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駒澤大學佛教學部研究紀要 71 - 005藤井 淳「慈信房善鸞上人義絶問題について」

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駒澤大學佛敎學部硏究紀要第七十一號   平成二十五年三月 一五五 はじめに 一、A、Bの流伝とその理解について 二、義絶の二つの理由

世間と出世間 三、世間的な問題

「継母の讒言」 四、出世間(仏法)の問題

「萎める花」 五、五逆罪の適用 まとめ

はじめに

  慈 信 房( 善 鸞 上 人 ) 義 絶 問 題 と は、 親 鸞 が 自 子 で あ る 慈 信 房 を「 今 は 父 子 の ぎ( 義 ) は あ る べ か ら ず そ う ろ う ( 1 ) 」「 自 今已後は慈信におきては(親鸞が)子の儀おもいきりてそうろうな り ( 2 ) 」として義 絶 ( 3 ) したとされる問題である。ただし、 慈信房に対する義絶そのものがなされたか否かは以下に述べるように資料の解釈による。本稿で述べるように論者は義 絶はそもそもなかったと考える。一般に義絶の原因となったとされる、慈信房の行 為 ( 4 ) を簡略に述べると、親鸞が関東よ り京都に戻った 後 ( 5 ) 、親鸞門弟のある者たちが「いかなる悪い行為をしても阿弥陀如来の救済の対象からは外れないので あるから、積極的に悪をなすことこそが弥陀の救済にあずかることを信じていることになり、そうでなければ、弥陀の 本願を信じているものではない」といういわゆる造悪無 碍 ( 6 ) を主張して、社会的問題を引き起こしため、親鸞が慈信房を

慈信房善鸞上人義絶問題について

 

   

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一五六 関東に派遣して問題の鎮静化を図ろうとした。しかし、慈信房は自分自身が教団を統括しようとする野心を起こし、関 東の門弟たちについて親鸞に讒言したとされる。当初、親鸞は慈信房を信用していたが、ついに慈信房の虚偽が明らか となったので、一転して門弟側を信頼し、慈信房を義絶するにいたったとされる。以上は慈信房に対する義絶があった とされる場合の一般的理解である。   慈信房義絶問題には以下の三つの立場からの理解がある。①義絶に関係する書簡は親鸞真筆のものは残されていない が親鸞自身によるものとして、その信憑性を認め、義絶があったとする立 場 ( 7 ) 、②義絶関係の書簡には信憑性の疑いがあ るが、慈信房に対する義絶ないし不信はあったであろうとする立 場 ( 8 ) 、③そもそも義絶はなかったとする(従って義絶関 係の書簡の信憑性を認めない)立 場 ( 9 ) である。現今の研究状況では①が圧倒的多数、②が少数、③は極めて少ない。②は 義絶関係の書簡の信憑性を疑う点で③と共通する面があるが、義絶の事実をうかがわせる二次的状況証拠が多数あるこ とに影響さ れ )(( ( 、慈信房に対する義絶や不信を否定しきれないところから来る。論者は文献学的手法により、③の立場か ら論じるものである。   慈信房義絶関係資料は親鸞のものとされる第一次資料、やや時代を下る第二次資料に分けられる。本稿では、紙面の 制約もあり、第一次資料のA、Bを考察の対象とし、C以下については注 21で見通しを与えるにとどめる。なお引用は 『定本親鸞聖人全集』により、本文中の引用は適宜、仮名遣いを改めた。 第一次資料(論者はいずれの資料も信憑性に問題ありとする)   A『血脈文集』第二通(性信 宛 )(( ( )「義絶通告状」と呼ばれる   B「慈信房宛義絶状」 (顕智書 写 )(( ( )   C『御消息集』第十二通(真浄 宛 )(( ( ) 第二次資料(覚如の弟子時代までのも の )(( ( )   D『慕帰絵詞』巻四・第一 段 )(( (   E『最須敬重絵詞』巻五・第十七 段 )(( (

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一五七

一、A、Bの流伝とその理解について

  Aを収める『血脈文集』は関東の門弟の代表的存在の一人である性 信 )(( ( のグループ(横曾根門徒)によって編纂された と考えられてい る )(( ( が、江戸時代の真宗の学僧、了祥によって「血脈文集ノ如キ全ク偽消 息 )(( ( 」とされているように、近代 以 前 必 ず し も 資 料 的 に 信 頼 で き る も の と さ れ て こ な か っ た。 大 正 九 ( 一 九 二 〇 ) 年 に B が 専 修 寺 の 宝 庫 か ら〝 発 見 )(( ( 〟 さ れ て 以 降、 A は B と 日 付 も 同 日 ( 五 月 二 十 九 日 ) で 内 容 上 も 極 め て 密 接 す る こ と に よ り、 A と B を 合 わ せ て 慈 信 房 義 絶 問 題 を 論 じ る 際 に 第 一 次 資 料 と さ れ る よ う に な っ た。 B は 高 田 派 の 専 修 寺 第 三 世、 顕 智 ( 一 二 二 六 ~ 一 三 一 〇 ) が 嘉 元 三 ( 一 三 〇 五 ) 年 に 筆 写 し た も の で あ る。 筆 写 本 で は 筆 写 の も と と な っ た 原 本 ( 現 存 し な い ) が 建 長 八 ( 一 二 五 六 ) 年 と されているので、約五十年後の書写である。Bの信憑性に対して早く疑問を挙げたのは梅原隆章[一九六一]である。 梅 原 隆 章[ 一 九 六 一 ] 十 五 -十 七 頁 は B に つ い て 内 容 上、 形 式 上 の 問 題 を 四 個 条 ほ ど 挙 げ た。 そ の う ち 多 く の 点 に 対 し て は、 平 松 令 三[ 一 九 八 八 ] 七 十 -七 十 二 頁 に よ り 反 論 が 示 さ れ て い る が、 B に 出 る「 継 母 の 讒 言 」 と「 萎 め る 花 」 に つ い て は 梅 原 隆 章[ 一 九 六 一 ] 十 七 頁 が「 慎 重 な 再 検 討 が 必 要 」 と し な が ら も、 そ の 後 の 研 究 で 特 に 進 展 が 見 ら れ て は おらず、本稿では主としてこの二点を問題とする。   なお、慈信房義絶関係の第一次資料を親鸞門弟による作成と考える論者は、A、Bは、親鸞没後、慈信房が公開した 慈信房宛書簡をもとに、慈信房に敵対する門弟がそれを取り込み、また裏返す目的で作成したものと考えてい る )(( ( 。

二、義絶の二つの理由

世間と出世間

  A、Bの宛先はそれぞれA性信房、B慈信房と異なるが、日付が同一であるだけでなく、内容的・用語的に密接に関 係することは一見して明らかであ る )(( ( 。両方とも親鸞が慈信房を義絶するに当たって、①世間的立場および②出世間(仏 法)的立場の両方において、慈信房に義絶に値する問題があるとされている。 A   に も、 不 可 思 議 の そ ら ご と ま う す か ぎ り な き こ と ど も を ま う し ひ ろ め て さ ふ ら え ば、 の み に あ ら ず、 世間のこと にをきても、をそろしきまうしごとどもかずかぎりなくさふらふな り )(( ( 。

