鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第
2号
(1997)明 証 性 と 志 向 性
―― フッサールの理性の現象学―― 哲学研究室高 (―
)現
象学の方法的原理 と しての明証性 究極的に基礎づけられた学問,徹
底 した自己責任に基づ く学問という,プ
ラ トン以来のヨーロッ パの伝統的哲学の根本理念をまった く新たな仕方で再興 しようとするフッサールの現象学(1)が方法 的に基礎 をおいているのは明証性 (Evidenz)の原理である。 フッサールはそれを『デカル ト的省察』において次のように表現 している。 「哲学を新たに開始する者 としてのわたしが,真
の学問という暫定的目標をめざして首尾一貫 し て努力するかざり,わ
た しは明証性から汲みとったのではない判断を,す
なわちその判断に対応す る事象や事態をそれ自身としてわたしに現前させる経験から汲みとったのではない判断を決 して行 ってはならないし,まった くそのような判断を有効なものとしてはならないということは,明
白で ある(2)。 」 究極的に基礎づけられた根源的な知 を新たな仕方で探究 しょうとする徹底 した哲学的開始者は, 自分が完全に基礎づけられなかったものを自分や他人に対 して妥当させてはならない。たえず変わ る相対的な目的 しか もたない日常的生活にとっては,相
対的な明証性 と真理で十分 に間に合 うであ ろうが,哲
学において求められる明証性 と真理は何ぴとに対 しても絶対的に妥当する究極的な妥当 性だからである(3)。<事
象そのものへ (Zu den sachen selbsD>と いう現象学の合言葉の意味は,「事象」 すなわち存在者に直接的に向き合 うこと
,す
なわちいっさいの先行的思いこみや前提 を排 して,存
在者の近 みにあって,そ
れが何であるかをその存在者のほうか ら語 らせるようにそれに向き合うこと,そ
う することで存在者に関する根源的な知を探究することの要請である(4)。 この要請に応えるためには まず他人の意見に引 き回されるということから解放されることが必要であ り,さ まざまな思惟習慣 や先行的判断あるいは認識論的予断から解放されることも必要である。 しかし,この現象学的標語 によってなによりも求められているのは, どの ような立功 にもとらわれることな く,「見 ること (sehen)」 ひたす ら「見ること」, 自分の眼で見るという可能性を身につけることである(5)。 ところで,この「見ること」 とは何か。それが存在者に関する根源的な知への通路であるという ことは何 によって正当化されるのか。 認識 というのは,一
般的に言えば,存
在するもの,存
在者に関する認識である。そ して認識への 努力がまさに存在者に向かうものであ り,存
在者 とは何か,そ
れはどのように存在するのかという 義 勝 階高階勝義 :明証性 と志向性 ことについて判断 し
,表
現す る努力であるとすれば,存
在者 はどの ような もの としてであれ,とも か くもそれはすでにあ らか じめ与 えられていなければならない。 しか もいかなる判断 もその判断の 主題,す
なわち主題 となる対象 を必要 とす るか ら,存
在者 は判断の対象 とな りうるかたちで,あ
ら か じめ与 えられていなければならない。そ して, さらにその認識努力が現実 にその 目的を達成す る ためには,つ
ま り判断が明証判断 となるためには,存
在者すなわち対象が明証判断 を可能 にするよ うに,あ
らか じめ与 え られていなければな らない。対象その ものが明証的にそれ 自身 として与え ら れねばな らない,す
なわちそれ 自身 として直接 的に「見 える」 ように与 えられねばな らない(6)。 ここで存在者の根源的知への通路 として指示 されているものは存在者の「 自己所与性 (Selbstge― gebenheit)」 としての明証性である。すなわち文↓象が意識の うえで単 に空虚 に示唆 された対 象 と して与 えられるのではな く,「それ自身そ こに (selbst da)」,「生身のままに現 に (leibhaft da)」 存在
す るもの として与 えられているとい う卓越 した意識様態である(7)。 た とぇば
,外
的知覚の対象は想 起や空想のなかで単 に対象 を思い浮かべ る場合 と違 って,そ
れをまさに現実的に知覚 している場合 は明証的にそれ自身 として与 えられるといわれるのである。 存在者 についての本来的な根源的知が可能であるとす るならば,そ
の知は本来的 に存在す るもの が 自己 を顕現す ること,根
源的に自己 を示す こと,す
なわち現出す ることにおいてのみ,そ
れ自身 の根拠 を受 け取 ることがで きるのである(8)。 したがって,フッサールは,認
識者 は自己所与性の明 証的意識様態 において存在者の近みに居合 わせ ることによって,そ
れをそれが存在す るが ままに直 接的に直観 し,洞
祭す るのであるとい うのである。 「明証性 とい うのは,最
も広い意味 においては,志
向的生の普遍的な根源的現象 を言い表 してい る。すなわち他 の意識様式が アプリオリに空虚であ り,先
思念的,間
接的,非
本来的であ りうるの に対 して,明
証性 はそれにおいては事象,事
態,普
通性,価
値 などがそれ 自身そこにあ り,直
接的 に直観 されてお り,本
源的に与 えられているとい う究極的様態 において自己を現わ し,自己 自身を 呈示 し,自己 自身を与 えるとい うまった く卓越 した意識の仕方である。 自我の側でいえば,このこ とはまとま りな く空虚 に先思念的に,或
るものを思いやるのではな く,或
るものその ものの もとに 居合わせ,そ
の もの 自身を直観 し,見
ること,洞
察することを意味す る(9)。 」 フッサールのい う「現象 (Ph】nomen)」 とい うのは,存
在者が まさにこの ように根源的に 自己 を 自己 自身において示す もののことなのであ り,そ
して,現
象学の学問的意図はこの存在者の 自己能 与 (Selbstgebung)に 立 ち帰 ることによつて,存
在者 に関す る根源的な知 としての明証性 の理念 を 解明すること,す
なわち存在者が 自己 自身において示 しているものにつ き進んでいって,そ
れをそ れが 自己 自身において示すが ままに解明することにあるのであるこ。。 ところで,これ まで見 て きた「 自己 を自己 自身において示す もの」 としての存在者の自己能与の 理念 はただ一般的にその ように述べ られて きただけであつて,そ
もそ も本来的な存在者 とは何か, どの ような知が本来的存在者 に関する知 としての本来的知であるのか,す
なわち明証性の「本源的 意識様態 (Origindre BewuβtSeinsweise)」 がそ もそ もどの ような ものであるのか とい うこ とが ここではまず改めて問われなければな らない。 そ してさらに究極的に基礎づけ られた新 たな哲学の開始者 にとっての方法的第一原理 として強調 的に確認 された明証性の原理
,す
なわち根源的経験 と洞察 においてわれわれが汲み とった もの以外 の何物 をも妥当 させてはならない とい う原理 に して もそれ以上のことについては何 も知 られていな い。 したがって,そ
