現代 日本地方財政成立の歴史的起点 に関する一考察
経 済 学 研 究 室 藤 田 安 一I
は じめに 一一 問題の所在 一一 Ⅱ 昭和恐慌前夜 の地方財政1.地
方財政の危機 と大正デモクラシー2.両
税委譲問題 と地方財政 Ⅲ 昭和恐慌 の勃発 と地方財政への影響1.金
解禁準備政策 と地方財政2.金
解禁の挫折 と地方財政への影響 Ⅳ 高橋財政下の時局匡救事業 と地方財政1.高
橋財政 と「パ ン ドラの箱」2.時
局匡救事業の展開前夜 一一 井上三高橋論争3.時
局匡救事業 と農村経済4.時
局匡救事業 による地方財政の再編成 一一 その論理構造 と特徴V
結 論I
は じ め に 一 一 問 題 の所 在 ― ― 戦後か ら現在 に至 るまでの 日本地方財政の構造的特徴 をまとめると,つ
ぎの諸点に要約で きよう。 第 1に,行
政面での膨大 な国政委任事務の存在が,絶
えず地方行政機構 の整備 を不可避 にし,そ
のために必要な地方経費の増大が地方財政 を圧迫 して きた。 第2に,国
庫補助金が地方 自治体の重要な財源 として定着 し,地
方財政は国庫財源への依存 にと もなう中央集権化 をます ます強めていた。 第3に,事
業経費の地方魚担分 を起債 によつて調達す るとい う方式の もとに,低
金利政策 を基礎 とする大蔵省資金運用部資金の地方債引 き受 けが広範 に実行 され,そ
の結果,大
規模 な地方債の累 積 と地方財政危機 の激化 を招 くことになった。 この ような現在 わが国の地方財政構造の特徴が,歴
史上,
どの ような時期 に,い
かなる国家の財 政政策 によつて形成 されたのかを解明す ることが,本
稿の課題である。 ところで,こ
れ まで通説 として,現
代 日本地方財政成立の歴史的起点は,1940(昭
和15)年
戦時 下の税制改革 にともなう地方分与税制度の成立 におかれて きた。なぜ なら,税
源 を国家が独 占 しな藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点に関する一考察 が ら財源再配分 をつ うじて
,地
方財政の中央集権的統制 を一挙 に強化 したのが,こ
の制度であった か らである。 しか し,結
論 を先 どりしていえば,突
如 として地方分与税制度の成立 による全般的地方財政調整 制度が生 まれて きたわけではない。 この制度の成立 にあたつては,そ
れを必然化 した歴史的経過 を 考 える必要があ り,昭
和恐慌下の高橋是清蔵相の手 による地方財政政策の展 開が, 1つ
の前史 をな す とい う事実である。その場合,昭
和恐1此 対策 として,い
わゆる「高橋財政」の下 に取 り組 まれた時 局匡救事業 に注 目したい。なぜ なら,当
時,政
府の主要な農村恐1陀 対策が,①
米価維持,②
負債整 理,③
時局匡救事業 を3つの柱 とし,こ
の うち大黒柱が時局匡救事業であった とい う理 由か らだけ ではない。本文で分析するように,膨
大 な国家お よび地方予算が この事業 に費や され,地
方財政構 造 に与 えたインパ ク トは強大 なものであったか らである。 言 うまで もな く,歴
史上,1940年
の地方分与税制度の成立は,そ
れに先立つ1936年の臨時町村財 政補給金制度 と,翌
年37年の臨時地方財政補給金制度 につづ く帰結であった。地方分与税制度の成 立に帰着す る, これ ら一連の地方財政改革の前提 となったのは,深
刻 な地方財政の赤字問題であり, 背後で着 々 と進行 していた地方財政危機 の激化であった。 この地方財政の赤字構造 もまた,高
橋財 政下 における時局匡救事業の遂行その ものによって,そ
の累積的拡大の基盤が形成せ られたのであ る。 以上の点 をふ まえ,本
稿の課題 を整理す るとつ ぎの ようになる。 本稿の課題 は,現
在 わが国の地方財政構造 の基盤が,高
橋財政期 に準備 された とい う観点か ら, 高橋財政下,昭
和恐慌対策 として実施 された時局匡救事業が,地
方財政構造 に与 えた影響の大 きさ に注 目し,こ
の事業 による地方財政再編成の内容 とその特徴 をつかみ,そ
れ以前の地方財政 との段 階的な変化 を明 らかにす ることにある。 本稿では,以
上の課題 をつ ぎの ような順序で論述 したい。本文の中心は,Ⅳ
の「高橋財 政下 の時 局匡救事業 と地方財政」にあるが,こ
の高橋財政下 における地方財政構造の変化 を明 らか にす るた めには,そ
れ以前の地方財政の構造 とそれをもた らした地方財政政策の特徴 をみてお く必要がある。 そのために,本
稿 Ⅱの「昭和恐慌前夜 の地方財政」では1920年代 の地方財政 を,次
に昭和恐慌勃発時 の地方財政は,Ⅲ
の「昭和恐慌の勃発 と地方財政への影響」で言及することに した。 Ⅱ 昭和 恐 慌 前 夜 の 地 方 財 政1.地
方財政の危機 と大正デモクラシー 1914年に勃発 した第1次
世界大戦は,典
型的な戦争景気 によつて 日本資本主義 を飛躍的に発展 さ せた。 まず貿易面 をみると,1915年
か ら1918年の4年間に,14億
円の輸出超過があ り,貿
易外収支14億 円 と合わせ ると,計
28億円の正貨が流入 した。 これによって,わ
が国は慢性的支払超過国か ら一挙 に受取超過国 とな り,債
権国の地位 を獲得 した。同時 に, 日本の産業構造 は大 きく変化 した。産業 部門別生産額 をみると,1914年
,農
業力M5,4%,工
業 は44,4%で
あったが,1919年
には,そ
の比率 が逆転 して,農
業35,1%,工
業56.8%と なった。すなわち,大
戦中における工業生産の発展 によつ て,工
業生産 は農業生産 を上回 り,総
生産額の過半 を占めるにいたつた。農業国であった 日本 は, 大戦 を経過 したのち,一
躍,工
業国に脱皮 したのである。 この間,財
政は寺内内閣 と原内閣の軍拡・社会資本整備・教育振興 など積極的財政政策 により,│「
│ │ 鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第49巻 第2号
(1998) 一般会計 は歳出で1913年の5.7億か ら1919年には11.7億へ と2倍
に膨張 した。それ に ともなって, 地方財政 も,第
1次
大戦後の都市化 とともに急速 に増加 した。 1921年 の財 政規模 でみ る と,府
県 3.2億円,市
3.2億円,町
村3,9億円であつた。 ところが,1927年
には,府
県4.9億円,市
9。 4億 円, 町村5,4億円の規模 となっている。 こうした地方財政の急速な膨張 をもた らした要因は3つ
あつた。第1に,都
市化 にともなう都市 交通,運
輸通信施設,上
下水道 ,電 気 ガスなど社会的生産手段の造成。第2に,教
育,衛
生,社
会 事業など労働力管理。第3に,階
級対立の激化 に対応するための治安整備,な
どであった。 これ ら に要す る費用 は,地
方財政 に重 くの しかかった。 ここに地方財政の危機が進行す る。 そのため戸数割,家
屋税 は増徴 され,1913年
か ら1921年にかけて,戸
数割 は3倍 にな り,地
方税 の36%を
しめた。 しか し,依
然 として財政危機 は解決せず,地
方債 も急速 に増 えて1921年の1.5億 円か ら1927年には6.4億円 と,一
挙 に5倍になった。 明治末期 の桂 内閣に反対する民衆運動 をきっかけに して起 こった大正デモクラシーは,こ
うした 地方財政危機 を背景 に,地
方 自治の改革運動 を重要な柱 として展 開 した。1921(大
10)年
には,選
挙法の改正が なされ,公
民権の改正が行 われた。それによつて,公
民権 の資格 は,国
