香 川 大 学 経 済 論 叢 第74巻 第2号 2001年9月 211-224
研究ノート
トーリ一保守派のマルサス像:
アーチボルド・アリソン『人口原理』の考察
柳 沢 哲 哉
『ブラックウッズ・エジンノTラ・マガジン』 本稿はアーチボルド・アリソン(ArchibaldAlison:1792-1867) の『人口原理~(1840) (1) を考察する。これは『ブラックウッズ・エジンパラ・マガジン! (以下, B W Mと略記) におけるマルサス人口論評価を分析するための準備作業である。最初にB W Mを検討 する必要性について説明しておく。 19世紀初頭のトーリー派ジャーナルの代表は 『クオータリー・レビュー! (以下, QRと略記)である。恩想史研究においてB W M はQRほど注目されることはない。しかし,刊行部数で見れば, B W MもQRに比肩 しうるメディアであったと言うことができる。1817年から46年にかけて,季刊である QRの各号平均部数が9,200部であるのに対して,月間であるB W Mも6,000部から 7,500部に達しているからである(Gambles [1999J, p..12)。 さて,QRにおけるマルサス像については,われわれはすでに考察を加えており,QR 内部でもマルサス評価には正反対と言ってもよいほどの幅があるという結論を得てい る。すなわち,一方ではRサウジーやJ WクローカーあるいはG Pスクロープと いった強硬なマルサス批判のグループが,他方ではJ
B
.
サムナーを分岐点として登場 したマルサス肯定論のグループが存在しており, QR内部では対照的なマルサス像が 描かれていた。(1) The Prinゆ 加 01Population, and theirωnnection with human fu;ψpiness, 2vols.
引用は ppと略記し,巻数と頁数を挙げておく。
-212- 香川大学経済論叢
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このようにQRのマノレサス像に幅があったのは, トーリー保守派のみならず,商業 社会あるいは経済学を容認するリベラル・トーリーにも活躍の場を与えていたからで ある。これに対して,スコットランドのトーリ一保守派を核としたBWMは,一部に 例外はあるものの,商業社会批判と経済学に対する排斥あるいは無関心を基調として いた。BWM
の多くの論者にとっては,リカードウとマルサスは批判すべきポリテイ カル・エコノミストの一員として同列の存在であって,両者の相違など些細な問題で しかなかった。BWM
の経済関連の記事を検討したF
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は,BWM
の論者 の多くが経済学を排斥した理由として,彼らが経済学とレツセ・フェーノレの主張を同 一視したこと,そして経済学者たちをマルサス人口論の弁護者と見ていたことなどを 指摘している(
p
.
.
1
0
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)
。 こうした特徴づけから予想されるように,BWM
のマノレサス人口論に対する態度 は, QR内のマJレサス批判グループと共通性がある。したがって,たとえBWM
が主 要メディアの一つであるにしても,もしそこでのマルサス像がQRで確認されたマル サス批判の類型に収まりきるものであるとすれば,分析する意義は低いと言わざるを えないであろう。しかし, QRとは異なる独自性をBWM
は持っている。 独自性の第一点は,BWM
の論者の多くがスコットランドにいたという地理的要因 に由来する。論者がイメージしていた経済・社会的条件はイングランドとは相違する。 すなわち,イングランドと比較したスコットランド救貧法のありかた,あるいは貧民 層の行動様式,こういったものの相違がマノレサス評価に影響を与えるのは避けがたい であろう。さらに経済・社会的条件だけではなし思想的背景の相違を無視すること もできない。 18世紀に普及したスコットランド啓蒙はBWM
にも大きな影響を残し ている。この点はやや意外に思われるかもしれない。というのは,スコットランド啓 蒙の系譜は,D
スチュアート経由で『エジンパラ・レビューJ(以下ER
と略記)への 流れとして把握されるべきものであり,ER
のまさに対極にあるように思われるBW
M
への影響を論ずるのは場違いに思われるからである。しかし,本稿でとりあげるア リソンをはじめとして,BWM