もそ も存在者の自己能与 としての明証性その ものの「本源的意識様態」が どの ようにしてわれわれに与 えられるのか,そ
してそれはどの ような範囲に及ぶのか ということについ鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第
2号
(1997) て も批判的に問われねばな らない。「明証的にのみ判断す る」 とい う明証性の原理 が,明
証 的判 断 その ものをも批判的反省 によって明証 にす ることを要求 して くるのである。「 いつ もそのつ ど明証 性 を反省 し,そ
の有効範囲を吟味 し,そ
してその明証性あるいはその明証性の完全性,す
なわち事 象の現実的な自己能与が どの範囲まで及ぶか を明 らか にしなければならない仙)。 」 この存在者の自己能与の本源的意識様態 としての明証性の問題系 は,フ
ッサール現象学 において は,『イデーンI』 及び『デカル ト的省察』 において「真 に本来的に存在す るものの本質構造」 の 解明のために差 し向け られている「理性の現象学」の基礎 を形成する重要な主題 であるが,存
在解 釈 をこの ように「真 に本来的に存在する ものへの問い」か らくりひろげてゆ く展 開の仕方 はギ リン ャ哲学以来の伝統的な哲学的思惟の一般的特性であつて,このこと自身はフッサール現象学 に固有 の もの というものではない。 フッサール現象学の哲学史 における独 自性 は,現
象学が存在者の根源 的自己能与の意味 を解釈 してゆ くその特有な仕方 にある,す
なわち「志向的に解釈 された」本源的 意識 を存在への真の通路 とす るとい うその独特の想定 にあるC分 。 本稿 のね らいはフッサールの『イデーンI』 において展開されている「理性の現象学」 を基 に し て,存
在者の自己能与 としての明証性の本源的意識様態の普遍的本質構造 を解明す ることにあるが そのさいその明証性の「本源的意識」はまさにそれがひとつの意識様態であるとい うか ぎ りにおい て,あ
くまで も現象学的に解釈 された意識の志向性の本質構造か ら解明 されることになる。そ して 後期 フッサールにおいては,この自己能与への志向は経験連関の空虚 な地平的志向性の よ り詳細 な 規定への認識努力 として規定 されることになるので,明
証性の現象学 はその ような仕方で存在者の 根源的知 をめざす理性の目的論的志向性の本質構造の解明 として展 開されることになる。 (二)自
己所 与 性 の本 源 的 意 識 様 態 と して の 明 証 性 フッサールの現象学 においては,明
証性問題 は『論理学研究』や 『現象学の理念』 などの初期 の 著作 においてすでに真理概念や本質直観 の概念 との関連で萌芽的に,付
随的に考察 されてお り,そ
こでは「自己所与性の体験」「真理の体験」あるいは「本質の直観 的体験」 な どと して多義的 に特 徴づけ られているが,この明証性問題が現象学的な意味で十分 に明確 なかたちをとって主題的に展 開されて くるのは,な
ん といって も前述 した ように『イデーンI』 及び Fデカル ト的省察』 におけ る「理性の現象学」 においてであ り,さらには『受動的総合 に関す る分析』,F形
式論理学 と超越論 的論理学』あるいは F経験 と判断』 といつた比較的後期の著作 においてである。 これ らのフッサール後期の著作 における明証性問題 は,まった く新 たな仕方で開始 される厳密学 としての哲学 に究極的基盤 を与 える原理 としての明証性の意味 を吟味す るとい う要請 に動機づけ ら れて,徹
底 した現象学的分析 に付せ られているのであるが,そ
の さいフッサールはこのみずか らの 明証性概念がその固有の現象学的意味 において正 しく解釈 されなければな らない こと, したがって まずなによりもそれが「真理の絶対的洞察」あるいは「真理の絶対的基準」 などとして理解 されて きた伝統的な明証性概念 とは根本的に区分 されねばな らない と強調 しているQO。 したがって,フ ッサールの初期 の著作 において しば しば語 られている,「真理 の体験」 としての 明証性の意味 も,そ
れによつて何 か「真理の絶対的洞察」のごときものが考 えられている と誤解 さ れてはな らないのである。シュ トレーカーが,フ
ッサールの明証性原理の意味 と限界 について詳細 に分析 した考察 において明 らか にしているように,明
証性 とい うのは,現
象学的には,そ
こにおい て意識が真理 に向け られている体験であるかの ように解釈 されてはな らなのであって,そ
れはそこ高階勝義 :明 証性 と志向性 において或 るものが本源的に能与 される卓越 した意識様態 として理解 されているのである。り。 「真理の絶対的把握」あるいは「真理認識の基準」 として理解 された伝統的明証性概念 は,「 絶 対的に不可疑的な必当然的洞察
,い
わばそれ自身 としてすでに出来上がっている洞察」, あ るい は 「十全 な所与性,必
当然的洞察■°」 といつた ものを自明なもの として前提 に してい るので あつて徹 底 した無前提性か ら出発す る哲学の開始者 としてのフッサールにとつては,この ような伝統的な明 証性概念 は根拠のない偏見 として徹底的に廃棄 されなければな らない とい うことなのである。 伝統的な明証性 の解釈 は,明
証性 をその ように「十全 な所与性」「必当然的な洞察」 に還元す る ことによつて,そ
の結果た とえt餅↓象 をつねに不完全 に しか把握で きない外的知覚のような体験 は その対象の所与 において明証性 を欠いているといわれることになる。 しか し,フッサールによれば それは明証的意識体験 についての正 しい理解 を欠いた独断的解釈の結果であつて,外
的知覚 もその 対象所与の不完全性 にもかかわ らず,そ
れな りに自己所与的であつて,や
は り卓越 した明証的意識 体験 なのであるこ。。 意識 は,現
象学的に理解す るなら,そ
れはつねに「或 るものについての意識」 という志向的性格 を有するのであつて, したがつて存在者の自己能与 とい う卓越 した意識様態 としての明証性 もは じ めか ら独断的に固定 された認識概念ではあ りえないのである。明証性 はフッサールにとつては探究 されるべ き根源的知 に対する問題的概念 なのであつて,心
理学や認識論のたんなる特徴説明の主題 ではあ りえないのであるこり。 そこで,わ
れわれはフッサールの現象学 において明証性の問題系が どの ように展 開されているか を追跡する前 に,まず は じめにそ もそ も存在者の自己所与性 としての明証性の「本源的意識様態」 が現象学的にはどの ようなもの として理解 されることになるのか とい うことを明 らかに してお きた Vヽ。 フッサールは存在者の 自己能与 としての明証性の本源的意識様態の意味 を解明す るにあたつて, それを他 の非 自己能与的な非本源的意識様態 と明確 に区別するとい うしかたでその独 自性 を際立て ようとす るのであるが,そ
