 門ま で を 掌 中に 収め た が 、 康 熙 十 年に 卒 去し た ( 8 ) 。 康 熙 十 八 年、 先に 寧 夏の 平 定に 功の あ っ た 趙 良 棟( 一 六 二 一 - 一 六 九 七) は 、 精 兵を 率い て 漢 中、 興 安を 抜き 、 勢 い に 乗じ て 四 川に 兵を 進め 、 龍 安 府 綿 竹 県に 戦っ て 勝 利し 、 康 熙 十 九 年に は 成 都を 陥れ 淸の 治 下に 置い た ( 9 ) 。 こ の よ う に 明 淸の 交、 四 川の 地に は 農 民 反 乱 軍、 南 明・ 淸 朝 等 三 軍が 入り 乱れ て 攻 防を 重ね 、 一 進 一 退を 繰 返し た こ と か ら 住 民は 戦 禍の 被 害を 免れ 得な か っ た 。 同 様に 仏 寺 の 毀 損も 避け 難い 事 態で あ っ た と 思わ れ る 。 張 獻 忠の 乱で は 四 川 盆 地と 中 部 山 岳 地 帯が 蒙っ た 惨 禍は 殊に 甚だ し い も の で あ っ た と さ れ て い る が 、 四 川 東 部に は こ れ に 次い で 譚 文 譚 宏 兄 弟に よ る 兵 乱が 生 起し て お り 、 さ ら に 三 藩の 乱に よ っ て 四 川 盆 地と 湖 北、 陜 西、 四 川 三 省 交 界の 山 地は 荒 廃そ の 極に 達し た と い わ れ て い る 。 し か し こ の 乱が 終 熄を み た 康 熙 二 十 年 以 後に は 、 政 府が 民を 招き 入 れ て 荒れ た 土 地を 開 墾せ し め 、 鋭 意 復 旧を 図ら ん と し て 、

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 「 入 籍 四 川 例」 を 制す る な ど 対 策を 講じ た の で 、 治 安 上の 不 安は 一 掃さ れ る に は 至ら な か っ た も の の 、 人 口は 漸く 増 加 の 一 途を 辿る こ と と な っ た ( ) 。 こ の 間に お け る 仏 寺 損 壊の 実 情と 僧 衆 達が 、 打ち 続く 于 戈の 厄 難に ど の よ う に 立ち 向か い 対 処し よ う と し た か に つ い て 以 下に 要 約し て 述べ る こ と に し た い 。 と こ ろ で 聚 雲 一 門に お い て 、 明 末 清 初の 兵 乱の 禍 殃を 蒙 る 度 合い が 甚だ し か っ た の は 、 凡そ 第 二か ら 第 四 世 代に 属 す る 師 僧 達で あ っ た 。 た だ そ の 所 住 地 域の 如 何に よ っ て 差 違が 存す る こ と は い う ま で も な い 。 鐵 壁 慧 機の 罹 難に つ い て は 先に 少し く 言 及し た の で あ る が 、 さ ら に そ の 後の 動 静 に つ い て 補 足 的に 付 言す る 。 多 少の 重 複に つ い て は 寛 恕を 請う 。 順 治の 末 年、 鐵 壁 下の 檀 越の 一 人 向 化 侯 潭 公は 、 獻 賊の 乱 後 全 蜀に 孑 遺あ る な く 、 刀 頭 劍 下に 一 命を 亡ず る 者が 居 多に 上る と い う 事 実に 念い を 致し 、 水 陸 会を 起て 薦 悼の 事 を 為さ ん と し て 鐵 壁に 諮っ た 。 こ れ に 対し 師は 、 吾 輩は 弘 法を 以て 最た る も の で あ る と 教え て い る 。 弘 法す れ ば 生を 利す る こ と に な る 。 よ っ て 龍 蔵を 開 閲し 、 歳 計に 無 遮を 設 け 、 口 餓 鬼 幽 孤を 祓 済し て 、 冥 陽 均し く 利す る を 庶う も の で あ る と 告げ た 。 潭 公は こ れ を 善し と し 、 錦 江の 南 寳 勝 寺を 弘 揚の 地と し 俸 金を 捐て て 修 理し 、 十 月に は 龍 蔵を 開 い て 千 日の 禅 期を 啓 建す る こ と に な っ た と 伝え ら れ る 。 ま さ に 禅 門 本 色の 行 道の あ り 方を 指 示し た も の と い え よ う 。 聚 雲 祖 院も 兵 燹を 経て 数々 祝 融の 変に 遭 遇し て い る が 、 そ の こ と を 康 熙 二 年、 南 城 山に 鐵 壁の も と を 訪れ た 門 人が 告げ 報せ て い る 。 関 連し て 一 言す れ ば 聚 雲 廣 録は 、 崇 禎 十 六 年に 上 梓さ れ て い る が 、 度 重な る 兵 火に よ っ て 残 失 半ば を 過ぎ る の 有 様で あ っ た の で 、 師は 工に 命じ て こ れ を 重 刋 せ し め て い る 。そ れ は こ れ に 先 立つ 順 治 十 一 年の こ と で あ っ た 。 こ の た び 改め て 祖 院 頽 敝の 実 情を 耳に し た 師は 自ら 衣 鉢を 捐て 、 ま た 親し く 玉 山 等の 処に 赴き 旧 随の 門 弟 子 等に 呼び か け た と こ ろ 、 日な ら ず し て 施 物が 笥に 盈つ る に 至っ た の で 、 司 事に 付し て 鼎 新せ し め た と い う ( ) 。 け だ し 乱 世を 生き る 僧 衆の 心 構え や 現 実 的 対 応は 区々 で あ り 、 人の 運 命に も 吉 凶 禍 福が 伴う も の で 一 様で は な い ( ) 。 以 下 時 期は 多 少 前 後す る が 関 連す る 若 干の 事 例を 挙げ 、 兵 乱と 仏 法に つ い て 考 案す る 資け と し た い 。

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 聚 雲 派 第 四 世 大 笑 性 崇( 一 五 九 一 - 一 六 八 五) は 、 崇 禎 十 五 年、 寇 氛 四 方に 起こ り 城 郭 倶に 破れ 、 骨 肉 分 離し て 自 ら 孤 形と な る に 及ん で 急 遽 出 家を 志し た が 、 順 治 元 年 不 運 に も 賊の 嶌 な り 、 寇 営に 随っ て 更 変す る も の 七 處、 具さ に 出 生 入 死の 苦 楚を 嘗め た 。 順 治 九 年 高 梁 山に 卓 錫し た 三 山 來 公に 見え 、 五 雲に 受 具し 、 康 熙 六 年、 遂に 三 山の 印 証 を 得た の で あ っ た 。 乙 卯の 世 変に 際し て は 師を 迎え て 高 峰 に 帰っ た が 、 繁 忙を 極め る 院 事を 荷 担す る の を 余 儀な く さ れ た 。 大 笑の 如き は 正に 激 変す る 時 代の 波 涛に 翻 弄さ れ た 一 人と い え よ う 。 こ こ に い う 乙 卯と は 、 呉 平 西 三 桂、 耿 精 忠 等が 、 前 後し て 兵を 起こ し た 直 後、 康 熙 十 四 年の 事と み ら れ る が ( ) 、 関 連し て 後に 集 約し た 形で 述べ る こ と に す る 。 大 笑の 同 学 千 夫 性 一( 一 六 一 八 - 一 六 七 六) は 、 首め 鐵 壁に 参じ 、 次い で 興 龍 寺を 主っ て い た 三 山に 謁し た ( ) 。 該 寺 は 長 江を 距て る 数 日の 程に 位 置し て い た が 、 烽 烟 四 方よ り 起こ り 、 周 辺の 道が 閉 塞さ れ る の 状 態に あ っ た 。 師は 食 糧 を 裹め た だ 独り 行か ん と し た と こ ろ 、 或る 人が 、 参 尋は 元 よ り 志を 励ま し て 為す べ き こ と で は あ る が 、 冒 險し て 禍に 罹る と い う の は い か が な も の で あ ろ う か 、 と 暗に 再 考を 促 し た 。 そ れ に 対し 千 夫は 、 大 事 明ら か な ら ざ れ ば 生き た り と 雖も な お 死せ る が ご と き で あ る と 所 信を 披 瀝し 、 賊 隊に 随っ て 梁に 至っ た と 伝え ら れ て い る ( ) 。 兵 乱に 遭い 剣 樹 刀 山 下に 身を 置く こ と は 、 僧 徒が 生 死か ら の 透 脱を 身を 以て 証す る 絶 好の 機 会で あ る と い え よ う 。 翻っ て 思う に わ が 国で は 鎌 倉 時 代 以 降、 禅 僧が 武 人に 対し 出 離 生 死の 要 諦、 活 殺 自 在の 機 用を 即 妙に 現ず る 方 途を 指 示し て お り 、 死 生 禅に 大き な 関 心が 注が れ て き た ( ) 。 と こ ろ が 中 土で は 、 彼の 無 學 祖 元の 如き は し ば ら く 措き 、 剣 刃 上 の 用 心を 説い た 例は 寧ろ 僅 少で 、 清 朝 禅も そ の 例 外で は な い 。 次に 本 題に 関 連し て 仏 寺 復 興の 事 例に つ い て 瞥 見し て み よ う 。 2 仏 寺 伽 藍の 修 建 鐵 壁 慧 機は 、 康 熙 四 年 治 平 寺の 開 建を 当 事に 請わ れ 、 翌 年 治 平に 晉 住し た 。 治 平は 忠 州 東 門 外 一 里の 地に あ り 、 唐 代に は 龍 興 寺と 呼ば れ た 古 名 刹で あ っ た が 、 そ の 当 時 城 郭 に は 荊 榛 瓦 礫の 頽 基を 留め る の み で 、 人こ れ を 望ん で 畏 怖 を 生じ た 、 と い わ れ て い る 。 師は 先ず 経 樓 七 楹を 成じ 、 茆