の論者も啓蒙の流れに連なるのである。(
3
)
BWM
の中にも,“Reflectionson the Theory of Population"(1818, Nov)のようにマトーリー保守派のマノレサス像:
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5
アーチボルド・アリソン f人口原理』の考察 -213ー 経済学を敵視あるいは軽視してきた BWMの論者の聞には,共通の基盤と言えるよ うな何らかの体系的な経済理論があるわけではない。しかし, BWMに存在する時論 的な記事をたどるならば,ある一貫性を持っていたと言うことができる。ここにQR
に 対する第二の独自性がある。この点をマルサスに即して説明しておこう。マ1レサス『人 口論』と r経済学原理』との整合性について r二人のマルサス」論などとも昭ばれる 問題がある。当時からすでに,例えばセイなどによって投げかけられていた問題であ るが r人口論』における過剰人口と食料不足という議論と r経済学原理』における 有効需要の不足による不況という議論との聞には矛盾があるという指摘である。この 解釈の当否はおくとして r二人のマルサス」論になぞらえるならば,必ずしもマルサ スと向ーの理論的枠組みではないにせよ, BWMは需要不足を問題にした『経済学原 理』の世界を展開する代わりに人口論』の世界を退けていたということができる。 BWMの経済に関する記事の中には,セイ法則を批判して有効需要不足を論じた数 多くの記事を見出すことができる。F
e
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が整理しているように,通貨の不足 による価格下落と生産縮小というのがBWMにおけるマクロ経済の共通認識であっ た。ここからさらに金本位制を離脱して,通貨管理を行うべきだという主張がアリソ ンらによって展開されることになる。こうした主張の理論的中身はT
アトウッドら パーミンガム派とほぼ共通しているが, BWMにおいてはスコットランド銀行券の発 券自由化というスコットランド・ナショナリズムの発露と結びついていたという特徴 がある。いずれにせよ,アリソンらの経済認識の背後には,アリストクラシー擁護論 に由来する政治による経済管理の必要性という考え方を指摘することができる。それ は,市場の支配に対する地主アリストクラシーの対抗という図式と言ってもよいだろ う。彼らの救貧法擁護論もこの図式の延長上にある。つまり,貧困問題の解決方法と して貧民を労働市場に組み入れることで貧民の陶冶を図ろうとするマノレサス流の政策 を退けて,救貧法を通じた貧民保護体制を維持すべきとするバターナリスト的認識は, 通貨管理という発想と通底しているのである。 ここでBWMによるマルサス『人口論』批判の論拠を簡単に指摘しておこう。その 重要な論拠の一つは農業における生産性上昇に置かれている。 BWMには一種の農本 主義を見出すことができるが,それが収穫逓減批判として,すなわちマルサスの第二-214- 香川大学経済論叢
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公準批判として論じられていくことになる。実際,BWM
の論者たちは農業生産性の 上昇について楽観的な見通しをしばしば語っている。興味深いことに,BWM
におけ る「トーリー・マクロエコノミクス」を分析してマルサスよりも優れた議論さえある としたR
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は,収穫逓増から需要不足論が導出されていることを指摘して いる (p“262)。この見解に従えば,マルサス批判として用いられた収穫逓減批判とセイ 法則批判とが内的な関連を持っていたと主張することさえ可能かもしれない。もちろ ん,体系的な経済理論を展開しなかったBWM
の論者たちに,整合的な市場批判論を 無理に求めようとすることは慎まなければならない。しかし,大まかに捉えるならば,BWM
では,言わば「一人のマルサス」による『人口論』批判が展開されていたとい うことができるのである。 II アーチボルド・アリソンF
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J
はBWM
の寄稿者のうち「アリソンとド・クインシーの例外を除け ば,経済思想史に登場するものはいない」と述べている(
p
.