のさいフッサールは非本源的意識様態の志向的契機 を反省的に分析す る ことか らは じめている。 とい うの もわれわれが存在者 に慣れ親 しんだ もの として向かつているのは 「伝統性」や「習慣性」 といつた非本源的知 をとお してであって,存
在者の自己能与 と しての本 源 的知などとい うものは,一
般的にはそれが何 であるかをさしあつては明確 には示 してこないか らで ある。 非 自己能与的な非本源的意識様態か ら出発 して,そ
の意識様態の合蓄的意味の開示 をとお して本 源的意識様態の固有の意味 を解明す るとい う,この方途の正当性 を動機づけているものは意識の志 向性の概念である。志向性 は或 るものについての意識であるばか りでな く,「意味的に含蓄 された」 意識様態 についての意識である。た とえば想起 は一定の出来事 についての過去意識であるばか りで はな く,「かつて在 った知覚」 について意識である。想起の志向的意味のなかには,知
覚へ の意 味 的遡及的指示が含 まれているのである。想起 は知覚の派生的意識様態 として,自
己の うちに本源的 意識様態 としての知覚への指示 を担 つているのである。0。 「 もろ もろの想起の連関は,結
局 は顕在的知覚 に,す
なわち顕在的な<ここといま>に,行
き着 くことになる。(…)想
起か ら想起へ と一つ一つ糸 をた ぐって進 んでいつて,す
べ て を判然 とさせ るべ く,想
起 の連関のなかへ と入 りこんでいけば,そ
の想起の連関の終局 は,知
覚的な現在のなか へ と及んでいる■9。」 このことは他の非本源的な意識様態 にも同様 にあてはまる こ とで あ って, た とえば既知性 の意識 は現 に知 り学ばれているとい う本源的意識の志向的変容態 としてその本源的意鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第
2号
(1997) 識を指示 しているし,問
接性は間接性 として直接性を遡及的に指示 している。 このようにして,非
本源的な意識様態の志向的本質はその本源的意識様態への「遡及的指示」 と して開示 されることになるのであるが,そ
れと同時に存在者の自己所与性 としての明証性の本源的 意識様態 も,そ
れはそれ自身のなかでもはや遡及的に指示することがなく, したがって遡及的指示 体系において,もはや∼の変容態であるという意味をうけとることのない意識様態であって,す
べ ての変容態にその派生 した意味を与える源泉であるという志向的な本質規定をうることになる。フ ッサールはこのような非本源的意識様態によつて遡及的に指示 されている「本源的なもの」を手引 きにして,存
在者すなわち対象がそれにおいては直接的に,直
観的に,す
なわち生身のままに意識 される「本源的意識様態」 としての明証性の理解 に到達するのであるが, しか し,そ
の「本源的な もの」の意味がそもそも何であ り,そ
れはどのようにして得 られるのか ということについては,こ のような「遡及的指示」からはそれ以上のことは何 も示 されてこない。 す くな くともそれは非本源的的意識様態か ら,た
とえば想起から本源的意識様態 としての知覚ヘ 帰行することによつて直ちに得 られるというものではあ りえない。 というのは通常の意識体験の流 れのうちに与えられる知覚作用の連鎖はその志向的本質構造からみて,想
起の意識体験か ら遡及的 に指示 されるような「本源的なもの」ではあ りえないか らである。 (三)理
性の「見 る」働 きとしての明証性 たしかに事物知覚は「当の事物 と現にいま向 き合つてお り,当
の事物それ自身をその生身のまま の現在において把握 している」 という本源的意識であるQO。 ところがこの事物知覚の本源的意識の うちには,そ
のつ どの一定のパースペクテイヴにおいて「射映す る知覚 (abschattende Wahrneh― mungl」 という,そ
の外的知覚の志向的本質構造のうえから,必
然的に顕在的に自己所与的に呈示 される側面についての本源的意識 と本源的には呈示されえない他の側面についての非本来的意識の 二重の契機が内蔵されているのである1211。 そのうえそのつどの顕在的知覚にはつねに以前のさまざ まな知覚の遺産が,す
なわちさまざまな「既知性」の沈澱 した地平が内属 しているのである。 外的知覚はた しかに「対象それ自身のもとに居合わせている」 という明証性の本源的意識ではあ るが, しか しそれは同時につねにそれ自身のうちに必然的に他の可能的知覚の無限の過程 を指示す る相対的で不十全な明証性で しかないという意識 も内蔵 しているということなのである。 したがっ てそれはたとえば想起によつて志向的に,遡
及的に指示 されているような本源的意識 としての純粋 な知覚以上のものをそれ自身のうちにすでに含蓄 しているということなのである。か。 そういう意味でフッサールは「外的知覚は,そ
れがその固有の本質のうえからはなし得 ないこと をなす という絶えざる要求である¢0」 というのである。 しか し,このことによって外的知覚の本源 的自己能与の意識が自己錯誤の意識であるとか,あ
るいはなんの償還の保証 もない「空手形」のよ うなものであるなどというようなことがいわれているのではない1241。 フッサールがここで指摘 して いるのは,外
的知覚はそのように自己自身のうちにさまざまな非本源的な意味契機 を内蔵せざるを えないにもかかわらず,つ
ねに対象それ自身をその本源的自己所与性おいて把握 しようとする目的 論によつて導かれているという,そ
の志向的本質構造なのである傷)。 それでは外的知覚の本源的自己能与の明証性の要求を動機づけているその目的論的志向性 とはど のようなものなのか。この問いによって,存
在者に関する根源的な知への問いに導かれてきたわれ われはいまや明証性問題の核心に足を踏み入れることになる。高階勝義:明証性 と志向性 フッサールの現象学においては,『イデーンI』 の第四篇第二章の「理性の現象学」 と Fデカル ト的省察』の「構成の問題
,真
理 と現実性」 という標題 をもつ第三省察がこの本源的自己所与性 と しての明証性の「本源的意識様態」の志向的本質構造の主題的解明を担つている。 FイデーンIJの
「理性の現象学」は,まずはじめにさまざまな非本源的意識様態の辺及的指示 を手引 きにして得 られた,本
源的意識様態 としての根源的明証性の「直観」すなわち「直接的に見 ること」の徹底 した現象学的分析からはじまる。「直接的に見ること」が根瀕的明証性であるのは それが対象がそれにおいて「生身のあ りあ りとしたあ りさま」において自己を示 し,そ
ういうしか たで自己自身を本源的に能与する意識様態であるからである90。 すなわち見ることにおいて,対
象 自身がそれがあるところのものとして,あ
るがままのものとしてそれ自身を明示 しているからであ る。そういう意味でフッサールの現象学的認識論においては,「直接的に見ること」 としての直観 に「あらゆる原理の原理」,「あらゆる理性的主張の究極的な権利源泉」 という特権的地位が与えら るのである。 フッサールは「見ること」 としての直観の本源性を次のように強調的に語 り出している。 「あらゆる原理の原理,す
なわちすべての本源的に能与する直観 こそは認識の権利源泉である,<直
視 (Intuition)>に おいてわれわれに本源的に (いわばその生身のあ りあ りとした現実性 にお いて)呈