税か ら直接市町村税 に納税要件がかわ り,市
の3級
選挙制は2級
選挙制 に,町
村の等 級選挙制 は全廃 された。 この結果,有
権者総数 は約500万人か ら752万人 に増 え,
町村 で は現行466 万5千
人が648万6千
人 に,市
は33万7千
人が103万7千
人 に増 えた。 そのため,労
働者・農民の地方政治参加の可能性がひらかれ,「地方議会の占領」 をス ローガ ン とする労働者・小作人による地方 自治の要求がかかげ られるようになった。成人男子のすべ てに選 挙権が与 えられる普通選挙法が成立 したのは,そ
れか ら4年後の1925(大
14)年
のことであつた。 さらに大正デモクラシーの運動 は,郡
制・郡役所の廃止 をめざした。当時,郡
制 は地主 と天皇制 地方官僚 の支配の拠点 として,農
村支配のための重要な中間機関であつた。そのため,郡
制廃止条 は,山
県有朋 を中心 とする天皇制官僚 の猛反対 をうける。だが,大
正デモ クラシーの波は反対 をお しきり,政
府 をして1926(大
15昭元)年 ,郡
役所 の廃止 にふみ きらせた。 こうした選挙制度の改正,郡
役所の廃止 とい う一連の進歩的改革は,「財政上の地方 自治の強化」 とい う現象 を生みだ した。 しか し,大
正デモ クラシー運動が要求 していた知事公選 は,つ
いに実現 されることはなかった。政府 は郡役所 を廃止す るかわ りに,そ
の分 だけ,府
県 による町村 の指導監 督 を強化 した。アメを与 えて,ム
チを鍛 えたのである。2.両
税委議問題 と地方財政 第1次
世界大戦後の地方財政危機 は,地
方財政制度 に抜本的修正 をせ まった。 この地方財政改革 をめ ぐって,1920年
代 には相対立する2つ
の見解が激 しくぶつか りあった。第1は,地
方財政危機 を国庫補助金の拡充 によつて救済せ よ,
との主張であ り,第
2は
,国
税 の一部 を地方税に委譲 して, 地方 自治体の独立財源 を強化せ よ,
との主張である。 まず,前
者の主張か ら検討することに しよう。 補助金 による地方財政拡充の方向は,す
でに1918(大
7)年
義務教育費国庫負担金制度の成立か ら は じまる。政府 は,こ
の制度 をもって財政調整 を行い,付
加税 中心の地方歳入体系 を,付
加税十国 庫補助金 中心の体系 に変 えようとした。 当初1千
万円であつた補助金 は,1923年
には3千
万円に増額 された。義務教育国庫負担金が財政 調整の性格 をもつ ことにな り,以
降,補
助金行政が地方財政政策の中心 となった。そ して,井
上財―
_
264
藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点 に関する一考察 政の金解禁政策によ り,両
税委譲問題が棚上げされると,補
助金行政の方向が決定的 となる。 この ような義務教育国庫負担金の財政調整制度への性格転化 は,中
央集権的・統制的地方財政制度への 幕開けを告げるもの として注 目される。 補助金政策が全面的に展 開するのは,後
述するように,昭
和恐慌下,高
橋財政 による時局匡救事 業 においてである。 しか し,時
局匡救事業の補助金 は,使
途 を特定 された ものであ り,
しか も,こ
の特定補助事業は地方財政の負担 を伴 うため,地
方財政の窮乏は一層進 んだ。それ とともに,地
方 財政の地域間,こ
とに都市 と農村 との不均衡が,は
ななだ しくなった。そこで,使
途 を特定 しない 全般的財政調整制度への発展が,地
方当局者か ら望 まれる。 この要請 に答 えて,1936(昭
11)年
地 方配付税・分与税か らなる全般的財政調整制度が成立す るのである。 つ ぎに,地
方財政改革 をめ ぐる第2の主張 は,大
正デモクラシーの地方 自治運動 を背景 とした も のであ り,地
方 自治体の独立財源強化 のために,国
税の一部 を地方税 に委譲せ よ,
とい うものであ る。具体的に,地
租 と営業税,こ
の両税 を地方 自治体 に委譲 して「地方分権的独立税主義的な地方 税制の理想」 を実現 しようとするものであった。 この両税委譲問題 は,1920年
の「臨時財政経済調査会」 には じま り,1929年
の田中政友会内閣に よる第56国会への提案 と,そ
れに対する貴族院の反対,否
決 まで,実
に,10年
間に渡 って論議 され ている。貴族院が強 く反対 した理由は,第
1に,こ
の改革案が明治以来の地方 自治制の崩壊 を意味 すると見 なされたこと。第2に,中
央財政の財源 に打撃 を与 えるのを恐れたためである。 最終的に,両
税委譲 による地方財政改革 を棚上げに したのは,昭
和恐慌の勃発であった。恐1院に よる税の減収 と恐慌対策費の膨張 は,こ
の問題 をこれ以上,論
議することを許 さなかった。そのた め,地
方 自治体 は,従
来 どお り乏 しい自主財源 による財政運営 を続 けていかなければな らなかった のである。 まさに,藤
田武夫氏が述べ るようように,「委譲問題 を最後の幕 として,
日本地方財 政制度 は, 後述の如 く,急
激 に従前 よ りも一層 中央集権的な体制に移 って行 ったのである。この意味において, 両税委譲問題 は,
日本地方財政制度の一大転換期 を示す金字塔であった。」0
Ⅲ 昭和 恐 慌 の勃 発 と地 方 財 政 へ の 影 響1.金
解禁準備政策 と地方財政 井上蔵相 は,1930年
1月11日のラジオ放送で「金解禁 に対す る準備 は,財
政の整理,緊
縮,国
債 の整理,国
民の消費節約の3つに大別することがで きます」② と述べ,つ
づいて,こ
れ ら準備 政策 が,い
かにうま く行 ったかを誇 らしく語 った。 事実,井
上 は1929年 7月,蔵
相 に就任 して以来,財
政緊縮,在
外正貨の補充,消
費節約 と貯蓄奨 励の国民精神運動,大
蔵省証券 による民間遊資の吸収,外
国銀行 とのクレジ ッ トの提携 など,精
力 的に金解禁準備 をすすめた。 まず,1929年
度実行予算では9,166万円の節減 を行い,歳
入面で も国債の新規発行 を3,924万円縮 小 した。 また,1930年
度予算で も前年度 より1億
6,400万円を圧縮 し,16億
877万 円の緊縮予算 を組 んだ。 さらに,地
方 自治体 について も,1929年
7月,内
務・大蔵両大臣 より各地方長官 に対 して訓令 を 発 し,緊
縮予算 を要求 した。 それによると,第
1に,経
費節約のために,新
規の事業 は中止する。すでに計画済の ものについ r工 │「
鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第49巻 第2号
(1998) 265
て も,と
りやめるか,減
らす。増税 は してはならない とし,つ
ぎの ように命 じている。 「道府県昭和5年
度当初予算 については,各
費 目にわた り整理節約 を行 い,極
力その減額 を期す るとともに,新
規施設 を避 け,既
定計画 にかかるものにあ りて も,こ
れを打切,中
止,減
額 または 繰廷等 を実行 し,課
税 については新設,増
徴 を避 けることとし,昭
和4年
度当初予算額 に比 し少 な くとも1割5分
減 とす ること。」③ 第2に,地
方債 については,ど
うして も必要なもの以外 は禁止 している。 「地方債 にあ りては,災
害予防及び復興事業,失
業事業のごときものに して真 に緊急避 くべか ら ず ものの外,新
規事業 はこれを許可せ ざることとし,す
でに起債の許可 をな したる事業 といえども 極力 これが打切又 は繰延 を実行すること。」° 第1表
昭和初年の地方歳出 その結果,地
方歳出は,上
記第1表
にみ られるように,1927年
