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ブロンテ書簡研究(3)

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(1)

ブロ ンテ書簡研究

(3)

英語教室

上 は る 子 (七

)1840年

1840年の前半 はプランウェル をのぞ く姉妹全員がハ ワースにいた。 シジウイ ック家での家庭教師 をわずか 2カ 月で辞 めたシャーロッ トは39年7月 に帰宅 し,アンもまたインガム家か ら解雇 されて12 月には戻 っていた。ギャスケル夫人 はこの間のブロンテ姉妹たちの話題 の中心 は学校経営であった と推定 している(『シャーロッ ト・ブロンテの生涯』第

9章

)が

,エ

レンヘの手紙で はそれ を示唆す る ものはない。わかっているのは次の家庭教師の職探 しに

,シ

ャーロッ トが あまり積極的で はなかっ たことである。彼女が ようや く腰 を上 げたのはシジウィック家か ら帰ってか ら半年後であった。だ が40年1月 には熱心な求人 を断 り(1840年 1月24日付 け

),秋

風が吹 き始めた頃にはイ ソップの蟻 と キ リギ リスの寓話 を引用 している (1840年9月29日 ?付け

)が

,け

っきょくシャーロッ トが仕事 に 就いたの は

,ホ

ワイ ト家 に赴任 した1841年3月になってか らである。 1840年のエ レンヘの手紙 の多 くは「愛 と結婚 の ことばか り」(1840年5月15日付 け)とい うように, エレンの結婚話や前年の夏 に赴任 した牧師補 ウィリアム・ ウェイ トマンをめ ぐる話題が中心になっ ている。 シャーロッ トは前年の3月 にエ レンの兄ヘ ンリ・ナ ッシーの求婚 を「結婚する相手 に対 して 抱 くべ き深 い愛」(1839年3月12日)を 感 じられない とい う理由で退 けていたが

,エ

レンには「`灼 の恋'などとい うものは`大いなる狂気'なのです」(1840年

H月

20日付 け)と 述べ

,現

実的な結婚 のア ドバイスをしている。 しか しその一方で シャーロッ トはウェイ トマ ンの一挙手一投足 に強い関心 を 示 し

,彼

に魅了 されていたのはこれ まで信 じられていたようにアンではな く

,む

しろシャーロッ ト

自身で はなかったか と思わせ る (」uliet Barker,att β陶%チ偽 PhOenix Giant,London,1995,pp.

324329)の

である。 この時期

,エ

レンヘの手紙 で は触れ られていないが

,シ

ャーロッ トは出版 を意図 して創作 してい る。「 アッシュワースJと して知 られ る未完 の作品がそれで

,執

筆時期 は1839年末か ら40年 にかけて と推測 されている。シャーロッ トは原稿 を40年の夏の終わ り頃にH.コール リッジに送 って

,出

版 の 可能性 をたずねた。 コール リッジの返事 は残 されていないが

,そ

れ に対す るシャーロッ トの礼状 は 下書 きと投函 された手紙 の両方が残 されている。 シャーロッ トがコール リッジに手紙 を書いた背景 には

,ブ

ランウェルが彼 と親交があった ことが考 えられ る。1840年1月か ら湖水地方 に近 いブロー ト ン・ イ ン・ ファーネスのポスルスウェイ ト家の家庭教師を務 めていたブランウェルは

, 4月

20日 に コール リッジに自作の詩 とホラチウスの『オー ド』の翻訳の一部 を送 り

, 5月

にはア ンブルサイ ド

(2)

の 自宅 に彼 を訪 問 した。 ブ ランウェル はポスルス ウェイ ト家 を6月 に解雇 され

,再

びハ ワー ス に戻 ったが

, 8月

末 に リーズ・ マ ンチ ェス ター鉄 道 が 開設 した ばか りのサ ワ ビー・ プ リッジの駅 員 に採 用 され た。

* * *

書簡 の翻訳 にあたっては

Margaret Smith ed,T力

ι Lι滅偽 げ

C協

ん 滅

B陶

%紘

Volume One

18291847(ClarendOn Presso Oxford)を 使用 した。従来用い られて きたワイズ とサイ ミン トンによ

るシェイクス ピアヘ ッド版 の書簡が出版 されてか ら半世紀 あまりが経過 し

,新

たな書簡 の発見や 日 付 けや宛名 の間違 い も指摘 され

,新

たな編集が待望 されていた。 クラレン ドン版 で は詳細 な注 も施 され

,す

でに完了 したブロンテ作品集 とともに今後 のブロンテ研究 における定本 になることは確実 である。ただ しブランウェルの書簡 は収録 されていない。 本稿で は書簡 の部分 は全面的に訳 したが

,注

は必要最低限のものにか ぎって要約 す る形 とした。 また宛名 は特別 の記述がないか ぎリエ レン・ ナ ッシー宛 の ものである。 [1840年 二月12日] 今朝 いただいたお手紙 は痛 ましい内容 の もので した。アン・C(1)が亡 くなったようです。最後 に会 っ た ときは若 くて美 しい幸せな少女だったのに

,今

や「人生 の熱病」は去 り,「安 らかな眠 りに」就い ています。ち もう三度 と彼女 に会 うことはないのです。それ を思 うと悲 しみを感 じます。心の優 しい 愛 らしい娘で

,わ

たしは彼女が好 きで した。今で はその姿 をこの世 のいず こに探 してみて も見つか らないのです。20年前 に枯れて しまった花や木の葉 と同 じように。 こうして死別 してみ ると

,友

達 がひ とりふた りと去 ってい き

,身

辺 の人々 をすべて失 って

,一

人だけ取 り残 されて人生行路 を終 え なければな らない人 の心の内を

,か

い ま見 ることがで きます。 けれ ども涙 を流 して も無益 とい うも の。 くよ くよ嘆 くまい と思います。 重ねて ご招待 は致 しませんで した。伯母が冬 の間 はどんなお客 も迎 えるべ きでない とい う意見で すので。初 めはこんなことは言いた くなか ったのですが

,け

っきょく正直が一番の策 と思 った次第 です。長い こと気 になって落 ち着かなかったのですが

,こ

うしてはっきり書いて しまった ら

,ず

っ と気が楽 にな りました。 この1ペニー郵便。)を最大限に活用 しようと思います。つ まりこのまま家 にいて も「外 に出て」も , 時間があるか ぎ り

,で

きるだけ頻繁 にお便 りす るつ もりです。 皆か らよろし くとのことです。

H夫

人 “ )のことをお知 らせいただいて,きちん とお礼 を言わな くて はと

,父

に言われていた ところです。わた しはそれ どころか

,あ

なたのはっきりしない書 き方 と読 みづ らい筆跡 に小言 をいわなければ と言い ました。エ レン

,お

手紙 を判読す るのに30分 かか りまし た。 どうか

,す

ぐにお便 りください。ハ リレー夫人 は毎 日わたしの返事 を待 つているのに

,わ

た し はあなたか ら便 りがなければ返事が出せ ないのですか ら。あなたの名前な どは伏せてお きましょう。 ウラー先生 に も情報 を くださるよう手紙 を書いた ところです。 さような ら

,愛

す るエ レン シャーロッ ト・ プロンテ 追伸

0

自分 の名前 を書かな くて もただ頭文字 を示すだけで広告 に応 えることはで きます。人 によって は 名前 を要求す る場合 もあ りますが。

H夫

人 のように。家庭教師に耐 えられ るだけの体力が ご自分 に

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 47巻 第

2号

(1996) ある と思 い ますか。 その ことを考 えるのを忘れ ないで くだ さい。 (1)Ann COOk(182540)と 考 えられる。シャーロットがウラー塾の助教師だった頃の生徒で,妹 アンとは同級生だっ た。 2)『マクベス』第 3幕第 2場23行日 (3)1839年 8月17日に「ペニー料金郵便法」が成立 し

,翌

40年 1月10日か ら全国版ペニー郵便制度が施行 された。

は)Mrs.Edward Halliley(1日 姓Susanna Hirst)デ ューズベ リの羊毛・カーペット製造工場主」Ohn Halllley Junior

は義兄にあたる。シャーロットは夫人が『リーズ・インテ リジェンサー』紙 (1839年12月 21日付け)に掲載 した 家庭教師の求人広告に返事を出したものと思われる。