示されて くるすべてのものは,そ
れがそこにみずからを与えて くるとお りのままに端的に 受け取 られねばならないという,(・・・)こ
の原理の原理に関 しては,考
えられるどの ような理論 も われわれを惑わせることはできない似)。 」 しか し,「直接的に見ること」 としての直観の働 きのうちに「あらゆる原理の原理」 をみるとい うフッサールの想定の意味は現象学的に正 しく理解 されねばならない。ここでいわれている「直制 や「直視」はただ単に感性的な経験において見るということに限られているのではな く,「どの よ うな種類のものであれ本源的に能与する意識であるかぎりでの見ること一般 こそがあらゆる理性的 主張の究極の権利源泉である90」 といわれているのである。すなわちここでは「見ること」一般は 理性の見る働 きとして考えられているのである。 したがって,『イデーンI』 の「理性の現象学」における「直接的に見ること」 の現象学的分析 はもっぱら理性の見ることとしての明証性の本源的意識に向けられることになるのであるが,この ことによって明らかにされたことは,理
性意識の見る働 きはただ単に対象 としての或るものに志向 的に向かっているというだけでなく,対
象 としての或るものを思念するというまさにその志向的作 用において,そ
れは同時にその対象を<真
に現実に存在するもの>と しても定立 しているのである という認識である。これによつて,理
性意識の見る働 きが対象の真理性 と現実性 を「構成」 し,創
り出すのであるという独特の想定 も指 し示めされている。け。 『イデーンI』 における「理性の現象学」が「理性 と現実性」 という総合的標題 をもつ第四篇に 包含 され,『デカル ト的省察』 における第三省察が「構成の問題,真
理 と現実性」 という標題の も とに理性問題 を主題的に展開しているのは,フ ッサールの現象学においては理性問題力減す象構成の 問題 と深 く絡んで展開されることになるということをすでに示唆 しているのである。 それでは理性的意識の見る働 きがいかにして「真に現実的に存在する対象」の構成にかかわるこ とになるのか。この問題を解 き明す糸日は『イデーンI』 においても,『デカル ト的省察』`におい ても共通に「理性の現象学」に先行するかたちで展開されている「普遍的現象学 (allgemeine Ph拙 ― me■ologie)」 のうちにある。この「普遍的現象学」の主題は意識の志向性の一般的本質構造すなわ ち意識のノエシス・ノエマ的本質構造の解明にあるが,フ ッサールはその成果を『イデーンI』 に ﹁ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第
2号
(1997) 199 ぉける「理性の現象学」へ移行するための予備的考察 ににおいて次のように確認 している。 「すべての志向的体験が或るノエマをもち,そ
のノエマにおいて或る意味をもち,そ
の意味を介 してその体験は対象へ と関係するのと同様 に,逆
に言えば,わ
れわれが対象 と名づけているもの, すなわちわれわれがそれについて語 り,現
実 として限前に持ち,可
能的もしくは蓋然的だと見なし たとえいかに未規定的にではあれ思考 しているものはすべて,ま さしくそうしたことによつて,す
でに意識の対象なのである。 ということはすなわち,そ
もそも世界や現実性 と呼ばれれるものは何 であれ,現
実的および可能的意識の枠内において,多
かれ少なかれ直観的な内実によつて充実され るそれに対応する意味あるいは命題によつて代表 されなければならないということである・0。」 したがつて,す
べての現実的な事物は意味および命題によって代表される可能的な志向的体験の 相関項 ということになる。すなわちすべての事物はあらゆる可能的な主観的現出様式によつて代表 されているのであって,そ
れはそうした主観的現出様式の多様性のなかで,同
一のものとしてノエ マ的に構成されうるのであるということになる。'。 フッサールがこの「普遍的現象学」の一般的的考察によって得た認識は,要
するに現実 に存在す るものとしての事物は何であれすべては現実的あるいは可能的意識の志向的相関項 として,す
なわ ち意味 と命題によって代表 されうるものとして,そ
れはつねに意識に対 して相対的に存在するもの にすぎないのであって,そ
れ自体で絶対的に存在するものなどではあ り得ない ということである。 そこで問題は,真
に現実的に存在する事物 としての対象がこのようにしてただひたす ら意味 と命 題 とを介 してのみ与えられるにす ぎないとすれば,<真
に現実的>というのはその対象にとって何 を意味するのかということである。 したがって,<真
に現実的な>対
象 としての対象そのものをま さにその真の現実性 という点で必然的であらしめているすべての意識連関がいかにして現象学的学 問性 において,す
なわちノエシスーノエマ的本質構造において記述されるうるのかという問題が, さらに検証されるべ き課題 としてここに提起 されているのである。妙。 (四)現
実性 と理 性 的動機 『イデーンI』 における「理性の現象学」への移行 を動機づけているものはまさにここに提起 さ れている「現実性の問題,お
よびそれに相関する,そ
れ自身において現実性を明示する理性意識の 問題」である。紛。経験的意識あるいは意識主観は現実性について判断し,現
実性 を問い,現
実性 を 推測 した り,懐
疑 した りし,そ
の懐疑に決着をつけた りするが,そ
のさいなされるさまざまな存在 定立についての正当性の判決を下すのは理性であるがゆえに■0,「理性の現象学」 に移行 しなけれ ばならないのである。 したがって「理性の現象学」の課題は起越論的意識の本質連関において「理性判決の正当性の本 質」 とそれに相関して「現実性の本質」 を現象学的に解明することにあるということになる°け。そ のさい理性 と現実性の相関関係を言表するにあたつて要請されることは,対
象を真に現実的に存在 するものとして定立するいっさいの言表が理性的でなければならないということ,つ
まり言表され たもの,あ
るいは思念 されたものが「基礎づけ」 られ,「明示 され」ること,直
接的に「見 る」 よ うにさせ られるのでなければならないということである。 というのは論理的領域,あ
るいは言表の 領域においては,原
理的に言って,「真に現実的に存在する」 ということと「理性的に明示可能な 存在である」 ということとは,相
関関係 にあることであるからである。。。 ところで,そ
れによって対象が「真に現実的に存在するもの」 として証示 され,確
証 される「理高階勝義 :明証性 と志向性 性的明示 (vernunftige Ausweisung)」 というのは何 を意味するのか。 フッサールにおいてはそ も そも理性意識 というのはどのようなものとして理解 されているのか。 フッサールの「理性の現象学」における「理性」理解の根本的特徴 は,「見 る」 とい う作用 の 「本瀕的所与性」のうちに理性意識の本質をみているという点にある1371。 フッサールが ここで「本 源的所与性」 と呼んでいるものは
,経
験主観が「見ること」をとお して,つ
まり「知覚 しつつ」対 象に係っているときの所与性,す