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一五八 B   これらほどのそらごとは このよ のことなれば、いかでもあるべし。それだにも、そらごとをいうこと、うたてきな り。いかにいはむや、 往生極楽の大事 をいひまどわして、ひたち・しもづけの念仏者をまどわし、おやにそらごと をいひつけたること、こころうきことな り )(( ( 。   両者ともに、後で詳しく見るように慈信房が世間(B母の尼に対して)と出世間(B本願に関して)いずれの立場に お い て も、 「 そ ら ご と 」 を 述 べ た た め、 親 鸞 は 慈 信 房 を 見 限 っ た と す る。 こ れ ら の 文 書 を 作 成 す る 際 に 恐 ら く 参 考 に さ れたのは「仏法」の「道理」と「世間」が問題にされた以下の慈信房宛の書簡であろう。 『御消息集』第十通(慈信房宛)追伸 こ の ひ と び と の、 ひ が ご と を ま ふ し あ ふ て さ ふ ら え ば と て、 を ば う し な は れ さ ふ ら わ じ と こ そ お ぼ え さ ふ ら え。 世間のこと にもさることのそうろうぞかし。…… 仏法 をばやぶるひとな し )(( ( 、   論者は性信宛とされる書簡( 『御消息集』第七通・第十三通・ 『血脈文集』第二通)は慈信房宛と考えられる書簡を参 考 に 性 信 系 統 に よ っ て 作 成 さ れ た と 考 え て い る( 『 御 消 息 集 』 編 纂 の 意 図 に つ い て は 別 の 機 会 に 発 表 予 定 ) が、 A、 B の世間と出世間いずれの立場においても慈信房に問題行為があったとするのは、以上の慈信房宛書簡をもとに作成され た表現と考えられる。

三、世間的な問題―「継母の讒言」

  まず世間的な問題として、Aでは慈信房が「おそろしきもうしごとどもかずかぎりな」いとするが、それに続く内容 は 出 世 間 の 問 題 の よ う で あ る。 B で は 具 体 的 に 慈 信 房 は「 母 の 尼 」「 継 母 」 の 問 題 で ひ ど い で た ら め( そ ら ご と ) を 言っている、とされている。以下、長文となるのでローマ数字で科段を設けて引用する。 B   Ⅰ又、母のあま(尼)にもふしぎのそらごとをいひつげられたること、まふすかぎりなきこと、あさましうさふら

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一五九 う。Ⅱみぶの女房の、これえきたりてまふすこと、じしむばうがたうたるふみとて、もちてきたれるふみ、これに お き て は さ ふ ら う め り。 Ⅲ 慈 信 房 が ふ み と て こ れ に あ り、 そ の ふ み つ や つ や い ろ は ぬ こ と ゆ え に、 ま ゝ は ゝ( 継 母)にいゐまどわされたるとかゝれたること、ことにあさましきことなり。Ⅳよにありけるを、まゝはゝ(継母) のあま(尼)のいゐまどわせりということ、あさましきそらごとなり。Ⅴ又、この世に、いかにしてありけりとも しらぬことを、みぶのにょばうのもとえも、ふみのあること、こころもおよばぬほどのそらごと、こころうきこと なりとなげきさふら う )(( ( 。   こ の 文 章 の 解 釈 は 大 正 九 ( 一 九 二 〇 ) 年 の 発 見 以 来、 難 解 と さ れ て き た。 こ の 個 所 は、 親 鸞 が 晩 年 に 恵 信 尼 の 他 に 妻 がいたと推定される根拠となってい る )(( ( 。しかし、この書簡は、むしろその可能性を否定し、慈信房に「継母」は存在し ないことを前提に話を進めていると論者は考える。そのためには当時の義絶をめぐる時代背景の理解が必要である。   その時代背景とは、継母の讒言により、品行不良を〝名目〟として義絶が頻繁になされ、さらには義絶状の偽書も作 成 さ れ て い た と い う も の で あ る。 や や 煩 雑 に な る が、 当 時 の 社 会 状 況 に つ い て 見 る こ と に す る。 承 久 の 乱 ( 一 二 二 一 ) 以後、権力や土地の支配権の多くが公家から武士に移り、武士の訴訟が増加してきたことに対応するため、時の執権、 北 条 泰 時 ( 一 一 八 三 ~ 一 二 四 二 ) ら に よ っ て 定 め ら れ た の が、 『 御 成 敗 式 目 』 で あ り、 そ の 第 二 十 二 条 に 以 下 の よ う に あ る。書き下しを示し、原文は注に挙げる。 『御成敗式目』第二十二条 一、父母所領配分の時、 義絶 にあらずといへども成人の子息に譲り与へざる事 右、 そ の 親、 成 人 の 子 供 を も っ て 吹 挙 せ し む る の 間、 勤 厚 の 思 い を 励 ま し 労 功 を 積 む の 処、 或 は に 付 き、或は庶子の鍾愛により、その子 義絶 せられずといへども、たちまちかの処分に漏る。 侘 た 傺 てい の条、非拠の至りな り。よって今立つる所の嫡子の分を割き、五分一をもって無足の兄に充て給うべきなり。ただし少分たりと雖も、 計らひ充つるにおいては、嫡庶を論ぜず、よろしく証跡によるべし。そもそも嫡子たりといへども指したる奉公な く、また不孝の輩においては沙汰の限りに非 ず )(( ( 。

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六〇   以上では子が義絶されていない場合の規定が述べられているが、当時の義絶は継母の讒言または庶子への寵愛と関連 するものとされている。中世においては長子相続の原則は確立しておらず、親鸞に近い場合では、恵信尼・覚信尼の譲 状の場合に見られるように、女性にも相続が認められ、全ての子に相続の可能性があった。ただ当時はお産の際に女性 が命を落とす可能性が高く、その結果、再婚が行われ、再婚後の後妻(継母)は自子への相続の配当を多くするために 先妻の子を排除しようとしたケースが多かったのである。   米 国 の 名 門 イ ェ ー ル 大 学 に て 日 本 人 初 の 教 授 と な っ た 朝 河 貫 一 ( 一 八 七 三 ~ 一 九 四 八 ) に よ っ て 英 訳・ 紹 介 さ れ た こ とで著名な『入来文書』

The Documents of Iriki

には、相続をめぐって鎌倉時代中期に渋谷定仏の後妻・妙蓮(継母)と先 妻の子らが相続を巡って争ったことが伺われ る )(( ( 。さらに当時の裁判では、事を自分に有利に運ぶために偽書が頻繁に用 い ら れ て お り、 『 御 成 敗 式 目 』 第 十 五 条 )(( ( に は「 謀 書 」 ( 偽 造 文 書 ) を 作 成 し て 裁 判 を 起 こ し た 際 の 罰 則 が 定 め ら れ て い る。このことは、当時相続問題をめぐって、継母の讒言による義絶がしばしば行われ、その義絶状も偽作である可能性 がままあったことを示してい る )(( ( 。   当時、義絶が頻繁に行われていたこと、およびそれが継母の讒言と関わっていたこと、さらには偽文書が作成された ことは、従来、この慈信房義絶問題と十分に関連付けて論じられてこなかった。実際、この書状はその時代背景を踏ま えて書かれている。先の引用のうち、Ⅲ~Ⅴを試訳によって以下に示す。 〈試訳〉   Ⅲ 慈 信 房 の 手 紙 が こ こ に あ り ま す。 そ の 手 紙 は( ほ か の 誰 も ) 全 く 手 を 加 え て い な い )(( ( の で、 ( 親 鸞 が ) 継 母 に 言 い惑わされていると(あなた自身が直接)書いておられることになり、ことにひどいことです。Ⅳ(あなたの母親 で あ る 恵 信 尼 が ) こ の 世 に 生 き て い る に も か か わ ら ず、 ( 慈 信 房 が 偽 っ て ) 継 母 と す る( 他 な ら ぬ 実 母 で あ る 恵 信 ) 尼 が( 親 鸞 を ) 言 い 惑 わ し て い る と い う こ と は、 ひ ど い 出 鱈 目 で す。 Ⅴ ま た、 ( 恵 信 尼 が ) こ の 世 に ど の よ う に暮らしているとも(慈信房が)知ったことではない(という)ことを、壬生の女房のもとへも、手紙をつかわし てきたことは、想像を絶するほどの出鱈目、情けないことであると、 (私、親鸞は)嘆いております。