19億 6,800万円であつたのが,1928 年には,18億
9,400万 円 と7,400万 円の減 とな り,1929年
には17億 1,500万円 と徐 々 に減少 してい っ た。2.金
解禁の挫折 と地方財政への影響 正金銀行 と米英財 団 との間に, 1億
円のクレジッ トが成立 した直後,金
解禁の時期到来 とみた政 府 は,1929年
11月21日,金
解禁実施 を翌30年 1月11日 をもって行 うとの大蔵省令 を公布 した。 万事 うま くすすむかの ようにみえた。 また井上の言 うように,「なにも正貨 の流 出 を心 配す る必 要はない」0は
ずであつた。 しか し,解
禁 となるや,あ
たか もそれを待 ちか まえていたかのように, 正貨 は急激 に流出 した。1930年の1年間だけで も,流
出 した正貨 は2億
2,800万円 と,そ
のス ピー ドはす さまじい ものであつた。 日本経済は,1929年
アメリカ・ ウオール街の株価の大暴落 に端 を発 した世界大恐慌の渦の中に, 巻 き込 まれたのである。 とりわけ,
日本経済への影響 は破壊的であつた。 とい うのは,前
述 した よ うに,政
府 は金解禁 にそなえて財政緊縮,産
業合理化 とい うデフレ政策 をとっていたので,国
民生 活への影響 は二重 にな り,大
恐慌 は金解禁 と重 な りあつて,そ
の力 は増幅 されたためである。金解 禁は「あたか も吹 きす さぶ大恐慌の嵐 にむかって,雨
戸 をあけはなつ ような もの」0で
あつた。 日本経済は1930年3月を転機 に,深
刻 な恐慌状態 につ き落 とされた。いわゆる「 昭和恐慌」 の は じま りである。物価 は下落 し,貿
易収支 は悪化 し,せ
っか く蓄積 した正貨 も,急
速 に海外 に流出 し (単位100万円) 年 度 道 府 県 市 町 本寸 計 1926 449 644 1,593 492 540 1,968 1928 刀■ 842 1,894 1929 489 1,715 478 498 1,752 503 634 1,626 ω 大蔵省昭和財政史編集室編 『昭和財政史』 XⅣ 「地方財政」P.119よ り作成。「 藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点に関する一考察 つづけた。 第1に
,1930年
の物価 は前年度 に比 し17%の
低下,翌
31年にも15%の
低下 と,この2年
間 に30%
以上 もの暴落 を示 した。第2に,金
解禁の影響 をまともに受けて,貿
易 は30年には前年 に比べ,輸
出31.5%の
減,輸
入30.3%減
で,入
超額は7,622万円に達 した。第3に,そ
のため,正
貨 は為 替思 惑資金の引上げ,外
貨債買入れによる資本逃避 な ども加 わって,30年
に2億
2,800万円,31年
には4 億3,200万円 と急激 に流出 した。 さらに,ア
メリカでの恐慌の深化 によつて,生
糸関係品は55%減
,織
物関係品は52%も激減 して, 国際収支悪化の重大 な原因 となった。 とくに,生
糸価格の暴落 と輸出の激減は,養
蚕農家 に壊滅的 な打撃 を与 えた。いま,米
価 と繭価の価格下落 をみると,米
価 は1928年 31.38円か ら1930年 27.48円 へ,繭
価 は1928年 6,02円か ら1930年 2,00円へ とい う猛烈tな下落ぶ りであつた。 これ ら農産物価格の 下落は当然,農
家現金収入の減退 をもた らし,負
債 を累積 させた。「 日本の場合,世
界恐慌 の農業 恐慌的側面が,最
も尖鋭 なかたちであ らわれた」①のである。 1932年に入 ると,農
村の惨状 は一層悲惨 な ものになった。借金返済のため,東
北農民 を中心 に娘 の身売 りが公然 と行 なわれた。昭和7(1932)年
6月17日付 の F朝日新聞』 は,当
時の模様 をつ ぎ の ように伝 えている。 「最上郡西小国村で15歳以上24歳未満の若い娘 さんが合計467名の うち,や
みの女 として芸娼妓 に売 られたのが110名(23%),こ
のほか,女
中や酌婦 として出ているものが,150名
あ る (昭和6 年11月調査),こ
れ らはいずれ も,借
金返済の犠牲 となって遠 くへ売 られてゆ くのである。」 また欠食児童が続出 した。岩手県では「一粒 のひえさえな く,な
ら・栃 の実 を袋 に入れて学校 に 持 って くる児童,そ
れ さえ持 って くることので きぬ児童の数は,な
ん と6万 4千
に達 し……東北本 線奥 中山駅付近 を急行列車が通過す る時,食
堂車か ら投 げ与 えるパ ンくず を,カ
ラス と奪い合いを す る子供」0の
姿 まで見み られた とい う。 第2表
昭和初年の地方税収入 この農村経済の窮乏は,上
記第2表
にみ られるように地方税収入 に大 きな影響 を与 えた。1930年 以降,地
方税収入は急激 に減少する。 とくに,町
村税 において減少が著 しい。 これは,極
度の貧困 のため,農
民の租税力が限界 に達 し,町
村税率の引下げが行 われたためである。その結果,「 小学 校教貝や役場吏員の体給 さえ も支払いえない町村が,各
地 に現れた。昭和7年6月現在で帝国教育会 か ら青森,岩
手,宮
城,東
京,新
潟,長
野,岡
山,高
知,長
崎,熊
本,そ
の他東北,関
東,北
陸,︱
︱︱
︱1
11
し h
﹁ ︲
︲︲
︲︲
︲
(単位100万円) 年度 道 府 県 市 町 本寸 計 1926 1927 249 625 1929 265 123 278 247 602 田 大蔵省昭和財政史編集室編 F昭和財政史』XⅣ 「地方財政」P,120よ り作成。下
︲ ︲
︲
鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第49巻 第2号
(1998) 267
中部,四
国お よび九州等各地方の20府県 について調査 した ところによると,回
答小 学校 数2,384校 の うち,教
員俸給未払校数 は,実
に557校に上 り,回
答校 の2割
3分
を占めていたのである」⑨。 こ うした農村の状態 こそが,「井上財政 を無言の圧力で,大
きく方向転換 させ た」■°契機であった。 そのため, これ までの緊縮財政 を,
もはやつづけることは不可能であるとみた井上準之助蔵湘 は, 預金部資金 を動員 して大規模 な財政投融資 を行 つた。 これは,均
衡財政の建前上,財
政支出による 救済が困難であったためである。「財政投融資が一般会計 を補完 して,政
府の不況対 策 を行 うとい う方式 は,こ
の時 に定型化 した と言 つて よい」llll。 井上緊縮財政は,農
村財政の窮乏 を前 に して, 事実上,破
綻 し始めていたのである。 米価・糸価維持,失
業救済事業 などに投 じられた預金部 をつ うじる救済資金 は,総
額2.5億円 に のばった。 しか し,こ
の巨大 な救済融資が,農
村,中
小企業,労
働者 を救 ったのであろうか。 ここ では,農
山漁村資金 をとりあげ,そ
の実態 をみてみ よう。 総額2.5億円の救済の うち,こ
の農山漁村資金 は7,000万円で,冬
期間 6カ 月の失業対策 を実施 し 全国30∼ 35万名の失業 を救済す る目的で,貸
付 を行 うものである。その要網 は,つ
ぎの とお りであ った。(イ)総
額 中約半額の事業費 には利子補給 はな く,利
子 は4.2%。 (口)他
の半額 は従 来補助 金 を交付 している事業 に貸付 け,利
子率 は3.3%と し,0,7%の
利子補給。(ハ)償
還期 間は最長29 年。(二)貸
付機 関は地方公共団体・農会・組合・個人。(ホ)対
象事業は小規模 開墾,耕