なわち「生身のままに」「みずからそこに」,まさに本源的に立ち 臨んでいるような所与性のことなのであるが00,この本源的所与性が或るものを現実的に存在する ものとして,またこれこれの しかたで存在するものとして理性的に定立することを動機づけるので あるというのである。 「(理性の)定
立はその根源的な正当性の根拠 を本源的所与性のうちに有する。9。」すなわち理性 はみずか らの存在定立の判決の正当性 をそれまでは意味や命題 としてのみ構成 されていた対象がそ こにおいて本源的に充実される,「見る」 という本源的所与性の卓越 した意識様態か らのみ汲み と っているということなのである■0。 フッサールは,本
源的所与性 という理性のこの卓越 した意識様態を明証性 と呼んでいるのであっ て,ここではそれを「理性定立 と,そ
の理性定立を本質的に動機づけているものとの統一tり」 とし て定義づけている。そ してその卓越 した意識様態の意味を理性的動機づけを欠いた所与様式 と対比 させて次のように際立てている。たとえば,或
る風景の想起意識は,わ
れわれがそれを知覚におい て現実的に見ている場合のように,本
源的に能与するものではない し, また2+1=1+2と
い う算 術的判断をわれわれは「上の空」で遂行することもできるが,一
方ではこの同 じ判断を洞祭的な仕 方で遂行することもできる。洞察的な仕方の場合には,そ
の事態,す
なわち判断総合に対応 した総 合的対象性は本源的に与えられ,本
源的な仕方で把握されている。 しか し,「上の空」の場合には, その事態は本源的に与えられてもいない し,本
源的に把握されてもいない“か。 そのさいフッサールはこの「動機づけ」 という言い方は,(ノ エシス的な)定
立作用 と,そ
れ に 対応するノエマ的な被定立的命題, しかも充実されたというそのあ り方における被定立的命題 との 間の関係 に当てはまると付け加えている。すなわち―,明
証性はあるときはノエシス的性格あるいは 作用に対 して用いられ (たとえば半J断作用の明証性),またあるときはノエマ的命題 に対 して用 い られる (たとえば明証的な論理的判断)という,二
重の意味を持つているということになる。 したがって,『イデーンI』 の「理性の現象学」においては,明
証性の概念 は二重の観点か ら区 別されている。まず第一に明証性は理性定立の観点から実然的明証性 (assertorische Evidenz)と 必当然的明証性 (apodiktische Evidenz)に 区別 される。ここでは或 る事物や事態などなんらかの 個的なものを見 る作用が問題なのか,そ
れとも或る本質あるいは本質態を洞察する作用が問題なの かによつて,そ
のように二重に区別 されるい)。 次に明証性は所与性の観点から十全な明証性 と不十全な明証性に区別 される。フッサールはここ で もさきほどの風景の例 と算術の例 を引 き合いにだし,後
者の洞察的判断における本源的所与性は 形相的所与性であつて,そ
こでは本質および本質態が完全な十全性において与えられ,把
握されて お り,そ
のかぎりでそこには「別様 には存在 しえない」 という究極的妥当性が動機づけられ,確
証 されていると見 られている・0。 ところがフッサールは,これに対 して風景の知覚の場合のような外 的経験 における本源的所与性はその生 き生 きとした本源性にもかかわらず本質必然的に不十全な所 与性で しかあ りえないというのである。 事物の生身のあ りあ りとした現出にもとづ く定立は,た
しかに一つの理性的な定立である。 しか鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第48巻 第
2号
(1997) 201 しその現出はつねにただ一面的な「不完全な」現出であるにす ぎない。 ところが,そ
の事物知覚に ぉぃて生身のあ りあ りとしたあ りさまで意識 されてそこにあるものは,事
物の「本来的に」現出 し ているその一面だけなのではな くて,当
の事物の全体 なのである。すなわち事物知覚の志向的本質 構造のうえか ら必然的に「本来的には現出 しえない」すなわち直観的には与えられえない,多
くの 空虚なあるいは未規定的な構成要素を内蔵せ ざるをえない,事
物の全体的な意味がそこにあるもの として意識 されているのである“D。 そういう意味で,フ ッサールは「原理的に言つて,事
物的実在物,す
なわちそうした意味での存 在は,ひ
とまとまりの完結 した現出においては,た
だ不十全 にしか現出することができないと。」 と 言うのである。 したがって,そ
のような不十全な現出にもとづ く理性定立 というのは,そ
れが経験 の進行のなかで,「より強力な理性動機」によつて抹殺されないかぎりにおいて,「その事物は現実 的である」 という程度の主張を意味するにす ぎないのであって,絶
対的に「その事物は現実的であ る」 という,「他存在 を排除する」 ような主張が意味 されているのではないのである。 したがつて,フッサールは,賜
J様には存在 しえない」 という必当然的明証性の根拠 はこの よう な外的知覚の本源的所与性のうちには見いだされ得ないというのである。なぜなら,そ
のような不 十全 にしか能与 しない現出にもとづ くいかなる理性定立 も「究極的に妥当するもの」ではあ りえな く,そ
れ らはことごとく「克服不可能」であることはできないからであるこ。。 しか し,フ ッサールはこのように論定することによつて,事
物知覚の本源的意識が「 自己錯誤」 の意識であるなどといおうとしているのではない。む しろ,ここで強調的に指摘 されているのは, みずか らの原理的な不十全性な所与性にもかかわらず,まさにそれゆえに,絶
えず「究極的に妥当 する」認識に向かって努力する,外
的経験一般の志向的本質構造なのであるtO。 フッサールによれば,原
理的に不十全な所与性 としての外的経験の連続的進行 には二つの本質的 可能性がある。まず第一に,そ
の経験が,連
続的に先行する理性定立によって,理
性的に動機づけ られるという場合が考えられる。すなわち,先
行する現出の空虚な箇所が充実されてゆき,未
規定 性が より詳細に規定 されてゆき,そ
のことによつてすみずみにまでわたって調和的な充実が絶えず 増大する理性の力 を随伴 させつつ進むという仕方で,事
が どこまでも調和的に運ぶという場合であ る。この場合には,最
初の理性定立は,調
和的充実化の進行において,そ
の動機づけの力を増大 さ せ,そ
うする仕方でたえずその「重み」を増大 させるという変容を家ることになる。 ところが,他
方では,そ
の経験の連続的進行のうちに不調和が現れてきて,そ
れまでは絶えず同 一のものとして意識されてきたものが「別様に規定される」ことになり, したがって以前の知覚的 経験の定立の構成要素が,そ
れの意味をも含めて,抹
殺 を蒙るという場合が考えられる。この場合 には,理
性定立の重みは「反対の動機」によつて,そ
の力を殺がれるという変容 を蒙ることになる のであるt。。 したがって,本
源的に能与する理性的意識の「見る」働 きの志向的な本質構造の解明に差 し向け られている「理性の現象学」の事物的実在の領域における課題は,まずなによりも原理的につねに 不完全な知覚意味によって動機づけられている経験が, どこまでも調和的に進行 し,そ