(5)T`J WiSe/」A,Symington,eds,Tあ ¢B陶%ナゐrT之彦″LゲυpsJ Fic″ゐ力ヵs,″プGο夕γ鎧)ο″力″膨 (The Shake_

speare Head BrOnto,Oxford,1932,以 下

W&Sと

略記する

)で

は追仲の冒頭に次のような文章がある。「わた しの見 るところでは,あなたの決心 は正 しいと思います。それを実行できるよう願 うばか りです。ご自分の能力 を疑っているようですが,そんな必要 はありません。」 [1840年 1月 24日] 愛するエ レン エ ドワー ド・ ハ リレー夫人 にとどめを刺 した ところです。つまり住み込みになるのをお断 りした というわけです。 きっ とお腹立 ちで しょう。最初 にお断わ りした ときにも

,ひ

と月だけ試 してみて は

,

と勧 めて下 さったのですか ら。 そんなわけで今 はまた

,何

のあて もな くぶ らぶ らしてい ます。 困った ことですが

,そ

の うちまたなにか来 るで しょう。 仕事 に出 られ るとい う計画ですが

,わ

た しにはお勧 めす るべ きか否かわか りません。問題 はあな たの健康 だ と思い ます。メア リ・ブル ック(1)のように勤 め先 に恵 まれれば

,あ

なたで も充分や りこな せるで しょう。で も近頃の苦し暴で手 に負えない子供たちの家

,た

とえばブレイク・ ホールのような お宅で は,ま ず保 たないで しょう。アンは三度 と戻 るつ もりはあ りません。インガム夫人。)はもの静 かで穏やかな方なのですが

,子

供 たち ときては

,彼

らをしつけるなんて命 を削 るようなものです。 家庭教師 として人生 を過 ごす しかない と思 うと

,暗

浩 とした気持 ちにな ります。わた しが思 うに, この職業でいちばん必要なことは物事 をあるが ままに受 け入れ

,ど

こにおかれて も気楽 に くつ ろげ る能カーーーわが家 の人間たちが ことごとく欠いている資質 なのです。わたしにはシジウィック夫 人。)のような人 とはやっていけない ことはわかっています。女性がすべて彼女のような人ではないこ とを願 い ます。わた しのモ ッ トー は「ぶたたび試みよ」です。 かわいそうにメア リ 。テイラーが病気だそうです。最近

,彼

女 に会 うか消息 を聞 きましたか。病 気が流行 っているようで,こ ち らで は亡 くなる人 も少な くあ りません。プライスさん “)が亡 くな られ ました。 しば らくおカロ減がす ぐれなかったのですが

,血

管 の破裂が命取 りにな りました。 ほんの半 年前にお会 い した ときには

,筋

骨隆々 として見 るか らに丈夫 そうで したのに。彼 のことはほ とん ど 知 りませんで した し

,そ

の消息 にとくに関心 をもっていた とい うわけで はあ りませんが

,そ

れで も 亡 くな られた ことを突然知 らされた ときには

,正

,驚

,

また悲 し くも思い ました。そう感 じた か らといって

,恥

ずか しがる必要 はないで しょう。エ レン

,字

が汚 くて読 みず らかったです。 この お世辞 のお返 しに

,わ

たしの手紙 も負 けず劣 らず関心 をもって読んで ください。長いお便 りをす る 気分になれ ませんので

,こ

の辺で失礼いたします。神 の祝福 を。

(4)

(1)おそらくMaria BrOOkeの こと。

②MrS Joshua lngham 旧姓Mary Cunliffe Lister(181299)。 なお前出のBlake Hallは インガム家の住居。 (3)Mrs Sidgwick 旧姓Sarah Hannah Greenwood(180387)。 シャーロッ トは1839年 6月か ら7月 まで同家で家

庭教師を務めた。1839年6月 8日 付 けエ ミリ宛ての手紙 を参照。

(4)The Revd David Pryce(1811-40)は 1840年1月17日に死亡 した。彼 はシャーロッ トに求婚 したことがある。1839

年8月4日 付 けエレン宛ての手紙 を参照。 [1840年3月 17日] 親愛なるエ レナー夫人 40馬力であなたを叱 りたい気持 ちです。マーサ・ テイラーに「全部 は言わないで」 とお願 い した ことを

,本

人 に教 えたで しょ。 もちろん彼女 はそれ を知 って恐 ろし く不機嫌 にな りました。お まけ にあなた とわた しが彼女 に知 られた くない ことを

,何

か こっそ りやっているらしい と勘 ぐって

,か

っか してい ます。 そういう状況 なので

,あ

なたの舌 に課 して もよかったのですが

,ど

うせ抑 えようがない ことは明 らかですか ら

,禁

止命令 は解除 したい と思います。ゴマ ソール(1)まで足 を運 んで ,思い出せ ることは 何で もただちにすべて話 してあげて ください。「美 しいエ レン」「愛 をこめて」「気高い心」などと書 いたヴ ァレンタイ ンのカー ドの ことなどを含 めて。 ミス・ シ リア・ア ミー リア・ウェイ トマン。)の 顔絵や

,あ

のお若 い婦人 の頻繁 なる楽 しい訪間 について も同様です。 ところであの知的で面 白い若 者 に

,あ

なたの ことをどう思 うか聞いてみ ましたよ。好意的な もので した。美人で

,し

か もたいへ ん良い娘だ と思 っています。キース リーでの講演(0の論評が載 った新聞 は配達 され ましたか。モーガ ンさん “ )が来 られ

, 3日

ほど滞在 され ました。 ミス・ウェイ トマ ンのおかげで

,と

て もなごやかにい きました。あの太 ったウェールズ人 の話 を辛抱強 く機嫌良 く聞いてあげているのには

,驚

きました。 もっともあの長話 には閉口した

,

と後で言 ってい ましたが。 あなたがいないので

,わ

た したちはとて も退屈 しています。 あの

3週

間が また戻 って こない もの で しょうか。あなたがお帰 りになってか ら

,伯

母 はときどきとて も不機嫌 にな りました。今 は少 し ましですが。 日曜 日はひ どい風邪 をひいて

,ほ

とん ど一 日中家 にい ました。 アンの風邪 は良 くな り ましたが,ま だ体力 はじゅうぶんに回復 していない ようです。ジュー・バスケ ッ ト0用にわた しが絵 を送 らなかった ことで,アンお姉 さまはどう言ってい ましたか。アーン リー。)に行 くことで頭がいっ ぱいで

,こ

の ことな どお忘れだ とよいのですが。 この辺でペ ンを置かなければな りません。家 中の者が よろし くといっています。 ミス・ シ リア・ ア ミー リア・ ウェイ トマンもよろし くとの ことです。す ぐまたお便 り下 さい。 シバ リー。) 殉教者 のような気持 ちでわが身 をあなたとマーサ・ テイラーの手 にゆだね ます。つ まり庭 に座 って 歯 を抜 こうとしているときに経験す るような気持 ち とい うことです。あなたは人が言った ことや, したことを報告す る独特の方法 をお持ちですね。 そ してマーサ はそれを報告す る

,さ

らに変わった や り方 をもってい ます。

(1)テイラー家 の住居the Red Houseがそ こにあった。

鬱)ブロンテ師の二人 目の牧師補William Weightman(181442)のあだ名。1839年7月末か らハ ワースに赴任 してい た。1839年 7月26日付 けエ レン宛 ての手紙 を参照。

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 47巻 第

2号

(1996)

(3)グラム大学で神学だけでな く古典文学 も学んだウェイ トマンは,キ ースリーで古典文学について講演を行った。

(4)Revd William Morgan(17821858)ブ ロンテ師が1809年にシュロップシャーのウェリン トンで牧師補であった

頃か らの知人。

(5)ユダヤ人をキリス ト教化する目的で1809年にロンドンに協会が設立され,1815年 には婦人による支援グループが

リーズに発足 し活動を始めた。1839年12月21日付けエレン宛ての手紙 を参照。

(6)エレンの兄Henry Nusseyが 赴任 しているサセックス州チチェスターのEarnley牧師館のこと。アンはヘンリの世

話 をしていたマーシー と交代することになっていた。 (7)なべかま音楽。台所用品などでやかましい音をたて,人を批判 した り嘲笑する。 [1840年4月 7日 ?] 親愛なるメネラウス夫人(1) こんなにす ぐお便 りを差 し上げるなんて