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 舎 数 十、 重 閣 七 楹、 大 雄 寶 殿、 天 王 殿、 左 右 両 翼、 諸 閣の 陪 樓 腹 屋 雲 寮 等、 凡そ 叢 林と し て 欠け る 所は こ れ を 備え た と い う ( ) 。 康 熙 七 年、 鐵 壁が 化を 遷し た の で 、 同 年 法 嗣 竺 峰 幻 敏が 継 席し て 殿 塔を 修 造し 、 三 年に し て 煥 然 一 新し た と 伝え ら れ る 。 次い で 康 熙 十 一 年、 法 弟 普 門 顯が 師 席を 襲い 一 住 三 年に し て 退い た 。 そ こ で 再び 竺 峰が 請に 応じ て 入 院す る こ と と な っ た 。 当 時こ の 地 方に は 風 鶴 狼 烟 四 方に 起こ り 、 都 内の 人 士は 聚 散 常な く 、 禅の 衲 子も 彼 此 去 来し て 定め な し と い っ た 有 様で あ っ た 。 師は 挺 身し て 此を 守っ た が 、 そ れ は 良に 苦 心 多き こ と で あ っ た よ う で あ る 。「 野 雲 禪 師 行 状」 に は 師と 竺 峰が 拮 拠 経 営 三 十 余 年 諸 堂を 整 備し た と あ り 、 野 雲の 塔 銘に は 師が 衆と 共に 経 営に 与っ た こ と を い う ( ) 。 先 に 鐵 壁に つ い て 云わ れ て い る 本 院 重 興の こ と は 、 完 工の 後、 そ の 功を す べ て 師 一 人に 帰せ し た も の と 解す べ き で あ ろ う 。 と い う の は 短 日 月の 間に こ れ だ け 多く の 工 事を 仕 遂げ る の は 至 難の 業と 考え ら れ る か ら で あ る 。 し か も 一 旦 復 旧が 為 さ れ た 後も 回 禄の 災に 罹る な ど し て 興 建が 繰 返し 行わ れ た と み ら れ る の で あ り 、 落 成ま で に 三 十 余 年を 要し た と い う は 事 実で あ ろ う 。 竺 峰は 康 熙 二 十 六 年に も 治 平に 住し て い る 。 従っ て 三 住と い う こ と に な る 。 竺 峰は 、 康 熙 四 十 二 年、 翠 華 南 幸の 際、 別 庵と 共に 帝を 呉 門に 迎え 、 翌 年 別 庵の 奏 請に よ っ て 治 平は 「 振 宗 禪 寺」 の 勅 額を 賜う た 。 た だ 語 録 等に は 、 こ れ 以 前の 入 院 開 堂に も 「 勅 建 振 宗 禪 寺」 と 記さ れ て い る ( ) 。『 達 縣 志』 に 勅 賜を 庚 寅 三 十 五 年、 と し て い る の は 、 こ う し た 記 述に よ っ て 混 乱 が 生じ た 結 果で あ る と 推 測さ れ る ( ) 。 何れ に し て も 治 平 寺は 歴 代 住 持が 辛 苦し て 堂 宇を 修 建し 寺 門を 復 興し た こ と に よ っ て 、 勅 額を 受け る に 相 応し い 内 実を 整え 、 忠 南 第 一の 名 刹と し て 知ら れ 、 大 寺と 俗 称せ ら れ る に 至っ た も の で あ ろ う 。 な お こ の 地 域は 、 甲 寅よ り 辛 酉に 至る ま で 兵 戈 頻り で あ っ た 。 そ う し た 状 況の 下で 野 雲 映 公は 、 寺 中に 処り 恬 淡と し て 平 素と 全く 変ら な か っ た の で 、 さ し も の 暴 兵 達も 曽つ て 計を 逞し う す る こ と が な か っ た と い う ( ) 。 こ れ ま た 争 乱の 世 を 生き る 一 法で あ っ た と い え よ う か 。 先に い う 甲 寅、 辛 酉 は 、 そ れ ぞ れ 康 熙 十 三 年、 康 熙 二 十 年に 相 当す る 。 い ま そ の 間に お け る 聚 雲 派 諸 師の 動 向に つ い て 一 斑を 挙げ る と 、

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 乙 卯 十 四 年に 世 変あ り 。 こ の 時 大 笑 崇 公が 三 山 老 人を 迎え て 高 峰に 帰っ た 事は 前 述し た と こ ろ で あ る が 、 庚 申( 十 九 年) 春 ( ) 、 東 に 再び 世 変が 起こ っ た の で 衡 山 炳 公は 三 山 老 人に 随っ て 一 時 地を 移し 、 三 山は 江 南に 渡り 白 巖 寺に 難を 避け て お り ( ) 、さ ら に 康 熙 二 十 三 年の 春に は 旱 殃 久し く 続き 、 松 藩の 士 兵が 乱を 作し 周 辺の 四 野に 冦 掠が 多 発し た と さ れ て い る 。 こ の よ う に 世 情は し ば ら く 紛 然と し て い た が 乙 丑 丁 卯( 二 十 四、 二 十 六 年) の 間に 至っ て 海 宇 漸く 昇 平と な り 縉 紳も 化に 向か う こ と と な っ た 。 か く し て 緇 衲は 雲と 興こ り 、 法 席の 盛ん な る こ と 、 慶 忠 老 人が 治 平 寺 初 創の 時に 比し 、 な お 之に 過ぐ る も の が あ っ た と い う こ と で あ る 。 や や 降っ て 康 熙 三 十 五 年に 竺 峰 敏 公は 、 郡の 方 廣 禪 院を 兼 摂し て い る 。 本 院は 兵 乱に よ っ て 劫 火 烽 烟の 遷 革に 値い 、 象 龍は 散じ て 寂 莫、 棟 宇 眥 頽す る の 惨 状を 呈し て い た が 、 師が 広く 募 縁 し て こ れ を 復 旧し 、 や が て 大 観を 成ず る に 至っ た 。 と こ ろ で 明 代に 続き 淸 代に お い て も 、 寺 観 庵 院の 建 立に は 厳し い 制 限が あ り 、 そ れ が 『 大 淸 律 令』 第 八 巻、 戸 律 戸 役に 規 定す る と こ ろ で あ っ た の は 広く 知ら れ て い る ( ) 。 し か し 語 録 等の 記 述に よ る 限り 、 ほ と ん ど 全 面 的 改 建に 近い よ う に 受 取ら れ る 場 合で も 、 工 事を 差し 止め ら れ た よ う な 事 例は 見 当ら ず 、 却っ て 地 方 官や 有 力な 縉 紳が 捐 資し て 工を 援け て い る 例が 少な く な い の で あ っ て ( ) 、 建て 前と 実 際と の 間に 大き な 乖 離が 存す る よ う に 思わ れ る 。 語 録、 燈 録 等に は 、 度 牒 取 得の 手 続 経 緯に 関し て も 詳 細 な 記 述は 認め ら れ ず 、 た だ 結 果を い う の み で あ り 、 寺 刹の 修 建に 関し て も 実 際 以 上に 事 業を 誇 張し て 称 賛 記 述し て い る 場 合が 少な く な い 。 こ こ に 事 例の 一 端を 挙げ て 今 後の 課 題と し 、 修 訂に 備え 置き た い 。 3 明 末 淸 初の 禅 宗と 聚 雲 派 明 末 以 降の 禅 門 諸 派の 中で 最も 多く の 法 嗣を 出し 、 化 門 の 盛 大を 謳わ れ た の は 密 雲 法 派で あ る 。 こ の 一 門の 領 袖 密 雲 圓 悟( 一 五 六 六 - 一 六 四 二) は 、 六 座の 道 場に 拠り 、 そ の 説 法は 二 十 六 年の 長き に 亘り 、 化は 中 土に 溢れ 言は 天 下 に 満つ 、 と 称せ ら れ て い る 。 密 雲の 会 下は 三 万 指に 余り 、 剃 度の 弟 子は 優に 三 百 人を 超え た と い う 。 師の 法を 嗣い で 一 方に 法 幢を 竪 立し た 師 僧は 十 四 人に 止ま る が 、 次 世 代に 至っ て 嗣 法 者は 急 激に 増 加し 、 実に 四 九 五 名を 数え る 。 中

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) で も 破 山 海 明は 西 蜀に 開 法し て 九 十 名に 上る 得 法 者を 打 出 し て お り 、 木 陳 下が 八 十 四 名で こ れ に 次ぎ 、 費 隱 通 容も 六 十 五 名の 法 嗣を 擁し て い た こ と が 知ら れ て い る ( ) 。 た だ こ れ ら す べ て が 真 正の 法を 伝え る 者で あ る と の 確 証は 見 出し 得 な い が 、 少な く と も 法 嗣の 数に 関す る 限り 密 雲 一 派は 、 そ の 第 四、 第 五 世 代に 至る ま で 優 位を 保ち 続け 、 江 南の 地に 唱 道 最も 盛ん で あ っ た 。 し か し な が ら 博 山 元 來の 如き は 、 当 機 少な か ら ざ る も 付 法 聞く こ と な し 、 と い わ れ て い る よ う に 、 濫り に 印 記を 付す る こ と を せ ず 、 そ の た め 一 時 後 嗣 を 欠く と の 風 聞を 生ん だ ほ ど で あ る 。 費 隱 通 容も 伝 法の 事 を 重 視し 、 そ れ に 厳し い 条 件を 提 示し て い る が 、 そ れ ら は 共に 草々 伝 授に 伴う 濫 嗣の 時 弊へ の 反 省に 基づ く も の と い え る で あ ろ う 。 次に 聚 雲に つ い て み る に 、 そ の 俗 弟 子の 一 人 田 華 國は 、 師の 塔 銘を 撰し て い う 。「 今の 源 流を 沽り 衣 鉢を 付す る 者 濫 り に す る も 、 師の み は 独り 軽ん ぜ ず 。 授 受に は 必ず そ の 行 履 を 勘え 、 見 地 人 天に 範を 垂る る 者に し て 後に 之を 許す 」 と ( ) 。 以て そ の 伝 法が 厳 正に 行わ れ て い た ら し い 事が 推 測さ れ る 。 実 際 聚 雲が 入 室の 弟 子は 、 鐵 壁、 三 目、 鐵 眉の 三 公を 数え る の み で あ る 。 聚 雲は 、 巫 峽 錦 江の 隈に 光を み 跡を 晦ま し て 大 慧の 法 燈を 中 興し 、 師の 髓を 得た と 目さ れ た 鐵 壁 慧 機は 、 行 履 端 厳に し て 門 庭は 孤 峻、 壁 立 万 仭の 如し と 称さ れ て お り 、 能 く 全 機 大 用を 以て 説 法 利 生に 力め 、 一 派の 根 基を 確 立し た 。 得 法の 龍 象 十 八 人、 居 士 二 人を 数え 、 聚 雲 一 門は 、 そ の 第 三 世 代に 至っ て 漸く 嗣 法 者が 増 加す る 勢い を 示し た ( ) 。 し か し そ れ は 林 下に 英 俊 満 盈す る 密 雲 一 流の 派 演の 盛に 比 肩す べ く も な く 、 僻 陬の 地に 後れ て 成 立し た 弱 小 宗 派で あ る と の 評 価は 免れ 得な い と こ ろ で あ っ た に 相 違な い 。 鐵 壁の 会 下と し て 、 輩 字に 「 燈」 を 共 有す る 者は 二 十 二 名を 数え る が 、 師の 法を 得て 席を 分つ 師 僧は 、 石 樓 昱、 眉 山 甫、 衡 山 炳、 三 山 來、 三 空 杲、 覺 天 啓、 喬 松 億の 七 師で 、 共に 名 宿と 称せ ら れ て い る 。 そ の 余は 鐵 壁の 晩 年、 師の 座 右を 離れ る ま で に 至ら ず 、 な お 苦 修し 密 参を 続け て い た と さ れ て い る ( ) 。