のことによ って理性的動機づけの力がますます増大するという事態はいかにして成 り立つのかということを明 らかにすることであ り, もう一方では,連
続的経験の進行のうちに不調和が生 じ,あ
る理性定立が 「より強大」な重みを持つ他の定立によつて,そ
の力 を殺がれるという事態はいかに して成 り立つ のかということを現象学的に,す
なわち経験的意識の志向的本質構造において明示すること,す
な わち「理性的に明示すること」にあるということになるのであるlSOl。202 高階勝義 :明証性 と志向性 (五
)外
的経 験 の空虚 な地 平 的志 向性 原理的に一面的に現出しうるだけの外的経験の連続的進行において,事
が どこまでも調和的に運 ぶということ,す
なわち先行する現出の空虚な契機が充実 されてゆき,未
規定性が より詳細 に規定 されてゆき,そ
うすることによつてその経験連関の全体が隅々にまでわたって調和的に充実 される てゆ くというような事態が,す
なわち「究極的に妥当する」,あ
るいは「別様 には存在 しえない」 というような明証的経験連関が,不
十全な所与性 としての外的経験にとつての「本質的可能性」 と して考えられうるというのはそもそもどういう意味でなのか。 そのような調和的な明証的経験が可能であるするならば,そ
の可能性の根拠はまさに外的経験の 地平的志向性の動機づけ連関のうちに,す
なわち原理的に一面的に現出 しうるだけの, したがつて 多 くの未規定性の地平 を随伴せ ぎるをえない,不
十全な所与性 としての外的経験の志向的本質連関 のうちに基礎づけられねばならない。 意識の地平的志向性の動機づけ連関に関する考察は,FイデーンI』 及び『受動 的総合 に関する 分析』 において主題的に展開されているが,後
者においてより詳細 に分析 されているので,ここで はこれをもとにして,さ しあた りこの問題背景を明らかにすることからはじめる。 すべての顕在的知覚はつねに潜伏的に可能的知覚体系の全体 を随伴 している。すなわち知覚的に 現れる現出は志向的に内的地平 と外的地平 というかたちでの現出体系の全体を随伴 している。 した がって,考
えられ得 るどのような現出様式 も現出する対象を完全 には与えない。いかなる現出様式 において現出する対象 も,お
のれを完全に汲み尽 くすような究極的な生身のままの自己ではない。 すべての現出は空虚な地平において<よ り以上のもの>を随伴 しているGう。すなわち,い
かなる本 来的に現出するものも,そ
れが志向的な空虚な地平によつて編み込 まれ,そ
れによつて浸透される ということによって,つ
まりそれが現出のうえで空虚なものの庭によつて取 り囲まれているという ことによってのみ,事
物的に現出するものになるということなのである・D。 ところで,ここでいわれている現出するものの地平の「空虚」 というのは,そ
れが無であるとい うことではな くて,充
実 されるべ き空虚 ということである。つまりそれは規定可能な未規定性であ るということなのである6)。 その空虚な地平が規定可能な未規定性であるといわれるのは,そ
れが か りに充実されることがあつたとしても,また「新 しい空虚な地平」が,す
なわち新 しい規定可能 な未規定性が生起 して くるであろうか らである(の。 したがって,パ
ースペクテイヴ的経験の本質か らいって,規
定可能な未規定性 という空虚な構成要素を内蔵 しないような地平などというものは不 可能であるということになるということなのである6°。 ここで改めて確認すべきことは,事
物的に現出するものの庭 としての「空虚な地平」 というのは まず第一に「充実されるべ き空虚」であるということ, したがってそれはそれを規定する主観性 に よって,す
なわち運動感覚的主観性によつて充実されねばならない空虚であるということが示唆 さ れているということである。そ して,第
二にその空虚は無ではあ りえないということ,す
なわちそ れは相対的充実であるということである。 というのは,フ ッサールが言 うように,この空虚な志向 的地平は恣意的に充実 されうるものではないか らである。「空虚な地平 というのは, それ 自身が或 るものについての意識 という意識の基本性格 を有する意識の地平である。この意識の庭はその空虚 にもかかわらず,顕
在化する新たな現出への移行に規貝Jを指示する,下
図を描 く (Vorzeichnung) というかたちでの意味を有 している156J。 」 ﹁ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第
2号
(1997) 203 ゎた しが この机 の前面 を見 ているとき,背
面 も存在 している。机 のすべ ての見 えない側面が,未
規定的にではあるとして も,空
虚な予示 とい うかたちで意識 されている。すなわちそれが どんなに 未規定的であるにして も,少
な くて もそれがなん らかの物体的形態や色彩 を有 しているとい うこと は一般的に予示 されているとい うことである。 したが って,そ
の下図の領域 においては未規定的な ものをより詳細 に規定す るような現出だけが調和的に接合 され うるとい うことなのである9)。 そ う ぃう意味で,フッサールはパースペ クテ ィヴ的経験の空虚 な志向的地平 を「開かれた可能性の活動 空間1581」 とも呼ぶのである。 た とえば,事
物の「背面の色」 は,そ
の事物がわれわれにとって未知の もので,まだ前面か らし か見 られたことがない とすれば,完
全 に規定 された色 としてはなにもテ描 されてはいないけれ ど, その場合で もそれが「 ひとつの色」であることは予描 されている し, ときにはそれ以上 に予描 され ることもある。われわれは前面が見本 として示 されると,背
面 もその見本 と同 じようになっている と予期す るであろう。た とえば,前
面が どこも同 じ色 を していれば背面 もそ うなっているとだろ う と予期す るのである。 しか し,背
面の色 は依然 として未規定のままである。そ してその予示 も正常 な知覚の他のすべての志向 と同様 に,素
朴 な確信 とい う様用 を有するだけにす ぎない。 しか し,そ
の場合で も,そ
れによって「 なん らかの色一般」が存在すること,あ
るいは「区画 ごとに別の色一 般」が存在す ること等 々が,つ
ま り「未規定的一般性」が存在す るとい うことが予示 されていると いうことは確実なのである6け。 しか も,この「なん らかの色一般」への空虚な志向はただ単 なる可 能的充実の志向 とい うようなことを意味するのではな く,そ
れによつて可能的充実の活動空間が意 味 されているとい うか ぎりで60,「未規定的一般性」 としての地平 は「特殊化 の活動空 間6° 」 であ るともいわれるのである。 したが って,一
般的なもの とい うのは未来の ものを空虚 に指示す る志向的地平 として,す
なわち 規定可能ではあるが,い
まだ規定 されていない地平 として構成 される とい うことになるになるので ある。「いわば将来す るものの予感 (Vorahnung)で ある空虚な予示の本質 には未規定性が属 す る。 未規定性 とい うのは一般性の根本形式であって,そ