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)
。とはいえ,リカードウ 派の一員としてド・クインシーの名前が経済思想史研究の片隅に登場することはあっ ても,アリソンの名前はほとんど登場することはない。アリソンについての主題的な 研究は,スコットランド啓蒙から1
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世紀保守主義への流れを見出そうとするモノグラ フィーM
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と,アリソンが執筆したBWM
の記事を扱ったM
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(4) ぐらいではないかと思われる。BWM
分析の準備作業として,経済思想史あるいは人 口思想史からほとんど無視されてきたといえるアリソン『人口原理』をあえて取り上 げる理由を説明しておこう。 アリソンは1
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年から5
5
年までに,1
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本にのぼる記事をBWM
に書いており, もっとも多くの記事を寄稿したとされている。BWM
の寄稿者のうちで人口論関連の(
4
)
政治思想史プロパーの研究であるM
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は,スミスr
国富論』から「農業商 業社会」論の側面を取り出して,その延長上にアリソンを位置付けており,スコットラン ド啓蒙の影響をアリソンから検出する作業にウェイトが置かれている。この作業につい ては異論はないが,BWM内部での位置付け,特に経済J思想、との関連があまり関われるこ とはない。また『人口原理』にも焦点を当てているが,マルサス論争の中にそれを位置付 けるという意識は希薄である。Hu
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はアリソンに言及している数少ない人 口論史のひとつであるが,抑制原理を紹介しているだけで,分析はほとんどない。トーリー保守派のマルサス像:
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アーチボルド・アリソン『人口原理』の考察 -215-まとまった著作を残したのは,おそらくアリソンだけであろうと思われる。BWM
の 記事は断片的な著述である場合が多く,マルサス評価の前提となる社会観や貧民のイ メージが必ずしもはっきりしない。そこでBWM
のマルサス像を分析する座標軸を見 出すために,BWM
を主要な活躍の場としていたアリソン『人口原理』の検討が有益 なのである。 『人口原理』の考察に入る前に,M
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およびDNB
によりながら,アリソ ンについて簡単に紹介しておく。おそらしわが国においてアーチボルド・アリソン と言えば,同名の父親であるR
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を思い浮かべる むきが多いであろう。父アリソンはDスチュアートの友人として,あるいはT"リード を継承するE
おのson Taste (1790)を著した美学研究者として,スコットランド啓蒙 の一角に位置付けられているからである。しかし,アリソンも無名な存在であったと いうわけではない。彼が執筆した History0
/
Eurote (1833-42)は版を重ね,数ヶ国語 に翻訳されている。ディズレリーは『コニングスピイ!(
1
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)
において歴史家「ワー ディ氏」を登場させているが,そのモデルがアリソンである。当時は歴史家として広 く知られた存在であった。また,アリソン自身はあまり高く評価しなかったようであ るが,スコットランドへのイングランド刑法導入を批判するために執筆した刑法論の こ著も,スコットランド法学のテキストとして広く読まれていた。1
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年にエジンパラ大学に入学したアリソンは,後の『人口原理』の原型となるマ ルサス批判の草稿を1
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年ごろに書いている。同じころ,D
“スチュアートの経済学講 義を聴講しているが,マルサスを評価したスチュアートの講義には失望したとされて いる(
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, p,,2
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)