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 二 聚 雲 派 各 世の 嗣 承と 法 化の 展 開 1 聚 雲 第 三 世 下 諸 師の 略 伝と 化 縁 こ の 世 代で は 、 二 十 五 名に 上る 法 嗣の 存 在が 知ら れ て お り 、 語 録も 若 干 部 伝 存す る 。 こ こ で は そ の う ち 十 二 名の 祖 師に つ い て 、 修 道と 開 法に 至る 因 縁 経 緯を 略 述す る 。 鐵 壁 慧 機 法 嗣 石 樓 燈 昱は 『 續 燈 正 統』 巻 十 七に 、 鐵 壁の 法 嗣の 第 一 位に 列せ ら れ て い る 。 師は 四 川 省 益 州の 人で 、 鐵 壁に 忠 城の 江 下に 見え た 。 一 夕 江に 遊ん だ 際、 工 部 熊 月 崖 居 士が 舟 頂の 円 相を 指し 、「 馬 船も ま た 三 十 二 應 ( ) を 具す る や 」 と 問う た 。 そ れ に 対し て 師は い う 。「 た だ 仰 山が 半 個の 児 孫を 作 得せ し の み 」 と 。 忠が 続け て 、「 如 何な る か 是れ 全き 底」 と 問う に 、 師は 、「 若し 全か ら ん と 要せ ば 仰 山に 辜 負す 」 と 曰い 、 忠の 「 そ れ 円 相を 奈 何せ ん 」 と の 問い に 対し 、 師は 、「 和 尚 ま た 弟 子に 辜 負す 」 と 答え て い る 。 次い で 忠が 重ね て 「 那 裡か こ れ 辜 負の 処ぞ 」 と 問う た と こ ろ 、「 三 十 二 應、 」 と 師は 答え た 。こ こ に お い て 鐵 壁は 、 遂に 師を 印 記し た と い う 。 石 樓は 久し く 鐵 壁に 参じ 、 崇 禎 十 五 年に 付 嘱せ ら れ 、 成 都に 帰っ て 開 法し た ( ) 。 そ れ は 鐵 壁の 婆 心、 配 慮に よ る も の の よ う で あ る 。 眉 山 燈 甫は 眉 州 彭 山 県の 張 氏に 出で 、 少く し て 祖 母に 随っ て 西 山に 遊び 、 白 雲 洞の 灌 陽 鑑 隨( 一 五 七 三 - 一 六 四 四) に 参じ て 観 心 念 仏の 法を 学び 、 次い で 衡 旨の 門を 叩き 、 そ の 撃 磬 一 椎を 蒙る や 、 世 業を 嫌い 出 家を 志し 、 内 室に 別れ を 告げ て 大 峩 山の 洪 椿 坪 ( ) に 造り 、 孜々 と し て 一 椎の 磬を 念 じ た が 、 や が て 下 山し て 知 識を 参 尋し て 夾 江に 至り 、 一 関 主に 遇い 、 少し く 境 涯の 進む を 覚え た と い う 。 師は 高 峰の 死 関を 效わ ん と し 、 一 大 決 意を 以っ て 入 関を な し た 。 そ の 時 期は 崇 禎 十 年 二 月 一 日か ら 十 九 日ま で の 間で あ る 。 そ れ よ り 関を 出で 一 旦( 洪) 椿 坪に 返っ た 。 偶々 樓・ 喜 二 上 座 が 平 山 ( ) よ り 来 至し た 。 樓と は 前 記 石 樓の こ と で あ る 。 師は 二 上 座よ り 『 平 山 録』 を 得て こ れ を 閲す る に 、 木 鐘 玲 瓏の 処に 至る や 、 従 前の 所 有 洞 然と し て 滞り 無き に 至っ た 。 か く て 並び に 舟に 順っ て 東 下し 、 鐵 壁に 平 山に 謁す る こ と と な っ た の で あ る 。 入 室に 次い で 平 山は 師を 顧み て 曰う 。「 汝は 是れ 峩 山の 僧 な り や 」 。 師は 曰う 「 是な り 」 と 。 山が 曰う 。「 普 賢は 汝が

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) た め に 甚 麼と 説か れ し や 」 師 曰く 、「 恰も 和 尚の 入 室に 遇え な ん る が ご と し 」 。 山 曰く 「 委 細に い う と き は い か ん 」 師 曰く 、 「 功あ る と き は 即ち 考う 。 功な き と き 、 個の 甚 麼を か 考う る な に や 」 、 山は 驀 頭に 三 竹 箆す 。 是よ り 座 下に 灰 心 ( ) た り 。 一 日 師は 問う た 。「 無 絃の 琴に し て 韻 撫あ る 者こ れ 誰ぞ 」 。 山は 鳴 琴の 声を 作す 。 師は 曰う 。「 宮 商と 曲 調を 犯さ ず し て 作 麼 生か 彈を な す や 」 。 山 曰く 「 碎し 去ら ん 」 。 師 曰く 「 恁 麼な ら ば 則ち 石 埖 夜 笙を 吹く 、」 山 曰く 、「 是れ 好 手な ら ず や 」 と 。 師が 付 法せ ら れ た 時 期は 詳ら か で な い が 、 恐ら く 崇 禎 十 六 年 以 後、 眉 山が 師 命に よ っ て 萬 壽 山に 住す る こ と に な っ た 順 治 七 年ま で の 間で あ っ た と 思わ れ る 。 師は 初め 石 の 三 教 寺に 入 院し 、 次い で 靈 峰、 圓 通、 石 峰、 興 隆、 東 明、 草 堂に 入り 、 化を 八 席に 開い た 。 主 住の 地は 東 明と さ れ て い る 。 東 明は 崇 禎 十 六 年 秋、 鐵 壁が 請に 応じ て 住し た 寺 刹で 、そ れ は 曾つ て 虎 丘の 法 孫 暁 庵 昇 祖 ( ) の 道 場で あ り 、 成 化 年 中に は 萬 壽 戒 壇が 勅 建せ ら れ た ほ ど の 大 刹で あ っ た 。 師は 晩 年、 祖 山に 法 席を 罷め 、 鄂 城に 遊び 、 臥 雲を 訪れ 、 齊 安の 燕 雲 山の 雪 堂に 退 休し た 。 著す 所に 『 草 堂 規 制』『 金 剛 大 義 折 疑 略 釋』『 栗 園 典 要』『 三 字 經 説 内 篇 詮 釋』 等の 書 が あ り 、 叢 林に 伝え ら れ た も の で あ る 。 衡 山 燈 炳は 、 蜀 南 瀘 州 合 江 県 馮 氏の 子で 、 世々 儒を 業と し た が 、 師は 世 典を 楽し ま ず 、 寶 峰の 洞 然 禪 師に つ い て 薙 染 し た 。 初め 教 乗を 修 習し た が 、 東 下し て 各 地に 遍ね く 名 宿 を 訪い 、 聚 雲の 道 誉 高き こ と を 耳に し て 萬 邑 興 隆 寺 ( ) に そ の 門を 叩き 、 痛く 鉗 錘を 蒙る こ と と な っ た 。 当 時ま だ 年 少で あ っ た 師は 、 授 業 師に 随っ て 聚 雲を 礼し 、 幾 許も な く 入 堂 を 許さ れ た も の の 、 門の 入る べ く な く 、 乃ち 露 柱に 対し 、 わ が 此の 身、 も し 露 柱と 同 体と な ら ず ん ば 誓っ て 休す る を 肯ん ぜ ざ ら ん 、 と 誓い を 立て た 。 か く て 暮よ り 旦に 至る に 、 果し て 一な る 如き を 獲た の で あ っ た 。 一 日 師は 挙し て 曰う 。 「 佛 殿 燈 籠に 入る と 牛 皮 露 柱を う ( ) と 二な し 。 二 無く ん ば 分 る と も 別な く 断な し 」 と 。 か く し て 未だ 六 十 日な ら ざ る に 、 忽 然と し て 前 後 際 断す る を 覚え 、 走っ て 聚 雲に 見え た 。 聚 雲は い う 。「 子、 入り た り と 雖も 三 句 四 喝 四 賓 主、 ま た 當に 何 如ん と す べ き 」 と 。 こ こ に お い て 師 茫 然た り 。 時に 慶 忠 鐵 壁が 聚 雲の 会 下に 首 座を 領し て い た 。 一 日 忠に 随っ て 山 行す る の 次い で 磊 石 三 座に 見え た 。 忠は い う 。「 此は 是れ 三 句の 前 行な ら ず や 」 と 。 ま た 四 人に 見え た 。 忠 曰く 、「 此は