地拡張改 良事業・山村開発事業・蚕糸改良事業・水産諸施設・畜産諸施設・副業及農業共同施設。 融資 (4.2%) 地方債 扁虫¥筆 (4.8%) 融資 (4.2または3.5%) ω 宮本憲―「昭和恐慌と財政政策」)II合一郎他編『講座日本資本主義発達史』Ш,P。178よ り作成。 預金部か ら資金融資が,
どの ような方法で行 われたかは,図
1で示 した。図をみ る と,資
金が預 金部か ら事業主体 にわたるのに, 2つ
の経路があった。府県か ら町村へ,ま
たは直接,府
県か らの 場合 と,勧
銀・農工銀行 を経 る場合 とである。 しか し,い
ずれの場合 にも,貸
付機関が農会・組合 などの地方団体であつたため,団
体救済の意 味あいが強 く,
しか も,
この事業は融資であったか ら,零
細農家 は容易 に借 りることはで きず,返
済能力のある農家,主
に,中
堅農あるいは富農 に限 られる傾向があったために,零
細農民の救済 に 止 図1
農山漁村資金の預金部か らの資金融資T
﹁
268
藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点に関する一考察 は効力 を発揮 しなかったのである。 Ⅳ 高 橋 財 政 下 の 時 局 匡 救 事 業 と地 方 財 政1.高
橋財政 と「パ ン ドラの箱」 1931年12月 11日,第
2次
若槻内閣総辞職のあ とをうけて,同
月13日,大
養政友会内閣が成立 した。 蔵相 は高橋是清,時
に78歳 であった。途中,岡
田内閣の当初,約
5カ 月間ほど藤井真信 に蔵相 の席 をゆず った ものの,こ
の期 間を除 く約5年
間,1936年
の2・ 26事件で非業の死 をと,デるまで,歴
史 上,「高橋財政」 とよばれる財政経済政策が展 開された。 高橋 は,不
況の原 因が金解禁政策 にあると考 えていたか ら,景
気 回復 のために,蔵
相 に就任する その 日に,金
輸出禁止 を大蔵省令 によつて断行 し, 4日後の17日に日本銀行券の兌換 を停止 した。 この基盤の上で,高
橋 は井上の財政緊縮政策 とは正反対の,財
政膨張政策 をとった。 高橋蔵相 は1932年 6月 3日,第
62議会 において実行予算 を提示する。歳入 は13億7,470万 円。歳 出は14億 6,050万円,こ
れに追加予算 を加 えると,歳
出総額は17億8,040万 円にものばっていた。 こ れにつづいて,第
63議会 においては,時
局 匡救 の追加予算 が一般 会計1億
6,300万 円,特
別 会計 1,300万円,計
1億
7,600万 円計上 された。 これ以降,わ
が国の財政は爆発的な膨張 をとげることに なる。 その結果,1932年
度の予算 は第3表
にみ られ ように,前
年度 に比べ て一挙 に5億
円増大 して,19
億5,000万円 となった。以後,予
算 は膨張 をつづけ,1936(昭
11)年
には,22億
8,200万円の巨額 に 達 した。 第3表
財政規模の推移 口『日本経済統計集』より作成。 高橋蔵相 は,景
気 を回復 させ るために,膨
張 した予算の財源 を増税 に求めることは避 け,赤
字公 債で まかなう方針 をとった。 ここに,
日本財政史上初の歳入補填公債が1932年か ら発行 されること になる。 この赤字公債 の発行が,フ
ァシズムに道 をひらく「パ ン ドラの箱」 になろうとは,こ
の時 点では,ま
だ高橋蔵相の思い もよらないことであつた。 1931年歳入総額 に占めるこの公債・借入金の比率 は7.9%で
あったが,32年
にい つ き よに4倍
の32.2%に
ふえた。 この ような膨大 な公債発行 は,管
理通貨制 と低金利政策 によって支 えられた。 経費膨張の要因は,軍
事費 と時局匡救事業費であった。第3表
にみ られるように,軍
事費は,31
● I I I I 五 (単位100万円) 内訳 年度 歳 出 総 額 事 業 費 行 政 費 国 債 費 そ の 他 金 額 比 率 金 額 ナヒ ≧筈 金 額と
ヒ
ヨ
岳
金 額士
ヒ
ヨ
語
金 額 lヒ 昌筈 1,477 455 30.8 44.0 214 14.5 1,950 686 35.2 858 44.0 241 8.4 2,255 873 38,7 879 39.0 334 2,263 942 43.5 31.7 2,206 1,033 46.8 28.2 372 2,282 1,078 47.2 656 28.8 363F
︲
鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第49巻 第2号
(1998) 269
年には4億
5,500万円であったのが,32年
を転機 として6億
8,600万円に急増 し,36年
には実 に10億 7,800万円にまで膨張 している。全歳出に占める軍事費の比率 も30.8%か
ら35,2%へ ,
そ して36年 には47.2%に
まで伸 びているのがわかる。 一方,時
局匡救事業 は,1932年
か ら行 われた失業対策の公共土木事業であった。 とりわけ,時
局 匡救事業が,地
方財政 との関係 で重要なのは,こ
の事業が国庫補助金制度展開の契機 となった点で ある。 この時か ら,政
府 は農村救済のために広域行政機関 としての府県財政 を充実 し,多
額の農村 補助金が府県 を通 じて支出された。 なるほど,時
局匡救事業は,軍
事費の圧力 により,1934年
をもって打 ち切 られている。 しか し, この国庫補助金 は,時
局匡救事業が終わって も引 き続 き交付 され,恒
久化することになった。この 補助金行政 による中央統制の傾向は軍事化の過程で もすすみ,戦
後の中央集権的な地方財政制度 は ここに確立 した といって よい。以下 にみるように,現
代 日本の地方財政 システムの骨格が,こ
の時 期 に形成 されたのである。 したがって,つ
ぎの課題 は,高
橋財政下の時局匡救事業 をテコとして,い
かにして,中
央集権的・ 官僚主義的地方財政へ と地方財政の再編が行 われたかの論理構造 を解明す ることにある。その前に, 時局匡救事業 とはいかなる ものであつたかを,次
にみてお こう。2.時
局匡救事業の展開前夜 ―一 井上=高
橋論争 1932年 1月 21日に再会 された第60回帝国議会は,過
去 に例 をみない緊迫 した議会 になった。犬養 首相の施政方針演説,芳
澤外相の外交演説のあ と,高
橋是清蔵相の財政演説が行 なわれた。大蔵大 臣が帝国議会の開会冒頭,貴
族院において財政演説す ることは,異
例のことである。それだけでも, この議会が どうい う性格 をもっていたかがわかる。 高橋蔵相の演説内容 は,金
輸出再禁止,お
よび,こ
れを中心 とする経済政策であった。 この大部 分 は,井
上前蔵相の財政政策 に対する攻撃で占め られていた。 高橋蔵相の演説が終 わ り質疑応答 に移 るや,井
上準之助が立 ちあが り「蔵相の金輸出禁止 に関す る説明は,事
実 と相違する所頗 る多 く,こ
の儘 に放任する時は,我
が国の対外信用 にも影響すると ころ大であるか ら,こ
の事実 を明 らかにす る為 に質問 したい」Qか と緊急質問の動議 を提出 したので , 議場は,た
ちまち緊張 した空気 につつ まれた。 高橋蔵相 に向かって井上 は言 った。 「金本位の如 き国民の経済生活 に重大 な関係 のあるものは,極
力,こ
れを維持するということカミ 我々のいわゆる政治家の態度でな くちゃならぬ と,こ
う考 えるのであ ります。」・° しか し,井
上がい くら述べて も,現
実の前 には,ひ
とたまりもなかった。金解禁がなされて,こ
の2年
間に,約
8億
円の正貨が海外 に流 出 した。解禁直前 には在外正貨が3億
円であつたのに比較 す ると,そ