。ヒュームやスミスの著作からも影響を受けているが,神 学的な懐疑から父親同様にむしろリード哲学の方に親近感を抱いていた。政治的にも シヴィック・ヒューマニズムの影響下にあった点では父アリソンと共通しているが, 父よりも保守的であった。政体バランス論を肯定してはいるものの,民衆の政治参加 については楽観的な展望をもっておらず,民衆の政治的役割には腐敗と専:制に対する 監視役という消極的な位置付けしか与えていなかった。アリソンにとって,フランス (5) Princか
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the CゅninalLaw0
1
Scotland(1832), Practice0
1
the Criminal Law oj Scotland(1833)。今日でもリプリント版が入手可能である。-216- 香川大学経済論叢
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革命は民衆の政治参加が過度になったことに対する歴史的な警告に他ならなかったの である(
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, p..3
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年に法廷弁護士になり,3
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年にはラナーク州知 事になる。こうした実務経験が『人口原理』の加筆の過程で反映されていく。また, マルサス『人口論』を批判するための材料集めの目的をもってアイルランドやフラン ダースに旅行したり,1
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年からは議会改革批判を皮切りとしてBWM
への寄稿を はじめている。 すでに述べたようにマノレサス批判のアイディアは1
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年ごろできていた。『人口原 理』の「序文」によれば,1
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から1
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年にかけてほぽ執筆が完了しており,1
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年 ごろ加筆を行ったものの,その後1
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年の刊行まであまり改変がなかったことにな る。しかし,1
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年に刊行されたG..R
ポーター『自然の進歩』からの引用が数十ヶ 所で行われており,2
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年以後にも相当の加筆があったことは間違いない。現時点では, 刊行までの聞にいかなる加筆補正が行われたのかを確認することはできないが,本稿 の目的にとっては厳密な時期確定は不要であろう。ー応,マルサス批判の基本的な骨 格は「序文」の記述にあるように1
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年ごろには出来ており,後に統計データについ ての加筆があったという把握でよいだろう。アリソンの著作の中でも『人口原理』は ヨーロッパ史や刑法の著作ほど評判をよんだわけではない。しかし,エンゲIレス『イ ギリス労働者階級の状態』において,アイルランド移民の境遇や都市化の弊害につい ての典拠として使用されていることからも分るように,資本主義社会を批判する著作 として一定の関心をひいていたと言うことができる。エンゲノレスはトーリー党員の証 言を用いる場合は「著者ないしは著書の性格によって,その陳述の真実性を確信する ことができた場合だけ」と断っており,アリソンに肯定的な論評を加えている。 III マルサス批判 スミスやA
ファーガソンの歴史の発展段階を踏襲して,アリソンは未開,牧畜,農(
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労働者階級の状態』では「未完成なトーリー党的反プルジョアに すぎないJ(
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)
とその限界を指摘しながらも,アリソン兄弟を「誠実なトーリ一党員」(
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“3