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 是れ 四 賓 主な ら ず や 」 と 。 師は 当 下に 釈 然た り 。 礼 拝し て い う 。「 元 来 恁 麼な る を 得た り 」 と 。 ほ ど な く 聚 雲が 滅を 唱え た の で 、 忠は そ の 墓 側に 盧し 、 師は 朝 夕 忠に 侍し た 。 年を 踰え ざ る 間、 忠が 平 山の 請に 応 ず る こ と に な り 、 師は そ の 会 下に 第 一 座に 充て ら れ た の で あ っ た 。 陵は 蜀 第 一の 名 勝と し て 知ら れ 、 こ こ に 四 方の 龍 象 一 時に 会 集し 、 千 五 百 人の 多き を 数え た 。 師は 稠 人の 中に あ っ て 、 さ ら に 接 衲に 勤め た と い う 。 そ の 間 師は 忠の 下で 猛 醒 奮 発し 、 そ の 柱 杖 頭 辺に よ く 漆 桶を 搗 穿し 、 遂に 印 記せ ら つ き ぬ い て れ た 。 順 治 八 年 六 月の こ と で あ る 。 初め に 石 司 ( ) の 香 爐 寺に 止 住し た が 、 順 治 九 年、 州 府 石 の 吉 祥 院 ( ) に 入 院 開 堂し 、 さ ら に 順 治 十 三 年に は 、 忠 州 福 城 山 慶 雲 寺に 晋 住し た 。 淸 朝が 鼎 興し 、 や が て 皇 風 浩 蕩し て 関 津に も は や 阻 礙す る も の な し 、 と 判 断し た 師は 、 康 熙 六 年、 遠く 万 里を 渉り 浙の 雙 徑に 登っ て 大 慧 祖の 塔を 掃っ た の で あ る 。 た だ 『 續 燈 正 統』 に も 師の 塔 銘に も 、 師お よ び 一 門 諸 師の 思い 入れ の 深さ に も 拘ら ず 、 徑 山 拝 塔の 事に 関し て は 記 述が 極め て 簡 略で 、 し か も 妙に 抑 制の 利い た 表 現が と ら れ て お り 、 そ の 点が 奇 異に 感じ ら れ る の で あ る 。 そ こ で い ま 少し く 修 辞 を 加え 語を 補う と す れ ば 、 師は 五 峰 環 抱し 翠 巒 聳 峙す る 奇 勝を 望み 、 宏 麗な る 殿 閣 棟 宇 林 立す る の を 目に し な が ら 、 法 席 虚 座 ( ) を 託つ の 惨 状に 、 万 感 胸に 迫る あ り 、 と い っ た と こ ろ で 、 状 景 描 写が 主と な っ て い る 。 顧み て 徑 山 掃 塔の 挙は 、 曾つ て 聚 雲が 熱 望し 且つ 試み て 遂に 果し 得な か っ た こ と で あ り 、 鐵 壁も 師の 志を 嗣い で 徑 山 杲 祖の 塔を 礼せ ん と 図っ た も の の 、 時 勢 艱 難 多く 、 法 縁 の 覇 絆、 伝 統の 桎 梏か ら 脱す る 能わ ず し て そ の 機を 得ず 、 僅か に 座 末に 在っ た 少 壮の 童 眞 禪 人に 事を 明し 実 現を 託し た の で あ っ た ( ) 。 衡 山の 徑 山 行は 、 燈 録 等の 記 述や 当 時の 教 界の 情 勢か ら 推し て 、 師の 意を 満た す 底の も の で は な く 、 予 期し た 成 果を 挙げ 得な か っ た ら し い こ と を 推 測さ せ る も の が あ る 。 け だ し 淸 初の 禅の 教 界に 在っ て 、 新た に 法 幢を 樹て 化を 闢く に 際し て は 、 法の 歴 史 化、 社 会 化と い う 方 向 性を も っ ダ ル マ て 実 践 的に 形 成さ れ て き た と こ ろ の 、〈 傳 燈〉 と い う 宗 教 的 象 徴 文 化の 体 系の 中に 正 当に 位 置づ け ら れ 、 組 織 全 体の 認 証を 得る こ と が 必 須の 条 件で あ っ た 。 衡 山の 場 合は や や 功

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) を 急ぎ 過ぎ た 感が あ る 。 こ の 時 点で 聚 雲 法 派の 存 在を 顕 示 す る に は 、 十 分 機が 熟し て い な か っ た か に 見う け ら れ る の で あ る 。 な お 衡 山は 浙に あ る こ と 二 年と さ れ て い る が 、 そ の 間の 動 静に つ い て は 伝え る と こ ろ が な い 。 そ れ よ り 師は 蜀に 帰 り 、 慶 雲 寺 ( ) に 住し た が 、 一 日 疾を 示し 、 康 熙 十 九 年に 化を 遷し た 。 世 寿 七 十、 法 臘 五 十 三、 そ の 嗣に 卓 峰 性 が あ る 。 三 山 燈 來 師は 幼に し て 儒を 業と し た が 、 鐵 壁に 参 請し て そ の 法を 嗣ぎ 、 広く 法 化を 宣べ て 唱 酬 倦ま ず 、 緇 素の 景 従 す る と こ ろ と な り 、 聚 雲 一 門は 師を 得て 益々 唱ん な り 、 と 称 揚さ れ て い る 。 師の 行 履に つ い て は 稿を 改め て 述べ る こ と に す る 。 三 空 燈 杲は 、 順 慶 府 蓬 州の 鄭 氏に 出で 、 初め 郡 吏と な る も 、 一 旦 華 銀 山の 南 宗 律 師に 投じ て 披 剃、 山を 下り て 聚 雲に 参 じ た 。 時に 鐵 壁が 首 座を 領し て い た の で こ れ に 叩 問す る こ と と な っ た 。 鐵 壁は 平 都 吟 翁、 忠 郡 東 明、 石 靑 山 等に 出 住し た が 、 師は そ の 何れ に お い て も 院 事を 総べ た と い う 。 当 時 世に 名 宿と 称せ ら れ て い た 破 山 海 明、 眉 山 燈 甫 等、 み な 之に 下る と 伝え ら れ て い る 。 鐵 壁に 印せ ら れ て ( ) 後、 師は 梁 山の 棲 賢 寺に 住し た 。 棲 賢は 方 斗 山 太 平 寺と し て も 知ら れ て い る 。 密 雲の 法 孫 文 雪 通 醉( 一 六 一〇 - 一 六 九 三) は 、 一 日 師 の 所 住を 過 訪し た こ と が あ り 、 ま た 師が 忠 州に 遊ん で 敏 樹 如 相 ( ) ( 一 六〇 三 - 一 六 七 二) と 会し た 時に 交わ さ れ た 問 答 の 語が 、『 續 燈 正 統』 に 収め ら れ て い る 。 し か し 師 自 身の 契 悟の 機 縁に つ い て は い う と こ ろ が な い 。 康 熙 二 年、 師が 匡 山を 尋ね 隆 興 寺に 至っ た 時、 方 伯 余 公 は 師を 署 内に 迎え て 晨 夕 問 道し た 。 未だ 一 載を 超え ざ る 間、 偶々 一 字 相 違し 、 宵 夜に 遁れ 去っ た 。 余 公は 人に 命じ て 之 を 急 追せ し め た が 、 已に 江を 渡り 了っ た 後で あ っ た と 伝え ら れ て い る 。 康 熙 五 年、 盧 州 ( ) に 行 化し た 際、 新た に 病い 起こ り 、 衆に 語っ て い っ た 。「 八 苦 交々 煎り 、 四 大 分 散し て か く の 如し 」 せ ま と 。 侍 僧 問う 。「 和 尚 此に 至っ て 如 何」 と 。 師は 曰う 、「 老 僧あ に 古 人の 下に 在ら ん 。 今ま さ に 行か ん と す 。 わ れ 平 生 大 海 衆を 離れ ず 。 滅 後に は 骸 骨を 以て こ れ を 水 濱に 付せ よ 」 か く 言い 畢っ て 逝く と 。 以 上が 『 續 燈 正 統』 に 記す と こ ろ で あ る が 、 世 寿 法 臘と も に 詳ら か に し な い 。

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) な お 語 録、 燈 録 等の 記 述に よ る 限り 、 鐵 壁の 法 嗣の 中に あ っ て 三 空は 、 本 師と の 関わ り に お い て 親 密さ を 欠き 、 同 門 諸 師と も 離 隔し た 間 柄に あ っ た よ う に 感じ ら れ る の で あ る ( ) が 、 そ れ は 単に 資 料の 不 備に よ る と い う だ け で は な い で あ ろ う 。 師の 動 静に は 終 始 寂 寥の 影が 濃い 。 性 狷 介 孤 高 の 人と 評す べ き で あ ろ う か 。 喬 松 燈 億は 、 順 慶 府 廣 安 州 隣 水 県 馮 氏の 子、 萬 暦 四 十 七 年 の 生れ で あ る 。 児た り し 時、 毎に 自ら 嘆じ て い っ た 。 出 家 し 去ら ん 、 と 。 そ こ で 父 兄と も に 之を 和 尚と 呼び 、 師も そ れ に 喜び 応え て い た と い う 。 時に 一 方 士が 門を 過り 、 父に 向か っ て い っ た 。 こ の 子、 命 相 凡な ら ず 、 他 日 大 成す る 器 で あ る と 。 十 七 歳に し て 本 邑の 慧 空 庵に 披 剃し た 。 程な く 授 業 師 復 初に 遇っ た 。 復 初は 母 方の 舅 氏に 当る 人で 、 両 都 よ り 回り 、 南 北の 経 席 禅 風に つ い て 語っ た 。 師は 投じ て 会 下に 法 名 玄 億を 拝し 、 同じ く 邑 中の 延 福 寺に 止 住し た の で あ る 。 寺 内で は 毎に 経 論を 開き 、 苦 心し て 聴 習し た が 、 大 意を 明ら め た の み で 、 自 己の 大 事を 脱 穎す る に は 至ら ず 、 時々 に こ れ を 念う こ と が あ っ た よ う で あ る 。 の ち 五 龍 庵の 講 席で 一 禅 客と 出 遇い 、 靑 州 公 案、 雲 門 屎 等の 語を 以て 相 問し た が 決す る こ と を 得ず 、 華 銀 山に 上り 南 宗 ( ) に 謁し た 。 そ の 際 南 宗の 丈 室 中に 聚 雲 老 人の 像を 拝し 、 ま た 『 一 貫 別 傳』 を 手に し 、 巻 頭よ り 仔 細に 看 見す る に 得る と こ ろ あ り 、 遂に 同 志の 靈 旨 数 人と 東 下し て 平 山に 至っ た が 聚 雲の 遷 化 を 聞い て 、 そ の 嗣 慶 忠 鐵 壁に 参ず る こ と と な っ た 。 鐵 壁は 当 時 聚 雲の 墓 塔の 傍ら に 盧し て い た が 、 翌 崇 禎 十 四 年、 平 都 地 蔵の 請に 応じ た 。 師は 自ら 請う て そ の 侍 寮に 入っ た 。 一 日 入 室の 次い で 、 師わ ず か に 入る に 鐵 壁が い っ た 。 わ れ 曾つ て 汝に 教え ず 、 と 。 師は 珍 重し て 出で ん と す る に 、 脚 纔に 門を 跨い だ 時、 豁 然と し て 旨を 領じ た 。 崇 禎 十 四 年 秋の こ と で あ る 。 そ れ よ り 師は 座 下に 誠を 傾け て 十 五 年、 順 治 十 二 年に 重 慶 府 忠 州 柏 巖 禪 院の 請に 応じ 、 翌 十 三 年、 同じ く 忠 州 永 興 寺に 入 院 開 法し た が 、 退い て 太 平 寺に 老 人 を 省み た 。 中 軍 王 含 輝 居 士は 、 已に し て 宅を 捨て て 寺と な し 、 延い て 方 来を 接し め ん と し た 。 師は 順 治 十 八 年、 州 府 梁 山 県 高 峰 禪 院に 入り 陞 座 拈 香し 祝 聖を な し た 。 康 熙 七 年に は 蜀 の 地を 離れ 、 湖 廣の 鄂 州 大 別 山 臥 雲 禪 院に 出 住し た 。 康 熙 九 年に は 語 録 二 巻が 印 行さ れ て お り 、『 續 燈 正 統』 に は 、 柏