の流出の ものす ごさがわかる。 一方,高
橋 は,井
上が蔵相 に就任する直前 まで強力な金解禁反対論者であ った点&り をついて , 次の ように切 り返 した。 「その井上君 はなにが見 る所があって, 2ヵ 月ばか りたつて大蔵大臣になられて,す
みやかに金 解禁 とい うことに変 わ られたのであるか,そ
れを私 は却て反省 して もらいたい。」Q' 落ち着 きな く,や
っきになって質問す る井上 に対 し,彼
の過去の言動の矛盾 をつ く余裕 を見せ な が ら,な
だめすかす ように答弁する高橋,こ
の両者の違いが日に浮かぶようである。 勝敗は,だ
れの目にも明 らかであると思えた。 しか し当時,世
論は意外 にも,そ
うはみなかったT
藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点に関する一考察 ようである。い ま手元 に,1932年
1月 22日の 『東京朝 日新聞』がある。1月 22日 とい うか ら,先
に 紹介 した第60議会 における,井
上対高橋 の論争があった翌 日の新 聞である。社説 には,つ
ぎの よう に書かれてある。 「蔵相の演説 において,特
に思い足 らぬ感 じを起 こさしめることは,金
再禁止後の対策において, 一言 ものべていない ことである。 よかれ悪 しかれ,金
再禁止 はすでに決行 された。 しこうして,こ
の悪影響 は続々 と現れている。例 えば為替相場の激動の如 きは,こ
の一例である。現内閣は,そ
れ はやむをえない として放任す る積 りか,そ
れ とも,こ
の対策 を講ずる積 りか,そ
れ等 は識者の等 し くしらん とするところだが,何
等 この重要問題 に触 る所 ないのは,は
なはだ遺憾 とすべ きである。」 明 らかに論調 は,高
橋が金再禁上 をした後,何
ら政策 らしきものを実行 していないことへの,厳
しい非難であった。 しか し,こ
の時 よ りわずか5カ 月後,膨
張予算が提示 され, さらに,そ
れ よ り3カ 月後の 8月 末 には,時
局匡救事業のための追加予算が計上 され,後
述す る時局匡救事業の本格的展 開の時 を迎 え るのである。3.時
局匡救事業 と農村経済(1)時
局匡救事業の規模 と内容 政府の主要な恐慌対策 は,米
価対策,負
債整理対策,時
局匡救事業の3つであ る。 その うち恐慌 対策 として,主
流 をな したのは時局匡救事業であ り,そ
れは農村対策 にむけた一連の救農土木事業, お よび経済更生運動 を中心 とした。 1932年 6月13日,第
63議会衆議院本会議 において,「時局匡救 ノ為臨時議会招集奏請二関スル件」 の動議が久原房之助 ほか24名によって提出され,決
議 された。 政府ハ現内閣成立 ノ使命二鑑 ミ時局匡救二適切 ナル経済施設 卜人心安定 ノ対策 ヲ遂行スル為成 ルヘ ク速二更メテ臨時議会 ヲ開キ通貨流通 ノ円満,農
村其 ノ他 ノ負債整理,公
共事業 ノ徹底 的実 施,農
産物其 ノ他重要産業統制等二関シ必要ナル各般 ノ法律案及予算 ヲ提 出スヘ シ 右決議ス この決議 にそって,同
年 8月,第
63議会,第
2次
救農議会 (いわゆる「時局匡救議 会」)イこおい て,時
局匡救政策 と時局匡救事業が成立 し,農
村救済 を目的 とする時局匡救事業が本格的に展 開す る。 まず,事
業規模 についてみ よう。高橋蔵相 は,こ
の点 を第63議会で以下の ように述べ ている。 「政府の時局匡救予算の3年
度間の通計額 は前 にものべ ました通 り,約
6億
円であ りますが,こ
れに政府低利資金の融通 によ り行 われるべ き,地
方の時局匡救事業費の3カ年分 を加 えますれば, 中央地方 を通 じて約8億円に達する見込みであ ります。 さらに前 にのべ ました各種 の政府 の時局 匡 救資金の今後3カ年 間に終 ける融通予定総額 よ り,地
方経費に通すべ き分 を除いた額 も8億
円に上 る見込みであ りますか ら,両
者 を合算すれば,今
後3カ年間に使用するるべ き資金の総額は,お
よ そ16億円に達す る計算 になるのであ ります。」Qけ す なわち,時
局匡救事業 は1932年か ら1934年までの3年
間に,(1)国
の予算か ら6億円,(2)政
府 の低利資金融通 による地方の事業費2億
円,(3)預
金部資金 による融資8億
円,合
計16億円 にのば る事業規模 を予定 していたことがわかる。 議ユ
│「
鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第49巻 第2号
(1998) しか し,実
際には,軍
事費の膨張により,1934年
度の時局匡救事業関係予算は縮減 され,こ
の年 かぎりで討ち切 られたため,結
局,事
業費総額は8億
6,000万円になって しまった。 それで もこの 額は,当
時の地方財政半年分に相当する巨額なものであつた。 第4表
内務・ 農林両省所管別時局匡救費の比較 硼 大蔵省『昭和財政史資料』より作成。 つ ぎに,事
業 内容 を見 る こ とに しよ う。 上記第4表
は,1933年
度 における国家予算の時局匡救事業費の うち,最
も多 く計上 した内務・農 林両省 の内訳がでている。 それによれば,内
務省 は1億
2,066万円の うち土木事業 に,な
んとその96.3%に
のぼる1億1,628 万円を支出 している。 また,農
林省では5,800万 5,000円の うち83.5%が
土木費に支出されている。 両省 を合計す ると,土
木事業への平均支出は92.2%に
ものぼる計算 になる。 さらに,内
務・農林省 を含めた全体の省 を合 わせてみて も,約
80%が
土木事業費 に支出されたのである。 以上の ことか ら,時
局匡救事業 は,農
村経済救済のための土木事業であつた と言 ってよい。 しか し,巨
額の資金 を投入 し,政
府 と地方 自治体が,総
力 をあげて取 り組んだこの時局匡救事業が,ど
れ だけ農村お よび,農
民の救済 につながったのであろうか。 これを検討す るのが,つ
ぎの課題である。(2)猪
俣津南雄 と農村経済 政策当局者である政府 は,時
局匡救事業の成果 を,当
時,
どの ようにみていたであろうか。 第5表
のごとく,農
林省 によれば,(1)賃
金分 は1932年度分6,551万円中,5,083万
円で約78%を
占め,1933年
には,3,953万
円中,3,096万
円で同 じく78%ま
でが労賃 として支払 われた。(2)雇 用 された労働者数は,1932年には,のべ7,262万人,1933年には,のべ4,423万 人 にのばっている。(3)そ の結果,農
民の窮乏 を緩和 し,ま
た農地の改良によつて,農
業生産 を高めることに,お
おいに寄与 した,
と報告 している (農林省農務局『時局匡救耕地関係土木事業 ノ槻況並参考実例』1934年 3月)。 第5表
土木費支出中労賃の占める割合 しか し,事
業 を指導す る側の言い分 に反 して,指
導 される農民側 の言 うことを聞いてみると,か
な り事情 は違 っている。 並 (1933年,単
位1,000円) 内 務 省 120,665 農 林 省 58,005 計 178,670 土木事業費 116,284 土木事業費 48,416 計 164,700 そ の 他 4,380 そ の 他 9,589 計 13,969 (単位万円) 年 度 土木費支 出A
労 B 賃 合 圭 ロ B 一 A 廷べ雇用労働者数 6,551 5,08377.6%
7,262 3,953 3,09678.3%
4,423 倒 農林省農務局「時局巨休耕作地関係農業上木事業ノ概況並参考実例』(昭和 9年3月)よ り作成。藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点に関する一考察 その例証 として