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と評している。また,資本主義社会の弊害を洞察した人物として『聖家族』では, トマス・カーライ1レ,ギャスケルと筒列に扱われている。トーリ一保守派のマルサス像:
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アーチボルド・アリソン『人口原理』の考察 -217-業,文明の4段階を設定する。そして歴史を発展させる原動力が人口の増加にあると 見ている。こうした見方は1
8
世紀的な人口史観を踏襲したものである。アリソンは文 明社会の前までは「人口増加原理の無制限な作用」がなければ,歴史は未聞社会のま まにとどまる,ということを強調する。「人間の運命にとっては幸いにも,こうした憂 穆な境遇の中で人間の本能が理性に打ち勝ったのであるJ(PP, 1,p
.
.
2
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)
。牧畜段階を 例にとるならば,人口の増加がもたらした牧草地の不足が,新しい生産物の獲得と新 しい欲求の形成をもたらしたと説明する。 「こうして,牧畜時代の急速な人口増大は多くの人を世界中に散在させる効果を もたらしただけではなく,彼らの職業を変更させ,彼らの欲求に新しい方向を与 え,結果的に彼らの性格をも修正させる効果をもたらした。彼らを取り巻く物質 的な環境の変化例えば新しい対象を目にすること,新しい果物に対する噌好, 異なる気候に対する感覚,別の生存手段と享楽手段の開発ーが,たいていは人類 への影響を生み出し,多様な精神的および肉体的性質にふさわしい性格を……人 類に与える。J(PP,1
, p..2
0
)
人口圧力によって生まれた人口の拡散は,遠隔地の物産を享受しようとする自然的 な傾向から商業を発展させることになる。アリソンはトーリー保守派が抱いていた商 業社会批判を一方では認めている。ファーガソンの文明社会批判になぞらえて,商業 は飽くことのない金に対する渇望を生み出し,最悪の欠乏と危険へと人々を導くとす る。しかし r貨幣愛があらゆる悪の根源であるということは疑いもなく真実であるに せよ,それはまた多くの善の源でもあるJ(PP, 1, p引2
8
)
と,そのメリットも認めてい る。その最大のメリットを文明化された人聞が世界中に広まっていくことに求めてい る。ちなみに,こうした「資本の文明化作用」の肯定は, トーリー保守派に限られた ものではないが,1
9
世紀半ばから彼らの聞では共通する認識となっていく。圏内的に 地主支配体制強化を追求しようとしたトーリー保守派は,穀物法撤廃などの経験を通 (7) 商業社会のマイナス面も十分強調しているが,商業社会それ自体の弊害というよりも, スミスが指摘した製造業における部分労働者化の問題や,都市化がもたらす道徳的退廃 をアリソンは強調する。なお,M
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が正しく指摘しているように(
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,機 械についてはメリットも認めている。M
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はそれを意外なこととしているが,BWM
の科学や技術に対する姿勢は両義的である(柳沢[
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。-218- 香川大学経済論叢
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じて,次第に対外的な大英帝国の増強へと姿勢を転化していくことになる。こうした トーリー保守派の議論の一つの原型を,人口の拡散を論じたアリソンに見出すことが できるのである。 このようにアリソンは,歴史発展と結びつけることで人口増加を肯定した。当然の ことながら,人口増加はそれにともなう,あるいはそれを上回る生活手段の増加を伴っ てきたとアリソンは主張する。ここがマルサス批判の最大のポイントである。多くの 統計資料を用いてその論拠を次のように説明している。 まだ未占有の土地が残っていたから,北アメリカでは急速な人口増加に応ずるだけ の食料生産が可能であった。しかし,土地が全て占有されてしまえば,食料の増加は 人口増加に追いつかなくなる,という議論がある。しかし,ブリテンの人口も,1
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年センサスでは1
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万人で,1
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年センサスでは1
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万人となっており,1
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年 現在では2