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 巖、 永 興に お け る 、 上 堂、 示 衆の 語が 収 録さ れ て い る 。 覺 天 燈 啓は 、 山 西 省 汾 陽 県 李 氏の 子で 、 世々 錦 衣と 記さ れ て い る か ら 、 家は 裕 福で あ っ た と 思わ れ る 。 脱 白し て 蜀に 至り 鐵 壁に 平 山に 謁し 依 止す る こ と 十 年、 忽 爾と し て 開 悟 し 、 偈を 作っ て い っ た 。「 跋 渉し て 心を 勞す る こ と 十 載 餘 誰か 知ら ん 國 家 盡く 丘 墟と な る を 而 今 喜 得す 眞 消 息 平 空 白 地に 茆 盧を 結ぶ 」 と 。 鐵 壁は 之を 印し 、 偈を 付し た の は 、 順 治 十 一 年 四 月の こ と で あ っ た ( ) 。 偈に い う 「 問 話す る も 答 不 來 汾 陽 一 笨 漢 老 僧に 依る こ と 十 年 娘 生の 面を 見る を 得た り 是れ 寃 家な ら ず 是れ 兒 祖の 業な ら ず 田 園 一 半を 分た ん 」 と 。 の ち 楚の 華 嚴 寺に 住し 、 皖 國 劉 公の 請い に 応じ て 上 堂し て い る 。 そ し て そ こ で の 示 衆の 語、 お よ び 自 作の 「 十 二 時 歌」 等が 『 續 燈 正 統』 に 収 録さ れ て い る 。 師は 晩 年 郷に 帰り 汾 陽の 覺 天 寺に 開 法し た も の と み ら れ る 。 般 若 燈 譜は 、 忠 郡の 羅 氏に 出で 、 少く し て 黌 序に 列せ ら れ て い る 。 適々 鐵 壁が 玉 山に 化を 闡い た こ と が あ っ た が 、 そ の 時 師は 居 士の 服を 披し て 之に 謁し 、 参 扣す る こ と 年あ り 。 い く ば く も な く 室 人が 亡く な り ( ) 、 循っ て ま た 薙 髪し た 。 順 治 十 一 年、 鐵 壁が 玉 山 崇 聖 寺に 上 堂す る に 値い( ) 、 出で て 問 う 。「 九 重の 鐵 鼓 如 何 人が 一 箭に し て 便ち 穿か ん 」 忠 曰く 「 鼓せ よ 、 」 師 呈 勢を 作す に 忠は い っ た 「 撃ち 通せ 、 撃 ニ イ ち 通せ 」 と 。 そ こ で 師は 礼 拝し た 。 そ し て 遂に 玉 山の 南に 庵を 結ん だ 。 住 地と し て 冠 記さ れ て い る 忠 州 玉 山 竹 庵、 と い う の が そ れ で あ ろ う 。 順 治 十 年 に 鐵 壁が 館し た の も 玉 山 竹 庵 精 舎と 呼ば れ て い る 。 数 年を 経て 師は 九 峰を 開い た 。よ っ て 九 峰 燈 譜と も 呼ば れ て い る 。 師の 生 卒 年は 詳ら か に し な い が 、 三 山が 病 重 篤と な っ た 時、 そ の 病 床に 在っ て 脈を た と さ れ て い る か ら 、 康 熙 二 十 四 年の 時 点に は な お 健 在で あ っ た こ と が 確 認さ れ る の で あ る 。 野 雲 燈 映に つ い て は 、 交 遊 三 十 年に 及ん だ と い う 英 自 署 す る 僧 人の 手に 成る 「 行 状」 が 有 力な 手 掛り を 提 供し て く れ る 。 竺 峰は 英 公が 野 翁と 旧 知の 間 柄に あ る と こ ろ か ら 行 状の 撰 述を 勧 説し 、 英 公が 応 諾し て 挙に 及ん だ と み ら れ る 。 英 公に 該 当す る 人 物を 明 確に 特 定す る こ と は で き な い が 、 三 山の 嗣の 一 人で あ る 天 長 禪 師は 南 賓の 冉 氏の 出で あ る と い う ( ) か ら 、 こ れ に 比 定す る の は 強ち 不 当と は い え な い で あ ろ う 。 な お 別に 離 堆 居 士 撰の 塔 銘が あ る が 、 こ れ は 行 状に

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) よ っ た も の の よ う で 、 多く を 加え る と こ ろ は な く 、 共に 記 述の 順 序に 不 次が 認め ら れ る の で 注 意を 要す る 。 野 雲は 忠 州 都の 人、 姓は 冉 氏、 父と 兄 弟 五 人は 何れ も 財 力を 有し 善 好の 施を 楽し ん だ と い う 。 崇 禎 十 二 年、 師が 十 五 歳の 頃、 父 兄が 期と 見て 師の 為に 婚 配を 謀っ た が 、 師 は 潜か に 遁れ て 自ら 薙 髪せ ん と し た 。 豪 商と し て 知ら れ た 冉 開 明は 師の 叔 父に 当る 人で 、 崇 禎 十 四 年、 数 千 金を 捐て 平 都 山に 十 方 堂を 建て 、 鐵 壁に 請う て 之に 主た ら し め た こ と は 、 先に 一 言し た 如く で あ る 。 師 の 兄の 佛 喜も 既に し て 鐵 壁に 帰 依し 祝 髪し て い た 。 初め 師 は 出 家を 志し 、 事を 父 母に 白し た が 、 容 易に 許し が 得ら れ な か っ た 。 し か し 偶々 甲 申の 変が 勃 発し 、 周 囲の 状 況が 変 化し た の を 潮に 本 懐を 遂げ る こ と が 出 来、 石 の 三 教 寺、 靑 山の 頂 堂と 引 続き 鐵 壁に 随 侍し 、 艱 危 饑 饉に 際し て も 怠 り な く 参 学に つ と め た 。 順 治 十 二 年に 至り 、 喬 松 億と 時を 同じ く し て 鐵 壁か ら 付 嘱を 蒙っ た 。 偈に い う 。「 棒 喝 施 陳し て 大 機を 顯は し 赤 肩に 荷い 来っ て 余の 事な し 因 縁 節 候 時あ り て 彰れ 、 後に 光を 裕し 前に 祖 室を 輝か す 」 と 。 し り へ み た 順 治 十 五 年、 野 雲は 監 寺 四 維 燈 智と 共に 鐵 壁に 州 東 牛 頭 山 雲 巖 寺に 結 夏を 請う て い る 。 師は そ の 後し ば ら く 雲 巖に 止ま っ て い た よ う で 、 石 寶 塗 井の 善 士 達の 請を う け 、 こ こ に 住し た と 思わ れ る 。 た だ 語 録に は 、 上 堂、 垂 示の 語は 録 さ れ て い な い 。 師は 勇 決の 性の 人と さ れ て い る と こ ろ か ら 、 侠 気に 富み 、 決 断 力に 優れ 、 善の 気が あ り 暴を 化す る 力を 具え て い た と み ら れ る 。 た だ 英 公が 評し て い る よ う に 、 法 筵を 開く こ と は 好ま な か っ た ら し く 、 従っ て 修 行 者が 蝟 集 す る こ と も な く 、 龍 象を 打 出し て 嗣を 設け る こ と も な か っ た ( ) 。 僅か に 一 篇の 「 宗 統 頌」 を 伝え る の み で あ る 。 そ れ は 木 石 課 工の 余の 産 物と い う べ き も の で あ る が 、 師の 見 識 の 高 邁さ を 窺わ せ る に 足る 。 康 熙 四 年、 鐵 壁は 当 時よ り 治 平 古 刹の 重 建を 託さ れ 、 重 閣 大 殿 天 王 殿を 建 立し た と 伝え ら れ て い る が 、 こ れ に つ い て も 先に 一 言し た 如く で あ る 。 即ち 「 鐵 壁 年 譜」 で は 、 そ の 功を 専ら 鐵 壁に 帰し て い る が 、 実 際は そ の 後 竺 峰が 内 務 を 主 持し 、 野 雲が 外 事を 経 理し 、 艱 険を 避け ず 、 三 十 余 年 の 歳 月を 費し て 金 碧 輝 煌の 堂 宇を 完 工に 漕ぎ つ け た 。 な お 師は 康 熙 二 十 四 年の 時 点で 、 治 平 野 雲と 呼ば れ て い た こ と が 知ら れ る か ら 、 本 院の 事を 董し て い た と み ら れ る の で あ