の本質は特殊化 をとお しての意味の合致 におい てのみ充実 されるとい うことである。か。」つまり,この「未規定的一般性」 と しての空虚 な志 向的 地平 において現在的に与 えられている ものの うちには,未
来 において与 え られるものが未規定的に 下図的に描かれているとい うことなのであ り,そ
の意味で この地平は空虚な志向性の可能的充実の 活動空間であるといわれるのである。 そ して,この予料的に与 え られる「未規定的一般性」の先取的志向性の想定 こそが,フ
ッサール 現象学 における志向性概念 に重大 な転換 をもた らす ことになるのである。 まず なによりも,空
虚 な志向的地平の未規定性 とい う想定 は充実の機能の変更 を要求す る。 フッ サールがつねに主張す るのは,パ
ースペ クテ ィヴ経験 における志向 と充実 との関係 においては,志
向が事柄の うえか らも,時
間の うえか らも充実 に先行 しているとい うことである。[受動 的総合 に 関す る分析』 において も,「地平が,す
なわち空虚 な志向が存在 しない ところにはいか な る充実 も 存在 しない。9」 とい うことが強調 されている。 しか し ,『受動的総合 に関す る分析』 において語 ら れているこの「充実」の意味は,た
とえば初期の著作 の 『論理学研究』 において一般的に考 えられ ているような,「充実す る直観」の機能のごときもの として理解 されてはな らない。 『論理学研究』 においてみ られる,「承認」か「否認」か,あ
るいは「充実」か「欺 き」 か, と いった ような二者択― における「充実する直観」の機能 に関する言説は,た
しかに志向がその本質 のうえか らすでに規定 された志向 として考 え られているとい うか ぎりでは,す
なわちその志向が,高階勝義 :明 証性 と志向性 そこにおいて一義的な対象的意味がすでに構成 されている志向として考えられているというかぎり においてのみ妥当 しうることである。 しか し
,対
象的意味がすでに志向そのものにおいてあらか じ め構成 されているとすれば,充
実する直観 における空虚に志向されているものの生身の自己現在は その対象の意味構成にいかなる寄与 もなしえないということになる60。 というのは,そ
の場合は感 性的直観の機能は空虚な志向において規定的にあらか じめ考えられていることを「承認」するかあ るいイよ「否認」するかのいずれかに還元されるということになるからである°°。 しか し,志
向の本質を「未規定的一般性」のうちにみる,『受動的総合に関する分析』 における フッサールにとつては,志
向が充実する直観 によつてまった く承認 された り,まった く否認 された りということはあ りえないのであって,志
向は直観によつて``Fま ノ リ詳細 に規定 される」だけである ということになる。。。 (六)認
識 努 力 と しての志 向性 と自己能 与 へ の志 向 ラングが指摘 しているように6°,志
向の本質を「未規定的一般性」 として規定するフッサール後 期の思想 においては,明
らかに『論理学研究』以来の「志向性 (Inttntionalit】t)」概念に重要な転換, 拡張解釈がみられる。経験連関の進行 において,空
虚なものを充実 し,未
規定的なものを調和的に 規定 しようとする志向性は「或るものについての思念」 というような単なる作用志向性にはとどま りえないのであ り,そ
こにはそれを超え出て,「事象その もの」 を把握 しようとす る経験 自我の 「認識努力」 としての志向性が働いているとみなければならない。0。 そ して,ラ ングによれば, こ の志向性概念の転換 こそが,後
期 フッサールにおける「理論 と実践の統一」 の構想 を可能 にし, 「理論は実践の課題であ り,そ
して実践は真理への意志によって導かれている」 とい う規定 を動機 づけているものなのである。け。 「志向はその対象に向けられている。志向は単に空虚にその対象に向かって思念 しようとするの ではな く,そ
れはそれ自身においてその対象そのものを与えるという,自己所持の意識である直観 をめざすのである。 しか し,志
向はただ単に一般的に志向された対象 を対応する自己直観 において 捉えるということ,た
とえばただ単に予描 されたものが充実にもたらされているのを洞察するとい うことだけをめざしているのではない。志向はそれだけでは満足 しないのであって,そ
れはたえず より詳細な規定からさらにより詳細な規定へ とめざしつづけるのである・0。」 したが つて,経
験連 関において空虚な思念の充実にむけられる運動感覚的自我の志向は,まさに充実への志向として, すなわち「自己能与への志向?り」 として規定されることになるのである。志向というのはただひた す ら或るものを捉えようとねらう (abttielen)意識体験であ り,そしてそれは見て取った (abgesehen haben)と いう,そ
れに対応する充実への志向を内蔵 している。 したがって,そ
の志向の充実は目 標 としての存在者それ自身のもとに居合わせるという体験 においてのみすなわち, 自己能与する直 観 においてのみその目的が達成 されうるのである・D 志向性は,こうして,ここでは存在者それ自身を把握することをめざす,自我に発する認識努力 という形式をとることになる。そして,この「認識努力」の形式 というのは,フ ッサールによれば すべての意識がその「一般的な本質的可能性」 として自己のうちに引 き受けているものなのであっ て,そ
れは自我が進行する経験連関のなかでたえず存在者自身のもとに居合わせ,そ
れをより詳細 に規定するというしかたで, 自己把捉のうちに生 きぬこうとする努力なのである・0。 そして,フ ッサールは,まさにこの空虚な志向の「より詳細 な規定 (Nttherbesdmmung)」 とし司
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
︱
鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第48巻 第
2号
(1997) 205 ての充実する感性的直観の機能のうちに,対
象的意味そのものを構成する志向性の創造的契機を見 るのである。「それ (充実する直観のより詳細な規定)に
よつて,新
しい「根源的創造 (Ursti■ ung)」 が遂行 される,す
なわち根源的印象 (Urimpresslo■)が
遂行 される。 というのは,そ
こには根源的 な本源性の契機が現れ出るか らである仰)。 」 ところで,知
覚の進行 において遂行 されるすべての直観的充実が空虚な地平の「より詳細な畑 とな りうるわけではない。フッサールによれば,直
観の機能が空虚な志向の「より詳細な規定」 と しての充実 とな りうるのは,そ
れが習性化 された,永
続的知の地平に接合 される過程 とな りうると きだけである。 というのは,存
在者それ自身に向けられる志向としての認識努力 というのは,単
な る恣意的な個々の志向作用 としてみなされてはならないのであって,認
識の一般的概念からいって, 荏ζ晨ぞ伝ス名急ζ先塚く會憲身寒塚普緊言急参を急Fせ