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万人に近づいていると推定されている。北アメリカの人口から黒人奴 隷や移民を除外するならば,ブリテンの人口増加率とほぼ一致している。しかし,こ の期聞にブリテンは生存手段の不足を経験したであろうか?とアリソンは問いかけ る。1
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年の凶作期においては食料の大量輸入があったものの,それでも食料価格は この4
0
年間で最も低い状態が続いている。食肉の消費は増加し,醸造所数も増加して いるし,資沢の習慣や費用のかかる生活は社会の諸階層へと浸透してきた。現実に起 きた問題は農業生産性の低下ではなしむしろ供給過剰であったとアリソンは言う。 「特に最近の進歩の聞に起きた最大の災厄は,農産物の過剰と低価格に由来する ものであった。……人々を維持する食料を与える困難などは全くなく,耕作者の 聞に唯一あったのは,市場における全般的な供給過剰に由来する災厄だけであっ た。J(PP,
1,
p..4
5
)
このような生産増加の背景には,農業生産性の上昇があることをアリソンは指摘す る。この1
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年間で荒地が開墾され小麦や燕麦が生産されるようになり,土管による排 水(
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)
を導入することで,スコットランドの湿地での生産は1.5
倍に,場 合によっては2倍へと増加したといった事例を挙げている (pぃ5
5
)
。生産の増加に必要 なのは r人聞のカと,勤勉さと資本」だけである (p.5
3
)
。今日では「農業革命」とも 呼ばれているが,アリソンが述べた1
9
世紀の集約的農業による生産性の上昇は,トーリ一保守派のマルサス像: 371 アーチボルド・アリソン『人口原理』の考察 -219-ー BWMの多くの論者が強調したことでもある。 農業生産性の上昇については,産業構造の観点からも確認されている。農業者が生 産した自らの生活を維持する以上の剰余生産物によって,社会の他の階級全てが維持 されている。それゆえ,全人口に占める農業生産者の比率から,農業生産性の変動を 確認できるとアリソンは言う。もし,食料生産が不足するならば,農産物は高価格と なり,その結果,農業労働者の賃金は上昇するから,労働者は農業へと引き寄せられ ていくはず、であり,次第に商業社会から農業社会へと移行していくはずである。しか しながら,ヨーロッパの歴史を見れば,どこの国でも農業人口は減少してきた (p..56)。 アメリカやポーランドと比較しでも,イングランドは最も古い国であるのに,農業人 口比率は最も低く,最も商業と製造業が栄えている。それゆえ r人口を上回る生産力 の累進的増加(progressiveincrease)Jは統計データからも明らかであるとアリソンは 言う (p“60)。アリソンにとって問題なのは食料の絶対震ではなく,労働需要の大きさ であり,それこそが人口増加の規制要因とされる (p78)。 もし大地全てが耕作しつくされ,本当に耕作の限界が訪れるならば,マルサスの想 定したような人口が食料を上回る世界も来るかもしれないが,それははるか先の将来 のことでしかない。それゆえ,マルサスの想定は空想的なものでしかない。こうして 人口増加を生産力が上回るのが r人間存在の根本法則」であり,この法則は時代が経 つにつれて弱まるどころか,強まっているという結論が導出される (p63)。ここまでの 議論は経験的なデータにもとづいて導き出されている。しかし,アリソンの真のねら いは神の摂理を擁護することにある。もし,人聞が劣等な動物と同様に,単に大地の 果実に依存して存在することだけを運命づけられていたならば,もっと急速に人口は 増大し,大地全体を近い将来に埋めつくしてしまうであろう。しかし,そんなに速く 増殖しないように創られているとアリソンは言う。 「人聞は個人としても種としても前進すること,すなわち動物の粗雑さ (gross -ness)から知的な性質!という威厳へと上昇することが意図されている。創造主の言 (8) BWMの論者たちは排水の他に,グアノ肥料の使用などを生産性上昇の要因として挙 げている。彼らは農業生産性上昇をマルサス批判の論拠としてだけでなく,穀物法擁護論 の論拠としても利用していた(柳沢 [1997aJ,p.136)。