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六一   この義絶状の大前提は「慈信房の母親が生存している」ということであ る )(( ( 。それなのに慈信房は親鸞が(実際には存 在しないにも関わらず)継母に惑わされていると吹聴している。なぜそのように慈信房が言うかというと、当時、継母 の讒言により、実父から義絶されることが頻繁にあったからであり、親鸞による慈信房への単なる不信や義絶の表明の みでは場合によっては、親鸞が継母にそそのかされたものであって、周囲の人々は慈信房には同情すべき余地があると 考える、という背景がある。しかし慈信房にとって継母なるものは存在せず、大前提と異なる(Ⅰ「そらごと」をいい 告 げ て い る ) の で、 「 あ さ ま し 」 い。 慈 信 房 の 実 の 母 で あ る 恵 信 尼 が 生 き て い る に も 関 わ ら ず、 そ の 人 を 継 母 扱 い し て ま で 自 分 の 非 を 糊 塗 し て い る と い う の は、 ひ ど い で た ら め で あ る。 そ の 上、 「 自 分 の 実 の 母 親 が ど の よ う に 暮 ら し て い るかも知ったことではない」と壬生の女房に手紙を送ってきたのはとんでもない親不孝だ、というのである。これが以 上の個所に対する論者の理解である。   継子が継母との仲の悪さを露わにすることは当時でも体栽のよいものではなかったようである。それは北条泰時の弟 である北条重時 (一一九八~一二六一) によって著わされた『北条重時家訓』 (別本『極楽寺殿御消息』 )に見られる。 『北条重時家訓』第二十四条 継母の事、継子事にをひて深くうらみある事、これ又大きなるあやまり也。そのゆへは、父はそふなり(原注:あ る い は 父 に 添 ふ な り、 の 誤 写 か )。 父 の は か ら い と し て あ る と こ ろ を、 子 の 身 と し て、 母 を 何 か と い ひ 思 は す る 事 は、父をあざむくにおなじ。されば父をあざむかん事は、その罪のがるべからず。たとひ継母ひが事ありといふと も、女なるうへは、さだめて因果の道理もあるべし。親の心にかなふは、佛・神の御心にかなふとひとし。我が母 にかはりて思ふべからず、あさましき事也。返々能々心得て、穏便の心あるべ し )(( ( 。   上記の記述では、継母は女であるから、ひがごとをすることもあるが、父を尊重する立場に立って、継子は継母を怨 んではならないとしている。前の書簡では慈信房の場合は実在しない継母についての発言とされているが、いずれにせ よ義絶状はこの時代独自の親子関係をふまえて慈信房の体裁を悪いものとして印象づけようとしている。

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六二   以上に述べた時代状況を踏まえた上で、義絶関係書簡を作成した者の立場から考えると、世間的な問題として、親鸞 が慈信房に継母の讒言と関係しない理由で義絶を言い渡す父子義絶状を関東の人々に示すだけでは、当時、継母の讒言 による義絶がしばしば行われていたこともあり、当時の人々はまず父子義絶の背景に継母の讒言を想定し、慈信房に同 情が集まってしまうこともある。これを防ぐためには、継母の讒言を背景とする義絶であると理解する余地のない、正 真正銘の義絶であると見せかける必要がある。そこで慈信房は実の母親(恵信尼)が生きているにも関わらず、親鸞の 自 分( 慈 信 房 ) に 対 す る 不 信 は 継 母 の 讒 言 に 基 づ く も の で、 自 分 に は 非 が な い と 周 囲 の も の に 言 っ て い る と す る こ と で、恵信尼を事実とは異なりあたかも継母のように扱っているとする。このように義絶状の作者は、慈信房の行為は極 め て 体 栽 が 悪 い だ け で な く、 次 に 述 べ る よ う に 親 鸞 は 全 て の 証 拠 を 手 許 に 置 い て い る、 と い う こ と を 示 そ う と し て い る。   この義絶状に対する疑問点は他に、冒頭の哀愍房の出現(とその主張:引用省略)にあるが、哀愍房が事実と異なっ て「親鸞から手紙を得ている」という主張は親鸞生前のものとしては不自然であると考えられるのと同様に、慈信房の この主張も親鸞生前のものとは考えられない。慈信房の主張は、もし親鸞が生きているならば、このような手紙一通で 虚偽が暴かれてしまうのであって、むしろ親鸞没後に門弟によって作成されたものと考えるべきである。とくに「自分 の母がどのように過ごしているかも知らない」という発言は、おそらく恵信尼没後に門弟側が慈信房よりも先に恵信尼 の死没を知り、一時的に慈信房が母の恵信尼が亡くなったことに気がつかなかったことを取り上げて、作成されたこと をうかがわせる。   この義絶状Bでは慈信房の問題行為の証拠は全て親鸞の手許にあるとしているが、これは親鸞が全ての証拠を揃えて いるように見せかけるのが目的であったと考えられる。 BⅡ「慈信房がたうたるふみとて、もちてきたれるふみ、 これに おきてさふらうめり」Ⅲ「慈信房がふみとて これに あ り」   作 成 者 は 親 鸞 が 手 許 に( こ れ に ) 証 拠 を 持 っ て い る と し て い る。 こ れ は『 血 脈 文 集 』 第 二 通 A で「 『 真 宗 の き ゝ が

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六三 き 』 一 帖 は と ゞ め を き て 候 )(( ( 」 と す る の と 同 一 の 思 考 方 法 と い え る。 『 血 脈 文 集 』 第 二 通 A は 親 鸞 が 書 き 与 え た 『唯信鈔』 『自力他力文』 『後世物語聞書』 『一念多念証文』 『唯信鈔文意』 『一念多念文 意 )(( ( 』などを「これよりのちにはお おせらるべからずそうろう」と否定し、性信が書いた『真宗聞 書 )(( ( 』の内容を「すこしも これに もうしてそうろう様にた がはずそうらえば、うれしうそうろ う )(( ( 」として全面的に認めている。前者の記述は親鸞がそれまで書写し門弟たちに与 えてきた聖教を否定するのは親鸞の発言としては奇妙であり、この記述を根拠にこの書簡の信憑性は疑われてい る )(( ( 。一 方、後者は性信を全面的に正統化する主張であり、性信その人による作成ではないかと考えられる。

四、出世間(仏法)の問題

「萎める花」

  義 絶 状 で は、 慈 信 房 は 世 間 的 な 問 題 だ け で な く、 出 世 間 的 な 問 題 で も で た ら め を 言 っ て い る の で 義 絶 す る と し て い る。それは慈信房が浄土教の根幹となる『無量寿経』の第十八願を「萎める花」に譬えたとされるものである。 B   第十八の本願をば、 しぼめるはな にたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたりときこゆること、まことにほうぼ ふのと が )(( ( 、   Bが真作であれ、偽作であれ、上記の文は親鸞書簡に見られる唯一の慈信房の具体的な教説の記録である。従来の解 釈はこの「萎める花」という語に例外なく否定的な価値を与えてき た )(( ( 。しかし、この語は以下に見るように、おそらく 慈信房が『古今和歌集』仮名序の在原業平 (八二五~八八〇) に対する評価を典拠に用いたものと思われる。 『古今和歌集』仮名序   在原業平は、その心余りて言葉たらず。 しぼめる花の色なくて 、にほひ残れるがごと し )(( ( 。   こ れ は 在 原 業 平 の 和 歌 に 対 す る 評 価 を 挙 げ た『 古 今 和 歌 集 』 の 有 名 な 一 節 で あ り、 『 伊 勢 物 語 』 の 主 人 公 と さ れ る 在 原業平に関連する物語は当時の在京の人々に東国についてのイメージを形作っているものであった。親鸞により東国に 派 遣 さ れ た 慈 信 房 が 基 礎 的 な 教 養 と し て、 ま た 東 国 滞 在 の た め の 情 報 )(( ( と し て 上 記 の 在 原 業 平 の 事 績 お よ び『 古 今 和 歌 集』仮名序について知っていたことは十分に想定しうる。慈信房がこれを何に対して用いたのかということは推測によ る他はないが、おそらく阿弥陀如来の「法性法身・方便法身」の解釈に対してであったと推定される。