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) る 。 こ こ で も 法 語 等に つ い て は 伝え ら れ て い な い 。 康 熙 三 十 六 年 秋、 師は 微 恙を 示し 浴を 索め た が 、 衆は 天 寒を 以て 之を 止め た 。 翌 日 衣を 著し 端 坐し て 寂し た が 、 な お 沐 浴に 拘 泥し て い た よ う で あ る 。 世 寿 七 十 三 ( ) 。 現に 語 録 一 巻が 伝え ら れ て い る 。 童 眞 至 善 師は 重 慶 府 渝 州 ( ) 江 津の 江 氏の 子。 明の 天 順 期に 相 國で あ っ た 少 師 文 定 公 淵 ( ) の 後 裔で あ る 。 甲 辰 鼎 革の 後、 父 海 籌( 諱 獻 圖) は 州に 守と な っ た が 、 師は 久し く こ れ に 従い 、 父が 冠を 挂け 帰 隱し た 後、 父 子と も ど も 石 峰 寺に 在っ た 鐵 壁に 謁し て 度を 求め て 披 剃し た 。 因み に 父の 号は 別 峯と い う 。 師は 三 年の 間 上 座 喬 松に 従っ て 経 論 律 学を 修 め た 。 十 五 歳の 時、 大 慧 語 録を 閲し 、 竹 箆の 話に 至っ て 疑 情を 発し 、 順 治 十 一 年、 崇 聖に 開 堂し た 三 山に 謁し 、 萬 法 歸 一、 竹 箆の 話 頭に 参じ た 。 慶 忠 鐵 壁が 江 南に 転 錫す る に 及ん で 朝 夕こ れ に 参 請し 、 中 秋の 夕、 二 僧と 茶を 擎げ た 際 に 壺が 地に 墜ち 、 忽 爾と し て 前 後 際 断す る を 覚え た 。 師は 走っ て 鐵 壁に 見え た と こ ろ 、 鐵 壁は 詰 問し て 婆 子 燒 庵の 話 に 及ん だ 。 師は 声に 応ず る も 、 や や 時を 経て 鐵 壁は い っ た 。 「 未だ し 、」 と 。 師こ こ に 於て 得あ り た り と 雖も な お 去る こ と 能わ ず 、 道を 見ず 、 末 後の 一 句に し て 始め て 牢 関に 至り 、 要 津を 破 断し て 凡 聖に 通ぜ ず 。 老 僧に 向い 開 口す る の 前に 領 得せ ず ん ば 錯ま り 了れ り 、 と 。 そ れ よ り 二 年を 経て 当 下 に 豁 然と し て 、 従 前の 所 得 一 時に 尽く 除き 去る に 至っ た 。 師は 走り 往い て 鐵 壁に 事を 質す 。 慶 忠 是に つ い て 若 干の 俗 譌を 挙げ る も 、 師は み な 旨に 達す る に 至り 、 こ こ に 印 可せ ら れ 記 室を 掌る こ と を 命ぜ ら れ た 。 鐵 壁は 時 勢と 一 門の 置 か れ た 立 場に つ い て 説き 、 汝よ ろ し く 諸 方に 遍 謁し て 集 大 成せ ん こ と を 期し 、 法の た め 、 ま た 人の 為に し 久し く 滞る こ と 勿れ 、 と 訓し て い る 。 師の 語 録や 『 續 燈 正 統』 の 記に よ れ ば 、 康 熙 五 年、 師は 命に よ っ て 南 行し 、 龍 會 寺に 出 住 し 、 長 龍に 遷り 、 次い で 萬 峰の 席を 主っ た と い う こ と で あ る 。 康 熙 七 年 鐵 壁は 、 眉 山 甫、 喬 松 億 等に 命じ 、 信 衣 手 書 を 持っ て 楚に 入ら し め 、 童 眞に 之を 寄せ 、 書の 至る こ と 三 次に 及ん だ と 伝え ら れ て い る 。 語 録に は 、 康 熙 七 年、 湖 廣 德 安 府 孝 感 県 簡 堂 禪 院に 住し た こ と を い う 。 先に い う 長 龍 が そ れ で あ ろ う ( ) 。 康 熙 十 一 年 二 月、 三 山は 漢 口に 至り 、 童 眞に 鄂 州 大 別 山 臥 雲 禪 院に 会し た ( ) 。 三 山も ま た 童 眞を 目し て 将 来 法 門を 荷

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 担す る 大 器と し て 期 待し て い た よ う で あ る 。 師が 湖 廣に 開 法し た こ と は 教 化 地 域の 拡 張、 教 線の 伸 展を 意 味す る と い え よ う が 、 こ の 地に 新た な 法 縁を 形 成す る に 至っ た 経 緯に つ い て は 詳し く 語ら れ て い な い 。た だ 鐵 壁が こ れ を 指 示し 、 三 山が 手 配し た で あ ろ う こ と は 推 測に 難く な い 。 康 熙 十 七 年、 師は 同じ 孝 感 県 内に あ っ た 高 峯 禪 院の 法 席 を 董し 、 新た に 湖 廣に 化を 弘め 、 聚 雲 法 門の 存 在を 知ら し め る 上に 与っ て 力が あ っ た 。そ の 後の 動 静は 詳ら か で な く 、 た だ 蕪 湖の 護 國 寺に 出 住し た こ と が 知ら れ る 程 度で 、 寂 年 の 確 認に 資す る 記 録に も 乏し い ( ) 。 竺 峯 幻 敏は 、 忠 州 陵の 文 學 徐 公の 子、 生れ て 敏 慧 人に 過 ぐ と 評さ れ て い た と い う 。 順 治 四 年 ( ) 、 十 歳に し て 薙 髪し 沙 彌と な っ た 。 当 時 慶 忠の 門 下で は 、 至 善と 幻 敏と の 両 人が 頗る 機 辯あ り と て 声 華 一 時に 高く 、 師は 年 少の 身な が ら 沈 黙 寡 言、 世の 識 者 達は 何れ 必ず 大を 成す の 器で あ る と 認め ら れ て い た 。 具 足 戒を 円か に し た 後、 鐵 壁の 会 下に 記 室を 掌る こ と 凡そ 一 十 五 載に 及ん だ 。 付 嘱の 事に 関し て 「 鐵 壁 和 尚 年 譜」 に 次の よ う に 記さ れ て い る 。 ま た 竺 峯 敏に 告げ て 曰く 、「 汝は 童 眞と 同 参 同 学に し て 入 道の 志を 同じ く し 、 慧を 等し く す 。 彼と と も に 已に 頭を 出 す も 、 ま た 当に 別に 往く べ し 。 爾よ ろ し く 歩を 踏み て 前に 向か い て 大 法を 荷 担し 、 祖を 紹ぎ 宗を 承け 、 家 業を 料 理せ よ 。 退 情を 生じ て 初 心に 負く こ と あ る 勿れ 」 と 。 か く し て 偈を 付せ ら れ る に 至っ た ( ) の で あ る 。 康 熙 七 年 鐵 壁は 滅 度す る に 先だ ち 、 治 平に 継 席せ ん こ と を 命じ た 。 依っ て こ れ に 進 院し 、 三 年に し て 煥 状 一 新し 、 郡の 石 鼓 寺に 退 居し た 。 そ の 後 狼 烟 四 起す る 一 時 期を 経て 海 宇 再び 昇 平と な り 、 康 熙 二 十 六 年に 治 平に 結 制し 、 康 熙 三 十 五 年に は 郡の 萬 聚 山 方 廣 禪 院に 住し 、 眥 頽し た 棟 宇の 募 修に 当っ て い る 。 康 熙 四 十 一 年、 師は 裳を 蹇げ て 東 渡し 、 杯を 南 海 ( ) に 泛べ 、 南 海よ り 嘉 禾 楞 嚴 禪 院の 請に 赴き 、 恵 然 卓 錫し た 。 こ れ に 先 立っ て 嘉 興の 縉 紳 護 法は 疏し て 師に 入 院を 請う て い る が 、 そ の 文 末に は 禮 部 尚 書 杜 臻を 始め 、 当 時 詩 文 詩 考 証 等、 行 く と し て 可な ら ざ る は な し と 称せ ら れ 、 文 名 一 世に 高か っ た 朱 彝 尊( 一 六 二 九 - 一 七〇 九) を 含め 、 計 四 十 四 名に 上 る 宰 官 居 士が 法 弟と し て 名を 列ね て い る の が 注 目を 惹く( ) 。 康 熙 四 十 二 年 春、 翠 華 南 幸の 事あ り ( ) 。 師は こ の 時 別 庵と

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 共に 駕を 呉 門に 迎え 、 奏し て 治 平 寺に 御 書「 振 宗」 の 額を 賜い 、 次 年に は 楞 嚴 寺に も 睿 書「 藏 海 慈 波」 の 額が 贈ら れ 、 ま た 慶 忠 塔に 「 妙 光」 と 御 題せ ら れ る 等の こ と が あ っ た 。 蓋し 帝の 南 遊は 、 民 情の 視 察を 兼ね 、 鴻 恩に 与ら し め 、 善 世を 讃え 、 盛 代を 謳 歌せ し め よ う と す る と い っ た 趣 意に 出づ る も の で 、 後の 乾 隆 帝に よ る 南 巡も こ れ と 軌を 一に す る と い え る で あ ろ う 。 た だ 当 局に と っ て そ れ は 単に 褒 賞の 一 部 門を 構 成す る 事 務 的 行 政 処 置に 過ぎ な か っ た と し て も 、 聚 雲 一 門に と っ て は 、 禪 宗の 一 派と し て 、 傳 燈 系 譜を 含め て 公け に 認 証さ れ た こ と を 意 味す る 稀 代の 祥 事で あ り 、 結 果 的に 広く 内 外に 聚 雲 派の 存 在を 認 知せ し め る こ と に な っ た 慶 賀す べ き 出 来 事で あ っ た と い え よ う 。 康 熙 四 十 四 年、 師は 治 平 改め 勅 建の 振 宗 禪 寺に 再 住し た が 、 同 四 十 六 年 三 月に 徴 恙を 示し 、 衆に 訓 誡を 与え た 後 趺 坐し て 逝い た と 伝え ら れ る 。 師は 生 前 雷 霆の 棒 喝を 震い 、 妙 密の 鉗 錘を 施し 、 そ の 門 内に 入る 者を し て 咸く 妙 証を 獲 し め 、 そ の 室を 叩く 者を し て 倶に 真 詮に 契す る を 得し め た と し て 称 揚さ れ て い る 。 度 弟 子 百 人、 嗣 法の 門 人 三 十 三 師、 嗣 法の 居 士は 十 八 人に 上っ て お り 、 法 化 殷 盛の 状を 窺わ せ る も の が あ る 。 世 寿 七 十、 法 臘 六 十 五 ( ) 。 と こ ろ で 『 續 燈 正 統』 で は 、 鐵 壁 会 下の 諸 師の う ち 、 幻 敏に 至る ま で は 比 較 的 詳 細に 記 述が な さ れ て い る が 、 そ れ 以 下に つ い て は 簡 略で 、 伝 歴に 関す る 基 本 的 事 項さ え 欠 落 し て い る 場 合も あ り 、 必ず し も 全 体が 整 備し て い る と は い い 難い 。 そ れ は 特 筆に 価い す る 僧 衆が 次 第に 減 少の 傾 向に あ っ た こ と に も よ る の で あ ろ う が 、 編 者の 別 庵が 普 陀に 開 法す る た め 蜀を 後に し た こ と な ど か ら 、 こ の 地と の 関わ り が 疎 遠と な り 、 勢い 資 料の 蒐 集も 意の 如く な ら な く な っ た と い う よ う な 不 測の 事 態が 生じ た た め で は な い か と 推 測さ れ る の で あ る 。 な お 研 究の 向き に よ っ て は 、 こ と さ ら 原 典を 繙 閲す る ま で も な く 、 全 般 的 動 向な い し 結 末ま で を 通 観す れ ば 事 足り る 場 合も あ ろ う か ら 、 こ こ で は 師 僧の 名を 列ね 、 概 略の み 付 記し 、 併せ て 少し く 探り 得た こ と を 補 足し て 参 考に 供し た い 。 普 門 燈 顯 師は 重 慶 府 囎 陵 夏 氏の 子、 初め 三 目 慧 芝に 萬 松 に 参じ た が 、 順 治 十 一 年 本 師の 遷 化に 遭い 、 同 年 古 姪 禪 師、 お そ ら く は 後に 萬 松に 継 席し た と さ れ る 雲 巖 燈 古が 、 法 叔