,当
時の農村を囲つて,時
局匡救事業をはじめ,農
村の実状 をつぶさに観察 し, 記録 したものとして,猪
倶津南雄氏の著作をとりあげることにしよう。『窮乏の農村』(改造社, 1934年)と
『日本における農業恐慌 と産業組合』(学芸社,1935年
)が
,そ
れである。 とくに,『窮乏の農村』は,猪
倶が1934年 5月 に全国2府
16県の43カ村 を調査 したルポルタージ ュであり,昭
和恐慌下の農村研究にとって貴重な「生 き証人」である。 時局救救事業は,一
体,だ
れを救ったのか。猪倶の著作から,直
接農民の声 を聞いてみよう。 証言その1 「救農工事は,自
作農ほどには小作農 をうるおさなかった。自作は家族が多いので工事 に出 た。 しか し,小
作は百姓仕事の何 もか も自分の手 と足でや り,細
々としたことに煩はされ通 しで,出
られなかった。」Q° 「労賃 として支払われた部分は,総
経費の2割 2分
強にしか当たらない。」Q0 証言その2 「投 じられた費用のおよそ8割見当のものは,少
数の地主,富
農,請
負師,資
本家 を直接利 益 とするような風に消費され」Qの た。 「救疑事業で儲 つた者は,地
主,監
督,セ
メント会社,鉄
材料店だ。」90 証言その3 「今 となれば,救
農工事の産物 として,大
した必要 もない道路やら何や らの維持費,修
理費 のたぐいの負担が,村
財政上に加重 されている。」1211 こうして猪俣によれば,時
局匡救事業は,最
も救済を必要 とする人々を救 うことにはならなかっ たという。先の政府の報告では,労
賃部分は全体の支出のうち,78%を
占めたはずであつた。 しか し,実
際には,そ
の半分にもならない「22%強
」で しかなかった。時局匡救事業によつて,だ
れが 救済されたかは明白である。 以上のことから,つ
ぎのようにいえよう。 第 1に,こ
の種の土木事業は膨大な資材 を必要 とするため,ま
っさきに利益 を受けたのは,鉄
・ セメント・木材などを供給する地方の資産家や地主たちであった。 第 2に,農
村土木事業が「中央官庁の統制の もとに,市
町村一産業組合・農業実行組合一部落 と いう地主的な地方自治組織をつうじておこなわれたため,補
助金をめ ぐる官僚 と地主の癒着 をつよ め」QDた。その結果,中
央官僚 と地方官僚,地
方官僚 と地主および地方の資本家,こ
の 3つ どもえ の関係が複雑にからみ合つて,事
業資金の横領が行われた。 第 3に,こ
の大規模な土木事業が,あ
る程度,失
業者の救済に寄与 したであろうことは疑いない。 しか し,「農村経済の回復 に基づ くことな く,外
部から応救的に持ちこまれ」90た ものであったた め,地
方自治体の超過負担 をひきおこし,そ
れが増税をまねき,国
民生活をかえって苦 しめ不安定 にした。 第4に
,時
局匡救事業が「自作農以上の受益者層 を官僚的農業統制の粋内に引 きいれることによ って,小
作争議の高揚 をそらす役割を演 じた」90と される点 も,見
逃すことはできない。 以上の諸点からみて,藤
田武夫氏のつぎの指摘は,極
めて説得力がある。 「この種の事業は,
もとより失業者続出の根因に触れるものではな く,全
く応急的輛縫的な対策 にす ぎない。救済事業が進行 している間にも,一
方において財界の景気が回復せざる限 り失業者は 続出する。 しか も事業の施行 には,国
および地方において巨額の経費を必要 とし,こ
れは国税及d
地方税の増徴 と国民生活を窮乏せ しめる原因となることは明 らかである。また救済事業の施行によ鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 49巻 第
2号
(1998) って,失
業者 に購買力を賦与 し,こ
れによって,深
刻な不況を沈冷する経済の景気回復を見るまで に事業を拡大 し継続することは,到
底,国
も地方団体 もその財政的負担に堪へ得 られるものではな い。」9°4.時
局匡救事業による地方財政の再編成――その論理構造と特徴 前述 した規模 と性格 をもつ時局匡救事業が,地
方財政にどのような影響を与えたかを検討するの が,こ
こでの課題である。 その場合,時
局匡救事業をつうじて,(1)国
政委任事務および国政委任事務費の増加,(2)国
庫補 助金の増大,(3)預
金部資金 による融資=起
債,こ
の三者が一体 となった三位一体的地方財政政策 によって,中
央集権的・統制的地方財政の再編 。強化が遂行される。では,そ
の論理構造 と特徴は なんであろうか。また,三
者は互いに,い
かなる関連にあるのであろうか。以下,順
次分析する。(1)国
政委任事務および国政委任事務費の増加 藤田武夫氏は,わ
が国の地方財政制度の成立当初からみられる尿 も顕者な特徴の 1つ に「地方財 政に関する規制,乃
至その制度化が自治事務の拡充によりも,委
任事務の完遂に重点を置いて行わ れたこと」Q° をあげてぃる。 とりわけ,昭
和恐慌勃発ののち,恐
慌対策,衛
生事業など,各
種の時局匡救事業が行なわれたた め,国
政委任事務はますます増加 し,そ
の事務費は,い
よいよ地方経費において,大
きな割合を占 めることになった。 第6表
農山村経費の推移 (1914年=100) 田 大蔵省昭和財政史編集室編 F昭和財政史』 XⅣ 「地方財政」P,158よ り作成。 第6表
は,農
山村経費の推移を表 している。それをみると,国
政委任事務費の増加率が,経
費全 体の増加率 よりも大 きく,1914年
から1934年にかけて,農
村経費の増加率が4.2倍 であるのに対 し て,国
政事務費は4.5倍近 くになっている。 特に,昭
和恐慌以降,農
村経費で1930年から1934年の推移 をとると,歳
出総額では,358か
ら423 へ と18.15%の
伸びにとどまっているのに対 して,国
政事務費は356から448へと25,84%も 伸びてい る。 しかも,そ
の伸び率は,1923年
から1930年の7年
間にかけて,320か
ら356へと11,25%増
であ るのに比べて,1930年
か ら1934年のわずか4年
間に,356か
ら448へと,25,84%増
と昭和恐慌 を起 点にして,実
に2倍強の率で飛躍的な伸びを示 している。 また,こ
の表か ら,山
村経費 も同様の傾向を示 しているのがわかる。 年度 1919 農 村 歳 出 総 額 100 423 国 政 事 務 費 448 山 本寸 歳 出 総 額 340 438 国 政 事 務 費 208 340 472 日 銀 物 価 指 数 263第
7表
地方費中国政事務費が占める割合 単位1,000円 道 府 県 市 町 〔寸 科 目 金 額 科 目 金 額 由 甲 社 費 240 教 育 費 309,750 教 育 費 116,963 土 木 費 78,984 土 木 費 96,911 衛 生 費 26,720 衛 生 費 17,540 勧 業 費 19,821 社 会 事 業 費 7,319 社 ハム 事 業 費 9,043 警 察 費 85,116 者Б 市 計 画 費 48,879 職 員 費 15,051 役 所 費 44,079 衆 議 院 議 員 選 挙 費 警 備 費 10,155 諸 達 及 び 掲 示 諸 費 計 547,431 者Б 市 計 画 費 14,082 市町村費総額 にたいす る割合 0.421 道 府 県 庁 舎 費 1,433 総 計 988,371 勧 業 賢 85,758 地 方 費 総 額 に た い す る 割 合 0.521 計 440,940 道 府 県費総額 に た い す る割 合 0,738 田 大蔵省昭和財政史編集室 『昭和財政史』XⅣ「地方財政」P159∼160よ り作成。 藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点に関する一考察 さらに,上