,わ

た しって本当に良い人で しょう。実の ところ

,あ

ん まり手紙が くるので押 しつ けが まし く感 じや しないか

,

とて も心配です。本 当 は二月 くらい間隔 を あければ

,そ

んな不安 もまった く消 えるで しょうし

,年

を重ねるうちに遅れ る癖 も改 まるで しょう か ら。(年寄 りみたいに手が震 えます

,た

ぶん文字が読 めないで しょう

,引

出 しにで もしまっておい て下 さい

,こ

ん ど会 った ときに読 んであげますか ら。)あなたがお帰 りになった後

,ハ

ワースの小 さ な村 は教会 の維持税(分をめ ぐって大騒 ぎです。日 llE学校 の教室で開かれた集会 は大荒れで した。コリ ンズさん。)と ウェイ トマンさんが,議 長席 のお父 さまの両側 について護衛 しました。猛烈な反対 にコ リンズさんはアイルラン ド人 の血 を煮 えた ぎらせ ました。 もしお父さまが口でなだめた り力づ くで 押 し止 めなかった ら

,コ

リンズさんは非国教会 の人 たちに「煙 っばいキャベ ツ」141を 与 えた(ス コッ トラン ドの諺ですが

,そ

れについて は別 の機会 に説明 します

)こ

とで しょう。 コ リンズさん もウェ イ トマ ンさん もその時 はなん とか怒 りをこらえていましたが

,そ

れ は後 日

,倍

の激 しさで爆発す る ことにな りました。先週の 日曜

,国

教会反対 とその末路 について説教がぶたつ行 なわれ ました。ひ とつ は午後 ウェイ トマンさんが

,

もうひ とつ はコ リンズさんが晩 に行 ない ました。非国教会 の人 た ちは全員が招待 されていて

,彼

らは自分 たちのチャペル を閉めて一団 となってやって きました。当 然

,教

会 の中はす し詰めにな りました。 ミス・シ リア・ア ミー リアは高教会派の使徒伝承(0について 酒々 と弁 じたて一一一説教で はおめず憶せず非国教徒 を激 しくたた きました。 これで彼 らも十分お 灸がす えられた もの と思 えましたが

,そ

の晩

,彼

らの喉 に流 し込 まれた苦薬 には遠 くおよび ません で した。先週の日曜の晩にコ リンズ さんがハ ワースの説教壇で行 った説教 ほど

,痛

烈で巧妙で恐れ を知 らない胸 に迫 る大演説 を

,わ

たしはかつて知 りません。 とくに大 げさな ことばを使 ったわけで も洒落 たせ りぶを言ったわけで もな く

,ま

た愚痴 ってみせた りお涙ち ょうだいをしたわ けで もあ り ません。彼 はただ立 ち上がって

,自

分 の言っていることの正 しさを確信 し

,敵

を恐れず結果 に不安 を抱かない人 だけに与 えられた勇気 をもって話 しただけのことです。説教 は一時間ほど続 きました が

,終

った時 には残念 に思 ったほ どです。わた しはコ リンズさんやウェイ トマ ンさんの意見 に全面 的に

,い

な半分 も賛成 なわ けで はわ けで はあ りません。偏狭で寛容心に欠け

,常

識的 にみてまった く正当化 しえない と思います。わた しには良心か らしてピュージー主義者

0や

フック。)の信奉者 には なれ ません。 それ どころか もし非国教会派だった ら

,自

分 の信 じる宗教 とその師たちをあそ こまで 呵責 な く攻撃 したふた りを

,機

会が あ りしだい蹴 とばすか鞭 を くれ るか していた ことで しょう。 と はいえ

,か

くも屈強の敵 を前 に恐れ ることな く

,堂

々 と論陣 をはった勇敢 さには感 じ入 りました。 わたしたちの友 ミス・ シリア・ ア ミー リアのためにアグネス 。ウォール トンの肖像画 を描いてあげ

(6)

た の で す が

,そ

れ を見 た時 の あ の 方 と きた ら

,ま

るで お もち ゃ を も らっ て嬉 し くて た ま らな い こ ど もの よ うに眼 を輝 か す ので す 。 そ れ を ご覧 に な っ た ら

,あ

な た もお笑 い に な る こ とで し ょ う。 さ よ うな ら。 キ ュー ピ ッ ドが 云 々 な ん て

,つ

ま らな い こ とは も う言 わ な い で くだ さ い 。 それ が 根 拠 の な い た わ 言 で あ るの は

,わ

た し と同 じ よ う に

,あ

な た に も よ くお わ か りの はず で す 。 C・ プ ロ ンテ ウ ェ イ トマ ン さん はキー ス リー機 械 工 協 会(0でも うひ とつ説 教 を な さ り,お 父 さ ま も説 教 をな さい ま した 。 ふ た りの こ とは新 聞 に大 き く取 り上 げ られ ま した が

,そ

こに は「 沼 地 と山 に埋 もれ

,ご

く 最 近 まで 半 ば野 蛮 人 の 国 と思 わ れ て い た

Jハ

ワー ス の村 か ら

,

これ ほ どの知 性 が 発 揮 され るの は驚 異 的 で あ る と書 か れ て い ま した。 (1)MrS Menelaus ヘレネー (スパルタ王メネラウスの妻, トロイのパ リス王子が彼女を奪い去ったことか らトロ イ戦争が起 こった。)HelenとEllenの発音が似ていることか らか。 (2)教会維持のために徴収 されていた税金で,何の恩恵 も受けていない非国教会の人々は各地で納税 に反対 していた。 この手紙における話し合いが開かれたのは1840年3月26日で,その模様 はThe Bradford Observer(2 April,1840)

で報 じられた。

(3)Revd.JOhn c01lins ァィルラン ドのアン トリム出身。

(4)「とっちめる」「 ぎゅうという目にあわせる」の意。

15)カ トリック教会や英国国教会が,その権威 を使徒(Apostles)から継承 されているとする主張。 (61Edward Bouverie Pusey(180082)神 学者でオックスフォー ド運動指導者。

(7)Walter Farquhar HOOk(17981875)1839年 か らブィク トリア女王のチャプレンを務 めた。38年に`Hear the

Cllurcrと題 した説教で使徒継承 を主張 した。

、 1811825年に設立 されると同時にブロンテ師 は入会 し,1833年 4月 8日に脱会 した。 [1840年4月30日] 愛す るエレン この贈 り物 に感謝 していないわ けで も

,贈

り主の ことを忘れたわけで もあ りません。お便 りす る 前 にバ ッグを仕上 げ

,

とて も可愛 らしい トルコ風 の贈 り物への礼状 と一緒 に送 りたい と思 っていた のです。で もキース リーで は紐 もぶ さ飾 りも手 に入 りません し,ど こかへ出か ける機会 もないので, もうしばら く手元 に置いてお くしかないようです。 お便 り,と て も興味深 く読 みました。アン。)の性格が顕われています。困った ことをして くれ まし た。 もしミス・フォレッ ト9)が傷 つ きやすい人で

,彼

女が ほん とうに心 を寄せていた とした ら

,耐

え なければな らない失望 は彼女 を打 ち砕 き

,事

を完全 に終わ りにして しまうに十分 だつたで しょう。 正直

,今

の ところまだ結婚 に反対 す るだけの しっか りした理由は見 あた りませ ん。お姉 さまが彼女 の ことを厚か ましい と言 っていることについては

,わ

た しは割 り引いて考 えなけれ ばな らない と思 います。そ うした非難 は初 めか ら偏見 をもった人間が言っていることなのですか ら。 お便 りの雰囲気全体 の中には他 に

,あ

なたが何人かのお友達 のようでない ことを感謝 した くなる ような ものがあ ります。月睫装

,財

,社

会的地位がお姉 さまには人物 を評価す る上で唯― の基準 に なっているように思 えます。 あなたのお姉 さまは世間な ど捨てた とお考 えの ようですが

,そ

の世間 の もっ とも愚か しい見方のい くつかが,ま るで疫病 のように彼女 に とり憑いてい るのです。エ レン, あなたはそうした考 えを避 け,「しっか り真実 を見極 めて」いることで しょう。 ア ンはほん らい聡明