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六四 『唯信鈔文意』   法身は いろもなし 、かたちもましまさず、しかればこゝろもおよばれずことばもたへたり。この一如よりかたち をあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこして あらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は盡十方无碍光如来となづけたてまつりたまへり。……盡十方无碍光仏と まふすひかりにて、かたちもましまさず、 いろもましまさず 、無明のやみをはらひ悪業にさえられず、このゆえに 无碍光とまふすな り )(( ( 。   『 唯 信 鈔 文 意 』 の こ の 個 所 に は 異 読 (『 真 聖 』 二 ― 六 三 〇 ― 六 三 一 ) も あ り、 法 性 法 身・ 方 便 法 身 を め ぐ る 教 理 理 解・ 解 説は、門弟にとって難しかったようであり、 『歎異抄』にも見える。 『歎異抄』第十八章   まず仏に大小の分量をさだめんこと、あるべからずさふらうか。かの安養浄土の教主の御身量をとかれてさふら うも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらひて、長短方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・ 黒の いろをもはなれなば 、なにをもってか大小をさだむべき や )(( ( 。   仏 法 の 説 き 方 に は、 古 来、 法 説・ 譬 説・ 因 縁 と い う 三 周 説 法 と い う も の が あ る。 「 法 説 」 は 教 説 の 内 容 そ の も の で 抽 象的であり、 「譬説」は譬喩によってその教説の内容を分かりやすくするものであり、 「因縁」は教説を過去の人物の行 状と関連付けて分かりやすくするものである。このように仏法に対する人々の理解を容易ならしめるために、教説を解 説 す る 者 は 巧 み な 譬 説・ 因 縁 を 用 い る こ と に 苦 心 を し て き た。 「 譬 説 」 は『 法 華 経 』 な ど に 顕 著 で、 仏 教 の 歴 史 に お い て 例 に 枚 挙 に 暇 が な い が、 親 鸞 当 時 の も の を 挙 げ る な ら ば、 『 唯 信 鈔 』 に、 極 楽 が 数 多 く の 浄 土 の 中 か ら 優 れ た も の を 選 ば れ た も の で あ る 事 を 譬 え て、 「 た と え ば、 や な ぎ の え だ に、 さ く ら の は な を さ か せ、 ふ た み の う ら に、 き よ み が せ きをならべたらんがごと し )(( ( 」とあり、また蓮位書状に如来等同の問題に関連して、弥勒の因位を「すでに八日・九日の 月のいまだ円満したまわぬほどをもうし候 也 )(( ( 」と弥勒菩薩の位を月の満ち欠けの満ち方が不十分なことに譬えているも のがあ る )(( ( 。   この場合、慈信房が『古今和歌集』仮名序に基づいて「色もな」く「萎める花」を「いろもな」い抽象的な「法性法 身 」 に 譬 え、 「 方 便 法 身 」 を「 に お い 残 れ る 」 と し た な ら ば、 方 便 法 身 の 働 き を 認 め て い る こ と に な り、 こ の 比 喩 は 教

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六五 理 上、 著 し い 逸 脱 と ま で は 言 え な い で あ ろ う。 た だ、 「 比 喩 は 一 分 」 と 言 わ れ る よ う に、 比 喩 が 教 説 を 完 全 に 表 し て い るかどうか、また通俗に流れていないかという問題は常にあり、慈信房の譬説の場合も教理的な面からその妥当性は検 討される必要があろう。   そしてもし親鸞が「萎める花」という語を聞いた際には、まず『古今和歌集』仮名序を思いうかべたであろう。親鸞 自身のものとされる和歌は残されていないが、和歌についての教養は『三帖和讃』に示されている。親鸞が学問の伝統 を 受 け 継 ぐ 日 野 家 に 育 っ た も の と し て )(( ( 、 ま た 当 時 の 比 叡 山 の 僧 侶 の 教 養 と し て )(( ( 、『 古 今 和 歌 集 』 仮 名 序 の 一 節 を 想 い う かべることなく、 「萎める花」の語を直ちに弥陀の本願を貶める否定的な文脈で理解し、 〝激怒〟したとは考えにくい。 むしろ、これは門弟が「萎める花」の典拠を知らない者(関東門弟の弟子たち)を聴衆として想定し、慈信房が用いた 譬説を故意に曲解して否定的な意味に用いたものと考えられ る )(( ( 。   『血脈文集』第二通Aには「第十八の本願」 「弥陀の本願」を「捨てさせる」とある。これは浄土教の最も重要な根拠 である弥陀の第十八の本願をめぐって、門弟が慈信房に対して行ったネガティブ・キャンペーンと考えられる。この表 現も他の場合と同様に以下の慈信房宛の書簡を元にしたものであろう。 『御消息集』第六通(論者は慈信房宛と推定する) なにごとよりは 如来の御本願 のひろまらせたまひてさふらふこと、かへすがえすめでたく、うれしくさふら ふ )(( ( 。 『血脈文集』第二通A(右の表現を打ち消すために左の表現が用いられたと考えられる) 「 を す て ま ひ ら せ て さ ふ ら ふ )(( ( 」・ 「 慈 信 が 法 文 に よ り て、 お ほ く の 念 仏 者 達 の を す て ま ひ ら せ あふてさふらふらんこ と )(( ( 」・ 「これほどに第十八の本願をすてまいらせあふてさふらふ人々の御ことば を )(( ( 」   『 御 消 息 集 』 第 六 通 で は 親 鸞 は 慈 信 房 の 布 教 に よ っ て 如 来 の 本 願 が 広 ま っ た こ と を 労 っ て い る。 こ れ を 裏 返 し て 慈 信 房が如来の本願を捨てさせているとしたのが『血脈文集』第二通Aの表現と考えられる。同様の「捨てさせる」という 表現が『御消息集』第十三 通 )(( ( に見え、これも慈信房宛書簡を参考にした表現と考えられるが、これについては別の機会 に論じたい。   他の仏教教理を信奉するものならともかく、慈信房が念仏者に「弥陀の本願」を捨てさせた上で布教を行ったとは想 像しがた い )(( ( 。「萎める花」を否定的文脈で用い、 「弥陀の本願」を「捨て」させたとする箇所は、念仏の教えをめぐって

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六六 慈信房と対立した者が慈信房を非難する際に用いたネガティブ・キャンペーンとして用いた一節と考えられる。