る習性化 された知の ″ 罪 との整合的関連 感性的直観がまさに経験の空虚な地平の「 より詳細な規定」の過程 となり,そ
してその「 より詳 細な規定」が一定の意味契機 を新たにもたらすことによつて,習
性化 された永続的知のなかに「新 たなもの」が摂取 されることになるのであ り9°, したがって,そ
ういうしかたでまさに「充実する 直観」の機能それ自身が対象的意味の構成に寄与することになるのである。 フッサールは,『受動的総合 に関する分析』 において,「知覚は対象を本源的に能与する意識であ るが,志
向的本質的に不十全にしか能与 しえない」 とする,『論理学研究』や [イ デー ンI』 以来 の知覚の能作 についてのみずか らの想定にたいする批判的反省 をこめて次のように語つている。 「知覚の能作の本質は,つ
ねに新 しいものをすでにあらか じめ与えらた意味か ら直観化するとい うこと,す
なわちあたかもその意味がはじめか らすでに出来上がったものとして下図を描かれてい たかのように直観化 されるという点にあるのではなく,そ
の知覚作用において意味そのものが再び 形成されるという点にある。 したがって意味は本来的に絶え間ない変転において存立 しているので あり,つ
ねに新たな変転の可能性 を開いているのである・ 分。」 認識努力 としての志向が,経
験の空虚な地平の絶え間ない「 より詳細な規定」 をとお して究極的 にめざしているものは,存
在者それ自身の自己能与の直観である。すなわち『イデーンI』 の「理 性の現象学」の課題に関連づけていえば,認
識努力 としての志向が究極的にめざしているのは,経
験の進行 において先行する現出の空虚な契機をことごとく直観的に充実 し,未
規定性を絶えず より 詳細 に規定 しつづけることであ り,そ
してそのことをとお して,存
在者それ自身のもとに居合わせ るという,「十全な自己所与性 (addquate sebstgegebenheit)」 である。 ところで,フ
ッサールが しばしば指摘するように,空
間的知覚事物は原理的に一面的にしか現出 しえない,不
十全な所与性で しかあ りえないのであって, したがつて,「十全な自己所与性」 な ど というのは実際には外的経験 においては現実化 されえないのではないか。 というのは,い
かなる経 験地平 も究極的地平ではあ りえないからである。つまり,い
かなる地平においてもつねにより詳細 に規定されるべ き新 しい地平が形成 されることになるからである。 このような批判的問いに対するフッサールの答えは,「空間的事物が不十全 に しか知覚 されえな いというのは,ひ
とまとまりの完結 した現出においてのこと」であって,理
念 というあ りさまでな らば,「完全な自己所与性」はパースペクテイヴ的経験の様式において,す
なわち「連続的な現出 作用の果てしない諸過程の絶対的に規定された体系」 として,い
つ も下図を描かれているというの である90。 そ して,フ ッサールは経験地平のこの「絶対的に規定された体系」それ自身は現出しえ ない ものであって, しかも,そ
のような「経験の完全 に規定された体系」などというものは,経
験 し206 高階勝義:明証性 と志向性 の過程 においては実際 には求めえられるものではないにもかかわ らず
,そ
れはその ような姿でつね に現実の経験 を導いている「統制的理念 (regulanve ldee)・ 0」 であるとい う意味で,そ
れを「 カン ト的意味でのイデー」 ともよぶのである1801。 (七)真
理 へ の志 向 と究極 的妥 当性 の理 念 これまでの考察をとおして明らかにされたことは,自己能与への志向としての認識努力が究極的 には「十全な自己所与性」のイデーによつて目的論的に導かれているということであるがす認識努召
糸
羊
畳
曇
更
丹
象
衛
手
ヒ
寒
曇
な
を
よ
今
E書
仔
を
え
条
客
与
修
托
を
豊
佗
患
協
g免
握
屯
ン
を
早
曇
著
言
含
皐
雪
性 をめ ざして努力す るだけでな く,そ
の自己所与性 において真 なる もの として明示 され る志 向 の 「究極的妥当性 (EndgdttigkdD」 をめざす努力で もある, とい う点に注 目しなければな らない。 フッサールは,経
験の究極 的妥当性の問題 を主題的に考察 している,『受動的総合 に関する分析』 の第23節において,次
のように反問 している。「明証性 は,す
なわち直接的に洞観 され る十全性 は それだけで十分 な意味での真理 を与 えるのであろうか。真理 とい うのは何 といって も究極的妥当性 である。 しか し,自
己所持,自己経験 は経験 と矛盾することがあ りうる し,そ
れに相関 して様相化 がお こ りうる。果て しな くその ように進行す ることがあ りうるのではないか。 したがって,究
極的 妥当性 とい うのは決 して獲得 され得 ないのではないか徹)。 」 そ して,フ
ッサールは,第
一の問いには否定的に答 え,第
二の問いには肯定的に答 えている。そ のさい,フ
ッサールは「究極 的妥当性」 としての真理概念 を純粋論理的,あ
るいは数学的事象の領 域 に限定 して使用 している。 フッサ=ル
によれば,或
る事態の思念が真か偽か とい うことは,す
なわちそれが妥当するか しな いか とい うことはあ らか じめアプリオ リに決定 されているとい う。す なわち述定 的 にい えば,「 す べての判断はそれ自体 として妥当する真理 にその規準 をもっている。その場合,わ
れわれがその真 理 をすでに識 っていて,い
つで もそれを手 に入れることがで きるか否かは問題 にならない°か」 とい うのである。, この意味での真 とい うのは,真
であるとい うことが証明されていない事態の思念で もあ りうる。 ただ し,そ
れが真理であるな ら,真
なるもの として証明 され うるとい うことだけは前提 にされてい るとい うことである。 したが って,真
なるもの として思念 されていた ものが実際の経験 の過程 にお いて否定 されて しまうとい う可能性 はつねに開かれているのであって,そ
のことはアプリオリには 排除されえない。 この場合,ア
プリオ リにつF除され うるのは,或
る思念が真で も偽で もない とい う こと,す
なわち真であるとい うことも,真
ではない とい うことも証明 されえない とい う可能性 だけ である。可能性 はつねに二つの うちの一つである。0 そ して,フ ッサールによれば,自然的態度 におけるわれわれはさらに二つの可能性の どちらが当 てはまるか とい うことも,す
でにアプリオ リにあ らか じめ決定 されていると見 な しているとい うの である。た とえば,或
る数学的判断においては,そ
の判断が真 として証明 されるか,あ
るいは真 と して証明 されないか ということは自体 的に決定 されているとい うこと,す
なわちそのことはあ らか じめ, したがってあ らゆる現実的かつ可能的意識未来 にとつて決定 されている とい うことなのであ る。 フ ッサ ールは,この ようなあ らゆる決定 に先立 って,何
が妥 当 し,妥
当 しないか とい うこ とがす鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第48巻 第