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 47巻 第

2号

(1996) な女性 だ ったのですが

,そ

の判 断力 が歪 め られて しまったのです。人 を見 る眼 をす っか りな くし, いぜ ん はたぶ ん暖 かで あった心 も弱 ま り曇 って しまい ました。 それ もすべて無慈悲な野心一一一成 り上 が りたい とい う気持 ち一――彼 女 の眼 にはその意見 や富 や服装が大 きな価値 を与 えてい る と見 える人 々 に認 め られ たい とい う気持 ち―一― のなせ るわ ざなのです。 ヴ ィンセ ン トさん0と い う方 についての部分 は,わ た しに はまった く理解 で きません。説明 らしい こ とは一 言 も書 いて くだ さ らないのですか ら。 これ について はただちにお知 らせ下 さい。立派 な方 な らば

,素

敵 な こ とになれ ば よい と思 ってい ます。恥 ずか しが る こ とはあ りませ ん。 で も適切 な人 でなけれ ばい け ませ ん よ。 そ うで なけれ ば彼 が あなた を手 にいれ ることを

,わ

た しが許 しませ ん。 ブル ックロイ ドで は

,足

腰 も立 たな くな るほ ど働 か され てい るので はないで しょうか。ヘ ン リが言 うよ うに

,身

体 に気 をつ け

,あ

ま り心配 しす ぎないで。編 み棒入 れ の箱 を伯母 が とて も喜 び ました。 C・ プ ロ ンテ (→エレンの姉Annの こと。兄ヘンリの世話にアーンリーに行っている。1840年3月17日付けエレン宛の手紙を参照。

(2)エレンによって名前が削られている。

W&Sで

Halkettとなっているが,F011ettと も読める。

(3)Revd Osman Parke Vincent(P181385)ヘ ンリ・ナッシーの学生時代からの友人。

[1840年5月 15日] 愛す るエ レン 先 日のお便 り

,

とて も興味深 く読みました。人 の行動 を正 しい と思 った とき

,そ

れを伝 えるのが よい とは限 りませんが

,そ

れで もとて も愉快 な ことです。仮 にあなたが間違った行動 をとっていた として も

,そ

れ をはっきりと言 えるだけの誠実 さがわた しにあるよう願 いたいものです。ですか ら 正 しい行動 をなさった今

,わ

たしは自分が思 った ことを好 きなだけ言いたいのです。 あなたが聴罪 の司祭 さまな ら

,わ

た しはあなたには思い もつかない欠点 を晒けだしていることで しょう。つ まらないお世辞 を本気にしているな どと思われたら困 りますが

,ほ

め言葉 につい嬉 し く なって

,そ

れ を隠すのに一苦労す るとい うこともあ ります。か と思えば

,無

視 あるいは非難 とも取 れるような性急な言葉 による疼 くような痛みに

,ま

ん じりともしない夜 もあ ります。 どんなに説得 されて も尊敬で きない一―一愛 せない とまではいいませんが一一一お方 とは結婚 し てはいけません。結婚す る前 に尊敬で きるような人 ならば

,少

な くとも穏 やかな愛情が生 まれて く るで しょうか ら(1ち 情熱 は決 して望 ましい もの とはいえない と思います。第1にそれ はめったに,い え決 して報 い られない ものだか らです。第2にた とえ幸艮い られた として も

,そ

んな感情 な どほんの 一時的な ものに過 ぎません。新婚 のあいだ くらいは保つで しょうか。そして次にはおそらくそれ は 嫌悪

,も

っ と悪 い ことには無関心 に取 って代わ られるで しょう。なるほどそれは男性の場合だけか も知れ ません。で は女性 はといえば――― 自分の方か ら一方的に愛す るしかない とした ら

,神

よ, 救い給 え。 [わた したちの手紙 は妙な調子 になって きました。愛 と結婚のことばか り書いていますが

,Pほ

とうに

,あ

なたはあまり年 を取 らないうちに結婚するだろうという予感があ ります。 このほめ言葉 に感謝 していただかな くて結構です。なぜって

]わ

た しはまった く結婚 しないだろうと

,か

な り確 信 してい ます。理性がそのように告 げてい ます し

,わ

た しは感情 の奴隷 というわけで はないので, ときお り理性 の声 に耳傾 けることがで きるのです。

C.ブ

ロンテ

(8)

(りところがシャーロット自身 は,およそ 1年前にエレンの兄ヘ ンリ・ ナッシーの求婚に対 して「強い感情」 と「敬 愛」を感 じられない として断っている。1839年3月 12日付 けエレン宛ての手紙 を参照。 1840年5月26日(0 拝啓 今朝ぅ書類 を整理 していた ところ

,先

月付 けのお手紙 を頂 いていたのに

,お

返事 を差 し上 げてい ない ことに気づ きました。返事が遅 いことで は妹 さんのエ レンにたびたび叱 られていますが

,こ

れ では当た り前 とい うものです。 けれ どあなたはもっ とひ どい失敗 もお許 し くださる思いや りの持 ち主 と信 じています。 とくに急 いでその償い をしようとい うのな ら。 実 はお便 りを頂 いた ときにはエ レンが滞在 中で

,話

に夢 中で他の人 にお便 りす ることな ど思い う かびませんで した。 これ はご挨拶な と思われ るで しょうが

,軽

んじているというわけで はあ りませ ん。エ レンが どんなに大切 な人か

,そ

してわたしたちが どんなにたまにしか会 えないか

,ご

存知で しょう。 またわた しが彼女の ことをどう思っているか も

,少

しはお分か りいただけると思い ます。 こうした前提か ら

,い

ったん彼女 に会 えたな ら

,そ

の時間 は一瞬た りともむだにで きない ことは, 容易にご推察 いただけるで しょう。 ヴィンセン トさん とい う方 について少 し聞 きました。お友達 だ と思いますが

,彼

が善良で聡明な 方であることを祈 ります。 そうでなかった ら

,彼

に用意 されている賞品 を受 けるに値 しない

,

と言 わせていただ くことになるで しょう。ぶ しつけな言い方ですが

,お

許 しいただかなければな りませ ん。女性 は男性 よりもたがいの真値 を認 めあうことがで きます。男性 は順風 に輝 く外見 の美 しさだ けに目を奪われがちですが

,女

性 はもっ と時間 をかけて じっ くり観察 し

,逆

境 にあって こそその価 値 を発揮す る性格 を評価す ることを学ぶのです。 それにあの穏やかな気質 と落 ち着 きは

,家

庭 の炉端 をいつ も明 る く平和 な ものにして くれ ること で しょう。それ は 1日 に20回も気分が変わるような熱烈な人 よりも好 ましい ものなのです。 これ ま でエレンを見 て きて

,わ

た しは彼女が必ずや良い妻 になる一一一良い夫 と巡 り会 えればの話ですが 一一― もの と思い ます。た とえ愚か者あるいは暴君 と結婚す ることになって も

,彼

女 にはその傲慢 さあるいは愚鈍 さに黙 って耐 える勇気 はあるもの と思います。 そんな中で も

,エ

レンはきっ と理′陛 的に災いを福 に転 じて くれ ることで しょう。 わた しの手紙 はどれ も説教 じみているとお思いで しょう。そこには何 も新 しい ものはあ りません。 あなたが くり返 しお聞 きにな りたいほど興味ある話題 は

,何

も知 りませんので。 まだ実家 にいて, 心身 ともに好調です。ただ勤 め先が はっきりしない ことだけが不安です。 いつで もお便 り下 さればあ りがたいです。次回は必ず遅れないようお返事す ることを

,お

約束 い た します。幸福 を手 に入れる見込みは

,着

々 と進んでいるもの と思います。将来の伴イ呂121についての お話か ら

,そ

の方 はあなたが現世 の苦難 を明 る く乗 り越 え

,来

世 において永遠の安息 を得 るうえで お力 になれ る方 と信 じてい ます。少な くともそのような方であ ります よう祈 っています。事 を慎重 に運 ぼ うとす るのは当然です。今 まさに踏み出そうとしているその一歩 に

,あ

なたの一生の幸福が かかっているのですか ら。 ある決 まった題 目について

,例

の文学的な調子で書いて欲 しい

,な

どとおっしゃ らないで くだ さ い。 とうていで きかね ます。わたしのことをブルー・ ス トッキングか何かのように思 ってい らっ し

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 47巻 第

2号

(1996) ゃるのですね。 そんな風 にお考 えのあなた をか らか ってみたい気 もしますが

,た

ぶ ん気 を悪 くなさ るで しょう。題 は何 で したか。化学

,天

文 学

,力

,貝

類 学

,昆

虫学

,そ

れ とも他 の何学 で したか しら。 いずれ に して も

,わ

た しはまった く無知無学 で ござい ます。科学者 で もなけれ ば言語学者 で もあ りませ ん。 わた しの こ とをず いぶ ん買 いかぶ ってい らっ しゃるのですね。 なに も知 らない と申 し上 げた ら