五、五逆罪の適用

  以上見たように、慈信房の行為は母の尼に対する世間的なことがらでも、弥陀の本願に関する出世間的なことがらで も で た ら め で あ る の で、 親 鸞 は 五 逆 罪 を 適 用 し て 慈 信 房 を 義 絶 す る と さ れ て い る ( 以 下 の B ) が、 論 者 は 義 絶 関 係 の 文 書は親鸞没後に性信系統の主導により、慈信房宛の書簡を元に作成されたものと考えている。慈信房宛の書簡は親鸞没 後直後においては最も信頼性のあったものだからである。この場合、五逆罪の適用は以下の『御消息集』第一通・第四 通の表現を元にしたものと考えられる。 B   又 五逆 のつみをこのみて、人をそむじまどわさるゝこと、かなしきことなり。ことに破僧罪とまふすつみは、 五逆 のその一なり。親鸞にそらごとをまふしつけたるは、ちゝをころすなり、 五逆 のその一な り )(( ( 。 『御消息集』第一通 師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたまふよしきこゑ候。あさましくそうろう。す でに謗法の人なり、 五逆 のひとなり。なれむつむべから ず )(( ( 。 『御消息集』第四通 善知識ををろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものとまふすなり。親をそしるものをば 五逆 のものとまふす なり、同座せざれとさふらふな り )(( ( 。   慈 信 房 宛 と 考 え ら れ る『 御 消 息 集 』 第 四 通 で は 善 乗 房( 又 は 善 証 房 ) と い う 名 前 の 人 物 が 名 ざ し で 非 難 さ れ て い る が、その場合に親鸞は善乗房の行為は五逆罪にあたるとしている。これをもとにして、Bの作者は、親鸞が慈信房に五 逆罪を適用して義絶した、と表現したと考えられる。   この他にも内容上、義絶状において不自然なものは「哀愍房」の出現と慈信房が鎌倉のほかに「六波 羅 )(( ( 」に訴状を披 露したとされることである。特にBには「哀愍房」に言及する必要性は感じられず、また「哀愍房」の主張は親鸞没後

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六七 の も の と 考 え ら れ る。 さ ら に 慈 信 房 が 親 鸞 生 前 に 親 鸞 の 許 可 を 得 る こ と な く「 六 波 羅 」 に 訴 え で る こ と は 想 像 し が た い。

まとめ

  大 正 年 間 の 義 絶 状〝 発 見 〟 の 後、 そ の 信 憑 性 に 疑 義 を 呈 し た 梅 原 隆 章 [ 一 九 六 一 ] が 指 摘 し た「 継 母 の 讒 言 」 と「 萎 める花」という二点について、従来の研究は、時代背景や出典を考慮しないまま考察を行ってきたが、義絶状に見られ る「継母の尼」という表現は、義絶が一般に継母の讒言で行われる時代背景を踏まえている。義絶状の作成者は親鸞が 慈信房を義絶したことが継母の讒言を理由としない、慈信房自身に問題行為がある正真正銘の義絶であるように見せか けようとしていると考えられ、さらに慈信房の「萎める花」の発言をもって親鸞が義絶の理由としたとは考えにくく、 この語の理解も慈信房に対立する者による曲解と考えられる。   義絶関係書簡が作られた時期については、哀愍房の主張や慈信房が六波羅に訴状を披露するということは親鸞生前の ものと考えられない。さらに時機を限定すれば恵信尼没後と推測される。義絶関係書簡の作成者と目的については、性 信 が 慈 信 房 と 対 立 し た 急 先 鋒 で あ る と い っ て よ く、 真 仏 亡 き 後 の 高 田 系 の 門 弟 た ち の 協 力 を 取 り 付 け な が ら( こ れ は 『御消息集』の信頼し得る後半の書簡と覚信宛の「建長八年五月二十八日」の日付を用いたことから推測される) 、指導 的立場にたって慈信房の追い落としを図ったものと考えられる。   この他に義絶の日付が「建長八年五月二十九日」とされる理由、慈信房義絶に関係する第一次資料C『御消息集』第 十二通(真浄宛)についての検討、さらに『御消息集』の編纂目的については別の機会にて行いたい。 (付記) 初稿提出後、福井県越前市了慶寺の藤枝宏壽師から東京農工大学教授・亀山純生氏の近刊『 〝災害社会〟 ・東国農民と親 鸞 浄 土 教 ― 夢 か ら 解 読 す る〝 歴 史 に 埋 め 込 ま れ た 親 鸞 〟 と 思 想 史 的 意 義 』 ( 農 林 統 計 出 版 、 二 〇 一 二 年 一 二 月 ) を ご 教 示 いただいた。本書では近代人間中心に基づく、戦後の親鸞に対する偏った理解を訂正し、時代に寄り添って考察する姿 勢が貫かれている。同書の中で同氏は善鸞義絶は存したとする立場であるが、善鸞関係の問題も門弟との関係を広い立

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六八 場から考察している。また同氏は『沙石集』において仏典に基づいて「萎める花」が否定的意味でないと指摘するなど 本稿との関わりのみでも学術的貢献度の極めて高いものとなっている。同書を本稿提出後に知ったために、また本稿の 論考を変更するものでないが付記として紹介させていただく。 参考文献 相田二郎[一九四九 -一九五四] 『日本の古文書』上・下   岩波書店 赤松俊秀[一九六一] 『親鸞』吉川弘文館( [一九八五]新装版) 今井雅晴[二〇〇三] 『親鸞と浄土真宗』吉川弘文館 梅原隆章[一九六一] 「慈信房義絶状について」 『真宗研究』六 遠藤美保子[一九九九] 「専修念仏「造悪無碍」の研究史小考

「親鸞と一念義」への序章」 『仏教史研究』三十六 笠原一男[一九五七] 『親鸞と東国農民』山川出版社 柏原祐泉[一九九五] 『真宗史仏教史の研究   I親鸞・中世篇』平楽寺書店 熊田順正[二〇〇〇] 「善鸞の伝記について

特に伝説的史料について」 『竜谷教学』三十六 多屋頼俊[一九九二] 『親鸞書簡の研究』 (『多屋頼俊著作集』第三巻)法蔵館 常磐井和子[二〇〇三] 「『末燈鈔』を読み解く(5)敢えて義絶状と義絶布告状を検討する」 『高田学報』九十一 中村直勝[一九七一 -一九七七] 『日本古文書学』上・中・下   角川書店 林信康[一九八三] 「親鸞の名号本尊と善鸞事件」 『印度學佛教學研究』三十一(二) (通号六十二) 平松令三[一九八八] 『親鸞真蹟の研究』法蔵館、 [二〇〇五] 『親鸞の生涯と思想』吉川弘文館 松本史朗[二〇〇一] 『法然親鸞思想論』大蔵出版 宮崎円遵[一九四九] 『真宗書誌学』永田文昌堂(後に『宮崎円遵著作集』第六巻[一九八八]永田文昌堂) 山田雅教[二〇〇三] 「善鸞事件をめぐる研究史」 『高田学報』九十一 テキスト・略号