記第7表
は,1934年
の地方経費の うち国政事務が占める割合 を示 している。市町村の で52%,道
府県ではなん と74%に
もなっている。 国政事務費の主要項 目をみると,教
育費が最 も高 く,全
体の30%を
占め,つ
いで土木費,勧
業費, 警察費の順である。 この ことは,国
家が,一
方で独 占資本の利益 のために,土
木事業,都
市計画 をふ くむ大規模 な地 域開発 を行 ない,他
方で,安
くて質の よい賃金労働力 を確保す るため,教
育,衛
生を重視 し,また, 階級闘争の激化 にともなって,支
配 を維持 。強化す るための治安・警察力の増強 を必要 としたこと を意味する。 地方 自治体 には,国
政事務 を自由に選択する権利 はない。一方的に,政
府の命令 によって委任せ ざるをえない性格の ものである。そのため,地
方 自治体 にとって,重
い委任事務費の負担は地方財 政 を圧迫 し,弾
力的な財政運営 を不可能に した。他方,政
府 にとっては,国
政事務の地方 自治体ヘ のお しつけをテコとして,地
方財政の統制お よび集権化 を飛躍的に高めることを可能 にしたのであ る。(2)国
庫補助金の増大 国が地方 自治体 に国政事務 を委任す る場合,一
定額の補助金あるいは交付金 を与 えるのが普通で ある。 特 に, 日本の地方 自治体 の ように,成
立当初か ら「国政委任事務費の優位 と,地
方税源の欠乏 と い う歴史的特徴」9り をもっている場合 には,国
庫補助金の比重は高かった。それで も,第
1次
大戦 の前 まで,1891年 ,1893年 ,1896年
の3年
間を除けば,ほ
ぼ全歳入の5%前
後である。 また,第
14 1
鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第49巻 第
2号
(1998) 275 次大戦後,農
村対策 として,勧
業費 を中心 に増大 しているが,そ
れ も大部分 は臨時的なものであっ た90。 しか し,昭
和恐慌下,1932年
,高
橋財政 によつて始め られた時局匡救事業 は,国
庫補助金 を著 し く増大 させ,全
面的に展 開する契機 を与 えた。時局匡救事業以後,補
助金の種類 は増 え金額 も増大 した。 第8表
戦前補助金の推移 第9表
石川県財政 における国庫補助金の推移 口 宮本憲―「石川県の行財政」『石川県史現代編』(柴田・宮本著『地方財政J有斐閣,1963年,所llXlよ り作成。 第8表
は,戦
前の補助金の推移 を示 した ものである。1930年と1932年 とを比較する と,金
額 にし て1億
9,300万円か ら3億
3,800万円 と約2倍近 くも増大 してお り,地
方歳入 に占める割合 も,9.6%
か ら15,9%へ
と飛躍的に高 まっているのがわかる。さらに,こ のような補助金の増大が
,地
方財政をどのように変化させたかの例証として
,宮
本憲
一氏が試算した石川県における国庫補助金の推移を示したのが
,そ
の下にある第9表 である。
(単位100万円) 年 度 地方歳入lAl 国庫補助金 及交付貧B) 都 道府県 補 助 補給及交付金(C) B 一A C 一 A 1926 1,941 188 9,7(%) 2,019 1932 2,123 2,749 255 2,782 277 40 1,4 3,320 494 14.9 田 大蔵省・ 日銀 『昭和23年財政経済統計年報Jよ り作成 (単位1,000) 年度 目的 1932 1934 1940 刀■ 件 数 金 額 件 数 金額 件 数 金 額 件 数 金 額 件 数 金 額 件 数 金 額 教 育 費 1 1 1 6 892 勧 業 費 34 646 1,044 3,171 6,536 衛 生 病 院 7 6 7 6 544 土 木 費 2 889 1,083 455 社会事業費 1 ※ 5 422 産業統計費 1 0 0 1 8 3 5 地方改良費 1 ※ ユ 8 2 そ の 他 2 1 11 1 14 1 5 ハ 計 27 49 72 1,642 2,249 つ々 4,239 288 9,302276
藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点に関する一考察 それによると,石
川県では,1932年
度補助金 は件数 に して前年の1.5倍,金
額 に して5倍
に達 し た。 なかで も,膨
張が著 しいのは勧業費=農
林補助金であ り,件
数は14件しか増 えていないが,金
額は6.8倍に増 え,土
木費は件数で3倍
弱,金
額で9万
3,000円か ら88万 9,000円へ と10倍 近 くも増 えている。 しか も,こ
こで注意すべ きは,国
庫補助金 は,時
局匡救事業が打 ち切 られて も,引
きつづ き交付 され,地
方 自治体の恒久的財源 になったことである。第8表
をみると,1932年
以降,地
方歳入の う ち国庫補助金の占める比率は若干,低
下 した ものの,金
額 にして,交
付金 と合 わせ ると3億
円以上 にのぼっている。 また,第
9表
をみると,石
川県の国家補助金 は,1932年
以降,件
数 に して も,金
額 において も増大 しつづけ,1924年
か ら20年間でほぼ件数 に して10倍,金
額は80倍に増 えている。 国庫補助金 は,政
府か ら使途 を特定 された ものであ り,地
方 自治体 にとって自由には使 えない。 この特定補助金は,財
政調整 に使 うことがで きず,超
過負担 を伴 うため,地
方財政の窮乏 を一層す すめることに作用 した。 元来,地
方財源の乏 しい 自治体 にとって,補
助金 は,時
局匡救事業 によ ります ます増大す る国政 委任事務 を遂行す るための重要な財源であった。 このため,補
助金財政の展 開は地方 自治体への中 央集権的・官僚統制 を強化 してい く強力 な力 になったのである。(3)預
金部 からの地方財政への融資=起
債 金解禁の挫折 によつて, もはや緊縮財政 を継続で きない とみた井上蔵相 は,恐
慌の救済対策 とし て,総
額2.5億円にのぼる財政投融資 を預金部資金 を動員 して行 っている。 高橋蔵相 もこの方式 を継承 した。だが,そ
のや り方は井上 とは比較 にならない ぐらい大規模 なも のであつた。高橋財政 による時局匡救事業費16億円の うち,半
額(8億
円)を
預金部資金 による融 資が占めていたのである。 この資金 を管理・運営 していた大蔵省預金部の歴史は古い。そ もそ も預金部 という名称の由来は, 1885年にさかのぼる。 この年の預金規則 によって大蔵省が国家資金 を運用利殖す る制度 を確立 し, これを預金部 と称 したのがは じま りである。 預金部の原資は,大
正時代 にはいると,70%以
上が郵便貯金 によつて占め られている。 預金部資金 の運用 は時代 によつて違 う。明治時代 は主 として国債,一
般・特別会計貸付,地
方債 に向けられていた。大正期 にはいるとともに,内
外の民間事業への貸付,対
外政府投資が過半 を占 めるようになった。 預金部資金 をめ ぐって,乱
脈 な救済融資や濫用 など,不
正がひんぱんに引 き起 こされた。しか し, そ こは,だ
れ も足 を踏み こんで調査することが許 されない悪徳 の温床であった。その意味で,大
蔵 省預金部は別名,「伏魔殿」 とも呼ばれた。 中津海知氏の 『預金部秘史』(東洋経済新報社)・9に
は,預
金部資金の濫用 の実例 が い くつか書 かれている。 なかには,こ