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) の 鐵 壁に 白 巖に 開 法を 請う た の で 、 師は 就い て 之に 参 請す る こ と に な り 、 鐵 壁が 五 雲に 錫を 移し た ( ) 順 治 十 六 年 之に 従 い 、 以 後 引 続き 鐵 壁に 随 侍し 、 南 城 山 寶 聖 寺で は 会 下に 監 院の 職を 掌り 、 鐵 壁の 付 嘱を 蒙っ た 。 康 熙 二 年 中の こ と で あ る 。か く し て 桐 柏 山 白 巖 寺 ( ) に 出 住し 、 化を 闢く こ と と な っ た の で あ る 。 體 如 燈 慧 師は 郡の 李 氏に 出で 、 初め 太 平に 慶 忠に 参じ た 。 こ こ に い う 太 平は 州 府 梁 山 県の 棲 賢 寺を 指す と 考え ら れ る 。 因み に 鐵 壁は 、 順 治 十 二 年、 玉 山、 塗 井を 経て 王 用 庭 の 問 道に 応え 、 翌 十 三 年 總 戎 陳 貴 榮の 請を 受け て 棲 賢に 入 り 上 堂し て い る か ら 、 師が 参じ た の は こ の 頃の こ と で あ ろ う 。 一 日、 師は 鐵 壁が 香 嚴 撃 竹の 話を 挙す る を 聞い て 、 言 下に 悟あ り 。 地を 觝 て い っ た 。「 原 來た だ こ れ 恁 麼。 多 少の 英 傑を す 」 と 。 忠 曰く 「 道え 甚 麼」 。 師は 拳 頭を 竪 起し た 。 忠 曰く 「 是れ 甚 麼」 と 。 師は 忠の 面 前に お い て 地を 襯 ( ) く こ と 三 下し て 払 袖し て 去っ た 。 鐵 壁に 付 嘱さ れ た の は 康 熙 二 年の こ と で あ り ( ) 、 そ の 後に 州の 天 元 寺に 出 住し た も の と 推 測さ れ る 。 生 卒 年は 明ら か で な い が 、 竺 峯が 起 龕 師を つ と め た ら し い こ と が 知ら れ る か ら ( ) 、 康 熙の 前 半 期に 化を 遷 し た 可 能 性が 高い 。『 續 燈 正 統』 に は 、 こ れ に 続け て 九 名の 緇 素が 列 次さ れ て い る 。 以 下に 簡 略な 伝 歴に 関わ る 事 項、 上 堂、 示 衆 等の 語を 含む も の に つ い て は そ の 下に 付 記し 、 聯 芳の 項に 付 嘱の 偈が 存す る も の に つ い て 偈あ り と 記し て 表 示す る 。 天 峰 燈 南 忠 州 雷 氏 偈あ り 惺 徹 燈 法 上 堂の 語 偈あ り 天 寧 燈 九 讃 語 慶 忠 燈 向 示 衆の 語 大 川 燈 濟 挙( 挙 唱、 拈 則の 語) 暉 白 燈 桂 挙 四 維 燈 智 挙 天 長( 燈 英? ) 南 賓 冉 氏 偈あ り 妙 德 尼 燈 鑑 挙 嗣 法の 居 士と し て 熊 汝 學 豫 章 豐 城 人 偈あ り 文 葦 庵 湖 屏 山

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) 王 一 喝( ) 偈あ り 萬 松 慧 芝 法 嗣 雲 巖 燈 古 師は 郡の 江 氏の 子、 少く し て 黌 序に 列せ ら れ 、 萬 松に 華 嚴に 参ず る こ と 三 年、 始め て 薙 髪し て 松に 参ず る こ と と な っ た 。 松は 偈を 示し て い っ た 。 閃 灼た る 電 光 寒く 忻 然と し て 寶 匣を 出づ 曠 劫た る 無 明の 根 一 時に 都て 抹 殺す と 。 二 年を 経て 第 一 座に 充て ら れ 、 松の 滅 後、 衆に 請 わ れ て 萬 松 寺の 法 席を 継い だ が 、 そ の 説 法 絶え て 人の 記 録 す る を 許さ な か っ た 。 覺 樹 燈 世 師は 郡の 丘 氏の 子、 少く し て 書 生と な り 、 萬 松 に 謁し 楞 伽 經に お い て 度を 得、 侍 寮に 入る こ と を 命ぜ ら れ 、 年を 経て 始め て 源 底に 徹し 、 印 心さ れ て よ り 後、 跡を 浯 江 に 混ず る も の 十 有 六 年、 康 熙 五 年に 鐵 壁が 龍 昌に 錫を 移し 、 聚 雲が 虚 席と な っ た の で 、 命に よ っ て そ の 法 席を 主る に 至っ た 。 岫 巖 燈 燎 師の 伝 歴は 知ら れ な い が 、 上 堂の 語の 一 部が 伝 え ら れ て い る 。 婆 子 燒 庵の 因 縁を 挙し 、 頌し て 曰く 、 枯 木 寒 巖に 異 草 靑く 眸を 凝ら し て 坐 卻す れ ば 白 雲 深し 一 朝 鐵 樹に 花 開い て く 氷 雪 紅 爐に 烈 騰る 、 と 。 寶 峰 慧 麗 法 嗣 聚 雲の 会 下に は 上 述し た 鐵 壁、 三 目 両 師の 他、 萬 里 外の 弟 子と 称せ ら れ た 鐵 眉 慧 麗が 在っ て 、 華 嚴、 雲 來、 大 佛 寺 等に 巴 掌を 以て 微 妙の 法を 説き 世 人の 注 目す る と こ ろ と な っ た 。 順 治 六 年 ( ) 、 師は 衣 鉢を 耳 庵 嵩に 付し 、 遽か に 化を 遷し た と 伝え ら れ て い る 。 耳 庵 燈 嵩 師は 忠 州 陵の 人、 姓は 毛 氏 ( ) 。 幼に し て 本 県の 三 姓 庵に 祝 髪し 、 初め 教 乗を 習 学し た が 、 吹 萬 老 人が 忠 州 聚 雲 寺に 幟を 樹つ と 聞き 、 之に 参 随す る こ と 多 年、 そ の 寂 後 鐵 壁が 平 山に 開 法す る に 値い 、 こ れ に よ る こ と 年あ り 。 次い で 巴 掌に 参じ て 第 一 座を 領し 、 臨 終に 衣 鉢を 付せ ら れ て 心 印を 受け 、 伏 虎、 熊 耳 ( ) 、 廻 龍、 天 寧の 四 刹に 開 法し た 。 順 治 十 三 年 秋、 一 日 疾を 示し た が 談 笑し 、 自 若と し て 常 に 法 筵 中に 経 行し た 。 こ れ を 見て 侍 僧が い っ た 。「 和 尚 近 日 違 和、 止ま り て 宜し く 尊 重し 調 摂す べ き な り 」 と 。 師は 笑っ て い っ た 。「 施 主が 信 心 嘉す べ き な る も 、 わ れ た だ 留る こ と 数 日、 渠が た め に 証 盟す る の み 。 事 畢ら ば わ れ 去る べ し 」 、 衆こ れ を 聞い て 驚 異せ り 、 と 。 二 日を 経て 衆を 集め 、 こ れ に 告げ て 曰く 、「 汝 等 先 師の 衣 法を 以て 三 山 師 弟の 処に 送