,唖

然 とな さ るので はないで し ょうか。 で もせ っか くの ご好評 に しば ら く身 をゆだねた い と思 い ますので

,日

をつ ぐんで い る ことに致 しましょう。 か しこ

C.ブ

ロ ンテ (1)ヘンリ・ナッシー宛て (2)この時点ではMiss Follettの こと。1840年4月30日付けのエレン宛の手紙を参照。 1840年5月29日(1) 愛 す るエ レン 取 り急 ぎお返事 いた します。来週 はメア リとマーサ・テイラー をハ ワー ス にお招 きしてい るので, とて もお伺 いで きませ ん。 ご招待 いただいて ほん とうに感 謝 してい ます。 いつかお受 けで きる と良 い思 い ます。急 に思 い立 って ジグ を寄 こす な どとい う性急な ことはなさい ません ように。 そんな こ とを した ら

,空

で帰 るこ とにな ります よ。 わ た しを迎 えに寄 こす なんて こ とは

,も

うけっ して言わ ないで くだ さい。行 くときに は自分 で行 きます。 もう時間が あ りませ ん。皆 が よろし くと言 ってい ます。 マ ー シー によろし く。また彼女 に会 えた ら嬉 しいです。仕事が見 つか る当て はまるで あ りません。 月 に行 くの と同 じ くらい当て のない話 です。広告 に返事 を出 してみ ましたが

,む

だで した。 さ よ うな ら。で きるだ け早 くお便 りくだ さい。 C。ブ ロ ンテ (1にの手紙は

W&Sで

は1840年3月15日付けの手紙の追伸として,その一部が収録されている。 [1840年6月 2日 ?] 愛す るエ レン メア リ 。テイラー はまだハ ワースに来ていません。 まずわたしが先 に出かけ数 日滞在するという 条件で

,こ

ち らに来 ることになっているのです。)贋調 にいけば来週 の水曜 日に出かける予定です。 ゴマ ソールには来週の金曜 日か土曜 曰くらいまで滞在するつもりです。 したがってもしあなたがよ ければ

,そ

の次の週 のはじめをあなた と過 ごしたい と思います。 よければなんて

,言

うも愚かです ね。あなたに会 えた ら嬉 しい し

,あ

なた もそうで しょう。 これで はたい して時間 はあ りませんが, いろい ろ考 えると

,こ

れが唯一現実的な ところか と思います。エ レン

,

どうか

2, 3日

以上滞在す るようにせが まないでち ょうだい。お断 りせざるをえないで しょうか ら。 キース リーまでは歩いて い くつ もりです。そ こか ら馬車でブラッドフォー ドまで行 き

,そ

れか ら誰 か雇 って荷物 を運 ばせ, ゴマソール までの残 りの道 は歩 くつ もりです(1ちこれが うま くいけば ― ブラッドフォー ドには 5 時頃 までに着 き

,夕

方涼 し くなってか ら歩 けるで しょう。 メア リ・ テイラーには計画全体 を知 らせ てあ ります。ぶた りに会 いた くてたまりません。

(10)

さ よ うな ら

CB

[も し

]も

っ とよい提案 が あれ ば

,そ

して それが現実的 な ものな ら説得 に応 じます。 (1)ハワースからキースリーまでは約35マイル,さ らにブラッドフォードからゴマソールまでは約5.5マイルある。 [1840年 6月末] 愛 す るエ レン これ といってお伝 えす る こ ともな けれ ば時間 もあ ま りないのですが

,お

約 束 どお りお便 りいた し ます。 メア リ・テイラーの来訪(1)は,わた した ちばか りで な く彼女 に も大 い に楽 しい ものにな った と思い ます。彼女 はウェイ トマ ンさん と何度 もチ ェス を して

,い

つ も最後 は怒 ったふ りを して終 わ りにな ります。 ウェイ トマ ンさん は回復 してい ますが, どうか彼 の ことな どお気遣 いな く。 あの方 は移 り 気 な方 で一一一 と くにあなた に対 して とい うわ けで はな くて

,気

の あ る女性 が他 に も

5, 6人

はい るのです。先 日ス ウォンジー の恋人 と別 れ

,彼

女 か らの手紙 をすべ て送 り返 してい ました。 目下 の ところ意 中の女性 はキ ャロライ ン・デ ュー リー②で

,彼

女 に宛 て恐 ろし く情 熱 的 な詩 を書 き送 ってい ま した。 あんなに落 ち着 か ないの は多血質 のせ いなので しょう

,お

気 の毒 に。 ス ウ ォンジー の一件 について は

,あ

ま り詳 し くは聞 いてい ませ んが

,そ

れ で もわ た しにわか る限 りで は

,つ

れ な い仕打 ちだ った ように思 い ます。彼 は相変 わ らず ため息 ばか りついてい ます。 まだ あなた の ことは名前 も伝 えて い ませ ん。彼 の本 心 を知 る機会 が あ るまで は伏 せ てお くつ も りです。 ひ ょっ とした らまった く教 えない,そ れ どころかわ ざ と名前 を出 さない よ うにす るか もしれ ませ ん。 どうな るか は

,彼

の性格 をわ た しが どう判 断す るか によ ります。 あなた にあれ ほ どはっ き りと関心 を示 してお きなが ら

,そ

の間 もス ウォンジーの女性 と定期 的 に手紙 のや りとりを していた こ とを知 って

,良

い気持 ち はしませ んで した。 そ して今

,突

然 その彼女 と別 れ る とい ったや り方

,そ

して明 らか に移 り気 な ようす な ど

,好

ま しい もの とはい えませ ん。 これか らひ と月 ほ どは

,彼

を観 察す る 機会 はあ ま りないで し ょう。

2週

間 くらい は聖職位 の取得試験 の準備 に追 われ

,そ

れが済 む とア ッ プル ビー とクラ ッケ ンソー プで ウ ォール トンさん父娘 とお過 ごしにな るはずです。ちどうか彼 の こと な ど考 えないで一―― あなたが失恋 す るの を心配 してい るわ けで はあ りませ んが一一一 それで も彼 の こ とな ど想 って はい け ませ ん。 マー シー とお母 さまによろし く。 か しこ サ イ ラ律) (1)シャーロットはゴマソール (メアリ・ テイラーの住居)とバース トール (エレン・ ナッシーの住居)に6月10日 から16,17日 まで滞在したので,メアリの滞在はその後のことと考えられる。

(2)Caroline Dury 1820年 生まれ。キースリーの主任司祭Revd Theodore Dury(17881850)の 娘。

(3)Applebyはゥェス トモーランドに流れるエデン川のほとりの美しい市。ウェイ トマンの出身地。Crackenthorpe は3マ イルほど奥まった所にあるJヽ村で,Agnes Waltonの 住まいがあった。

(4)Caira tt wi■ be all righぜの意。1789年秋からフランスで流行 した革命歌で, この部分が折 り返しに使われて いる。

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 47巻 第

2号

(1996) [1840年7月14日] 愛す るエ レン 同封の手紙 をマーサ・ テイラーに渡 していただけないで しょうか。 そのためにわざわざゴマ ソー ル までお出かけになるには及びません。 また郵送 は絶対 しないで下 さい。教会で見かけた らご自分 で手渡 して欲 しいのです。マーサヘの手紙 をあなたへのお便 りのなかに忍ばせるなんて

,奇

妙 に感 じられ るで しょう。 もちろん理 由があっての ことなのですが

,わ

た し自身の ことではないのでお話 しす るわ けにはい きません。マーサ は感謝す ることで しょう。 この秘密めか したや り方に

,何

か重 大な事態が生 じているな どと思わないで下 さい。 まった く取 るに足 らない ことなのですか ら。で も そんなつ まらない ことが

,

ときに重要な意味 をもつ ようになった りす るものなのです。 あなたが変わ らず純真 な ことをとて も嬉 しく思い ます。ぶた りのたわいない冗談 を

,あ

なたが真 に受 けるので はないか少 し心配です。 ウェイ トマ ンさんが今朝ハ ワースを発ちました。数週間 はお 帰 りにな らないだろうと思います。エ レン

,あ

の方 は相 当な浮気者であると思い ます。前 に もまし て切 なげに溜息 をついた り

,せ

かせか と歩 き回っています。 あち こちに顔 を出していた ことがわか りました。 キース リーで は多 くの女性たちを征服 しました。セアラ・サグデン(1)もキャロライ ン・デ ュー リー も彼 に夢中です。 もっともキャロラインは町を去 り