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一六九 『定本』     『定本親鸞聖人全集』法蔵館、一九六九 -一九七〇 『真聖』     『真宗聖教全書』大八木興文堂、一九四一 『史料集成』   『真宗史料集成』同朋社、一九七四 -一九八三 『古今和歌集』 『謡曲集   上』岩波日本古典文学大系・岩波書店 『中世政治社会思想   上』日本思想大系・岩波書店 (1) 『定本』三―書簡篇四一、 『真聖』二―七二七 (2) 『定本』三―書簡篇一六九、 『真聖』二―七一八。括弧内は専琳寺蔵賢心写本 ( 3) 「 義 絶 」 と は 親 子・ 兄 弟 な ど 肉 親 の 縁 を 断 つ こ と で あ る が、 中 世 と 近 世 と で は 相 続 制 度 の 変 化 に 応 じ て そ の 概 念 が 異 な る。 当 該 の 慈 信 房 義 絶 問 題 の 解 釈 で は、 多 く の 研 究 者 が「 義 絶 」 に「 親 が 誰 も が 異 論 の な い ほ ど の 親 不 孝 者 と の 縁 を 切 る 」 と い う 近 世 か ら 連 続 す る「 勘 当 」 の 概 念 を 投 影 し て い る よ う で あ る。 し か し、 本 発 表 で も 述 べ る よ う に、 長 男 の み で は な く、 女 子 や 庶 子 も 相 続 す る こ と が 可 能 で あ っ た 中 世 に お い て は、 先 妻・ 後 妻 の 子 の 相 続 上 の 権 利 を 巡 る 争 い か ら、 実 体よりは名目上、親不孝とする「義絶」も行われた。 (4)一般的な慈信房の行為についての理解は熊田順正[二〇〇〇]九頁 ( 5) 親 鸞 の 帰 洛 年 時 に つ い て、 『 御 伝 鈔 』 を 含 む 古 記 録 は 記 さ ず、 顕 誓( 一 四 九 九 ~ 一 五 七 〇 ) の『 反 古 裏 書 』( 『 真 聖 』 三 ― 九 五 五、 『 史 料 集 成 』 二 ― 七 四 一 下 ― 七 四 二 上 )、 『 高 田 上 人 代 々 聞 書 』( 『 史 料 集 成 』 四 ― 八 六 下 )、 鎌 倉 幕 府 の 念 仏 者 取 締 令( 赤 松 俊 秀[ 一 九 六 一 ] 二 七 六 頁 )、 或 は 文 暦 二( 一 二 三 五 ) 年 六 月 十 九 日 付 け 平 仮 名『 唯 信 鈔 』 の 奥 書( 『 真 蹟 』 八 ― 二二八)から( 『定本』二―和讃篇解説二八九) 、一般に親鸞六十二歳(文暦元(一二三四)年)頃とされている。 ( 6) こ の 説 は、 近 年 で は 一 般 に「 造 悪 無 碍 」 と 呼 ば れ る。 た だ し そ の 用 語 が 近 代 以 降 に 見 ら れ る こ と に つ い て 遠 藤 美 保 子[ 一 九九九]参照 ( 7) 平 松 令 三[ 一 九 八 八 ] 六 九 ― 八 六 頁、 同[ 二 〇 〇 五 ] 二 六 ― 六 二 頁 は 義 絶 状 を 真 作 と す る 立 場 と し て 代 表 的 で あ る。 な お 慈信房義絶をめぐる研究史としては山田雅教[二〇〇三]が便利である。

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一七〇 ( 8) 梅 原 隆 章[ 一 九 六 一 ] 一 九 頁「 ま た、 「 慈 信 房 義 絶 状 」 に ふ く ま れ て い る よ う な 事 件 が 全 く 無 か っ た と 断 言 す る 積 極 的 な 意 図 も 現 在 の 私 は 持 っ て い な い。 こ れ に 類 し た よ う な 事 情 は や は り 存 在 し た で あ ろ う 」 松 本 史 朗[ 二 〇 〇 一 ] 一 九 九 頁 「善鸞が親鸞の信頼を失ったことも確実と思われる」 。今井雅晴[二〇〇三]九五―一二四頁。 (9) 『為本記』 (『史料集成』四―七六四下) 。 ( 10) こ れ は 以 下 に 挙 げ る 第 一 次 資 料 の う ち、 『 御 消 息 集 』 第 十 二 通( 真 浄 宛 ) お よ び 第 二 次 資 料 に 明 確 な 位 置 づ け を 与 え ら れ ないことに起因すると考えられる。 ( 11)『定本』三―書簡篇一六七―一七二、 『真聖』二―七一七―七二〇 ( 12)『高田学報』九十一に影印あり。 『定本』三―書簡篇四〇―四四、 『真聖』二―七二七―七二九 ( 13)『 定 本 』 三 ― 書 簡 篇 一 四 七 ― 一 五 一、 『 真 聖 』 二 ― 七 〇 七 ― 七 〇 九。 『 親 鸞 聖 人 御 消 息 集 』( 本 稿 で は『 善 性 本 御 消 息 集 』 を 用 い な い の で、 『 御 消 息 集 』 を 略 称 と す る ) は 通 例 十 八 通( 宮 崎 円 遵[ 一 九 四 九 ] 一 四 四 頁 ) と さ れ る が、 区 分 に よ り 十 六通(多屋頼俊[一九九二]九、二〇頁) 、十九通とされる。本発表では全十八通とする。 ( 14) 時 代 は 下 る が 比 較 的 古 い も の と し て 先 啓 編『 実 悟 記 拾 遺 』( 稲 葉 昌 丸 編『 蓮 如 上 人 行 実 』 一 五 〇、 『 真 宗 全 書 』 続 九 巻 一 二 三 上 ) が 挙 げ ら れ る。 近 世 の 慈 信 房 理 解 は こ れ に よ る こ と が 多 か っ た と 思 わ れ る。 な お 明 治 十 三( 一 八 八 〇 ) 年 の も の で あ る が、 『 見 真 大 師 御 絵 伝 勧 説 』 巻 之 五 に「 善 鸞 上 人 ノ 事 」 と あ り、 『 慕 帰 絵 詞 』『 実 悟 記 拾 遺 』 を 典 拠 と し て い る。 他 に 真慧『十六問答記』 (『史料集成』四―四一) ( 15)『真聖』三―七八一―七八三、 『史料集成』一―九一三上―九一四上 ( 16)『真聖』三―八三九―八四三、 『史料集成』一―九四三上―九四五下 ( 17)性信については今井雅晴[一九九九]一〇九―一一二頁参照 ( 18) 多 屋 頼 俊[ 一 九 九 二 ] 二 一 頁「 従 っ て、 こ れ を 集 録 し た の は 性 信 で あ っ た こ と は 疑 い を 容 れ な い で あ ろ う と 考 え ら れ る。 」 他 に、 宮 崎 円 遵「 恐 ら く 常 陸( ま た は 下 野 ) の 聖 人 の 門 弟 の あ た り 」( 『 定 本 』 三 ― 書 簡 篇 解 説 二 四 五 )、 松 本 史 朗 [ 二 〇 〇 一 ] 一 九 九 頁 は 室 町 時 代 の 写 本 が 本 派 本 願 寺 に 所 蔵 さ れ る こ と か ら、 「『 親 鸞 聖 人 御 消 息 集 』 と 覚 如、 ま た は 本 願 寺 と の 関 係 は 注 意 す べ き も の と 思 わ れ る 」 と す る。 論 者 は 特 に『 御 消 息 集 』 は 第 七 通・ 第 十 三 通 を 軸 に す る 性 信 系 統 に よ る作成・編纂と考える。