の ようなひどい例がある。紹介 しょう。 日本紙業 (当時は 日本紙器)は
経営状態が苦 しくな り,安
田銀行 に泣 きついた。安田は海逗省や 農商務省 に口添 えがあったため,
日本紙業の救済 にの りだ した。安田はそのための資金 を興銀 に融 通 してほ しい と申 し込 んで預金部か ら600万円借 りた。貸付条件 は,年
5分 7厘
で5年
間であつた。 しか し,期
限が来た時は,逗
悪 く大恐慌の真 つ最 中であった。政府は不景気の安 田を責めたてるこ ともで きない。 しか し,期
限は きている。そこで政府 は,600万
円を2∞万 円に負 けてや り,支
払期 間 もあ と3年
間延長 してや った。 と,こ
うい う具合である。預金部資金 をめ ぐっては,こ
んな話 はユ
│
鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第49巻 第
2号
(1990 ざらにある。 そのため,大
正デモクラシー運動を背景に,預
金部の改革が行政改革の一環 として主張 された。 その結果,政
府は1925年,帝
国議会に預金部預金法,預
金部特別会計法 を提出し,そ
れに基づ く預 金部資金運用規則 を勅令 によって定めた。これにより,預
金部が大蔵省内につ くられるとともに, 預金部特別会計 によって,経
理を公開 し,運
用先 を国債 と地方資金に重点をお くことが定められた。 地方への融資は,都
市向けの社会事業資金 よりも,農
村向の振興資金や短期応急資金への増加が 大 きく,「預金部の資金運用 目的別に占める地方資金の割合は,1931年
の40%か
ら,33年
の45%,3
4年44%と
なつた。」O。 とくに政府は,失
業救済事業のために新規事業,既
定事業を間わず起債 を許め,こ
れに対 して預 金部資金 を融資 した。 第10表 失業救済事業の内容 (単位1,000円,人
口1,000人) 大蔵省 F昭和財政史資料』 より作成。 第11表 地方歳入に占める地方債の割合 (単位100万円) 囲 大蔵省昭和財政史編集室編『昭和財政史』XⅣ「地方財政」より作成。 上記第10表は,失
業救済事業の内容 を示 している。事業費支出額 に対 して,国
庫補助交付額は き わめて低 いのに比べ て,起
債額 は膨大である。 これによって,失
業救済事業の大部分が,起
債 によ 年度 費 額 事 出 軍 支 費 額 力 出 労 支 労働 者 実 際 使用 延 人員 助 額騨
付
国 交 起 債 額 金 額峻
通
不 低 融 1929 5,751 2,485 1,382 1,145 13,142 11,670 1980 23,846 9,315 5,342 2,630 35,410 20,828 66,614 26,293 22,177 7,448 66,208 59,729 1982 65,447 21,370 14,336 15,579 40,864 30,585 1933 49,441 16,005 11,873 7,458 32,678 26,708 1934 31,605 9,534 7,255 4,472 24,505 24,109 計 242,704 85,002 62,365 38,732 212,807 173,629 項 目 年 度 税 収 入 地 方 債 金 額%
金 額%
669 453 20,7 677 34.1 15。4 1930 30,3 479 538 21.0 522 22.8 24.6 558 18.2 1,244 40.6 1934 596 21.6 848 1935 634 23.1 736事
藤田安一 :現代 日本地方財政成立の歴史的起点 に関する一考察 って行われたのがわかる。 また,上
記第11表には,地
方歳入 に占める地方債の害J合が示 されている。1932年,33年 ,34年
と いずれ も税J又入 を超 えている。 とくに,1933年
には,全
地方歳入の40%以
上 を地方債が占めた。い かに,昭
和恐1院を起点 に して,起
債が大規模 に行 われたかがわかる。 全体 として,第
11表に示 されているように,税
収入が停滞 または後退 しているなかで,昭
和恐慌 期,時
局匡救事業 を中心 に地方歳出が増加する。 この歳入 と歳出 とのギ ヤップを埋めるため,地
方 債が増発 されたのである。 政府 は時局匡救事業の財源 として,ま
ず,国
庫補助金 を支出 し,地
方 自治体 の自己負担 について は起債 を認め,そ
の起債 について も必要 に応 じて利子補給 をするとい う方式 をとった。 起債 を容易 にし,か
つ政府の利子補給の負担 を軽 くす るには,預
金部 による低利 の資金融資が必 要な前提であった。低金利政策 は,こ
のためにも必要な処置であった。 一般 に,高
橋財政の もとで とられた低金利政策の 目的は,第
1に,不
況 を脱却す るために民 間投 資 を促進する。第2に,市
場金利 を低 くおさえて,公
債利子 を低 くし,赤
字公債 の発行 を容易 にす ることであつた。 しか し,低
金利政策 は同時 に,預
金部資金の貸出利率 を引 き下げ,地
方財政への 融資=起
債 を容易 にすることをも目的 としていたのである。 この事情 を,大
蔵省昭和財政史編集室編 『昭和財政史』 Ⅷ「大蔵省預金部・政府出資」 にそつて みると,つ
ぎの ような手)隕が踏 まれている。 まず第1に,
日銀 は1932年 3月 公定歩合 を2厘
引 き下げ, とりあえず高金利 を平常 にもどす処置 をとった。 第2に,つ
づいて第2次
引 き下げが同年 6月 に,さ
らに同年 8月 に第3次
引 き下げが実行 された。 これによつて,「商業手形割引歩合 は,日
歩1銭 2厘
とい う画期的な低利率 となった。」GD 第3に,こ
うして低金利政策が着 々と進め られると同時 に,そ
れに見合 って郵便貯金利子の引 き 下げが行 われた。 また,こ
の ような郵貯利率の大幅の引 き下げに対 しては,「預金部地方資金 の貸 出利 率 を引 き下 げるということが約束 されていた。郵貯の利率引 き下げは一般金利の引 き下げを誘導す るほかに, 預金都資金の貸出利率 を引 き下げることによつて,時
局匡救事業の遂行 を一層効果的に使用 とい う 目的 をもっていた。 この趣 旨に したがつて,昭
和7年
9月 28日の第43回預金部資金運用委員会は, 地方資金の利子引 き下げを決定 した。」°D 時局匡救事業 を成功 させ,昭
和恐慌 を切 りぬけてい くためにも,地
方 自治体 の起債 は,長
期かつ 低利 なものでなければな らなかった。時局匡救事業 によつて,地
方 自治体 の負担 は重 く,地
方財政 は窮迫 していた。少 しで も利子の低い資金が必要であった。 このことは,地
方 自治体が預金部資金 の融資=起
債 に,全
面的に依存 しなければな らないことを意味 した。 低利資金 を統制 し,こ
れを政策手段 にす るのは政府である。 したが つて,地
方が預金部資金の融 資=起
債 に依存 しなければな らない とい うことは,同
時 に,政
府の監督,統
制下 に地方財政が組み 込 まれることをも意味 したのである。 藤 田武夫氏のい う「必然的に国政委任事務の優位性 と,独
立財源の涸渇が,そ
の顕著 な特徴 」 G° であるわが国の地方財政構造のゆえに,時
局匡救事業遂行のための財源 は,ま
ず,補
助金 と起債 に よって与 えられ,そ
の補足 として地方税があて られるとい う,転
倒 した関係が生 まれた。 国庫補助金 と同様,預
金部資金 による融資=起
債 も,中
央集権的・統制的地方財政への再編成 を 深めていかざるをえなかったのである。工
I鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第49巻 第