-220ー 香川大学経済論議 372 葉で言えば,単に大地を「満たす」のではなく rそれを従える (subdue)Jことが 運命づけられている。J(pp, 1, p.. 81) 人口増加についてもそれを抑制する抑制原理(restrainingprinciples)があるとアリ ソンは考えている。抑制原理は神の摂理によって人聞にインプットされているのであ るが,それが歴史の発展段階に応じて,次第に作用するようになる。牧畜社会までは 「人口増加原理の無制限な作用」が必要であった。しかし,社会が進歩するにつれて, 初期社会にあった人類に脅威を与えていた危険はなくなるから,増加原理の無制限な 作用は不必要になると考えられている。抑制原理はマルサスの用語法で言えば,予防 的妨げにほぼ相当する。抑制原理が作用できるのは人間の理性のおかげである。 Dス チュアートを援用しながら,物事の帰結を人聞は理性によって予期できるから,増加 原理による満足を拒否することができるとする。大まかに言ってしまえば,マノレサス が悲観的に見ていた道徳的抑制の普及を,アリソンは楽観的に見ていたということに なるが,アリソンの場合は本能の捉え方がマノレサスとはやや異なっている。 「人聞は個人としても種としても進歩するように運命づけられているので,人間 の本能はその進歩する本性にふさわしし一つだけの状況にではなく,人間が置 かれるあらゆる状況に適合する。J(PP, 1, p. 89) アリソンにおいては,本能自体が変化しうるのである。マノレサスの場合にはゴドウィ ンとの対抗上,情念不変論を固持する必要があった。それゆえ,道徳的抑制は禁欲と 結びつげられて語られることになる。しかし,アリソンの場合は,本能は欲求によっ て抑えこまれることになる。 「文明化された生活における人間精神の最も強い欲求は,自らの境遇を改善する 欲求である。それは慎慮と努力(exertion)によって生まれついた状態よりも向上 しようとする欲求である。J(PP, 1, p..93) こうした欲求は r社会の進歩につれて発展する人為的な欲望(artificialwants)と 先見の習慣J(p..87)によって形成される。上層と下層では,上層の方が人口増加率が低 いことから,奪修品などに対する「人為的な欲望」が高まることーアリソンはこれを スミスの自愛心になぞらえているーによって,抑制原理の作用することが論証できる としゼいる。先見の習慣は教育によっても育成されるが,教育の及ぼせる範囲は限定
トーリ一保守派のマルサス像:
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アーチボルド・アリソン『人口原理』の考察 221 的であり,者イ多品などに対する人為的な欲望の方が決定的な形成カを持つというのが アリソンの見方である。ここには教育の弊害を問題視するアリソンの姿勢が反映して いる。アリソンは世俗的な教育の普及や『ペニー・マガジン』などによる教化が労働 者の道徳を退廃させたと見ている。そうした主張の背景には,労働者の政治参加、への 危険性という認識がある(
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。マノレサスや他の多くの論者は人口抑制 の手段として教育に大きな期待をかけていたが,アリソンは人口抑制にはつながらな いと見ていた。そこで教育により養われる先見よりも,自の前にある財に対する欲求 の強さを強調したのである。マノレサスの用語法で言えば,安楽水準の上昇ということ になる。この可能性についてアリソンはきわめて楽観的であり,上流の高い生活習慣 が下層へ浸透する経路だけが問題とされる。富裕な階層と貧民層との聞には大きな隔 たりがあるが,それをつなぐ「多くの豊かな中間層の確立」によって,消費水準の上 昇を可能にさせる経路が生まれることになる (p.119)0 Michie [1997Jによれば,アリ ソンはスミスから道徳的な存在としての中間層という見方を継承しているが,このよ うな中間層経由での習慣の形成には,抑制原理の作用とともに,社会的な安定をもた らす勢力の形成という期待も込められていたのである。 次に救貧政策について見ていこう。マルサスが救貧法廃止を唱えた理由の一つには, 救貧法が自発的な慈善の精神を衰退させることもあげられていた。しかし,アリソン によれば,富者には自発的な慈善を行う意思もないであろうし,そもそも貧民が多す ぎて彼らにはその能力もないだろうと見ている(
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77)。それゆえ,公的な給付 が必要となる。アリソンの救貧法擁護の第一ポイントは,救貧法が人口を増大させな いという点にある。所得水準を高めることは,生活水準を上昇させようとする人為的 な欲望の形成に役立つ。したがって,救貧法は人口抑制に作用するというのがアリソ ンの考え方である。貧民の窮乏は結婚を遅延させる効果を持つかもしれないが,むし ろ理性的に判断する能力を奪ってしまう可能性がある。アイルランドを引き合いに出 しながら,次のように言っている。 「イングランドのアリストクラシーは困窮にさらされることはないが,それら 〔人口に対する抑制〕は彼らの中にもっともよく存在する。絶えず生活の必需品 の不足に見舞われているために,アイルランドの小作人間に見出すことはないだ-222- 香川大学経済論議 374 ろう。J(PP, 2, p 207) アリソンの主張には伝統的なパターナリストのような側面もある。しかし,救貧法 擁護論は旧来の生存権を根拠としているわけではない。食料に対する貧民の権利の擁 護として救貧法を見ていたのではなく,自らの境遇を改善しようとする抑制原理を作 用させる条件整備として救貧法を擁護したのである。ここからさらに,貧民による土 地所有まで展望していくことになる。急進的な土地分配論ではなく,移民論を射程に 入れたものであるにせよ,境遇を改善しようとする意識を向上させるのに,土地所有 がきわめて有効であると論じたのである。