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一七一 ( 19)『 弁 御 消 息 集 』( 『 真 宗 大 系 』 第 二 十 三 巻 三 二 四 上 )。 た だ し 了 祥 は『 異 義 集 』 巻 二( 『 真 宗 大 系 』 第 三 十 六 巻 九 三 な ど ) に お い て 慈 信 房 が 邪 計 を 立 て た こ と 自 体 に つ い て は 全 く 疑 っ て い な い。 こ れ は 第 二 次 資 料 お よ び そ れ に も と づ く 江 戸 時 代 の 説 教 な ど に よ り、 慈 信 房 の 邪 計 は 疑 う 点 の な い も の と し て 受 け 取 っ て い た こ と に よ ろ う。 山 田 雅 教[ 二 〇 〇 三 ] 九 四 ― 九 五頁参照。 ( 20) 江 戸 文 政 年 間 の 秀 諦 の『 下 野 流 高 田 衆 教 目 録 』 に「 聖 人 御 真 筆 御 書 一 通   聖 人 慈 信 房 善 鸞 上 人 へ 賜 御 消 息 也。 御 勘 当 御 書 也。 ……。此一通。顕智上人真筆。高田御宝蔵ニ有」 (『 真宗全書』続十三巻三五四下)とあり、江戸時代にその存在は既 に知られていた。 ( 21) 第 二 次 資 料 に 対 す る 論 者 の 解 釈 で あ る が、 親 鸞 没 後 の 第 一 次 資 料 の 作 成・ 流 布 に よ り、 義 絶 が 既 成 事 実 化 し、 慈 信 房 が 布 教の一線から撤退した後のものと考えている。 ( 22)A、Bいずれも真作とする点で論者と立場が異なるが、A、Bについての詳細な読解は常磐井和子[二〇〇三]参照。 ( 23)『定本』三―書簡篇一七〇、 『真聖』二―七一八 ( 24)『定本』三―書簡篇四二、 『真聖』二―七二八 ( 25)『定本』三―書簡篇一四三、 『真聖』二―七〇五 ( 26)『定本』三―書簡篇四一―四二。 『真聖』二―七二七にはⅢからⅣにかけて一部脱落がある。 ( 27)平松令三[二〇〇五]二二、四八頁 ( 28)一、父母所領配分時、雖非 義絶 、不譲与成人子息事     右 其 親 以 成 人 之 子 令 吹 挙 之 間、 励 勤 厚 之 思、 積 労 功 之 処、 或 付 継 母 之 讒 言、 或 依 庶 子 之 鍾 愛、 其 子 雖 不 被 、 忽 漏 彼 処 分、 侘 傺 之 条 非 拠 之 至 也、 仍 割 今 所 立 之 嫡 子 分、 以 五 分 一 可 充 給 無 足 之 兄 也、 但 雖 為 少 分 於 計 充 者、 不 論 嫡 庶、 宜 依 証 跡、 抑 雖 為 嫡 子 無 指 奉 公、 又 於 不 孝 之 輩 者、 非 沙 汰 之 限、 『 中 世 政 治 社 会 思 想   上 』 二 十 一 頁。 こ の 他 に も 第 十 八 条( 同 一九頁)に親子の義絶の問題が示される。 ( 29)『 鎌 倉 遺 文 』( 渋 谷 為 重〈 重 員 〉 陳 状 案 一 三 〇 七 五、 尼 妙 蓮 等 重 訴 状 一 三 〇 七 六 ) 十 七 ― 二 七 五 ― 二 七 八 等   薩 摩 入 来 院 文 書 ( 30)『中世政治社会思想   上』一六―一七頁

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一七二 ( 31) 義 絶 と 継 母 の 讒 言 が 関 係 す る 資 料 を 列 挙 す れ ば、 『 鎌 倉 遺 文 』( 関 東 下 知 状 案 七 九 〇 四 ) 一 一 ― 九 八 ― 一 〇 〇、 「 令 押 妨 之 条、 無 其 謂、 依 、 氏 女 縦 雖 漏 処 分、 非 指 不 孝 之 子 息 長 明、 返 出 譲 状 畢、 、 引 隠 証 文 之 由、 致 濫 訴 之 条 」 肥 前 後 藤 家 事 蹟( 建 長 七 年 九 月 十 三 日 )。 『 鎌 倉 遺 文 』( 関 東 下 知 状 案 一 三 七 四 八 ) 一 八 ― 二 四 一 ― 二 四 二「 如 彼 状 者、 有 事、 乍 嫡 子 □ 、 漏 于 処 分 事 也 」 色 部 文 書 古 案 記 録 草 案( 弘 安 二 年 十 月 二 十 六 日 )。 義 絶 状 の 形 式 に つ い て は、 相 田 二 郎[ 一 九 四 九 ] 上 九 二 八 ― 九 二 九 頁・ 中 村 直 勝[ 一 九 七 四 ] 中 四 四 九 ― 四 五 七 頁 参 照 の こ と。 両 者 が 挙 げ る 資 料「 蒲 生 頼 秀 並 一 門 連 署 義 絶 状 」 で は 博 打 な ど の 身 持 ち の 不 沙 汰 が 義 絶 の 理 由 に な っ て い る が、 兄 弟 三 人 と も 博 打 に 打 ち 興 じ た と い う の は 不 自 然 で、 前 妻 の 子 が 継 母 の 讒 言 な ど に よ り 義 絶 さ れ た と も 考 え ら れ る。 慈 信 房 義 絶 問 題 と 歴 史 文 書 と し て の 義 絶 状 と の 関 係 を 挙 げ た も の と し て 常 磐 井 和 子[ 二 〇 〇 三 ] 三 四 ― 三 六 頁、 平 松 令 三[ 二 〇 〇 五 ] 三 三 ― 三 四 頁 が ある。 ( 32)「 い ろ は ぬ 」 は 常 磐 井 和 子[ 二 〇 〇 三 ] 四 〇 頁 が 述 べ る よ う に「 触 れ な い 」 が 原 義 で あ る が、 論 者 は「 誰 も 手 を 加 え て い ない」と理解した。 ( 33) 平 松 令 三[ 二 〇 〇 五 ] 四 八 ― 五 〇 頁 は「 Ⅴ コ ノ セ ニ 」 を 顕 智 写 本 に 基 づ い て「 こ の せ に( 銭 )」 と し て い る が、 こ こ で は 直 前 に「 Ⅳ よ に あ り け る を 」 と あ る こ と か ら、 そ の 理 解 を 取 ら な い。 な お 当 該 個 所 の 理 解 に 関 し て 論 者 と 比 較 的 近 い も の として柏原祐泉[一九九五]一八〇頁。ただし柏原氏は義絶の事実ありとする。 ( 34)『中世政治社会思想   上』三二八頁、 『鎌倉遺文』 (八七三〇)一二―一〇七頁 ( 35)『定本』三―書簡篇一七一、 『真聖』二―七一九 ( 36) 諸 研 究 で は こ の 記 述 を も っ て『 一 念 多 念 文 意 』 真 跡 本 に「 康 元 二 歳〈 丁 巳 〉 二 月 十 七 日   愚 禿 親 鸞〈 八 十 五 歳 〉 書 之 」 (『 真 蹟 』 四 ― 三 九 八、 『 定 本 』 三 ― 和 文 篇 一 五 二、 『 真 聖 』 二 ― 六 二 〇 ) と あ る も の の、 ( 建 長 八 年( 一 二 五 六 )) 五 月 二 十 九 日 の『 血 脈 文 集 』 第 二 通 以 前 に 成 立 し た も の と し て い る( 例 え ば『 定 本 』 三 ― 和 文 篇 解 説 二 五 七 ― 二 五 八 頁、 星 野 元 貞 『 史 料 集 成 』 一 ― 解 題 四 八、 常 磐 井 和 子[ 二 〇 〇 三 ] 五 六 ― 五 七 頁 ) が、 『 血 脈 文 集 』 第 二 通 が 親 鸞 没 後 に 作 成 さ れ た も の と考えれば、 『一念多念文意』の成立は康元二(一二五七)年としてよい。 ( 37) 高 田 専 修 寺 蔵 の 弘 安 三( 一 二 八 〇 ) 年 の 写 本『 真 宗 聞 書 』( 『 高 田 学 報 』 十 四 に 翻 刻 と 解 説、 同 九 十 一 に 影 印 ) が そ れ で あ ろ う と い わ れ る が、 定 か で は な い。 江 戸 時 代 の 真 宗 西 派 の 学 僧、 僧 樸( 一 七 一 九 ~ 一 七 六 二 )『 真 宗 法 要 蔵 外 諸 書 管 窺