,ウ

ェイ トマンさんはまだ彼女 の面影 を追い続 けてい ます。彼 は自分が魅力的なのを知 っていて

,ひ

どくうぬばれているのです。別 に驚 きはしません。当た り前で しょう。ハ ンサムで頭 も良い し楽 しくて人好 きのする青年なのですか ら。 彼 に参 って しまう女性 は後 を絶 たないで しょう。 あなたがその一人 でない限 り

,わ

た しにはどうで もよい ことです。彼 はあなたの ことを日にしませんで した し

,わ

た しの方か らも特 に言い ませ んで した。 この ことについて は

,わ

た したちはお互いに十分了解 している と思います。 この ところ彼 と はほ とん ど顔 をあわせ ることがな く

,ろ

くに言葉 も交わ してい ません。一人で寂 しそうに沈 んでい るときな どは励 ました り慰 めた りした こともあ りましたが

,元

気 にな り友人 もた くさんい る今 とな つて は

,わ

たしも気 にしません し

,向

こうもおな じです。 彼 はみ ごとに試験 に受かるで しょう9ち 頭 の良い方ですか ら。

(1)Sarah sugden(c.181476)おそらくキースリーの工場主で治安判事を務めたことのあるWilliam Sugdenの 娘

121ウェイトマンは7月 18日にリポンのロングレイ主教によって聖職位を授与された。 [1840年8月 14日 ?] 短い手紙 しか くださらないので

,わ

た しも短い手紙 を送 ります。仕返 しという意味で はな く

,あ

なた と同様

,わ

た しもあまりお知 らせす ることがないか らです。わが家での最新のニュースはおよ そ

2週

間 ほ ど前 に

,南

イングラン ドの親戚が訪ねて きた ことです。 ジ ョン・ ブランウェル・ ウィリ アムズ と奥 さん と娘 さん(1)が ,クロスス トー ンのフェネル大叔父 さん。)の家 に1カ月あまり滞在 しま した。 じつに偉ぶっていて

,話

好 きとい うか

,出

しゃば りです。 あまり感心 しません。わた しの眼 には

,か

れ らが ここヨークシャーで大物 の振 りをしようとしているみたいに見 えます。 ウィリアム ズさん自身 は女性 たちほ どひ どくはあ りません。率直で知的な感 じで

,背

が高 くて頭 の切れ そ うな 生 き生 きした感 じの人で した。わた しを見 るな り,シ ャーロッ ト伯母 さん0にそっ くりだ と驚 いてい ました。奥 さんは才気換発で教養 あふれ る婦人 を装 つていますが

,口

ほどにもない とい うのがわた しの思 った ところです。従妹のエライザ は美 しい顔立 ちの元気いっぱいの少女になるよう生 まれつ

(12)

いた ような娘 です。 わ ざ とらし く思 い悩 んだ ようなぶ りをす る ことを身 につ けてい ます。彼女 とは 仲 良 くで きたで し ょうけ ど,お話 しで きた の はた だ低 教会 派 の福 音 主義 の牧 師 だ とか

,至

福 千 年説, バ プテ ィス ト派 の ノエル141ゃ

,植

物 学,そして彼女 自身 の改宗 の ことだ けで した。誤 った教育 が少女 をまった くだ めに して しまったのです。 たぶ ん無精 な ところはあ るか も知 れ ませ んが

,生

まれ もっ て の性格 の よい こ とは

,そ

の顔立 ちが示 してい ます。物腰 は信 心ぶ ってい るア ミー リア・ ウ ォー カ ー の よ うな感 じです。 あのば ら色 の丸顔 と背 の高 い はち きれ そ うな身体 に はまった く似 合 わ ないの に

,時

お り天使 の よ うな子供 の無邪気 さを装 うので

,見

て い る と吹 き出 しそ うにな りま した。 次 回 は長 いお手紙 を くだ さい。 そ うすれ ばわ た しも差 し上 げ ます。 さような ら。

(1)JOhn Branwell Williams シャーロットたちの母の従兄弟。

(2)Uncle Fennell(17621842)母 の叔父で,シャーロットには大叔父にあたる。 トッドモルデン近隣のクロスス ト ーンの牧師となった。」ane Branvellと 結婚した。

(3)ChariOtte Branwell(179卜1848)母の末の妹。従兄弟の」OSeph Branwell(17891857)と 結婚した。

(4)BaptiSt Wriothesley Noel(17981873)英 国国教会の聖職位を得たが,1848年 にバプティス ト派に入 り伝道家 として知られるようになった。 [1840年8月20日] 親愛なる ミセス 。エ レン とび きり長 いお便 り

,

とて も嬉 しかったです。あの手紙 の開封 に勝 る滑稽な場面 は

,ち

ょっ と思 いつ きません(あひるとウェイ トマ ンさんの一件 を含 めて も)。 ところでウェイ トマ ンさん といえば, 試験 のため

6週

間前 に リポンに出かけた ことはお伝 えした と思い ます。いまだお帰 りでな く

,い

っ たい どうなったのかわた したちにはとん とわか りません。い らしてか らブランウェル宛 に手紙 が一 通届 きましたが

,そ

こには舞踏会でアグネス・ ウォール トンを見初 めた様子が微 にい り細 にい り描 かれ

,頭

のてっぺんか ら爪先 まですっか り彼女 に首 ったけな どとあ りました。思 うにあの方 は三度 と戻 らないつ もりでハ ワースを後 にしたので はないか しら。戻 って くるとすれば

,仕

事 が見 つか ら なかったので とい うことぐらいで しょう。ハ ワース はあの方には向 きません。彼 にはもっ とい ろい ろな人達 と出会 える場所が必要なのです。 こればか りはどうしようもあ りません。人 に好かれやす い反面,そのためか えって飽 きやすい というわ けです。彼 は聖職者 にはなるべ きでなかったのです。 ほん とうにそ うなのです。 この前のお手紙 の内容 をブランウェルに話 しました。彼 につけて くださった「タス トリル」(りとい う呼び名 を

,彼

はなんに もいわずに笑 ってい ました。ジョン・ブラッドベ リ9)が結婚 したか らといっ て

,あ

なたが失恋 しな くて よかった と思います。で もあんなにお熱 だったのに

,ち

ょっ と意外 な気 が します。彼 って

,

とて もハ ンサムですて きな好感 の もてる方で したか ら。 あなたの言 うわた したちの八月の親戚 たちは

,ロ

ン ドンに帰 りました。わた したちの所へ は日帰 りで泊 まらず

,

もっぱ らフェネル大叔父 さまの家 に滞在 してい ました。大叔父 さまは彼 らが帰 った ので,ほっ としているので はないか と思い ます。ジ ョージ。)が早 く良 くな られるとよいのですが。ス コッ トラン ドまでヘル ドさん律)が付 き添 ってい らっしゃったのですか。ヘル ドさんがブル ックロイ ド にお泊 ま りになったので しょうか。最近 ウラー先生方 にお会 いにな りましたか。 どなたかわた しに 務 め先 を紹介 していただけた らあ りがたいのですが。広告 にもた くさん応募 してみましたが

,

どれ

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第47巻 第

2号

(1996) ひ とつ として うま くい きませ んで した。 ゴマ ソールか らまた フラ ンス語 の本が どっさ りと

-40冊

はあ るで しょうか一――届 き

,半

分 くらい読 んだ ところです。他 の と同様

,軽

妙 で不埒 で洒脱 な

,そ

して不道徳 な ものばか りです。最 大 の特典 はそれ らの本 か らフラ ンスやパ リの こ とが よ くわか る こと

,さ

らに フラ ンス語会話 の練習 にな ることです。 他 に は何 もお知 らせす るような ことはあ りませ ん。気 が乗 らないのです。 あなたの手紙 の長 さに は とうてい及 ばない こ とをお許 し くだ さい。 さような ら