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~人口原理』とマ 1レサス 『人口原理』の目的は「序文」において示されている。そこでは,人間の社会的運命 に置かれている神の摂理を明らかにすることが目的であると述べている (PP,1, p xiii)。神学をベースにして人口論を展開するという点では,マノレサスからJB
サム ナーやホェートリーたちへと展開されたクリスチャン・ポリテイカル・エコノミー派 と基本的な発想、は同じである。彼らは,神学と接合しやすいように,マルサス『人口 論』が持っていた悲観的側面を緩和させることを企てていった。この系譜の源流は, 神のデザイン論から文明社会を説明しようとしたペイリーにある。ペイリーはもとも とは人口増加肯定論であったが,マJレサスの批判を受けて立場を変えている。デザイ ン論から人口増加を導き,それを商業社会肯定論へとつなげるアリソンの発想は,初 期ペイリーに近い立場にあるということができる。 Michieはクリスチャン・ポリテイカノレ・エコノミー派をレツセ・フェーノレ支持と位 置付けて,政府の役割や市場メカニズムに対する信頼度の点でアリソンと異なると整 理している(Michie[1997J, pロ針。確かに,救貧法に対する姿勢などには大きな聞 きもあるが,アリソンとクリスチャン・ポリテイカlレ・エコノミー派との共通点も多 い。表向きのマノレサス評価こそ正反対であるが,人口増加を文明の発展の原因とする 18世紀的な歴史観に立っていること,そして両者が用いた道具立て,すなわち,道徳 (9 ) クリスチャン・ポリテイカル・エコノミー派をレツセ・フェール支持と一括するのは, 正確さを欠いていると言わなければならない。この点については別稿で論じたい。トーリー保守派のマルサス像: 375 アーチボルド・アリソン『人口原理』の考察 -223-的抑制の普及を楽観視すること,人口圧がもたらす生産性上昇を認めること,などは きわめて類似しているのである。さらに言えば,マルサス評価さえ必ずしも正反対と は言い切れないのである。アリソンのマルサス像は初版『人口論』を中心に作られた, 通俗的なイメージに負っているところが多々ある。例えば,労働者階級が安楽水準を 上昇させればよいという考え方は,それをどの程度楽観的に展望していたかという相 違はあるものの,マJレサスもアリソンもほとんど違いはないと言ってよい。また,マ ノレサスも『人口論』第4版(1807)から,救貧法が人口増加に与える影響は低いこと を認めるようになっており,救貧法廃止論をとっていたかどうかという相違だけを もって,両者が救貧法について正反対の立場であったとも言い切れないのである。 さて, BWMグループとの異同は別稿で論じるとして,最後にアリソンの特徴であ る統計データの活用に言及しておきたい。『人口原理』で最も頻繁に利用されたデータ はG Rポーター「自然の進歩』によるものであるが,他に1801年から開始されたセ ンサス,マカロックやトウツクが収集したデータなども利用されている。アリソンが 数多くの統計データを利用した背景には, 1832年に商務省統計局の設置, 1834年にロ ンドン統計協会の設立, 1838年に『ロンドン統計協会雑誌』の刊行など, 1830年代か ら本格化する社会科学の領域における実証的研究の進展がある。『人口論』における統 計データの利用,あるいはロンドン統計協会への理事としての参加など,マルサス自 身も実証データに関心が高かったことは言うまでもない。しかし,マノレサス『人口論』 が統計的に反駁可能な構造になっているかいなしユかという点はおくとして,統計を活 用したのはマルサスを批判する陣営の方であったといえる。その代表は, M..サドラー 『人口法則~ (1830)である。サドラーは人口増加率に関するロジスティック曲線の萌 芽的な認識を示したとされており,人口密度増大にともなう人口増加の逓減傾向を もって神の摂理を論証しようと試みた。 Bowley[1937Jによれば, 1830年代にはマノレ サス『人口論』に対する一般的な評価も変わりはじめ,ポリテイカル・エコノミー・ クラブなどでもそれは否定的に論じられるようになっていた (p125)。例えば,マカ ロックが統計研究を進める過程で,マ1レサス人口法則や収穫逓減を否定するようにな り,リカードウ派から離脱していったことはよく知られている。マカロックは救貧法 。 的 に対する態度も変更するようになる。アリソンの議論はサドラーやマカロックとも多
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くの共通点がある。それゆえ, B W Mク、ループにおける位置付けと同時に,実証研究 の展開の中でのアリソンの位置付けも検討する必要がある。
参 考 文 献
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