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) り 、 わ が 為に 展 転し て 人を 求め し め よ 。 汝 等 一 並に 往き て 参じ 自ら に 辜 負す る こ と 毋れ 」 、 と い い 訖る や 跏 趺し て 化 し た ( ) 。 よ っ て 荼 毘し て 忠 州 天 寧 寺 東に 塔が 建て ら れ た 。 陳 世 凱は 、 巴 掌の 法を 嗣い だ 唯 一 人の 居 士で あ る 。 字は 贊 伯、 湖 廣 施 州 衛の 人 ( ) 。 因み に 父が 寶 峰を 迎え て 法を 説か し め た こ と が あ り 、 公は 朝 夕 峰に 参 叩し た 。 峰が 偈 語を 開 示 す る や 記 憶し て 一 語す ら 忘 失せ ず 、 懐に 驅 ざ る と き は 則 ち 端 坐し て 参 究し 書す る こ と な く 、 夜は 必ず 惺 悟を 求め て の ち 已む 、 と い っ た 精 究ぶ り で あ っ た 。 官は 累 擢せ ら れ て 杭 州に 副 將と な り 、 耿 精 忠が 叛い た 時、 戦 功を 樹て 浙 江 提 督と な っ た 。 公 事の 余に 緇 衲と 唱 酬を 欠か さ ず 、 当 時の 名 宿は み な 礼し て 之に 下る 、 と 伝え ら れ て い る 。 公が 六 十の 誕 辰に 当た り 、 普 陀( 恐ら く は 別 庵) は 使を 遣し て 之を 祝し 、 公は 答え る に 偈を 以て し た 。 曰く 、 金 剛 の 不 壞な る を 方に 壽と な し 、 舎 利の 光 明に 始め て 眞を 見る 。 萬 法 頭に 到れ ば 渾て 夢に 似た り 、 性 原ね 了る 處こ れ 長し え の 春、 と 。 卒し て 襄 敏と 諡せ ら れ た 。 先に 少し く 論 及す る と こ ろ も あ っ た が 、 他 派と の 関 係に つ い て 補 足し て お き た い 。 聚 雲 派 第 三・ 四 世 代の 諸 師の 生 存 年 代は 個 人 的に 延 促が 存す る も の の 、 西 紀 一 六 一〇 年 代 か ら 一 六 三〇 年 代で 、 こ れ と ほ ぼ 同 時 期に 生 存し た の は 南 嶽 三 十 三・ 四 世、 靑 原 三 十 八・ 九 世に 属す る 諸 師で 、 地 域 を 四 川に 限 定し て い え ば 、 特に 目 立つ の が 破 山 海 明の 法 嗣 で あ る 。 即ち 敏* 樹 相、 澹* 竹 密、 燕* 居 申、 丈 雪 醉、 蒼 松 鶴、 凝 眞 定、 壽 山 福、 竹 帆 波、 慈 門 毓、 覺 城 柱、 黙 石 悟、 蓮* 月 正、 石 龍 雪、 西 瞿 望、 靈 隱 文、 慧 覺 衣、 僧 可 實、 靈 水 綬、 九 昭 朗、 三 際 通、 壁 觀 嵩、 密 行 忍、 大 吼 傳、 月 宗 星、 聖* 可 玉、 寂 光 豁、 易 庵 師、 快 雪 國、 石 床 平、 萬 竹 葦、 秋 水 滿、 古 城 堅、 百 城 著、 本 源 液、 雲* 幻 宸、 雲* 釛 水、 千 松 萬、 六 岫 奎、 頴 初 顯、 不 會 法、 嘯 宗 密、 指 北 鑑、 九 彦 歴、 深 省 純、 無 漏 涵、 石 幢 壽、 遺 聞 幻、 無 私 元、 兩 生 從、 竺 意 傳、 禦 木 章、 耕 雲 鑑 等の 諸 師が そ れ で あ る 。 こ れ ら の 師 僧は 四 川の 広い 地 域に 開 法し て お り 、 破 山 派の 教 線は 、 成 都 府 漢 州、 保 寧 府 鬪 城 廣 元 県 劍 州、 順 慶 府 南 充 県 渠 県、 州 府 開 県 梁 山 県 新 寧 県 萬 県、 重 慶 府 巴 県 渝 城 江 県 合 州 忠 州 都 県 江 県 囎 州、 潼 川 府 射 洪 県 蓬 溪 県 遂 寧 県 嘉 定 州 瀘 州 等、 四 川 東 半 部の ほ ぼ 全 域に 及ん で い る 。( * を 付し た 七 師は 重 出)

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) こ れ に よ っ て 聚 雲・ 破 山 両 派が 地を 接し 時に 競 合す る 開 法 地を 避け て 法 幢を 樹て 、 教 化に 力め た こ と が 窺い 知ら れ る が 、 師 僧の 数の 上で も 開 化 地 域の 点で も 総 体 的に 破 山 派 が 優 位を 占め て い た こ と は 動か し 難い 事 実で あ っ た と み ら れ る の で あ り 、 周 辺の 湖 廣、 雲 貴 地 方へ の 進 出、 教 線の 拡 張に お い て も 破 山 派が 先 鞭を つ け 、 一 歩 先ん じ て い た こ と が 知ら れ る の で あ る 。 2 聚 雲 第 四 世 下 諸 師の 略 伝と 化 縁 こ の 世 代で は 、 凡そ 二 十 八 名に 上る 法 嗣が あ り 、 そ れ ぞ れ 一 方に 拠っ て 所 伝の 宗 旨を 祖 述し た 。 中で も 別 庵 性 統の 活 躍は 正に 刮 目し て 見る べ き も の が あ る が 、 他の 諸 師も 第 三 世 下に 劣ら ず 化 門を 拡 張し 、 派 勢の 維 持 発 展に 力め て お り 、 少な く と も 一 派 守 成の 役 割は 果し た と い う こ と が で き る 。 衡 山 燈 炳 法 嗣 卓 峯 性 師は 本 州 成 氏の 子 ( ) 、 十 五 歳の 時、 笑 松の 座 下に 祝 髪、 松 蘊に つ い て 教 典を 習う こ と 之を 久し う し 、 衡 山の 道 風 揚 溢す る を 耳に し て こ れ を 礼し 、 箇 事を 力 究し て 晨 昏 に も 輟め る こ と は な か っ た 。 衡 山は 目し て 器と し 、 命じ て 靈 一と 号せ し め た 。 苦 参 実に 二 十 年に 及び 偈を 呈し て 、 沿 流 唱 和 歌、 椄 杖、 払 子を 付せ ら れ 、 ま た 号を 卓 峰と 改め た 。 康 熙 十 九 年、 衡 山が 謝 世す る や 師は 霊 骨を 奉じ て 高 峯の 祖 塔に 葬り 、 同 年 忠 州 慶 雲の 法 席を 主り 、 競 競と し て 師の 志 を 継ぎ 、 敢え て 怠せ に す る こ と は な か っ た が 、 康 熙 二 十 四 年に 急 逝し た 。 鑑 堂 一 師は 竺 峯 幻 敏の 法 嗣の 一 人で 、 し か も そ の 優な る 者で あ る 。 竺 峯に は 他に 六 人の 法 嗣の 存 在が 知ら れ て い る が 、 伝 歴 等 何れ も 不 詳で あ る 。 師は 童 年 出 家し 、 順 治 十 五 年 前 後、 寶 光 院に お い て 師 翁 鐵 壁の 座 下に 具 足 戒を 円か に し 、 竺 峯の 鉗 鎚を 受け 、 康 熙 三 十 五 年 頃に 付 法せ ら れ 、 忠 州 常 樂 寺 ( ) の 請に 応じ て 開 堂し た 。 そ の 後 優 曇 禪 院に 上 堂し た こ と 、 さ ら に 振 宗 禪 寺に 秉 払し た こ と な ど が 知ら れ る 程 度で あ る 。 嗣 法 門 人 明 滿、 明 慧 等は 法 孫、 玄 孫と 共に 康 熙 四 十 七 年に 師の 語 録( 不 分 巻) を 楞 嚴 大 藏に 付し て 印 行し て い る ( ) 。 こ れ に は 上 堂、 示 衆の 法 語の 他、 若 干の 仏 事の 記 録、 源 流 頌 等が 収め ら れ て い る 。 な お 聚 雲 第 四 世の 諸 師に つ い て は 僅か な 語 録が 残さ れ て い る ほ か 、『 別 庵 和 尚 同 門 録 ( ) 』( 以 下 同 門 録と 略 記) が 、 ほ

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聚 雲 派 法 化の 展 開( 長 谷 部) と ん ど 唯 一の ま と ま っ た 資 料で あ る 。 し か し こ れ と て 三 山 の 法 嗣 十 名と 五 人の 居 士に つ い て 立 伝し て い る だ け で あ り 、 編 者 別 庵が 康 熙 二 十 五 年に は 蜀を 後に し て 普 陀に 移 董し て い る こ と 、 採 録の 対 象に な っ て い る 師 僧が 別 庵と 同 世 代に 属し て い る た め 、 そ の 生 涯の 全 体に 記 述が 及ん で い な い こ と な ど 、 種々 の 制 約の 下で 書か れ て い る 点を 考 慮す る 必 要 が あ る で あ ろ う ( ) 。 因み に 本 録 版 行の 年 時は 康 熙 三 十 年で あ る 。 三 山 燈 來 法 嗣 千 夫 性 一 師は 忠 州 張 氏に 出で 、 は じ め 慶 忠 鐵 壁に 参じ 、 次い で 高 峰 三 山に 謁し た 。 三 山が 興 龍の 法 席を 主っ た 時の こ と で あ る ( ) 。 そ の 後に お け る 兵 難と 梁 山へ の 逃 避 行に つ い て は 先に 触れ た と こ ろ で あ る 。 師は 力め て 高 峰に 参 請し た が 所 入が な か っ た よ う で あ る 。 時に 無 言 性 養が 監 院の 任に 在っ た が 、 師は 養 公と 公 案に つ い て 弁 論し 、 そ れ を 高 峰に 質し た と こ ろ 、 打せ ら れ る こ と 実に 二 十 椄 、 峰は 命じ て 「 樹 倒れ 藤 枯る 」 の 話を 看せ し め た 。 師は 発 奮 力 参し 、 寝 食 倶に 廃す 、 と い わ れ た 程 精 進を 続け た 。 一 日 衆と 披 務に 随 い 、 油 麻を 背 負い 横 山を 過っ た 際、 枯 竹を 踏ん で 声を 作す や 、 路 傍の 野 雉が 驚き 、 鳴い て 飛び 去っ た 。 師は 釈 然と し て 大 悟し 、 峰に 印せ ら れ 、 命に よ っ て 分 座 説 法し た 。 付 嘱 を 蒙っ た の は 順 治 十 八 年 春の 解 制 時で 、 無 言と 同 時で あ っ た と い う ( ) 。 こ の 年 高 峰が 梁 山の 五 雲を 辞 去し た 後を 承け て 席を 主り 、 次い で 邑の 高 峰に 遷っ て 化を 開い た が 、 康 熙 十 六 年 十 一 月、 奄 然と し て 逝い た 。 世 寿 五 十 九、 法 臘 三 十。 無 言 性 養 師は 忠 州 江 県 劉 氏の 子で 、 幼く し て 出 塵し 、 慶 忠 鐵 壁に 参 謁し た 。 そ の 座 下に 化 主を 職と し 、 次い で 客 司に 充て ら れ た が 、 公を 急と し 私を 忘じ 、 凛 凛と し て 古 風 あ り と 称せ ら れ た 。 次い で 高 峰 三 山に 参じ て 監 院を 司り 、 公 事の 暇に 志を 己 業に 励ま し 、 日に 玄 奥に 臻っ た と い う 。 順 治 十 七 年、 三 山が 梁 山 県 五 雲 本 院を 主る や 、 請わ れ て 第 二 座に 居る 。 同 十 八 年に は 付 嘱を 蒙っ て ( ) 、 西 龍、 普 陀に 出 住し た 。『 同 門 録』 に は 、 上 堂、 示 衆の 法 語が 録さ れ て い る 。 康 熙 七 年 高 峰が 南 下し て 師を 召し 、 曇 華 ( ) の 院 事を 主ら し め ん と し た 。 師は 命を 奉じ て 居る こ と 三 年、 精 勤し て 衆 に 膠 、 克く 前 徽 紹い だ が 、 康 熙 九 年の 冬 微 疾を 感じ 、 衆を 集め て 偈を 説き 順 寂し 、 高 峰 祖 院の 左に 葬ら れ た 。 大 衍 性 豫 師は 本 邑 呉 氏の 子、 甲 申( 一 六 四 四) の 変に そ

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