,

ミセ ス・ エ レン。 あなたが郵便 や さんを 恨 め し気 に見送 る こ とが ない よ うに と

,す

ぐに返事 を書 きました。珍 しい筆跡 の例 として

,

この手 紙 を とっておいて くだ さい一―― す ば らしいで しょう一一下黒 ぐろ とした染 み といい

,読

めない文 字 といい。 キ ャ リバ ン6) (1)■eStril'(「6ペ ンス」の意)のもじりか。エレンがブロンテ家に滞在した際の言葉遊びの続きと思われる。 (2)John Bradbury ブラッドベリ家の親戚 と思われる。同家はテイラー家およびナッシー家の親戚。 俗lCeorge Nussey(181485)エ レンの兄。精神病を病んでいた。 e)Healdバ ース トールの牧師。ナッシー家の遠縁にあたる。 “ )シェイクスピア『テンペス ト』に登場する半獣人。 [1840年9月29日 ?] 「霊風 は思 うままに吹 き

,あ

なた はその声 を聞 くが

,そ

れが どこか ら来 て どこへ行 くか はわか ら ない。(1七た しか聖書 の一節 と記憶 してい るが

,い

ずれ の書 のいずれ の章 か

,は

た また引用 の文旬が 正確か否かはわか らない。 とはいえ我が輩 は

,か

つて「人生の朝 ば らけ

,い

まだ若か りし頃に°も知 遇 を得たエ レン・ ナ ッシー とい う若 き婦人 に便 りをしたためねばな らない。 この婦人

,し

ばし以前 に手紙 を くれた との ことであったが

,さ

して書 き送 るべ き用件 もない ままに一 日延 ばしにしておっ たが

,つ

いに「その神の名 をもって呪 うlA31」 恐れあ りて

,

ともか く数行 ばか り書 き連ねん と机に向か う。それを手紙 と呼ぶか否か はご随意 に。 さてかの婦人が この産物 に何 らかの意味 を期待 していよ うものな ら

,惨

めな失望 を味わ うことになろう。我が輩が供するのはごたまぜ料理。細切れ肉をシ チューに煮込んで

,フ

ランス風オム レツを添 えて

,ご

機嫌伺 いの言葉 と共 に送 りつ ける所存。当地 ユダヤの丘で吹 きすさぶ風 も

,ペ

リシテ人 の住むバ トレー教 区の平地で はそよとも吹かぬ と思われ る力YO,我が知恵袋 に与 えた効果 はて きめん。あたか もウィスキーが

2本

足 の動物 どもをぶ らつかせ るに似た り。万物がぼ ら色 に見 え

,な

ろうことな らジグを踊 りだ したい心地がす る。風 に当た りや すい という点で は

,豚

か臨馬 の性質が我が輩 のなかには紛れ込んでいるに違いない。風がいず こか ら吹いて くるか は

,我

が輩 にはわか らぬ。一生わか らぬであろうが

,そ

れで もブ リドリン トン湾の 巨大 な仕込み構 の仕掛 けがいかなるものか151,今どのような種類 のイース ト菌が波の上 を漂っている

,大

いに知 りたい ものである。 ブル ック夫人(0な る女性が教師 を探 し求めているらしい。我が輩 を雇わぬものか と思い

,[ペ

グ・ ウラー と呼ばれ るい ま一人 の婦人 に

]そ

れ を伝 えてほしい旨を手紙 を書 いた。 自宅 にいて風 の吹 く まま気の向 くままに日を送 るのは

,ま

ことに安楽 なことである。 され どイソップなるご老体の蟻 と きりぎりすの寓話 を思いだ した。つ まり夏の盛 りを歌って過 ごした きりぎりすが

,冬

,腹

をすか

(14)

しているという話 だ。 我が遠縁にあたるパ トリック・ ボアネルゲなる者17Jが

,

リーズ・マ ンチェスター鉄道181の 職員 とし て栄達 を求めて

,荒

野 の放浪 と冒険 とロマンの武者修行 に乗 り出 した。 リーズ とマ ンチェスターは いず くにあ りや。タ ドモアすなわちパル ミラの ごとき荒野の都で はあるまいか19J。エ レン夫人がウィ リアム・ウェイ トマ ンの消息 を知 りた くて うず うず しているのは先刻承知。[夫人 は秘か に思いを寄 せ

,そ

の面影 を忘れ られず にいるのだ。

]だ

が我が輩 は一言 もいわず に

,夫

人 を苦 しめてや ろう。実 を申せば

,め

ったに会 わないのでほ とん ど言 うべ きこともないのだ。 た まの日曜 に見か けると

,相

変わ らずの好男子ぶ りで

,陽

気で ご機嫌 うるわ しい。実 はウェス トモーラン ドか ら帰 った彼 とじつ くり語 り合 う機会があったのだが

,そ

の際

,彼

はアグネス・ ウォール トンに寄せ る熱い想 いを披露 した という次第。 さて彼女 に恋 しているものや ら

,我

が輩 には分か りかね るが

,

どうもそれ らしく 聞 こえた とは申せ ましょう。彼 は留守中

,わ

た したちに大量の獲物 を送 って くれ ました。鴨

,雷

鳥, 山 うず ら

,さ

,だ

い しゃ く鴨

,さ

らにはおおぶ りの鮭 にいたるまで。最近

,彼

の思いが けない一 面 を知 って

,彼

の長所 の一端 をかいま見 ることにな りました。先週 の土曜 日の晩の こと

,彼

1時

間ほど居間にいて

,帰

ろうとした とき父が声 をかけました。「 どうか したのかね。今夜 は元気がない ようだが」「 そうで しょうか。気 の毒な娘 に会 って きたのですが

,ど

うや ら今 日

,明

日の命 なのです」 「 そうか

,名

前 はなん とい うのかね」「ジ ョン・ ブラン ドの娘スーザ ンです」スーザ ンとい うのは, わた しの日曜学校 でいちばん古 くていちばん出来 る生徒 なのです。 これ を聞いてわた しは出来 るだ け早 く会いに行かな くて はと思い ました。月曜の年後 に訪ねてみると

,病

は重 く衰弱が激 し くて, いかなる旅人 も行 きて帰 らぬ蓬かなる境界(1のに向かつているようで した。しばらく枕元 に付 き添 っ てか ら

,わ

た しは思いついてポル ト酒が よいので はと母親 にたずね ました。彼女 は医者 にも勧 めら れた と答 え

,さ

らに先 日ウェイ トマンさんが来 られた ときにフインとジャムを届 けて くださった と い うのです。 さらに常 日頃か ら彼が貧 しい人 たちに優 し くして くださると言い

,た

いへん感謝 して いるようで した。彼 には確 かに欠点 もあ りますが

,良

い面 もあるのです。神 の祝福 を !彼 ほど恵 ま れた人間が完全無欠でい られ るもので しょうか。彼の過 ちや弱点 をた くさん知 ってい ますが

,わ

た しはかばいこそすれ責 めようとは思いません。なるほどわた しは決 めつ けす ぎるのか も知れ ません。 で もそれが何で しょう。人 はその能力に応 じて正 しい と思 うことをす るしかあ りません。 こんなこ とか らわたしとウェイ トマ ンさんが仲良 くやっているな どとは思って はいけません。全然 なのです。 互いによそよそし く冷ややかで打 ち解 けません。めったに言葉 を交わ しません し

,話

したにして も ご く当た り障 りのない話題です。いまわたしの性格 についてウェイ トマ ンさんにお聞 きになった ら, きつ と初 めのうちは朗 らかで話 し好 きな人 だ と思 ったけれ ど

,そ

の うちに気分 の変わ りやすい難 し い人 だ とわかった とお答 えになるで しょう。わたしの態度 は相手 しだいで

,相

手が立派 な らこち ら も楽 し くお しゃべ りす るし

,あ

まりになれなれ しい と冷 た くしなければ とい う気持 ちになる

,そ

れ は無理 にそうしているのでわた しには苦痛なのだ ということを

,彼

はわかつていないのです。冷た くしているのは便利 なので

,今

後 もこれで行 こうと思います。 (1)ヨハネ福音書第3章第8節

(2)ThomaS Campbell,`The Soldieゴ s Dream'第4連より。引用は正確には次の通り。I Flew to he pleasant fields

traversed so oft/1n Life's mornillg march,when my bosom was young.'