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一七三 録 』 に 流 布 本『 真 宗 聞 書 』 に つ い て の 評 が あ る( 『 真 宗 全 書 』 続 十 三 巻 ― 一 〇 三 下、 一 〇 七、 『 史 料 集 成 』 五 ― 解 題 四 九 下 ―五〇上) 。『真宗聞書』については松本史朗[二〇〇一]四二六頁注8参照。 ( 38)『定本』三―書簡篇一七一、 『真聖』二―七一九 ( 39) 松 本 史 朗[ 二 〇 〇 一 ] 一 二 九 ― 一 三 三 頁。 た だ し、 こ れ 以 外 の 書 簡 で は 親 鸞 は 自 著 の『 唯 信 鈔 文 意 』『 一 念 多 念 文 意 』 を 勧 め て い な い こ と か ら、 論 者 は『 唯 信 鈔 』『 自 力 他 力 事 』『 後 世 物 語 』『 一 念 多 念 分 別 事 』 を 親 鸞 の〝 著 作 〟 と す る 松 本 史 朗[ 二 〇 〇 一 ] の 意 見 に は 賛 同 し な い。 む し ろ、 A が『 唯 信 鈔 文 意 』『 一 念 多 念 文 意 』 の 名 前 を 挙 げ る こ と 自 体 が 親 鸞 の 門弟の手になる証拠と考える。詳細は別の機会に論じたい。 ( 40)『定本』三―書簡篇四二―四三、 『真聖』二―七二八 ( 41)後世の秘事法門と関連付けて解釈するものもある。赤松俊秀[一九六一]三〇四頁 ( 42)『古今和歌集』一〇〇頁、真名序「在原中将之歌、其情有余、其詞不足。如 萎花 雖少彩色、而有薫香。 」同三三九頁 ( 43) こ の 個 所 が 転 用・ 受 容 さ れ た も の と し て、 時 代 は 下 る が 世 阿 弥 の 謡 曲「 井 筒 」 の「 業 平 の 面 影、 見 れ ば 懐 か し や、 わ れ な が ら 懐 か し や、 亡 夫 魄 霊 の 姿 は、 在 原 の、 寺 の 鐘 も ほ の ぼ の と、 明 く れ ば 古 寺 の、 松 風や芭蕉葉の、夢も破れて覚めにけり」 『謡曲集   上』二七九を挙げることができる。 ( 44)『 真 蹟 』 八 ― 三 一 一 ― 三 一 五( 専 修 寺 蔵 正 月 十 一 日 本 )、 『 真 蹟 』 十 ― 二 〇 四 ― 二 〇 八( 専 修 寺 蔵 正 月 二 十 七 日 本 )、 『 定 本 』 三 ― 和 文 篇 一 七 一 ― 一 七 二( 専 修 寺 本 )、 二 〇 二 ― 二 〇 三( 光 徳 寺 本 )、 『 真 聖 』 二 ― 六 三 〇 ― 六 三 一、 六 四 八( 異 本) 。 ( 45)『定本』四―三三、 『真聖』二―七八九 ( 46)『 真蹟』八―三〇( 西本願寺蔵) 、『 真蹟』十―三七―三八( 専修寺蔵信証本) 、『 真蹟』十―二七三( 妙安寺蔵) 、『 定本』六 (2)―四四、 『真聖』二―七四〇 ( 47)『定本』三―書簡篇一八、 『真聖』二―七〇九 ( 48) こ の 他 に も『 唯 信 鈔 』「 た と え ば、 み や づ か え を せ ん に、 主 君 に ……」 『 真 蹟 』 八 ― 五 四( 西 本 願 寺 蔵 )、 『 真 蹟 』 十 ― 六 〇 (専修寺蔵信証本) 、『真蹟』十―二九七(妙安寺蔵) 、『定本』六(2) ―五〇、 『真聖』二―七四五。 『口伝鈔』下「たとへ ば、月まつほどの手すさみの風情なり」 『定本』四―一〇四、 『真聖』三―二五

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慈信房善鸞上人義絶問題について(藤井) 一七四 ( 49)『 最 須 敬 重 絵 詞 』 巻 二・ 第 三 段 に は 覚 如 が『 和 漢 朗 詠 集 』 を 五 歳 で 学 ん だ と す る。 『 真 聖 』 三 ― 八 三 四、 『 史 料 集 成 』 一 ― 九四〇 ( 50)『 御 伝 鈔 』 巻 上 に 見 ら れ る 親 鸞 の 慈 円( 一 一 五 五 ~ 一 二 二 五 ) の 下 で の 出 家( 『 真 聖 』 三 ― 六 三 九、 『 史 料 集 成 』 一 ― 五 二 〇 ) が 事 実 か ど う か に は 問 題 が あ る も の の、 慈 円 を 筆 頭 と し て、 比 叡 山 の 僧・ 稚 児 に と っ て 和 歌 の 教 養 は 常 識 的 な も の で あったと言ってよい。 ( 51) こ れ を 曲 解 し て 義 絶 状 の 中 で 用 い た 者 が こ の 典 拠 を 知 っ て い た か ど う か は 問 題 で は な く、 典 拠 を 知 ら な い 関 東 の 一 般 聴 衆 を 対 象 に し て い た こ と が 重 要 で あ る。 こ の 義 絶 状 作 成 者 の 意 図 は、 典 拠 を 知 ら な い 現 代 の 研 究 者 に 対 し て は 効 を 奏 し て い る。柏原祐泉[一九九五]一七五頁、笠原一男[一九五七]三八一頁、山田雅教[二〇〇三]九八―九九頁 ( 52)『定本』三―書簡篇一二五、 『真聖』二―六九五 ( 53)『定本』三―書簡篇一七〇、 『真聖』二―七一八 ( 54)『定本』三―書簡篇一七一、 『真聖』二―七一九 ( 55)『定本』三―書簡篇一七二、 『真聖』二―七一九 ( 56)「 慈 信 房 に み な し た が ひ て、 め で た き 御 ふ み ど も は た ま ひ あ ふ て さ ふ ら ふ と き こ へ さ ふ ら ふ こ そ、 詮 な く あ は れ におぼへさふらへ」 『定本』三―書簡篇一五一、 『真聖』二― ( 57) 義 絶 状 を 真 作 と し て 認 め る 人 々 の こ の 個 所 に 対 す る 理 解 と し て、 常 盤 井 和 子[ 二 〇 〇 三 ] 四 九 頁「 浄 土 教 の 眼 目 の 中 か ら、 本 願 と い う 条 目 を 消 し て し ま う と い う、 積 極 的 な 背 信 行 為 に 至 る ま で の、 ど の よ う な 次 元 の こ と が 起 き て い た の で あ ろ う か 」、 林 信 康[ 一 九 八 三 ]「 善 鸞 は 本 願 の 念 仏 を 否 定 し た の で あ っ て 念 仏 そ の も の を 排 斥 し た の か ど う か 判 明 で き な い 」「 善 鸞 は 念 仏 を 否 定 し た の で は な く、 本 願 の 念 仏 の 立 場 を 否 定 し た と 考 え る べ き で あ ろ う 」 と あ る が 明 確 な 解 釈 と は ならない。 ( 58)『定本』三―書簡篇四三、 『真聖』二―七二八 ( 59)『末灯鈔』第二十通に該当。 『定本』三―書簡篇一一八―一一九、 『真聖』二―六九二 ( 60)『末灯鈔』第十九通に該当。 『定本』三―書簡篇一一二、 『真聖』二―六八八 ( 61)笠原一男[一九五七]三五九―三六〇頁には六波羅探題が扱う訴訟の範囲が挙げられる。同三七〇註8    (平成二十四年度駒澤大学特別研究助成の成果の一部)

参照

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総務部 10/27 上野 12/7 多摩 12/9 井の頭 12/16 葛西 12/16.

      杉谷 義一 さん   佐々木 耐 さん       米井  洋 さん   藤井 敏郎 さん       飯島  誠 さん   藤江 義孝 さん      

○安井会長 ありがとうございました。.

6号炉及び7号炉 中央制御室 非常用ディーゼル発電機 GTG ※2