(3)サミュエル前書第17章第43節

(15)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 47巻 第

2号

(1996) (5)BridlingtOn 1839年10月,シャーロッ トはェレンとヨークシャー東海岸を旅行 した。 16)Mrs Thomas Brookeと 思われる。ハダーズフィール ド近在のノースゲイ ト・ ハウスに居住。 (7)ブランウェルのこと。Brontёはギ リシャ語で「雷Jの意。マルコによる福音書ではイエスがヤコブ とヨハネに「ボ アネルゲ,すなわちいかづちの子」という名を付ける。(第3章第17節)ブ ランウェルの激 しやすい性格を皮肉っ たもの。彼はこの年の 6月 に

,ポ

スルスウェイ ト家の家庭教師を解雇されていた。 (8)ブランウェルはサワビー・ ブ リッジ駅の駅員に採用され,1841年4月にはそこか ら2マ イルほど北西にあるラデ ンデンフット駅の駅長に昇格 した。 (9)タ ドモアはソロモン王が荒野に立てた都市だが廃虚になった。272年にローマ人が占拠 したとき,その女王ゼノビ アを連れ去った。 10『ハムレット』第 3幕第 1場,79-80行 [1840年11月 12日] 愛す るエ レン いたず ら書 きの残 ったこの便せんをお許 しください。折悪 しく便せんが切れて しまい

,手

元 にはこ れ しかないのです。楽 しそうな似顔絵 の一つは消 してしまいましたが

,残

りは消 さずにお きました。 それ らがわたしの手 になるもので はな く

,か

のウェイ トマ ン牧師の神々 しい指か ら描 き出されたも のであることを思い出 し

,温

情的な取 りはか らいにお よんだ とい うゎ けです。馬 の目の位置が少 し 高す ぎることにお気づ きで しょう。 その点 を除 けば

,ま

ず まずの出来 といえるで しょう。なかなか の審美眼 といえます。お手本 をまねたので はあ りません。ある日の晩

,た

また まこち らに来 られた ときに

,こ

れをはじめい くつか小物 をスケッチ したのです。後 になって自分 の作品を眺めた ときの 得意 そ うな顔 をお見せ したか ったです。作品のひ とつには彼の名前が名声の神 によって

,上

空の雲 に書 き込 まれる姿 を描 いてい ました。 ブル ック夫人 とは手紙 でや りとりしました。わたしの応募の仕方に

,つ

まりその率直 な ことに感 銘 を受 けた (も し華やかで優雅で気 の利 いた人 をお探 しな ら

,わ

た しは適材 で はない ことをあえて お伝 えしたのです

)と

の ことで したが

,求

めていたのは器楽 と声楽 の指導がで きる人 とい うことで した。わたしにはそれ らはで きませんので

,当

然なが らお話 はそれっきりにな りました。で もいっ たん立 ち上がったか らには

,席

を見つけるまで は座 るつ もりはあ りません。 とはいえ未完 に終わっ た事業 についていつまで話 していて もむだですか ら

,こ

の件 はこれ までにしましょう。実務的 に対 処 しようとするわたしの覚悟 を この文章か らくみ取 って ください。 ミス・エライザ・ウラー(1)の 学校 は健康 に適 した所 とはいえません。生徒 を集めるお力 になれればと思っているのですが

,ブ

ラッド フォー ドで ヒープ夫人。)が新 しい学校 を開 くとい うこともあってか

,う

ま くい きません。 コ[リ ンズ]夫妻 の ことは覚 えているか しら。ち 先 日

,奥

さまが来 られて ご主人 の ことをこば して いました。飲む

,う

,買

うといったあ りさまで

,お

よそ嘆かわ しい話で した。父 にどうした らよ いか とい うのです。 自分たちの前 にあるのは破滅 ばか りだというのです。 とて も返済で きそうにな い借金を抱えているのです。奥さまはご主人がす ぐにも副牧師を解雇されるもあと覚悟しています。 これまでの苦い経験から

,ご

主人の行状が とうてい許 されるものでないことはおわか りなのです。 家族に対 してもひどい仕打ちをなさるとのことです。父は彼女にきっぱりと別れ

,で

きるなら実家 へ戻るようにと助言しました。前からずっとそのつもりでしたと夫人は答え

,B氏

律)から解雇 され し だい出てい くそうです。ご主人のことをひどく憎んでいて悪しざまに言われ

,気

遣 うようなそぶ り はみじんも見せませんでした。べつに驚 きはしませんが

,そ

れで も不思議 に思 うのは

,今

と同じよ

(16)

うにず っ と憎 み続 けて きた に違 い ない その相手 と

,そ

もそ もどうして結婚 な どしたのか とい うこと です。 きちん とした女性 な ら

,

こんな男性 に はぜ ったい嫌悪 しか感 じられ ない はず なのです。彼 の こ とを知 る前か ら

,そ

の多才 ぶ りに驚 か され た ときに

,な

ん とな くわた しはそんな感 じを もったの です。 口を き くの はお ろか

,顔

を見 るの もいや な気 が したのです。 もっ ともそ こまで嫌 つて よいだ けの理 由が きちん とあ るわ けで な く

,直

感 だ けで言 うの もばか げて い る よ うに思 い ま した ので

,で

きるか ぎ りそんな感情 は抑 えま した。 そ して事毎 にで きるだ けの礼 は尽 くしたつ も りです。 メア リ が彼 をひ とめ見 ただ けで

,わ

た し と似 た ような印象 を持 ったの には驚 きま した。彼 にい とまを告 げ るな り言 ったのです。「 シャー ロ ッ ト

,あ

の人

,な

んて嫌 な感 じなのI」「 まった くだわ」 とわ た し も言 い ました。 アイル ラ ン ドで どの ように して知 りあったのか詳 し くは知 りませ んが

,夫

人 は彼 も そ こまで は追 って は来 られ ない はず だ と言 ってい ます。 こんな話題 のせ いで

,ひ

ど く不愉快 なお便 りにな って しまい ました。恨 め し く思 ってい る ことで し ょうね。で も次 回 は (すべ てが うま く行 けば

)も

っ とましなお便 りを差 し上 げ ますか ら。

C.プ

ロ ンテ

(1)MiSS Eliza Wooler 1838年 12月から姉に代わって妹のエライザがデューズベリ・ムアのヘルズ・ハウスに移つ

た学校を運営していた。

(2)Mrs Hannah Heap(P180277)ブ ラッドフォー ドの副牧師Rev Henry Heap(P17891839)の 未亡人。夫人 と未婚 の娘H,M.E.Heapが ブラッドフォードに学校を開設した。

(3)Revd.JOhn Collinsのことと思われる。

(4)Revd William Busfield(180278)キ ースリーの教区牧師。1840年7月 2日からRevd.Theodore Duryの 後任 として赴任。 [1840年11月20日] 愛す るネル 前回のお便 りはとて も大事 な問題 を扱 っていましたので

,日

を置かずにお返事 します。ネル

,わ

た しはこれか らあなたにお説教 し助言するつ もりですが

,あ

なたはそれ をおばあさまの言葉 だ と思 って聞かなければな りません。で も初 めに一一一 あなたに言 う前 に一一一 ブィンセ ン ト氏 のお耳 に 入れたい ことが ござい ます。 きっ と彼 の耳 に届 いてほしい ものです。 聖 ク リュソス トモス

,聖

シモ ン

,聖

ユダの御名(うにかけて,あの立派な青年がなぜ男 らし く進み出 て言 うべ きことをあなたに直接おっしゃらないので しょうか。 まわ りの方々の手 を煩わせた りせず に。 ヴィンセン トさん

,晴

れ渡 った朝 にで も

,ブ

ル ックロイ ドまで ご自分 の足で

,あ

るい は馬でお 出か けなさい一一― ミス・ エ レンは居間でジュー・ ボックスのために子供用の白い上 っ張 りを縫 っ てい ることで しょう一一― そ しておっしゃるのです。「 ミス・ エ レン

,お

話があるのですが。」 もち ろん ミス・ エレンは優 し く「 はい

,ヴ

ィンセン トさん」 と応 じて くれ るで しょう。お二人 だけにな った ら

,彼

女の隣の椅子 に腰掛 けて

,つ

まらないジュエ・ ボックスな どわ きにやって

,わ

た しの言 葉 に耳 をおか し下 さい

,

と言 うのです。そして はつきりと誠意 をもって

,し

か し決然 と始 めるので す。「 ミス・エレン

,ひ

とつ大事 な質問をしたいのですが。いかなる運命 にな ろうとも

,わ

た しを夫 として受 け入れて ください ますか。わた しは資産家 とはいえませんが

,ぶ

た りの日々の暮 らしには 事欠かないだけの ものはあ ります。地位 はそれほどで はあ りませんが

,あ

なたを嘘偽 りな く心の底

参照

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